Friday, October 2, 2009

今回の2016年オリンピック招致について考えたこと

 日本にとってはアメリカ同様2016年のオリンピック招致に負けたということは残念なことであったし、石原都知事を始め、高橋尚子氏、室伏広治氏(氏の感想は素晴らしかった)、小谷実可子氏らには気の毒だったとは思うが、世界平和とかオリンピックの理念、つまり公平という観点から言えばよい結果だったのではないだろうか?つまりリオデジャネイロですることによって世界で初めて南米でオリンピックを行なうことそのものが世界に齎す意味は大きいのではないか?(日本はもうかなり世界的レヴェルで言えばいい思いをしてきた国なのである)
 かつてジョージ・ウォーカー・ブッシュ前大統領時代はある意味では国連機能が全く無意味であることを証明した時代であったし、小泉元総理はそういう時代においてアメリカとパートナーシップを発揮した首相であったと言える。しかしバラク・オバマ大統領となり、再び国連機能を取り戻し得る可能性に全人類が注目している。だから私はあるいは今回の世界の決断にアメリカを持ち上げるという可能性もないではないと思っていたが、そうならなかったということは、それはそれで国連のリーダーシップともIOCが独立した機能を発揮したと言って素直に評価してもいいのではないだろうか?
 つまり国連は国連、世界経済は世界経済の事情があるように、しかし勿論それらはある部分では常に地球環境を保全するという観点から協力し合わねばならないが、しかしそれらとも一線を分かつスポーツ振興ということが公平な観点から存立し得るということはいいことではないだろうか?
 日本の敗北は再び東京でということがあまり説得力がなかったのではないだろうか?つまり日本でも東京のような大都会ではなくもっと辺鄙な場所で開催することを提唱していればまた違った結果だったでのはないだろうか?尤もそれでも尚リオデジャネイロになっていた可能性も今回はかなり大きかったとも思えるが。
 つまりあるイヴェントやプロジェクトに対してそれに立ち向かう人たちは尊いと私も思う。そしてその試みが効を奏さないことはままある。しかし少なくとも鳩山首相が掲げた環境保全に関するプレゼン自体は成功したと言える。しかし鳩山氏による世界に対するアピールは既に国連気候変動首脳会合において立証されていたのである。だからそれを再びということで漁夫の利をと言っても、世界の目はもっと公平な立場から眼差しているということである。
 しかしこれまで頑張ってきた日本の招致委員会の方々に餞の言葉を送るとしたら、それはこれまでの努力が今後実を結ぶこともあるのではないだろうか?確かに2016年のオリンピックは逸したが、スポーツそのものの可能性、あるいは東京で何かをするという可能性も閉ざされたわけではない。
 要するに決心をするということは、そうすることで行動を実践するということであるし、その行動の末に獲得し得る成果へと向けて努力を怠らないということであるが、その決心とはもしそのことで芳しくはない結果に終えたとしても尚、何もしないよりはずっとよかったということを意識することが出来るということなのである。その意味ではこれまで努力をされたきた方々に対して深い敬意を私は示すことに吝かではないし、再びこういう風に夢を追うという試みがあってもいいと思う。つまり一回くじけたくらいで、それ見たことか、もうそんな不遜な試みなどするものではないという内向き的な世論的空気を作ってはいけない。そもそもスポーツとは常に勝敗ということがつきものもなのだから。一回負けたくらいで「もう二度とスポーツなどしない」ということと、とどの詰まりそれは同じことなのだから。

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