Thursday, May 31, 2012

時間・空間・偶然・必然_意識という名のミーム<科学で切る哲学、哲学で切る科学> 9、完全性という理想と不完全性からの出発

 空間というものは、私たちにとってある意味では完全に何か物体がそこにあり、その物体と私たちとの関係において世界を認識する端緒とするような場でなくてはならないということは粗方理解出来た。しかし空間そのものに内在する何らかの不可知の質とか、空間そのものの限界というものを我々が知らない以上、我々はこう考えることが出来たのだ。空間であれ、時間であれその本質を見極めることの出来る完全者というものが存在してもよい筈だ、と。しかしそのような存在は思念上では設定可能だが、立証不可能である。しかしだからこそそれは実在的な垢に塗れていないある種の崇高さと輝きを精神的に失ってはいないものとして我々は心の奥底に感じることが出来る。それは芸術の内的なモティーフであり続け、精神の拠り所であり続けてきたものである。それを神という名で代表させてきたとしたら、神という概念への認識は理解可能なものとなるだろう。
 その点で最も人間と神の関わり方を積極的に追求した哲学者としてフォイエルバッハを考えることが出来る。ルドウィッヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ(1804~1872)、刑法学者のアンゼルムの息子(四男)である。
 まずこの哲学者の考えを見据えながら、人間にとっての神という永遠性、絶対的理想とは一体何なのかということを掘り下げ、7で扱ったアンリ哲学との接点も見出し、考えていってみよう。
 「キリスト教の本質・上」(船山信一訳、岩波文庫)からまず幾つか抜粋してみよう。最初に示したいのは、第一部<宗教の真実な本質_すなわち宗教の人間学的本質>中第三章の<悟性の本質としての神>の初頭、彼はこう始めている。(103ページより)  
 宗教は人間が自己自身と分裂するということである。すなわち人間は〔宗教においては〕、自己(人間)に対立した存在者としての神を自己に対置させる。神の本性は人間の本性ではなく、人間の本性は神の本性ではない。神は無限な存在者であり、人間は有限な存在者である。神は完全であり、人間は不完全である。神は永遠であり、人間は一時的である。神は全能であり、人間は非力である。神は神聖であり、人間は罪深い。神と人間は両極である。神は端的に肯定的なものでありあらゆる実在性の総体であり、人間は端的に否定的なものでありあらゆる虚無性の総体である。
 しかし<人間は宗教のなかで自分自身のかくれた本質を対象化する。したがって、宗教は神と人間の対立葛藤から始まるのであるが、その対立葛藤は人間と人間自身との葛藤である、ということが明示されなければならない>。(<>管理人選択=重要箇所)
 この箇所から重要であると思われるのは圧倒的に最後の三行である。ある意味ではここにフォイエルバッハの本テクストの全てが集約されていると言ってもよい。
 つまり冒頭の文章の全ては最後の三行のために書かれている。
 そしてフォイエルバッハは決してニヒリストではないし、また原罪告発論者でもない。それは例えばこの文章に至るまでの緒論における次の箇所における記述からも明らかである。(98ページより)
 <人間は自分の本質を対象化し、そして次に再び自己を、このように対象化され主体や人格へ転化された存在者(本質)の対象にする。これが宗教の秘密である。人間は自己を思惟し自己にとって対象である>。しかし人間が自己にとって対象であるのは対象の対象_他の存在者の対象_としてである。今の場合も事情は同じことである。すなわちここでは人間は神の対象である。人間が善であるか、それとも悪であるか_それは神にとってどうでもよいことではない。いや、神は人間が善であることに対して生き生きとした真摯な関心をもっているのである。神は人間が善であり且つ浄福であることを欲する。なぜかといえば慈愛(善)がなければまた浄福もないからである。したがって信心深い人間は、人間の活動の虚無性を再び次のことによって取り消す。すなわち、人間が自分の心術と行為とを神の対象とし、人間を神の目的_なぜかといえば精神において対象であるものは行動においては目的であるからである_として、神の活動を人間の救いの手段にすることによってである。神が活動するのは人間が善になり且つ浄福になるためである。こうして、人間は外見上は最も神のなかで且つ神を通してもっぱら自分自身を目的としている。たしかに人間は神を目的にしている。しかし神は人間の永遠な道徳的救い以外の何物も目的としていないのである。したがって人間はもっぱら自分自身を目的としているのである。神の活動は人間の活動から区別されない。(<>管理人選択=重要箇所)
 フォイエルバッハのテクストは全体を通読しなければその哲学的本質の全てが直ちには了解出来ないようなタイプのものではなく、寧ろ最初から結論を積極的に示しつつ、逆に章を追うに従って微細に分析してゆくようなタイプのものである。従って彼が無神論者であるということも緒論の最後に既に示されている。(この部分は未だテクスト全体の五分の一くらいの箇所である。)
 要するに彼は神の本質とは人間の本質に他ならないという哲学認識を絶えず反復しているのである。そのような部分での主張が例えばマルクスやエンゲルスに啓示を与えたり、恐らくそれ以後もキルケゴール、ニーチェ、ハイデッガー、サルトル等にも影響を与えたりしたのではないかと察せられる。例えば記述順は前後するが、彼が労働の概念と時間の概念に触れた部分は、第一部<宗教の真実な本質_すなわち宗教の人間学的本質>中第三章の<悟性の本質としての神>の中盤に登場する。(110~111ページより)
 形而上学的存在者としての神は自己自身のなかで満足している知性である。またはむしろ逆に、自己自身のなかで満足している知性・自己を絶対的存在者として思惟する知性が形而上学的存在者としての神である。それ故に、神のすべての形而上学的な規定であるのは、ただそれらが思惟規定として認識され、知性や悟性やの規定として認識されるときだけである。
 悟性は「原本的原初的な」存在者である。悟性は万物の第一原因としての神から引き出す。悟性は悟性的な原因がなければ世界は意味も目的ももたない偶然にゆだねられているのを見いだすのである。また悟性はただ自己_自分の本質_のなかにだけ世界の根底と目的とを見いだすのである。また悟性は、ただ世界の現存在をすべての明晰で判明な概念の源泉から_すなわち悟性自身から_説明するときだけ、世界の現存在が明晰で判明なことを見いだすのである。悟性にとっては、ただ意図をもって且つ目的にしたがって_すなわち<悟性をもって_働く存在者だけが、直接に自己自身によって明晰で確実な存在者であり、自己自身によって基礎づけられた真実の存在者である。>それ故に、それ自身はなんらの意図ももたない存在者は、自分の現存在の根底を他の_そしてもとより悟性的な_存在者のなかにもたなければならない。そして、こうしてつまり悟性は自分の本質の根源的な事象としての存在者・第一の存在者・世界に先行している存在者として措定する。すなわち<悟性は、順位からいっては自然の第一の本質ではあるが、しかし時間からいっては自然の最後の本質である自己(悟性)を、時間からいってもまた最初の本質(存在者)にするのである。>(<>管理人選択=重要箇所)  
 ここでも最後の三行が最も重要である。ここにフォイエルバッハの時間論の本質も浮かび上がる。そしてこの考えは次の一節を考慮して再び考え直すと更によく理解することが出来る。(108ページ)
 神とは自己を最高の本質(存在者)としていいあらわす理性であり、自己を最高の本質(存在者)として肯定する理性である。<想像にとっては理性は神の啓示そのものもまたは神の一つの啓示である。しかし理性にとっては神が理性の啓示(顕示)である。>なぜかといえば、理性が何であり理性に何ができるかは、神のなかで始めて対象となるからである。
 つまり神が我々によって要請されるのは、神が理性を司ると我々が考えるからなのだ。そしてそれは先の引用のおける浄福が慈愛の所持によって可能となるような人間の人間による能力に対する信頼によってなされている信念であるということである。そして空想や想像を下位に置くフォイエルバッハによれば、想像するという現実に対する認知こそが、我々を想像に耽ることを戒める理性の存在を想起させ、一旦取り戻した理性において、我々はそこに神を見いだすという仕組みである。そしてその仕組みを見いだすことが行動となり、行動規範としての倫理となり、それが働く存在者であり、その働く存在者の生の現実こそが実存であるという認識へと至るのだ。ここにマルクス以降の経済学、社会学、哲学に対して啓示を与えた彼の本質が浮かび上がる。
 しかし恐らく彼の哲学はそういった後代への啓示性そのものにあるのではなく、やはり彼独自の論理的メカニズムにあると私は思う。
 例えば現代人というのは彼が悟性の本質であるとする法則、必然性、規則、尺度といったもの(107ページより)を自然全体の、あるいは世界的現実全体のほんの一部である、という直観をどこかで拭い去ることが不可能なのではないだろうか?それら悟性とは要するに我々に「そうであってほしいこと」のシンボルである。しかしそういったシンボルとは我々にとって実現可能な極めて限定された範囲の日常的現実でしかないことを知っている。
 例えば彼が最初に私が示した引用において言っているように人間は有限である。即ち人生はいつか終わる。そして我々は私たち一個の人生が終われば、全てが、つまり私にとっての世界が終わることを知りつつ、「世界」そのものは私の死をもってもびくともしないことをどこかで薄々知ってもいる。
 だからこそ不死とは最大の願望であり、神は不死であるという一事をもって最大のシンボルである。しかしそこで7で私が示したアンリの苦悩の問題へと関連づけられる。
 つまりアンリが人性と神性が分離することの苦悩をフォイエルバッハも既に注目していた。アンリの苦悩、つまり神性と人性の一致に対する願望と、その論理的矛盾に関してフォイエルバッハは次のように示している。(106ページより)
 哲学・数学・天文学・物理学_かんたんにいえば<学問一般_は、真実に無限で神的な活動であるから、この活動を事実によって証明しているものである。それ故に宗教的な神人同形説もまた悟性に矛盾する。悟性は神に関して神人同形説を認めず、それを否認する。しかしこのように神人同形説から解放されたところの容赦しない無感動な神は、まさに悟性自身の対象的な本質以外の何物でもない。>(<>管理人選択=重要箇所)
 つまり彼は神人同形説をまず悟性の側から否定する。しかし同時に悟性によるそういう判断に対する無頓着な信頼をも続けて否定するのだ。ここに彼の言いたいことの本質が 横たわっている。
 そしてこれはある意味ではアンリの苦悩の出発ではあるものの、結論ではない。つまりアンリの苦悩の根拠をフォイエルバッハは示しているが、彼はアンリと反対に無神論を貫くのである。だからこそ彼はまず神は人間と同形ではないという人間の論理を悟性の側から人間の願望よりも優先し(その仕方はカントが道徳的法則に基づいた理性的判断を個人の格律よりも上位に置くその仕方を彷彿させる)、その宗教的願望の虚妄を告発するのだ。しかしその告発はいささか人間学的にはゾンビと現代哲学者たちが表現するものに近づくというアポリアを示し、論理的悟性と、人間学的認識を区別する必要性を主張する。ここに哲学的苦渋の決断を読み取ることが出来る。
 つまり人間はアンリが「顕現の本質」(和訳では「現出の本質」として法政大学出版局において刊行されている)で主観以前に客観的認識が先行するという他性認識的存在者であるところの人間とは、<完全という人間にとっての他者>を願望的理想としつつ、その理想に程遠い存在として自己を認識し、行動する際に悟性を利用するというわけである。つまり人間は完全性への果てしない希求者であると同時に、それ故にこそ不完全性から出発することを余儀なくされ、即ち不完全者として行動することを運命づけられているのである。そしてそれを遂行することが出来るのは我々による我々内部に巣食う理性、つまり神の声なのである。ここにフォイエルバッハの主張のカント、ヘーゲルからの継承を読み解くことも出来る。
 しかしこのことは一面では哲学において他の動物をはじめとする生物全般を人間と人間以外の全てというカルテジアン認識を持つ哲学者全般に対して、一つの訓示を与える。それは「人間は自分で思うほど高尚ではなく罪深い」が、同時にフォイエルバッハはその事実を真摯に受け留め、決してニヒリズムには陥らせないのである。罪深いが、同時に人間には神になる瞬間があるということをフォイエルバッハは信じてもいる。つまり常に神ではいられないものの、人間が人間に対する興味において神を炙りだしたように人間は幾分確かに彼の言うように罪深いが、同時にキリスト教の原罪という観念に埋没することを批判しつつ、人間学的な人間の向上可能性に期待しているのである。そこに現世宗教的教義に対する批判と同時に神へと志向する思念上での人間の運命を本質宗教(そうであるべき宗教)というイデアに対する肯定を読み取ることが可能である。
 本節以降もたびたびフォイエルバッハとアンリ、そして更にポール・リクールのテクストを参考にしながら、論を進めていきたい。そして再び次節では時間論に踏み込むことになる。

Saturday, May 26, 2012

時間・空間・偶然・必然_意識という名のミーム<科学で切る哲学、哲学で切る科学> 8、空間の記憶

 私は常々思ってきたことがある。私たち自身が自分自身の人生上でのあらゆる記憶というものを持っているように、空間自体もそのような記憶を持っているとは考えられないであろうか、と。空間は人間にとっては人間の身体的なサイズとか観測的データから換算される感覚的世界でしなかいし、そういう「人間の空間」でしか人間は生活出来ないし、進化してくることも出来なかったであろう(そのことは数学者イアン・スチュアートが論じている)。私はマンション建築物の四階に住んでいるのだが、私が住む以前には別の所帯が私の自室に住んでいた。若い夫婦である。しかしそれ以前はこのマンションは建造されていなかったのだから、私の住んだ十五年余の歴史は、私が住むこのマンションの自室の空間に刻み込まれている。しかし同時にそれ以前の若夫婦の住んでいた時期の歴史も、それ以前に未だこの建物が建造されていなかった時期の恐らく鳥が行き交っていたであろう歴史もまた刻み込んでいるに相違ないのである。つまり空間の記憶である。
 だから厳密に言えば昨日の私の自室自体が有する記憶内容と、今日の記憶内容は、私の昨日から今日に至るまでの行動によって異なったものになっている筈である。そしてそういったその時々の空間による記憶内容の差がそこに住む私の行為や心理や決断に影響を与えているのではないだろうか?ということである。つまり私の内的な性質は、私の住む空間の性質にもどこかでは依存していると考えることが自然である以上、私は私が住み行動する空間(厳密に言えば、私が行動する全空間のであるが)の記憶内容と共に変化して、相互に影響し合っているということである。
 だから私の行為は私によって空間を誘い込みもするが、同時に空間自体の勧誘によってもその都度誘い込まれ、その相互の勧誘の応対というシステムこそが環境ということなのではないか、ということである。
 昨日の私のいかなる行為であれ、空間の側からすれば、私の行動の残像として事実上過去事実に対する空間の記憶に格納され、静止していて、それ自体は死んだ、かつて無数の滑空する鳥たちによる過去における行為の残滓と等格である。残滓とは行為がなされているということにおいて死んでいるということなのである。
 だからたとえ私が自分のした行為の中で自分では忘れ去った事柄があったとしても尚、空間自体はまるで神のように私の行為の逐一を眺めてきているし、そういった私の行為を死んだ残滓としていつまでも記憶しているかも知れないのである。
 私たちの生における瞬間の全ては、実はこの空間の過去の死んだ行為の残滓、その中には人間の行為もあっただろうし、動物たちの行動もあったであろうし、植物とか空気とかあらゆる自然現象の変転と流転が刻み込まれているのであろうが、要するにそれらすべての残滓が記憶されている空間に包み込まれている。刻み込まれている。そして私たちが、あるいは他の一切の動植物、自然現象それ自体がそれを忘れて今の行為と今の現象に感けていたとしても尚、空間自体はそのことを決して忘れ去ってはいないのではないか、と私は常々考えてきたのである。つまり空間はあくまで空間の側の事情によって独自に記憶のシステムも持ち、あるいは想起もするのではないか、と私は考えてきたのだ。それと似たことはコリン・マッギンも語っていた。しかし彼は意識というものがあるのではないかと考えていた(「意識の<神秘>は解明できるか」より)が、私は記憶というもの、つまり過去の全残滓をそこに読み取ることさえ可能ではないだろうか、と考えているのである。
 それはある意味では非科学的な空想かも知れない。しかし哲学が全て自然科学において認可された事態の追認であるのなら、いっそ哲学などない方がずっとましである。哲学は自然科学が思いつきもしないことを率先して考えだすことにこそ意味がある。
 つまり私たちのある種の「魂の彷徨」のような心的な様相が存在するのなら、それらはどこかで空間全体が私たちに無意識の内に教え語ってくれる、失われた空間内での過去の行為、現象の数々が確かに一度は存在したのだ、ということを。現在はどこかできっと過去の残滓全てによって支えられている。生者とはある意味では死者たちと自分たちの中でも死んだ数々の行為の残滓によって現在を生きることを支えられているのである。過去の死んだ行為の残滓とは、それに一度は確かに立ち会った空間の側の忍耐強い洞察によって必ず空間によって記憶として留められているのではないか、という私の確信は、私自身体調が優れなかったり、思わぬエネルギーを得たりするという日々の微妙な変化によって益々強くなってきているのである。空間は記憶しもするし、想起もするのではないか、と一旦全てをそういう風に開放して考えれば、自然科学の今後も大きく開かれてくるのではないだろうか?
 ところで私は空間というものは時間と共に宇宙に出現したと考えるとより全てがクリアになると考えてもいるのだ。
 つまりこういうことである。空間というものは何らかの存在物をもって初めてその存在を主張出来る。宇宙というものそのものが存在しないような空間というものが考えられるであろうか?我々は二個の物体を空間の中に認め、そのニ物の関係において初めて空間を意識することが可能である。しかしもしそういったニ物以上の関係の一切ない空間というものがあるとすれば、そこでは距離というものも持たないだろうし、空間というものは現出しないのではないだろうか?つまり存在物のない空間というのは語義矛盾でもあるし、またあり得ないだろう。
 例えば宇宙の出現をもって初めて空間が誕生したとしたなら、それ以前には空間すらなかったと考えることも出来る。つまり空間というものはそこで物体間の関係を生じるような状態が皆無の状態では存在し得ないし、それは無でもない。
 因みに不在とは「ない」という形であることであるから、当然空間的認識の、あるいは状況認識において有の特殊な形態である。しかしもしそういう何物かが不在であるとか、物体間の関係を保障する場として機能しない文字通り何もない空間というものがあるなら、それは本質的に無ではなく非在である(ある、と言うことが語義矛盾である様な状態である)。宇宙外を想定しても、それは存在することがあり得ないものとして言いようがない。
 真空状態というものは全く非在とは異なる。それは我々にとって熟睡している状態での意識のあり方に対して、我々が無意識であったと言うのに近い。しかしそのような真空状態というものは我々の手によって恣意的に作られた無であり、言わば存在状態の中での特殊存在=有である。そもそもそれは容積を持つからである。それに対して物質を不在にすることすら出来ない非在であるのなら、それは有の領域外のものであり、カテゴライズすることが不可能な事態であり、それは語る対象にもならない。従って空間と言う時我々はあくまで無であるにせよ、有という事態の中の特殊様相であると言い得るのである。それは物体というもの、物質的存在によって初めてその命脈を得ることが出来るのである。
 よって我々は空間それ自体に記憶というものがないとは言い切れはしないし、事実証明することも出来ないのではないかという確信があるのである。つまり空間のそういう無意識的な意図のようなものがあるとすれば、それと私たちの存在が呼応することによっての日その時の気分とか精神状態とか、健康状態とか、私たちが生活する場の雰囲気とか空気(物理学的な意味だけではないものとしての)を構成し、その構成された場状況そのものが私たちの行動と意志を支えているかも知れないという思いを私は日々強くしているのである。

Thursday, May 24, 2012

時間・空間・偶然・必然_意識という名のミーム<科学で切る哲学、哲学で切る科学> 7、信じることの矛盾、神=完璧、理想というものの矛盾

 自然科学に対して我々が常套的な見解であると信じるのも、次の図式において説明することが出来る。
①初期設定的信念→決定→持続
②状況判断的信念→意識的、対自的常時保持
③被獲得信念→①の前提の上に②の経験と記憶によって統合されたもの
 つまり私たちは一つの信じるに足るバロメータを自分で設定して、その設定規準は幼少期においては両親の言うことであるとか、要するに自分にとって最も身近であり信頼するに足る人の言うことであるが、徐々にその信じるに足る人物の領域は拡大されてゆき、思春期に至っては、両親に対して一定の信頼を抱いていても尚、他の大勢の他者と彼らが同等であるという身近なものが客観的な対象ともなり得る様な認識拡張を持ち、親しみのある全てをも認識対象と化してゆく。従って信頼するに足る情報というような要するに「信じる」対象の意味内容というものは総じて①に対して③の信念を複合させたものが大半を占めるようになるだろう。 尤もこれらはこう言うことが出来る。「信じる」こととは記憶能力をそもそも前提している、と。
 つまり初期に設定された生活上での認識習慣的な記憶と、その後に環境的要因によって、あるいは自らの経験(記憶)を総合化したものを内的に複合化して一つの情報に対して信じるに足るということを自ら信念として保持するようになる。自分にとって信頼の足る存在者だって誤りも思い違いもする、ということにも目覚める。
 しかし私たちはある意味では脳科学者の池谷裕二の指摘している(「海馬 脳は疲れない」糸井重里氏との対談 朝日出版社刊)ように、暗記メモリー(私が指摘した①に近い)と経験メモリー(私が指摘した③に近い)をある時には区別し、しかしある時には複合化して何らかの信念をその都度抱く。当然知覚レヴェルでの現在時における認識という観点から①に対して②が、③に対して②が複合化されることもしばしばであることは言うまでもないであろう。
 しかし認識思考傾向として我々が抱く論理的無矛盾性というものは、それら三つとはまた別個に脳内で思念されていると言っても過言ではない。つまりこの三つに対して常に我々は認識思考傾向として思念上では完全なるものと不完全なるものという区分けをしているとも言えるのだ。勿論感覚的な思念においてそのニ値という状態にはない思念も多く確認され得ようが、それらを全て仮に不完全な思念と呼ぶとすれば、ある意味ではこのニ値的な認識は有効性を持つと言えるだろう。
 そして完全な論理ということそれ自体が仮に「そういうものは実際には幻想だ」と頭で理解していても尚、完全な論理をその都度要請するような我々の認識傾向それ自体はいささかも揺ぎ無いと言えるだろう。
 それは一面では社会的責任に於いて世界への理解と解釈を他者へ説明責任があるということと関係があろう。
 しかしそれは瞬時における単純な物事の進行とか予兆的な思念において示される場合には適合しても、その論理的無矛盾性そのものをいざ真摯に見つめ出すと、つまり一つ一つ丹念に解きほぐしてゆくと、無矛盾であるという状態そのものにある種の矛盾を発見せずにはおられない。その点でミシェル・アンリの最晩年のテクストである「受肉」の第二十四節である<身体についてのギリシャ的な考えから、肉の現象学へ。エイレナイオスとテルトゥリアヌスの基礎的諸問題構制>は示唆的な内容のものであると私には思われる。よって本節ではこの節の記述の意味するところを粒さに検証しつつ、信じるという心的状態そのものの持つ矛盾と、背理性、自己欺瞞性、幻想性について考えてみたい。まずアンリの記述を掲載しよう。
 「肉なくしては誕生なく、誕生なくしては肉はない」と、テルトゥリアヌスは述べている。哲学的な観点からするなら、肉とは何であるかも誕生とは何であるかも知らされないかぎりは、断定的な仕方で『キリストの肉体について』の分析の原理に置かれている相関関係は、全面的に未規定のままにとどまるのだということを、認めなければならない。せいぜいのところひとは、一方の本性が他方の本性に依存すると思惟しうるだけである。あるいはいっそうラディカルには、両者が同じひとつの理解地平のうえに浮かび上がり、両者には同じひとつの根拠が割り当てられるというかぎりで、両者は結びついていると思惟しうるだけである。テルトゥリアヌスはそのことを、きわめてはっきりと知っている。まさに彼が異端に対して、この場合ウアレンティノス派の人たちとの論議はほうっておいて、われわれはこう問う。つまり、どのような現象学的な、したがってまた存在論的な前提事項から出発して、テルトゥニアヌスは誕生を、肉を、両者の必然的相関関係を、理解しているのだろうか。教父たちの問題構制が展開されている歴史的地平においては、肉/誕生の相関関係は、様々な諸主題を喚起し、それらの諸主題は、異論の余地なきひとつの哲学的意義と、異論の余地なきひとつの哲学的妥当性を有しており、この観点からわれわれは、それらを吟味することにしよう。すべての諸主題はまた、肉についての中心的な問いに関係づけられてもいる。
 最初の主題は、誕生と死との連帯性を申し立てる。つまり誕生には、死が必然的に結びついているのである。「誕生は、死に対して負債がある」。もしキリストが誕生したのであれば、それは彼の使命が、世界[世=世の人々]の救済のために死ぬことだったからである。それゆえキリストが自らの誕生のときにまとった肉は、一箇の死すべき肉であらねばならなかった。まさしくこの点においてこそ、彼の肉は、われわれの肉に似た一箇の肉であり、「死へと定めされている一箇の肉」なのである。どのような肉が、死へと定められているのだろう。どのような誕生が、この死すべき肉のうちにわれわれを置くのだろう。それは地のちりから、世界の物質から成る一箇の肉であり、一箇の「地上の肉」である。そして誕生することは、もし問題にされているのが死のために誕生することであるなら、次のことをしか意味しえない。つまり、一箇の地上の肉のうちに到来すること、この場合、ひとりの女の腹のうちに到来することである。ひとりの女の腹のうちで誕生して、キリストが自らの肉を、地上的で人間的な一箇の肉を、彼女から得ているのだからこそ、彼は、人類の仕方で生きてきたのであり、栄養を摂取し、疲れを感じ、眠らなければならず、手短にいうなら、人間たちの運命を共有しなければならなかったのである_自らの運命を、完遂しうるために。自らの運命とは、十字架に架けられ、死に、埋葬され、そしてその場合に_その場合にのみ_復活することなのであった。
 それゆえ、肉の起源を指し示すことによって、肉とその誕生とのあいだの相関関係は、曖昧さなくこの肉の真の本性を顕示する。この肉は、あらゆる肉がそこから生じたところの、初次的にはあらゆる肉がその一部であるところの、女としての肉としての一箇の地上的な肉なのである。そこから、教父たちの関心を惹く二つの性格が生じてくる。すなわち、この肉の死すべき性格_キリストが死ななければならないかぎりで_と、この肉の人間的な性格_この肉をまとうことによってこそ、キリストが人間という条件を取るかぎりで_と、この肉の人間的な性格_この肉をまとうことによってこそ、キリストが人間という条件を取るかぎりで_とである。かくしてキリストの誕生に、或る女の腹とは別の或る場所意を、「天上的」、「天体的」、「霊的」、あるいは他の起源をもつ一箇の肉を_またこのような仕方で、その神的な条件にいっそうふさわしくなくてはならない或る条件を_割り当てようと主張する異端が、斥けされているのである。
 しかしながら、われわれの注意を引きとめなければならないのは、異端排除の真の動機である。テルトゥニアヌスや教父たちの眼に問われているのは、キリストの肉の起源ならびに本性が、われわれの肉の起源ならびに本性と同一でないなら、その場合キリストは、受肉することによって、本当に〔reellement〕実在的に]われわれの肉のような有限な、したがってその諸欲求、その渇き、その飢え、そのもろさをともない、その誕生いらい自らのうちに記入されたその死をともなった一箇の肉、そのような肉の重さをこうむったのではないことになってしまう。彼は本当に死んだのではなく、復活したのではないことになってしまう。手短にいうなら、一連の現れへと還元され、同時に一種の神秘化へと還元されているのは、神への人間の実在的な同一化の条件としての、人間への<言>の実在的な同一化という、キリスト教的な過程全体なのである。
 この神秘化は、そのうえ、キリスト自身の事実であり、また彼の教え全体の事実であろう_われわれの身体の負債をも含め、われわれになされる不正や過ちを受け入れるようにわれわれを誘い、この世でもっとも幼くもっとも単純な者たちが耐え忍ぶようにして、忍耐と謙虚さのなかで、一種の素朴さをともなって不正や過ちを耐え忍ぶようわれわれを誘う、そのキリストの。キリスト自身が、砂漠の断食のなか、その苦難のただなかで、その受難のあいだ、狼藉者たちが彼を打ち、彼を鞭打ち、あざだらけの彼の顔に茨の冠を押しつけ、彼の肉を釘と槍で貫いていたあいだ、不正や過ちを耐え忍んだように。しかし、こうしたことすべてを耐え忍ぶためには、まさしく一箇の肉が必要であり、その地上的実存のあいだ、飢え、渇き、疲れを耐え忍んだあと、打たれ、鞭打たれ、貫かれ、嘲弄されうるような一箇の実在的な肉が必要なのである。そしてこの肉が実在的でないなら、こうしたことのどれひとつとして、やはり実在的ではないことになる。それは飢えの見せかけ、飢えていない飢え、渇いていない渇き、まったくやけどさせないやけど、炸裂も肉もない炸裂なのである。謙虚さと優しさの<師>、自分の敵たちにけっして口答えせず、すべて無言で耐え、「自らの受難を受苦した」者が、もし肉体の見せかけしか有していなかったとするなら、何ひとつ受苦せず、何ひとつ耐えなかったことになる。<師>は、ひとりの詐欺師なのである。彼は彼の同時代人たちをはなはだしく欺いたのだが、次のようなすべての人たちをも、つまり、次のようなすべての人たちをも、つまり諸世紀を通じて彼の存在を信じ、キリストノマネビ(imitatio Christi)を実践し、禁欲主義に没頭し、快楽を拒み、エゴイズムを超克し、キリストゆえに、またキリストの名において不正や中傷を迎え入れ、今度は自らが受難のうちに、かくも世界[世間]が振りまく多様な諸形式の受難のひとつのうちに入り、最後に犠牲と殉教とを受け入れることになるはずだったすべての人たちを、はなはだしく欺いたのである。エイレナイオスの恐るべき言葉が、われわれのところにまで鳴り響いてくる。「彼がじっさいそうではなかったものであるかのように見せかけることによって、当時の人々を欺いたように、彼は、彼自身が耐えなかったものを耐えるようわれわれを説き勧めることによって、われわれをも欺いているのである。このいわゆる<師>が受苦しも耐えもしなかったものを、われわれが受苦し耐えるであろうときには、われわれは<師>を凌駕さえしていよう」。
 彼はアンリとアンリを通した西欧人、つまり一々その存在理由を説明することなく哲学を語れる人々に対してこう言いたいのだ。キリストという神性とは即ち、神ならぬ我々卑俗な人性を必要とし、それによって逆に証明されるということだ。しかしそのことによって同時に神性であることが、我々の苦痛や全ての悲しみを代理するような存在である神であるなら、我々同様苦痛を感知する人性を備えていなくてはならないことになるだろう。つまり俗生の経験し得るのと同様の体験を我々は彼に与える必要がある。しかしそのように神が人のような労苦を背負うということは一面では神性に対する冒瀆である。しかしもし神がどのような人間に対しても労苦であるようなことを背負わされても何も感じはしないような存在であるのなら、それはただのゾンビであろう。つまり耐えることは出来るが、それをものともしないように鈍感であっては困るという我々による神の存在の人間学的な気高さに対する願望は、我々が神を論理的な存在として位置付ける際に極めて大きな矛盾を招聘することとなるのである。要するに人間であっても困るし、人間離れし過ぎていても親しみが持てないというジレンマがここに生じる。そこで我々は勝手に次のように神を位置付ける。神とは我々にとって縋るに足る神なのだ、と。
ここにおいて完璧という概念など実は成立し得ないのだ、という事実が我々に突きつけられる。即ち完璧という概念は神に代行されてはいるものの、それは我々の我々自身の勝手な理想であると同時にその理想に縋ることそのものを安楽に保障するようなタイプの願望的な理想に過ぎないのである。何故なら人間として受苦を我々に成り代わって背負ったという神の事実は、その分人間の願望に加担しているが、それは論理的には完全なる存在、つまり人間を超越していることにはならないからである。つまりここでは論理的整合性と人間の人間のための願望は著しく離反する。つまり人間は思惟においてと、信じたいと願うことにおいて異なった完璧という概念を求めるのである。
 自らキリスト教徒でもあり、かつ哲学者でもあったアンリはここで惑う。その時テルトゥリアヌスとエイレナイオスの言葉が彼に囁きかけるのだ。そのことをアンリは承知しつつ、それでも尚神性に対する尊崇をキリスト教教義に則って遂行しようと決意するのである。それは何故か?
 恐らく私の考えるところ、論理や科学といった思惟において無矛盾性を追い求めても、我々は必ず科学論理的に証明され得る自然の原理や機能に対して自然に理解することを阻む様相を発見する(ゲーデルの不完全性定理によってもアインシュタインの相対性理論によっても理解し得るだろうが)。そしてその理解し難さという観点において我々は自らの存在の微弱さに思い至る。しかしそのあらゆる哲学的ドクサとか誤謬を引き受け、その思い違いを抱えつつ生きていかねばならないのなら、信じられる「あり方」そのものに対する開き直り、つまり「そうであること」と「そうであって欲しいこと」の乖離を承知しているのなら、いっそ「そうであって欲しいこと」を真理としようという決意が、自然に対する「そうであること」に対する承知外にあってもよい、という「生き方」の問題が浮上するのだし、そのような「生き方」を人生の最終地点で選択して死を迎えようという心理にアンリ自身があったのだ、と想像することが出来る。
 要するに「信じる」という心的様相には必ずと言ってよいほど自己欺瞞があるのである。つまり「信じる」という心的志向性には「信じられないことを排除したい」という心理が大きく介在しているのである。つまり「そうであること」が「信じられない」からこそ、「そうであって欲しいこと」を真理とするような心的態度、命題的態度が要請されるのだ。つまり「そうであること」があまりにも「信じられない」場合、我々は「そうであって欲しいこと」を「信じられる」こととして納得し、「そうであること」を理不尽なことであると決め付けることをするのだ。我々はその時本当は「信じる」ということの矛盾を知ることとなる。またその「そうであること」に対する理不尽さに対して何とかして欲しいという心理が却って再び神=完璧という観念を心的に生じさせることとなるのである。
 そもそも生命現象というものをもし客観的に捉えるなら、それは一言で言えば、代謝活動をするということになるが、その代謝活動を支えるものとは、欠乏に対する認識である。食料であるとか養分であるとかを求めるということは、動物に関しても、植物に関しても当て嵌まる。それは欠乏を欠乏として認識するということ、それが人間のように意識的に理解することが出来るか、無意識的に悟る(?)ことであるかという違いがある(この区分けがそもそも問題である。そのことは述べる。)にしても、全ての生命は欠乏に対して「このままでは危ない」と認識することをもって、生の意志があるということになる。要するに「生きている」ということは常に何らかの形で完璧ではないということを意味する。だから科学的に全てを理解しようとしても尚、矛盾を感じたりする人間はそういう観点から言えば、「そうであること」に対して「そうあって欲しいこと」をこの生命の基本、つまり意志に順じて理解するからこそ、認識論的なパラダイムをその都度変更してきたのだ。つまり「そうであること」の確からしさを常に「そうであって欲しいこと」の究極の理想としてきたということである。それは自然科学のオプシミズムを見れば一目瞭然であろう。その変更に対する意志と希求に哲学や文化、芸術の全ても含有される。
 スーザン・ブラックモアがドーキンスの理論を発展させたミーム学とは、やはり一言で言えば、模倣能力を促進させる第二の自己複製子であるところのミームが、遺伝子と共進化するようなタイプの「自然選択の可能性の追求」である、と言える。
 つまりミームそのものに対して常に相補的な遺伝子とその発現作用の全てがミームと遺伝子(ミームは遺伝子、つまり生命現象を必要とする。)による表現型であると捉えるところに社会生物学的視点から一歩進めたユニークさがブラックモア理論にはあった。元来表現型とは遺伝子の発現作用による必然的、偶然的である全ての結果だけのことを言った。しかしブラックモアによってここにミーム、つまり遺伝子保持存在者による模倣せずにはおれないクオリアを有するシステム(それは最初極めて偶発的要素が濃厚なセレンディピティーがあったのだろうが)、記憶促進対象によって生命は外在的な存在物によって内在的な生の意志を確認出来るようなフィードバックシステムを獲得したのだ。要するに遺伝子が遺伝子外に自然選択対象を発見し、それと共進化する道を選んだのだ。
 しかしもしコリン・マッギンのコグニティヴ・クロージャー説を有意味なものとして受け取るなら、我々は実は生命と非生命との境界も、あるいは生物と無生物の境界も、あるいは有機物と無機物の境界もよく理解していないことにもなるし、そもそも人工的な機械や、コンピューター、ロボット、あるいは無機物においてそれらのものに心などないと決め付けてきたことに対する代償として、意識と等価のものを非生命に認める可能性を捨て去るわけにはいかないことを認めなくてはならない。何故なら生命そのものだけでは完璧ではないからこそ我々人間を含め生命現象はミームを必要としてきたのではないかという説が成り立つからである。
 では完璧であるとはどういうことか、と言うとそれは生命とミームの共進化であるということになれば、自然界で有機物と無機物とが相補的な存在であるような意味で、この地球上での全存在こそが完璧であるといういささかスピノザ的な認識に照明が当てられることとなろう。そして自然を含む存在そのものが神であるという論理が成り立つ。つまり矛盾とか矛盾を矛盾と捉える存在者一切を含有する、自然界の秩序も、偶然も全て含有する存在こそが神であり、完璧なものなのである、という論理が。この論理で行けば、要するに我々が我々にとって都合のいい形で完璧をその都度希求しているに過ぎないということである。つまり自然科学は偶然を記述することは可能だが、偶然の根拠を解明することは出来ない。と言うのも自然科学はそもそも奇蹟ということを排除することを前提しているからである。だから却ってそのことが自分たちにとって都合のよい理想をでっち上げ、その都度完璧であるように錯覚する論理を組み立ててきただけのことであるというわけである。つまり科学もまた一つの我々による幻想以外のものではないということになる。
 そう考えれば尚更意識を持つのは人間だけであり、それは解明不可の命題であるというディヴィッド・チャーマーズの論理は脆くも崩れ去る。非生命に生命の一種である我々によって覚知される意識と等価のものがないと証明出来ない以上我々は意識を人間としての存在者に固有の現象であると断じることは出来ない。(我々は人間以外のものになりその立場では感じることは出来ないからである。)このことはこれを書いてから後で知ったことだが、コリン・マッギンとはまた違った形で、つまり空間ということではなく、物体そのものに認めているという意味では、ヒラリー・パットナムが「理性・真理・歴史」(法政大学出版局刊の150ページより)で示していることである。
 従ってチャーマーズがしきりに論じている生命的に機能はしていても尚意識に該当するもののないゾンビという概念そのものが、意識という存在を特化させるために拵えあげられた概念にしか過ぎないということになる。そもそも我々は意識と意識のないゾンビというものの違いを明確には証明することなど出来はしないのだから(ここから先は永井均氏の独在論の活躍する場である)。
 そうするとある意味では「そうであること」と「そうであって欲しいこと」の齟齬においてのみ何らかの真実を視るというスタンスはあながち間違ってはいないことになる。と言うのも「そうであって欲しいこと」がかくも真実味があるのに、「そうであること」があまりにも矛盾に感じられるのなら、ひょっとしたら「そうであること」の確定そのものに誤りがあるかも知れないからである。しかし同時に「そうであって欲しいこと」があまりにも出来過ぎていても、我々はそこに懐疑の目を向けよう。従ってこの二つのどこかに真実があると視る見方は間違ってはいないだろう。
 脳科学者の池谷裕二は、海馬を除去された人でも、扁桃体さえあれば、感情的なことだけなら記憶していると言う。例えば私に海馬がなかったなら、私は親しい友人の顔を見ても、忘れており、彼とかつて行った旅行のことも記憶にないだろう。しかしそれは意味記憶、エピソード記憶としてはそうであるが、氏の紹介する科学的データによると、私はその時親しい友の顔を見て感情的には嬉しい気持ちにだけはなれる、と言う。逆に海馬はあっても扁桃体のない人は、親しい友と行った旅行の事実も、行き先とかそこであったことの全てを記憶してはいるが、全くその記憶内容によってその旅が楽しいものであったか否かという判断は持てない、と言う。
 池谷は「海馬が、扁桃体の感情を参照しながら取捨選択していく」という仮説を唱えている。そして現代哲学の中でも現象学はより扁桃体的判断の追求を主軸に展開し、分析哲学とか言語哲学の系譜のものは逆に海馬中心のものを主軸に展開している、と言うことも出来るかも知れない。
 もう一度整理しておこう。完璧であること、つまり無矛盾であるということは、より個人的なことを除外した普遍というものに対する信仰によって構築されてきた。だからそれは必然的に科学至上主義となる。しかし宗教では心の拠り所として「そうであって欲しいこと」が完璧なことであるとしてきた。しかしその二つの人間の心における共存はアンリの指摘の示すところのように矛盾を来たしているし、それを現代人は知っている。
 しかしそのことと矛盾に真理を求めるか否かはまた別のことである。何故ならそれは「生き方」の問題へと移行しているからである。リチャード・ドーキンスは神の不在と宗教(彼によると心のウィルスであるらしい。)の不必要性を訴えるが、アンリのようなタイプの哲学者は神への信仰を最後の縁にすることを選択した。しかしそのように「生き方」の問題を持ち出さなくてはならないということは、寧ろ矛盾をどう心の中で解決するべきかという倫理の問題へと移行する。そしてその倫理的選択としてドーキンス型のものとアンリ型のものを両極端として認識することが出来るだろう。そしてそれはどちらのタイプの選択が人生をよりよく生きるための認識とすると思えるかという個人的選択に依存する。そしてそれは個人的な価値規範としての理想というもの、それはかつて宗教や科学が普遍的価値として認めたがった理想ではない、もっと(佐藤徹郎の主張するように)ウィトゲンシュタインが自らの哲学テクストを万人に認められるものとしては決して求めなかったようなタイプの個人的価値規範のクオリアに依存するようなタイプの理想なのであって、その理想そのものを持つことと、その理想が矛盾しているかどうかということは然程この際問題ではないような性質のものであると言ってもよいだろう。
 私は哲学も科学も、宗教も芸術も文化も、全てこのようなタイプの理想としてだけ有用であるような認識がより現実的であると今日においては感じられるのである。

Thursday, May 17, 2012

時間・空間・偶然・必然_意識という名のミーム<科学で切る哲学、哲学で切る科学>6、専門的特殊技術と一般的知識

 一般的に言ってやはり私は科学向けの頭脳と哲学向けの頭脳というものはあるような気がするのである。勿論多くの哲学者が同時に天文学者であり、物理学者であったし、そういう意味ではデカルト、ライプニッツ、マッハ、ラッセル、ホワイトヘッドのように多彩な人というのはいたし、今でもいる。しかしそれでも彼らでさえどちらかと言うと科学者であるようなタイプと哲学者であるようなタイプというのは分かれるような気がするのである。だから当然職業としては哲学者であるのに、科学者的な人、あるいは職業としては科学者なのに哲学者的な人というのは資質論的にはあり得るだろう。
 まず科学は中島義道氏の主張するように人類の幸福のために学ぶという前提はあるように思える。しかし哲学では人生とか価値とかそういう大きな命題の前でも人生は無価値であるとか、価値といったことは幻想であると言うような捉え方をも辞さないというところがある、という意味では生に纏わる大きな命題を外延的に認識する学問であるのに対して、例えば数学では数学的真理という前提があり、大命題に対して内包的に学ぶという性質があり、そこからして既に真理究明という目的性が前提されている気がする。しかし哲学はここでも真理というものそのものをも疑うことを辞さないというところがある。
 例えばそれを文理系の国語ということに置き換えて哲学的な態度とそうではない態度というものを考えてみよう。
 次のような言葉を私が二十年間一度も会わなかった昔の友人と久し振りに再会して聞いたとしよう。
 「二十年間どういう風にして過ごしてきたって?そんなこと聞かれたって、あまりにも色々なことがあり過ぎて一々全部思い出せないし、そう簡単に伝えられないよ。」
 この言葉を聞いて中学校や高校の国語の教師であるなら、次のように解説することだろう。
 「あまりにも長い年月のことを聞かれたのに全てを咄嗟には思い出せないので具体的には答えられないでいることを私に伝えた。」 と言うように。しかし哲学者なら恐らくこの返答に対して
 「確かに二十年という歳月は長いので、どう過ごしてきたかということを咄嗟に聞かれて返答に窮してそのことを説明することが億劫で仕方なくそう答えたのだろうが、実際思い出そうと思えば全て思い出せるのだが、真意のレヴェルでは敢えて昔友人であったというだけで長い間会っていなかった私にそんなことまで伝える必要性を感じないでいるからそのことを暗に示そうと思ってお茶を濁したのか、久し振りに会った私に今も尚親しみを感じているのなら、あまり思い出したくはないことが多かったという意味だ。」 とそう言うだろうと思う。(前半の同じ部分よりも実際思い出そうと思えば以降の部分が最重要なのである。)しかしそこまで今の中学や高校の教育方針においては、教師は生徒にそうは言わないだろう、という確信が私にはある。
 つまりモラリスティックに認識する前提において何かを解釈するという図式が既に定着している感のある教育システムにおいては、今のような例でも理解出来るように、一定の解釈の図式を逸脱する解釈を仮に生徒がしたのなら、教育者という人々は猛烈に否定しようとするのではないだろうか?その意味では自然科学や数学の分野において何らかの逸脱をきたしたのなら、それは寧ろ哲学に近づいていると言ってもいいのかも知れない。
 例えば私は若い人には将来に向けて無限の可能性があるとよく年配者は言う。しかしそれはある意味では正しい部分もあるが、実際には偽善的であるし、間違ってもいる。
 と言うのも仮に私よりも若い人が必ず私よりも長く、つまり私が死ぬ時よりも後に死ぬとは限らないし、またその若い人がこれから生きていく上で選択する行為の数は私が既に五十過ぎまで生きてきたということからすれば、明らかに未知の選択可能性に満ちてはいるが、それを言うのならどのような人生も生まれた時にその人間に能力的に付与された可能性というものは大体既に限定されているのである。遺伝的な要因としてもそうだし、環境的な要因としてもそうなのだ。それは人類学者や生物学者であるなら同意する(こういう時には数学者とか物理学者の言うことは当てにならない。)ことだろうが、実は全ての人間はその限定された能力という可能性の範囲内でどちらを(或いは何を)選択するかということに悩んでいるに過ぎないのである。恐らく私は幼少の頃からどんなに努力したとしてもプロのスポーツ選手にはなれなかっただろうし、もう一度二十代に自分が戻ったとしても私は恐らく二十代の頃から今まで私がしてきたようなことを同じように繰り返すだろう、ということが私には想像されるからである。
 ところで私は最近幾つかのギャラリーに訪問し、時に職業的プロフェッショナルではない独学のアーティストたちとお会いする機会を得た。その際に感じたことというのは、最初からプロレヴェルの仕事をしているようなタイプのアーティストにはない自由さがあるということだった。そして私はこのプロならざる人々の感性というものをどこかで尊重しているところがある。
 例えば私は職業哲学者ではないから、恐らくプロの哲学者の哲学テクストに対する読み方とは若干異なった深読みとか、浅読みという事態も避けられないことであろう。しかし私がかつてカントもヘーゲルも読んでいない内に読んだメルロ・ポンティーに対する理解は勘違い的部分もあったであろうが、その際に読み取ったことの全てが誤りであったとは言えないだろう。つまり文学者がサルトルの名著を哲学的でではなしに、文学的に読んだとして、そこに文学的価値を見出すことというのは決して間違いではない、それは哲学的認識の正当性から言えば我流であると言うに過ぎず、決して間違いではない。と言うのもサルトルのテクストは職業哲学者たちのためだけに存在するのではないからだ。それはピカソのゲルニカがプロのアーティストが理解するためだけのものではないのと同じである。いや寧ろプロの哲学者の考えている方向で思いも拠らない本質をアマチュアの読者の方が見出しさえいるかも知れない。
 そういうことというのが恐らくアートの世界でも成り立ち、それどころか全ての分野にも当て嵌まるのではないだろうか?
 だからこそ逆にプロレヴェルの人たちは、そうではない人たちに対して啓蒙の意図と目的を持って接し、プロ固有の物の見方を普及することに努めるということには意味がある。そこで見出された齟齬と共通性から我々は新たなフェイズへと哲学を持ってゆくことが出来るからである。
 脳科学者の茂木健一郎氏は「「脳」整理法」において、科学者にはディタッチメントが要求されていると言っている。つまりそれはある科学的考えを発見した人が、その人固有の理解の仕方とか、発見者固有のパーソナリティーに順じて理解しなくてならないものではなしに、その発見者の人格とか功績とは無縁のいかなる日常的場面でも応用可能でなくてはならないという普遍性のことをそう呼ぶのだそうである。
 しかし佐藤徹郎氏の指摘によると、寧ろ哲学とはある哲学的考えを持つその哲学者固有の感じ方とか固有の信条と合致した感じ方のクオリアを有している者にのみ有効であるようなタイプの学であるというウィトゲンシュタイン的考えを採用している。このことを茂木氏はJ・L・オースティンの概念であるパフォマティヴとして、ディタッチメントと対極のスタンスであるとしている。(氏はそれを批判しているわけではない。)  
 ところで最後に再び世代の問題を述べるが、私は小説も書いているのだが、なかなか二十代の青年を主人公にした小説を書くことが困難なのである。勿論老人を主人公にした小説も、死や過去の人生全体に対する追憶というレヴェルでの切実さが実感出来ない以上それもまた難しいものとは言えるが、未だ二十代の青年を主人公にした小説を書くトライアルに比べれば楽な気さえするのである。それは何故か?
 まず私は五十二歳で、今年五十三歳になるのであるが、二十代という世代を私が過ごした期間は五十二分の十である。これを三十二歳の青年と比較してみるとたやすく理解できる。彼にとって三十二分の十というのは、十六分の五であり、私の二十六分の五よりも大きい。だからこれを八十二歳の老人と比較してみるともっとはっきりする。八十二歳の老人にとっての二十代というのは四十一分の五なのだから、彼にとっての二十代というものの長さというものは三十代前半の青年にとっての「二十代の頃の記憶」の切実さに比べれば、極めて僅かなものとなるのである。しかも人間は比較的最近の過去の方を切実に感じ取るという性質もある。すると私はこれから益々二十代であった十年というものの人生全体からの比重という観点ではそれを減少させてゆくのであるから、当然どこかこれから迎える老いの状態の自分を想像することの方が、徐々に遠ざかって行く二十代の十年間よりも切実であるという意味では、私が何故二十代の青年が主人公の小説を書くことに苦労するかということの根拠が極めて理路整然と説明出来る気がするのである。
 しかしこの小説の持つ虚構的世界の構築という性質は、実は哲学者たちがテクストを構築する時に、その時に内的に去来する哲学的思惟に忠実に書こうとするスタンスと著しく対立しはしないだろうか?
 実はこのことを考え始めたのはつい最近のことなので、今後の私の課題としたいと思っているのである。そしてその課題では先に述べた門外漢であるからこそ新鮮な着眼が出来るということの真実とどこかで重なりはしないかということも考えているのである。