Monday, October 5, 2009

<他者と衝動‐羞恥論序説>1、私と他者

 「私」という衝動は他者が作る。
 私たちは哲学という考えを抱いた。それは内的根拠への希求でもあった。現代の脳科学では全てを脳内現象として考えることを再考している。再考しているのだから、哲学ではもっとずっと早くその考えを射程に入れていたのだ。例えばデヴィッド・ヒュームがその代表である。心理学とか認知科学においてかつて論争された生まれか育ちかという問いは、遺伝子と環境ということであるが、純粋に経験によるものであるのなら、それは遺伝子からも環境からも一つの行動やその行動を誘発する因子を決定することが出来る。そして宗教という気分についてもそれなりの根拠を見いだすことも出来る。
 あるいは好き嫌いという感情もまたそれらが複合して作られるということが証明されるかも知れない。

 しかし形而上学的に捉えればカルテジアンでさえ大いに認めていることだろうが、対自とか内的関係ということの前提に他者が控えているということは最早動かし難いと思われる。しかしそれは弁証法的な認識だけでは問い続けることが出来ない性質のものであろう。弁証法を極限まで推し進めれば、神という観念を認めなくてはならなくなる。つまり理性論的思考の行き着くところは神の問題である。あるいは神に対する問題である。だから理性論から逸脱するという試みもまた、その神の問題に絡め採られているということを意味する。しかし他者の問題は神よりも先験的なことなのだ。
 私という意識は脳科学が生をシンボライズした形で捉える「意識」という客観的分析対象とは自ずと異なる。自我としての私、「今、ここ」にいる私、身体的存在としての私、あなたではない私、様々に述語化し得る私とは、他者を私が認めた瞬間、つまり私が私にとっての他者を認めた瞬間私の中にえも言われぬ衝動を齎す。そう私が記述することを可能にするように他者が「私」を与えてくれる。そのように与えてくれるように私は他者を認め、他者を望む。
 しかしその衝動とは一体何なのだろうか?
 意志を伝えるということは、即ち私が言語を通して他者と私、他者によって私を覚知し、私によって他者へ関心を寄せることを促す共通の場を私が他者との関係を通して構築してゆくことに他ならない。
 他者、それは悲劇である、と昔誰かが言った。私は私こそが悲劇の元凶であると言いたい。
 私が他者より先に、あるいは他者より後にこの世から姿を消すという、恐らくやがて来る逃れようもない事実こそが、ある意味では私が私の中に作る他者の起源である。そしてそれが有する悲劇性の中からしか真実を見いだせないという私の在り方そのものが一種の衝動なのである。
 すると私は次のように私を巡る実存を表現することが可能となる。
 私とは、私が他者を私の中で作り、その他者と実在する他者の一致点と、齟齬をきたす点において、他者と私の関係の在り方を知る、私の中の他者に対する、あるいは他者と接する私の衝動である。
 
 私は私という衝動、それは私が私という存在を他者へ認めさせる欲求であると言い換えてもよいが、それに支えられている。
 サルトルは「存在と無」の<時間性>の中で恐らく極力他者の存在によって影響を被らない範囲での私に拘ったのだ。それは私を自由と責任において認可する原初的な個というものの存在の仕方へのアプローチだったのだろう。
 レヴィナスでは私は他者へ差し出されている。それは存在しているという事実において人質以外のも
のではない。私たちは彼を通して私たち自身が私の顔に捕らえられているということを気づかされた。
 私は私という衝動を生きる。そして私という衝動は他者、私が覚知する他者が作る。つまり私という衝動とは、私の他者に対する覚知そのものなのだ。私がここにいる、私は今いる、ということは他者がそこにいるということであり、他者があそこにいるということを知っていても、つまりその他者が私を必ずしも眼差しておらずとも、私はその他者の存在(あるいはその覚知)によって、私が私という衝動によって立ち上げられているのを感じる。
 他者、それは何とやりきれない響きなんだろう。他者、何と私たちはこいつに翻弄され続けてきたことだろう。全ての宗教、全ての文学、全ての芸術は、他者がなかったなら、ただの幻想であり、ただの物質の集合である。一枚の紙にしたためられた文字と記号を意味あるものとするのは、他者である。私の中の他者への思いである。
 他者、それは私が私であることには全く無頓着であり、私の存在をある観点からは無視し続ける。私が私の生を引き受け、私の生活を引き受けるということは、私がある特定の他者に対しては強烈な眼差しを差し向けるが、同時に多数の他者を無視し続けることを意味する。
 それは私が他者だけはどうすることも出来ないということを知っているからである。だからこそ私は私にだけ知られ、他者には知られることのない私の誰かに注がれる眼差しが他者からの一切の干渉を免れ、自らによって所有されることを知っている。
 しかしそれは別の見方をすれば、そのように他者を常に私による関心対象という射程に入れておくことそのものに翻弄され続けているということでもある。
 要するに私は、私の眼差す対象への関心において、他者を私の内的関係の射程内に入れながら、その実そうすることによって私の関心を構成していることをまざまざと知らされるのである。
 その時私は、私一人ではない、と悟るよりはその他者を通して益々私は一人ぼっちであるよりないと悟る。寧ろ私は他者というものがこの世に一人もいないのなら、私が私であることを内的に得ることもないのだから、恐らく孤独というものを感じずにいることが出来たであろう。しかしそういうことはあり得ないと私が知ることで、私はどこまでも一人であると感じ続けることになるのだ。
 私が一人であるのは私以外の他者がいるからである。私は他者という私の関心の中で一人なのだ。それは他者が私と同じように感じているだろうと私がそう思っても、そう思うことと、私が一人であると私が感じられることとの間には圧倒的な違いがある。そのことを徹底的に問うているのが永井均である。勿論その問いは延々と哲学では論じられてきているし、解決がつかない問いであることは哲学者を自認する者は誰でも感じ取っている筈だ。
 中島義道は永井の問いはデカルトを超えていないとしている(「観念的生活」より)が私にはそうは思えない。永井の問い、つまりこの圧倒的な違いをデカルトは突き詰めていないと私は思う。寧ろその問いの重大性を感じ取っていたのはウィトゲンシュタインではないだろうか?言語ゲーム、私的言語という形での圧倒的な違いを問いとしては顕在化させている。勿論彼はそこから先へは進まなかったが。
 私たちの言語は欲望を理想化している。言語が倫理を作るのではない。欲望が倫理という一つの衝動を作り出す。抑圧された欲望を私が見る時、私はそこに抑圧する、あるいは理性によって制御しようとする衝動を読み取ってしまう。それはある意味では読み取られやすい衝動である。
 私たちの関心とは一つの志向性であるが、言語は我々の関心を納得させ、判断の構造を形作る。しかし判断の根源には欲求が控えている。ここで言う根源とは原因としてではない。判断の本質のこととしてである。それはアントニオ・R・ダマシオが考えている理性を制御し得るのは感情であるという考えとも一致する。情動から感情へと至る回路それ自体一つの衝動なのであり、その衝動とは我々に我々の
欠如があるということを知らしめる先験的な欲望なのである。
 すると欠如が欲望を内部に自覚させ、欲望が欠如を作り出し、私たちは他者を自己の中の欠如を見いだすために利用する。私という衝動は、自己の欠如を他者において見いだすことによって得るのだ。
 その欲望と欠如のサイクルを円滑にするために衝動が私たちを支配する。私たちは衝動を利用しているのではない。欲望と欠如のサイクルを滞りなく捗らせるために我々が衝動に利用されているのだ。だから逆に我々は自由と責任を、そして倫理的問いという衝動を持つのだ。持たされるように持つのだ。
 言語という衝動、倫理という衝動、自己抑圧という衝動、私という衝動が常に不可分に一体化したような形で、時々その中の幾つかが大きく浮上するだけのことである。
 私という衝動が他者を利用し私の中の欠如を知らしめる。他者に対する衝動が私を利用して、他者の中に欠如を告げさせる。私はそうすることで一時安堵し、同時に不安にもなる。不安が安堵を齎し、安堵が不安を再び作る。欠如に対する認知が不安を作り、その不安を解消するために私は他者を利用する。
 他者は私が利用するために存在しているのではないが、そういうものとして私は望む。そうすることで私は私が他者ではない私であるということを再び自覚する。しかしそう自覚せざるを得ないのは、私が他者の中に私の欠如を見いだすからだ。私は私の中に他者にはある私の欠如を知るから、他者を求めるのだが、同時に私の中にはあるが他者にはないものを望む。そしてそのような形で私が他者と接することをその他者も求めることを望む。それは一つの他者への私の側からの衝動であるが、他者の衝動を私は私の側からの衝動という圧倒的な違いの中に感じ取る。その感じ取り方は恐らく恐れと羞恥なのである。
 好き嫌いという感情は常に一つの感情の中に混在している。他者が好きなのも、嫌いなのも恐れと羞恥によって感じさせられていることなのである。敬遠も近親憎悪も共に恐れと羞恥の一体化した感情が作り出している。
 
 他者がそれ自体衝動であるのは、私が私の中に他者を、他者の中に私を感じるからである。他者の衝動の中に私の衝動を感じるからである。私の中の衝動は、私にはある意味では理解出来ない。だからこそ私はそれを知るためにも他者の衝動を利用する。
 私は私の自由を私の衝動には見いだし得ない。だからこそ私は私を抑圧し、ある意味では私の衝動を殺す衝動を作る。私の自由が私の衝動を殺すが、その殺す自由も一つの衝動なのである。そのように新たな衝動を常に作るのも私の衝動であり、そこに私の欲望と欠如のサイクルが控えている。何故私が私を殺しさえしようとするか、それは私が他者の衝動を殺すことが出来ないからなのである。私に出来ることと言えば、せいぜい他者の衝動を引き起こすことと、他者の衝動を見えないようにすることくらいである。私は要するに他者の衝動をどうすることも出来ないのである。だからこそ私にとって彼(女)は他者なのである。
 そしてそれは恐らく他者にとっての私もそうなのである。確かに私以外の全ての成員がゾンビである可能性もなくはない。しかしもし私以外の誰もがゾンビであるのなら、まず私だけゾンビであり、他の誰もがそれを知らないという可能性の方も考慮に入れなくてはならないだろう。
 だから私の存在が他者にとって脅威であるとかゾンビであるとかそういうことを決して私は私が私の心の中で存在する彼(女)に対する思いのように知ることは出来ないし、それは推測の域を出ないものなのであり、それが推測ではなくて真実であると思いたいから私は他者を信じようとするのである。あるいは信じたいのである。あるいは信じたいようなものとして、信じたいようにするために他者を求めるのである。
 他者の中にある私の中から見いだせる欠如を私は容易には知り得ない。だからこそ私は彼(女)を他者と呼ぶのである。

 恐らく判断の構造は言語にある。しかし判断の根拠に衝動がある。衝動の本質として欲望と欠如のサイクル、つまり運動がある。私たちの行動は私たちの衝動が突き動かすが、衝動が私たちの行動によって作られている。しかし他者の行動は私にとっての他者の衝動と繋がっているように私には見えない。
 その時ただ私は繋がっているのだろうと私を納得させるために理解しようとするだけのことである。そう解釈するだけである。だから理解と解釈の起源には他者がある。他者が私にとって存在しなければ当然私というものはあり得ないのだから、理解することも解釈することも生じ得ない。だから信じることも、信じたい(信じたいということは、私の中の欠如を他者に求めることである)ということも全くあり得ないということなのだ。信じることは他者が私に齎してくれる恩寵である。私は他者への衝動のどうしようもなさの中に私が他者を信じるという気持ちを得ることが出来る。
 他者の不在はだから他者がいないことではない。他者がいないのなら私でもない<私>の身体は何物からも翻弄され得ないだろう。たとえ豪雨が襲ってきても私でもない<私>の身体は平然としていられる。私は他者の存在によって豪雨を嫌がり、喜び、地震に恐怖し、あらゆる災害を忌み嫌い、ことの成り行きに焦燥し、他者の中にある私の欠如したことにおける充実に嫉妬し、そこに運命の翻弄を感じ取る。翻弄とは「私の中の欠如」という私が他者から得たものを私が他者を通して知るから感じ取ることの出来る状態なのである。私はある意味で私の中での固有の欠如を通してのみ私を理解する。解釈する。あるいはそうするように他者が私を理解し、解釈するだろうと推測する。
 しかしそのような理解とか解釈は、私が私の中で他者に対してするそれらとは圧倒的に異なる。私は私を信じるし、信じたいがそれも私が他者を信じ、信じたいのとも圧倒的に異なる。
 私はまず私に対する解釈や理解に対して客観的にはいられない。過去の自分に対してなら多少そういう解釈や理解が出来るように感じる。しかしそれは完全に客観的なものでは決してない。勿論そのことそのものに対して客観的になることくらいなら出来る。しかしそれでさえある意味では恣意的に自分を他者のように視る視点を獲得する想像上でのことに過ぎず、私は恐らくいつまでたっても、私自身に対して客観的になることは出来ない。だからこそ客観的な対象となり得るものとして他者を必要とするのである。しかし私は何故私自身に対して客観的でいられ得ないのだろうか?
 私に対して向かう時の私とは、他者に向かう時の私とは明らかに違う。私は他者に想像の上で向かう時、あるいは実際に他者と接する時、私の中の私が知る欠如を客観的に見ることが出来る。欠如している自分に対する客観視とは端的に解釈や理解が客観的ではなく、主観的であるということにおいて、可能である。つまり私は自分に対しては客観的であろうとする主観でしか接することが出来ないのである。だからこそ私は私の欠如において他者の充実を見る。端的に私にとっての他者とは他者の中の私にはない充実なのである。私にとって他者の中の私にはある欠如とはア・ポステリオリに知ることが出来るかも知れないが、それは圧倒的に乏しいし、そうであると思っていても、ただの自己欺瞞である可能性すらある。そして私は私の中の欠如をそう容易には私によって補うことも出来ない。私の中の欠如とは、私が発見した瞬間からいつまでたっても、私の中の欠如であり続ける。そういうものとして私に私の欠如を知らしめるものとして他者が存在する。
 私は他者の欲望や衝動、あるいは欠如ならば客観的に見ることが出来る。それは他者が私の欠如を知らしめてくれるということに対する覚醒において他者を私の起源とするからなのだ。だから当然私は私の欲望や衝動、及び欠如を客観的に見ることは出来ないから、主観的でありたいと望む。時として確かに私は私に対して客観的でありたいと望みもするが、既にそのように望むこともまた欲望であり、衝動であり、自ら欠如であることを知ることだからそれはやはり主観でしかないのである。
 だから恐らく他者に対して差し向けられる感情そのものは客観的でいられない。他者に対して注がれる視線や眼差しは客観的足り得るだろう。しかしその視線を注がせる感情そのものに対して客観的ではいられない。だから他者に対してなされる判断そのものに対してなら客観的でいられる。(過去の私の判断だから)しかしそうであるのもただ私が他者に対する感情そのものに胡坐をかいているからに過ぎない。
 しかしそのことは私自身に対しては適用出来ないのだ。私は元来私には日頃確認出来ない他者に対する私の視線を、それが客観的に確認することにおいて他者を必要とするという意味で私は私の視線の意味を客観的に捉えることなら出来るが、私が私自身を見ることそのものを客観的に見ることは出来ないのだ。何故なら私が私に対して注がれる視線そのものは私がその時どういう視線であるかを鏡によってなら確認出来るが、その鏡を見ている時の自分と鏡の自分から見られていることを確認する自分とは常に容易に入れ替えられることを知っているからである。しかしこの点私が他者に注ぐ視線がその他者にとってどういうものであるかという事実は私によって勝手にはどうすることも出来ないからである。それは決して入れ替えられないのだ。要するに私は私が他者に注ぐ視線の意味を他者という存在によって私が知らされることによって、私は私という存在を公的なものとして知るのだ。しかしにもかかわらず私が私を見るということに私は私的以外の意味を見いだすことが出来ないからなのである。私の視線が、齎す意味を私に教えてくれるのは私にとっては他者のみなのである。
 私には私の中にある私の好きなところも嫌いなところも、私が私を見る限りは私的なままに留まるが、一旦それが私を離れれば私はその好きなところも嫌いなところも私の自由にはならない。私が私自身に対して抱くことの出来る固有の感情とは、私が他者に与える固有の感情(つまり他者が私に対して抱く感情のこと)とは本質的に全く異なる次元の問題である。だからこそ私は私自身に対して持つ固有の感情が客観的に判断することが不可能であることを知るが、それは同時に私が他者に与える感情に対してなら客観的に判断出来ると思えるから、逆に壁をそこに見いだすのだが、その壁はある意味では私にとっては、他者が私に対して抱える感情は見えないからこそ、私には切実だという意味において、私にとっては主観的にしか捉えられないということになり、私は私の感情が客観的に捉えられないのと同じような意味で他者の感情を客観的に判断出来ても、尚その感情が私に向けられているということそのものに対しては決して客観的ではいられないという意味で主観的な壁でしかないのだ。つまりこの私が勝手に他者との間に築く壁とは、実は他者の衝動を私にはどうすることも出来ないという私自身の固有の感情によって作られるものなのだが、では私が感じる私と他者の間の壁という私と他者の絶対的違いから、私は私の衝動なら他者の衝動とは違ってどうにかすることが出来ると結論し得るのだろうか?
 そうではないだろう。そのことなら既に述べたが、私が仮に私の衝動を何とか納めようと思っても、その思いもまた一つの衝動でしかないからである。すると私が他者の衝動はどうすることも出来ないと思っていたことそのものに誤謬がある可能性を否定出来なくなる。
 しかしこうも言える。私が他者の衝動をどうすることも出来ないと言う時の「出来ない」と、私の衝動をどうすることも出来ないと言う時の「出来ない」とでは全くその性格は異なるだろうということなのだ。つまり私が他者の衝動はどうすることも出来ないと思っていたことそのものに誤謬がある可能性とは、他者だからこそ他者を信じることを通して他者から私に対して注がれる視線くらいならどうにかすることが出来るという形で私は他者の衝動に介入することの可能性を示唆しているのである。
 しかしそう言うことが可能であるということは、私はいつまでたっても、他者の衝動に関してなら、かかわらないようにすることも出来るのに対し、その事実自体が逆に私自身の衝動に対してはそのようにすることは決して出来ないという決定的な「出来ない」の性質の違いを私に直撃する。
 つまり前者の「出来ない」は私の自由と責任を前提しているが、後者の「出来ない」は私の自由でも責任でもどうすることも「出来ない」のである。
 と言うことは自由と責任には他者が絡み、他者は自由と責任によって認識出来るが、私という他者との連関によって得る「一人でいる私」そのものは他者に対する説明責任によって自由を確保し得ても、その私内部の衝動そのものは、私が生きている限りどうすることも出来ないということである。(外的関係としての「私」と内的関係としての(永井均的な)<私>)
 だから私は他者の衝動をどうすることも出来ないのは、決定に関してであり、動機に関してではないのに対して、私は私の衝動をどうすることも出来ないのは、動機に対してであり決定に対してではない。だから私は私に対する他者の衝動を回避したいのなら、端的にその他者に無関心を装っていればよいが、どんなに私が私に対して無関心でいたいと私が望んでも私にとって私の存在は無関心ではいられないのだ。私は他者に対して干渉しないという決定は容易であるが、同じことを私は私自身には適用出来ないのである。つまり私は眠たい時には眠たいのであり、考えたい時には考えたいのであり、死にたい時には死にたいのである。
 だから私は他者の衝動に対して介入出来るような意味では、決して客観的に私の衝動に対しては立ち向かえないのである。確かに私はあらゆる他者の他者による決定に参加することは出来ない。しかしその出来なさそれ自体において、寧ろ私は気楽に他者の動機に介入することが出来る。それこそ客観的にである。つまり他者による全ての決定に私はどうすることも出来ないのにもかかわらず、私が私の動機にも決定にも気楽に介入することが出来ないような意味で常に他者には気楽に介入出来るのである。だからどんなに親切であっても、他者の動機に対して介入することは私に対してよりも決定的に客観的なことでしかないのである。
 それは直ちに次のようなことを意味するだろう。つまり私はあらゆる他者の決定に対してどうすることも出来ないということは、要するに他者が他者によって得る衝動をどうすることも出来ないということを意味するが、少なくともそのことによって寧ろ他者の衝動に接することを回避したり、忌避したりすることくらいなら出来るという意味において他者は私には介入してこられないということを意味するのだ。それは私が私の衝動を特に他者に対してのものであるならどうにかすることが出来ても、私のその衝動に対して接することを回避することだけは決して出来ないということをも意味するのである。
 もしそれが可能であるとするなら、それは私が私の心から永遠に離れるということ、つまり死以外にはない。しかし私が死ぬということは、私が私と接することが出来なくなるということなので、私はそこから離れることすら出来ないということも意味するだろう(死によって私は私でなくなる)。 ここでこれまで考えてきたことを纏めておこう。

① 私は他者の衝動を変えることは出来ないが、変えるように介入することくらいなら出来る。つまり他者の動機に対してなら介入し得るが、決定には参加出来ない。

② しかし私は他者の衝動と接することを避けることも出来る。

③ 私は私の衝動を変えようとすることなら出来るが、その私の意志もまた、私のもう一つの衝動以外の何物でもない。

④ 私は私の衝動と接することを避けることなど出来はしない。

⑤ 私は他者に対する感情をどうすることも出来ないが、その感情自体を客観的に捉えることくらいなら出来る。だから時として他者の感情に干渉しようとするのだ。

⑥ しかし私は私に対する感情をどうすることも出来ない上、その感情を客観的に捉えることも出来ない。

⑦ しかし⑥を補足するのなら、私は過去の私に対してならある程度それが出来るように思える。しかしそれも所詮完全な客観視ではない。

⑧ つまり私は他者の衝動や感情に対してなら介入することは出来るが、決定することは決して出来ないのに対して、私は私自身の衝動や感情に対しては、決定するだけであり、決して介入するのではないのだ。私は私自身の衝動と感情それ自体でしかあり得ないのである。

 デカルトは衝動というレヴェルから私を考えることはなかった。彼にとって情念として衝動を認めることがあったとしても、それは私の意識とか自我を支えるものとしてではないだろう。カントも衝動について触れているが、衝動が理性や判断を支えるものであるとは思ってもみなかっただろう。
 中島義道氏は判断の構造を問うことが哲学であると確信し、山口一郎氏のように判断の根拠を問うことを判断の構造が私たちに与えている根拠への所在を巡る追求という眩惑的行為をただ私たちに与えているので無意味であると考えているようだが、これはロボット工学者出身の脳科学者前野隆司氏が脳は私たちに意識という幻想を与えていると捉えることに近い考え方である。何故なら脳が判断の構造を担っていると考えているからである。だからこそ中島氏は脳構造の根拠を哲学的に問うことを不毛と考えているのである。
 このこととも関係があるかも知れないが、中島氏は「今」とは恣意的であると考えているが、今だけではなく「暫く(の間)」も同様であろう。それらは恣意的な判断に供せられるのであり、単に副詞であるのではなく様相論的カテゴリーに属するからである。
 しかし脳科学者である茂木健一郎氏は「欲望する脳」において述べているが、「コンフーバーとディーッケが報告した「準備電位」は「指を曲げる」といった随伴運動が意識的に開始される一秒前に脳は既にその準備となる無意識の活動を始めていることを明らかにした」のだ。すると我々は山口一郎氏の考える判断の根拠への問いとはfМRIで確認する自然科学の脳機能と構造への分析とも図らずとも一致しているが、それを現象論的に捉えればその捉え方は我々が既に科学的認識として持つ客観的自己像と対峙させることになるが、哲学者は機能(それもまた一つの他者であるところの)論としてではなく、現象論としての分析に徹するべきであるという中島氏のスタンスは脳科学との分業を明確にするという意味においては有効であると言ってよいだろう。何故なら科学とは機能という対象化された分析を内的関係においてなすわけではないからである。我々は心を現象する。心は機能しているのではない。意志も機能しているのではない。我々は意志を持つように現象している。しかし脳はそれを先取りしているとは言えるだろう。そしてその先取りしている脳を現象するものこそ我々のその時々の心なのである。そして科学的に言えば心は脳が作り出した幻想であろう。しかし脳が心を幻想として作り出すという認識を科学的事実として信頼するということもまた心によってであり、しかも科学への信頼そのものが脳によって育まれた心による決意なのである。
 そもそも言語を通して私の意志を他者へと伝えるということの内に存する他者と、私がその存在を確認するだけの内にある他者とでは、その性格を全く異にする。そのことについて暫く考えてみよう。
 私は何かを他者に伝える時、それがパントマイムであれ、手旗信号であれ、手話であれ、発話であれ、私にとって他者は私の意志を理解してくれる存在者として、私によって承認されている。
 しかし、その存在を容認しながら、一切の意志伝達を発動させない他者とは、それが自分の近くにいればいるほど、通りすがりではないものの、相互に意思疎通の意志のない意思疎通意図を承認し合わない敬遠関係にあると考えてもよいだろう。しかしそれにもかかわらず、恐らく私はその他者が場合によっては私と意思疎通し合える可能性だけが所有していると捉えるなら、その者はただの他人ではないだろう。しかし特に都会ではそのように全ての他人を他者として意識することをしていたら身が持たない。
 それはある意味では摩擦を回避する最良の意図によってそうなのかも知れないが、あるいはより日本語的美徳として受け取れば中島義道氏の忌み嫌う遠慮によってである。しかしこのような関係にある他者は畏怖の感情が募り、やがてその存在感は逆に頂点に達する。つまり意思疎通し合う(可能性のある)他者というものは、畏怖の感情が後退していると言えるからである。しかし他者に対する畏怖の念はある意味ではそれを払拭する意味合いにおいてこそ存在理由がある場合もある。意志伝達の意欲と衝動を掻き立てさせるために必要なものとは端的に畏怖と羞恥であろう。
 意志伝達意図を相互に承認し合う他者間の関係とは、信頼を駆動させるために相互の存在をまず承認し、暗黙の内にまだ発話していない内から他者存在そのものを容認しているということである。それは事実関係としては原初的な他者への好奇心と私という意識の衝動の発生基盤である。
 つまり信頼の伏線には敬遠と遠慮が先験的にあるからこそ、それに追従することを中島氏は主張するのである。ミシェル・アンリは次のように「受肉」で述べている。(387~389ページより)
 
 (前略)もし欲望が、他人の生それ自体において、他人の生がそれ自身の根源的肉のうちで自己自身に到達するところにおいて、他人の生に到達したいという欲望だとしたら、この欲望はその目的に到達しないのである。
 それは性的行為についての或る現象学が、同じ仕方で示してくれるであろうところのものである。恋人たちの夜において、性的行為は、それぞれが自己の見えない物的身体の抵抗する連続体につまずくことになる二つの欲動的運動を、対化(acoupler)する。自己の見えない物的身体は、このように、二つの欲動の各々にとって、各々に服従し・次いで各々に自らを対置し・各々を圧し返す、この動く限界なのである。交換においては、二つの欲動が反響し合い、各々が自らを展開し、かわるがわるに譲る。しかしながら現象学的状況は、次のようなもののままあり続ける。つまり、各々の欲動がその能動的諸様態と受動的諸様態との交替のなかで認識するのは、けっしてそれ自身でしかなく、自分自身の運動でしか、また、その自己の見えない有機的身体の限界において感じ取られた諸感覚でしかない。他の欲動、他の欲動が体験するものは、前者が体験するものの彼方にとどまる。各々の欲動にとって、それ自身における他の欲動に到達できないというこの無力は、オルガスムの絶頂感におけるその解明にいたるまで、欲望の緊張を激化させ、したがって各々の欲動は、他の欲動が体験するがままの他の欲動のオルガスムを体験することができないままに、自らのオルガスムを有している。もし性的行為におけるエロス的欲動がかくのごときものであるなら、そこにあるのは、やはり失敗なのである。
 そしてこの失敗は、各人にとってそれがそれであるところのものにおいて、捉えられなければならない。この失敗は、一種の内在の断絶に由来するのではない。恋人たちの接吻をまえにして、この優しい行為の評価がリルケから、次のような幻滅の叫びを引き出すときのように。「ああ、いかにそのとき奇怪にも、すするものの存在はすするその行為から離脱してゆくことか」。愛の対化のうちに介入するのは、ひとつの「離脱」、ひとつの放心なのではない。もちろんそれは、そこに生じうるのだが。他人の快楽が自己自身に到達するところにおいて他人の快楽に到達することに欲望が失敗するのは、欲動の内在においてであり、各人にとって他人が両者を永遠に分かつひとつの壁の向こう側に位置するのは、恋人たちの夜においてである。その証拠を与えてくれるのが、行為の完遂のあいだ、恋人たちがかけ合う合図である。問題とされるのが、言葉なのであれ、ため息なのであれ、様々な表明なのであれ。したがって求められている一致とは、或るひとつの超越論的<自己>ともうひとつの超越論的<自己>との実在的同一化や、唯一の流れに融合する二つの印象的な流れの覆い合いではなくて、たんにせいぜいのところ、両者の区分を超克することのできない二つの無力な痙攣の、クロノロジカルな一致にすぎないのである。

 このように相互に自己と他者の間の理解し難さを語るということの内において、私が他者と接する時の「あるべき姿」(それを私は羞恥の克服と考えているがそのことは次節で論を展開したい)を希求するという私たちの一つの傾向を捨て置けないものとしてアンリは捉えていたということをこの記述は示す。
 ある種の理解し得なさ、し難さとは、そのことに対する自覚だけが私という衝動を、他者に対して「語る」ことを通して、私の孤立とその克服を試みんと欲する私たちが私たち自身に対して他者と衝動という人間的責務を際立たせることともなるのである。そうなのである。他者も衝動も人間的責務という感情なのであり、それ自体が根源的な衝動なのである。勿論それは原因なのではない。根幹に存在する存在者に固有の「生きている感じ」なのである。
 他者、それは私による私の意志の発動(脳が私に命令していると脳科学では考えている)と、それを他者に容認させようと欲し、他者もまたそのようなものとして容認することを通して孤立(それは他者が私に作らせるのだが)を克服する私と他者相互の協定という一つの衝動なのである。それは根源的な固有の「生きている感じ」以外のものではない。

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