Friday, November 6, 2009

〔他者と衝動〕結論 自己と他者③

 しかし自己‐他者関係における大前提である言語空間とはどのような形で顕現し、現出しているのだろうか?それを今度は痛みの問題、そしてそれを関連し得る問題として嘘と誠実性の問題から考えてみることにしよう。
 先に私が述べた正義をその都度見測る基準だけは常に持っているということは、その規準を通して常に正義を設定するという私たちの在り方を示したのだ。そして正義と理念というのは極めて似ている。まさにヴェーバーもフィンクもそう感じていただろう。そして正義ということが最も有効に作用する場とはとりも直さず他者存在であり、他者存在を相互に共有し合う言語空間である。私たちは立食パーティーに参加しても少しばかりのワインに頭がくらくらするというご夫人を介抱したり、足の不自由な老人が横断歩道を一人とぼとぼ歩く姿を見て手を差し伸べたりすることもあるかも知れない。そしてそうするのは、端的にその他者が無数の潜在的意志伝達同意者として自分と同じような感覚を保持し、苦悩する存在であるという承認をしているからなのだ。しかし他者の痛みは自分の痛みとは別種のものとして我々にとって立ち現われる。つまり自分の痛みであるなら我々は誰しもそれが直接であるから身体のどの部位であるかを一々目で見て確認しなくても即座に知ることが出来る。尤もその痛い場所をよく見ると皮膚が浮腫んでいたり、出血していたりすることを発見するということはあり得るだろうが。
 しかし他者の痛みは激痛をする表情だけからは即座には理解出来ないことも多い。勿論腹を抱え込めばそれが腹痛であると思うし、頭を抱え込めば頭痛であると理解することくらいなら出来よう。しかし私たちは自分で腹が痛いと知ることが出来ても、それが即座に胃であるか肝臓であるか知ることの出来ない場合も多い。医師に診て貰わなければ正確な病状を知ることの出来ないケースも多々ある。しかしまさにそう考える時我々は他者の痛みを自分の痛みに置き換える、少なくとも思考の上ではそうの筈である。
 私は<正義とはその都度求められる設定規準である>と言った。それはつまりその都度正しいこととは何かと人間は問い続ける運命にあるということを物語っている。例えばある者が処刑された歴史というものを今になって振り返る時、私たちは現在社会ならこれくらいのことで処刑されることなどないのにと思う。しかしそう思えるということはその時処刑されたという歴史的事実があったからかも知れないのだ。例えばその時から現代まで寛容な判定がそのような者たちに対して一般的に下されてきていて、その種の犯罪者たちがいよいよ調子に乗り数段上の犯罪へと高じて来たような状況があった場合、例えば現今のように凶悪犯罪者に対する死刑がより速やかに施行されることをも含めて少年犯罪であっても寛大な判決を下すべきではないという社会通念と風潮のようにその時処刑された犯罪者と同様の犯罪を現代において犯した者に対して加えられるかも知れない。つまり今述べたことは最初に述べた「これくらいのことで処刑されたのか」という私たち現代人の疑問と逆のケースであるが、このことから理解出来ることとは、要するに過去における判例とか刑罰史における反省と再評価ということにおいて、相対的に現代の正義とは常に決定されてきているのであり、現代において下される正義とされる決定事項とは現代に生き、現代(これを書いている時点とは2008年6月18日であるが)の社会状況を知る者のみが理解出来ることなのだ、とだけは言える。このことをA・J・エアはその時に下された判断はその時なりに正しいということを「言語・真理・論理」において述べている。
 そうなると不運な犯罪者と幸運な犯罪者というものが出現してくることにはなる。つまり有体に言えば、刑罰の対象となるようなタイプの成員を基軸に物事を考えてはいけないという倫理が厳然とあるということである。私は率直に言えば決して犯罪者の味方ではない。しかし犯罪は恐らく未来永劫なくならないだろう。そしてその都度人間はその時代に固有の正義を見いだそうとしていくだろう。
 他者の痛みの問題を考える時、実はこの点が最も重要である。ある人が訴える痛みに対して周囲の人も、医師も全て「それくらいの痛みなら通常は耐えるものですよ。」と痛みを訴える者に告げるかも知れない。事実そういうことというのは多く今までも見受けられた。その中の幾つかは今まで発症例の極めて少ない奇病であったりする。そして健康であると宣言された多くの患者たちが突然死をしてきた。要するにどのような成員を平均的であると見做すかが医学における正義の設定規準であるとするなら、私たちは極めて曖昧な設定規準で例えば犯罪に対する処罰をその都度決定してきたということとなり、それは痛みの問題でも全く相同であるということである。どういう痛みが耐えられないものであり、どういう痛みなら通常耐えられるものであるかということは、実は厳密に言えば、一人一人人間の身体の細かい性質が違う以上極めてその時代毎の医学的な正義という曖昧な状況論によって決定されていることになるのである。
 それは生理学的な判定基準以外にも心理学的判定基準とか、社会学的判定基準とか、哲学的判定基準というものもあり得るかも知れないということから、結局他者の痛みはその他者になってみなければ理解出来ないということと、それが物理的にも精神的にも不可能であるのなら、私の痛みに対する他者の側からの判定とか判断とは恣意的なものでしかあり得ないということが結論として導かれる。だからそのことから逆に考えれば理念とか正義とかはその都度設定され直されるにもかかわらず、相も変わらず我々はそこにしがみつきたくなる幻想かも知れないということである。これはパットナムの批判する相対論批判(彼は相対論が唯一絶対正しいとして相対的判定を常に下すこととなると相対論それ自体も相対的であることになり矛盾することを挙げながら論証している。)とも共存可能な論理である。
 要するに正義という規準を設けようとする私たちの欲求とは一体何かについて問わなくてはならない。それは各学者たちが唱える理念ということにも当然該当する問いである。そこで私に思い浮かぶこととは、人間は常に嘘をつく動物であるということである。嘘と誠実性ということについて考察しないで、この正義とか理念ということを考えることは出来ない。そして恐らく痛みの問題というものの判定基準を私たちが設けてしまうということに対する何故にも答えられない。
 しかし意外とこの規準を設けなくてはならないことの理由は単純なところにある気も私にはする。と言うのも、まず痛みというものがその痛みを感じる時の人間の心理状態に左右されるからではないかと私は考えているのだ。つまり気分に痛みが左右されるからこそ、一般的に耐えられ得る痛みという基準を医師たちは設ける必要があると考えているのではないかということである。
 例えば音楽が聴きたい時の心理状況とは、意外と音楽を聴くことによって気分的にも感情的にもインスパイアされたいという欲求があることが了解される。例えば何かに熱中していてその作業とか思考に没頭したい時には通常我々は音楽を聴きたくないことの方が多い。しかしいざ何かに取り掛かってみて、意外と気分が乗らなかったり、あるいは難題のぶち当たり一旦休憩を取り、困難に打ちのめされた心を鎮めたいと思ったりした時とか、何かをし終えた達成感に浸っている時などに音楽を聴きたいと願うことからも、音楽とはその時々の感情を調整する役割があることが分かる。勿論それは基本的には予め持っているCDを聴く時には、どういうタイプの音楽を聴くか自ら主体的に選択する場合に限られるとそう思われるかも知れない。しかしテレビのスイッチを捻って音楽ヴァラエティー番組をやっているのを了解してそれを見ようと思う時だって我々はその音楽が聴きたくないのならチャンネルを変えればいいことなのである。
 それに私たちの感情は喜怒哀楽と語彙で示すような四種類だけに拠っているのではない。嬉しいという感情の質も性格も内容も、その感情の発端となった出来事次第でもだが多様であり、無限にあると言ってよい。もっと明確に言えば人間の感情というものは、生涯一瞬たりとも同一の状態にはないと言ってよい。昨日あった嬉しさと今日感じている嬉しさは似たようなものに思えてもやはり違う。従って同じような痛さを感じたとしても、その時にあったこと、その痛みを感じた時の脳裏に去来する想起過去の内容も性質も全く違う以上、あるいはつい寸前にあった出来事とか心理状態もその時々の想起内容や同じ記憶内容に対する存在感の比重なども違う以上全く異なって感じられる筈だ。例えば一つの痛みとは他の部分はいたって健康な状態の時と、何か他の箇所も病んでいる時とではまるっきり異なって感じるものである。だからこそ医師たちは身体ホメオスタシス的な観点から耐えられ得る痛みとかそうではないだろうということをある程度規準を設けているのだろう。
 それは精神的なことが私たちの場合痛みを倍増させてはいるが、逆に本当は激痛であっても、痛みを恒常化させている病人や、死期の近いことを悟った終末期患者たちは、それでも尚精神的認知を人間的に持っていることに感謝の念を抱き、耐えることを可能にしている(ナースや医師に必要以上の苦情を最早告げることを断念しながら)という現実もあることを物語っている。つまり人間は身体生理学的なことと、自らの認識によって死に対する恐怖とか諦めとか生そのものへの感謝といったことを区別することが出来るのだ。だから面白いことに大便をしたいのに、どこのトイレも入っていて、洩れそうになる時どんなに辛くてもそのことを苦に自殺したいという気になる者はまずいない。
 だから身体的生理と精神的価値との区別を理解することが出来るために、却って身体的な痛みの忍耐度というものに関して健康で将来ある者ほど大袈裟に覚知する(堪え情がない)傾向があるのだろう。きっとまたそうでなければホメオスタシス上でも、生命維持の観点からも困るのだろう。それは生物学者たちが返答すべき命題である。だからこそその大袈裟な訴えに対して「大したことはないですよ、これくらいなら。」と医師は正直に患者に告げるのである。あるいは終末期の患者に対しても医師は未だ快復可能であるようなニュアンスを仄めかすのだろう。しかし本当は本人が一番よく知っている場合の方が多いだろう。
 それもこれも私たちが精神というものの要である意志とか意識というものを携えているという認識があることに由来する。意志をどう捉えるかとか、意識をどう捉えるかということはそれだけで一冊の本を必要とするくらいの命題なのだが、脳が全てを決定すると言っても、その決定に呪縛されていると人間がどうやら思いたくはないらしい。だからこそ意志、自由意志という言葉、あるいは無意識をも含めた意識(私たちは通常ノンレム睡眠時には意識はないとし、それ以外の夢を見ている時は半意識<私などは寝ても気になるような問題を抱えている時には見ている夢を、これは夢であると半分認識している時すらある>、そして覚醒時を意識があるとしている。)を、死した状態、あるいは生命ではない状態である非意識と峻別しているのだ。しかし死んだ後の意識の在り方を知る者がいない以上私たちはこれを生者の論理であるとしか判断しようがない。
 人間は自由や自由意志や自由意志論の奴隷であると私は言った。そのことに関しては脳科学での人間の脳は強制されるとやる気を失うようになっているという様々な研究結果からも理解出来るかも知れない。茂木健一郎氏もそのことを積極的に啓蒙している。自ら主体的に関心のあることに邁進している時人間の脳にはドーパミンが放出しているらしい。しかも達成感とは他者から自己に対して差し向けられる報酬であれば一番だろうが、自分で自分の目標を立てて、それが達成した時には、自分で自分に褒美を与えるということが一番であると氏は仕事や勉強の能率を上げるために推奨している。
 だからそれは恐らくネガティヴなことに関しても当て嵌まるのだろうと私は思う。悩みとは悲観的になればなるほど深まるのだし、また逆に悩むことそのものを楽しむということも可能であるし、そもそも哲学者たちとはそういうことの得意な人びとである。そして感情が嬉しさ一つとっても、未来に光が差し込んできた気分の嬉しさと、想起される過去における達成感による嬉しさとでは質が違うだろう。従って楽しい気分の時憂鬱なブルースとか悲しいメロディーの曲が聴きたいと感じる時もあれば、益々陽気な音楽を聴きたいと願う時もあるし、それは憂鬱であったり、塞ぎこんだりしている時でも同様である。要するにこれこれこういう感情の時にはこれこれこういう音楽を聴きたいものだという法則的な真実などない。ただあるのはその時々の最近の傾向というのだけである。それは人生が刻々と身体状態も、心理状態の傾向を変化させつつあるのだから当然であろう。また音楽などの場合好きな音楽の傾向も年齢と共に勿論それはその人間の性格的な傾向と相俟ってのことなのだが、刻々と変化しつつある。勿論昔好きだった傾向に先祖還りすることもあるし、二度と昔の傾向には戻らない場合もあるだろう。
 痛みとは他人のものになると想像するしか手がないし、今現在何らかの痛みを感じていない者は、何故かかつて同じ痛みを感じたことがある場合でも、観念的な痛みというものしか脳裏には浮かばないらしいということは中島義道氏の「「私」の秘密」で詳述されている。しかしある意味で感情的な気分は何故か痛みの感覚よりも、より切実に他者の告白に対して観念的である以上の共感を私たちは示すことが出来るのではないだろうか?「ああ、そういう気持って理解出来る。」と。つまり健康な者が病んでいる者に示す同情よりはずっと自分も似たような感情を持ったということに対する理解は強いと私は思う。それは幸福な者が不幸な者を敬遠する気持とも関係があるだろう。尤も恐らく今現在辛い気持でいる者に対して今現在幸福な気持でいる者が敬遠したいということはあるだろう。だから私が言う同一感情に対する共感とは、過去を想起して「あの時ああいう気持だったよ。」と告白する時の他者に対する共感のことである。だからそれは恐らく痛みに関しても今通風で痛むのではなく、かつてそうであったと回想する者に同じように痛みを克服した者同士が告白し合うことでも言えるだろう。しかし恐らくそういう病的身体的苦痛以上に感情の方がより他者に気持を理解しやすいということは言えるのではないか?
 その最も分かりやすい例とは感動したドラマとか映画とか、小説とか、要するにフィクションに対する鑑賞後の対話での相互の共感である。話者両方が感動した場合のことである。
 例えば「ロミオとジュリエット」という戯曲ではロミオとジュリエットが対立する一族同士の恋愛なので、二人を結びつけようと協力する神父の計らいでジュリエットは睡眠薬(偽の毒薬)を飲んで死んだ振りをしていたが、それを見たロミオは本当に彼女は死んだものと思い彼女の亡骸であると彼が思い込んだ隣で自害する。そして目覚めたジュリエットは自分の傍らにある彼の亡骸を見て後追い自殺をするという悲劇である。
 しかし本当に愛し合っている夫婦とか恋人というものもあるだろうが、現実として、若い女性がこれと同じ状況になっても、彼の死に悲しむことは当然だろうが、それだからと言って後追い自殺までするケースの方が圧倒的に少ないだろう。その時には悲しみつつも、次第に平凡な日常生活に没入してゆき、再婚したり、新たな恋人を見つけたりするのである。つまり私たちがドラマやドラマで描かれているストーリーの展開や、現実離れした人間の思い切った行動や突飛な言動、あるいは悲壮な決意に感動するのは、私たちの人生が一重にそれほどまでには劇的ではない、率直に言えばもっとずっと平凡で面白みの欠ける出来事の連続であるからなのだ。つまり私たちは異常な状況に対して興奮し感動する性質があるのである。それをカタルシスと呼ぶこともあるが、それは私たちの持っている想像力という能力に起因するのだ。
 だから逆に真に偉大な仕事とか事業とか発明とか発見を成し遂げた人というのは、意外と大きな博打に勝ったようなところもあるわけだから、逆にネガティヴな側の人びと、つまり凶悪な殺人犯のような人びとが人を殺したことによって得た達成感に近いものすらあるのかも知れない。特に偉大な思想家とか政治家が齎した社会的影響力を考えるとこの考えもまんざら的外れではないという気が私にはするのである。何故なら彼らはいいことと同じくらい悪いことをも社会に齎してきているのだから。
 だから「ロミオとジュリエット」を読んだり、劇や映画を見たりして感動して涙に咽ぶのは、ある意味ではそういう悲壮な決心というものに対して憧れがあり、しかし現実的にはそう簡単にそういう行動へと踏み込めない日頃のディレンマを解消してくれる代理感情によるものだとするなら、それは犯罪者になりきれないという勇気のなさ(通常犯罪をしないでいるということは法を犯し刑罰を受けたくはないという願望からである。)を払拭した犯罪者に密かにエールを送るような心理状態の時すら我々にはあるという意味では、それと近い心理なのではないだろうか?
 凶悪な犯罪者には思い切った政策を実行して革命的偉業を成し遂げた政治家に共通するような敵対する者たち(犯罪者の場合には被害者家族とか警察とか法律関係者)を退けてでも遂行した時のスリルと達成感、開放感、エクスタシーといった心理を味わい、達成した後にはそういうことをした者にしか理解出来ない爽快感があるのかも知れない。(だから凶悪な殺人犯ほど改悛の情さえ示さないで潔く処刑されることを望む。)そしてそういう異様な経験を一切することのない通常の市民である私たちは密かに思い切った行動や挙に出た者にエールを送る。勿論犯罪者に対しての共感など絶対公言はしないだろうが。それは裏を返せば私たちの中に一定の異常な行動とか、他人の迷惑を顧みないようなことを仕出かすことを憧れ、それを達成した者にある種の羨ましさを感じ、共感するところさえあるということである。
 平凡な結婚生活をしている者などは却って略奪婚をした同性の女性を応援したりするし、男性もまた長年連れ添った女房と離婚してまで人妻と駆け落ちした同性を羨むようなところがある。いや世間そのものでも不倫関係にある人間同士の方を正式な配偶者以上に応援するようなところさえある。それは不倫関係にある者同士があまりにもお似合いのカップルであったなら、正式な相互の配偶者(本来ならそちらの方により同情すべきであるのに、そんなことはスター同士の不倫に比べれば大衆にとってはどうでもよいのだ。)よりも贔屓にする危険な美意識があるのである。(人気スター同士の不倫などに対しては特にそうである。)これなどは完全にモラルよりも見てくれから贔屓にする美意識である。そもそもスターに憧れるというのは、そのスターの持っている生活者としての誠実さとか真面目さに対してではない。仮にあるスターが誠実な性格であっても、それは偶然そうであるだけでそのスターを大衆が好むファクターというのはあくまでそのスターの持つ魅力からなのであり、その魅力とは概してアンチ・モラルな部分があり、要するに適度の不良っぽさとか危険なところさえあるのだ。
 これら一切の美意識はアンチ・ヒーロー意識と言ってもいいし、アンチ・モラル意識と言ってもよい。
 私たちの社会は全ての成員が心底ではアンチ・ヒーロー志向の憧れを密かに持っているのに、さも取り澄まして皆「いい子」を演じる。それは日本でもアメリカでも韓国でも中国でも、それ以外のどこの国でも同じである。国や共同体によって「いい子」の判定基準が違うだけのことである。
 「いい子」の振りをすることそのものを黙認し合う、と言うことは真意を告げずに取り澄ますということへの同意(形式的であり真意からではなく)している。しかしその同意に対する懐疑の感情を示すことこそが羞恥の払拭を意味し、そのことによって親しさが増してくることもあれば、逆に更に敬遠されることもある。後者のようなことはより規制が強かったり独裁であったりする国家とかコミュニティーに見られる現象かも知れない。
 アンチ・ヒーロー意識とか志向はある意味ではそれを容易に他者に告白し得ない密かな愉悦であり、スターに対する憧れだけではなく、例えば殆ど一流とは言えないもっと日常的で庶民的なタイプのグラビア・アイドルやモデルとかお笑いタレントに対する贔屓感情において現われる。ちょっと皆の前でそのタレントは好きであるということを公言することが憚られるような対象に対する時により情熱を持って支持する。だから恐る恐る隣に座る他者に自分が贔屓のタレントの名を告げると「実は私も大好きなんです。」と告白されるとよりその者との親密さは深まる。そのタレントがマイナーな存在であればあるほどその結束は固くなる。誰でも知っているということは結束を緩めるのである。
 では何故本当はそのように親しくなると告白したくなったり、親しくなりたいから敢えて羞恥を払拭してまで自ら率先して告白しようとする気持にさせたりするような真意を隠蔽する空気が共同体にあるのだろうか?本当は結構悪い子なのに率先して「いい子」でいることを他者に印象づけることを強いる空気があるのだろうか?
 それは恐らく本当に大切なことを大っぴらに公言するということにおいて失われていく神秘性を相互にプライヴァシーとして守ってあげようという配慮かも知れない。この社会ゲームに固有の私秘性確保という相互の策定はどこの国にもあるだろう。それはそもそも第一印象とか外見と、その人の性格とかいざとなったらどのような行動を採るのかというような実像というものがかけ離れているということも多いということを皆が暗黙の内に認め合っているということも原因であろう。
 つまり他者の心は確かに読めるものではない。薄々そうではないかと感じていても、そういう直観というものは必ず当たるというものではない。まさにその通りのこともあれば、思い過ごしのことも多いものである。もし第一印象とか外見的に感じられる雰囲気だけで全てを判断したとしたら、社会は極めて秩序を失っていくだろう。何故なら全ての成員はそれぞれ固有の他者に対する第一印象の持ち方があるからである。これは極めて社会学的な判断である。だから例えば悪辣な老人が気分の悪い振りをすることだってあり得るが、社会は一応気分が悪そうな老人が込み合った地下鉄の中で立っていたら、席を譲るということをするべきだというモラルはある。しかもいかにも仮病であるということをある者が気分が悪くて早退したいという申し出をして「お前仮病なんだろう?」と信じないでいて、その者が普段は嘘をついたり、冗談ばかり言っていったりして堅実であるというイメージと程遠いものだからその申し出を却下したとして、その者が倒れて死んだとしたら社会問題となるということもあるので、私たちの社会では一応その者の申し出を信じようとするだろう。あるいは本当は悪辣なさぼりを目的として気分が悪いので早退したいと申し出てすんなりと信じて貰える場合でも、その者が日常的に堅実な出勤態度と仕事内容であるのなら、その者の悪辣さとは本当はより罪深いということになる。事実そういうな社員による横領のような犯罪事実も多く存在してきた。
 つまりそのように日常的な振る舞いによるデータ集積的な判断で差別するということに起因する過ちとは、堅実な申し出を却下してしまうということと、悪辣な申し出を信頼してしまうということに尽きる。このことはやはり他者哲学というものを、特に信頼するとは何かとか、親しくなるとは何かというレヴェルから考察する必要性を我々に問いかけている。
 他者の痛み、他者の気分、他者の行動に纏わる衝動といった全てはその哲学の骨組み的な位置を獲得するのに十分である。それらは他者の成長過程とか、環境とか、遺伝的傾向とかが全て組み合わさったその者の感性の違いとして顕在している。それは室内の空調や温度に対する感性から、休日の過ごし方の常識から、他者に対する接し方そのものに対する認識に至るまで全く異なったものとして顕在している。恐らく今まで述べてきたヒーロー志向に関しても、アンチ・ヒーロー志向に関しても全く個別の基準によって全ての他者に対する印象から行動まで決しているということを意味する。ある者はある成員に対して堅実であるということを感じる箇所に対して尊敬するかと思えば別の成員は軽蔑するし、またその堅実であると認識するその者の示す態度や、行動に対する着眼まで著しく異なっている場合すらある。それは哲学者が百人いたら、ある一人の哲学史に燦然と残る哲学者に対する見識から、解釈の仕方から、歴史的位置付けに至るまで全く異なるという意味でも、そのことは明瞭であろう。
 だから共感し得る悪党とか、犯罪者に対する判定基準が各自異なるということがまず社会の暗黙の了解としていきなり贔屓の政治家の名前を公言し合うことを避けるとか、要するにそういう社会ルールを遵守する「いい子」振ることを私たちに暗黙に強制する第一の要因である。
 要するにそのことを告白し合わなければそれまで通りすんなり意気投合し得たのに、そのことについて相互に触れたばっかりにその者と以後ずっと気まずい雰囲気に包まれるということはよくあることである。それはある意味では夫婦とか親友同士であればあるほど出てくる「質問し合わないに限ること」である。また不思議と我々はそういう触れずに済ませる領域を他者毎に勝手に設定して、相互に配慮して避けあっている。しかしふとした時あることを恐る恐る告白したら、向こうも自分と同じように相手を慮って質問せずにきたということを了解し合うと、益々その者と親しくなれるということはある。しかしそれが予想外に全く相互に受け容れられないことであるなら決裂することも大いにあり得る。通常そのことを恐れて、一定以上追求しないでおくという選択肢が最も好まれるし、だからこそ皆「いい子」振るのである。
 私たちは自分の痛みしか本質的には知ることが出来ないし、そのようなものとして自分の生きる時代しか理解出来はしないのだ。しかも他者(私より年配者も、若い人もいる。)に対しても、自分の立場からしか理解することしか出来ない。
 だからあるマイナーな事柄に対してマイナーなタレントに対する贔屓のように、同じ癖があることを知ったりすると、途端に親しみが湧くのだ。それはあまり高級なものでなければないほど理解の度が増す。それは要するに結束意識であり、同一弱点に対する認識の共有である。共犯意識にすら近いその種の共通性は、嫌いな人間の傾向すら一致しているとより結束感が深まる。
 
 私たちの社会は、仕事の能力とか信頼とかから果ては休日の過ごし方まで、あるいは家庭の在り方まで職業倫理的に評定基準とされる。隠せるものなどこれっぽっちもないのだ。その査定的な暗黙の集団内の約定とか強制(雰囲気的な意味での)が耐えられなくて全く勝手の違った世界に鞍替えしたとしよう。しかしそこで待ち構えているのは恐らく前の世界と似たような取り決めであり、その世界固有の良識という名の臭みである。干渉し合うということを避けて干渉し合わないということをルールとして世界に入って行ったとしよう。しかしそこでも恐らく干渉し合わないという雰囲気が成員全員を干渉し、半ば強制するのである。
 その干渉ということの本質とは一体何なのだろうか?それは恐らく個というものの在り方を巡る不文律である。個とは私を自己化することと、他者を私化することによって他者間に横たわる「いい子」の壁を緩衝地帯として認識し、その行き来を自由にすることへの向けられた自己‐他者の協同作業に位置づけられている、運命づけられていると言ってもよい。それはそもそも私たちが感情を行動の指針としてきたからである。言語空間を形成することは、相互の感情に対する配慮以外の何物でもない。
 感情とは身体的情動に対する意味づけ作用のことであり、自己にその感情の内容を位置づけること、つまり決定である。決定されたものは他の一切の判断を受けつけない。
 私たちが肉親の死を知らされて、その肉親の死を悲しむのは、その肉親ともう二度と会えないということを瞬時に悟るからであり、ある意味ではこれからその肉親の不在を私が生きることを覚悟し、その際に恐らく私に齎されるであろう寂しさに今から耐えられるようにするために未然に泣いたりすることによって一旦肉親を失ったことで得た痛手を紛らわすためなのである。全くそれがない形で永遠のその肉親の不在の日々を生活することは、その肉親が健在だった頃の状況との落差の大きさから耐えられなくなるのだ。不在の肉親に対してなされる表象は常に過去事実に対する想起でしかない。だから実在的なレヴェルではいかに親しい肉親であっても尚生きている者と接するようなリアルさは徐々に失せていく。つまり過去想起というものの在り方における現在を中心とならざるを得ないリアルさの消滅ということ=その肉親の死という事実に慣れていくことそのものに対する予感が私たちがその肉親の死を知らされた時に(臨終の席に立ち会っていて、かかりつけの医師から臨終を言い渡されても同様である。)その肉親に対する憐憫によって我々は悲しいという気分になるのだ。
 私たちがこのように死に関してまで干渉し得るのは肉親だけであるということが、逆に他者に対して他者にもそのような肉親があるからこそ、これ以上我々が彼らに干渉するのは止そうという約定を自然なものにするのである。先述したように、社会とはこれっぽっちも隠せるものなどない。税金、遺産、保険料全ては隠せないものである。だから逆に個人的感情にまで立ち入ることを控えようという約定が「いい子」でいさせてあげようというルールと化すのだ。肉親の死が私たちに齎すのは、死んだ肉親が他者に対して示していた自己の消滅という厳然たる事実がやがてこの私にも到来するであろうという予感を生じさせることと、肉親が再び私にとって無数の潜在的意志伝達同意者としての他者一般という形で墓地に葬られることの不可避的他者の死一般への吸収である。肉親もまたどの他者とも同じように死んだに過ぎないということを思い知らされるのである。
 感情レヴェルのマイナーさに対する共感ということはある意味では唯一隠すことなど何もないという社会の非礼に対して抵抗出来る私秘的な行動である。それはある部分では社会的責務からのシェルターを意味する。しかしこのことは羞恥の超越という意味を持つが、それを考える前に未だ捉えておかなくてはならないことがある。嘘に関して我々は「いい子」振ることにおいてある程度その実像が見えてきた。しかし誠実ということについては未だ触れていない。
 私たちはレヴィナス的な意味でも他者の死を生きる。またサルトル的な意味での他者の不在を生きる。そして他者の死は他者が別の世界へ行くことであるから、死者を語ることとは、端的に生きた他者を語ることと同じような衝動では決してあり得ない。私は亡き父の墓前に花を彼岸、盆、晦日から正月、命日に供える。その時すれ違う他者たちは、当然彼らに固有の亡き親族たちの霊を慰めるために来ている。私とその時にすれ違う他者とは私自身が他者一般、つまり無数の意志伝達同意者としての他者一般に吸収されることであり、同時に例えば私にとっての亡き父の存在もまた、無数の霊というもっと抽象的な郡へと吸収されていることをその時気づく。しかしそのようにすれ違う他者も気づく筈だ、と少なくとも私は思う。サルトル的対自を失った即自としての無数の霊とは一体何か?
 それは私たち生者たちの対自に寄り添う固有の想起誘引者である。私たちは親しい他者の永遠の不在としての持続をも生き、そのような運命を携えた無数の他者と生きる。
 信頼する他者は羞恥を超越している。その羞恥の超越を可能にするものが誠実ということかも知れない。疑うことを他者に適用することはある意味ではその他者に対する私への信頼の拒否である。この信頼の拒否とはある意味では別の他者に対する信頼の宣言をその他者にしていることでもある。それは生者に対するある意味では無数の霊化である。他者の無視は他者の眼差しに対する羞恥の無視である。他者存在がかように無視すべき対象となるということは、羞恥を超越することに意味がないことになる。
 不誠実はホッブスでは不正義であり、忘恩として法的秩序の無視として語られているが、その不誠実としての他者への対応こそこのある他者への羞恥の無視である。ある他者に羞恥の眼差しを向けることとはその他者に対する礼儀であり礼節なのである。だからこそ無数の霊とは生者に対して生者の行状を見守るという意識を我々に生じさせ、我々に生者としての機会を与えてくれると考えることを促すから、生者に対して無視を決め込むこととは態度的にも心理的にもその生者が生きていていても死んでいても同じことを意味する。しかし絶好した者同士はある部分では会うことがなくても相互の存在を尊重している。羞恥の尊重の最たるものである。しかし他者への無視は共有する言語空間において相手の存在が死者一般と同様にいてもいなくてもいいのだから、ある意味では霊化と私が言ったような意味で痛烈である。しかしそれは恐らくそう他者への無視を決め込む者においてより、つまり相手から無視されることを決め込まれた者以上に他者存在は別の意味では大きく立ちはだかっているということだ。
 ある他者が私を無視するとする。私はその他者が私に対する無視を解除することに対して抵抗はないし、そういう心積もりでずっと彼の傍らにいてもよい。しかし彼は寧ろ私にそう決め込むことで、私の存在をより重大なものとして、つまり拒否すべき、無視すべき存在として巣食わせることとなるのである。その事実に対する覚醒を私は彼に示したい。しかし彼は聞く耳を持たないだろう。つまりそのことに関して誠実であることそのものを彼は最も拒否しているのだから。ある生者が自分の身近にいて、その者に対して私がずっと無視し、霊化することに吝かでなかったなら、その者が本当に死者となり、無数の霊の一部になった時私は恐らくその者に対して生前霊化してきたことに対する後悔が生涯付き纏うだろう。生者に対する霊化は自らの誠実性に対する霊化に他ならないのだ。
 するとマイナーなことに対する共感の共有という事実による親交とは、ある部分で羞恥の晒し合いなので、必然的にこの生者に対する無視を決め込む霊化=自己に対する霊化の払拭でもある。絶好して接近することのない他者に対する礼節な無視ではない。それは羞恥の尊重であるが、無数の死者の如く身近にいる他者を取り扱うということには、自らをも無数の死者の一部にしてしまうことなのだ。
 ここに一つの図式が再び成立したことを認めよう。

① 羞恥の超越→マイナーなことに対する共感の共有を通した親交、
→死者の霊に対する尊重
② 羞恥の尊重→かつては親交を持ったが今は距離を置いて相互にその存在を認める
→死者の霊に対する尊重への配慮
③ 羞恥の無視→身近にいるのに無視を決め込みその者を<無数の死者と同列に扱い>霊化する→自己に対する霊化ともなり、死者に対する尊重に対する怠惰となる(黙殺)

 通常我々は死者に対して生者と同等の扱いをしない。だから無視を決め込む相手に対しそのように扱うということは、ある部分では死者に対する冒涜でもある。その観点からそれをなすべきではないということと、もう一つは死者が生者を見守っているということを我々が忘れるということに対する冒涜となる。だから逆に身近にいる者に対する無視を決してしないということは、たとえ死者に対しては特定の時期にのみ鎮魂の儀礼をするにしても、生者を生きて殺さずにいるわけだから、必然的に死者の加護に対しては報いていることとなるわけである。
 ここで私が言う感謝とは原始神道的な自然への感謝ともどこかで通底しているかも知れないが、それを民族文化的なコードとして理解しているわけではない。もっと集団依拠的な原音楽的に言っているのではなく、原羞恥的に、と言うことは別に私が日本人としてではなく無国籍的に、と言うより非文化的にそう感じるということである。そういった感じ取る衝動の上に私は更に原音楽的に私の属する文化を選び取る。文化を選び取るのもまたその原羞恥なのである。
 我々は生まれた時、家族、知人を中心として親しい、近しい人びとに取り囲まれて他者を意識せずにはいられない環境に置かれた時既に羞恥を払拭したり尊重したりすることを運命づけられ、その選択の衝動に突き動かされる。そして文化とは主体的に例えば私は日本人であるという民族運命的環境に同化しようと主体的に選択することを強いられる。
 例えば人間はサルトル的に言えば自殺することも選択肢としてある。それは自由である。それはカミュも言っている。しかしそれでも、つまり自殺して自らの生を終わりにすることも出来るのに、敢えてそれをせずに生きることを選択するという未来に対する決意の前で私たちは初めて意志(哲学的意志)ということを自覚する。すると死者はそう決意する私たちを見守ってくれているのではないかという想念が浮上してくるのだ。それは死者に魂があってもなくても、生きている私が死んだ無数の霊によって息吹きそのものが成立させられているという感慨を私は抱かずには生きていけないからである。それは私もまたいつか生を終えて無数の霊とか魂の一部になるかも知れないという憶測をもっと無効化するものでもある。それは生きている内は私には関係ないことなのだ。
 死者の霊に対する尊重とは、死者に同化したいという欲求を死者に示すことではない。寧ろ生者として他者との共存を感謝することを自然の一部としてでも自然と切り離されてでも責務的な感情で認識することでしかない。死者への感謝の念とはあなた方が他者ではなくなってくれたお陰で私はこうして他者存在を衝動として受け容れることが出来るのです、と死者に宣言することなのである。それは表面的には死者存在というものに対する無視であると同時に時として鎮魂をする意志に対する同意なのである。
 マスコミは悲惨なニュースをその都度、犯罪であれ、自然災害であれ報道する。しかしマスコミとは新聞であれテレビであれそれを報じつつ、それを読む読者やそれを視る視聴者たちに対して、常に「自分が犠牲者ではなくてよかった。」という感情を持って貰うためにのみ報道するのである。マスコミ自体だけが視聴者たちが全員紙面や画面のこちら側にいることを熟知している。マスコミとは出来事であれ、事件であれ、自然災害であれ、常にそれによって崩壊した現実、死んでいく者たちを生きている者たちの間に媒介させることが使命なのである。だからよいニュースであっても、それは悪い知らせに取り囲まれているからこそ意味を持つのであり、マスコミとは常に犠牲者を探しているのである。そしてそれを報じられる大衆全員が「犠牲者が自分でなくてよかった。」と感じて貰うことが彼らの職務の前提であり、且つ要求でもあるのである。その要求を拒否することは本来我々の自由である筈である。だがいつの間にかそれが自由ではないと感じさせられているのである。要するに知りたいという衝動を煽り立てられているのである。その煽られることに関する快感のスイッチを捻っているのも実は私たちなのだ。マスコミの煽動に右往左往することはある意味ではアンチ・ヒーロー意識も誘発するのである。何故ならマスコミとは端的に報道される事態の全てがそのニュースソースとして切り取られる段階で既に正義を偽装しているからである。それはヒーロー意識によって成立している。しかし先にも述べたが、ヒーロー意識とは悪辣な魅力に満たされていて、それでいて「いい子」振るという自己欺瞞以外の何物でもないのだ。潜在的に悪を志向することを誘引されながら、正義の名の下で溜飲を下げる野次馬活性剤こそがマスコミである。このことは「幾何学の起源」で既にフッサールが予感していたことでもある。
サルトルが自己欺瞞を考えたのは、ある意味ではカントに対するモラル論的な返答だったのかも知れない。つまりカントは善とか善意志という形で意志によって善をなすことを道徳法則として捉えたので、その意志を意志しつつ意志から常に乖離していく状況を見据える必要を彼は感じ取ったのかも知れない。対自とは達成されないということとサルトルにとっては同義だからである。カントも実は達成せざる現実ということはきちんと踏まえていた筈である。しかしカント固有のシニシズムにおいて私たちの多くは形式という語に代表されるようなカントのモラルに対してある種の恐れをなしたのだ。しかしその恐れがいつの間にか固有の信仰になっていったということにフッサールを初め、ハイデッガーたちは彼らなりに敏感に感じ取っていたのだろう。しかし彼らの時代から既に一世紀近く経ってしまった。
 私たちはデカルトからフッサールへと至るまでに取りこぼされた形での何らかの共進化関係について真剣に考え始めている。例えば誠実はサルトルによっても再び取り上げられたし、嘘ということもまたサルトルの自己欺瞞に始まって、オースティンも捉えることに成功した。例えば次の記述を見てみよう。
(「他人の心」152~153ページより)
 
「私は知っている」という記述的な言い回しであると想定することは、哲学の世界においてきわめて一般的になっている記述主義の誤謬(the descriptive fallacy)の一例にすぎません。たとえ仮に今日において純粋に記述的な言語が存在するとしても、言語というのは元来においてはそうではなかったのですし、多くはなおそうでないのです。明白な儀式的な言い回しを適切な状況において発話するとき、われわれは自分の行なっている行為を記述しているのではなく、その行為をしているのです(「そういたします(I do)」)また別の場合にはそれは、口調や表情や、あるいはまた句読法や叙法と同様にして、われわれが言語をある特殊な仕方で使っていることを示す働きをします(「警告する(I warn)」、「お尋ねします(I ask)」、「私は定義する(I define)」)。このような言い回しは、厳密には嘘になることができません。ただし「私は約束する」が、私が完全に意図を固めているということ(これは真ではないことがありえます)を含意するように、嘘を「合意する」ことはありえます。

 繰り返すことになるが、私たちは皆自分のことしか理解出来ないし、私たちの時代しか理解出来ない。すると恐らく有効な嘘、見破られない嘘という方便も、時代毎に変わり、絶対に遅刻が許されないような状況で遅刻してしまった時に報告する有効な言い訳とは、ある意味では今という時代に固有の仕方である筈だし、また有効な嘘の見抜き方もまた今という時代に固有の仕方においてするべきである。そして許され得る範囲の嘘と、許し難い嘘というものの境界も今という時代に固有の規範として存在し、それは刻々変化し続けているのだ。
 つまりオースティンの主張する嘘を合意することとは、ホッブス的な信約ということにおける信頼する者と信頼される者の関係構築のためにあるのであり、端的に信頼に応じるということはその内容如何ではそう容易いことではないので褒賞とか称賛に値することなのだし、だからこそ困難な信約をそう簡単になすべきではないという倫理も生まれるのだ。だからと言って実現可能な範囲内でのみ信約をなすことは発展には繋がらないという意識もホッブスは持っていた。だからオースティンの言う嘘を合意することがあり得るとは自らの能力の可能性を信じてはったりめいた言辞をすることのある人間の許され得る範囲内での嘘ということも含意しているものと思われる。 
 嘘の見抜き方の中でも仮病に関する見抜き方というのはまた格別難しい。本当に病弱な人の使う仮病も真実味があるし、どんなに頑丈な人でも病気になることはあるからである。そこで再び痛みということに対する報告における大袈裟と忍耐ということの規準とは何かという問題にぶつかる。言語行為とは純粋に記述行為ではないということがこの問題を通して最も如実に示され得る。つまり言語行為とは嘘を発生させる場であるということからも感情の遣り取りであり、理想形としては信頼し合うためのものであるということが導き出される。
 衝動とは一つの決意なのである。嘘をつくことも衝動である。それは欲望という語彙に置き換えてもよい。そして決意とは偶然でも必然でもない。ある部分では偶然的であり、ある部分では性格的な必然でもある。つまりどちらでもありどちらでもないのだ。
 それは能動的でも受動的でもない代わりにどちらでもあり得るということだ。嘘は理性がつかせるということも言えるが、理性そのものが一つの衝動であり、特殊な衝動の変形なのである。衝動を悪と捉えてもよい。勿論ここで言う悪とは恒常的身体生命活動維持のための存在事実であるということである。
 すると良心とは端的に悪の海のほんの些細な灯火の孤島ということになる。いや漂う流氷と言った方がよいかも知れない。(勿論それは極めて貴重であるからこそ我々は重宝してきたのだが)良心は悪の一個の変形(ヴァリエーション)なのである。理性とはそうであるのに何らかの行動の一評定として位置づけられるものでもある。つまり経済学という学問そのものが欲望学でもあるような意味で、理性を欲望の変形として見れば良心が悪=欲望の変形として考えることは極自然なことである。それはアダムの原罪意識としてだけではない。そもそもアダムと聖書の成り立ちそのものが人間の欲望に起因するのだし、当然そういう理性的言説という名の衝動なのである。このことは既にミシェル・アンリは克明にそのことを述べていた。(「受肉」)
 日本人は嘘も方便であると捉えがちであるが、西欧社会では嘘は告解の内容の主役となるようなものである。日本文化がある部分では欲望と衝動そのものに対する直視に対するタブーによって明治期以降の全ての言説を唱えてきたきらいがある。例えばそれに比べれば日本はキリスト教社会ではないので、完全に進化論に対する受容は功を奏した。つまり端的に宗教的な謀反であるという意識を日本人は欧米人のような形でダーウィンの進化論に対して抱かずに済んだというわけだ。だから理性論が欧米型の倫理に対する憧憬ということで成立していたのだ。しかしここに来て私たちは再び明治期以降の日本人のアイデンティティーに対する再考というものをする必要に迫られている。そのためにも私たちは進化論を受容したような意味でより衝動と欲望のシステムを見据える必要がありはしないだろうか?
 その一つは嘘を理性論の範疇でではなく、欲望論、衝動論の範疇で語るのである。羞恥を介在するものとしてもし捉えるのなら、理性が一個の衝動の変形であると我々は知るだろう。嘘は自己欺瞞と形式的自己保身によるものであると知るなら、寧ろ嘘つきのパラドックスとか嘘つきの心理を潜在的な欲求レヴェルから、つまり衝動論として、しかも他者衝動、他者欲望論として捉える道が開けてくるだろう。
 最近大きな猟奇的な通り魔殺人事件があった。その後マスコミは犯人が犯行に至る前に店でナイフを買ったところを何度も放映した。しかしその時彼は未だ犯人ではなかった。要するに犯行を実行するために購入したナイフだったかも知れないが、その時点では踏み止まることも出来た筈だ。しかし彼は実行した。そうなるとあたかも彼がナイフを買っていたことを原因のように報道してしまう。しかしそれは決して原因ではない。ただの思いつきであり、その後彼は突如発作的にそれを実行に移してしまっただけだ。そして犯行後歩行者天国を封鎖した。しかしそのようなことをしても、またメールの過激な文章を取り締まっても、恐らくメールもしない奴が今度はもっと酷い犯行に至るかも知れないし、歩行者天国がない状態でも幾らでも犯行することは可能だ。
 他者とは哲学的にはただの他人とは違う。例えば私は本論で他者を私そのものの衝動として取り扱った。そしてそれは正しいと思っている。そして自己を他者との関係において私を公的に認識することとして捉えた。
 私が電車に乗ると大勢の他人に取り囲まれている。そして彼らは一般的に他人である。しかしその中の誰でもいいが、特定の他人に視線を注ぎ、その存在を意識した時共有空間内でその者は私にとって他者となり、その者が私の視線に気づき、私の存在を意識しだすと、途端に私はその者に対して自己となり、私と彼の間で他者間の関係が生じる。私は無数の意志伝達同意者とそういう言語空間共有可能者のことを呼んだ。私にとって掛け替えのない家族、友人も他者であれば、たとえ通り縋りでも一言でも言葉を交せばその者もまた他者となり、彼(女)にとって私は他者となり、その者に対して私は自己意識を持つ。
 三年に一回くらい街角で会う昔の知り合いに対して私はよく会うなと感じてそう言ったことがある。しかし彼は「よくなんて会わねえよ。」と返した。しかし三年に一回くらい偶然会う人間に対してよく会うと感じることもあれば、毎日会う顔でもよく会うとは思わない場合もある。
 嘘は他者を必要とする。例えばオースティンは説話上での他者に対する宣言という形で嘘の可能性を示したが、サルトルが「存在と無」の自己欺瞞で示した対自的な「反射」、「反射するもの」の関係とか、そういう内的関係における運動は明らかに嘘というよりは、切実に真実を求める人間の実存においては誠実であり、努力であり、苦悩であるので、それは突発的な嘘ではない。しかし嘘そのものもまた他者に対する羞恥が突発的に生じさせたものと捉えることも出来る。私が三年に一回くらい会う昔の知り合いによく会うと感じたことは事実関係としては矛盾するかも知れないが、私の内面において嘘では決してないだろう。だが本当は若い人間と一緒に飲みに行って四千円をその店で使った後でその時のことを若い者と回想する時「まあ、四千円くらいなら高くないよね。」と言うとしたら、それは咄嗟に出た嘘であるが、それとて羞恥が催しているわけだから強ち非難されるべきものでもない。
 タブーを設けることでとりわけ欲望レヴェルの考察に蓋をするのは、日本人の得意とするところである。日本人が嘘も方便と捉えることもまた咄嗟の衝動であると言える。しかしそのように蓋をする心理は実は羞恥であるとすると、今度は羞恥自体に対して考察することを憚り蓋をしてしまう。これが理性論的因果論の範疇に留まってしまうことの理由である。因果考察は犯行前のヴィデオ映像を何度も放映したり、歩行者天国を封鎖したりする意識に繋がる。しかしそれは事後的な付け焼刃的な方策でしかないだろう。
 嘘を他人につくこと、他者に嘘をつくこともそうだし、痛みを必要以上に他者に告げて、少しでも楽な状態に自分を持ってゆくことが誰でもあるように(全ての権利主張にはそういうところがある。)、例えば国民が政府や各省庁の措置に怒り心頭に発することも含めて、ある程度国民の側も忍耐が必要であるのに、政府や与党政治家たちのセンスのなさが全てを悪い方向へ持っていっているという認識を抱くこともまた痛みを必要以上に叫ぶことを選ばせることに近いだろう。ホッブス流に言えばそれらの措置も個人の側に全てに対して寛容にはなりきれない意志があるのだから、当然甘えに近いと思われる行為もよく見られるが、その時でも羞恥という心的作用を粒さに見れば、何故あのように声高に叫ばねばならないかとか何故正直に本当のことを言えないのかということもそれなりに理解出来るのではないだろうか?つまりそのように私たちを持っていくこととは、羞恥を大きく介在させた常に我々の中にある衝動なのである。そしてそのような衝動を持たざるを得ないのも、私たちにとって自分を私として意識させ他者と接する時それを自己に転化するものこそ他者の存在であり、その他者存在こそが全ての衝動の起源であるということを知れば、然程何故なのかと思い悩むこともないだろう。
 他者、それは全ての衝動の起源である。(了)
 
 稲垣諭「衝動の現象学」(知泉書房刊)
 ミシェル・アンリ「受肉<肉>の哲学」中敬夫訳(法政大学出版局刊)
 リチャード・ドーキンス「利己的遺伝子」日高敏隆/岸由二/羽田節子/垂水雄二訳(紀伊国屋書店刊)
 ウィリヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル「法の哲学Ⅰ」藤野渉/赤沢正敏訳(中公クラシックス)
 マルチン・ハイデッガー「存在と時間」原祐/渡邊二郎訳(中公クラシックス)
 永井均「<私>のメタフィジックス」(勁草書房刊)
 エトムント・フッサール「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」細谷恒夫/木田元訳(中央公論新社刊)
 トマス・ホッブス「リヴァイアサン」水田洋訳(岩波文庫)
 ジョン・ラングショー・オースティン「オースティン哲学論文集」(J・О・アームソン編)坂本百大訳(勁草書房刊)、「言語と行為」坂本百大訳(大修館書店刊)
 オイゲン・フィンク「存在と人間」座小田豊/信太光郎/池田準訳(法政大学出版局刊)
 コンディヤック「人間認識起源論・下」古茂田宏訳(岩波文庫)
 土居健夫「「甘え」の構造」(弘文堂刊)
 マイケル・ポランニー「暗黙知の次元」高橋勇夫訳(ちくま学芸文庫)
 J・Z・ヤング「脳と哲学」河内十郎/東條正城訳(紀伊国屋書店刊)
 マックス・ヴェーバー「社会科学と社会政策にかかわる認識の客観性」富永祐治/立野保男訳、折原浩補訳(岩波文庫)
 A・J・エア「真理・言語・論理」吉田夏彦訳(岩波書店刊)
 ヒラリー・パットナム「理性・真理・歴史内在的実在論の展開」野本和幸/中川大/三上勝生/金子洋之訳(法政大学出版局刊)
中島義道「観念的生活」(文藝春秋社刊)、「「私」の秘密」(岩波書店刊)、「偏食的生き方のすすめ」(新潮文庫)その他の著作
 ジャン・ポール・サルトル「存在と無」松浪信三郎訳(人文書院刊)
 アルベール・カミュ「シジフォスの神話」
 エマニュエル・レヴィナス「存在の彼方へ」合田正人訳(講談社学術文庫)
 インマニュエル・カント「実践理性批判」篠田英雄(岩波文庫)

 付記 「他者と衝動」はこれで終わりですが、この後本ブログでは「羞恥論 依怙地と素直<衝動論第二幕>」を掲載更新致します。数日休暇を頂きます。(河口ミカル)

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