Tuesday, October 2, 2012

時間・空間・偶然・必然_意識という名のミーム<科学で切る哲学、哲学で切る科学> 16、意味の領域

 私たちが他者と会話する時、その伝達的意味内容を相互に理解し合うために、まず必要なこととして存在するものは、語彙そのものの意味、語彙と語彙の連関作用、つまり文章とか、会話志向性といったものの意味内容といったものである。そこでこの節では意味のあり方とは一体どうなっているのかということについて考えてみたい。
 意味とは概念的な規定性として私的なあり方とは関係なく公的なものとして存在する。しかしその公的な存在の仕方というのは、ある言語を使用する共同体、民族、国家といったものの総意である。そしてその総意とは時代毎に微妙に変化してゆくが、その変化に対応していけるような形で社会に参加している全ての成員たちが理解出来るような形でのみその変化はなされていく。それは言語学者で記号学者でもあったソシュールのラングが示していたことでも了解出来る。
 しかし重要なこととは公的な語彙、語彙同士の連関の意味作用そのものは、例えば総意が明確な事項に関してはより明確な総意を成員間相互に理解し合えるが、公的規定として総意が成立し難い領域というものもある。例えばそれは社会制度とか、法規制的事項ではなく、もっと抽象的なことである。愛とか生き甲斐とか、幸福とか、価値といったものは、憲法とか、規約といったものよりもより解釈が自由であることを積極的に求められるし、それだけではなく、その都度論争される可能性も大きい。また心の中のこと、意志とか、欲求とか、あるいはより抽象的な自我ということになると、一層我々は一律的な公的規定として意味を定義することが難しくなる。そこでここでは公的な規定ということにおいて、語彙の示す意味が揺らぐことそれ自体について少し検証してみよう。
 ある語彙については時代の変化にかかわらず、誰もが「こうである筈だ。」という考えが一定しているものはある。私的感情によって行動される殺人はモラル上、哲学的思惟を一旦除外して考えると、よくないことだ、という了解はほぼ時代とは無縁に一致している。また愛情や友情といったものが人間関係において大切であるということもまた一定しているだろう。しかしそれらは丁度、大気の中に含有される窒素の濃度とか、重力とか重力加速度とかいったものと異なるのは、そのことの意味を考えることは重要であると誰もが知りつつも、その意味の規定の仕方はそう容易に総意を得ることが困難であるということである。そして概して哲学用語とか精神分析用語というものは、そういった総意規定が困難ではあるが、同時に問うこと自体には意味があるとされるものの中に位置していると言ってもよいだろう。
 学問的領域としてほぼ人類全てが総意として示しあえるような概念に関して我々は意味の領域がほぼどの民族においても一定しているということが言えるのなら、我々はその語彙の意味の総意は揺らぎが少ないと言えるだろう。しかしその語彙そのものが極めて日常生活上も、言語を通して考える上でも重要であるということがはっきりしている場合でも、その概念規定ということとなるとそう容易ではないものの中に愛情といったものがあるのなら、それは存在規定的には明確であるが、意味規定的には総意を得ることに揺らぎがあると考えてもよいだろう。
 しかし翻って考えてみれば、ある語彙に関しては、少なくとも相互に意志伝達する場合に、意味規定がしやすいものとは概して物理的な事物、現象を示す語彙であり、その概念の存在そのものは重要であることは自明であっても、その規定に手間取るものとは、より心の領域に属する抽象的概念の語彙であると言えるだろう。それは少なくとも一般的な意味の了解という観点から、その語彙を使用する成員間の総意というレヴェルにおいてはそうである。
 例えば哲学者間で、超越とか、ア・プリオリとか、最も頻繁に使用される語彙に関しては、より総意は明確であるが、その語彙をどのようなケースで使用するかということになると、ある意味ではかなり成員間に揺らぎが生じる可能性が大きい。しかも責任とか、権利とか、自由というような社会概念に関して、あるいは自我とか意志といったより心の内部での様相を示す語彙に関してその意味規定に関してさえより揺らぎが生じるということは言えるだろう。要するに意味の領域は一方でその語彙を使用するケースにおける揺らぎにおいて、他方その語彙の意味規定そのものにおける揺らぎにおいて、つまり前者は意味領域そのものが日常的な会話や対話そのものの中でどのような位置において使用されるかということにおいて、そして後者は使用する際に話者が意図しているのは、どのような意味規定であるかという語彙そのものの持つ意味の領域において(例えばある者はある語彙をより限定されたものとして使用するが、別のある者はその語彙をより使用範囲を拡張して使用するといった)考えられるだろうということである。
 そして結論的に言えば、使用者相互の総意が確定的なものほどある語彙においては、意味領域設定の適用範囲は狭まり、限定されてくるが、逆にそうではないものほど拡張されるということは言える。そして拡張範囲の広い語彙ほど意味領域設定規準と意味領域そのものの揺らぎが大きいと言える。
 しかし対話とか、創造的な会話というレヴェルでは極めて語彙の意味の揺らぎそのものを発掘することが求められる。つまり語彙の意味領域設定の意表を突くようなタイプの仕方こそ、その発話者、発言者による創意工夫とか創造的才知を他者に示す機会だからである。ある意味では語彙とか文章とか、発話内容の意味といったものは、そのように一律に確定的ではないということは、そのように対話や会話の際にその都度固有の発話行為のあり方という事実によって少しずつ変更され得るのだし、またそのようにその都度の揺らぎがあるということは、完全に意味規定されている語彙などというものがこの世には一個として存在しないということの証拠でもあるのである。
 もっと明確に言えば、語彙の意味の応用、適用範囲の未決定性こそがその都度の対話や創造的会話を意味あるものにするし、我々がそのように発話行為へと臨むモティベーションそのものの存在理由でもあるのである。
 そして概してある語彙そのものの意味領域の設定方法とか、意味領域の設定をどのような内容の話題でするかということは、その語彙を巡る発話者の個人的な経験とか、人生観とか要するに私的な体験的事実、個人的な感情にも左右されるということである。何故ならある語彙を通常とは違った形での意表を突く話題に際して使用するという創造的なあり方とは、その語彙を巡る意味内容とか意味作用そのものに対する意表を突く連想であるから、当然そういった創造的(そうであるということは他者に対して意表を突くのにもかかわらず、的外れではないということだから、要するに説得力があるということである。)な語彙使用の仕方という意味領域設定と意味領域拡張とは、個人的私的、体験的な意味了解の世界に起因する表現となるから、そういう語彙の使用の仕方をして発話行為参加者に説得力を持った場合、個人的なこと、私的なことの公共的価値転化に対する可能性の確認というその試みの成功であると言うことが出来るだろう。