Wednesday, September 26, 2012

時間・空間・偶然・必然_意識という名のミーム<科学で切る哲学、哲学で切る科学> 15哲学と科学

 科学では偶然を記述することは出来るが、偶然を解明することは出来ない。何故だろう?
 それは記述という行為が、偶然の必然化だからである。そして科学とは一般に偶然の必然化のことを言うからである。そして何か偶然的なことを記述した瞬間それが必然化されるということは、未来に対して過去と同一のことが起こるかも知れないという目測、あるいは安穏とした不安を打ち消すようなタイプの楽観的な思惟そのものが無効であり、私たちにとって記述される偶然という言葉そのものが語義矛盾であるからである。(その意味で永井均と中島義道は正しい。)
 何故なら偶然という言葉にはそもそも「そう滅多には怒らない」というニュアンスがあるからである。実はこれが曲者であり、たまたま起こったことというのは、それ自体で一つの特定の見方であり、つまり「たまたま起こったのだが、前もって決まっていたかのように感じられる」そういう固有の偶然というニュアンスがあるのである。
 そして科学とは本来奇蹟の排除であるから、偶然という思惟を嫌う。しかし偶然という思惟を嫌っても、自らそういう風にそれを必然化するという矛盾を避けるわけにはいかないので、科学には本来偶然という私たちの心が生み出したある事象に対する認識願望の絶対的定着という本能が潜んでいるということ示している。それは科学で言うところのペトワック(PETWACK、つまりPopulation of Events That Would Have Appeared Coincidental)、生物学者の福岡伸一は次のように翻訳している「本来偶然にすぎないのに、なにか関係があるように見える事象の集合」ということを科学が避けると標榜しながらも実は絡め取られているということである。  
 ちょっとそのことと離れて考えてみたいことがある。
 空間に意識があるということは、科学では非常識であるが、実は科学で意識が証明出来ない(デヴィッド・チャーマーズの言うことが正しければ)以上(あるいは科学で空間に意識などないとも証明されてはいない以上)、哲学的に空間に意識があるという可能性を否定することは出来ない。
 意識とはそれを一元的に捉えた時、神から与えられし、最後の仕事として神秘化し得るが、意識は多元的であると考えれば(チャーマーズ的にではなくデネット的に)、我々の意識も所詮空間の意識に我々が身体を実在的に、偶然同化させられる様に与えられた結果、意識を特別のものと感じざるを得ないことになっているという可能性を否定することは出来ない。
 つまり我々は身体を介して実在的存在であるからこそ、痛みとかクオリアとか色々なことを承知していると「考える」わけだが、実は身体という存在を離れて我々が何か特定のことを感じることというのを体験し得ない以上、かつてヒラリー・パットナムも示していたように事物にも人間が意識と考える特化されたものと等価なものがあるかも知れないという示唆から発展させて考えれば、意識と等価なものが空間にもあれば、我々はそのものの上に身体という実在を与えられ、そのために意識と言えるようにそれを感じるだけであり、従って私たちは死ねばその空間の意識と呼べるようなものの一部になり果てるだけで、その生きている限り体験することは出来ないその空間の意識の一部という感覚は恐らく我々が身体という実在を得ているがために経験することが出来ない、つまり意識という存在を信じることそのものが、死んだ時に虚妄なことであったという示唆であるかも知れないである。
 つまり我々は意識というものをそれが「在る」と錯覚している、あるいは脳によって錯覚させられているという 前野隆司の主張は、俄然説得力を持つ。前野がコリン・マッギンのことを知ってそう主張されているか私は知らないが、意識が錯覚であるかも知れないという主張は、一面では我々が死んでも魂というものは残るのではないかという期待を我々に持たせるものとは本質的に違うかも知れない。
 つまり空間にもし意識であると我々が思うものと等価であるようなものがあるとすれば、それは無であることが有であること(例えば我々が意識を実在していると感じること)とは本質的に違う様なタイプの、しかし今まで我々が考えてきたようなタイプの無ではないものを認めることになるが、有であると我々が考えている意識のあり方そのものを錯覚だと我々に考えさせる当のもの(私はそれを脳の仕業と取り敢えず考えたのだが)が身体を通して有であると我々に感じさせ考えさせるというそのことが、その空間の今までただの無であると考えていたようなものではない無のあり方、つまり空間にあるかも知れない本来は意識と等価なものに眼を向け我々はそこにただ身体を与えられたという事実をまず直視せよ、と私に語っているように思われる。
 身体の実在そのものが、ただ単なる身体という実在であると我々が考えれば耐えられないからこそ、そこに何か価値があるようなものであると感じさせる脳の仕業が意識を特化したものとして捉えさせるだけのことである。これは一面では身体存在を通した一種の唯物論である。しかし従来の唯物論と異なるのは、ここでは空間の無がいささか有であると我々が自分たちの意識を特化しているようなものではないけれども、決して空無なだけではない何か我々がそれを意識と感じ、考えるものの根幹をなすようなものであるという無の背景があるということである。
 ではそもそも何故意識というものが一元的に語られるのかということについて考えてみよう。
 我々は睡眠時には確かにある種の無意識状態にある。しかしそれは完全な死の状態とも違う。脳は睡眠時にも働く。しかし睡眠があるから意識する覚醒時というものを我々は明確に知ることが出来るということもまた確かなのである。
 そして覚醒時において我々は、ある意味では多層的な心のあり方をする。例えば今このようにワードを打ち込んでいる私はさっきまでベッドで寝ていたことを想起しつつ、数日前に哲学塾の同僚たちとファミレスで飲んだ時の会話のことを想起し、その会話の前の塾での内容を想起している。そして明日どのような内容のことを入力し、どのような読書をしようかなどと考えている。そしてもう少ししたらトイレに行こうとも考えているし、喉が渇いたので、お茶を飲もうとも考えている。そういう心のあり方は一元的ではなく、寧ろ常に雑多な複数の思念に彩られていると言った方が正しい。
 しかし一方ある一つの思念を基軸に捉えれば、その意識に対して対自的に考えれば、意識はまるで一つのことででもあるかのような様相で我々の心に迫ってくる。
 つまり意識が統一されているかのように考えるということは、対自的な意識の「意識に対する心の持ち方」によってなのであり、寧ろ意図的な「構え」によってであることが了解される。しかしでは何故雑多な心のあり方をその様に一つの纏まったものとして我々は意図的に了解したいのだろうか?それは我々が我々自身の存在を「一個の存在者」であると同一性として了解したいからである。これはある意味ではそういう風に心の「あり方」として意味内容的に記述するということでもある。
 つまり「心のあり方」という記述そのものが、あたかも意識の方向性を一方向へと向けられたものとして我々を錯覚させるが、その記述とは、実は我々自身の同一性に対する要請からなされたものなのである。
 ペトワックへと戻ろう。中島義道は、このペトワックと関連のあることとして次のように述べている。(「生きいくい···私は哲学病」72ページより)  
 予言者は未来を見透かす者ではない。なぜなら、何もないものを見透かすことはできないのだから。そうではなく、予言者は未来に科学的予測による幻想的意味とは別の幻想的意味を与えるものなのだ。われわれは、その威力にしばし抵抗できなくなる。科学的予測の威力が限定されていることを知っているからである。しかも「私の死」という私の最大関心事において、いかなる威力もないことを知っているからである。
 予言者たちが一定の関心を我々の社会で払われるかとは、中島の指摘のように、科学というものの予測の限界を、不測の事態の勃発ということに対する経験則から我々が知っているからなのだが、その不測の事態の勃発可能性そのものが、通常あるだろうと予測されるものとは違った形での「未来のあり方」を示す行為に我々が関心を払うということにおいて予言者の発言が成立しているということである。
 そしてそのように我々が関心ある「未来のあり方」そのものが、記述可能対象として我々に現前している以上、我々は記述というものを実在しているものだけではなく、未だ実在していな将来とか、過去において「こうであったかも知れない別の可能性」という形で対象化し得るということは、実在しているものと、実在するかも知れない可能性のあるものとを等価にするということ、即ち実在と想像を、あるいは現実と虚構を同一地平に設置するということを心的に常に行っているということをも意味する。
 またそのような実在と、その実在を基にした表象としての虚構、あるいは想像的な像を同時に心に留め置くことが出来るということが、実在するものの一般的な性格とか、そのものの間の相関性とか要するに法則的真理を発見する能力へと繋がり、その真理発見という一つの理解、それは必ずしもその実在や実在物同士に対する理解の全てではないのだし、そのことを我々は重々承知なのだが、その理解を記録したい、その理解し得たという事実を留めて置きたいという願望が記述を可能にする。その記述の行為がより拡張し、予測ということも出てくるわけである。すると科学は記述し得る範囲の広範さを知り、その記述能力そのものを確認するという欲求充足であると言える。そして哲学はその科学の欲求充足性そのものに対して一定の評価を与えながらも、そこに安住することに対しては痛烈なる批判をつけ加えるということなのである。
 しかし問題はまだある。それは過去の記憶のことである。例えば私は今現在四十八歳と半年生きたわけであるが<注、本論文は四年半前のものである。前章では現在時点へ直したが、本記事はそのままとした。>、幼少の頃のことを、数日前のことと等価には感じられない。つまり古い記憶とはそれがどんなに掛け替えのないものであると知っていても、実は数日前の自分の行動とか、周囲の人たちとの会話等の記憶とは異なったものであることを知ってもいる。
 つまり私は私が幼少の頃のこととを今現在の私と同一の人格として私は了解しているのだが、今の私の気持ちと、幼少の頃の気持ちとでは同じところも在るだろうが、全く異なっているところもあるのである。その時果たして同一性という認識を持ったとしても、今現在の私と幼少の頃の私とでは人格的には全く同一ではないと言っても過言ではない。つまり私はそれでもその幼児や少年、あるいは青年の頃の私というものを今現在の私と同一の人格として認識するのは、一面では私がその時何をしていたかということの記憶を、あの9.11の時、ジョン・レノンが殺された時、東京オリンピックの時というように私は時代順に羅列することは出来るが、私が生まれる前の出来事であった終戦の日の東京の様子などは、完全に私が私にとっての過去として述べられることの延長として、私が生まれる前のことを周囲の人々の証言や記録によって類推して日本の出来事、世界の出来事として語らざるを得ず、そのようなものに近いものとして私は私が幼少の頃の記憶を辿るという一面はあり、それはこれから益々もっと私が年老いていくに従ってそうなってゆくことだろう。
 つまりあまりにも鮮烈で忘れられないことというのはあるかも知れないが、所々思い出すのに苦労するようなことというのは私が私の過去としては語られない終戦の日の東京の様子と同様、どこかで類推しながら語ることとなるだろう。
 そして問題となるのは、どのくらいの期間が経つことによってそのような類推というものが必要となっていくのか、それは時間的な長さによるものなのか、それとも出来事の内容によるものなのか、勿論その両方がかかわるだろうが、記憶する時に何を自分がしているかということとも関係があるだろうということも言える気がするが、記憶する時点の自分の精神のあり方と、記憶する時の自分の立場、普段していた行為、今普段している行為、かつてと今の生活状況と、記憶するのが過去のどんなことについてなのか、その記憶内容の選択の問題である。
 と言うのも記憶という作用は、能動的に思い出そうとすること(そういう場合は覚えておきたかったのに、忘れてしまっていることが多いが)と、忘れたいのに忘れられないこと(そういう場合は後悔とか、屈辱的なこととして忘れたいのに忘れられないということが多い)などが常に共存しているということがあるからである。記憶の内容というものは、楽しいことで記憶していることを能動的に思い出したりすること以外にも実に多くの思い出し方というのがある。常に思い出せることもあれば、ふと思い出すこともあり、その思い出し方というもののあり方そのものもいずれ考えてゆかねばならないだろう。  それは恐らく哲学的問いであるが、科学の力も多分に借りることが必要かも知れない。

Tuesday, September 25, 2012

時間・空間・偶然・必然_意識という名のミーム<科学で切る哲学、哲学で切る科学>14 公的なことと私的なことと実存、神

 我々は日常的に他者というものの存在をどのように捉えているのだろうか?例えば私にとって両親もまた他者であるなら、兄弟もまた他者であるが、本質的にその捉え方はあくまで哲学的私というものを規準にした時のことである。しかし社会、そして仕事、あるいは公的な義務ということを考える時、他者とは要するに家族とか親族というものとは違った要するに他人のことを指すと考えてもよいだろう。
 物理的な時間というものの観念は、ある意味では全て自分とか家族とか親しい人の間で繰り広げられるものであるよりは、全く見ず知らずの人同士が接点を持つ社会というものを想定していると考えてもよいだろう。要するに私利とか、私欲を離れて、公的な規準として時間という観念が人類に育まれてきたということである。
 私は中島義道氏の私塾である「哲学塾カント」に参加していたこともあるので、必然的に哲学の恩師である氏の引用を多くしてきたが、本節でもまず氏の「働くことがイヤな人のための本」より仕事というものの定義に纏わる記述を掲載しよう。(138~141ページより)
<(前略)広い意味では、料理・選択・掃除といった家事も仕事なら、子育ても立派な仕事だ。こういう金にならない仕事を社会学者はシャドーワークと呼ぶ。家事にもし賃金を払うとすれば、月額数十万円になるはずであり、金を払わないゆえにこうした仕事を社会的に日陰の位置に置き、戦略的に女性の地位を低くしている、という議論があることは承知である。
 だが、ここでは私はやはりこうした仕事を除外することにする。家事が仕事として低級だからではない。これらの仕事は、夫・子供・親・兄弟姉妹等々、特定の他人のための仕事であり、そのかぎりでそこには仕事のもつ客観的評価の面が曖昧になるからである。家事に対してたいそう要求の多い夫もいることだろう。子供もそうかもしれない。しかし、そうであるとしても、それは労賃を得てなす仕事とは根本的に違う。 
 具体的に考えてみよう。いま私の妻子は外国にいるので、私は月に一度D清掃会社に頼んで水回りの掃除をしてもらっている。女性二人が二時間かけて掃除をする。これは仕事である。なぜなら、彼女たちに金を払っているかぎり、私は掃除の完璧さという結果だけを求め、それが達成されないとき容赦しないから。「出がけに頭が痛かったので」とか「病気で寝ている子供が心配で」とかの人間的な弁解を私はいっさい認めない。私は彼女たちの人間全体とではなくその労働力だけと契約したのであり、その結果を達成する労働力に対してのみ、金を払っているのだから。
 考えてみれば、人間としての情を抑えつけたこうした契約関係とはずいぶん不自然なものだ。母親としては、病気で寝ている子供を心配しついミスを重ねてしまう、というのが自然であろう。しかし、これが許されないのが仕事なのだ。程度はあるが、契約して金をもらうからには、その仕事が達成されないとき、いかなる弁解も許されない。それが仕事なのである。
 普通の家事ではそうではないであろう。普通、掃除より病気の子供の看病が優先するであろう。それが人間的重要さであろう。だから、逆に言えば、それは厳密には仕事ではないのだ。社会学の古典的用語を使えば、血縁が中心となった親密なゲマインシャフトと利益追求をおもな目的とするゲゼルシャフトの違いである。後者の冷酷な社会こそが仕事を成立させるのだよ。 (中略)
 言いかえれば、仕事における他者とのかかわりは。不特定の他者でなければならない。きみの労働力(作品)に対して、不特定の他者が代価を払うことを期待できるのでなければならない。ある人が夫と子供のためだけに家事をしているのなら、彼女は仕事をしているのではない。同じように、ある人が親戚と知人だけに絵を売っているのなら、その作品がいかに優れていようとも、彼(女)はプロの画家ではない。ある人が自分の小説を知人に無料で配っているだけなら、それはいかにおもしろくてとも、彼(女)はプロの作家ではない。
 その労働によって金を得ること、これは仕事と切っても切れない関係にあり、仕事の本質を形成する。なぜか?そのことによって、われわれは真っ向から社会とかかわるからである。甘えは通用しないからであり、苛烈な競争が生じ、自分の仕事に対して客観的評価が下されるからだ。「客観的」とは公正という意味ではなく、不特定多数の市場における容赦のない評価という意味だけれどね。ここにあらゆる理不尽が詰まっている。だからこそ、われわれが生きてゆくうえでたいそう重要な場なのだと言いたいんだ。>
 中島の主張には社会という場が自己と自己にとって馴染みのある家族や親族、あるいは友人といったものだけではなく、全く赤の他人同士という関係において成立することの現実的不可避事実と、それ故に生じる問題が、一面では苛烈であるが、他方それであるが故に責任遂行とか義務履行とか社会的責務一切を踏まえた上で獲得し得る個人の自由という観念と結びつく、言わば諸刃の剣であるようなものであるというものである。要するに自由とは先験的に与えられているものではなく、意志と努力によって勝ち取るという性質のものだという主張がある。人間が権利を主張し、自由を得るのは、それなりの代償が必要であるということは、社会の公正と公平の原理から言って当然のことである。もし社会的な意味である個人が存在理由を持っているとしたら、それは端的に責任を果たしているということの評定の上で、であろう。
 しかし同時に、元来仕事というものとは、人間が社会という場で、何らかの存在理由を見いだすということに帰着するわけだから、必然的にその仕事をするという行為は、生きて死ぬという運命を実存として引き受けることである。それは他者間相互に予め認可し合っているという暗黙の了解の下で成立した責任倫理なのである。例えばもし人間が死なないのであるなら、我々は仕事などしないだろう。
 要するに仕事とは、いつかは死ぬ人間たちによる生きる意味の発見への到達不能の旅の鳥羽口であり、死ぬ準備、つまり哲学することはその言葉による問いであるが、身体を通した問いこそが仕事である。そして仕事とは端的に仕事をしない時間の獲得された自由とか権利そのものの有意味性を自覚するためのものであり、そのためにハレとケがあるような時間の区切り、時間の切り替えというものが存在するのだ。だからこそ我々は祭りをし、オリンピックを楽しみにし、選手たちはその時に向けて体調を整えるのだ。
 人間は心の中に神を持った。それはフォイエルバッハが指摘したようにである。人間の心が生み出した虚構としての神が人間を創ったとしたら、人間は既にその時点で現実よりも虚構にこそ真実を見いだすことを価値として生きることを選択したこととなる。
 我々の脳は現実の事物、現象の全てを知覚し、その知覚によって想起したり、記憶したりする。不在をもって何かを表象することと、未来の姿を想像すること、あるいは実際に現場にいずして、その現場での出来事を想像することが出来るのは、現実界に対する知覚や感覚と、表象や想像による非実在に対する思念とが共存するということに他ならず、要するに現実に虚構を重ね合わせるということを常に脳内でしているということであり、何かを知覚したり、実際にものを見たりしている時でさえそうしているのである。(これは廣松渉の指摘していることである。12、文化とは何か 中 ページ参照)
 つまりその時点で我々は既に生きることとは、端的に現実に脳内での虚構を重ね合わせることであるということを知ることが出来る。
 例えば社会とは人間の虚構である。あるいは生活とは人間の虚構である。思考とは脳内の虚構である(しかしそれらは実在する現実としての虚構である)。自然全体が現実であるとしたら、人間はそういう虚構を自然に対して、自然に対する抵抗として捏造(敢えてそう言い切ってさえいい)せずには生きていられない。聖書は端的に自然に拮抗する人間の創意工夫としての虚構である。
 だから私的なことに対して公的であるということを選択することが既に一つの虚構的行為である。と言うのも、私的であるということは既にその時点で、公的であることのもう一つの選択肢として用意された権利であり、私的であるということが、例えば職場に対して家庭であることを更に一歩進めれば、家族という他者に対して私的であるとは、最早脳内での思念しか残されていない。すると私的であることとは、社会を一方で構成する人間が、構成員としての意識を生み出す場である。そして私的であることが、既に社会という公的な場を思念的必要性において生じさせることであると我々は捉えることが出来る。
 つまり仕事は、仕事外の価値を見いだすために設けられた人生という物語の節目を作るための基準である。仕事をし、休みを取ることの反復それ自体が、一つの「ただ生きる」時間を「人生」へと変える。つまり仕事と休みという反復それ自体が生を物語という位相へと転化させるのだ。我々は端的に物語を生きる。しかも自ら作った物語を。その物語とは実際のところ、「人生」に意味を見いだすためのものなのである。
 では何故意味を見いだす必要があるのだろうか?
 私はそれを我々が現実を現実として「読み取る」ことと、現実を現実として「読み取る」ことの非現実性というものとの乖離にその根拠があると考える。
 つまり端的に現実の行為の全てが一つの非現実的虚構であるということ、そして虚構それ自体が一つの大いなる現実であるという認識が私たちを日常とそれを支配する時間を認識させるのだ。時間は一面では極めて人間による認識虚構である。何故なら時間とは「ない」からに他ならない。あるのは変化と、過程と、今はないという不在とその認識(記憶に支えられた)と、幻想的な未来に対する思念だけである。未来がないという意味で中島の主張は正しい。
 私的であることが公的であることのもう一つの現実であると我々に認識されるのは、実は公的であるという虚構、つまり社会的規約という虚構が私的であることの内に、つまり「一人でいること」の内にあることの根拠とは、端的に一人でいることとは、「集団でいること」、「他者と共にいる」という現実によって与えられるということを知る時、一人でいることを他者、及び他者たちと共にいることを社会と呼ぶなら、まさに社会という虚構が、「一人でいる」ということを与えているのだから、当然一人でいて何かを考えるということが社会という虚構によって初めて存在理由を与えられているということだからである。つまり「一人でいる」現実そのものが社会という虚構によって生み出された現実であるとは、現実とは虚構によって生み出されたもう一つの虚構であるということに他ならないからである。よって次の図式が与えられる。
 現実<我々の存在>→虚構<社会>→現実<「一人でいること」>
 しかし我々が我々の存在を知るのは、我々の言葉によってである。するとこの図式に実際には次の前提が与えられる。
 虚構<我々の言語>→現実<我々の存在>→虚構<社会>→現実<「一人でいること」>
 そして「一人でいること」は必然的に脳内の思念によって満たされる。それは言語的思考を必ず伴う。そこで次の結果が与えられる。
 虚構<我々の言語>→現実<我々の存在>→虚構<社会>→現実<「一人でいること」>→虚構<我々の言語>
 ここで円は閉じる。
 ここで再び我々が現実を「読み取る」ことの内に存する虚構という現実に突き当たる。この図式で我々によって告げ知らされることとは、実は現実という認識それ自体が大いなる虚構であるということ、そして現実とは虚構のないところでは成立しないということなのである。
 我々が公的であることの内に責任を認識するのは、実は責任を感じるということが、私的なことの内にあり、その私的なことの内にあるという認識そのものが公的なことの内にあるからである。ここで次の図式が与えられる。
 現実<我々の存在>→虚構<我々の社会・我々の言語>→現実<私生活>→虚構<私生活上の公的なことに対する思念・想像>、即ち
 公的なものの内の私的→私的なものの内の公的→公的なものの内の私的→私的なものの内の公的
 我々の存在の内に私を認める私にとっての<我々の存在>とは、実は最後の虚構<私生活上の公的なことに対する思念・想像>という脳内の思念において生み出されるのだから、この図式はどこまでも円環するのだ。
 我々の存在を私が思念することの内に私は社会参加し、そこで言語を使用する。そして言語使用することによって私は現実の私生活を受け容れる。現実の私生活は社会とのかかわりでしか得られない。そしてその私生活上において我々は再び我々の存在ということを私の中に、私の存在を位置づけながら他者をその事実を確認するために求めるのである。何故他者を求めるかというと、それは私が生きている限り対自的存在であるからである。
 これは一面ではサルトル的な視点の獲得である。しかしそれだけではない。何故ならサルトルは役割を演じることは出来るが、自分自身は演じられないと考えている(「存在と無」)からだ。しかしそうだろうか?そもそも私たちは私たちの身体を演じることは出来ない。しかし身体に対する自分は演じられるのではないだろうか?
 例えば病気の時にも治癒された精神でいようと心掛けることなら出来る。それでも快復の見込みのない場合もあるだろうが、少なくともそのように自己欺瞞することなら出来る。しかしサルトルは一方で自己欺瞞を認めつつ、他方それを否定する。
 私たちは「人生」という虚構、つまり物語を通して現実を初めて知る。私たちは自分たちで自分たちの実在に色を添える虚構であるという物語を通してしか現実を知り得ない。と言うよりそもそも物語の認識のない現実というものなど存在しない。存在し得るものがあるとすれば、それは身体を身体たらしめるキネステーゼ的な有機物質の凝集体それだけである。しかしその凝集体そのものを我々は身体と定義し、そのように身体と定義する精神を我と名づける。この認識を得た時点で我々は「人生」を生きている。それはただ凝集体として物質存在であるだけではない。ただここで、言葉による思念を中心に考える立場と、言葉以前の身体キネステーゼ的凝集体を実在的に捉える立場とに哲学は別れるということである。これは次節以降最も重要な命題となっていくが、12、文化とは何か においても実は詳しく考えていた。図式内のこの部分を思い出して欲しい。
 現実<「一人でいること」>→虚構<我々の言語>、つまりこの「一人でいること」の選択は社会的行為として言語が介在しよう。しかし物理的に「一人でいること」は、身体キネステーゼ的実在の限定空間内での孤立を意味するから、それは必然的に非言語的状況であるとも言える。しかし我々はすぐさまその環自己身体状況そのものを脳内で言語化してしまう。この一瞬の空隙をどのよう考えればよいのだろうか?(それは我々の意識的生において睡眠や仮眠といった無意識の生活事実が存在することの意味とも関係がある。)例えば我々は疲労時には明らかに「一人でいること」ということの内にある他者とか、他者が集合した社会の実情へと一々思いを向けずにいることもある。しかしこれは周囲に人がいる時でも我々は日常経験していることである。他者の声が上の空である場合などもこれに当たる。
 「ただ生きる」という状態は端的に身体キネステーゼ的凝集体であるところの有機物質として存在することを意味するが、我々はそれを「人生」と認識する一瞬の空隙にはやはり「ただ生きる」こともまた引き受けている、あるいはそうならざるを得ないとも言えるのではないだろうか?それは日常的なこととしてである。
 これは中島のテクストでしばしば告白された自己青春において経験済みの引きこもり的生活も含まれるかも知れない。つまり何も考えずにどれだけ長いこと生活することが出来るか試してもよいとさえ氏はカイン型の人間に語りかける。その提言にはある意味では敢えて「ただ生きる」ことを引き受けることを通して日常的な瞬間に我々が経験するそういう状態を知ることの可能性を示唆しているとも言えるのである。
 公的なこととして位置づけられる仕事とは「ただ生きる」ことを言語が拒否するということに対する認可以外の何物でもない。それは人間的な実存を見据えるということでもある。「一人でいること」はそう意識された瞬間「ただ生きる」ことを言語が拒否するということである。それは空談を対話へと転換させようと試みる我々の日常の対他的な意志にも適用出来る。
 人間存在は全ての述語からはみ出るということをサルトルが「存在と無」で主張しているというのが中島によるサルトル解釈であり、それは全く正しいと思うが、それは一面では言語の無力を指示し、言語がいかに実存を裏切るかということをも指示す。それは人間存在を定義し、形容しようとしてその定義、形容の全体を統合しても、更に人間存在の全体へと決して至らないということであり、それは逆に身体キネステーゼそのものの有機的凝集体としてのあり方そのものの把握が不徹底であるということと、仮にそのような凝集体としてのメカニズムを完全に理解し得たとしても尚、脳内の現象、つまり脳が何を思惟し、何を思考し、どういう志向を持つかということが、私たち自身、つまり「ただ生きる」ことを拒否した我々の脳内の意志、つまりその都度言語に助けを借りる我々の意志そのものを外在主義的にメカニックに理解しただけでは完全ではないからだ。それはチャーマーズの主張する物理特性からはみ出る現象特性という神に与えられた最後の仕事となるが、永井均氏は<それは神にさえ出来ない>とする。(「私、今、そして神」)永井は更に<神は過去を捏造することも出来ない>としている。
 チャーマーズは神による最後の仕事を意識そのものの論理的非解明性、そして現象特性としての意識の非物理的側面として見ている。永井は明らかに神の我々に対する仕業を有機的メカニズムが用意されるまでに限定している。そのお膳立てが神によってなされた後、個々の存在者たちがどのような気持ちで「ただ生きる」ことを拒否するかは、端的に個々の責任であるという主張とそれを解する限り、永井は無神論者であるが、チャーマーズは違う。意識という特性、それをも神の最後の仕事と位置づける以上、有神論者である。
 しかもそれは意識を特化させるために設けた自己信条論理正当化の目的論的な有神論である(これは次節以降詳しく見ていくこととなる)。
 今仮に私が私のことをあらゆる述語を使って自己言及したとしよう。あるいは私が私と相対する他者のことをそのように言及したとしよう。しかしそうしながら、私は私のことを他者として見つめる他者の視線から捉えられた私を知ることは出来ない。勿論想像することなら出来る。しかしそれは私にとっての他者のあり方という形での言及以外のものにはなり得ない。従って私は私という存在のあらゆる属性、私の目前の他者(今度は逆に彼<女>の存在をその立場、視線から私は語ることが出来ない。)の属性を語り尽くしたと思えても、それはただ物理的時間を先後関係という秩序の中であらゆる出来事の事実確認をしているだけのことで、その事実確認をする固有の「今」ということをも含む実存的様相そのものを語り尽くすことが出来ないのと同じことである。私は「私が語る」ことそのものを語り尽くすことなど出来ないのである。何故なら私は「私が語る」と言った途端、その「私が語ると語った私」というものに絡め取られ、更に「私が語ると語ったと語った私」という無限後退へと陥るしか手がないからである。つまり私が出来ることとはせいぜい、客観的事実というものを認識しながら、その事実を報告することだけである。その報告する私自身を語ることは「出来そうに見えて決して出来ないこと」なのである。
 ここにはある種の「語る」ということに内在する現象論的な身体行為としてあり方を、「語られた意味内容」という位相でしか認識し得ないという言語行為それ自体の内包的言及可能性と共に、外延的言及不可能性がある。つまり「語ること」とは「語られる意味内容」という形でしか認識することは出来ず、もし仮にその「語ること」それ自体を把握しようとすれば、それは「<語る>身体的存在」となり、その<>は明らかに形式的な把握でしかない。しかしそうなった時、我々は「ただ生きる」即物的な存在だけの音声発声装置としてしか我々自身を把握することが出来なくなり、そのことは「語られる内容」を剥ぎ取られた行為でしかないということから、それは「語る」こととは語義矛盾となるからである。よって我々は生物学的な視点からも、物理学的視点からも我々が「語ること」を遂行する「語る存在者」という認識へは到達しないということを知ることとなるのだ。
 我々は「語ること」をその意味内容を剥ぎ取って認識することなど出来ない。そうできたとしてもそれは、「語ること」という語彙の音声でしかないだろう。しかし語彙の音声を物理的に客観的に認識することが出来るのは、既に我々がその語彙の音声で表現されるところの意味を知っているからである。我々の言語習得という前提的事実があるからである。  
するとそれは私的に対して常に最初から公的であるということが用意されているような意味で、我々は「ただ生きる」ことを拒否し、「人生」であろうとするような意味で、つまり「ただ音声を発する」という問い掛けそれ自体が既に「語ること」の意味内容把握という事実に依拠していることを知るからなのだ。
 我々はただ「私的な時間を過ごすこと」が出来ないのではない。あるいは「一人でいる」ことが出来ないのではない。あるいは我々は「ただ生きる」ことが出来ないのではない。あるいは我々は「ただ音声を発する」ことが出来ないのではない。我々はそれをすることは出来るが、それが出来るのは「公的なこととして仕事をする」ということや「他者と共にいる」や「集団に中にいる」ということや「人生を生きる」ことや「語ること」と「語ることそのものを語りたいけれど、出来そうに見えて決して出来ないことと知る」からこそそれが出来るのである。
 これが、私が「物語とは実際のところ、「人生」に意味を見いだすためのものなのである。では何故意味を見いだす必要があるのだろうか? 私はそれを我々が現実を現実として「読み取る」ことと、現実を現実として「読み取る」ことの非現実性というものとの乖離にその根拠があると考える。」と言ったことの根拠である。我々は「語ること」をし、同時にその「語る私」、「語ることをする私」を敢えて語ろうとするが、それはその試みそれ自体が遂行不可であり、不毛であることを知るために敢えて語り、問いへ挑むというもう一つの「我々の人生の物語」を物語っているからである。それを我々は哲学と呼ぶ。

Monday, September 24, 2012

時間・空間・偶然・必然_意識という名のミーム<科学で切る哲学、哲学で切る科学> 13、フォイエルバッハとアンリに見る宗教に対する構え方の違い

 悟性をもって_働く存在者だけが、直接に自己自身によって明晰で確実な存在者であり、自己自身によって基礎づけられた真実の存在者である。(「キリスト教の本質上」110ページより)
 この言説が意味するところは9において私が示した宗教に対する構え方の違いをアンリとの対比で考えたことから再び考え直してみる必要がありはしないだろうか?
 「人間は完全性への果てしない希求者であると同時に、それ故にこそ不完全性から出発することを余儀なくされ、即ち不完全者として行動することを運命づけられているのである。そしてそれを遂行することが出来るのは我々による我々内部に巣食う理性、つまり神の声なのである。」と私は言った。その時神の声というものそのものを、フォイエルバッハは人間そのものの能力と捉えたが、アンリは人間を超えたものへの尊崇と捉えるのではないかと私は考えたのだ。
 フォイエルバッハはだから働く人間と言った時、そこには否定的なニュアンスはない。寧ろ神という領域をさえ育む人間の内的に潜在する能力を信頼しているし、その能力を発掘し、進化させるための弛まぬ努力をこそ労働という観念に結びつけたのではないだろうか?その意味ではマルクスたちが影響を受けたことというのは彼のほんの一面だけではなかったろうか?勿論マルクスたちもまた労働を量化された、成果主義的翻弄として扱ったという意味ではフォイエルバッハの真意をそれなりに汲み取っていたとは言えるだろうが、マルクスやエンゲルスの持つ修辞的な戦略性とは一線を分かつものとして人間の行動をフォイエルバッハは捉えていた気が私に彼のテクストの記述的なクオリアから読み取るのである。
 率直に言ってアンリは生きた時代がフェエルバッハとは懸け離れている。そのような時代性を論じることを哲学者は嫌う傾向があるが、例えば「野蛮」の中でテレビと科学技術が現代社会に及ぼす野蛮について触れている箇所(<第六章、野蛮の諸実際>)を、時代固有の社会状況を無視して考えることは出来ない。そして現代社会における労働という観念を、よりその神聖なる動機(フォイエルバッハ的な)とか、マルクス主義的な量化システムと人間性の疎外という形で捉える図式からアンリは完全に脱却している。そこでは量化されたオートメーションシステムにおける成果主義的労働だけではなく、例えば頭脳労働とか、精神労働といったものさえも、つまりインテリやエリートたちの携わる労働さえも含有するマクロ的な労働の観念そのものが内実的な翻弄とか、内実的な無為なる反復でありながらもそのことを巧妙に隠蔽するシステムとしてまさに我々が称揚するような文化という身を纏って我々に制度的に無意識に従うように侵食するものとして捉えている。つまりそれらは一種の価値観という名のミーム、しかもネガティヴに我々の存在に対して立ちはだかるミームなのである。それは次の文面からも明らかである。(その意味では「野蛮」は最も社会告発的哲学テクストであると言えるだろう。)
 ところで、もう一度言っておくが、このエネルギーが用いられているのはたんに芸術作品だけではなく、文化の世界に属するあらゆる日常的なふるまいのうちに、このエネルギーの使用が認められるのであって、結局それらはこのエネルギーの使用によって動機づけられている。たとえば、労働は何千年もの間、マルクスの言っているように「労働の消費」としてその姿を呈してきたのであり、もっとも苛酷なものからもっとも安楽なものまでのさまざまな形態を通じて言えることは、つまるところ、そのうちでその堪え難さの厄払いをするようなものが密かに働いていたからこそ、労働は堪えられたのだ、ということである。(ここら辺はマックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義精神」に接近している。管理人注加入。)しかし、そのようなことが言えるのも、労働が生ける実践として、すなわち有機的主体性の諸能力の拡大として、その結果、主体性それ自身とそのエネルギーを最終的に実現するものとして、捉えられているかぎりのことである。 (188ページより、山形頼洋/望月太郎訳、法政大学出版局刊)
 つまりアンリは労働がそのような形で、つまり<主体性それ自身とそのエネルギーを最終的に実現するものとして>機能していはいないと言っているのだ。それは要するに社会という幻想、労働的価値という幻想、あるいは人類の未来という幻想の中に雲散霧消するような個人があたかも崇高な価値に勤しみ、公共的価値へと昇華されるという題目において我々に「生きてゆくことの意味」を得ているかの錯覚に陥らせる価値観という名のミームが知らず知らずに我々に与える行動原理の理性的価値規範であるに過ぎず、我々は「生きる」ことの実在的価値に真に目覚めてはいないということの主張である。そしてアンリは最晩年において「受肉」でキリスト教倫理を、自らの哲学的バックボーンの拠って立つギリシャ思想からの脱却において信仰心というものの持つ可能性に目覚めて回心しているのである。
 その回心の部分に対しては来場者諸氏も賛否両論あろうと私は思う。しかし実際この段になって以降の選択とはある意味では個人史、あるいは人生経験といったものが色濃く反映するものなので、一概にどのような選択を正しく、どのような選択を間違っていると断定することは最早出来ない。我々に出来るのは、ある選択をした個人の何らかの「魂の叫び」のようなテクストの息遣いを読み取ることだけである。
 中島義道もどこかで書いていたが、中島の考えている嫌いな人とか、アベル型の人間という存在は、カイン型を自認する人、あるいは好きな人と一緒に過ごしたいと願っている人にとって、ある意味では恩人である。中島の考えでは恐らくそれは「汝敵を愛せよ」という言説の持つ力をもその一部に持つようなもっと普遍的な考えであろう。
 つまりそういう意味ではフォイエルバッハの持っている無神論的な態度、つまり宗教は神というものに対する意識を人間が備えている以上、あるいは神の完璧に対して理想を抱くという一事をもってしても、神そのものが人間性の一部であり、神概念は人間が作ったものなのだから現世宗教的な教義を離れても、人間の心には本質的に拭い難く存在しているものであり、それは権威とか、正統性への主張という社会的行動へと収斂するものではない、だから自分は無神論であるからだろうが、それすらも宗教的思惟の一つであるという<考え=生き方>である。それに対してアンリはヨハネの言をはじめ、キリスト教教義の中の自分にとって切実な幾つかの部分は、それ自体で説得力のあるものなのだから、それを信仰の糧にしていこうという<考え=生き方>なのだ。そしてその二つの相反するようなスタンスは実は、相互に相互存在を薄々ながらも知りつつ、それを認め、そして自分は自分の道を行くという決意でもある。
 アンリはそもそも「受肉」(2000)に至る十三年前の1988年に「野蛮 科学主義の独裁と文化の危機」を発表している。このテクストは先にも多少触れたが、ガリレイ的地平における統計数値主義に代表される自然科学の猛威が未だ顕在している状況を、芸術の抵抗と、文化の科学的相対化、そしてテレビを通したマスメディアの人間に対する惰性化作用、そして大学の数値目標主義による荒廃的現実などを通して告発した社会的メッセージ色の強いものである。そしてこのテクストの終盤、結語である<アンダーグラウンド>において次のようにアンリは記述している。(同書254ページより)(太字散散選択)  
(前略)メディア的存在が生に提供するのは自己実現ではなくて、逃避である。怠惰がエネルギーを抑圧し、そのために自己自身にずっと不満を抱くようになっている人々に、その不満を忘れさせる機会である。各瞬間に、「力」と「欲望」の新たな高揚のたびごとに、やり直さなければならない忘却。週末の二十一時間をパリ郊外の児童たちは、彼らの教師たちと同様、テレビの前で過ごす。翌日の共通の話題にはこと欠かないというものだ。
 ここにはメディアが大衆各個人の持っている不満とか怒り、あるいは自我的な欲求の表出を巧みに、統制し、隠蔽し、まさに飲み込ませる装置としてメディア、とりわけテレビが作用している現代社会の姿を象徴している。その最たるものが、翌日の生徒同士の話題がテレビによって形作られるという現実である。
 エネルギーという表現が実に重要である。ここでは再び中島義道の一連のかつて引き篭もりをしていた自己自身に対する呼びかけという性質をも持っている、そういう若者や中年、壮年に向けて発せられた自己意識啓発的なテクスト、例えば「怒る技術」に顕著であり、それ以前にも「人生を<半分>降りる」、「「哲学実技」のすすめ_そして誰もいなくなった」、「働くことがイヤな人のための本仕事とは何だろうか」といった作品の中に納められている主張と奇妙にも符号するのである。
 つまり中島の主張とは、日常的な怒りとか不満それ自体は全て正しくも、正しくなくもないが、一番始末が悪いことには、社会は往々にして善良さを全ての市民に強制する。そして怒りを他者に向けないで欲求を抑圧することを社会がよしとして、善人、思い遣りある人という理想を押し付ける。我々の多くはそうして怠惰にも自らの中に巣食う悪を隠蔽しようとする。しかし一旦そのように自我的欲求を抑え込み、飲み込むことで、逆に他者の真実の怒りに対しても鈍感になり、果ては真摯に他者とコミュニケートすることを回避させ、相互の真意を直視することを隠蔽するような大多数の社会的規制に対して鋭く偽善的匂いが立ち込めたものとして告発する。そこにあるのは不健康な善良さという仮面を纏った偽善と、誤魔化しと、人生そのものの理不尽さを忘却させようとする<見えない悪辣な社会権力の策謀>である。しかし勿論中島は自らを反体制の旗手として意識することは終ぞない。それらの叫びは秘めやかに自分自身もまた悪の片棒を担ぐ小さな存在であることを自覚して、自己内の不幸を逆に恩寵として切実な財産であるとして育て、人生そのものの理不尽さを真摯に直視するという主張がある。そこに安易な社会思想家としてではなく、自我論、コミュニケーション論の探求者としての自己表明と、対他的な啓蒙意識が統合されたスタンスが仄見える。
 <見えない悪辣な社会権力の策謀>とはアンリに言わせれば、テレビを筆頭とするマスメディアの垂れ流し的な情報の無反省性である。それはまさに何かを記憶し、記録することを大衆に忘却させる無知化促進の装置である。その危惧に対する告発の果てになされる回心としてアンリはまさに世界最大のミームであるところの自己というものに対して、対話拒否をさせるメディアに唯一拮抗し得る存在として、自己内に巣食う信仰という意識へと読者に対して呼びかける。それは神を人性の顕著な一特質として定義したフォイエルバッハのスタンスを彼なりに一歩進めたものだったのだろう。
 ここで重要なこととは中島の主張にあるように、つまり自らの中に巣食う悪、狡さ、不幸さに眼を瞑らないで、直視し、他者に対して取り繕わないということ、往々にして我々は自らを幸福である振りをし、自らを善良そうに装い、狡いことを隠そうとするし、清らかな他者への思いだけを表明しようとする。しかし夫婦でも、親子でもいいことばかりを示しあうことでは何も先へは進まない。自分の中にある卑怯で、小心な部分を隠蔽し、他者に対する憤りを協調という名の美名でカモフラージュすることをあるいは、アンリは極度に回避したかったのかも知れない。それは論理的思考や思惟にまで適用出来る。例えば神は実在的にはいないかも知れない。しかし神に対しているかも知れないという思い自体はなかなか払拭出来ない。例えば永井均も主張している(「私、今そして神」)が、私たちは「あなたはもし生まれ変わったなら、今度は男性に生まれたいですか、それとも」と言うような問いに極自然に返答するのではないか。それはその返答を他者に与える時点で願望として、神が自分をもう一度別の生として生きる権利を与えてくれたらという思惟そのものを払拭し得ないということを表す。
 それをアンリは敢えて心的実在としての神はいてもよい、いやいなくてはおかしいと感じたのだろうと私は思う。事実フォイエルバッハは無神論をも宗教の一様相であると捉えたが、彼の中には時間すら終わりが来るかも知れないという思いもあったかも知れない。さすればアンリの中にあるある神への信仰心と敬虔に対する晩年の開き直りとは、フォイエルバッハが回答、つまり神の実在へと回答を与えることなく、神の、あるいは神の概念を疑わない人間による神の中にある人性というものに対して「人間がそのように自然あるいは宇宙を完全であると思うことの出来る能力」として認識する可能性に対する示唆を自ら実践する信仰心で返答しようとしたと考えてもあながち間違いではないだろう。だからそれは一哲学者同士の違いというよりは、アンリが先に生まれ、フォイエルバッハが後に生まれても同じような遣り取りがあったかも知れないと私に確信させるようなタイプの神と神の論理に対するけじめなのである。