Thursday, October 29, 2009

〔他者と衝動〕結論 自己と他者②

 少し話しの方向を転換してみたい。
 そもそも人間は感覚的授受において非言語的なものに対する認知(クオリア)を言語化したい誘惑がある。例えば画家は四角い画布に、紙に通常絵を構成しようとするが、それさえもが実は一個の言語化であると言える。オースティンが微細な語彙選択に関して哲学的に分析する時(「言語と行為」、「他人の心」他)彼の脳裏にはこのクオリアに対する視点と、そのクオリアを何とか哲学的に解明したいと考えていた節が伺える。そのことを顕著に示す記述として次の記述を掲載しておきたい。

(前略)あるいは、味や音色についてはどうでしょうか。われわれは視覚以外の感覚に関して、視覚の場合ほど断固としてはいません。そこでまさにそれだけにこれらの例は、良い例になってくれます。味や音色や匂い(や色)を記述することや感情や感じを記述することは、どの場合でも、われわれが以前に経験したことのある何かにそのものが似ていると言うことを含んでいます(いやまさしくそう言うことにほかならないのです)。記述的な語はどれもみな分類語であります。それは再認という契機を含んでおり、またその意味では記憶をも含みます。そして、この種の語(あるいは、結局帰するところは同じですが、名ないし記述)を使用する場合にのみ、われわれは何かを知っていたり、信じていたりするのです。ところが記憶と再認とは、しばしば不確実であてにならないものであります。(「他人の心」132ページより、坂本百大監訳、勁草書房刊)

 中島義道氏は「観念的生活」(7章 二重の「いま」109ページ)において

 クオリアの問いとは、現在性の問いであり、「いま」の問いである。「いま」の神秘は現実性の神秘に通じている。すべての生理学・心理学の知識をもってしても、なぜ私に眼前の赤が現に見えているのか説明はつかない。このことはいかなる時間秩序をもってしても、「いま」の登場は説明できないことに通じる。言い換えれば、「いま」現にあるということは、いかなる<法則を含めた>概念によっても導くことができないということである。それはまさに「いま」現にあることそのことから導くことができることなのである。
 
と述べているが後半の記述は全て正しいと思うが、最初の文だけが不完全である。これは先述しておいたオースティンの言説と合わせて考えるとより完全になる。つまり私なら

 クオリアの問いとは、現在性という形で現象するが、実際は現在性というものが潜在的な記憶とそれに対する再認という形で無意識になされていることから誘引される問いである。しかもそれはふと立ち現われる具体的な想起とも少々違っている。
 
と修正するところだ。
 クオリアは当然のことながら知覚とも深く関わっている。知覚という作用のないところではクオリアは成立し得ない。タコとイカの神経系の研究で著名な生理学者であるJ・Z・ヤングは

(前略)知覚は、ほとんど常に期待に基礎をおいており、その期待は外発的に引き起こされるか、あるいは内発的に動機づけられることによって生じている。(中略)同様に、知覚から得られる情報や知識は、本質的には、事象間の関係か、過去、現在、あるいは未来に関する期待の体系なのである。さらに、知覚は、通常何らかの活動を引き起こすか、あるいはさらに先の期待を生み出す。たとえその活動がその方向を見ることをやめることにすぎない場合であっても、そうなのである。

と述べているが、この考えは中島氏の時間論の考えに非常に近い。中島氏は人間の自我=私意識を、「いま」ではない過去と「いま」ということの類比の中で、連続してはいるが、想起において断絶してもいる過去と現在を一貫して同一の経験主体である私がいると他者に説明し得ること、その間に刻々と変化してきてはいるが、それでも同一の主体であると認知し得ることとしている。ヤングの指摘にはこれと全く相同のメカニズムが垣間見られる。中島氏は未来に対する不確実性と、不安の前で我々が未来の過去化(未来に想定された事実=結果が実現するためにはどのような行為が求められるかと考えること)によって未来へ向けた目的とか展望を抱くことによって行動へと差し向けられていると考えている。
 哲学者ジョン・ホーゲランドは知覚を倫理的な所作であると考えている。

 あるいは現象学者であるオイゲン・フィンクは

(前略)人間の思考にとっての存在問題とは、存在がそれ自身にとって問題であることの一形態でしかない。存在は概念を欠いた把握不可能性から概念の明るみへと突き進んでいく。存在は自らをよりいっそう「明け開く」という仕方で「存在している」。存在はその「全面的な明け開け」において自らを理念として把握するのであるが、この理念においては、自身に備わるあらゆる外面性が剥ぎ落とされ、あらゆる異質性の見かけが自身から取り除かれ、あらゆる自己疎外が打ち砕かれてしまっている。そのとき自然は理念の外面性が自己定立したものとして把握される。この定立された外面性から理念は自身へと返っていく。(「存在と人間」208ページより、座小田豊/信太光郎/池田準訳、法政大学出版局刊)

と述べているが、この記述はかなり難解であるが、最初の二文は理解しやすい。つまり人間にとって存在問題が、存在それ自身が抱えることの一部であるという認識はサルトル的ではないし、デカルト的でもないし、勿論ヒューム的でもあり得ない。恐らくヘーゲル的なのだろう。しかし次に述べられている存在それ自身の把握不可能性と彼が呼ぶ超越性はそれでも人間によって理解されるということにおいてまさにクオリア(本来言語化不能である筈のものである)をも言語化しようとするような意味で私たちの前に立ちはだかりそれを待っているというニュアンスである。しかし次の一文での存在とは存在する事物全てのことだろうが、次の一文での存在は明らかに私たち、現存在のことである。そして次の一文では現存在が存在一般に同化することが述べられている。その時初めて自然は我々にとって理解可能な理念化された存在となるという主張がここにはある。つまり自然=存在に対して我々はその一部にしか過ぎないという観念を介在した時初めて自然は語りかけてくるという主張としてこの言説を読み解くことが可能である。これは幾分ハイデッガー的言説である。そして最後の一文においてフィンクは理念によって理解された自然がその脅威を我々によって親しむべきものへと変貌した後では再び理念という一物は不要となるという気分が表示されているのだ。
 クオリアを考える時我々はこの自然に対する語りかけという特有の対話の中から炙り出される非言語的存在=自然と言語化という試みとの共存という現実、つまり我々の営みである言語自体もまた一つの存在であり自然であるという認識が哲学的な気分として意外とキー認識となっていくのではないかと私は考えたのだ。この考えを 言語=存在 説 と名づけよう。
 私たちの生活上で考えられる限り思い出してみよう。その時意外と重要なものとは気分であり、雰囲気ではなかろうか?
 例えば仕事というのはどのような職種でも一定の責務と、ルティンによって彩られている。しかしその仕事を出来る限り能率よくしたりするには、オフの時間の過ごし方一つで、日常生活の潤いがあるかないかによって決定される。そして夜寝床で読書する時どういう本を読むかとか、ソファに寝そべり聴く音楽はどういう種類のものかということは殆ど哲学では顧みられなかったが、意外と重要である。
 その日職場であったこと、営業先であったことなどを想起しつつ、今日の気分に最も合致した曲とは何か、どの歌手や演奏家のものがいいかということまでその時の感情的具合とか雰囲気によって決定される。ある音楽やある本はこれこれこういう気分の時に聴き、読むととても心地良いとか別のある本はそれとはまた全然異なった気分の時に読むのがいいし、また別の音楽はそういう時に聴くのにぴったりだという暗黙の了解が各個人毎にそれなりに決定されていはしまいか?要するに音楽のメロディーが志向する感情的傾向、あるいは本の文体などが鑑賞する者の心理に影響を与えるのである。
 例えば職場でのボードミーティング、プレゼン、会議といった場での進行を考えてみよう。勿論それらは仕事であり遊びではないから一定のルティンというものがその都度求められよう。しかし円滑にしかも充実した内容でそれらが運ばれるのは、堅い理性論からではないだろう。理性というものは寧ろ反省時に過去の出来事を評定したり、それこそ日常的語義として反省したりする時にのみ冷静な判断をするために必要とされるものであり、議事進行そのものを滞りなくさせるものはその場の参加者間での気分の盛り上がりとか一致とか、いい意味での共鳴である。それは暗黙の策定である。我々の社会とは一定のルールは常に必要であるが、絶対と言っていいほど予定通りにはいかないものである。と言うより常にその場その時の状況判断において(それこそがその都度の成員全員の気分と衝動が重要なファクターとなり得るのだが)機転の利いた変更とか脱線によって初めて成員全員の意気が合ってくるというものである。それらのことは言語行為というものがどんなに堅い内容の対話であってさえ、いやそれが堅いものであればあるほど逆にユーモアがアドリブでどれくらい出されるかとか、心地良い脱線がどれくらいいい意味で進行の具合を調整し、話題をより深化させるかということがキーとなってくる。
 それはオフの時間の過ごし方が下手な者が社会でいいビジネスが出来ないということと同じくらい集団とかペアとか複数の人間関係、会合にも言えることなのである。だからこそ意思疎通の手段として言語を採用してきた歴史の種である我々人間にとって 言語=存在 説 がより説得力を持つ考え方となり得るのである。言語は今まで多く認識論的な範疇で語られてきた。しかし言語行為を主体とする我々の実像を知る上でそこには自ずと限界がある。言語行為の流れとか方向性というものはそれ自体一つの生き物である。それは世論とか社会の風潮というものが一つの時代に固有の気分と衝動であるのと同じである。そのような現実に即した形で哲学する時我々にとって言語行為そのものが場と雰囲気の存在論的な見方から考えないと行き詰ってくるのだ。
 私たちは既にマイケル・ポランニーの主張していたような意味で暗黙知というものが認識一辺倒であるように思えた言語行為にも脈々と息衝いていることをどこかで薄々勘付いている。言語はある部分では思考の産物でもあるが、同時に感情の産物でもあるし、気分の象徴でもあるし、比喩とか暗喩とか揶揄とか直接、間接を通して気分と衝動に訴え、その都度の衝動同士の相関的な様相を決定するものでもある。言語そのものが気分や衝動を作っているという部分と、予め決定されたその都度の気分と衝動が言語を構成しているという部分が常に複雑に交差しているというのが現実ではないだろうか?そしてその都度の感情のクオリアとか、場の雰囲気のクオリアをも含めて要点を突いて、的確に表現した語彙や口調や話の意味内容といったものが我々の実際の知覚的なクオリアをより活性化するかと思えば意気消沈させるようなこともある、要するに成員=各私の自己化+他者の私化(私意識を集団内で自己意識に昇華させ、他者を固有の私保有者として私化することによって集団内の相互理解度を増さしめること)こそ、その限定された時間内において有効かつ充実した空間を構成するキーなのである。
 ここで明記しておきたいが、他者は他者としてのみ存在するのではなく私を含み込み、そして私とは端的に他者を含み込んでいる。私を自己化するということは端的に私の他者化なのだ。だから他者を信頼するということも他者の私化と言ってもよい。そして私たちは他者を羞恥という心的作用によって尊重もするし、その間の壁を取り払うために羞恥を払拭しようと試みる。つまり羞恥の扱い方そのものが即私の自己化と他者の私化という相互作用を円滑にするのである。
 私の考えでは正義とは社会が含有するその都度の時代によって構成される恣意的なものであると思う。つまり社会とか支配‐被支配という関係の構図において時として前時代なら英雄であった筈のある個性的成員を犯罪者に仕立てたり、逆に別の時代だったら当然罰せられていたであろうようなタイプの成員をヒーローに祭り上げたりするのである。正義の形態とはその時代毎に書き換えられ、常に価値規範を修正、転換してきている。つまりそのような変換のリズムそのものが私たちの衝動の集合によって構成されているのだし、また私たちのその都度の気分を決定づけてもいる。つまり相互侵食作用として個と集団が存在するのだ。昨今のKYという語彙、空気が読めないということに象徴される気分重視の社会の方向性は何も現代に固有の現象なのではない。私たちの暗黙の知性に対する要求が、そういった生理的レヴェルの判断にまでやっと辿り着いたということを意味するに過ぎない。恐らくいつの時代にもそういう空気に対する読みと他者一般の空気を読むこと、読まれることにおける競争とか葛藤があったのだと私は思う。(それを言うのなら、偉大な思想や哲学、文学や芸術を生み出すものとは、その何千倍もの愚かな人間の思想や行動であるとさえ言える。ヒトラーは自ら絶対に正しいと信じて行動した。そうでなければあれほどの行為を遂行することなど出来なかっただろう。正しいということは何か否定すべきものが自らの信念においてあるから可能となる信念なのである。そのことについてはヘーゲルとサルトルの功績を認めなくてはならない。)
 だから人間関係における信頼の構図というものは、ある意味では一つの緊張の解除でもあるし、一つの緊張の死とさえ言える。ある人間関係が不動点を迎えるということは新たな秩序が形成されることでもあるが、その秩序の崩壊の予告でもある。恋人が夫婦になることによって失われるものがあるような意味で私たちはその都度の時代の気分を反映させながらある集団においてその集団の性格を決定づけながら参加してその集団の気分と衝動を吸収してもいる。何かを得ることが何かを失うものであるような意味である一つの気分と衝動を得ることは別の気分と衝動の消滅を意味する。その気分と衝動を調整するものとして私は羞恥という心的作用を考えたのだ。
 そこで今度は言語行為においてどのようなニュアンスを話題転換とか決意表明性として示されているのかということを中心に考えてみよう。
 私たちの生において他者は私の恩人であると私は捉えたが、それは他者を想念するということは他者との出会いによってであるが、その時点で私を我々は巣食わせていることになり、要するに両者は相補的・共進化関係にある。そういう意味では他者‐私、私‐自己、他者‐衝動、衝動‐羞恥、羞恥‐経験、経験‐記憶、記憶‐想起、想起‐想像力あるいは連想、自己‐他者あるいは衝動、私‐羞恥、自己‐羞恥、経験‐羞恥、羞恥‐良心、良心‐記憶あるいは経験、想像力あるいは連想‐他者、私、自己、記憶、経験、想起といったものたちは皆相補・共進化関係にあると言ってよい。
 クオリアは記憶、経験、知覚とそのような関係にあるが、言語がなければ我々にとってクオリアはこれほど鮮やかなものではないだろう。つまりクオリアの持つ非言語的要素という認識や、感受そのものの性質とは最も私たちの言語化能力、言語習慣、言語行為、つまり言語に拠っているのである。言語‐クオリアの相補・共進化関係が成立する。そのことをオーティンとコンディヤック二人の哲学者の言説から見ていくことにしよう。
 オースティンは俗にパフォマティヴ<行為遂行的発言>という概念をより強調して示したと言われるが、それはクオリアとも大いに関係してくる。

(前略)知っている(つまり、判別することができる)と言う際にわれわれが主張しているのは再認ということです。ところが、再認とは、少なくともこの種の事例においては、われわれの経てきた経験のなかでは以前の何らかの機会において注目した(また、たいていは名指しした)ことのある何物かに類似していると確信をもって言えるような、一つないしそれ以上の特徴を目で見たり、他の何らかの仕方において感覚したりするということからなっています。しかしこのわれわれが見たり、他の何らかの仕方において感覚したりする当のものは、必ずしも「言葉で記述できる」とは限りませんし、ましてそれを詳細に中立的な言葉によって記述することは、誰にでもできることではまったくありません。いまにも怒り出しそうな顔つきやタールの匂いを再認することは、ほとんど誰でもできますが、それらを中立的に、つまり、「いまにも怒り出しそうな」や「タールの」といった言葉を使わずに記述できる人は殆ど皆無でしょう。(「他人の心」119ページ、この論文は「オースティン哲学論文集」(J.O.アーム
ソン、G.J.ウォーノック編)に収められている。)

これは先に挙げたクオリアと記憶の問題と深く関わり、先の掲載文より先に登場するが、より明確に非言語的感受の自然さと言語化不可能であることを逆に言語の存在によって知ること、そして何より非言語的感受さえ言語化しようとする我々の一つの生における重要な性格について物語っている。
 コンディヤックは啓蒙哲学者であり、ルソーやヴォルテールと並び称される存在であるが、より記憶と想起と連想、想像力に重きを置いている。例えば次のような記述がそうである。

§三九 記憶という働きは、すでに我々が見たように、観念の記号、ないしはその観念に関わる状況を呼び起こす能力の中にしか存在しない。そしてこの能力は、我々が予め選んでおいた記号の類推と、諸観念の間に我々が設定しておいた序列をとおして、思い出そうとする対象が我々のそのときの欲求の一つと繋がっている限りにおいて、はじめて発動するのである。要するに、我々がある事物を呼び起こすことができるのは、その事物がどこかで、我々の状態に関わる何らかの事物と結合している場合に限られるのである。ところで、偶然的な記号や自然的な記号しか持たない人間は、自分の意のままになる記号を全く持たない。それゆえ彼の欲求が引き起こすことが出来るのは、想像力の発動だけなのである。ここでは、記憶という働きは存在しないはずである。(「人間認識起源論(上)」81~82ページより)
 
ここでコンディヤックは記憶が経験を体系化して行為を意味づけることにおいて重要な役割を認めつつも、同時にもし記憶がなかったとしても発動され得る想像力で何とか最低限の行為を人間に可能にすることを主張しているとも言える。
 コンディヤックはロックから概念として延長以外にも観念とか想起とか記憶とか多大なエキスを注入しているが、最終的にはロックが観念のみで全てが理解出来るという考えに対して批判を加えている。彼は記号というものの存在、そしてその体系化ということをより重視したのだ。そして書くことで記憶へと植えつけることを主張してもいる。そういう意味では言語学とか記号学、あるいは現代脳科学の基礎的なアプローチをコンディヤックがしたと考えても強ち間違いではないだろう。しかし彼に最も欠けているのは記号というものの使用とか概念というものの把握にとって必要なのは他者であるという認識である。他者がいなければ我々は概念を必要とするだろうか?例えば何かを書くということは、それを読むのが自分一人であっても、それは自分を一人の他者として認識することではないだろうか?
 しかしそれでも尚私はコンディヤックの功績を高く評価したいのだ。それはこういうことである。コンディヤックは「人間認識起源論」の第五章 抽象について において抽象観念を実在を構成する(彼の主張によると矛盾を含まない可能性を通して)当のものであるという人間の誤謬を指摘して、要するに観念論より実在論を優先し、認識論をも含めた認識の起源に存在を認めたのだ。それを彼の記号に対する人間の態度を考慮に入れて整理すると、人間とは記号を頼りに認識し、それを先験的なものとして実在をもその支配下に収めようとする(抑え込もうとする)がそういった把握の仕方そのものが既に一つの衝動なのだ、ということを直観的に捉えたのである。衝動というと多くの人びとは認識外的なこととしてネガティヴに捉えるが、認識そのものも認識衝動であるという考えは、寧ろ衝動が認識も、認識外的な心的作用も両方司っているという新しい形での存在論を我々に見いださせる。だから人間が何かを書きとめようと思って記号を使用し、紙に鉛筆とかパソコンでワードを使って文字を入力するということもまた、一つの「書く」という衝動以外の何物でもないのである。
 ところで書くことは自分にとっての記憶に役立つ。脳科学者の茂木健一郎氏は文章を書き写す時、その文章を見ながら書き写すよりも、見て一旦記憶して元の文章を見ることを中断して思い出しながら書き写すとより記憶に定着することを主張している。(「脳を活かす勉強法 奇跡の「強化学習」」PHP刊)これは記憶と衝動の関係から「書く」ということを考える契機となる指摘ではないだろうか?つまり私たちは記憶したいという衝動によって書いたり、文字を見ないで、文字を覚えて書いたりしようと提唱しているのではないかということなのである。言語に纏わる記述も、発話も全て一つの衝動なのである。言語によって衝動を制御しているのでははない。私たちは言語や論理によって野生を制御しようとするという解釈を生むものこそ認識という一つの衝動なのである。
 
 そのことを証明する端的に事実として、私たちの言語行為は意味内容だけで構成されているわけではない。寧ろ意味内容の伝達を滞りなくさせるものとは場の雰囲気である。ある会合において円滑に議題とそれについての討議がなされていたとしよう。しかしある者が暴言に近い形での突拍子もない発言をしたとしよう。それはまさに言葉による猟奇的無差別通り魔殺人に近い。その場は一気に白けてしまい、最早先ほどまでの円滑に進行していた場の雰囲気を取り戻すことが全ての参加者にとって不可能となろう。最早修復不可能な場の雰囲気においてはいかに充実した意味内容の発言がなされたとしても全く効力を失ってしまう。そもそもそういう有益な発言が機能するためには場そのものがそれを吸収しようという雰囲気に包まれているということが大前提だからである(勿論そのネガティヴな空気が新たな意味を持つことも可能性としてはあり得るが)。そういう意味では先述のホッブスの信約という概念がまさに責任ということと、どのような成員も須らく権利を保持しているということと、その権利の享受という欲求、そして外圧を加えられたら抵抗する意志と能力を持っているということを意味しているように、私たちは自己の発言を私性に彩られたままにしておくわけにはいかない。場の雰囲気を構成する者としての責任がある。
 それはまさに他者とか自己だけを論じることは光を論じて闇を論じないでいること、闇だけに注目して光を無視するような暴挙であるのと同じで、意味内容を特権化し意味作用を無視することに等しいのである。オイゲン・フィンクは次のように述べている。(「存在と人間」第十三章中、227~228ページより)

(前略)伝統的な形而上学は、たとえそれが見かけ上はまったく別種の問題を扱う場合でも、たとえば無限なもの、神、自由、世界などを扱う場合でも、やはり事物存在論なのである。無‐限なものDas Un‐Endiche は有限なものからの離脱という形で考えるように試みられ、それによってついには「《無限な存在者ens infinitum》」として、また「絶対的実体」として評定される。有限なものを嵩上げするという方法も、有限なものに対して否定的に境界線を引くという方法も、どちらも事物的存在論的な可能性の空間内にとどまっている。事物存在論的な概念性の領野は、事物をそれとして扱うただの範疇論的構造分析よりもはるかに大きい。この事物的存在論的な概念性は見かけ上それが事物の事物存在を超えて問うているところでも、つまり事物へと向かう視線を捨てて、たとえばあらゆる事物の全体という方向へ踏み越えているところでも、なお力を発揮しており、またその支配をつなぎとめている。このことはたとえばカントが世界、自由、神といった問題に着手する際のやり方に即せばまったく明瞭になる。要するにカントはそれらの問題を純粋理性の理念的な表象の問題とみなすのである。理念のうちにアプリオリに表象されたものはいかなる「客観的妥当性」を持ってはいない。なるほど世界全体を現象の系列の全体性として思考することは必然的なことである。しかしそのように思考された全体は、純粋理性がつねにすでにあるあらかじめ開いてある地平ではあるが、しかし現に存立している全体ではない。世界を統制的理念へと格下げすることによって、つまり経験の使用にとっての規則として機能するような、必然的に思考される主観的な全体表象へと格下げすることによって、あらゆる現象は全体的統一性に帰属するものと考えられることになる。しかしまたそうであるかぎりで、こうした世界の存在の格下げは、その際の「存在」の規準を「事物」から、カント的にいえば、客観的妥当性をもった範疇から見て取っている。なぜならこの客観的妥当性を持った範疇において考えられたものが経験の対象としての事物だからである。このようにしてカントは大いに力点を置いて、事物を主題とした存在論を世界の自由や神などを主題とした存在論から切り離そうとするわけだが、それにもかかわらずそのように隔絶された非事物的なものが、やはり事物存在論的な根本表象に呪縛されて論じられているのである。私たちはいま「事物存在論」という表現をある根本的な意味で使用しているのだが、それは有限な事物に即するにせよあるいはそこから離脱するにせよ、いずれにせよ有限な事物へ向けられた視線のなかで思考しつつ存在を規定しようとする存在の問題構制の形態を意味している。ところで事物的存在論とは、人間が選び取ったり逸らしたりすることができるような理論的な可能性ではない。それは伝統的な形而上学における思考の軌道であり、私たちのあらゆる存在概念的思考がそこに由来するところの歴史である。かくして私たちはすでにその事物的存在論のうちにいるわけであるが、それにもかかわらずそれはそれ自体問うに値する何ものかとしては、決して私たちの目にとまることがない。存在がまさにそれであるところのものが新たなより根源的な次元において立ち現われてくるとき、事物存在論ははじめて私たちにとって疑わしいものとなりうる。

 またマックス・ヴェーバーは「社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」」中で次のように述べている。

(49)理念型は、その機能という点では、歴史的個体あるいはその個々の構成部分を、発生的な概念において把握しようとする試みである。たとえば「教会」および「教派」の概念をとってみよう。両者は、純然たる分類としては、いくつかの標識〔メルクマール〕の複合に分解されるであろう。ただしそのさい、両者間の境界のみでなく、概念内容もまた、つねに流動的なままであるにちがいない。ところで、わたしがいま、特定の重要な文化意義に関連させて把握しようとすれば、両者の標識のうち、特定のものだけが、本質的となろう。というのも、ほかならぬその標識が、そうした〔近代文化におよぼした〕作用にたいして適合的な因果関係にあるからである。ところが、それと同時に、当の概念は、理念型となる。というのは概念は、概念上十全に純粋な姿では〔教派ないしは教派精神を、全体として〕代表するものではないし、ただ個別的にしか代表していないからである。ここでもまた、純然たる分類概念以外の概念は、まさしくいずれも、実在から遠ざかる。けだし、われわれの認識の比量的な性質、すなわち、われわれが実在を把握するのは、一連の表象の変移をとおしてのみである、という事情が、こうした機会の速記術を要請するのである。われわれの想像力は、研究の手段としては、しばしば確かに、実在の明晰な概念的定式化なしにすますことができる、しかし、叙述のためには、それが一義的であろうとするかぎり、明晰な概念の使用は、文化分析の地盤の上では、多くのばあい、まったく不可避である。これを原則的に斥ける者は、文化現象の形式的な、たとえば法史的な側面に自己限定しなければならない。法規範の宇宙は、当然のことながら、概念的に明確に規定できると同時に、〔もとより法的な意味で!〕歴史的実在にたいしても妥当する。ところが、われわれの意味における社会科学的研究が取り組まねばならないのは、法規範の実践的意義である。ところで、この意義は、経験的に与えられたものを、理想的な極限事例と関係づけることによって初めて、一義的に意識されることがきわめて多い。もし(最広義における)歴史家が、こうした理念型を定式化しようとする試みを、「理論的構築」として、つまり、かれの具体的な認識目的には役に立たないもの、あるいは無くても済ませられるものとして、拒否するとすれば、その結果は、通例、かれが、意識してしか無意識にか、他の同じような虚構を、ただ言語による定式化と論理的な加工を怠ったまま使用しているか、あるいは、かれが、漠然と「感得される」だけで〔明晰に〕限定されないものの域にとどまっているか、どちらかである。(120から122ページより、富永祐治・立野保男訳、折原浩補訳、岩波文庫)

 私たちは自由や自由意志、あるいは自由意志論の奴隷であると言える。だからこそ逆に私たちはそういう認識論‐観念論の呪縛から、あるいはフィンクやマックス・ヴェーバーの指摘する理念及び理念型からの脱却を図らねばならない。つまり存在論‐実在論として言語行為を語らねばならないのだ。
 そのためには私たちには言語空間という捉え方が必要とされている。私は正義とは時代によって構成される恣意的なものであると言った。そのことは正義そのものが常に不在であることを意味するのではなく、常に正義はあるが、それは常に別様であり、変化し続けているのであり、重要なこととして我々は正義をその都度見測る規準だけは常に持っている。しかし正義の在り方は常に前時代、そして現在ということの相対的な在り方でしか顕現していない。拠って我々はその都度正義の在り方を組み替え直さなくてはならないのだ。つまり同じ決断が仮になされたとしても、前回のものが正義と呼ばれ得るとしても、今回においてはそうではないという判断は、その時代状況や状況性に対する我々の読みや正義を殊更必要としているのかというその都度の我々の精神状態に依存している。だからと言って全てが相対主義によって説明が尽くかと言えばそうではないだろう。そのことはヒラリー・パットナムがより適切な形で「理性・真理・論理内在的実在論の展開」(野本和幸/中川大/三上勝生/金子洋之訳、法政大学出版局刊)に詳述されている。(第五章 二つの合理的理性概念 なぜ相対主義は整合的でないか)しかしそのことは先に述べた「我々は正義をその都度見測る規準だけは常に持っている」という記述で事足りるだろう。
 要するに私たちに残されている命題は、衝動と羞恥を連動させつつ、意志をそこにあたかも実体論的に現出させる当のものとは他者存在であるには違いないが、その他者存在と自己‐私を常に意識させるものとしての意思疎通とか意思疎通希求を招聘する場である言語空間であると言える。それこそが他者存在を哲学的他者として我々をして語りしめるものなのである。

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