Sunday, October 25, 2009

〔他者と衝動〕10、経験と衝動

 通常些細な意地悪は、それが法的に逸脱していたり、悪質で精神的な打撃にならったりしない限りで容認されていると言ってよい。それは勿論程度の問題でもあり、主観的な問題でもあるが、少しくらいの皮肉を言われて酷く傷つくとしたら、寧ろ傷ついた方が神経症的に病理的体質の人間であるという判定が下される。と言うことはある意味では適度の意地悪を容認するという社会的策定とは、個人に内在する些細な悪意に対する免疫的能力そのものへの社会通念的な信頼があるということを意味しよう。
 それらは端的に人間的生活上での経験が、それくらいのことを気にしていては、生きていけないぞという暗黙の些細なことを気にしないように怒りを抑制する衝動、つまり大きなことと小さなことを区別する社会通念的認識力を構成する能力、つまり経験と衝動が結託した知恵というものを我々がある程度病理的ではない通常の個人に認めているということを意味する。そしてそのくらいのことを気にせずに生きていくということの規準は多少その人間の育ちの部分における社会環境、教育環境に左右されるだろう。しかし恐らく神経症になる寸前のところで大体の差異は解消されるものである。
 それは端的にどの程度の意地悪なら、もしそのことで酷く相手が傷ついて自殺でもしたとしても、意地悪をした者が非難されることを回避するかという通念を我々が形成することと関係があるだろう。もしそれくらいのことを言ったくらいで相手が自殺をしたのなら、寧ろそれを深刻に受け取って自殺した者の方により病理的欠陥があったのだと判定することを自然にするある程度の意地悪の許容量というものがあるのだろうと私は思う。もしそうでなければ我々は多少気まずい雰囲気において他者に対して神経を遣い過ぎるあまり息が詰まってしまうだろうし、また日頃全ての嫌な相手の態度に対して飲み込み我慢することで多大なストレスを感じ、果ては精神的にまいってしまうからである。だから逆に精神病理的体質の人間というのはこの社会的策定の前では生きていき難いということもあるかも知れない。しかし社会はその意地悪があまりに悪質でない限り、ある程度の不快な態度を他者から採られることに対して抵抗力と免疫を得ることを個人の能力として求めるものなのだ。そしてその能力に対する判定とは自己抑制力と、経験的に小さな悪意を受け流す知恵を身につけているか、つまり他者の悪意を増幅させないで適当に他者からの攻撃をかわしたり、他者に対してその者が持つ悪意を善意に変えさせたりするような機転があるかということであり、そのためにも小さな意地悪はそういう能力を醸成する上であった方がよいと通常多くの人々が感じる類のものである。つまり期待されるべきその能力とはそれが著しく欠けているのなら、寧ろ人格的にも問題がある、寛大さの欠片もない、悠然としたところの欠片もない、余裕の一滴もないと判定されるような性質の寧ろ人間的にも能力査定的にも敬遠の対象と化してしまうようなものであると言ってよい。だからこれはある程度そういうことで悩みのある人間にとっては克服しておいた方がよいものであろう。
 ただ難しいのは、こういう意地悪とはそれをする者にとって親しい者からは許されることでも、逆にそれをされる者にとって親しい者からは決して許されないという親密さから生じるエゴイズムと密接に絡んでくる、つまり感情論へと発展するという難点を孕んでいる。だからある意味ではどんなに些細な意地悪でも即座にいじめとか悪戯に転化する危険性を孕んでもいるとは言えるだろう。しかもその意地悪もあまり数度度重なると非難の対象と化すということもある。だから些細な意地悪は悪戯に転化しない内に寸止めしておく必要性が常に求められているのである。それは皮肉的で些細な言辞でも度重なると悪意に受け取られかねないのと同じである。そのような微妙な判定を成立させるものこそ経験と衝動が結託した心的作用であると言えるだろう。往々にして若者の一部には異様に相手からの揶揄的言辞に敏感な者が見受けられるが、そうかと言ってそういうタイプの人間に極度に非があるわけではないし、そういう敏感なところを強みとして活かして成功を収めているタイプの人も大勢いる。要するにそういう些細な他者からの悪意を深刻に受けとめないでいるということの収斂が人間にはある程度要求されているのだ、と考えればよいだろう。要するに経験による認知が衝動的な情動の焦燥感を紛らわすことが出来るということを本節で私が主張したいことなのだ。
 こういうことを考えてみよう。ある友人が些細な約束を守らないからと言って、その友人を必要以上に攻め立てることが大人気ないということは、その友人が普段からどのような約束も全て反故にするようなタイプの人間であるか否かということが重要な規準となるということは即座に了解されることではないだろうか?つまり大抵のことであるなら約束を守る相手に対して、こちらからもう一度頼めば済むことを態々別の他者にその者が約束を守らないでいることを執拗に告げ口するとしたら、そうする側の方の度量が小さいという判定を受けることになること必定である。要するに些細な他者の失点に対してある程度寛容になることがある意味では最も賢明な他者対人関係の基本であるかも知れない。
 私の見るところ多くの猟奇的な衝動無差別殺人事件の犯人の多くが被害者意識だけが異様に増幅されているということが常に気になってきた。彼らは総じて通常だったなら、大して気にも留めないことを異様に増幅して過大なこととして受け取る被害妄想者なのである。そしてそのような被害妄想へと自らを駆り立てるものとは、端的にストレス解消法の知らなさである。そして他者からの揶揄に対しての免疫力のなさである。だからこそ私は他者からの小さな悪意にある程度慣れろと全ての人に言いたいのである。勿論他者への悪意、例えば意地悪が執拗を極めるのなら、それを実行する者に非が十分にある場合もあるだろうが、些細な悪口くらいで一々深刻に受けとめていたのなら、逆にその者には何も言えないという雰囲気になってしまうと言いたいのだ。だから小さな悪意を感じ取ったなら、適度に応酬するくらいの抵抗力を見につける術も必要かも知れない。逆にそれに慣れれば、他者からの小さな悪意がユーモアとして受け取る心の余裕も身に付くかも知れないではないか。
 社会とはそもそも真に誠実な人間を歓迎するような場所ではない。例えば資本主義社会である以上、我々は生き馬の眼を抜くような過当競争に常に晒されており、そういう日常においてはよりシビアに現実を見つめ、時として他者を出し抜き、外部に対して不良であることを実践し、内部においては同僚や部下に対して叱咤激励するようなタイプの成員が待ち望まれることさえある。故に適度にシニカルで、他者の安っぽい善意とか責任を伴わない生半可な思い遣りなどない方がましであるとさえ思わせるような徹底した現実主義者の方がより尊敬を集めるケースが多い。すると簡単な揶揄に一々傷つくような柔な神経の持ち主は軽蔑こそされても、決して同情されることなどないと考えた方がよい。だからあるシニカルで意地悪な一言が仮に同僚とか上司からかけられたとしても、そう言われることに対して気の毒にと思われるよりは、そう言われても仕方ないなと思われる場合も多い。つまり社会とはそれだけの厳しい現実において展開しているわけだから、許される意地悪が飛び交うことの方が寧ろより効率とか潤滑油的な意味で自然であるという場所なのである。シニカルな言辞と、皮肉と、揶揄が正当とされる同意は、その都度のその言葉を吐く人間に対する実力的な評定が大きく左右する。敵対する者同士は寧ろ表面だけの褒め言葉によって埋め尽くされている。だから逆に真に味方である者同士ではささやかな揶揄、意地悪い一言は寧ろ対外的な戦略の前では、例えば言葉巧みに騙してくる本当の悪党に対してそれを見抜く眼を養成するためにも寧ろ有効であるとさえ言える。私たちは寧ろ許される限り皮肉と、罵倒を有効に活用すべきであるとさえ言える。つまり真意をそのような表だけを取り繕うことではなしに多少の荒っぽさを味方同士で示すということは、対外的な悪魔の囁きに対してそれがいかに真に思い遣りの欠如した言辞であるかをとくと知るために寧ろ必要でさえあるのだ。
 しかしそういったことを真に理解出来るということは、ある意味では経験的なことである。失敗と挫折を通過しない者には理解が難しいかも知れない。そして意地悪を適度に実践することで、逆に真に悪辣な底意地の悪い行動を慎むという意味でも適度の他者に対する侮蔑的表情、表現とは予防装置として、取り返しの尽かない失敗とか他者攻撃を緩衝し、抑制する一つの知恵ある衝動であると言える。

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