Tuesday, October 13, 2009

〔他者と衝動〕4、羞恥と衝動

 ハイデッガーは生を現存在とか世界内存在として、本来性へと差し向けられている旨を「存在と時間」において示したが、しかし現実には世人による頽落という形で妥協していることを述べているが、本来性と彼が考えるものとは生きる根拠のことである。人間は生活上で熟考することを時々するが、そのような熟考を四六時中しているわけではなく、多くの時間を実体視することなく、幻想視して過ごす。そのための方策として言語があり、認識力がある。だからこそと言うべきか、その前提としてと言うべきかはともかく、人間は根拠を求める。そこで因果関係という見方を採用する。つまり私たちの脳とは、それ自体が存在そのものであり、脳以外の全ての事物、現象に対して存在視を我々に付与している。
 その脳=存在は、その能力として全てに対する存在視において、我々に因果関係を要請させるのだ。
 だから我々がいかに熟慮して何かを決定しているのだとしても、殆ど衝動的に何かを決定しているのだとしても、どちらにも差はない。その差のなさとは、端的に決定することとは全て衝動的な行為である、ということである。行為に原因などというものはない。行為の全ては原因を作られるだけの話であり、それ自体明確な原因があるわけではないのだ。理由はあると言いたいだろうが、そうではない、理由とは事由というものは後からこじつけるだけのものである。しかしこの見方はニヒリズムではない。自然主義的な物の見方である。しかも衝動を意志や自由よりも優先するとしたら、ある意味では決定論でも非決定論でもない。決定論とは遺伝子に行動の根拠を求めるようなタイプの、例えばリチャード・ドーキンスのような物の見方においても確認出来る。彼はただ神から生理学的な究極の根拠へと問題を移行させただけである。自然科学者というものは、往々にして考察対象として、自然を選択し、人間の行動や思想、あるいは社会(状態としても行動としても)そのものをも自然として扱うので、職業的使命として自由意志という観点から言えば固い非両立論(決定論でも非決定論でもない)者であるが、直ちにその事実から彼等が全生活上でそれが信条であるかと言えばそうとも言えないだろう。彼等の多くは自然科学者としての職業倫理的スタンスと私的な信条とを区別することも多いからだ。ドーキンスもまた、自然淘汰と人間としての在り方、とりわけ道徳的意志とも明確に区別している。だからドーキンスの無神論と、ハイデッガーやサルトルの無神論とはその性格は異なっている。しかし少なくとも私はその二つ(勿論同じ哲学者であると言っても、ハイデッガーとサルトルとでは違う。)ともその立場なりに理解することが出来る。そして自分と意見の違う者に対して批判的であったり、敵対したりすることというのは、相互に敵対者を必要としているという意味では共存的な社会事実である。
 だから私たちは選挙で候補者の誰かに投票する時、明らかにその投票根拠としてこうあらねばならぬということはないのであって、私的な好み、贔屓で投票することもあれば、心を鬼にして贔屓感情を押し殺して思想的に投票するのだと言っても、前者のみを衝動的であるとも言えず、従って自己感情に素直であることも抑制的であることも共に衝動的なことなのだ。だから好きなことをし、気の赴くまま行動するタイプの人間であれ、努力し、自己欲求を抑制しつつ行動するタイプの人間であれ、そのような行為選択的なタイプに従って行動している以上両方とも自らの拠って立つ衝動に忠実であることに変わりはない。しかもその日によって同じ音楽でも聴いた時に受ける感想とか感動の色合いが異なるように、昔感動した映画を再び観た時以前ほどの感動を得ないこともあれば、逆に再び観たらそのよさを発見するということもある。それは何らかの理由をこじつけることも出来るだろう。例えば昔と今とでは人生観も社会観も、価値観も思想も変わっているのだから、と。しかしそのように映画や音楽に対して持つ印象というもの、感動の性質というものは、恐らくそれを鑑賞した時の精神状態とか気分とも密接に関係があるのだとしたら、それは因果関係的な原因とか理由とは違うものだろうと私は思う。その映画や音楽を聴いた時に感情的な色合いによって異なって印象されるだけのことなのだ。だからある行動とか決意そのものも極めて偶然的要素というものの方が強い。しかし重要なこととは、その偶然的な選択とか、偶然的な感情的な受け取り方全般に対して我々は何らかの根拠を求めずにはいられないということである。このことは永井均氏は「<私>のメタフィジックス」において<行為の正当化>というタイトルの章で詳述している。あるいはドナルド・デヴィドソンの哲学にも非法則的一元論的な意味でその都度の判断に理由とか原因を求めないという意味で衝動論的なニュアンスがあることもまた確かである。
 しかし私は衝動にも大きく羞恥がかかわっていると考えている。つまりある衝動を後押しするものとしても、ある衝動を抑えることにおいて用いられるものの両方に別の衝動が必要だが、その衝動とは原衝動と仮にここで命名するとすれば、原衝動とは羞恥のことだと私は言いたいのだ。
 ある衝動、つまり行動的欲求を後押しするものとして、我々はそれを賛成する衝動、迎合する衝動とか色々命名することは可能だが、それを一括りに「羞恥払拭型」と呼び、そうではなく逆にある衝動を抑制し、耐えようとする衝動を「羞恥尊重型」と呼ぼう。恥じを拭い捨てて何かをする時我々に必要なのは勇気であり度胸であろう。しかし逆にある行為を思いとどまらせるために我々に必要なものとは、遠慮(この言葉は翻訳不可能なニュアンスがあるので、あまり頻繁には使用したくはないのだが)、あるいは配慮であろう。
 ここで「羞恥払拭型」衝動が勇気や度胸を尊重するのに対し、「羞恥尊重型」衝動が遠慮や配慮を必要とするという時我々は一つのことに気付く。両方とも他者に対する態度であるということである。ある行動とは端的に他者に対する意識なしにはあり得ない。勇気とか度胸は、その大胆であることと、積極的であることによって他者から頼られる立場に自らを追い込むような責任の取り方があるのに対し、遠慮とか配慮とは逆に他者から応援や救助をして貰いやすいような立場に自らを追い込む責任の取り方があることは確かである。後者は端的に消極的な他者に対する態度表明なので、率先して何かをする(特に集団をリードする)ようなことへと他者から要請させることはないだろう。しかし前者では逆に率先して何かをすることを周囲に認めさせるが、容易に援助や協力を仰ぐことを周囲から自分へも、自分から周囲へも抑制させる傾向に赴くということは言えるだろう。要するにこの立場は積極的であるが故に他者からの内面への干渉を閉ざす方向へと差し向けられているということでもあるのだ。だから何か悩みを相談しやすい立場とは日頃からあまり積極的であり過ぎることよりは、消極的である方がより周囲からの配慮は得やすいということは、ある意味では極めて日本的な態度の取り方に起因する恩恵であろう。しかし恐らく積極的であることが大胆であり豪胆であることから、傲慢に転化する可能性もあるとするなら、同様に消極的であることが他者一般に対して敵対視されない安全地帯へと自らを赴かせるようなタイプの保守主義、あるいは安泰と平穏を望むが故になす弱者結束型で、大衆迎合的な判断へと転化する可能性もあるとしなければならないだろう。
 では羞恥とは一体衝動とどのような関係にあり、作用しているのだろうか?そのことについて考えてみよう。「羞恥尊重型」にはより他者依頼と他者委託同意というものがある。逆に「羞恥払拭型」には他者強要、他者信頼というものがより「羞恥尊重型」よりも強いだろう。しかし他者に内面の実情とか生活的事情を知らない内は往々にして我々は「羞恥尊重型」の態度で他者に臨み、逆に他者間で相手の立場に対する理解が深まればより「羞恥払拭型」の態度が望ましくなる局面というものは多く出現することとなる。
 羞恥とはだから払拭すべき障害として立ちはだかるか、それとも尊重すべき配慮として内在するかということを、その都度我々に自覚させる、その自覚はある意味では心理的な認識レヴェルでだが、別の意味では極めてその都度の気分にも左右される現象的なレヴェルでの意識でもある。ただ認識レヴェルにおいても払拭すべきか尊重すべきか双方の判断が可能となるし、意識レヴェルで固有の感じを気分として得ることはしばしばあることである。その場合でも払拭すべきか尊重すべきかを左右するものとは衝動である。だから他者信頼→他者依頼→他者強要という図式で積極的に慎みなく言いたいことを言うという言語行為へと赴くか、それとも他者立場理解→対他者配慮→遠慮という図式に則って真意を隠蔽するかということはその都度の衝動に左右されるわけだから、この二つ、つまり羞恥はその都度の衝動を意味づけたり、性格づけたりする一方その時々の衝動の性格が羞恥の色合いを決定し模すると言う、双方向的(インタラクティヴ)な、どちらが前提や背景でどちらが結果で図であるかとは言えない双方が前提であり結果であるような、双方が背景や地であり同時に図でもあるような関係にあると言ってよい。ただ言えることとは衝動とは他者に対するその都度の判定がかなりの程度左右する。
 例えばある事柄を告げたり、ある行動をその者の前で採ったりするのが、よく知る親しい他者である場合とそうではない場合とでは自ずと異なった対応になることは当然だが、その都度のその他者への共感と反感の間の微妙なグラデーションでの位置判定が言語行為を伴う場合でも、伴わない場合でもその行動の性格、つまり感情的な位置づけが変わってくることは当然である。つまり行動へと至る衝動とは他者との相関性が極めて重大なファクターとして作用するのである。
 本書のタイトルが「他者と衝動」であるのも衝動とは他者存在、あるいはそのことへの我々の意識が形作っているということに起因する。そしてその根幹には衝動と羞恥の連動性が考えられるのである。現象学者の多くはこの動因性についてキネステーゼという概念を使用している。しかしこのような現象学による身体論的なテーゼとは、端的に簡単な経緯によって獲得されたものではない。それは倫理へと問いとか、知性や理性への問いという延々と反復されてきた不器用なまでの執念が獲得したものなのだ。
 それに反して日本人には倫理への問いに執着するくらい大きな宗教心が希薄である。だから必然的に「救われる」という個人意識はない。しかしだからと言って西欧流の哲学の伝統のない土壌であるこの国でその文化を吸収した我々が西欧哲学を理解出来ないということはない。断じてない。それは恐らく表層的には私たちの文化に根付いてはいないが、何らかの我々人類の深層において私たちの精神を規定する脳内現象として哲学思考を巡る旅ということなのだろう。
 哲学思考が西欧と日本の文化的土壌の差異を克服するとしたら、他者(日本人にとっての西欧人)理解が必ずしも理性的レヴェルのものだけではない、感性的レヴェルのものによっても支えられているということは本論の主張と一致するところである。
 そもそも理解とは判断レヴェルのものより、より以上に衝動的なことなのだ。ここで一つ羞恥と衝動と理解との間に横たわる三者の関係について考えてみよう。その際「信じる」こととの対比で考えてみたい。
 
 理解するとはある部分納得することと同義でもあるので、知性的、悟性的だけであるかのように誤解しがちだが、本来納得することがある謎を構成する根拠を知ることによって謎が解消される(知性・悟性レヴェルの判断)ことを意味するから、起源的には謎が深まる状態を経ていなければいけないが、その謎が深まる状態こそ感性的な非綜合的、非論理的直観力、直感力、つまり惹き付けられる衝動以外の何物でもない。そしてそのものとの出会いの後、長く接していると、そのものの持つ魅力の謎が徐々に解明されてゆき、ある時「ああ、こういう仕掛けで我々は感動していたのか」と思える瞬間が訪れる。それもまた一つの納得という衝動である。この一連のプロセスにおいて惹き付けられつつ陶酔する状況をセレンディピティーと呼ぶのだろう。
 しかし意外なことに、信じるプロセスとはこれとは全く異なっており、理解よりもより言語的であり、倫理規定的であり、意志的である。私が今言った意志というのは、感性的なこととか感情的であるよりも、もっと信憑性そのものを構成する悟性的なこと(それは多分に倫理、道徳的である。尤も永井均氏は倫理的と道徳的とを区別しているが、ここではあまりそのことには深く立ち入らない。そのことは自著「羞恥論‐依怙地と素直<衝動論第二幕>」<後日掲載>を参照されたし。)なのだ。それは世人判断的なことなのである。何故なら信じるということが信じ「込む」という意思的な努力の賜物だからである。
 通常我々は教育によって様々な事項を真理であると信じ込まされる。その中には正しいこともあるし、
誤っていることもあるだろう。そして何かを正しいと信じる時には感情如何とか、感覚的齟齬といったことを一先ず棚上げにして意志的に理性論的にそれ以外に信じられないと判断しているのである。そしてその判断は極めて言語的な手続きがなされていると言ってよい。
 そこで理解することに戻ると、羞恥との関係において理解することとは、端的に「羞恥の尊重」であり、その羞恥こそが理解されるものの魅力を増さしめる。しかし信じることとは「羞恥の払拭」つまり魅力(ここで魅力と言っているのは信じるに足るという価値判断的な意味でである。勿論価値判断的な善にも感性的な、つまり好きな音楽のようなものと共通するものはあるだろう。)云々によって惹きつけられるとか、迷うとかの中間的状態そのものへの断念であり、納得した瞬間の確定性の永続不変的維持に対する決意に他ならない。すると理解するとは、緩やかな持続で自然なもの(自然に身を委ねてしまう)<線的>であるのに対し、信じるとは点的絶対性の人工的・意図的持続(断続的であることになるが)への意志に他ならない。
 そして重要なこととは理解へと赴く受動・受容的状態へのスイッチングオンも、逆に信じることへと赴く能動的・積極力動(発動)的状態へのスイッチングオンも共に衝動であり、その衝動は前者は「羞恥の尊重」、後者は「羞恥の払拭」を志向し、それらの衝動の志向的質は極めてその都度の外界(他者も含む)との接触とか交接による気分に左右される。勿論外界・他者への接触・交接はそれらのものとの経験的記憶というものが大きく左右している。このことは次々節で詳述する。
 しかしそのように生理的に左右される精神状態であるところの気分のみに左右されているとは思いたくはないのが私たちなのである。そこで我々は倫理的価値規範を導入してきたのである。これは個人的なこととしてそうなのであり、社会がそれを採用したのはア・ポステリオリにであろう。個人的ということそのものが社会を前提しているからとも言えるが、私はここでは人間は前社会的な意味でも、既に内観的に哲学思考的に倫理的価値規範は能力として備わっていると考えている。それらは当然次節以降に登場する良心ともかかわってくる。
 しかしもっと重要なこととしては、我々はそのように倫理的価値規範を導入せざるを得ないような心の状態になるというもう一つの衝動を持っているということである。外界との接触・交接による気分だけに左右されたくはないという衝動の中で最も確認しやすいものとして良心というものを考えることが出来る。
 我々はここでようやく次節へと移行し得る時を得たのである。

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