Wednesday, December 9, 2009

〔羞恥論‐素直と依怙地<衝動論第二幕>〕第二章 第四節及び全部の 結論

 解剖学者の養老孟司氏は若者に対して「本当の自分探しなどするな」と言い放っている。それはある意味では極めて正当な意見である。しかし同時に山竹伸二氏はそれだけでは納得出来ないとして「「本当の自分」の現象学」という本を書いている。
 あるいは茂木健一郎氏は「意識とは何か」において一人の女性がある時は母親として、ある時は妻として、ある時は娘として振舞う、つまり息子や娘の前、夫の前、両親の前、と私たちはそれぞれ使い分けている、そのことについて触れている。学生時代の友人と会えばどんな偉い人でも昔に戻るだろう。しかしこれは極めて自然に執り行われる日常的な心理的な転換である。
 ヒールとして名高かったプロレスラーのフレッド・ブラッシーは一度だけ見たくないとして一度もリング上の彼を観戦して来なかった母親が一度だけ自分の息子の職業上の姿を見ようとして観戦し終わった後、あまりの日頃に自分に対して示される態度や物腰とのギャップに「本当はどちらのあなたが本当なの?」と聞かれ、「どちらも本当ではない」と答えたそうである。つまりそれはある意味では哲学的に正しくある意味では正しくはない。
 つまりある殺人犯がその事件を起こしたことそれ自体に関しては極悪な人であっても、それ以外の場面では極めて善良な市民であるとしたら、それは決して嘘ではないだろう。つまりある人にとって極めて非礼な人が、別のある人に対しては極めて礼節な人であるということにおいて、どちらが嘘でどちらが本当であるとは言えないのと同じである。
 つまりそのどちらも本当であり、同時にそのどちらも嘘であるとしか言いようがない。
 日本人は明らかに対峙と共有ということで言えば共有意識が濃厚であり、欧米人は対峙的であるように見える。しかし恐らくそれは民族文化そのものが対外部的にアイデンティファイされた固有の物語の像であるとも言えはしまいか?そのように言うと前節の日本人の隠蔽されたことの方を真実であると信じる日本人固有の羞恥さえ嘘ということになるという反論が聞こえてきそうだが、実はそうではない。
 日本人は確かに物事には裏があるという考えそのものに対して自然ではないと感じる感性がある。しかし隠蔽されているからこそそこに何か特別なものがあるように思えるのだということに対しては比較的明白に理解もしている。その点では明らかに欧米人、あるいはもっとイスラム教徒の方が凄絶にタブーを抱いている。しかし一番重要なのは、ある別の人に対して悪人である<ある人>が自分にとって善人であるのなら、それは嘘ではないだろうということである。勿論そこに民族の差などない。永井均氏は「倫理とは何か」で人間は皆二重スパイであると言っている。そしてそれは氏の意図においては正しいだろう。
 しかし本職の二重スパイでさえそれはどちらの側に対しても偽装しているということそのものにおいてどちらも真実の姿で対外部的に接しているのだ。つまり嘘つきということは、嘘つきであるという姿として本物であり、真実の姿を晒しているのである。だから必然的に対峙であることも共有であることも全て真実の姿であり、人間心理の偽らざる姿なのである。
 つまりいつでも私たちは統一された人格でいる、いなければいけないということそのものが既に歪曲化されたモラルなのである。自分より目上の人に対しては謙り、自分よりも目下の人に対しては大人の態度を示そうというのが人間の普通の姿である。あるいは他人というものは全てそれぞれ固有の考えや心理を抱いているので、その人その人に応じて異なった態度を使い分けるということもまた普通の姿である。ましてや職業的像と、家庭の像が異なるということもまた極めて自然なことである。
 そもそも精神分析という分野が登場した背景には西欧の倫理的な理性主義に対する抑圧された心理が欧米人にあったものと私は考えている。つまりフロイト以降転移という考え方が示されてきた背景には、同一性という名の下に心理的な抑圧、ピアプレッシャーが顕在化してきた現代人の心理に即応して臨床医や神経科医たちが、多重人格を含めて新たな人間に対する像を構築しようという必要性からであった思う。つまり対峙も共有も共に自然な人間心理であるということである。同一性に対する懐疑は何もポスト構造主義以前のこの頃、つまり精神分析が手法的に定着していた頃から実はあったのである。
 しかしそれまでの社会では同一性とか統合された人格という考え方の下で極めて矮小化された像を常に提示することを求められてきたのが人間の姿だったのかも知れない。つまり対外部的に示される像としての物語(それを私は「私」としている)に忠実であれという支配階級からの訓示は、一面では反社会的動きを封印するために有効に作用した、永井均的に捉えれば、モラルの発生の理由、原因、根拠に対する関心を封鎖すること、閉じ込めて人々の関心が向かわないようにすることという醜悪な人間的要望に対する隠蔽の意図が支配階級から発動されてきたというのは中世、近世に至っても極めて自然である。何故なら近代以前、いや戦前までは全ての社会が構築というベクトルだけを携えてきたからである。そこにある破壊は部分論的なものでしかなかった。しかし核兵器が全てを変えた。本当に人類が死滅することは人類の手によって可能となったからである。
 外部的な像としての抑圧論的な自己は、実はカントの格律においても既に示されていた。
 しかし抑圧論的な自己を自我レヴェルで最も体現しているのが日本人であると言える。今日でも日本人は精神科医にかかることをひた隠すことがある。これは対外部的メッセージである「私」に呪縛されているということだ。ただ人間は必要以上に病理的状態でもないのに、他者に依存し、苦悩を告白することによって寧ろ本当の病理状態へと陥らすということがあり、その意味で日本人は「人の言うことを一々気にしないで生きていった方がよい」と考える傾向があり、要するに楽天的な民族であるということだけは言えそうである。しかし本当に病理的精神の人もいるし、それを隠すということに日本人固有の羞恥が感じられるが、それは集団内の恥という観念に起因するのであり、例えば誰でも気にするだろうと考えるから、つまりそれが恥ずかしいから隠すということがある。しかし意外と他人というものは大して自分にとっての他人の人生まで深く考えないものなのだ。だから最近では大分オープンに自らの精神疾患について告白する人も多くなった、例えば欝病などはその典型例であろう。
 本論で触れたように他者大勢の中で自然と対峙する時と、親しい友人とそうする時とでは本質的に心理的に異なった状態に私たちはある。あるいは一人で嵐の夜を田舎の山小屋で過ごすのと、そうではなく都会のマンションの一室で過ごすのとでも異なってくるだろう。だがそういった対自然的な意味での対峙と共有ということと、社会構成的な意味で敵対する者と相対する時とか、友好的グループを構築することというのは、ある意味では極めて自然とは異質な部分があることも確かである。ピア・プレッシャーということは欧米、日本に限らず殆ど現代人に普遍的な命題である。
 しかし不思議なことに精神分析の世界では極めて多くの女性が昔から活躍してきた。メラニー・クライン、マリー・ボナパルト、アンナ・フロイト、アニー・ライヒといった人たちがすぐ浮かぶ名前である。しかし哲学者は本論の序で示した中島氏の叙述のように少ないというのは何故だろうか?
 一つには精神分析が哲学よりも歴史が浅いということも言える。
 そしてもう一つは哲学が空間認識的な視座を観念的に必要とするメタ認知学であるということである。この種の能力は男性の方が優れているという報告がある。例えば一つの岩を見て、それがその外部の状況、時間的な推移でどのような意味を持つのかという連想は恐らく女性よりも男性の方が先天的に得意とするところではないだろうか?つまり認識的洞察力ということである。しかしこれも今まではそうだったということでしかないのかも知れない。
 哲学界とは究めて地方芸術家のコミュニティーのように閉鎖的なのである。学会毎に閉鎖的な集団内羞恥を採用しており、他集団と交流しようとしないのだ。要するにモンロー主義なのである。
 また日本人の楽観主義は逆にプレッシャーになっているのだ。つまり楽観主義的協調性のない人を仲間外れにしていく傾向が無意識に発動されるからだ。これが端的にいじめの精神構造なのだが、そのことに当事者は気づいていないということにある始末の悪さがある。
 そればかりではない。日本人は各省庁にしろ、民間企業にしろ、閉鎖集団的な様相の集団内羞恥が徹底管理されている。第一自分の社を弊社と呼び、社長の名を社員が呼び捨てにする習慣そのものがそれを表している。日本では自分の身内を他人の前では敬語では呼ばないが、韓国では自分の身内であれ、他人であれ年配者に対して全て敬語で統一されている。
 要するに日本人の場合「そんなこと気にする方がおかしいよ」という言説それ自体が通念となっており、それが処世訓となっているのだ。この奇妙な楽観主義は端的に羞恥に対する隠蔽である。しかし精神科医にかかることを隠さないアメリカ人は日本人に固有の楽観主義はない。深刻であることが許されているのである。
 つまり哲学界そのものが日本社会に似ているところがある。それは下町や田舎の閉鎖的であり、顔馴染みとそうではない者とを一瞥で峻別するようなタイプの人間関係に近いと思えばよいかも知れないが、恐らくそれは哲学界だけではない。そして日本に固有であると私が仮にそう語った羞恥は別の民族にも濃厚にあるのかも知れない。そのことに対する発見は未だ私のサイドにはないのだが、日本人に固有であるとたまたま私の目にそのように映じた羞恥は、端的に自然を前にして一人で耐える式ではなく、まさにビートたけしの言っていた「赤信号皆で渡れば怖くない」式の極端な共有そのものなのだ。要するに大勢による自然の共有という意識に近いのだ。しかしある人物に対して差し向けられる態度とそれとは別の人に対して差し向けられるそれが異なるのが当たり前のように、私たちは概して皆で赤信号を渡るのが好きであるにしても、全く一人でそうしたい時もあるし、その点では例えばアメリカ人はアメリカ人で、皆で赤信号を渡るのが日本人とは別の意味で好きだし、彼らとて、地方のコミュニティーは閉鎖的であろう。
 つまりこう考えるのが理に適っているだろう。内と外という区分けそのものに内在する認識転換が容易に出来ない時私たちは疎外されていると感じる。つまり皆が精神的疾患であることを恥だとそう思っているから精神的苦悩を抱いているということを他人には隠すのだ。しかしよく考えれば自分だけではなく皆そうかも知れないと思い、思いっきり告白したら、案外他人とは気にしないということもある。ある意味では現代人は全成員が病理的状態であるとも言えるからだ。勿論そこで偏見を持たれ全てご破算ということもあるにはあるだろう。しかし全てを告白することがよいとは限らないが、羞恥的に思われること全てを用意周到に隠蔽すること、これは端的に悪弊である。悪い習慣である。
 つまり誰でもそう感じるに違いないという思い込みが私たちに勇気ある行動を阻止することがあるのだ。例えば私は意図的に日本社会を閉鎖的であり、集団内羞恥が徹底していてまさに「あんたがたどこさ肥後さ、肥後どこさ、熊本さ、熊本どこさ、船場さ」で通していると言わんばかりの論調を敢えて前節では採用した。しかしそれは日本人に固有ではない面も多々ある。
 つまり誰でもそう思うだろうという思い込みそれ自体を誰しも持っていると考えればよいのだ。悪い習慣を根絶するという意味では今日でも未だ哲学的理性主義は有効である。あるいはよい感性を習慣化し、意図とすることにおいてもそれは有効なのである。分析哲学はある意味ではモラル論的な哲学の本論を本質的に復活させるために敢えて論理的なことに多くを費やしたとも言える。つまり学術的に言えば、今後の哲学や精神分析は益々融合していく可能性の方が大きい。つまり脳科学と哲学を結ぶ結節点として精神分析が作用していく可能性としてもである。
 例えば自我という言葉があるが、この自我も哲学、精神分析、心理学とそれぞれの分野でその捉え方に大幅な違いがある。しかし一番重要なこととは、自我も願望も希望も全て何らかの形で脳による複合的な作用であって、例えばfMRIによって測定したとしても脳のどこに自我があるという風には答えられない。例えば意欲は前頭葉において発動されるとか、言語的な活動は側頭葉によって発動されるとか、身体的記憶とか身体生理的直観は小脳で補われるとか色々考えられていても、では自我はどこで作用しているのかと言ったら、恐らく脳の全ての箇所が何らかの形で総動員してそういう作用が起こっているとしか言いようがないのではないか?尤も前頭前野がかなり重要な役割を果たしているらしいとは言われている。しかしやはり局在論的なことだけでは足りないと言えそうだ。
 それを言うなら恐らくこれから結論として考えていく羞恥はまさにその典型であるようにも思われる。それは確かに身体生理的なことでもあるが、同時に極めて社会制度的、文化規定的、そして何よりも極めて言語認識的でもあるからだ。
 人前で赤っ恥をかかされるという体験は誰でも一度は経験していることであるが、それもまた恥じをかかされる内容如何にも拠るし、またどのような人から別のどのような人に対してどういう言葉をどういう状況で聞かされたかということにも大きく関わる。だが総体的に言って、ある言葉をある人からただ聞かされるだけではあまり苦痛に感じないにしても、別の誰かの前で同じことを言われるとそれだけで非常に苦痛に感じるということはやはり羞恥の典型的な例ではないだろうか?それは一面は自我の自己防衛的な戦略によるものかも知れない。
 そもそも精神分析はそのような体験が何らかの形でトラウマとかルサンチマンとして沈殿しているその滓を取り除くという意識のクライアントと医師との共同作業という側面がある。つまり羞恥そのものの構造を解析してかかるものであるというわけだ。
 例えば私は日本人であり50歳であり、男性である。だからそれを基準にしてしか全てに対して認識することが出来ない。例えば私が考える年少の人々に対する考えはあくまで私もかつてはそういう年齢であったことがあるということから来る想像だし、老人に対する認識も今の自分の中に感じる老いの兆候を必死に見つけ出し想像しているに過ぎないし、女性に対する考えも、私がたまたま知るごく小数の女性から引き出した一般論でしかないし、アメリカ人に対する見識の全ても私が過ごしてきた僅かな時間の範囲内の僅かな情報量で知るアメリカとアメリカ人の言動から引き出されたものでしかない。しかも私自身の様々な条件に左右されている。つまり私自身の固有の眼差しによって歪曲化されている。
 しかしある意味ではそれは全ての人にとってもそうなのである。つまり全ての判断は自分の中の記憶と経験からしか引き出しようもないものである。つまり端的に言えば世界とはそのようなどこかで必ず歪曲化されたと言うより、その個人固有の特殊な体験に根差した認識が含有されている。しかしどの見方も全てに共通する性質もあるだろう。だからどの個人のどのような見方を採用していくかという決断がその都度極めて重要になってくる。
 ある地方の海岸沿いを車で走って見る時、その海岸の波模様を観察する時、その者が海にどのように関わるかということが極めて重要であり、海洋地形学者と気象予報士と、漁師とサーファーとでは自ずから一つの波に対する認識に違いが生じるのは当たり前であり、またそれらの中の幾つかが自分の求める海岸の波の状態に対する認識に沿うものとなるというような意味である事柄やある現象に対する判断はその判断された後で達成されるべき目的の違いに応じて異なっているということが当然なのである。
 だから当然羞恥という心理に関しても、私の考える羞恥にはそれ固有の色合いがあるだろう。そして精神分析が患者ごとに異なった対応が必要なのも当然だが、精神科医も十人十色であるということからも、同じクライアントに対して全く異なった対応の仕方があって当然である。
 その見方は一面は相対主義である。しかしある固有の目的を持って臨めばやはりどの精神科医においても、手法とかセッションの際の応対の仕方そのものに違いがあっても、同じような対クライアントの認識や理解の仕方がなされるということもまた当然であろう。
 私は私自身に固有の眼差しによる歪曲化されたものの見方しか出来ないということの後に「しかしある意味ではそれは全ての人にとってもそうなのである」と言った。しかしこの見方それ自体はかなりオプシミスティックな考えであり、それ自体はかなり自己欺瞞的な気休めである部分もある。だからある時には真剣に悩んだ方がいい。しかしあまりにも自分が他者と違い、どこにも結節点が見出せず、特別であるということが、例えばアートの才能における天才性を発揮し得るような可能性を見出せるものとしてではなくもっとペシミスティックな見方になっていくと病理的状態となり、精神分析の対象となってしまう。だから社会制度的な規範としての楽観主義がお仕着せ的になって、苦悩を抱くことそのものが極度に羞恥化してしまい人に相談出来なくなってしまうこともまずいのだが、同時にあまりにも常に深刻に自らの歪曲した見方にネガティヴな関心の集中の仕方となるとやはり危険ということは承知しておくべきだろう。
 つまり精神科医は人それぞれ固有のセッションの仕方や処方があるだろうが、やはり精神科医全員が共通して持つあるクライアントに対する認識や理解の仕方があるのだ、という楽観主義が脳の活動をより円滑に前頭葉の意欲を産出することに直結するだろう。つまり自分は他者とそう変わりない部分も十分にあるのだと捉えられるということがいい意味での神経症的症状を回避する方策であるということである。それは特に抑鬱状態の時はそうである。だから精神科医の和田秀樹氏は気分が落ち込んだ時には決して反省しないということを薦めている。(「人は<感情>から老化する」)
 しかし逆にかなり気分的にハイテンションの時には、他者との間に存在する自らのネガティヴな相違点に対して着目する必要はあるかも知れない。そしてその相違点を逆に欠如を補うに余りある長所として活かすことを考えるということはかなりいいことである。つまり欠点を長所として利用するということである。
 例えばサーファー出身の気象予報士はサーフィンの経験を活かした気象に対する見方を採用してもいいだろうとか、空手をしていたシェフが自らの武道経験を料理の世界で活かすということを参考にして、あるいは不器用なアーティストは、器用に描けない欠如を哲学的思惟を表現することを通して克服していくといったことである。だから羞恥的抵触をする他者の言動を前にした時怒りをあらわにするくらいなら、寧ろその者の生い立ちとか周囲との人間関係を分析して、要するに自己流の精神分析をして、その者の自らに対する言動の根拠をメタ認知するということが最も理に適った対処法である。怒りを飲み込むのではない、怒りを起こさないように、そのネガティヴな他者から羞恥的抵触を来たす言動を浴びせかけるという体験そのものを貴重な恩寵として利用するのである。それは哲学的な廃物利用とも言える。中島義道氏はこのような怒りの体験を文章化するという方法(「怒る技術」)を言っているし、茂木氏は怒りを呼び起こす状況全体を俯瞰的な位置に自らを持っていってその根拠を思考するということを言っている。
 そういう時こそ自分以外の多くの人々がかなり辛い体験をしてきているということを想起するということもいい考えかも知れない。リチャード・ドーキンスは「神は妄想である」において、アラン・チューリングがゲイであったがために、それだけの理由で第二次世界大戦において敵方ナチスの戦略を見抜いた功績がありながら自殺したことについて宗教教義上での逸脱によってのみその自殺が執行されたことについてネガティヴな事例として触れているが、今日人工知能問題(Artificial Intelligence)において彼の名前を知らない者は潜りである。自分の体験は固有であるが、特別異例ではないという認識はいい意味での楽観主義を醸成する場面で役立つ。つまり多くの人は自分と恐らく似たような体験を多かれ少なかれ味わっているものなのだ。あるいはもっと自分より酷いケースもあるし、それを考慮に入れれば、自分はましなケース、いや幸運ですらあるかも知れない。
 しかしそのように一旦精神的安定を得た後は、逆にサルトルの「存在と無」で工場労働者たちに向けてアジテート的な説諭、つまり革命的意図を鮮明にするためには自らの立たされた状況を極めて不幸なものとして認識するということを奨励しているような意図で、自らの他者と比較してネガティヴな固有条件を一つ一つ備に検証していく必要性がある。
 和田秀樹氏に拠ると、精神分析医のハインツ・コフートは自己対象という見方を採用するに当たって、三つの自己対象を考えた。要するに対象とは自己と完全に切り離されている客観的認識だが、自己対象とは依存とか甘えといった精神状態を許容する、私が日本人固有の自然認識には馴染みのあるものとそうではないものという西欧社会では殆どないと思われる二分法を考えたのだが、それに近いものがあると思われる。つまりコフートは鏡自己対象、理想化自己対象、双子自己対象というものを精神科医に対して患者が抱く感情分析を行ったのだ。(つまり精神科医とは端的に常に精神的な疾患とか病理状態の人々と接しているので、自らの精神的対処法としても、治癒客観的認識としても、自分と精神病患者の間の関係を適切に理解しておく必要があるのだ。)
 鏡自己対象とは、精神病患者の立場に立てば、自らのいいところを精神科医の先生に褒めて貰うことによる精神的充足、満足感を得ることを言い、理想化自己対象はまさに精神科医の先生を自らの父親の如く理想化して安心して依存する気持ちになることを言い、双子自己対象は、逆にそのように理想化された精神科医の先生に対してコンプレックスを得ることを忌避して、寧ろ誰であっても従ってその先生であれ、自分と同列の似たような悩みもあるし、弱点もあるということを患者が示されることによって安心するというものである。
 これらは恐らく私の推測ではかなり一個一個が完全に独立した在り方をしているのではなく、相互に密接に関係し合っているのではないだろうか?
 ここにも対峙と共有ということが立ちはだかっている。つまり精神科医と患者は本来全く立場を異にすることである。しかしマルチン・ブーバーとカール・ロジャースの対談で示されていて私は極めて関心を持ったことがあるのだが、ロジャースは共感を最も重視していたが、ブーバーは完全に理性論的に精神科医と患者は立場の違いを認識すべきという意見だった。つまりここにも哲学者と精神科医との立場上の相違が示されている。ブーバーは対峙を、ロジャースは共有を主張しているのだ。
 しかし恐らくこの二つの考えは両方とも必要なのである。それは目上の人と話す時にも年齢的な違いを考慮した礼儀は必要だが、同時に相互に共感し合うことも必要なようにである。つまり相手は目上の人でも神様ではないのだし、精神科医も患者にとって神ではないからである。

 精神分析ではこのように極めて多様な考え方がある。フロイトはどちらかと言うと理性論的に自己を確立することで疾患を治癒するという方向へと意志が働いていたと言うが、依存や共感といった作用を重視する方向へとアメリカ国内の精神分析は、向かって行ったということもそれなりに理解出来る。
 つまりヨーロッパの哲学の伝統とは分離した形での思考がアメリカには可能だったからであろう。
 しかし私は別の論文「意味の呪縛」(別ブロガーブログ「存在と意味」に掲載)の結びに次のような文章を掲載した。
 
私たちの祖先はまさに記憶内容→記憶事実の報告への意志・欲求という他の動物には決して見られない稀な能力、つまり自らの能力自体への感動、自らの能力の素晴らしさへの感動を共有したいということを感じ、それを必然的に他個体へと伝えようとして、そのことも一つの能力となっていったのである。

 ここで重要なこととは、自らの能力の誇示、例えば全ての芸術家たちは自らのアートやミュージックの能力を誇示しているのだし、全てのスポーツ選手もそうである。だが同時に彼らは皆自らの能力を世間に公表することで、そのアートやスポーツの能力を他者と共有しているとも言える。それは社会そのものが協力という観念を機軸に成立しているからである。
 そのことを考えると対峙と共有という心的作用の本質が仄見えてくる。
 つまり大自然の脅威に晒され、それに戦いている時ほど私たちにとって自然とは全の人々に、少なくともその自然の脅威に晒されている地域の人々に共有されているということになる。自然は誰にとっても脅威であるという認識で自然が別の機会には私たちを救ってくれるかも知れないとも思う。この時自然は共有されているし、自然の猛威に立ち向かう時には人間は他者一般と協力体制に赴くわけである。
 これは自然という存在を通して私たちが他者一般と基本的に信頼し合っているということである。
 しかし捻くれ者というものはいるものである。他者一般に対して人間不信状態にある時、自然の災害の脅威に飲み込まれる他者一般に対してさえある者は「ざまあ見ろ」とまで思うかも知れない。それは自らの不幸を他者にも味合わせたいという不遜な気持ちからである。この時彼は他者一般と対峙して、自然に対しては感謝している。しかしこれが長期持続すると深刻な精神病理状態となり得るだろう。あるいはあまりにも自分の心理状態が惨めな時には、私たちは自分にだけ神が語りかけてくれ、自分にだけ味方してくれるのではないかという幻想さえ抱く。
 これは借金を背負い、債権者から夜逃げする人にとってもそうだし、警察に追われ逃亡する犯罪者にとっても同様の心理であろう。
 人間には自分だけは助かるのではないかという漠然とした楽観性があり、そのことを精神分析では全能感と呼ぶ。これもいずれ脳科学が何故そのような気休めを私たちに与えてくれるのかという機能が解明されていくかも知れない。何らかの脳内物質、例えばドーパミンとかと関係があるのかも知れない。しかしその時でも哲学的に対峙とか共有ということは常に考えられ続けるであろう。何故ならどんなに脳内物質が解明されても、その脳内物質を有効利用しようと私たちは考え、それは私たちの意志によってしか達成されないからである。意志そのものも脳内の作用によってなされ得ると言えるだろう。しかし私たちは自らの意志を待つわけではない。そういう気持ちになるということと同時に、そういう気持ちにならなくては、とそうも思うのである。だから脳そのものの能力と対峙するという風に、意志的に脳を利用しようと思う時私たちの心理はなっていると言える(依怙地)。それに対して、脳の能力と私たち自身が共有しようという気持ちになっている時、私たちは案外不安ではなく何かに切迫されていると感じているでもなく、寧ろ心穏やかに充実している(素直)とも言えるのではないだろうか?(了)

参考文献

稲垣諭「衝動の現象学」知泉書館刊
ルドウィッヒ・ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」藤本隆志/坂井秀寿訳、法政大学出版局刊
中島義道「狂人三歩手前」新潮社刊「たまたま地上に僕は生まれた」筑摩書房刊「悪について」岩波新書「怒る技術」
ミシェル・アンリ「現出の本質」北村晋/阿部文彦訳、法政大学出版局刊
マルティン・ハイデッガー「存在と時間」原佑・渡邊二郎訳、中公クラシックス
サイモン・バロン・コーエン「共感する女脳・システム化する男脳」三宅真砂子訳 NHK出版刊
永井均「<私>のメタフィジックス」勁草書房刊「倫理とは何か」産業図書刊
オイゲン・フィンク「存在と人間」座小田豊/信太光郎/池田準訳、法政大学出版局刊
ジョン・ラングショー・オースティン「言語と行為」坂本百大訳、大修館書店刊
リチャード・ドーキンス「利己的遺伝子」「神は妄想である」垂水雄二訳、早川書房刊
エトムント・フッサール「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」細谷恒夫・木田元訳、中央公論新社刊
ジャン・ポール・サルトル「存在と無」松浪信三郎訳、人文書院刊
フリードリッヒ・ニーチェ「この人を見よ」手塚富雄訳、岩波文庫
吉本隆明「共同幻想論」角川文庫
プラトン「国家(上9)」藤沢令夫訳、岩波文庫
茂木健一郎「意識とは何か」ちくま新書
和田秀樹「<自己愛>と<依存>の精神分析」「壊れた心をどう治すか」PHP新書
「人は<感情>から老化する」祥伝社新書
大森荘蔵「時は流れず」青土社刊
Peter Frederick Strawson Naturalism and Skepticism
小此木啓吾「自己愛人間」ちくま学芸文庫
ブーバー‐ロジャース対話 ロブ・アンダーソン+ケネス・N・シスナ編著 山田邦男監訳 今井伸和+永島聡訳 春秋社刊

 付記 今回で「羞恥論‐素直と依怙地<衝動論第二幕>」を終了致します。暫く休暇を頂き、再び別の論文「時間・空間・偶然・必然 意識という名のミーム<科学で切る哲学、哲学で切る科学」を掲載更新致します。論文は中ほどに幾つか未だ未完成箇所があり多少更新に時間を要する場合があることをご了承下さい。(河口ミカル)

Monday, December 7, 2009

〔羞恥論‐素直と依怙地<衝動論第二幕>〕第二章 対峙と共有 第三節 日本人の自然認識

 日本人の行動パターンを西欧社会流に解析すると、日本人は支配階級の訓示を建前的には聞いておけばよいという考えが暗黙の知恵となっていて、そのことに対する主体論的な反感から真摯にその訓示を受け留めておこうと心に決め込んだ庶民、大衆の心理によって内向きになって意志発動抑止型の保守主義になりやすいところがある。そして日本人の支配階級とは端的に民主主義的なリーダーではない。それは非哲学的、非思索的な弱者なのである。(このことは中島義道氏が常々主張しているところでもある。)だから日本では支配階級とは概してマスコミそれ自体、ジャーナリズムそれ自体なのだ。そしてその利害は著しく政財界の利害とは対立している。
 このことは合理主義的な想念としては政財界の論理が正しいと考えているのに、心情的には昔からの地域エゴ的な馴染みの人々と、そうではない人々という非交流的、非オープンな閉鎖社会固有の不干渉主義に端を発する。実は日本社会はそれが地方にだけあるのではなく、全ての専門領域においても言えるのだ。科学者の世界、アーティストの世界、学者の世界、全部がそのような意味では閉鎖的である。他ジャンルとの交流とか他専門分野との協力よりは、ずっと相互不干渉を決め込むタイプの小集団の共存という現実の方が遥かに多い。
 つまり日本人と西欧人とでは自然認識にずれがあるのは、外敵に常に晒されてきたと同時に異民族との交流を支配‐被支配の関係で余儀なくされてきた歴史のヨーロッパとでは異なるということに起因するものと思われる。
 つまりその自然認識上の違いはこうだ。
 日本人にとって手に馴染むものというのは自然でいいという意味で自然という言葉を使う。勿論英語にもナチュラルnaturalという言葉はある。しかしそれは自然という正確な語義からの転用にしか過ぎない。日本人にとっては寧ろその転用の方が主たる語義的ニュアンスなのである。顔馴染みということもそのことと同じである。
 しかし西欧人にとって自然とは元々は神が支配する摂理とか今日の科学主義的に言えば、自然法則が支配するという意味、つまり法則秩序的という意味を示すということの方が正確なのである。
 その考え方と言うよりも生理的レヴェルの感性の違いは、集団内でどのような立ち位置を他者に示すかということについて西欧社会と日本には多少の違いを齎すだろう。例えば遠慮ということが日本人には染み付いている習慣である。目上の人に対して配慮するということは殆ど万国共通であるが、本当の意志を示すよりは、建前上の態度を示すことが多いのが日本人の特徴かも知れない。
 ではそれは何故かと言うと、やはり集団内で示すアイデンティティー、つまり個人に纏わる物語、しかもそれは決して自分で自分のことを規定する物語ではなく、自分の外部から自分に対して規定してくる自分の像の方を最優先するという心理が日本人の場合強く働く。それは一面では建前的偽装へと私たちを導くことになるが、そのような心理はやはり日本人固有の羞恥に起因するところが大きい。つまり他者に対して身内の恥を晒したくはないという心理は、共同体閉鎖社会における対他的な戦略として古来より日本人に染み付いてきている習慣だからだ。グローバリズムとかコスモポリタニズムといった考え方や習慣は本質的に日本人には定着していない。それは要するに日本的所作にとっては不釣合い、要するに不自然なことなのである。ある個人の恥は集団の恥という観念はより欧米人よりも日本人に強いだろう。
 本来エゴというものは単に対他的な自己防衛性のものなのではなく、この羞恥感情を巡る対他的な自己物語の語り方に存する。例えばルソーの「告白録」のようなタイプのテクストは日本の文献史においてはそうないのではないだろうか?ある程度その資質を裏切って見せた哲学者は中島義道氏だったと言えるだろうが、文学においては近代以降は自然主義文学等においてそれは実践済みである。しかし少なくとも江戸期以前にはそのようなタイプの文献は極めて手紙とかを除いて稀だったのではないだろうか?
 勿論西欧社会でも近代以前よりは近代以降の方がその種の恥を表に曝け出す式のものは多いということは顕著に言えるだろう。そもそも精神分析などのような学問が出現してくる必然性としてそれは近代の個の主張ということで理解することも可能だろう。しかしもっと率直に言えば、西欧社会とそれ以前の彼らの民族的アイデンティティーの礎となっているユダヤ、ギリシャにおいてさえ、我々日本人にとっては極めて異質な自己意識というものを見ることは可能である。そもそも心理学的な礎は既にギリシャにもあったし、旧約聖書それ自体が人間の性欲とかインモラルな行為に対する欲求というものを鋭く描写して憚らない。そのような礎を散見することが可能なのは寧ろ日本の古来のテクストではなく、仏典の方だろう。日本にはそもそも精神文化的な羞恥に触れる告白とか曝け出しということはなかったと言ってよい。だから吉本隆明が「共同幻想論」において示した近親相姦その他の事柄に対する言説はあくまで戦後日本社会においてのみ可能だったのだ。
 プラトンの「国家」には既に近親相姦に対する戒めが載っている。ギリシャ世界にはそのようなイメージは一見不似合いにすら思えるくらい私たちはギリシャ哲学に固有のステレオタイプを押し付けがちだ。しかし恐らくギリシャにおいてさえ、ユダヤ世界に負けずと劣らず陰惨な人間の欲望と、インモラルな行為が脱法的と言うより、法の鎧の下で堂々と行われてきたのかも知れない。同性愛などは未だ序の口なのである。つまりそのように法において実体論的には人間の所業が腐敗していても、表面的には綺麗なものとして取り繕うという知恵は恐らく全ての初期共同体からあったと思われる。
 つまり法逸脱的なことというのはあくまで反権威的な権力外階級によって齎された時初めて問題化するのであり、恐らく全ての支配階級においてはそれらの行為は建前上隠蔽されたこととして、暗黙の容認として英々と行われてきた、しかしそれは支配階級であるが故に容認されているのであって、そうではない階級の人々からそれらの欲望が要請されるや否や途端にそれを取り締まるという意識を支配階級の生じさせたということは言えるかも知れない。
 つまりそこで法という体系が、建前上支配者による被支配者に対する恩寵という形で権威づけられていったということは考えられる。つまり暗黙の容認において密かに愉悦の如く行われている内は、それは法逸脱行為とはならない。しかしそれが一般庶民にも浸透してゆき、認められて然るべきであるという欲求が大衆に浸透してゆくに従って法官僚による節制論的な法秩序が確立していくのである。
 日本の律令制度から御成敗式目に至るまでの全ての法は暗黙の容認から逸脱する支配階級のお墨付きのレヴェルから庶民レヴェルにまで浸透していきつつある兆候を敏感に察知して設えられたと考えることこそが自然であると私は思う。しかしそういったアイデアは極めて日本社会では未だに不自然であると考えられているのである。寧ろ日本人は支配階級の恩寵としてそれらを抑制する美学を実践する一部の保守主義的官僚たちによる訓示が最もよく行き渡った民族かも知れない。
 つまり隠されるとそれが見たくなるというタイプの欲求として支配階級に容認された様々な愉悦が英々と行われてきているということは、それは一旦全てを白日の下に晒したら、幻滅するほどの種類のものが多いのだろう。しかしそれはあたかもそこに特権的な愉悦が存在するかの如く振舞う中位権力者であるところの官僚たち(それは全ての専門世界に君臨する人々であるから政治家であれ、財界人であれ、教育関係者であれ、学者であれ、ジャーナリズムの世界であれ、アーティストの世界であれ存在する人々のことである。)によって一般開放されていない特権的事項のように振舞われれば、一般庶民はそこに何かあるのではないかと訝しがるようになる。しかし実態的にはそれは殆ど大したものなどないのだ。
 全ての権威とはそのようなヴェールに包む支配階級の貧困な精神性が象徴されている。そしてそのヴェールを剥がそうとする実存主義者たちの行為に対して「それは不自然だ」とするのが日本人にとって固有の羞恥なのである。それは何も性的な愉悦だけではない、全ての仕来りに漲る形式主義的支配階級の隠蔽的な所作、あるいはそういう階級の顕著な話題の質とか、要するに中位官僚たちによって時代時代に作成されてきた有職故実のことなのである。
 だがそういった隠蔽体質的な所作とか「知らぬが仏」的な知恵が蔓延すると、それは最も自然なもの、つまり日本人にとって固有の馴染みあるものとなり、それは精神的な神棚となってしまうものなのだ。
 だから最初からそこには実体論的に何ら崇め奉るべき何物もないと言い切ってしまえばよいのかも知れない。それが哲学者に残された仕事である筈である。しかし恐らくつい最近までそのようなことは哲学界においてもご法度であったし、今でも私の考えるところ一部の人々によってのみそれがなされている。
 正直に告白すると私自身は実体的に空無な形式主義的所作とか仕来りに対しての一切の幻想を抱いてはいないものの、愛する人がエイズに感染してしまって、彼(女)がもし傍にいたとして彼(女)を接吻することが出来るかどうか自信が持てないでいるのだ。それが何の躊躇もなく出来るのだと言い切れるとして、それが自然であるとするなら、その時それが欧米人であれ、日本人であれ本当の自然認識、つまり道徳的認識と自然認識が一致する地点なのかも知れない。それは理性主義とか経験主義とかの論争よりはずっと言説化不可能な領域である。

Friday, December 4, 2009

〔「羞恥論‐素直と依怙地<衝動論第二幕>」〕第二章、第二節 西欧社会=ユダヤ・キリスト教的世界観での自然認識

 私たちが自然に行うという時、どこか肯定的なイメージを持ってことに臨む。しかしそれは行為が自然であることを意味し、自然そのものはまた別の意味合いを持っている。例えば「人類は自然を侮っている」とか表現する時明らかに自然とは宇宙誕生から地球誕生、そしてそれ以来の地球環境の刻々と変化し続けて来ている歴史を言うことが多いが、もっと卑俗な意味合いからは我々は文明とか、都市とか、要するにアーティフィシャルな現実に対して自然を野生とか野蛮とかという考えとして取り扱う。
 要するに自然と言う時我々は全宇宙的規模からそう言う時と、地球環境内的に言う時もあるにはあるが、生命体の一部である我々だが、我々の生命は他の種の生命とは格別の存在理由が少なくとも我々自身にとってはあるので、要するに人間以外の動物や植物に対してそれを自然と呼ぶことも多い。最後のケースでは明らかに人間だけが「考える葦である」というパスカルの言説のような意味合いで、哲学的存在者であるという意識が根底にはある。またそのような捉え方は、少なくとも人類をも他の生命体と同列に扱う自然科学的認識外的では、宗教も全く同じであると言えよう。つまり哲学上での我々自身の存在に対する捉え方には、宗教ではこれこれこういう風に扱ってきたということと無縁ではない部分がある。そもそも自然科学は自然哲学という名で西欧の歴史においては哲学の一部として発展してきたが、宗教に対しては私たちは哲学の歴史においては、常に宗教権力とはまた別の価値規範として神そのものに対する捉え方をも含めて考え続けてきたと言ってもよいだろう。
 それは宗教が本質的に人類に降りかかる災厄に対する救済という意味合いがあったのに対し、哲学は本質的に宗教精神に抱かれている救済という観点から言えば、貧困とか社会の腐敗とか自然環境それ自体からの人類への影響といったことに対して直接に処方箋を提供するものとして発展してきたわけではない。もっと哲学では思考することそれ自体に内在する私たちの生における基本的な指針をある時には極めて精緻な論理において、ある時は極めて倫理的に捉えてきた。
 しかし倫理的と言っても、教条的な情に流されることなく、寧ろ倫理に内在する論理として取り扱ってきたとも言えるし、例えば法体系的な正義とか社会規範的な善悪からではなく、それら自体を成立させる根幹の人間精神の基盤から善とか悪とか、法それ自体を問い続けることをしてきたというのが実像である。
 そして自然という語彙そのものに対しても、ある時は我々に与えられた能力を自然の一部として、ある時は我々自身の自然全体に対する侮りそのものに対する反省として我々自身への脅威として、その時々の我々の思考的、認識的要請に従って微妙に意味を変えながら使用してきたという歴史がある。ある時は我々は動物を我々に近い存在として、ある時は我々以外の霊長類をも含めた全ての動物を我々とは縁遠い存在として考えてきて、その都度自然という語彙に対する定義も変更してきた。
 しかし通常自然科学では自然という語彙を、何ら懐疑的な眼差しなしに使用してきているものの、哲学では自然の代わりに神と言ってみたり、世界と言ってみたり、存在と認識してみたり、自然と言う語彙を少なくとも宇宙とか地球環境全体としてよりは、懐疑主義と自然主義というように、要するに概念把握的思考傾向の様相として捉えてきたとも言える。
 それは哲学それ自体が心の学問であり、我々が考えるということは一体どういうことなのかということに対する問いの歴史を持っているからである。
 例えば我々は敢えて何かの考えを抱く時、意図的であり、恣意的であり、要するに自然に物事を考えているというよりは、不自然に、歪曲して物事を捉えることをしている。そういう場合明らかに私たちがある私たちがよくする考え方それ自体に対して批判的な眼差しを持っている。だから敢えて依怙地にそう捉える必要性を感じているというわけだ。
 しかしそういう風に懐疑的に私たち自身の思考傾向性に対して臨む必要がないばかりか、寧ろそのように懐疑的に認識することが誤っていると感じる時我々は自然に物事を考えることが多い。
 この二つの態度は実はその都度交互に立ち現われると言ってよい。
 例えば素粒子論とか生化学的認識において私たち人類は私たちにとって自然に思われる自然に対する認識それ自体をその都度大きく変更せざるを得ない局面にしばしば立ち会ってきたという意味では、自然に考えること、つまり素直に何かを考えることが必ずしも正解ではない、最早危険ですらあるということを知っている。それは「あんな感じのいい人なのに殺人犯だったなんて」という言葉でも言い表されていると思う。しかし人間は恐らくある他者に対する親切ということと、別の他者に対する残虐ということを難なく両立出来る生活者でもあるのだ。つまりそういうような意外性、勿論それは私たち自身にとっての意外性ということなのであるが、そういうことが自然全体にもあり得るということを既に我々はよく知っている。つまり安易な直観でそれが自然だと規定しては危ないということを我々は既にかなりのレヴェルで経験的に学んできているのだ。
 勿論自然には、殺人犯が殺した相手に対する贖罪とか後悔とか反省が、その他の人々への良心となって顕現されるというようなレヴェルの人格転換性など嘲笑うかのごとくもっと私たち自身の感情をいともたやすく裏切るくらいに残酷である。そもそも自然には残酷とか無残であるとかいう観念などもとよりないのだ。そういう意味では野生という語彙は自然を表す意味合いとしては最も正しい。
 寧ろそういった自然の我々自身にとっての苛烈さそのものが我々をしてその都度自然は雄大だとか、自然は淡々としているとか、自然は無情だとか勝手に形容せしめてきているだけのことである。
 そういう観点から語彙としての自然と言う時、明らかに哲学で言うところの存在というのが語彙使用を纏わる現実としては最も近い。哲学では日常的に我々が使用する自然は全て存在として扱われている。
 だから逆に哲学者が自然と言う時、それは通常一般社会で自然という語彙を使用している規準とはかなり異なった考えで使用していると考えてよい場合も多々あり得るということだ。つまり自然主義ということを言いたい場合でも、それは懐疑主義に対してそう言っているのであり、しかも懐疑主義ということが哲学では決して否定的なニュアンスで言われているのではなく、寧ろそれは前提なのだから、当然自然主義ということを言う場合でも、それは単純に肯定的なニュアンスで言っているのではなく、要するに本来なら訝しげに捉えられ得ることなのにもかかわらず敢えてそれを選択すべきであるというニュアンスなのである。
 それはしかし西欧社会において、あるいはアメリカにおいても私たち日本人と最も異なっている部分として考えることも出来る。何故なら彼らにとって八百万の神という想念は全くないのだし、神による創造という形でしか理解出来ない自然が前提としてあるからだ。だから日本人にとって自然である八百万の神的想念は、逆に彼らにしてみればかなり努力して会得する特殊な想念なのだ。
 そしてそれ以外でも最も私たち日本人にとって注意しなくてはならないこととは、端的に神による赦しとか罪という観念が本質的には我々にはよく理解されていないだけではなく、それにもかかわらず我々は既に江戸期終了時において、完全にかつて日本人が持っていた特殊な共同体意識を捨て、西欧キリスト教社会の隣人愛とか正義という観念を受肉して、私たちが自然なものとして現在利用しているあらゆる社会通念は全てキリスト教的世界観に基づくものであるということである。
 つまり日本人にとっての倫理観とか、宗教観とは端的に罪と神による赦しという観念の完全に欠如した、それでいて社会倫理的には忠実なる西欧社会の模倣という特殊な、ある意味では極めて歪な想念によって支配されていると言ってよいものなのである。日本人にとっての罪と赦しとは神と個人個人が直接契約したものなのではなく、集団内での調和とか、協調性という通念によって排他的であったり、一度仲間として容認されるとあらゆる個人主義を抹殺したりすることが美学であるようなタイプの善悪に依拠している。つまり一度仲間になった相手に対してはいつでも助けようとするが、そうではない人、そうではなくなった者には冷淡な態度で他人のように扱うということである。
 しかしその種の古来よりの日本的なタイプの人間関係は実は常に、支配階級による訓示によってその心がけを十分理解しているという特権意識によって大衆レヴェルで履行されてきたのである。
 それに対して西欧社会では常にモラルも論理も、神によって与えられたという想念が幼児期に徹底して植えつけられているので、逆に純粋なモラルや論理というものへの希求そのものが早い時期より彼らの脳裏には芽生える。ユダヤ選民思想もある意味ではそれを生きることに理性を感じる人々にとっては極めて価値論的に確かさを持つが、一方非ユダヤ人には全くその恩恵に預かれないということをも意味し、ユダヤ選民思想がどこか日本人の庶民、大衆の意識に近いところがあるのもそのためである。
 つまり自然に仲間は善で仲間以外は悪であるという想念で生活する者にとって自然とは心地よいということを意味する。しかし本来西欧社会には自然に対して常に拮抗してきて、大自然の克服が至上命題であった民族であるが故に、それは心地よいなどという生易しいことではなく、端的に脅威であり、神の怒りである。そこに神の意志を感じ取るということにおいて、そうではない自然は自然ではないし、それは偉大であるとか克服出来たとかそういう人間勝手な意識で推し量れるものを悠に超えていると、それを神秘主義的な見解ではなしにドーキンスのように叫ぶ(「神は妄想である」)必要性は、逆にそのような想念が自然である、つまり懐疑主義的な想念さえ並行して価値として認められる社会でしか本質的には育たないのだ。
 つまり西欧合理主義とか無神論とかの考えは自然とは仲間内で協調していこうという考えの地域閉鎖的共同体意識の日本人(次節で取り扱う。)とは違って、本質的に全ての市民は対等であり、どこそこ出身ではないということを前提とした責任論(つまり何をしても自由だが、地域の好では決して助け合わないというクールでドライな考え)それがカントリーならぬネイションという考えの基本であることを考えれば、ユダヤ教が選民思想によってなされた地域エゴに対応する一民族至上主義、つまりエスノセントリズムであることを考えれば、キリスト教とは、少なくとも西欧社会全体においては(勿論当初はそこにコーカソイド以外の民族は含有されていなかったものの)少なくとも建前上では完全にどこそこの民族出身であるということを度外視した要するに宗教信仰上のコスモポリタニズムによる産物なのである。

Wednesday, December 2, 2009

〔羞恥論‐素直と依怙地<衝動論第二幕>〕第二章 対峙と共有 第一節 一人で旅行する時の気持ちと二人以上で旅行する時の気持ち

 私たちは演劇や映画を観る時明らかにそれが嘘の世界、虚構的真実であるということを前提して楽しむ。しかし第一章で述べたように、異星人が初めて演劇や映画を観る時、彼らの文明にそういうものがないと仮定したなら、彼らは例えば二つの演劇とか映画を観て、同一の役者が出演していたとしたら、その二つの演技の違いから、しかし同じ面相から、「あの時刑事だった同じ男が、何故今は犯罪者なのかその理屈が分からない」と言うかも知れない。つまり彼らは顔とか身体の風体によって同一の人物を特定しているのに、その特定の人物が全く異なる文脈上に登場することの意味が理解出来ないであろう。しかし彼らは演劇とか映画の巧妙な術には嵌っているのである。しかしその嵌っているということを理解出来ない、つまりメタ認知出来ないのである。
 これはある意味では赤ん坊がテレビに受像された映画やドラマを観る時に、同じ役者であることを見抜くことは出来ても、それが演技によって異なる役を演じているということを理解出来ないのと同一のことである。私たちは今度は映画とか演劇を楽しむということを覚えると、今度は一々役者の顔があの時観た別のドラマでこれこれこういう役で出演していたという記憶などどうでもよくなるのである(映画とかドラマの評論家とか、その役者のファンであるという場合を別にして)。
 つまりここには虚構というものに対する固有の構えがあることが明瞭に理解出来るだろう。しかし私たちは現実のビルを見たり、現実の馬や犬を見たりする時明らかに、それらを嘘であるとは思わない。勿論旅行して自然の景観に圧倒される時、それらは人為的に作られた建造物とは違うということは意識するし、例えば古びた寺社や、神社の景観そのものが現代のビルとは異質な空間であると感じることもある。しかし少なくとも、それらは現実の姿であり、例えば映画のセットとかドラマが演じられる舞台上の大道具とか小道具とは違うということを明瞭に意識することが可能である。勿論舞台上のセットも大道具、小道具も、それ自体は現実の物体であり、本物であるが、それらを例えば岩とか、教会とか空とか認識して演劇を鑑賞し、あるいは映画の場合にはそれらが恐らくセットであろうと思いながら、そのビルが爆破される光景を鑑賞する。つまり現実の物体であるということと、その物体が何か別のものをかたどっているということを認識することを同時に脳内で理解する。
 しかし実際の風景はそういうものではない。(絵画はどうなのかと言うと、そこに描かれたポットや裸婦が本当のポットではないし、本当の裸婦ではないことを知りつつも、同時にそれらをかたどっていると認識し、かつその画布上の絵の具の塗り方や、色彩の光彩に思いを馳せる。そして絵画そのものもまた現実の物体であるという意識と、その物体上の表現を重ね合わせて見るのだ。)つまり現実の光景とは、認識する道具として立ち現われ得るのではない。それは虚構的真実に対して構えるマナーとは本質的に異なるものである。知覚そのものの読み取りということはあり得るだろうが、それらは虚構的真実の表現とか訴え性とは本質的に異なる実在感、存在感である。それは臨場感という言葉で語るにはあまりにも直撃的であり、且つあまりにも自然なのである。
 ここで自然という言葉が出てきたので、言葉の定義について考え、つまり私が与えたような定義で実は我々は日常的に色々の心的作用をしているのではないかと捉えてみたい。
 まず自然というものは、元来恐れ多いものであり、その脅威に対して克服不可能なものであっただろうが、ある時それでは駄目だと思い人間は克服対象として認識し始めた。だからこそ橋を作り、港を作ったのだ。塔を作り、城を作り、壁を作った。しかしやはり自然はそれらの我々の努力をもものともしなかった。要するに我々の存在をどこかで嘲笑っていたのだ。そして我々は気付いた。自然という言葉を言う時それは我々にとって支配に対する欲求を限りなく我々に齎しはするが、実は誰一人自然の摂理に逆らえる者などいはしないという意味では自然とは、支配に対する断念に他ならないのだ、ということを。例えば現代の地球温暖化などもこのことを示しているように思う。
 そう考えてくると、全体という概念とは、全部分に対する探索に対する断念だし、世界という概念は、全地域、全宇宙、全事象に対する観察に対する断念だ、と言うことが可能である。いや心的な全ての判断そのものが、既に綿密な理解や解析そのものに対する断念であるとさえ言える。そして過去に向けられた作用である想起にしても、全ての過去事象に対する想起の断念が常に容易に想起を可能としていることに我々は気付かされる。何故なら我々は忘れていたものやことをも、そのものを見たり、聞いたりすることによって初めて思い出すということがしばしばだからである。
 要するに<自然=拮抗し得ぬ>ということであり、<世界=把握することで観察を断念する>ことであり、<全体=認識且つ判断>であるが故に把握することで探索を断念することであるという風に言葉の定義そのものをまず考えておかなくてはならないのだ。
 だからこそ我々は一人で自然、とりわけ大自然の前にいる時には、自然の一部に吸収されていくような不思議な身体的知覚に誘われるのだ。しかし二人以上の人間で大自然の前に立っている時、どこか我々はその大自然そのものの持つ圧倒的な驚異に対して拮抗しているという意識を生じさせるのだ。それは人間という実存そのものの能力に対する可能性の認識に近い。だから自然が一つの脅威として立ちはだかった時我々は自然そのものを「私たち」によって共有されたものであるという運命共同体的な意識へと転換するのだ。それは所有することが不可能ではあるが、意識の上で共有し得るのだということでもある。つまり自然とは我々の存在、意識も身体も含めた全てが既に自然の一部であることから、必然的に支配し得ないということ、そしてその支配し得なさそのものが、私たちに教えてくれることとは、端的に支配するべきこととは、自然そのものなのではなく、我々の自然に対して立ち向かうという行為を把握することが安易なような意味で、支配も可能なのではないかということそのもの、つまり我々の心の思い上がりなのである。その思い上がりそのものを阻止するためにかつて人類は神という概念を設けたのだが、私はその神という概念そのものが既に思い上がりであると考えている者である。尤も本論ではそのことを中心には述べない積りである。(それは「意図論」<当ブロガーにて別に掲載更新中>や「言語空間と言語行為」などにおいて詳しく述べている。)
 人間は人間同士での様々な関係においてより心を砕いている時というのは、自然は人間同士によって拮抗し得る、協力して人間中心に自然を人間の側に引き寄せるべき対象となるが、逆に一人で大自然を前にしていると、特に煩わしい人間関係から逃れて大自然に身を委ねている時、私たちは自然と自然に対して素直になる。そして人間関係そのものに対して依怙地になる。誰から理解されなくてもいいという決意を自然に対して「だけど、君だけは僕の味方だよね。」と語りかける。逆に人間関係が巧く捗っている時、私たちは人間関係全体に対して素直になり、自然に対しては「今君は僕たちの安定に身を乗り出して来ないように願うよ。」と心の中ではそう呟いている。
 要するにどんなに人間社会で糾弾されている者でも、大自然を前にすれば、その大自然を味方にすることも可能だと思ってしまい、逆に大自然の脅威全体に対する憂慮は、ことに人間社会で円滑な人間関係を構築している状態の者にとって他者たちと共に克服すべき対象となる。だから昔から大犯罪者たちがどんなに人間社会ではアウトローのレッテルを張られても、神だけは見捨ててはくれないだろうと一縷の望みを抱いたりしてきたことというのは、ある意味ではこの大自然を前にした逸れ者の心境と近いかも知れない。だから人間同士の運命共同体という発想とは人間全体が自然に拮抗し得るのではないかという幻想を抱かせる(人間もまた自然の一部なのにもかかわらず)、人間を甚だ思い上がった心持にさせる傾向をも十分に持ち併せたものでもあるのである。
 要するに自然とは我々がそこから誕生してきた懐なのだが、四面楚歌の人間を包み込むこともあるし、あるいはどんな仕打ちを社会から受けても、君だけは僕の味方なのだよね、と天空を見上げて祈るような心境にも持ってゆくようなところがあり、それら全ては我々が自然を前にした時にそう思う、自然をそういう風に解釈するということから来ることである。だから当然それは正しいことをして自然に守って欲しいと捉える場合もそうであれば、社会にとって罪悪なことをしても、自然はもっと人間に刃を向けてきたのだから、僕のすることは君のしてきたことでもあるのだよね、と捉える場合もそうだということである。
 そのようなことを例えば二人の友人同士が旅行した時に視る風景とは、共有するものであるが、一人で旅をした時に視る風景とは、対峙するものであるという風にまず私は考えたのだ。しかし共有とはある意味では運命共同体として自然全体に立ち向かうという対峙であるし、逆に一人で自然を前にするということはそれ自体では対峙であるものの、その対峙姿勢そのものをも包むということから逆に自然に吸収されていく感じがするというのは、たとえ自然を前にしても我々は他者の存在を通した自己ということを考えてしまう生き物であるということを物語ってはいないだろうか?
 ここで一つの図式を提示しておこう。

①一人で自然に対峙する→自然に拮抗し得ないが故に自然の一部として自己を捉える。(自然からの吸収、あるいは自己から主体的に自然へと吸収されることを望む。)
 人間関係から疎外されている場合、自然だけを味方にする。

②二人以上で自然に対峙する→自然に対して人間同士で協同して拮抗することが可能なように思える(自然の共有)
 人間関係が円滑な場合、自然を共に克服しようとする。

 要するに①も②も、共に自然に対する私たちの心理であるが、同時にその心理には人間同士の関係の状態を、つまり孤独を必要とする心理と、集団に同化する心理をその都度変換するような具合に、不可避的に介在させているということになる。カントの「判断力批判」における自らが美しいと感じるものを他者全てに対しても美しいと感じることを我々が望むということの本質は勿論自我論的な意味合いからもあるが、自らの身体的存在としての現存在に対する覚知と認識の双方が、実は自然の一部でありながら、自然へと拮抗してゆく志向性を持った存在であることの無意識の了解の下で展開しているということそのものが、人間存在を自然>人間ということと、人間全体>自己ということを常に対比させながらやっと自己を捉えられるような内的プロセスを表しているように私には思われるのである。だから自己とは端的に人間全体の中の一部であるにもかかわらず、自然という途轍もなく巨大なものに拮抗する時には唯一味方となるすぐ上の気のいい上司のようなものでもあるのだ。人間全体とは即ち人間存在の全事実のことである。しかし同時にその気のいい上司さえ見いだせないような場合、全ての他者、他人を敵対させてでも、唯一自分だけは自然の一部であることを一番了解した存在であるという認識から、その疎外状況を乗り切ることを可能にするようなものとして自然は存在し得るのだ。自己とは自然=世界に対してさえ対峙し得る状態の自分、それが見いだせない時の自分は自分が自然の一部だと感じるということに他ならない。だから当然前者の自分では自然の一部とは感じることはないだろう。
 私は何気なく自然に対して救いを求めるようなことを神に対して救いを求めるような心理と重ね合わせて考えた。しかしこの二つは勿論違う。特に欧米では全く異なったタイプの心理として位置づけられるだろう。しかし私がそういう風に二つを重ねて捉えたのは、私が日本人であるということとも無縁ではないが、欧米人でも少なからずそういう心理で物事を捉える人もいるということからである。特に昔の哲学(形而上学)ではそうだった。しかし現代ではそれに対して異議を申し立てるタイプの論客も多い。例えば生物学者のリチャード・ドーキンスは明らかにそのタイプの人である。多くの形而上学を無二の礎とする哲学者たちは当然自然=神という捉え方を自然なものとするだろうが、ドーキンスは科学者の中でも合理的な考え方をするのにいざ神となると信じてしまうタイプの人に対して批判的なように、恐らくそういうタイプの哲学者に対しても同様に批判するだろう。そして私自身も自然=神という図式には強烈な違和感を覚えるし、神=人間の思考傾向性とか、神=幻想という風に常に捉えてきた。そしてそのことについてはこの章の第三節と第四節の結論部において詳述する積りである。
 ただ本節において重要な主張とは、端的にこの二つは何かに依拠する心理とか、救いを求める心理としては共通しているということである。そして救いを求める心理には当然対峙する心理と、共有する心理の奇妙な合一的な共進化関係が密接にかかわっているだろうというのが、私の考えである。
 しかし本節で最も言いたいこととは、例えば親しい友人と共に大自然を前にした時というのは、ある意味では極めて自然に対する脅威に額ずくような神に対する敬虔にも似た自然に対する従順な心理さえどこかに吹き飛び、自然そのものが、つまり大自然の全体が既に極めて虚構めいて見える、あるいはそういう風に捉える心理にもなっていることも多く、そしてそのような心持でもって友と一緒に大自然を目にする時、どこか一人で夜道を歩いている時のような一人で大自然に対峙している時に感じる心細さは吹き飛び、勇気と大胆さ、そして何よりも自然全体を客体化する心の余裕が生じているということが多いように私には思われるのである。しかし勿論それはかなり親しい他者との間ではよりそうであり、それほどでもない他者と一緒の場合はそれほどでもないかも知れない。
 だから①で示された自然からの吸収とは、一人でいることの心細さそのものを払拭するように我々の無意識が自動的にそうするであろうある諦観、諦念なのである。
 しかし②の自然を共有ということは二人以上の人間同士でいる限り、一人で大自然を前にした時よりも少なからず、大自然の脅威に曝された場合ですら、被害者は二人になるという意味でも、自然と自然全体を、その脅威的事実をも共有するという心理になっている。そういう風に認識していることによって我々はどこか自然全体に対してさえ、極めて精妙な作り物のような巨大な虚構を前にした時のような客観視が可能となり、要するに東京の大都会の様が別の形で田舎には残っているとばかり感じる自然の虚構化を心の中に自然と行っているのである。大自然が作り物めいて見えるという心理には親しい間柄の友人同士では尚更それら全体を二人で共有しているという妙に一人で大自然を前にしている時とは異なった心理にあり、必然的に風景全体に対する印象さえ違ってくるということは往々にしてあると私は思う。
 サルトルは「存在と無」の前半に崖の上を歩く自分が一瞬先の未来にそのまま投身する不安を描出して、未来の無ということに起因する時間論的不安、不安論的時間を描いているが、実はそれこそが自然からの吸収という無意識的で身体不随意的な想念なのである。それは心理的なものとも違い、言葉を交わす相手、つまり他者不在時に一人で崖の上を歩いている時というのは、二人でそうしている時よりも確かに不安である。未来に対して希望を抱いている時でも一寸先は闇であるような未来の不確実性というものはそれ自体が不安である。そしてその不安とは端的に人からどうされるかという不安ではなしに、自分が自分に対してどうするかという不安である。
 サルトルは精神分析に対して否定的であり懐疑的であったが、期せずしてこの部分ではフロイトが唱えた死への無意識的願望であるタナトスを彷彿させる。つまりそういう想念は恐らく親しい友人と一緒に崖の上を歩いている時には、共に「足元に気をつけろよ」とでも言い合うであろうからだ。だから自殺というのは他者と共にいる時には余程のことがない限りないことだろう。
 勿論極めて自分に対して侮蔑的な他者が自分をけしかけて、「ここから飛び降りる勇気さえ君にはないだろう」などと言われた場合ならまんざら全くあり得ないということはないかも知れない。これならまさに危険行動誘引的な侮蔑である。しかし人によっては、つまりそれにつき従うような精神状態ではないタイプの精神状態の時には、そういう相手に対して「君こそそうしてみろよ」と言いながらその者を突き落とすことさえあり得るかも知れない。非合理的な崖の上の根気試しである。だから下に見えるのが陸地であるなら「ふざけたことを言うな」と切り返すところだが、海とか川とか湖だったなら、万に一つの可能性を信じて巧く飛び降りなければ全身の骨を砕け散らし死ぬだろうが、思い切って実行することもあるかも知れない。もしその死のダイヴに成功でもしたのなら、そのけしかけた者が何か褒賞でも出すということなら、挑戦する者もいるかも知れない。
 しかしこれはあくまで例外的な思考実験である。
 だからひょっとしたら、フロイトの言っているタナトスという概念は、実は他者に対して素直に自分の非とか無能力を認めるようなタイプの素直さを排除してまで、依怙地になり自己能力誇示をその他者の口車に乗って自己劣等性をその他者に悟られまいとする極度の精神病理的な羞恥の表れのことなのかも知れない。「お前なんぞに見くびられてたまるものか」という心理に無理矢理させられ、口車に乗ってと言うより自分でも出来ると他者に対して優位を見せびらかす虚栄心から宣言してしまったが故にエッフェル塔の展望台から飛行機が発明されていない頃ダイヴに挑戦した稚拙な飛行機の発明家であるダイヴァーが大勢死んでいたのだ。

Monday, November 30, 2009

〔羞恥論‐素直と依怙地<衝動論第二幕>〕第四節 結論

 人間は自らが幸福であると感じている時にはなるべく他者の不幸とは遭遇したくはないと望み、自らが不幸の渦中にあると感じている時には、なるべく幸福な他者と遭遇したくはないと望むものである。だからこそ思い遣りということは、自らが幸福である時にも他者の不幸に思いを致し、自らが不幸の渦中にあっても、他者の幸福を喜ぶといういささか不自然な形を取って、行なわれる。だからその人がいい人であるという風に評定されるのは、その思い遣りが実に自然であるという技巧に帰する。つまりぎこちない仕方だと、それは不自然となり、その真意にいかに思い遣りがあっても、それは相手には通じず、ただ偽善的な匂いだけが立ち込める。するとここで我々はある行為をするのが自然であるということは、自らの感情から自然に出た行為であるという振舞いの巧みさということになる。だからいかに真意レヴェルでは本心からある他者に眼をかけようとしていても、その仕方が下手であるのなら、相手にとってその者の振舞いは愛情の欠けたものとなる。つまり「こんなに俺は彼女を愛しているのに、彼女は全然そのことを気づいてくれない。」というある男のある女に対する愛の苦悩が告白されることとなる。
 結婚式に間に合うように式場に向かうある男が、その徒歩の途中で少女が交通事故に遭うその現場に居合わせた。本心ではそういうことが一切起こらずにすんなりと式場に行けることを望んでいた彼だが、致し方なくその彼女の具合を診て至急携帯電話で救急車を呼ぶ。しかしその振舞いが厭々ではなく、ごく自然であれば、エゴイスティックな人ではないということが周囲に悟られるが、そうではなければ、冷たい人だと思われる。これはその人が内心ではどういう気持ちであるかどうかとはかかわりなく真意と振舞いの齟齬によって齎されることである。このことは正しい人と正しく見える人ということで、プラトンが「国家」の中で明示している問題でもある。
 人間はしかし一番親しい間柄の人間同士ではさして気を遣うことなく、「愛しているなんてのは当たり前ではないか」ということで、逆に親しくない人に対して、つまり他人に対してより親切にする。それは社会的責務としてもそうだし、親しい者同士での愛情に縛られたくはないという深層心理における無意識の願望からでもある。つまり人間は親しくない者に対して親しい振舞いをいすることによって親しい者同士での義理から解放されたいと望む一方、同時に親しい者同士だけで過ごしたいという気持ちも持ち、その二つが常に共存して拮抗し合っているのである。だから親しい者同士では出来る限り真意では愛情があるのだから、振舞いにおいて真剣な態度で臨むことを省略しようという同意が暗黙の内になされ、そして親しくはない人に対しては真摯な態度で臨むという責務を全うしようという心積もりになるのである。しかし親しき仲にも礼儀ありということで、親しい者同士で感謝の意を表していたりすることが常に求められてきたということは、親しい間柄での方がより親しくない人同士よりも、より決裂の危険性と隣合わせであったということを物語っている。だから総じて敵とは一度は親身になってくれる味方であったという歴史的な経緯の中でそれが決裂したという場合が多いのである。
 哲学的に言えば、何かをすることと、何かをすることを知っているということは別のことであり、その二つが常に共存しているということをサルトルは対自(pour  soi プル・ソワ)という形でヘーゲルから受け継いだ概念で人間の実存を示したのだ。しかしこの概念規定において我々は常に自らの行為をしている最中に、その行為をするとは何かということを問うことを強いることとなり、要するに自らの行為を巧くなし得ているのかという自問自答が発生するので、その行為が行為によって期待されるべく結果に円滑に結びつき、効果的に他者に対してその行為の結果が示され得るようになされているかという反省を常に呼び起こし、しかもあまりぐずぐすしていては、効果が半減するようなケースでは常に迅速にその効果が表出しているかどうかをチェックするように自己を差し向ける。
 つまり何かを伝えること(それは報告事項であっても、愛の告白であっても)と、その伝えたいことを巧く伝えられるかという技巧上での心得とが常に重なって意識されてしまう。従って何かを伝えることと、何かを巧く伝えるということの双方が常に重なっているべきであるという意識が逆にその二つを次第次第に分裂させていってしまうという結果にも陥るのだ。そしてその時本末転倒であるのにもかかわらず、何かを効果的に伝えることとは、何かを相手に説得することとか同意を得ることの方が先行してしまい、伝えたいことの内容の方が疎かになるという事態も稀ではなくなってしまう。
 例えば我々は次のようなことを意識することがある。
★ 日本人らしく振舞う(オリンピックで自国の選手を応援する)
★ 世界市民らしく振舞う(地球温暖化に対して解決策を検討する)
★ 現代人らしく振舞う(何か緊急の時には携帯電話で連絡する)
★ 男らしく振舞う(街角で迷惑している女性がいたら、助けに行く)
★ 人間らしく振舞う(自らの過失<犯罪>により全てを失っている者に最後の機会を与える)
 つまりこれらの意識されることとは、その都度この★印の中のどれがいいかということを、言葉とか概念としてではなく、恐らく直観的に判断して何らかの行為(例えば括弧の中のような)へと赴き、ただその全体を反省してこのような~らしく振舞うというパラダイムを私が設定しただけのことである。しかしこの★の中のどのようなタイプの振舞いが有効であるかどうかを常に私たちは無意識の内に選択しているわけである。すると次のようなことがこの★印の行為選択の際の判断を司るものとして考えられる。

振舞う→そうであらねばならないように心掛ける→そうではない形だと巧くいかないということを経験的に知っている (勿論ここで言う経験的ということは、認知レヴェルでもだし、意識レヴェルでもだし、身体感覚的にもである。)

 つまり何かを意図的に選択する場合でも、無意識的に選択する場合でも、その選択ではない形での選択によって過去に失敗したケースでの経験則が有効に作用している筈なのである。
 しかし無意識に何かをなす場合はいざ知らず、意識的にこのような選択肢を採るという場合、私たちはごく自然にする場合と違って、あるいはごく自然に出来たということの悦に浸っている場合でもそうなのだが、振舞うということの中にあるある種の意図的な戦略性とか、反省する中で得る自己欲求満足とか、自己愛的なダンディズムの欲求解消に伴う罪悪感が発生する、つまり何故かしら義務的に親切な行為に赴く際の(しかし勿論他人が困っている時に助けないで済ました時の罪悪感を避けたいという願いからなのだが)偽善的な匂いが行為選択に伴うというのはどうしてなのだろうか?それは私たちの純粋な良心に対する価値規範からなのだろうか?
 エイズになった恋人や伴侶を抱きしめることは出来る。しかしキスを避ける、性交渉を避けるということは感染を避けることが正しいと考えている限りで正しいと思えるが、行為として自然さを求めるという気持ちの中では幾分の不自然さを、あるいはやりきれなさを感じてしまうということもごく自然である。確かに自分がエイズではなく、相手がエイズに罹った場合、その恋人や伴侶は一回は少なくとも自分を裏切ったのである。だからそれで二人の間の信頼は一挙に崩壊することもあり得る。しかし同時に、たった一回の誤りに対しては寛大であり、その恋人や伴侶の行く末に思いを馳せるということもまた自然な心理である。だからもし恋人や伴侶がエイズに感染して、その者に対してキスすることを憚る場合、その行為に対して愛情レヴェルでの贖罪意識を持つのなら、それはエイズに感染した相手に対して感染するからではなく、気持ち悪いという拒否反応があるからなのでは、という思いが去来するからなのである。要するにその一点でキスを拒否する自分に対して思い悩んでしまうのだ。
 意図的選択とは無意識の選択の結果失敗した時の忘れ難い後悔の念によって支えられている場合が多い。こうすれば巧くいくという経験則によって我々は何かを意図的にする。それは端的にそうしなければ巧くいかないから、そうではない仕方を意図的にしないように心掛けるということでもある。
 しかしそのような経験を反復し得るものと、生涯に一回しか経験し得ないような特殊なケースとでは本来行為に赴く決定に費やされる苦悩は段違いなのである。だからある気持ちを相手に伝える場合でも、その恋人や伴侶をゲットするという目的の場合と、そうではなく既にゲットした親しい間柄での場合とでは意味が異なる。相手に対して適切に自己の胸中を伝えるという場合、前者の場合真摯だが自然なる振舞いがより必要であり、後者の場合にも自然であるが、しかし真摯であることの方を強調する必要がある。そして他人を援助するとかレスキューするという場合、その振舞いが善意を表に出し過ぎると、途端に偽善とか自己欺瞞の匂いが立ちこめ、レスキューされる側に心の負担となって襲いかかる。自然に振舞うとはどういうことか、あるいは自然に振舞えないこともあるというところから、この問題は発生する。
 と言うのも自然に振舞うという考えそれ自体が既に人工的な考え方なのだ。そしてそのことを我々は既によく知っているのだ。自然に振舞うということを考えずに済むことが理想であると我々は知っている。だから自然に振舞うという言説とは、自然ということの中にそうではなく人工的に、意図的に、恣意的にということが既に含まれており、振舞うということの中に自動的にとか無意識的にとかの要素を含んでいるのだ。だから振舞うと態々言わなくても済む場合以外のケースが多いということを我々は先験的に知っているということなのだ。
 例えば意図するということの中には、そう意図しなくては巧くいかないという想定(認知、経験的記憶)が既に含まれている。つまり失敗を避けるという暗黙の認知がそこにはある。そしてその巧くいかないケースということの内には当然そうである場合行為そのものの意図の挫折から自分自身の人生での損失が想定されている。そしてそのような人生での損失とは引いては自分が他者とかかわる社会生活の中で円滑に自己能力を他者に示し得ないというところから信用とか信頼の問題に著しく損失を与えるということを我々は先験的に知っている。要するに自分にとっての行為の成否とはそれ自体既に他者‐自己の問題、すなわち意思疎通上でのモラルの問題を孕んでいることとなるのだ。そして重要なこととは、そのような行為の失敗ということは、行為の成功の後でしか告白したくはないということからも、行為をして、その行為による結果が望ましいということの報告のみで他者と接する時に満たしたいという思いそのものは既に羞恥というものが介在しているので、必然的に何か行為に赴く時に抱く意図とは、羞恥が失敗を忌避することを内定メカニズムとしては保有していることとなる。
 だから事後的に反省して得られる行為概念としての振舞うということの内には、無意識の内に私たちがそうすることで、自らの感情や意志や意図が特定の他者に示され得るということから発生する行為の結果を想定しているということを意味する。その想定それ自体も意識的である場合もあれば、当然無意識的な場合もあるだろう。
 私たちは健康な他者を望むし、病の他者を望まないので、たとえ肉親であれ、病によって醜くなっている他者を気持ち悪いとさえ思う。そう思ってはならないとしながらもである。だからこそモラル上で我々はその肉親をはじめ親しい他者に対してそういう気持ちをおくびにも出さないでおこうと心掛ける。それが愛する者同士でのごく自然な振舞いという概念を呼び起こすのだ。
 自然な行為は振舞うことと振舞われることが波長を合わすことを確認し合う内に達成されることもあるだろう。だから自然に何かがなされるということの内には持続的な反復という意図的な努力を要するということである。(このことは脳科学者の茂木健一郎氏もしばしば指摘していることである。)だから語義的には初めから巧くいくことを自然に行為するとは決して言わない。自然に行為するということの内には意図的な努力ということが含まれているからである。
 纏めよう。すると意図的であることが、他者存在を前提して含み込まれているモラル的な意識であるなら、意図的であることの内、無意識に失敗を恐れる失敗に伴う羞恥を回避する試みが含まれていると考えていいことになろう。ここに次の図式が得られることとなる。

意図的であること→他者存在とそこから得られる失敗に伴う羞恥の回避→羞恥を発動させたくはないという感情

 欲求レヴェルから言えば、私たちは常に自己同一性が先験的に備わっているとも言えない。何故ならある欲求とはある時点では最大であるかも知れないが、その欲求が充足され、実現されると、途端に最大のものではなくなり、新たな別の欲求が最大のものになるからである。
 脳自体もまた、決定されたことを行為することの持続、行為の没頭とは、その行為の結果が出されれば、次の行為をしようと考えが切り換わり、要するに脳はその時点で再び反省を強いられる。脳そのものが既に反省を時々求めるのだ。反省とは一つの区切りである。そして茂木氏の主張されるように、想起する時の脳内の作用と、創造をしようとする時の脳内の作用が類似しているということも、そのことからも理解出来るだろう。要するに次に何をなすべきかということは、過去の成功体験とか失敗体験を下に判断されることが多いからである。
 過去とは現在へと繋がっていると考えることが我々には出来るし、そのことを理解し、納得することで次の行為へと移ることが可能となる。少なくとも円滑に行為を転換し得る。つまり想起し、過去の出来事を再現しようと脳内で試みる時我々は新たな欲求が発生する。過去を、あるいは過去の現在における在り方(過去の在り方とは常に現在においてである。)に対する一つの決着、つまり解釈的な固定化こそが、新たな行為への構えを作る。つまり新たな欲求とは新たな行為に対する決意であり、それは新たな行為の創造の脳内での狼煙である。そのような現在を次になすべき行為に対する構えとして脳を活用することが、過去から現在へと時間が繋がっているという意識を得ることによってなされると言ってもよいだろう。そのような過去から現在へと繋がり、それが未来に対する構えとなる時我々は時間と共に歩む私たち自身の自己同一性を理解し、納得したと言い得るわけだ。だから想起が現在を獲得する、少なくとも現在の意味を理解させるとも言い得るし、これこそ大森荘蔵の力説してきた過去制作ということの実体である。想起はだから過去‐現在‐未来という図式そのものに対する理解から発生し得るとも言い得るが、実際はそれはほんの些細な部分であり、寧ろその時々の諸欲求の充足、未充足状態そのものに対する意識的、無意識的な認知そのものが、齎すだろうという意味では、ある意味では想起とは快・不快ということから齎されるものでもあるのだ。
 例えば楽しい時には辛かった過去の思い出を想起することで、ほっとしたり、現在救われていると感じたりすることが出来るし、現在辛い時には過去にあった楽しかった思い出を想起することで、自分もかつては幸福な状態にあったこともあると今現在の苦悩を紛らわし、自らを慰めることをするのである。
 想起とは快・不快によって恐らく全くその都度異なった現れ方をするのだろうと私は思う。そして想起と想像はやはり極めて隣接した脳作用なのだろうとも思う。そしてこの想像とは自己の死に対するものに代表されるだろう。つまり人間は他者の死を見て、自己の死に対する自覚を抱くのだ。とすると、我々は他者の死によって他者存在の脆弱さを知るが、そのことは同時に自己存在の脆弱さを知ることでもあるということとなる。
 このことはやはり永井均氏が極めて適切に記述している。(「<私>のメタフィジックス」より)

(前略)他者の身体もその外界にふくまれているという事実こそが、逆に他者の身体がそれから区別される「物」のうちに自己の身体がふくまれているという可能性の想像を許すのである。(205ページより)

 つまりここで説かれていることとは、端的に自己とは他者にとって取るに足らない存在であり得るその可能性を見いだすことによって、逆に他者存在が自己にとってどうでもいいものではないという認識から逆に、自己存在を他者にとってどうでもいい存在ではないもの(つまり「物」ではないということ)であらしめるには、他者に対する接し方とか、他者存在に対する考え方に依存するという単純な真理についての考えなのである。しかし勿論それを説諭的に、教条的に永井氏は語っているわけでは決してない。そういうものとして他者存在を自己存在の鏡として見るその見方の事実を述べているに過ぎない。そして重要なこととは他者の死に遭遇することによって、自己の死を我々が生の中に位置づけることを誰しも密やかに経験してきているということである。それは声高に誰かが述べたことでもなければ、一緒に考えることで理解したのでもないということなのだ。
 これはある意味では音楽がどのように楽しい音楽であれ、始まりと終わりがあり、始まりは生の起源、つまり誕生を表し、逆に終わりは死を表す、あるいは自然と形式的に象徴するところから、音楽が起源的にはあるいは葬送のためのものであったこと、死者に対する弔いが死者を黄泉の国へと送り出し、二度と現世には戻ってこないように祈念する(お祓い)という目的性においてリズムとメロディーをそこに乗せた、そしてその際に踊ったということが事実であるとすれば、より理解しやすいのではないだろうか?
 アートはその点逆に生きている人間同士はそのものの前に集い、別れるための里程標だったのであり、それは形式的には死を忘れさせる作用のものである。音楽が死の想念を喚起することで、逆にカタルシスを呼び起こすタイプの表現であるのに対し、アートは生の躍動を直接的に示すものであった(だから死を連想させるアートの誕生は宗教権力がアーティストに依頼するようになる歴史を待たねばならない。)、勿論そこに建築も含まれるのだが、それは他者存在の生きていることの証と、その他者存在に対する承認において自己を成立させる自己確立の目論み、つまり社会形成の起源としての個人として集合スペースへの参加ということであるのに対し、詩の朗読や音楽、舞踏は、その参加スペースにおける発話と、場そのものの雰囲気に対する同化を目的とした身体表現であったということから、空間的設定としてのアートに対して、人間の存在の脆弱さに対する言及という形での空間内表現としての詩・音楽・舞踏というもののあり方を永井氏のこの言説は想起させてくれる。そしてそれらの表現に不可欠であるのは、どの個体にとっても他者であり得る者に対する出会いと、出会いの予感であり、端的に他者存在の脆弱さ故に自己を自己あらしめる想念を育む場と場内の発話という基本形が横たわっているのである。
 しかし恐らくそういった場設定と、場内発話ということも制度的に目的性に随順して履行されていたわけではないだろう。そういった育みの全てに対して哲学者たちが意図とは何かを問うことを喚起するように半ば無意識に、半ば願望覚醒的に執り行われてきたのだろうと私は思う。そして集い別れるということは、端的に個人的に死を理解したということ、つまり密やかに死を自己の生に位置づけた者同士の生の中での出会いと別れをアートは育む場として機能し、詩・音楽・舞踏はその場の中で発話することの代理として(つまり説明不可のものの存在に対する成員同士の無意識の総意として)無意識の人間の願望を顕在化させる機能として存在し続けたと捉えることも出来よう。
 
 私たちは真意を知ることが難しいので、ある時には、特に何をなすべきか即座に理解出来ない時になど、殊更他者に迷惑をかけない範囲内で衝動的に何かをする。これは中島義道氏が「悪について」でカントが「実践理性批判」で対象としなかったことであるとしているが、要するに悪でも善でもない広大な範囲の衝動的な行為がある。それはある意味では無意味な行為であるが、さりとて人生に害悪を齎すようなものではない。少なくとも他者と共同体における責任論というレヴェルでは許される、あるいは公的事実として記録され得ない行動である。
 しかし真意を知ることが出来ないという認識と真意を知ればその願望や意志に従って行動したいということは共存し得る。だからそういう風に真意が明確で、その意志と願望に沿って行動するようなことを理想として、憧れを抱くというところから私たちは創作上での人物の行動に惹かれるのだ。そこに小説や映画、あるいは演劇のヒーローやヒロインに対して限りない関心を日常で示すという一面を我々は発揮するのである。それは衝動的に何かをするということと、その結果齎されることとの間での齟齬を常日頃から実感しているということから来る必然的な嗜好傾向であると言ってもよい。そしてだからこそ何か真意を抱き、その真意が有効な形で他者に伝達されればそれでよいし、いつもそうであるなら問題がないわけだが、案外我々は常日頃から真意が有効に伝達され得ず、しかも自然に行動することが難しい、それはただ単にその行動を円滑に執り行うための技術不足であるというだけではなく、その行動に伴う気持ちが有効に作用し、あるいはその行動に相応しい感情のあり方が自然に他者に伝達され得ないという苦悩に端緒のある齟齬なのである。だからこそ衝動をいい意味で円滑に運搬するようなタイプの自然な行動であることとその振りをすることの落差のなさを理想としつつ、つまりその行動に相応しい感情のあり方が行動と共に有効に他者に伝わることをすることに長けている、要するに演技のプロとか、表現のプロに自らの果たし得ない衝動的実現を代理的に託して、溜飲を下げるというわけである。
 人間はだからこそ観念に囚われやすいのだとも言い得る。つまりドラマや小説の登場人物たち、とりわけ感情移入すべきヒーロー、ヒロインたちの行動や衝動は常にポジティヴなものであるわけではない。ドストエフスキーの「罪と罰」のように金貸しの老婆を殺害しようと企て、履行するラスコーリニコフのようなタイプの者からカフカの毒虫に変身させられるグレゴール・ザムザのようなタイプのカタストロフィに陥るようなタイプの登場人物から、果ては銀行強盗にまで我々は感情移入してそのドラマや映画や小説の時間を生きる。とりわけ愛の破局や失恋のようなタイプの経験を自らの身に置き換えた時、決して現実において再現され得ないで欲しいと願うようなタイプの運命のヒーロー、ヒロインたちの行動や運命にさえ共感するし、その悲惨な運命の時間を共に生きることを喜ぶし、感動するのだ。
 寧ろ小説や映画の登場人物は大成功するようなタイプの行動とか運命よりも、生彩のない平凡でつまらない、あるいはある時は不運以外の何物でもないものの方においてより共感を示す。これは成功をした人でも同じことである。もしそれが本当に自分の人生の現実に起こったことであるのなら、即座にその運命を呪い、忌避したいと願うようなタイプの運命のヒーロー、ヒロインたちの行動に注視の視線を注ぎ、ある意味ではそうであるが故にこそ感動するということは、私たちは現実上でその登場人物のような共に最高の理想にはほど遠い生を、生活を送ることを余儀無くされているという側面からか、寧ろ今読んでいる小説の主人公よりはよっぽど自分の方が器用に世間を渡っているとさえ感じられるヒーローの行動の愚鈍さにさえ感動し、しかしそれが現実に自分の身に降りかかるということは完全に拒否すべき事実として知っているのに、その感動それ自体には何の日常的な矛盾を感じないということは、絵画が現実とは違うものであると知りながら、その壁画であれ、額縁絵画であれ、掛け軸空間であれ、それを鑑賞することを好む我々の日常と一にする日常的感情の選択であるということを意味する。つまり現実には只管避けたいと思うような悲惨であったり、平凡過ぎてつまらないと思えたりするようなタイプの現実の自分の方がよっぽどましであるとさえ思えるヒーロー、ヒロインたちの行動と運命の方により感銘を受けるということは、それが現実ではないからということがまず考えられる最も単純かつ重大な真理であるが、と同時に、どのような悲惨や退屈でも、それが一旦ドラマや映画や小説というフィクションに閉じ込められると途端にそれが挫折や敗北体験であってさえ、いやそうであればあるほど感動するようなタイプの現実に成り変るという不思議を我々は実は殆ど顧みることなく日常をやり過ごしているということなのである。それは挫折や敗北の中にさえ、我々はそれを生きる者のある理想を読み取りたいという欲求がある証拠でもある。
 つまり平凡であれ、非凡であれ現実そのものは常にシビヤである。要するにリアルであるし、そのリアルさから脱却することは不可能である。しかしだからこそ、自分の生きる現実にはないリアルを生きる者に対して、それが現実上での自分の愛する者や知人ではないからこそ、より共感し得る対象として無意識の内に選び取るということは、一面では我々は自分で知らない自分の中の深層心理に触れて、言語化し得ないようなタイプの理想を言説化して日常的な関心事項の中に位置づけたいということを意味している。だからこそある意味では真っ当な社会生活と適度に世間体によいと思われるような社会的地位を獲得している成員であれ、非日常的現実描写の小説や映画に惹かれ、ある時はバイオレンスを履行するようなならず者タイプのヒーローに惹かれ、冒険的であるし、社会通念逸脱的ヒーローの反社会性に対して強烈なエールを送ろうとさえするのである。それは現実がそのようなものではないからであると同時に、密かに人間がいつかは自分も愛する親族が死んでいったように死ぬのだと自覚する時と似て、自分もこの小説や映画や演劇やテレビドラマの登場人物のような反社会性を持ち合わせていることを確認し、そうしたいと内心愉悦の中でそう願っているからなのである。勿論そうしたいという欲望を一方に持ちながらも、我々はそう安易にはそうしないでいることを選択し、不安定さと不安とギャンブル性の皆無な日常を知らず知らずの内に最高の理想として疑う余地のないものとして選び取っている。しかし内心そうしながら、誰しも本当はもっと刺激的で、生きているという実感を確かなものにすることが明快なものとしての理想があるのかも知れないと誰にでも公言することなく携えてもいるのである。それは積極的に安全地帯に居座ることを選び取り、頑なに無変化的日常を選び取っているという惰性があるからこそ、それに反発する形で無意識の中にトグロを巻いているということとしてそうなのである。
 凡俗な反復と無変化という理想はだから、ある意味ではそこから幾分逸脱することを自らに許容し、他者に許容させる冒険的意図を欲求レヴェルで充足したいからこそ、あるいはその逸脱に伴われる生の実感を得たいがために取り敢えず間違いのないものとして選択してきているという意識も誰しも持っている。ここで再び自己同一性の問題が立ちはだかるのだ。
 要するに我々は公的な責務として責任論として、自由論に伴うモラル論として人格の同一性を求められている、あるいは求められているように自己を規制して生きることを選択する。しかし問題なのは、その同一性を最も疑っているのは、他者に対しては同一性を装うことを臆することなく選択する自分自身であるということである。それは哲学的には権利問題である。しかし権利問題であるのは、享受すべき、享受して然るべき権利ということ、つまり仮に日和見主義者であり、八方美人であるようなタイプの成員でもその者にとって採られた行動が称賛に値するとしたら、その者が日頃疎まれるようなタイプの行動の多い者であっても、そうではないタイプの成員と等し並に評価されて然るべきという社会的差別に対する考えからなのであって、寧ろ本人は常に自己同一であることを自然なことであるとは露ほども信じてはいないし、そうありたいと望んでいるわけでもない。それが何より自己欺瞞であるということを一番知っているのは自分自身だからである。あるいは記憶喪失者やアルツハイマー患者にはあらゆる意味で享受すべき権利(年金を受け取るべきであるかの)として、自己同一性が保証されて然るべきなのであって、それは対差別的、対偏見的なこととしての権利問題なのであって、差別のない社会というあり得ない仮想においては、願望レヴェルでは自己同一性とは責任的呪縛の苦痛以外の何物でもないとさえ言えるのだ。要するにある意味では権利問題として自己同一性を保証されて然るべきであるという思想そのものが、既に無意識の内に我々が総意として自分の中の反社会性を認め、その反社会性的気質に対して共感することを知っているということが集合されて、一つの歯止めとして作用していると捉えることも出来るのである。つまり権利を保障する全ての法的措置とは、言ってみれば端的に人間の性質的根源とは悪であるということの容認に基づいているのである。そして法とは悪に対してそれを歯止めするフィクションであるし、ただ法にのみつき従って内的なモラルや内的な人間的願望の希薄な者に対して軽蔑の眼差しを注ぐような価値観は、ある部分では極めて凡俗な市民性を裏切るような反逆的意図さえ有する反社会的意識でもあるのである。そのような意識は法という凡俗な日常に対して解放の意図を汲むような別のタイプのフィクションである。
 だから人間には歯止めをすることを保証するフィクションを、その歯止めから解放することを旨とするフィクションと常に共存させつつ、拮抗させてもいるのである。だからこそ生涯変わることのない見たり読んだりした特定のドラマや映画や小説に対する登場人物への共感とか創作全般に対する感動と同時に、読んだり見たりした時期に抱いていた感情や人生の局面とか人生の初期か後期に見たり読んだりすることによって変化する感動の質や有無といった両極のフィクションに対する感じ方というものがあるわけである。
 あるフィクションに対して抱く感想の違いは、感じ方に対する変わりなさと変わりやすさの両方を常に示している。要するに変わり得ぬものも有限であるなら、変わり得るものも有限なのである。そして変わり得なさというレヴェルで権利問題としての自己同一性が存在し、変わりやすさというレヴェルで自己同一性を保証するという権利問題が派生することとなる。
 するともう一歩踏み込むと、羞恥とは変わり得ない部分に対する着目によって問題化されるが、この変わり得なさとは端的に常にポジティヴなものであるわけでもないということなのだ。
 そして興味深いことには、人間は一方では凡俗で代わり映えのしない日常を権利として享受することを主張しながら、他方同時にその日常性を打破し、逸脱するような非日常的冒険やリスクをも権利として享受することを主張するのだ。そしていい気なことには、前者が有効に手中に納まった場合には、後者を求めるが、後者が手中に納まった場合でも、それが行き過ぎたり、ネガティヴな意味で運命のカタストロフィに陥ったりした場合にはすかさず前者を取り戻そうと試みるのである。
 それは他者存在に対する感じ方のレヴェルにも反映された願望である。
 つまりある時には他者を必要とするのに、ある時には他者を極度に忌避し、それとの接触を回避するという行動に我々は出る。哲学上でカントの善意志とは、理性とか良心といったものを持ち出してきた近代ドイツ観念論哲学上での知的冒険は、要するに私たちが巧くことが運んだ時には、その行動を支えた衝動が有効に作用したのだと知りながら、自らの衝動とその衝動によって齎された行動の齎した結果が思わしくない時(特に他者に対して注がれた結果がよくない時)に、衝動の責任にした、それは端的に衝動そのものではなくその行動の仕方、要するに振舞いそのものが稚拙であったがためにそうであるのに、衝動を悪者に仕立てあげてきただけのことである。へーゲルは「法の哲学」において諸論において衝動を意志や行動の誘引的起爆力として大いに取り上げている。だから衝動は不当に評価されてきたきらいはある。
 しかし他者に対して忌避的行動に咄嗟に出るという時には、自らのそういう衝動に対して羞恥を呼び起こす。つまり公的な良識という名の下で自らのエゴイズムを抑えようと少なくとも表面上ではそのように振舞わねばと思う。
 例えば先日私の住むマンションで私はエレベーターに乗った時たまたま同じく居合わせた私よりも年少の母親とその息子の姿を見るなり私は一瞬気持ち悪かったのだ。その息子が顔面中央を脹れた状態にしていて、所々血糊も付着して、晴れ上がった顔面で恐らくその母親が付き添って外科医院にでも行こうとしていたのだろう。私はその親子と全く親しい関係にはない、ただ顔だけを知っているというだけの間柄だったので、思わず、その晴れ上がった顔面に対してただ気持ち悪いという感情を抱いたわけである。勿論その時私は格別幸福な気分であったわけではないので、ある意味では極度に不幸に見舞われた状態の他人と遭遇することが不愉快というわけではなかったものの、一瞬もしその時の私よりももっと幸福な状態にある人間であったなら、そういう光景というものでさえ一瞬でも眼にしたくはないものの部類に属するのであろうと思ったものだった。だから私はそう思いながらも同時に一瞬出来る限り平静を装う、少なくともその息子と母親に対して注がれる視線においてある種の忌避したいという感情、つまり気持ち悪いと感じていることを悟られまいと心掛けたのである。
 要するに私は世間体としてその気持ち悪い光景をただ見たくはないものとしてあからさまに避けるということをいけないこととして認識したのだ。しかしそのように認識することとは端的に、気持ち悪いという感情をとりたてて面識のあるわけではない他人に対してなら、もしその子が自分の子だったり、親戚だったりしたなら、一瞬見たくはないという感情を抱かないでいたであろうものをそのように感じてしまうということの内に、実は私たちの中に、例えば交通事故に遭遇した時至急警察に連絡すべきではあるが、その日あなたが仮にそれから結婚式に出向く筈の花婿であるとしたらその場を他の人の良心に委ねて即刻立ち去るということを選択するかも知れないであろう。あるいは実際に私の周囲であったことだが、老婆が車にはねられた時、ある中小企業の社長は、他の周囲の歩行者の良心に委ねて即刻その場から逃げ去ったということも理解出来るだろうと私は思う。
 要するに私たちはモラル上では他人に対しても身内や知人と等価の公的な良心を発動すべきであると誰しも心得ていながら、その実身内や知人の間で起こる出来事と全く同じように良心を発動する者はほぼ皆無なのである。だからこそ責任とか良心とかモラルという観念が私たちの中で常に問題とされてきたとも言い得るのである。
 そしてその根底には他者恐怖という感情が巣食っているということが言えると思う。だからアートが古来より人類にとって集合と離散のスペースとして機能していたのではないかという私の推察は、一面では人類がそのような身勝手なエゴイズムを常に携えていることを知りつつ、他者恐怖とは他者が身近な存在になるに従って克服されていくという現実をも知る我々が、愛とは自然な衝動と、有効にその衝動が作用した時には問題がないが、その衝動が他者拒否の感情と行動に赴いた時には一挙に差別にも繋がるということを知りつつ、その拒否行動と感情の中に巣食う他者恐怖を克服する意図と意志においてアガペーとしての愛が作用するという理想論をも我々がアートや、そのアートを記したスペースにおいて詩を朗読したり、音楽を奏でたり、それと共に身体を揺さぶったりしてきたことの内に見いだすことが出来るとも言えるのではないだろうか?
 つまりそのような残酷さと身勝手さという我々の性向を、一瞬で忘れさせ、吹き飛ばす作用としてのアートや音楽、朗読、舞踏といった行為は、ある意味では陳腐で代わり映えのしない現実に対して、その現実の哀れさを表現の中に閉じ込めることによってより感動し得る体感性にまで高めることによって、自然に愛せるとか、自然に愛の振舞いをすることが出来るということが、そうは出来ないとか、振舞うという意識を発動させずには履行出来ないというような事実への懊悩そのものに対して、「そうであったっていいじゃないか」という提言として作用するような意味でアートとか音楽とかが存在してきたとも言い得るということだ。
 ニーチェは「この人を見よ」において生理学者は他者畏怖の感情を肯定的に捉えているとしている。彼はそれに対してモラル論者は否定的に捉えていることに対して批判しているわけだ。要するにドラマにした時ある人間の愚鈍な行動とか弱さとか、平凡さとか、無鉄砲な衝動とかさえもが感動し得る現実の対象、あるいは似姿になるということそのものの内に、恐らく他者恐怖感情とは、よくないことなのではなく、他者信頼を理想としてそれを克服すべきであるという意味で、必要なものであり、そうである生物学的には我々に他人に対する警戒心が皆無であったなら、生存を危ぶまれてきたということは言えるのだから、当然備わったその本能を、しかし一方では有効な形でエネルギー転換させることの可能性の中に、理想とか理性とか良心とか、あるいはそれら全てを含み込む愛を私たちは捉えてきたのである。観念的な姿をこよなく愛する我々にとってドラマ、映画、小説に描かれた行動や運命とは、それ自体が、愛というものの価値を教えてくれるものであるのだ、あるいはそういうものとして我々はあらゆるフィクションを利用してきたのだ。
 しかし愛は常に差別と憎しみも生む。だからこそ差別を愛と両立させようとしてアガペーを我々は措定してきた。だからエイズに感染した愛人の身体を、自らもエイズに感染することを阻止する形で接するという行為選択はそれ自体は苦悩の下であるのだが、決して否定することも出来ない。何故なら愛とはその自然な振舞いとして外見的に示されるものだけでもないからだ。それはつまり愛が行動的実践であると同時に理念的実践でもあることを示している。
 卑俗な例で言えば、それが意図的に達成し得ることもある(自然な振舞いとして他者に受け取られる)が、ある時には疎ましい他者に対して「あんな奴でもいいところもあるんだな。」と思えるような他者内真実のセレンディピティーということにおいても有用であると言うことは出来るかも知れない。勿論カントがそのように善を手段化する(有用であると認識することそのものに内在する自己愛)ことを断罪しようとしたことは一方で認めよう。しかしエイズに罹ってしまった愛人、恋人や伴侶を気持ち悪いと一瞬でも思うことを断罪しようと私たちがするのなら、逆に気持ち悪い、感染しはしないだろうかという恐怖がもし全く存在しないのであれば、逆に、その者を、あるいはその者の命や身体が、あるいはその存在そのものが愛しいという感情さえ抱けないままでいるかも知れないと思うべきなのかも知れない。
 自らが幸福の絶頂にある時に他者の不幸に遭遇したくはないというエゴイズムも、しかしそれがあるためにキリスト教の「汝の隣人を愛せよ」という言説が意味を持つのだとも言い得るのである。
 愛は存在論的にも意味論的にもその愛を踏みにじるような行動や振舞いによって寧ろ価値規範的に際立たせられている。つまりアガペーは他者存在に纏わる恐怖感情の克服と共に達成され得るわけだが、それは同時に他者に対する羞恥を他者の不幸を忌避することと同時に、それをエゴイズティックなものであると自己愛否定的に捉えることを誘引する克服材料であると考えると、アガペーにとって対他的羞恥は必要不可欠な要素ということにもなるのである。
 しかしアガペーとは人間がエロスに付き従うことそれ自体に対する恐怖が生み出した幻想であるとも言い得るのだから、当然人間は衝動論的には、それを有用化しても悪用してもエロス的存在ということになる。エロスは本論においてはネガティヴに捉えるべきものとしては取り扱わない。そもそも羞恥は、エロスによって誘引されて行動する主体における反省的、あるいはもっと醒めた言い方をすれば、メタ認知的な認識能力であるとも言えるのである。
 しかし人生とは残酷なもので、どんなに情愛的なエロスを感じ取って結ばれた男女であっても、結ばれたという既成事実それ自体が人生において組み込まれた途端に、それはただの凡俗な日常となるということである。それはある意味ではどのようなタイプの恋愛至上主義者でも、どのようなタイプの好色家であっても、ある種の欲求を成し遂げた後の一抹の空しさと共に感じ取る痛烈なる諦観であると同時に、その凡俗なる日常に支配されることそれ自体を肯定的に生において捉えることをも余儀なくさせるどんなに先鋭な哲学者であっても、生物学的法則には逆らい得ないという真実に対して強制的に目覚めさせるようなタイプの経験である。
 ある意味ではエロスの衝動によって結ばれた男女でも、その関係が日常化されるとそれは関係の維持と持続に意志を伴うようになるので、エロス的ではない形での人間的触れ合いが重視されていってしまう。これはエロスに伴う衝動のどうしようもない運命である。
 つまり真剣に愛するということはエロスの衝動に忠実であったという事実を相互に価値的に認識するということなのである。それは価値的になすということからも、愛する振舞いを、自然な形でなされた衝動とは別地点で意識的に反復していく必要性を生じることなので、振りをするということ、あるいは愛しているように演じることで、最初期のエロス衝動の純粋さを維持しようとする意志の出現を余儀なくされるということである。

 ここで再び振りをすることについて少し考えてみよう。
 振りをする振りをして本当はそのこと自体をしているということはあり得るだろうか?
 
 例えば舞台上の役者Aが演技で役者Bを叱責する場面で、迫真の演技でそれをしていると衆人環視の状況で役者Aは演技を離れた日常における役者Bの人間性に対して怒りの感情を持っており、思わず本気で役者Bにではなく、日常的場面での本人の人格に対して叱責する気持ちを入れてしまったとしよう。するとそれは彼にとってはただつい本気で役者Bの演じる役に対する演技としてではなく、役者Bの役者としての演技を離れた地点で彼自身の人格に対してそうしてしまったのである。勿論日常での役者Aから自分に対する感情を知っている役者Bは、それが演技であることを知りつつもどきっとしたかも知れないし、本当は役者Bが演じる役に対してではなく、役者Bの日常的人格に対して怒りの矛先を向けられていると見抜いたかも知れないが、そんなことは観客にとってはどうでもいいことである。要するに問題なのは、観客の前で地を出してしまっているのにもかかわらず、役者Aの役者Bに対する叱責が演技として観客からは受け取られたという事実である。その証拠に演劇そのものの進行上での必然性からただの一人もそれが演技ではなく、役者Aの仕事を離れた私情からの言葉であることなど露ほども疑っていないし、その誤解された迫真の演技に対して拍手喝采していたのである。
 つまりこのようなことというのは現実にあり得よう。しかしこの時役者Aの採った行動は真に役者としての職業的モラルから言って褒め称えるべきことではないだろう。勿論結果論的には観客から喝采されはしたものの、それと役者の仕事を離れた行動という意味では糾弾されて然るべきである。しかし勿論そういうことを役者Aはするわけはない。彼はただ内心は罪悪感に見舞われながらも、予想外に自分の採った枠を外れた行動が好結果に繋がったのだ。そういう意味では運命に感謝し、生涯このことは秘密にしたままでいることだろう。勿論心のどこかでは役者Bだけはことの真相に気づいていはしまいかという疑念と、そのことを誰かに告げ口されはしないだろうかという恐怖だけは密かに携えながら。

 私はどの集団に属しても、私だけが集団の中で異分子ではないだろうかという思いを必ずと言ってよいほど心のどこかでその都度抱いてきた。そしてそれは今でも変わりない。しかしそれは私以外の誰でも抱くようなタイプの思いなのかも知れないし、私が仮にそのことを誰かに告げた途端、私個人の固有のこの思いが一挙にその告げた者をも含めた一般的な事柄に転落してしまう。このことに関しては永井均氏もくどいくらいに述べてきている。しかし今私がそう述べたことは勿論一般論としてではないのである。私固有のそういった思いである。しかしこの文章を読まれる読者諸氏は、必ず、それを私、つまり散散・美散に固有の経験としてではなく、読者であるあなたにも思い当たる経験としてそれを受け取ることだろう。それは前記の例で役者Bが舞台の演劇上で、役者Aが自分に役者の演技として叱責した時に、彼自身勝手に日頃の役者Aとの交際において自分が叱責される可能性というものをどこかで感じ取っていたので、そう言われて、それが演技に違いないと思いながらも、どきっとするということはあるかも知れないし、役者Aの懸念とは裏腹に実際には彼がそう思い、役者Aが思わず演技を離れて役者Bに対する個人的感情をぶつけたのだと見抜いたという可能性の方が実は低いかも知れないというこの例にも当て嵌まる。つまり役者Bは演技としての役者Aの舞台上での自分に対する叱責を、心のどこかでぎくりとするということそれ自体が、私が今こうして書く文章の意味内容としての、私の集団内での疎外感情というものを、本来は著者である私の経験であるとして受け取りつつも、私のものとしてではなく、読者は読者個人の経験の中で思い当たることに照応して読んで納得する(勿論そういうことなどないと思われる読者諸氏もおられることと思うが)ということと同じ内的なメカニズムがある。
 つまり人間は知覚上で外界の全てに対して視線を注ぐ時、ある意味ではその視覚知覚対象としての全ての事物に対してそのものとして受け取りつつ、その事物から受け取る印象を絶えず、自分自身の内的な経験とか記憶上での全くその事物と関係のないことと照応させつつ、つまり知覚認知とは関係のない内的世界の思念と共にそれらを眺め、見つめているのである。そういう意味ではこの文章において私が、私は集団内で常に疎外感を抱き続けてきたという告白をあくまで私の告白であると知りつつ、そのことだけを念頭に入れてこの文章を読むということの方が恐らく読者諸氏には大変なことだとだろう。そういうことがある可能性とは、その読者が私自身、つまり河口ミカルという著作家に対する評論を書く意図で、この文章を読むような場合にのみあり得ることだろうが、その場合でも、純粋に自分の経験と切り離して私河口ミカルの経験としてだけ考えてこの文章を読むということは恐らく至難の業であろうと私は思う。(反論のある方はどうぞ私宛に意見をお送りいい頂きたい。)
 話しを元に戻そう。
 私は兎に角、集団内で常にそのような自分だけが浮いているという感じを抱いてきた。しかし恐らく私はそれが私に固有の経験であるにもかかわらず、心のどこかではそういう経験を、誰しもが一度は抱くであろうようなものとして判断したいという欲求を持ってもいる。つまりそのような形で納得して安心を得たいのだ。しかし同時に、この私に固有なものだと私には確固として思われるこの思いを、ではどのようにしたら、私に固有の思いであるかそうではないかということを私は知ることが出来るのだろうか?もし私がそのことを親友に告げたとしたら、親友は自分にも同じような経験があると言うかも知れない。しかしその時その友人の私に対する返答は、ただ単に私に対する同情心から、友人としての社交辞令でそう言っているだけかも知れないし、または彼は私に対してそういう風な経験が自分にもあると私の告げるその彼の経験が、果たして私が日頃集団において私が感じ取っている疎外感と同じ性質のものであるとどうしたら、一体確かめることが出来るのだろうか?
 ある意味ではそれは大体のところで知ることが出来るかも知れないが、同時に、正確には永久に知ることが出来ないようにも思われる。それは要するに私の痛みが、彼の痛みと同じ性質であるのか、それとも似ているように私と彼との間でそう相互に思えるだけのことであり、実際は確かめようがないのと同じことであるように私には思われる。
 そして今このように問う私の疑念そのものが、私固有の経験として今こうして書かれているにもかかわらず、そう書かれた瞬間その経験が「私の経験」という一般的記述として私自身と離れるということも不可避的な事実であるように思われる。だからこそ、この私固有である筈の私という人生における集団内での疎外という事実そのものが、私固有の人生上での経験と離れて、一般的な問いへと転化し得るとしたなら、それは何故かということも大いなる疑問ではあるが、ではもし私固有の集団内での疎外感というものを読者によって理解され得、つまり私に固有の思いの性格を実質的に知りえた時、それが一笑に付されることなく再び一般的な問題として作用し得るか否かということに対する疑問も、私には常に残る。
 つまりこのことは、孤独という感情は一般化し得ることなのか、ということと、そうではなく、孤独感情そのものがその感じられ方から、感じる質に至るまで個人毎に全部違うものなのか、ということとが密接に一つの問題として存在するという風にも考えられる。それは要するに一人一人全く違う瞬間に、違う状況で孤独感情を味わうのかも知れないということと、いやそれは同じ瞬間、同じ状況でそう感じるのだが、感じる人によってその性質が違うのかも知れないということの二つが常に共存しているということなのである。そしてこの問いも決して答えが見いだせないように私には思われる。しかしだからと言って私はその都度好きなように私なりに答えを用意すれば、それでよいということにもならないように私には思われる。つまりだからこそ私は常に私に固有の思いであるにもかかわらず、一人心に抱え込むことをせずに、思い切ってこうして文章にしているのである。つまりそれは私が私に固有の感じ方かも知れないと思いつつも、その固有の思い方をどのように読者は受け取るものなのだろうかということを知りたいと私が願うから思い切ってこういう風に告白しているとも言えるし、私に固有のこの感じ方を理解することの出来る読者の存在をどこかで望み、その存在に対する蓋然性を想定して私がこう書いているとも言える。そしてその二つは微妙に絡まり合って存在している。
 これらの問いは、しかしある意味では何故人が「~する振りをする」のかという問いの根拠になり得るように私には思われる。
 ある意味では「~する振りをする」こととは、そうすることが適切であるような場合に、積極的に採用される態度である。しかし振りをすることは、そうであると見抜かれるということは好ましいことでは当然ないのだから、効果的である状態とは「~する振りをする」の「~する」の部分だけで受け取られることが理想である。そしてそれが有効に作用して、「~している」と思われること、あるいはそうであることに慣れることこそが私が感じる孤独とは私に固有のものなのかという思いを殊更持ち出す必要性を思い起こすことなく済ますということを意味している。
 何故そうかというと、私の感じる孤独とは私に固有であるか一般的なことなのかという問いは立証不可能なので、それが何故そうなのかと問うことは、哲学的に必要であっても、日常的な時間の中で四六時中それを考えて過ごすことは人生そのものにおいては適切であるとは思われないからである。つまりそれは一日中考えたからと言って解けるようなタイプの問いではないということである。その問いを無効化するようなもう一つの考え(それを答えと我々は呼ぶ。)とはそれだけに拘って見いだされるものではなく、何か他の行為に絶えずかかわっていながら、ある時ふと閃くようなタイプの問いかも知れない。しかもある程度長い年月をかけて初めて仄見えてくるようなタイプの問いと言えるかも知れない。
 私が私に固有の孤独感とか寂寥感とは何かと問う時明らかに、私は答えを期待している。答えとは端的に「そうである」と決めることである。そうであると決めることとは端的にそうであるかも知れない他の広大な答えの有効性に敢えて眼を瞑ることなのである。そしてそれは言語の運命でもある。
 例えば私は海に行くとしよう。その時海が水平線にまで広がる景色を前に、雄大だとか壮大だとか言う時、その私の眼前に繰り広げられる光景全体を、私がそこにいるという事実に収斂させて、そう言うのだ。しかし私の身体上での全ての感官は、ある意味ではそういうメタ認知を無効にするような刺激と、言葉に言い尽くせない爽快感を伴っている。それをクオリアと呼んでもいいかも知れないが、兎に角私はそのように感覚的には明らかにある言葉によって指示されたものと別の言葉によって指示されるであろう間隙、つまり言葉と言葉の隙間をある言葉の選択によって捨てて話している。しかしその敢えて捨てるということをしなければ、私には他者に何も伝えられない。しかしある言葉と別の言葉の間隙ということそのものは、ある言葉を選びその言葉ではない別の言葉全てを選ぶことを捨てることを意味するから、当然ある言葉と別の言葉の間にある無数の言葉にならない感覚があることを私はどこかできちんと知っていることになる。つまり全てを語れないから何かを捨てて何かを言うことを選ぶという意思は何かを伝えるためにそれ以外の言い表し得る全てを捨て去る以外に方法はないという決意を生む、広大な示し得るべき全てを示すことの不可能性への自覚でもあるのである。だからそれは広大な風景を前にした爽快感に関してもそうであるが、孤独感とか寂寥感といったタイプの感情的な心の状態に関しても全く当て嵌まる(尤もだからこそ哲学や文学が営々と滅ばずに存在し続けているのだが)。
 ただ私は素直に「言葉には言い尽くせない」と語ることもあるし、「誰からも声をかけられないでいる時のような孤独感」という風に言語化することもあるだろう。後者の場合私はある言葉には言い尽くせない感情を敢えて何とか他者に伝えようとして、要するにある言葉を選択することに依怙地になっていて、素直になることを避けている。素直になるということはこの場合語ることをやめることである。しかし何かを語るということは他者の心を動揺させようと目論んでいることから来る必然的な私の意志と欲求のなせる技である。要するに素直と依怙地は同じフィールドにおける判断である。
 だから言葉に言い尽くせないクオリア的感動とは、言葉で言い表すということ(決意)の裏返しなのである。そして言葉を追求していくこととは、言葉では表現出来ないものの正体を知ることとも等しいのである。だからこそ本論において言葉で言い尽くせないことを次章で示そうと思うのだ。そのためにも依怙地になるということが、素直でいることをどういうことか、それがいいことだとか、そうありたいけれどそうはいかないということを承知でしていることであるということを示すということの意味があるように私には思えたのである。つまりそれがクオリアとエロスを概念とタナトスと対になるような図式で捉えることの有効性の中で思考する道を開いていくように私には思えるからである。そして次章ではまず言葉にならないという身体的体験、経験を考えるところから始めよう。

Thursday, November 26, 2009

第一章 羞恥の構造 第三節 日本人の羞恥とは何か

 私たちが通常伝統とか文化と言う時、それらを私たち自身の手によって守るべきであるとか、要するにそれらを我々の一つの財産として捉えることが多い。しかし伝統とか慣習とか文化といったものは一つの法であり、その法は時代と共に徐々に変化していくものであるとも言える。従って変化していくそのプロセスである現象を堕落であるとか、何らかの伝統とか文化の衰退であると言っても、それらはある意味では必然的な成り行きであるとも言えるのだ。もしそういう変化を一切赦さないものであるなら、いっそそのようなものなどない方がずっとすっきりするという観点から本節では考えていきたい。
 つまり私たちにとって伝統とか文化といったものはア・プリオリに存在するものなのではなく、ア・ポステリオリに選択するものなのである。どういうものを文化と呼ぶかとかどういうものを伝統として残していこうかという判断は極めて恣意的なものである。そういう意味では時代毎にもある程度の時代に固有の要請というものもあるだろうし、また個人毎にも異なる判断があって然るべきであろう。
 例えば言葉は徐々に変化し続けている。そういう意味では正しい言葉遣いという考えそのものが幻想であると言ってよい。勿論一定の秩序が必要であるという時代的な要請はあるだろう。しかし全て一律に何らかの法則に当て嵌めることが出来るほど一つの言語というものの成り立ちは実は単純なものではない。
例えばある文化を自ら好きだと他者に告げることを憚らないという日常的事実を考える時私たちはこう言うことが出来る。オリンピックなどの時に自国の選手を応援することと違って、例えばあるミュージシャンの音楽が好きで、その人が偶然日本人であるということがあるし、そのことに関連して言うのなら今日Bzなどの一流の音楽家が出現してくれたお陰で、最早日本人がロックを演奏したり歌ったりしても、「欧米人、アメリカやイギリスの真似だ。」などと世界中の誰も言いはしないだろう。つまりある素晴らしい作品や様式とか技術的なノウハウがまずあって、然る後にそれがどの国の人によるものなのかという事実が注目され、そしてそれが例えば日本人のものであるなら、私たちはそれを日本人の財産であるとか文化であるとか言って誇るわけである。しかしそういう判断を成り立たせるためにまず、私たちが個人でそのものを注目し、好きになったり、愛したり、凄いと感動したりといったことがあるわけである。つまり日本人が作ったものでも他の国の人が作ったものの方が優れていれば、そちらの方に軍配を上げるということは、最近でも水泳のスイミングスーツの例を見ても一目瞭然であろう。
 そして重要なこととは、最初は大勢の人によって好まれたり、評価されたりする作品や仕事があっても、それは最初はたった一人、あるいは極限られた人びとによる選択とか、あるいは注目というものがあるということであり、要するに仮に私が世間で注目を浴びているものに対して注目していたとしても、それはそれが自分にとって注目に値するものだからであり、世間の注目を浴びているからそれを注目したのでは決してないということである。そうなのだ、私たちは世間で注目を浴びている全てに常に関心を注ぐわけではなく、寧ろ好きになったものの中には注目を浴びているものもあれば(尤もある程度は注目を浴びているからこそその作品や仕事を私たちは知るようになるのだが)それほどでもないものもあるということである。そしてその点において世間に合わせるというようなことは現代の日本にはないと言ってよいだろう。
 しかし好きな音楽を聴いたり、好きな映画を鑑賞したり、好きな絵画を鑑賞したりすることに法はないが、では現代ではどのような音楽家が代表的な存在なのかと問うと途端に法的な意識になる。
 要するに法とは無意識の内にある意見に賛同してしまうようなタイプの、それでいてそれが自分の考えであると頑なにそう思ってしまうような通念も含めて私は捉えたい。
 例えば司法も法曹界もある意味では自らの判断に忠実なだけであるとは誰も思っていない。彼らの判断にも多分に時代的要請とか国民全体のその都度の反省的思潮的な傾向性に左右されている。端的にその時代のマスメディアと政治(それは何も強権政治ではなくても)に左右されている。しかもその都度の判断を彼らは自分の下したものであり間違ってはいないと確信している。
 しかし例えば遠慮がちであるが、極めて他者全般に対する配慮に無頓着なタイプの成員に対して、まさに中島義道氏の主張される(「たまたま地上に僕は生まれた」より)ように、その人だから嫌いであるというマイナスの感情とはそれ自体衝動的、生理的なものであるから理由なんてないのだが、そういう風にその成員に対して感情を抱いた場合、その者の欠点を優しく諭すようなことをする代わりに、その者が隙を見せれば一挙にその者の誠意を挫くような悪意ある皮肉や批判を繰り返すこととなっても、その悪意が功を奏せば、より快感なのでその度毎にしめしめと思い、やがてその悪意を強権的に発動する者の心理は問題児に接する教師のようになり(当然の権利と化する)、その者に対して恥をかかせることの快感に胡坐をかくようになるものなのだ。そしてその度にその者に対する揶揄とか侮辱が巧くいったと思い、自ら反省することがなくなるのだ。これもまた司法が政局とか一般世論にかなり左右されて判断しているのに(例えば裁判だけではなくどういう事件を立件するのかという警察あるいは観察判断も含めて)それら全てを自分の理性による正しい判断であると見做す自己欺瞞にかなり近いものとなる。威圧的な態度とか強権的な言説の全てはこの部類に入る。
 つまり人間は体制に順応したり、嫌いな他者の弱みに付け込んだりするような悪辣さを常に携えているということである。そして法とは順応すべき世間の潮流である場合もあれば、その者に対する規定的な思い込みにも介在している。そして法とは端的に人間の羞恥が呼び起こしたものとも言える。何故なら他人全般に対して公共的責任を常に携えているという一般意志(ルソー用語)は端的に、公共的なマナーを守らないで他者に恥じをかきたくはないという心理に根差しているからである。
 私は元来哲学者の内省的な独善が大嫌いである。そういう人種の反省的な態度とそれを清らかであると思って本質的には自己満足している風体と、それでいて自らを不幸振る態度を撲滅したいとさえ考えている。第一科学はフッサールの主張する(「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」より)ように限定された感性のみを正当なものとさせて合理主義的破綻をも齎したが、やはり総体的に見れば哲学よりはずっと人類に貢献してきたと思う。哲学的でなくても生活出来るが、どんなに哲学的に秀でている人間でも科学なしでは現代生活は送れない。私にとって思わずいじめたくなるようなタイプが哲学者タイプ然とした人間である。つまりこのように人間はぐずで弱弱しい人間をいじめたくなるような心理の持ち主なのだ。
 あなたは経験がないだろうか?体育の時間などに人より異様に着替えたりする動作がのろく、周囲の人間が規律に従って行動する時に足手まといになるような成員を見て、励ましたくなるどころか排斥したいとさえ思ったことが。これはことにチームプレイのスポーツでは顕著となる。しかも始末の悪いことには、自分がそういう風に集団の迅速な規律的行動からあぶれるタイプであると自覚している人間はより自分よりそうではないタイプを発見した時、励ますどころか寧ろ自分と同類ではないということを他者一般から悟られないように心がけ、その者に冷たい仕打ちをするようにさえなり、また自分の努力によって自分の中の他者全般に対して足手まといとなるような部分を克服した後は、寧ろかつてののろまでぐずな自分を思い出させるような成員に対していじめたくなるものなのである。実はこのような心理もまた人間の中の羞恥に根差している。勿論私は羞恥を一感情レヴェル以上の扱いをもって考えているのである。
 そして重要なこととは、何故だか思わずいじめたくなってしまうタイプの成員とは哲学者タイプの者、あまり才能のない(つまり巧みな技巧ではない)芸術家タイプの者に多く見られるが、要するにそういうタイプで自分はいいのだと開き直っている要するにタイプ然とした成員とは、その微弱な精神とのろさが他者一般のいじめたくなるような悪意を育てるのである。(その者がじっと耐えれば耐えるほどその忍従的姿勢そのものに対していじらしいどころか間抜け丸出しのその態度にいじめの誘惑を育てるのだ。)そしてそれこそ人間が自らの中に巣食う微弱でシャイな部分を垣間見られたくはないという欲望(このことではサルトルがサディストの誘惑として「存在と無」で記述している。)、つまり強がりたいという欲求に根差す羞恥というものなのだ。だからある意味では羞恥とは残虐性と隣接している。いやそれ自体でさえある。かつて日本軍の愚行などはこれに全く根差す。しかも人間は最初に弱者をいじめた者の勇気を賞賛し、共感さえするのである。そうすることで自らの中にある固有の弱さ、意志薄弱とか優柔不断に対する不安を共有し得るとしてほっとし、同一傾向の主体と結束するのだ。
 しかし私がここで言う羞恥とは自閉症とか神経症的なタイプの成員には当て嵌まらない。つまり通常の心理を持続出来る成員を基準にしている。
 つまりそういう通常の心理による成員にとって自己保身的な羞恥というものが相互に容認し合える関係を通常社会の通念ということになる。勿論悪の側面ばかりではなく通常社会にも正義も良心もあるだろう。しかしそれは私の考えでは限定的なものである。つまり自己犠牲を払ってでも守るべき正義や良心というのは仮にあるように思えてもそれは寧ろナルシスティックな美学から来るものであり、本質的には利己的な面が強い。自己内特殊的な価値規範によるものという意味でである。だから正義と言っても例えば司法が犯罪を裁く時、犯罪によって被害者が出現すると、その被害者による復讐心を煽り、ルソー的な特殊意志を発動させることを未然に防止する意味合いから制裁を代行するという意識によって法が守られているのなら、その正義は寧ろ人間の性悪的性格を周知の上で成立したものである。従って私たちは文化とか伝統と呼ぶ時も、それらは一般的には自己内の特殊意志を発動させることを阻止するようなモラルを性悪説的側面から適用したものなのである。文化、伝統、法といったものは端的に私利私欲的な欲求を抑制することによって個人の怨念を代行するような意味合いもあるのではないだろうか?要するに「私たちは概して皆こういう時こういう反応をするよね、ああいう時ああしたいと誰でも思うけれど、そうしてはいけないとも思うよね」という同意を暗黙に不動のものとする約定として文化、伝統、法とは端的にコードとして自然に張り巡らされるのである。
 では私たち日本人はどのような形で自己保身的に羞恥を介在させるのだろうか?そのことについて考えてみよう。
 私は民族固有の羞恥とは、その民族の最も密接な関係にあった隣国との折衝においてより屈辱的であったり、より劣等意識を生じさせたりという邂逅を巡る隣国との関係の記憶によるものであると考える。しかし羞恥をその場で発生させる感情論的なものとして片づけるわけにはいかないとも考える。つまり羞恥とは情動を意味づけるところの感情を誘引するようなものとしての起爆剤であると同時に、自我や誇りといった意識をも生じさせるものではなかったか?
 するとこういうことになる。民族の記憶はその民族の使用する言語が表している。だからアメリカ人やイギリス人にとっての英語が彼らの民族としての記憶を表現しているのと同じように、あるいは韓国人や北朝鮮人たちの民族の記憶がハングルによって表現されているような意味で、日本人の民族の記憶は日本語が表現している筈だ。だから日本語の構造については言語学者や文化人類学者に任せておこう。問題となるのは、言語という人類にとっても最も強力な道具であり武器である最大の他者に対して人類がどのように接しているかということ、つまり言語自体に対する民族の羞恥というものが言語行為を秩序づけるわけであり、それを言語空間という位相から捉える可能性を我々は見いだせる。
 つまり英語を使用するアメリカ人やイギリス人にとっての固有の言語に対する羞恥と、日本語を使用する日本人にとっての言語に対する羞恥とは、それぞれに固有の言語空間の在り方によって規定されているということが言える。勿論そういう言語行為を巡る文化と伝統は、先にも述べたように個人毎の判断が先験的に存在し、その判断の在り方という後天的な認識が民族の言語空間ということになるわけだが、同時に個人毎の判断という事実は、その民族の判断の在り方に依拠しているとも言い得るのである。それは恐らく同時的な相補関係にあると言ってよいだろう。すると言語空間は言語の文化や伝統にも依拠しているし、同時にその時代に固有の諸個人の判断にも依拠していることになる。
 では言語空間とは所与なのだろうか?ある意味ではそうだろう。しかし別の意味ではそうではないとも言える。つまり羞恥とは一つの能力である限り、意志とか努力以前に既に一つの所与であるという意味では各民族固有の言語空間は文化、伝統的な意味合いから所与であるが、同時にその文化、伝統というものが時代毎に固有の諸個人によって構成されているとしたら、当然それらもまた意志とか努力、あるいは固有の試みであるとも言えるからだ。それは言語習得能力そのものは人類不変の能力であるから所与であるが、個人毎に異なる言語理解能力や駆使力等は本人の意志と努力の賜物であるということからも明白であろう。
 日本人にとっての言語空間は明らかに江戸期、明治期、第二次世界大戦終了後の戦後といった三つの時代において固有の在り方をしてきたと言える。江戸期の言語空間は、恐らく室町時代以降の武家社会の完成期にあったと言えるだろう。しかし明治期に至って初めて日本人は世界的規模で言語空間の在り方を模索した。インターナショナリズムの登場である。そして戦後日本人はそれ以前の江戸期とも明治期とも異なる全く固有の言語空間を形成させたと言える。それはどういう意味においてそうなのか、それは江戸期には閉鎖的国家意識による異と他という意識、明治期は世界的規模の成員としての同と異という意識、そして戦後は世界的規模であることは継続的であるが、日本人の敗戦や侵略体験の挫折による固有のルサンチマン、つまり対自己的な羞恥の介在である。
 江戸期までの日本人の羞恥には異国に対して自国の誇りを顕示するという意識が直接的な形で表明されていた。実は今日の日本人の極端な遺伝子組み換え食品等に対するアレルギーはこの時期までの前西欧科学的固有の科学観に根差している。日本人は無農薬野菜とかそういう発想が好きだし、遺伝子という言葉そのものに既にアレルギーを抱いている。しかしこのアレルギーは世界でも恐らく固有の在り方である。
 しかし明治期にはその固有の民族的誇りに対して抱かれる羞恥、慎ましさが、世界成員としてのエスタブリッシュメントとして脱亜入応という形で工業化と生活レヴェルの先進性の獲得という形での高度成長を遂げる。そしてそのプロセスにおける大陸侵略と敗戦があり、その結果日本人は民族的誇りの顕示という羞恥から、民族的誇りの隠蔽という羞恥へと転換したのだ。だから今日の日本人の羞恥は民族伝統的なものではなく戦後に固有のものである。要するに価値倫理的に民族の誇りを顕示することそのものに対する躊躇が介在し、その躊躇が固有の羞恥の在り方を決定し続けてきたのだ。それは明らかにある部分では敗戦そのもの、大陸侵略を巡る贖罪意識によるものだっただろう。しかし同時に高度成長を遂げるに従って獲得していった経済社会としての世界的規模での優位的地位に伴う日本人固有のグローバリズムという意識もある。日本人が考えるグローバリズムと欧米人(勿論各国家毎に異なる)の考えるグローバリズムは異なる。まず宗教的死生観において異なるし、文化、伝統、及び言語に対する羞恥の在り方でも異なる。
 今日に固有の羞恥とは一方で敗戦体験に根差すが他方では国際的地位優位に伴う満身に根差す。つまりコンプレックスと優越意識の綯い交ぜとなった状態でのものである。そしてそれが江戸期以前からの固有の自民族=同に対しての異という形での羞恥と複雑に結びついている。つまり羞恥とはどのような時代でもどのような国家や民族の状態でも介在するが、その在り方は時代毎に固有のニュアンスを帯びるということである。
 私は「民族の記憶はその民族の使用する言語が表している。」と言った。これは例えば明治期に編み出されたであろう平和という概念は、その当時と現代日本では全く異なった様相で使用されているということをも意味する。つまり現代社会において世の中とは仮に日本国内においてであっても、それは他国、例えばアメリカ、EU、アジア諸国、中国、ロシアを含んでいる。つまり関係においてそれらの外国の存在はどんな庶民でも認識しているという意味ではやはり明治期と異なった使われ方であると言ってもよい。つまりその国の国民が使用する言語自体が民族の記憶を物語っているような意味で、恐らく個々の語彙も戦後日本固有の時代設定的な意味で平和とはアメリカと全面戦争した後に築き上げられたものという理念を帯びているし、世の中とは日本国内の出来事であっても不可避的に外国との貿易や経済流通的側面から外国人という存在を介在させているという意味では戦前や明治期とは本質的に異なった使われ方をしている。同一のベクトルの事項を表している同じ語彙が、内実的な意味論としては全く異なった性質を保持しているということが出来る。そういう意味では言語自体、あるいは言語行為自体の認識をも、つまりそこに介在する羞恥の本質をも異なった位相で我々は言語を利用しているということから変化させているのだとも言える。例えば明治期では親に対して子どもが意見するというようなことは考えられなかったが、現代社会では親子の間柄は勿論のこと、同と異の認識さえ、地域社会的な閉鎖性からではなく、グローバルな視点から考えられている。あるいは多層的な人間関係、職場と家庭という二本立てだけでは納まりきらない関係、ネット上での人間関係をも含めて、上司や経営者でさえ絶対的存在ではないし、若い投機家もいるし、対話性とかディベート性といった位相から一般庶民の会話の意味、言語行為の存在理由さえ戦前や明治期とは圧倒的に何もかも意味的様相を変化させているのだ。それは端的に皇族や天皇陛下の存在理由を筆頭に、全ての社会的地位、全ての階級にまで及んで明治期や戦前と同一のものなど一つも見当たらない。職業的な優劣とか色眼鏡さえ今日では殆どなくなったと言ってよい。恐らくそのような記憶を未だに会話の内容に介在させているタイプの成員は現代社会の根本的な動向とは無縁な立場で生きている人に限られている。だからこそ急速に変わりつつある語彙の規定の仕方、あるいは日常会話内での慣用句の使用の仕方の変化は私たちの未来がある意味では羞恥の在り方をも急速に変化させつつあるという実感を切実なものにしている。だから普遍的な何らかの日本人に固有の羞恥があるとすればそれは意味論的範疇のものでは決してないだろう。もっと根本的な一人称的視点と三人称的視点に関わる間主観性とか私とは何かという哲学的命題にかかわる差異としてなら、江戸期及びそれ以前、明治期、戦後社会に通底する共通性が炙りだされて来るかも知れない。ではそのことに関して今度は考えてみよう。
 繰り返すこととなるが、概念とは例えば平和にせよ、平等にせよ、職業にせよ常にそう変わりない。しかしその語彙をある時代に使用するという事実には、その時代に固有の概念使用の意味があるということである。つまりある概念を使用するという行為の裏側には常にその概念使用を巡るその時代や状況固有の理由があるということである。
 そして日本人が戦争に関して平和と言う時、それは中国その他の大陸、半島で行なってきたことに対する贖罪の意識を介在させるということの裏にはただ単に戦争に敗北したという事実があるからなのである。戦争とは端的には戦勝国において贖罪の意識は生じない。要するに敗戦国側だけが戦争をすることの愚かさを実感する。だからアメリカによって原爆を投下された事実も、そういう状況へと自らを追い込んだという贖罪意識から、幼少の少年少女までが広島や長崎の平和記念日において平和の尊さという語彙をマイクに向かって発せさせることとなるのである。しかしこれがもし日本が戦勝国であったなら、全く様相が変わっていたことだろう。平和という概念は戦争をして獲得するものであるという意味作用を帯びていたかも知れない。
 それに戦争それ自体は敵側の人間を抹殺することが巧くいけばいくほど愉快なものなのだ。端的に戦争という一種の知的ゲームはそれ自体に内在する巧くいくことに付随する快楽によって人類はなかなか今でもやめられないものなのだ。これは殺人にしても、テロリズムにしても、組織内の裏切り者に対する制裁にしても全く同じ精神構造によって支えられている。いや裁判でさえそうなのである。裁判とは本質的には犯罪者に対する見せしめを遂行することそのものに正義の名を与えるショーなのだ。
 だから日本は武家社会形成期から幕末開国期まで延々と戦とそれに備えるという社会体制を採ってきたのだから、たとえ幕末期において戦争が長らくなかったとしても社会倫理上では武士は自らによって法に背き、藩全体に迷惑がかかった時には腹を切らねばならなかったのである。よって介錯という行為は最後に武士に残された情けであったということになる。それは多分に集団内秩序を乱すことに対しては責任を取るという精神のものである。それは明治期以降切腹が廃止されても、辞任、退任、辞職といったことにおいてその名残がある。あるいはある一定の時期を置いてから平常の制度へと戻す禊という概念もその名残である。これらは端的に日本人に固有の羞恥を表現している。それはかつて戦国武将たちの多くが出家したこととも関係がある。戦争というものは、多くの犠牲者を生み、その勝者とは多くの犠牲の上で胡坐をかくこと以外の何物でもない。
 しかし私はここでヨーコ・オノが主張するような意味で戦争に本当の勝者などいないということを主張したいのではない。
 中島義道氏は約十年に渡る自らの思考の軌跡を「たまたま地上に僕は生まれた」でエッセイと対談、そして講演記録という多様な形式で一冊に纏めているが、その中の9 イヤでも働くことの意味 において9.11の同時多発テロが起きた時、経済の打撃とか、攻撃の理由とか世界情勢に行く末に対しては不謹慎であるが一切関心が持てず、哲学者らしくあの行為が意志によるものなのか、決定されていたことなのかの方により関心があったと告白している。しかしこの見方はかなり健康的な見方であると言える。私自身はあの時「来るべきものが来た」という感想だった。それは恐らく湾岸戦争時にまで遡る中東のアラブ過激派のみならず多くの市民の抱いていた反アメリカ感情の一部が突出したという気がしたからである。しかしここで私が強調したいことというのはそんなことでは勿論ない。
 私があの事件に対して特別な悲しみも驚きも感じなかったのは、端的に自分の死ではないからである。例えば戦争に赴く兵士を例に取ってみようか。私は一平卒として上陸作戦を任じられているが、隣に今か今かと上陸して敵陣に突進することを待つ私の戦友がいるとしよう。さあ上陸の瞬間になり、私たちは一目散に敵陣目掛けて銃を担ぎ突進し始めた。しかしさっきまで戦艦に乗って話をしていた戦友は上陸後直ぐの敵の砲撃か銃撃に遭い、即死したとしよう。しかし私にしてみれば、その戦友が撃たれた時にはいくらショックでも、恐らくそれでも介抱すれば助かる見込みがあるのなら、そうしようとするだろうが、何分敵側からの砲撃や銃撃の最中でもあって、私はその戦友が死去したのを一瞬見届けた後は気持ちを即座に切り替えて、自らの敵陣に対する攻撃の意志を貫こうとするだろう。さもなくば私もまた彼のように敵からの砲撃や銃撃に負傷してしまうだろう。だから出来る限り私は敵側からの攻撃を避けながら前進することに意識を集中させようと咄嗟に試みるだろう。このような状況下では私にはその戦友の死を悲しんでいる暇などない。
 しかしこのことは実は人生全体においても言えることなのだ。つい先達ても私の親しい知人が一人亡くなったが、その友人との会話を想起したりもしたが、基本的に私は生きているし、社会的な責務を全うしなくてはならないので、私はその知人の死をどこかでは完全に自分のこととは完全に切り離してある意味では冷酷になりきり、醒めた眼だけを大切にしようと試みる。それが生きるということなのではないだろうか?それは私が私の父が死去した時にも感じたことであった。いかに私がその時悲しかろうと、翌日には親戚一同が会する葬儀をどこかで巧く遂行しなければならないという責務的な感情を介在させずにはいられないというのが、人間が生きるということなのだ。
 また先ほどの9.11の話に戻すと、ある意味では現代社会に生きるということは、そのニュースがどんなに悲惨なものでも(例えば中島氏の指摘のようにある9.11が自然現象によって人が大勢死んだ場合と違い全く異なった感想を多くの人が持ったであろうような意味であったなら、それは意志と決定論の狭間での問いを産出するのだが)そういうニュースというのはいつ何時でも起き得ることであり、時として知る可能性があるということである。つまり現代では自分の住む地域とは離れた地球の裏側のニュースまで瞬時に報道されるので、そういう現実に慣れっこになっている私たちは、どんなに悲惨なニュースでもその事実が直接私たち自身の生活に何らかの影響を及ぼさない限り、そのニュースに対する反応を醒めたものとして受け取る習慣そのものが既に身についているのである。そうでなければ始終びっくりしていなくてはならないからである。
 つまりそういう意味では他者の死とは、その他者が極めて自分の日常生活に直接的に、特に精神的支えとなっている場合以外は、通りすがりの人の死と大して変わりないようなものとして受け取ることを習慣化することが強いられている、それが現代社会に生きる、生活するということでもあるのである。
 だから逆に世界の出来事としてなら、恐らく私の死とはとりとめのない、そして決して報じられることもない些細な日常でしかないだろう。しかし私にとってはそれこそが自らの世界の終焉を意味するのだから、逆に生きているということは、かつて作家の五木寛之氏がテレビでも述べておられたが、生きているということはそれだけで死者の犠牲の下でぬくぬくとしている狡く罪深いことであるということはある意味では正解である。だから私は前作では死者の魂によって自分が生かされているということを肝に銘じるというようなある種のモラルからそう思うのではなく実感するのである。しかしそう感じていられるのは、自分がある程度健康で正常な日常生活を送れる限りでのことでもあるのだ。
 例えば戦争で敵側の兵士を殺すことは兵士の義務なのだから、上陸した私はついさっきまで船上で会話していた戦友が死んだことはその時はショックだったが、やがて敵兵を射殺して、武勲を積み重ねるに従ってその友の死は平凡な日常的な出来事に一つとして私の強烈な印象とか記憶内容は後退していくことだろう。またそうでなければ、そして敵兵を死に至らしめる度に、内心うまくいったと思わずには恐らく私はその上陸した戦場を兵士としての義務を全うしつつ、行き抜くことなど出来はしないだろう。
 そういう意味では戦後日本人は原爆投下を米軍によって遂行されたことをある部分では免罪符として、大陸や半島で多くの市民を巻き添えにした贖罪意識に伴う精神的ダメージを潜在的に和らげる役割を果たしているとさえ言い得るのである。それはある部分では自分の祖先の犯した罪をより無意識の内に直視することを回避したいという欲求と、少しでも正当化したいという自己欺瞞とが綯い交ぜとなった心理的な作用でもあるのである。そこに私は逆に日本人もまた、恐らく9.11の悲劇をアメリカ人が少しでもイラク戦争で多大の犠牲を敵側に齎した事実(それは殆ど報道さえされない隠された事実として隠蔽さえされているのだが)を精神的に隠蔽するのに役立てているような意味で、自己の罪状を直視し、その事実をより克明に自らの記憶の中に留めておこうとすることを困難にするものもまた、一種の回避的な衝動であり、一個の羞恥であると言えるのだ。
 要するに羞恥とは精神分析的に言えば自己保存欲動的な部分に根差しており、だからこそそれは残虐とか冷酷と隣接しているのであり、それは生物学的にならもっと必然的な個体維持に必要な鈍感さを生み出すものでもあるのである。そしてその鈍感さを生み出す羞恥に日本人に固有の在り方というものが果たしてあり得るのだろうか?それがもしあるとしたなら、それは民族が祖先から口述されてきた歴史的意味内容の伝わり方に影響を受ける自民族中心であり、ご都合主義的な自己欺瞞的な記憶内容の刷り込みであり、それは恐らく全ての民族が内心の平衡状態を保つために採用していることである。だから逆に言えば私たちは自民族の悲劇を、自民族の犯した罪を一時でも忘れさせてくれるために寧ろ必要としているということでさえあるのである。
 だから日本人にとっての原爆投下という米軍の事実は、私たちの祖先の犯した罪を一時忘れさせてくるための有効な装置としてその歴史的事実が作用しているということであるのだし、そういう無意識の内の作為とは私たちが日頃から絶えず行なっているものなのである。だからひょっとしたら、そういう残酷で無責任な心理を正当化するために私たち生きている者は死者の魂に感謝の念を抱く必要があると自分で実感しているように私たちの脳が働くのかも知れない。それはある部分では自己逃避的な意識からのものであるかも知れない。つまり死者の魂に拠り所を求め、それを尊重することで自らの内的でエゴイスティックなご都合主義的心理に歯止めをかけてくれる神に対する尊崇の念によって救われたいと願う自己本位なのかも知れない。しかしそういう心理になるのも無理はない。本当に人間とは自己本位の生き物だからである。
 私は先日東京国政ブックフェアなる催し物に東京ビッグサイトまで出掛けた。その一貫としてゲストの脳科学者の茂木健一郎氏の基調講演を申し込み、出版社から郵送されてきた招待状を持って、少し早い、未だ東京ビッグサイトが稼動する時刻よりも先に国際展示場まだりんかい線で到着した。そしてビッグサイトの周辺を散歩して朝のすがすがしい空気を胸一杯に吸い込んだ。
 その時感じたことなのだが、海に面した遊歩道からゆりかもめの基地周辺を歩き、再び頭上に大きな建造物である東京ビッグサイトが差し迫ってきた時、周囲には未だちらほらしか人の歩いていない時間帯だったせいもあり、自分一人でその巨大な建造物とその周囲の空間を征服したような気分に浸っていた。そしてこの建造物を中心として巨大な施設が何か外部からの圧力によって粉々に破壊される状況を勝手に想像して愉悦に浸っていた。そういう想念を抱かせるのに早朝の殆ど人のいない巨大な施設に一人でいるという状況はまさにうってつけであるとその時私は思った。そしてその時同時に早朝の満員電車に乗って出掛けていた時、私が座るすぐ近くで咳き込む若い女性がいて、彼女が撒き散らすウィルスに感染する危険性を私は察知して必死に彼女の方に顔を向けるのを避けていた。その時私ははっきり見知らぬその若い女性の存在を疎ましく思った。しかし理性的に考えてみれば、彼女もまた満員電車の中で見知らぬ前に立つ男性のする咳から風邪かインフルエンザに感染していたのかも知れない。しかし微熱があっても無理して会社に出勤しなくてはならなかったのかも知れない。そういう風に考えることは出来るが、その咳き込む彼女の存在を一瞬でも厭で疎ましいと思わないでいられた人は周囲に何人いたであろうか?つまりそれだけ人間は常に自分本位で行動し、生活上でいかに人に差別すまいと理性的には考えることが出来ても、いざそういう局面に立つと、まず自分にその人の持つウィルスが感染しはしないかと懸念する。私が巨大な建造物を眺めて歩いているのが私一人であると、その建造物が破壊されることを想像することが楽しいということは、ある意味では全ての世界の存在は私のためにある、という意識を私が常にどこかでは持っているということを意味する。だからどんなに悲惨な運命の不幸を背負った人(軽い意味で言えば満員電車の中で咳き込む女性もその内の一人である。)がいて気の毒にと思ったとしても、私は咄嗟にそういう人と関わり合うのを避けようとする。それでいて、私自身がそういう立場に立った時、私を避けるようにする他人を私は憎む。
 その後、東京ビッグサイトに人が入れるようになって、私は茂木氏の講演会場に足を運び、講演を聴いた。その時茂木氏の人気によって千八百人の聴衆が集まったことを主催者側による説明で知った。その時再びこんなことを思った。もしこの会場に背広を着込んで人間の振りをして入場するチンパンジーがいたとしたら、即座に会場の係りに外へ連れ出されるだろう。しかしもし現代に冷凍保存されていたネアンデルタール人が発掘解凍され、蘇って人間の着る背広を着て会場を訪れたとしたら、そしてそのネアンデルタール人の発掘解凍を知らない会場の係りは果たして彼を一人前の人間と同じ扱いで処遇するだろうか?そして会場に入ることが赦される成員とは、基本的にどのような条件を満たしていればそれで何の差別もされずに処遇され得るのだろうか?例えば知性は人間以上のものを持っているのにもかかわらず、まさにドラマというものが演技による虚構の表現であることを見抜けないようなタイプの異星人であるなら、そういう者は見かけも人間とは異なるだろうから、会場の係りに必ず一度は呼び止められるか、警察が出動要請されるかも知れない。
 そういう場合私たち人間の判断とは、果たして彼らに対して差別していないと言い切れないだろうが、果たして差別とその行動を呼ぶことが出来るのだろうか?あるいは人間としての成員であるという判断そのものには本来そういう差別意識が既に介入しているかも知れないが、それは仕方のないことなのだろうか?あるいは、人間でもそのように即座にその場に相応しくない成員であると了解されない者も存在するとしたら、果たして他者全般に対する配慮とか礼節とは、どのような形で構成されているのだろうか?そこには既に差別されない人だけを処遇するという意識が介入していないとは言い切れないだろう。
 結局茂木氏の講演はブックフェアに相応しい本の存在理由をネット社会と両立し得るという比較的氏の普段抱いている考えをざっくばらんに語った爽快な内容だったが、一時間の講演の末、残り十五分を質疑応答の時間に主催者側が当てたので、私は早速手を挙げて質問をした。その時私は
「私は本業はアーティストなのですが、茂木さんとだいたい同世代です。そこで茂木さんからアーティストに望まれることとは何ですか?あるいは、私は実は哲学に関心があり、N先生の下で哲学を学ぶ者でもあるのですが、茂木さんから哲学者に望まれることとは何ですか?その二つについて何か一言仰って頂けませんか?」
 と質問したら、茂木氏は
「アーティストというのは既成の価値概念を覆すような仕事をなさって頂きたいです。そして哲学者とは今日この頃よく見受けられる辻説法的に大衆に媚び諂うようなタイプではない、もっと「お前たちなんかに俺たちの考えていることなんかわかってたまるか」という態度を示しながら、同時に大衆をその中に呼び込み、リードしていくような姿勢を期待します。」
 と述べられたのだ。(その際N先生の下にいらっしゃる方ならご理解されることと思いますが、と氏は付け加えられていた。)
 しかしこの茂木氏の言説は、ある意味では極めて矛盾して困難な要求でもある。アーティストに対して抱かれた感慨はよく理解出来るが、哲学者に対しての要求としては、二つの相異なるベクトル、一つは大衆に背を向けること、そしてもう一つは大衆を引き込むことを同時に要求するということの内には氏自身の哲学者に対する多大な期待が感じられたからである。そのことを親友のK氏(社会教育学者、大学教授)に電話で報告すると、氏はまさに私が茂木氏の回答に対して感じた過大な期待を「二つの矛盾した方向の要求だね。」と述べた。氏は私同様茂木氏の目を見張る活躍に関心のある方である。
 要するに人間はそのように過大な要求を他者にも自己にもかける存在であるということだ。
 例えば先に例に挙げた咳き込む満員電車内の若い女性は、ある意味では一番苦悩する存在であるのに、大半の人びとは彼女のような存在を迷惑がる。人間は不幸な人間を救いたいと願うどころか、なるべく自分よりも不幸な人とは接したくはないという心理の生き物である。それでいて「そうではいけない」と考える始末の悪い動物なのだ。要するに瞬時の生理的要求を、理性的判断とは全く別個な形で価値的に位置づけることをするのが人間なので、当然のことながら、茂木氏の主張されるように、一方で他人の目を気にすることなく思索に耽ることが哲学者に求められているが、同時にその姿勢を大衆とは隔絶した地点でのみ安穏としていてはいけないと常に悩まなくてはならない、要するに相反する二つのベクトルを常に同時に携えた存在であるという認識を私たちは持たなくてはならない。
 だから例えば私は日本人であるので、常に日本人的な考え方もするのだろう。しかしそれでいてアメリカ人のことを理解しようともするし、時として世界の中の日本人という位置づけを拒否すらしたくなる。つまりたまたま日本に生まれ育ったから日本人であるという偶然性を強調し、それでも尚日本人としての自覚を持つとすれば、それは自然とそうなっているのではなく、意図的にそうあらねばと選択したと考えたい。それは一部そう考えたいような意味で自然にそうなのだが、やはり一部は意識的にそうしているとも言える。
 つまり何かあることを自然となすことに臆するとしたら、それは日本人であることから来るごく自然な習慣である部分と、そうではなく、たまたま私個人の資質によるものである部分とが常に密接に隣接していて、その二つが純粋に乖離しているわけでもまく、またどちらか一方だけが完全に支配しているでもない状態というのが常ではないかと私は思うのだ。つまり私は常に日本人でありたいと願いつつも、同時にたまたま日本人なのであり、一世界市民であるという意識をも持っていたい、自分で自分のことを日本人であると思うのならいいのだが、急に見知らぬ他人から「お前日本人だろう」と言われることは極度に嫌悪する。これは本節のタイトルである「日本人の羞恥とは何か」という問いそのものを拒否したい願望と、いやそう真面目に問わねばという気持ちが常に入り混じっているということも意味する。
 しかし一般的傾向としては哲学そのものが不在である日本人は例えば愛するという心情と、愛する振舞いということが一致しているのか一致していないのかというようなことそのものを論じたり、考え抜いたりすることが概して嫌いである。だから日本からシェークスピアのような天才が出現しないのである。だから敢えて言えば日本人は真に世界市民という発想を環境問題とかそういう政治的レヴェルでは世界に発信出来ても、精神的な基盤ということに関する限り限りなく希薄である。故にもっと日本人であるとはどういうことかと問い詰めていく必要があるように私には思えるのだ。
 結論で私はこの日本人の世界市民であるという発想を一見受け容れながら、その実「お前日本人だろう」と言われることを極端に嫌う一面とは、日本人が世界に向けて日本人であるということを公言することを憚るような羞恥、つまり敗戦体験と、大陸・半島侵略体験に根差すものであると思うので、この歴史的誤りに起因する羞恥というものを日本人という枠からだけではなく世界のどの民族にも共通のものとして捉えて、しかしそれを民族的、共同体成員的な意識としてではなく、もっとマクロに他者存在に対する羞恥というレヴェルから羞恥の本質を捉えてみたい。

Friday, November 20, 2009

〔羞恥論‐素直と依怙地<衝動論第二幕>〕第二節 依怙地でなければならない時

 羞恥とは隠蔽するからこそ悪となり得るのだ。そして哲学的悪とは必ずしもそれをするべきではないとは断定出来ないということだ。つまり必要悪ということはあるということだ。そしてこの節ではこの必要悪をより深く掘り下げたい。そしてこの場合素直であることは抵抗することであり、他者に阿らないことであり、ある時には攻撃することであるということである。
 それもそうであろう。通常大人社会では素直であることだけが態度として善であるとは決して認められることではないどころか、積極的にそういうことの方がより少ないのであり、真意を全て告げる者はこの社会から葬り去られるというケースの方が殆どである。
 寧ろ真意を告げることがより有効なケースとは社会的な成功者のみである。彼らにおいては、寧ろ演技したり、偽装したりする権利を主張するよりも、より真意に忠実に発言した方が信頼されるということがあり得る。それが世人一般の求めるところだからである。
 素直に真意を語ることとは敬遠の対象となるということを覚悟しなくてはならない。それは国家であれ、省庁であれ、法人であれ、要するに何らかの集合体のトップリーダーに関しては完全なる真実である。つまり彼らは端的に自己によって宣言したことや、既に彼の外部から半ば要請として強制された要望に忠実に、決められた信念によって行動をすることが求められており、その責任において、仮に億劫であっても、より困難に感じられていたとしてもその真意を告げることが許されないということがあるのだ。つまり彼らは端的に依怙地であることだけがある部分では求められているということである。
 例えば弁護士事務所を開設したばかりの経営者である弁護士のチーフは、恐らく対外部的には全くクライアントが訪れない場合でも、多少の誇張を伴って「色々な顧客の方がお見えになられます。」などと偽装することだろう。それを馬鹿正直に全く誰も来ませんと報告する者はいない。このような虚勢的な偽装報告は日常生活では随所で散見されることである。要するにどういう局面は真意を告げたり、真実を報告したりした方がよいが、逆にどういう局面では真意を隠蔽し、真実を報告することを絶対してはならないかということは、極めてその判断が難しい。だから依怙地という表現には語感的には、そのように意地を張る必要もないのに、そうしてしまうというニュアンスがあるが、経営をスタートさせたばかりの弁護士事務所のチーフにとっての対外的な偽装とは責務であり、端的にそれを依怙地とは言わないだろう。しかしある意味では資本主義社会であっても、その経営とか経理といったことにおいては依怙地になることもあるし、だからこそ逆にあまり今後の経営に自信のない場合は退陣するとかそういう潔さが本当は求められている場合もあるのである。しかしそうなかなか潔く決断出来ないのが人間なので、どうしても対外的なポーズを常習的に採ってしまうということもあるのだ。
 つまり公的なこととして責務と依怙地ということを履き違えるということがあり得るのであり、公的である筈の決断が私的なものになるという危険性があるのだ。そして依怙地であることとは私的なこととしては、あまりそれを連続していやっていると端的に自己を窮地に追い込むようなことを招く。本当のこと、つまり素直に自らの弱点を認めることが出来なくなるので、次第に精神的に窮屈になっていくのだ。だから逆に本当に自己の権利を守るために奔走しなくてはならない時とか、一歩後退することが許されない時というのは、依怙地であらねばならないものの、語義的には依怙地と言うよりは、決然としていると言うべきかも知れない。しかし決然であるとする意志とか決意とは、実は依怙地になろうとする意志と決意によって顕現され得るとも言い得るのだ。
 だからこう考えてもよい。通常あまり他者に対して攻撃的である必要性に迫られていないようなタイプの、言ってみれば善良っぽい対応だけで世間を渡ってきた者が、いざ本当に対他的に決然とした態度を特定の他者(大概が敵対する感情や利害を持った者であるが)へ示す必要性を感じた時というのは、かつて自分が依怙地になって失敗したこと、例えば素直でなかったばかりに損をした経験が逆に役に立つこともあるということである。自らの成功体験がいざとなって時に役立つこともあるが、往々にして成功体験によって得るものが多いのは、自らは一層落胆しているような時のみであり、寧ろ自らの失敗体験によって得るものとは、意外と決然とせねばならない時の方であり、そういう時は端的にかつて自分が他人に示したことのある悪の部分の行動なのである。つまり依怙地となって散々な目に遭ったという経験が逆に悪をもって悪を征す場面では役立つのだ。こういう時帰却って善良っぽい行動だけで対処してきた紳士的性格の人間は往々にして立ち往生するか、決然と出来ないばかりに何ら踏み込むことの出来ないまま自らが相手の思うままに利用されて悔しい思いをしながら、諦めるということになることが多いのだ。
 つまり依怙地であるということは、通常時では損をすることの方が多いし、素直な者の方がより得をすることが多いのにもかかわらず、非常時には極めてこの種の捻くれた経験が役に立つということである。
 勿論依怙地にならないで済む場合も多いし、却って自己内の悪の部分に必要以上に目覚めてしまったが故に損をすることになる場合も多い。しかし一度もそういう悪を発揮せずに、何をやっても損をするようなタイプの人生を送ってきた者にとって、依怙地になることで、相手が納得したり、それまで仕掛けてきた悪辣さを引っ込めることだってあるのだ。そういう風に功を奏した場合我々は明確に相手に対して本来なら悪辣な依怙地を仕掛けただけのことはあると溜飲を下げることが出来る場合もあるということである。
 この種の事例では、日頃のビジネスシーンにおける同僚間のジョークとか、皮肉とか、アイロニーとか、適度の敵対者に対する挑発という意図は、功を奏せばある程度の効果を持って寧ろそれ以前までの善良さだけで対処してきた人間関係に風穴を開けることに繋がる場合も多いのである。だからと言ってこの方法は多用すると墓穴を掘る場合があるから、効果的であった場合であればあるほど一回で打ち止めにしておくに限る。つまり依怙地さを発揮して他者を挑発して効果的なのは、一回こっきりということである。つまりそれ以上数回も仕掛けると、今度は仕掛けた方がより犯罪的意図のようなものとして受け留められるようになるからである。それは私たちが日頃冗談も度を過ぎると嫌がらせとかいじめにも繋がることになるということでもよく理解しているのではないだろうか?
 政治家はこの適度の他者に対する揶揄とか仕掛けること、ジョーク的な中傷の仕方が巧い方がより政治的指導力を発揮し得るということも言い得る。だからそれが極度に下手で効果的に仕掛けることに自信の持てないタイプのリーダーはそういうことを一切しないで済ます必要があるが、それでも慣れというものにとって多少の依怙地的悪辣さを発揮しないではいられない局面というものと必ず遭遇するものなのである。時には自分の不器用さを守るために悪辣な他者からの挑発や仕掛けに応報する必要がある。
 依怙地であることとは、ある意味では信じたいということ、あるいは信じられないということを極度に嫌う状態である。だから例えば信じていた者が自分に対して、あるいは自分が愛する者に対して邪険な態度を示したとしよう。しかしその者は、自分にとってそのような態度を採る筈がないという先入見があるから、当然その行為をそう振舞っているが、それは何らかの事情によってそのように演技している、あるいは邪険な態度を装っているのだと思い込もうとする。すると、その者の本来とかけ離れた自分に対する態度を依怙地に偽装であると信じるようになる。しかしよく考えれば相手を尊重するということは、尊重しているのにそうではない者が採るような態度を示したり、人権を無視したりするような行動に出るということがないということなのであり、尊重しているの邪険な態度で応対するということは語義矛盾なのである。
 例えばある異星からやってきた宇宙人がいて、人間と同じように対話することが出来、たまたま地球上での対話に彼が同化したとしよう。しかし彼の星では演劇とか映画とかドラマというものが一切ない文明だったとしよう。彼はあるホームドラマを観て、そのキャストの女優が途中で役割上死んだとしよう。しかし別のあるドラマでは元気に会話しているのを彼が観て「おかしい、彼女は死んだ筈だ。」と主張したとしよう。するとそこにいた地球人が「それは別のドラマのことでしょう。」と言ったとしよう。そしてその時初めて異星人である彼は自分の星の文明にはないのでドラマという語彙を覚えることがそれまでなかったことに気づき、「ドラマって何のことですか?」と尋ねるだろう。しかしそれを聞いた地球人は「そんなの冗談なんでしょう?」と尋ね返す。しかしその時「だって、さっき別のチャンネル(その語彙は意味を理解し使用することが出来る。)で観ていたら、そこで彼女は臨終を迎えた筈だ。」と真顔で主張する。この時地球人はその真顔であり別のドラマで違う配役をしているということそのものを理解していないからこそ真剣に彼女が女優であり、演技で死んだ振りをしていたことを理解していず、本当に死んだものと理解していたということを知るのだ。つまり彼はドラマというものが配役に俳優がなりきっている見世物であるということを理解してないということに気づくのである。そこで彼は異星人に対してドラマとドラマを演じる俳優というものについて文明の一つの様相である演劇文化とか映画文化について語り説明し始める。しかし彼が真剣に異星人に対して啓蒙する気になったのは、彼が真顔で彼女が死んだことを別のチャンネルで知ったことを告げるその表情とそれなのに今つけているチャンネルで別の役で出演しているその女優が生きているということはおかしい矛盾する、まさか彼女の幽霊ではないのかと訝る彼の訴えそのものが「何かを信じることが出来ない」という事態と完全に合致しているからなのである。
 つまりある感情を抱くということと、その感情を表現するということ、つまり態度や仕種、表情や会話する言葉の意味内容といったもの全ては必ず志向的に同じベクトルを示していなくてはならないということなのだ。だから逆にある者が抱いている筈の感情と全く異なったその感情の表現と真逆の態度や言説がその者から示された場合、それは最初に彼がこういう感情を抱いている筈だと考えたいたことそれ自体が考え違いか思い違いか勘違い、あるいは判断ミスであったと考えることは極めて自然である。それが素直にその者の感情を理解するということであり、本当は自分のことを尊重しているのに、態度や別の他者がいる状況で自分に対して侮蔑的な表情や言葉をかけるということは感情とその表現というレヴェルから言えば矛盾しているのである。だからその者に対して自分に対して尊重している筈であると信じていた場合、そうではない態度や表情、言葉をその者から得た場合、その者の自分に対する感情が暫く会わない内に変化したのだろうと考えることは自然である。しかし私たちとは本当は仲がいいのに仲が悪い振りをする必要がある場合もあるし、その逆で本当は仲が悪いのに仲のいい振りをする必要がある場合、例えば演技ということはあり得るということを知ってもいるということである。それと同時にもし異星人がどんなに説明されても演劇とか映画という表現上でのフィクションそのものの存在を意味あるものとして信じられないのであれば、どんなに彼(地球人)が異星人にその演技と俳優ということを説明しても、依怙地になって「いや彼女が死んだところを私は確かに別のチャンネルで確認したのだ。」といつまでも言い張るに違いない。そしてそのような主張がどんなに依怙地に見えても本当は素直なだけで、演劇とか映画とかでの演技上での虚構という現実に対する非理解という彼の感情に、その依怙地な主張とか、彼固有の演技とか俳優という現実に対する「信じられない」ということ、「何故本当ではない振りをするそんなものを地球人は見たがるのか」という疑問に対応した態度とか表情とか言葉としてそれらの言説は極めて自然に合致していると言えるだろう。
 しかし重要なこととは、その異星人は、まず俳優の演技ということを知った上でそれを楽しんでいたのではなく、端的にその振る舞いが本当のことであると思って観ていたということである。そのように演技とか虚構を本当のことであると信じ込んでしまうということについて次は考えてみよう。
 実際には好きな人に対して本当の気持ちを告白することが出来ずにいるということ、あるいはとりわけ若い世代の女性が好感を持っている男性に対してつっけんどんな態度で出るというようなことはあるかも知れない。しかし本当に好きではない相手に対して好きである風を装うということは少し矛盾している。つまり好きであるように振舞うということは、本当は好きではないのだが、例えば凄く尊敬し、感謝している両親から薦められてあまり乗り気ではないのだが、そのことを表立って告白することを躊躇して、ある縁談を快諾するように振舞っているような場合に考えられることである。しかし結婚することになる相手に対して抱く乗り気ではない感情を態と押し殺すような場合にこそ、私たちは好きである風を装うという表現を使用する。しかしそういう場合本当の気持ちは振舞いから乖離している。だが本当の気持ちを抑制する願望がより強い場合には、その振舞いや装いの方が自分の本当の気持ちであるように考えるようになる。するとその本当の気持ちに蓋をしているような場合、周囲の者たちがその振舞いや装いの方をてっきり信じてしまい真意に気づくことなくその者の振舞いや装いをやり過ごしてしまうというようなケースなら考えることが出来る。だから逆にその振舞いや装いを振舞いであり装いであるように見抜くということが、その者の真意を汲み取るということになる。だから逆に本当は我が子が自分たち両親の意を汲んで真意ではある相手と結婚することを全く望んではいないのに、自分たちに合わせて合意している、真意での乗り気のなさを隠蔽しているような場合でも、「いい子」を振舞う我が子の態度に感銘を受け、我が子の結婚をする意志を真意であると思いたいというような場合、往々にして自らの事業のためにある相手と我が子が結婚してくれるという理想的状況を前にして、本来なら両親とは我が子の幸福だけを望むべきものなのだがその子の「いい子」振りがあまりにも自らの実利に合致しているので、我が子が自分たちに気を遣うことに甘え自己欺瞞に陥り我が子の振舞いを振舞いとしてではなく、真意であると思いたいので、そのまま受け取るというようなこともあるかも知れない。それだけ人間は自らのエゴイスティックな願望に忠実であること、とりわけ実利的なこととしてはそうなりがちであるということである。しかしそういう我が子の振舞いに甘え、子どもがもし不幸になっていったのなら、その時我が子の配慮に甘えた自分たちの考えに対していつしか後悔する時が来るかも知れない。
 しかし問題となるのは、自分の遺伝子を持った子どもの幸福とは自分自身の幸福とは違うということであり、それはある時には自分自身の幸福とも対立するということを知り、しかし自分の幸福よりは子どもの幸福を願うか、それとも自分の幸福を願うかという選択肢が存在するということなのである。性行為というものを自らの遺伝子を持つ子孫を生み出すための行為であるとして割り切るなら性行為に纏わる快楽は然程重要なことではなくなり、射精し、その射精された精子が相手の子宮に着床すればそれでよいということになったり、射精された精子が自分の子宮に着床されてくれればいいのであり、自分が相手が射精する瞬間に然程性的快楽がなくても大した問題ではないということになったりする。しかし人間はその快楽が半減することに不平感を抱くようになる。と言うことは、すなわち人間は自分の遺伝子が自分の死後に残存すればそれでよいのではなく、自分自身が生きている間に味わえる自分自身の身体を通した幸福を求める生き物であるということになる。だからこそ性行為を相手との密着感を味わうためのものであるという意味ではボノボと同じように生殖目的ではない性行為をすることを正当化するに留まらず、性行為の際に介在する固有の快楽を求めることすらも正当化するようになる。
 アメリカのテレビドラマで「エンジェルズ・イン・アメリカ」(アメリカ・カナダ制作)というものがあった。(マイク・ニコルズ監督)このドラマには主に一組のゲイのカップルを中心に、その周囲の妻、そのカップルの一人がエイズに感染して死に直面している時に、そのパートナーに接近する潜在的ゲイ的傾向者、そしてその妻(性的欲求不満を抱いている。)、そしてその潜在的ゲイ的傾向者にとって上司のゲイの悪徳弁護士(エイズに感染している。そして自分の資産で高額なエイズ治療薬を沢山保管している。)、そして彼(潜在的ゲイ傾向者)の母親といった人間関係と人間模様が描かれていた。しかしこのドラマで最も主張する役割は、エイズに感染したカップルの男性の元カノであり、悪徳弁護士のかかりつけの看護士ベリーズである。彼は性接触を持つことはあっても、決して生では接することなく、入院している悪徳弁護士が吐血した時も冷静に手袋を嵌めて彼の治療を施す。要するに彼は理性論的には自らの生存を義務として捉え、しかし性的快楽追求(勿論それは精神的であると同時に肉体的である。)のためには自らをエイズに感染させないような配慮を常に怠らないでいて、相手と性交渉に臨む時も、そういう意味では醒めている。ではこの男性は果たして相手に対して懐疑的であるから愛の実践において道義的に劣ると言えるのだろうか?少なくとも相手に対する配慮を重んじるばかりに自分までがエイズに感染することを阻止する理性を持ち、エイズを蔓延させることを予防して、自らの生命を持続させているという観点からは彼は賢明であると言える。しかし同時にそれを徹底させている限り、逆に相手の心情云々よりも、自らの性的テイストを満喫させるためにのみ性行為を行なっているという限りで彼は心情的には不純である。つまり彼は責任倫理に徹底しているのである。
 自分がエイズに感染しても、自分の息子や娘がそうでなければ、別に構わないという感情もあり得るだろう。例えばエイズに感染した相手を愛した息子や娘の代わりに、その感染した相手のパートナーを買って出るという選択肢もあり得る。しかし同時にどんなに自分の子どもが幸福であっても、自分自身は不幸であることは耐えられないとする人生観も成り立つだろうし、息子や娘がどんなに健康であっても、自分自身が死に直面していることそれ自体はどうにも耐えられないとする気持ちもまた自然である。それは結局のところ、人間は自分を中心に展開される人生を基軸にしかその在り方を考えることが出来ないということに帰着する。
 「エンエンジェルズ・イン・アメリカ」で示されていた性行為と愛情というワンセットとなった実行に対して、性行為を快楽のためのものとするということと、性行為を相手に対する愛情ということにする(それはゲイでもあり得る。)ということのどちらに比重を置くかという選択肢、つまり性行為は相互に自己快楽を追求するためのものであるなら、自分がエイズに感染することを予防することが最も望ましく、しかし相手に対する心情的な配慮に徹するのなら、自己予防的な理性は二の次であるということになる。責任に比重を置くか、心情に比重を置くかということについては、他人であれば前者を、自分の肉親であれば後者を選択するということが最も一般的な考え方ではないだろうか?だから他人の誰と性的接触をする時も必ず性病予防には余念がないということと、エイズに感染した相手を愛した息子や娘の代わりに、その感染した相手のパートナーを買って出るという選択肢は両立し得ると言えるかも知れない。
 この場合依怙地であるということは、自分の下す判断を絶対的に正当化して、後悔が出来る限り行為遂行後に少ないようにしようという心理において自然(素直)である。他人に対しては自己保身を責任として、社会的に正当である権利として認識し醒めた待遇を他人に対しては施し、且つ自分の遺伝子を分けた存在者に対してはよりその遺伝子存続を目的とする遺伝子レヴェルの判断=心情を優先し、自分よりも我が子の幸福を優先するという選択肢は存在する。しかしもし自分の子孫に幸が及ぶことを選択しても尚、それで自分が不幸になることはそれはそれで耐えられない(若くして親となって自分の幸福にあまりにも結婚生活が支障をきたす場合離婚を選択肢するということもあり得る。)という考えがあってもそれもまた自然である。そしてこの場合両方の選択肢が自然なものとして依怙地にそれを主張すること自体が素直であるということになる。つまり素直であるということは拒否においては依怙地であることそのものが素直であり、相手の願望が自分の願望と一致しているとして受け容れることを望む場合のみ素直に素直であることになる。自分の息子や娘が自分の思い通りになるということは、当事者が無理をしてそうしている場合でも、自分の意を汲んでくれているという事実が、自らの理想とか願望に沿ってくれているということで、仮に我が子が幸福である振りをして親の意に従う場合その子自身の幸福とどれだけずれているかという判断を曇らせる場合も多々あり得ることなのである。要するに人間は自分が望むような結果を示してくれるということに対して受け容れることを拒否することがなかなか辛いと感じる生物なのである。勿論「リア王」で描かれたようなタイプの親子の情とか絆というものも他方ではあり得るのだが。このドラマの場合振りをしない関係こそが、最も相手に対する愛情であるという考えが潜んでいる。
 ここで考えを纏めておこう。
 愛があるから通常私たちは相手(性的パートナー)を愛でる。愛撫する。しかしエイズにかかっていてもそうするか?エイズに共に感染することは本当に愛と呼べるものなのだろうか、ということは、ある意味ではキリスト教倫理にも関係してくる。愛とは他者に対する責任ではないのか?そう考えることも出来るからである。
 この場合キリスト教的には自殺を阻止させるモラルであり、要するに生き続ける意志である。
 しかし性的振舞いをすることに纏わる快楽が肥大するということは、ある意味ではこの種のエイズに罹った者とは生では性交渉を持たないという知恵と関連してくる。そしてそこまで行く(つまり性行為で得られる快感自体を相互に追求することがエイズに罹らないように注意する知恵と結託する。)とそれを愛と呼べるのだろうか、という疑念が生じる。つまり自己肉体の快楽を得ることをするために、異性愛情表現であるところの性行為を選択するからである。これは一種の肉体維持のためのエゴイズムではないのかというもう一つのキリスト教的原罪の観念が浮上する。
 ここでこう考える。エイズ感染者に対して、その者が愛する性的パートナーであっても、性行為、キスといった全てを頑なに拒否する(依怙地)ことは、責任レヴェルからは愛と呼べるだろうが、表現レヴェルでは愛とは言えない。愛する者同士が愛する振舞いをすることは自然であるという真理には悖る。何故ならエイズ感染の肉体とは、性行為を生ですることは憚らせるものであるという観念には、必然的に死者の肉体と性行為をすることを禁じることに通底するものがあるからである。しかしエイズ感染する恋人や配偶者は未だ紛れもなく生きている。
 しかしそこには行為目的論的な意味では「せめて私だけでも生き延びて、未来においてエイズで死すこの者の生きていた間の行状を他者に伝えていく」という使命に忠実であるとも言える。つまりエイズ感染者の性的パートナーとの接触を拒む者の心理と見解には、死者の肉体に対する性的接触に対する拒否という選択ではなく、生きているこの者の「精神の存在の意味」を伝達するということに主眼があるからである。ここで思わぬところから未だ潰え去っていない心身二元論が出てきた。ここに纏めると二つの選択肢が見解として示される。
 
 ① 責任ある愛(自分だけでも感染せずに生き延びてエイズで死した者のことを別の他者に語り続ける。)を依怙地に愛する者との生の接触を拒否することを選択する。
 ② 愛する性的パートナーとの生の性交渉をしてでも、表現ある愛を遂行する。その結果エイズに共に感染することになってでもその愛の表現を大切にする選択肢を採る。(これをジュリエット型の選択肢と呼ぼう。)
 
 ある意味では②のジュリエット型の選択肢は、愛とは、愛する者の死をもって終わりとする、寄り添い必定型の選択肢であり、心情倫理的な考えである。そしてそちらの側からすれば①の選択肢を潔癖であると言うよりは寧ろ薄情であるとするだろう。ここで図らずも私たちはこの二つの選択肢において、前者は心身二元論を無意識の内に選択し、後者では心身一元論を無意識の内に選択肢しているということに気づく。ここに愛することは愛する振舞いであるとか行為であるということにおいて、それらしい仕方だけではないとする前者と、いや常套的ではあっても、やはり自然であるという意味では後者であるということや、愛している振りをして愛していない場合もあれば、逆に愛していない振りをして愛する場合もあるということを私たちに喚起させる。だが少なくとも依怙地であることと素直であることは、ある一面だけからは総体的には理解し得ないということだけは確認出来たのではないだろうか?
 しかしここで問題となってくるのは哲学的定義の問題でもある。例え従来の哲学では①を理性とか、意志と呼び、②を衝動と呼んだ。そのような語義上の使用の仕方という意味では例えばJ.L.オースティンも変わりない。(「オースティン哲学論文集」坂本百大監訳(J.O.アームソン、G.J.ウォーノック編)161ページを参照されたし。この後の記述に関しても概してこのページに示された記述が元になっている。)しかし私は①をもそれ固有の衝動によるものと考える。それはある部分では極度に羞恥によって招聘された態度であると同時に、自己保身的な実利主義的な判断でもあるが、それら総体を衝動の一典型として捉えることを提唱したいのである。オースティンは明らかに自分が経験したことしか他人がすることにおいて理解することが出来ないということについて、ある感情を他人が確認して、それこそが怒りだと自分に対して提言したのと同じように、怒りだけではなく症状をもそのようにして理解するのだとしても、症状にして必ずしも他人の症状を自分自身が経験することなど出来ない場合もある(例えば男性とは妊娠出産は経験出来ない。)ことを鑑みると、それは総じて例えば味が他人と自分が相同の感覚で享受されているかどうか確かめようがないような意味で、私たちは他人の怒りも、症状も完全に理解することが出来ない以上、その怒りの感情や症状の痛みそのものを、そういう振舞いをしていることを確認して判断するしか手がない。ならばいっそそういう振舞いをすることを喚起するある種の意志伝達的なものも衝動と捉えられないだろうか?それを本当はそういう風に振舞わないで、自らの怒りをあからさまに表に出さないでいる場合、その怒りをオースティン流に言えば<信じている>と言い、そうではなくあからさまに他者が理解出来るようにそれ流に怒っているように振舞うことを<知っている>と言うとしても、前者が他者存在に対する配慮による羞恥(依怙地という名の)によるものであれ、後者を他者存在そのものを慮り過ぎていることを悟られることに対する前者とは逆のベクトルによる羞恥(素直という名の)だとしても、私たちはこの二つに関して前者を理性的判断そして後者を衝動と安易に識別してよいのだろうか?それはある感情に対する他者存在を考慮した(それは意識的であれ無意識的であれ)即時の判断であることを考えれば、この両者を衝動の性質の違いと考えた方がより哲学的に自然ではないだろうか?
 つまりその時々の衝動の性質によってある時には他者に対して怒りを表現することを憚り、ある時には怒りを表現することを躊躇わないということである。それは全く症状による病んだ状態そのものに関する表現をすることを憚ることとそうではないことでも同じことである。
 要するに衝動とここで私が言いたいことというのは、素直であれ依怙地であれ、そういう態度の示し方そのものを即座に判断させる内的な感情と判断の入り混じった根幹の対他的な処遇を喚起するエネルギーのようなものである。それは何かに対して素直であるということは一面では別の何かに対しては依怙地であることを、逆に何かに対して依怙地であることは一面では別の何かに対しては素直であることを意味するという結論へと私たちを導く。要するに素直であることにおけるその志向の先と、依怙地であることにおけるその志向の先そのものを決定させるものとして私はここで衝動を考えているのである。そしてその衝動は前作でも詳しく考えたように経験と記憶が関わっている。

 デネットが言う(「心はどこにあるのか」土屋峻訳、思草社刊)ように私たちはエレベータがあればそのボタンを押し上がったり下がったりするものと信頼してビルで利用する。通常エレベータとはそういうものであり、映画の撮影のために誂えられたセットのビルであり、そのエレベータのボタンを押してもエレベータはその階にやってこないし、扉は開かないかも知れないとは思わない。フェイクのエレベータである可能性とは、そういう厄介で紛らわしい代物を拵えて得になることなどないので、そのビルのオーナーがそういうことをする可能性というものは一切ないだろうと勝手に考えるからである。つまり我々は都市空間において、それらのインフラを利用出来る公共の機材であると捉え、それらを全て誰が利用してもよいものという通念を持って生活している。しかしいざ便利な乗り物でもそれが事故を起こせばその車や飛行機に乗っていたことが不運であったと遺族は嘆き、その乗り物を運用していた社を訴えるのである。しかしこのことはよく考えてみると極めて奇異なことではないだろうか?
 ビルでも私の所有である場合、中に入ってエレベータのボタンだと思って押してもうんともすんとも言わないという可能性は常にあり得る。尤もどんなに私有地に立てられたビルでも一定の高さがあればエレベータの設置が義務付けられているので、それをしない場合(例えばエレベータを設置しない)法的に違法ということになる。これは端的に法治国家と法の遵守ということ自体に対して我々一般市民の側からの信頼を規準に私たちの社会が整備されているということを物語っている。あるいは少なくともそうあるべきだという通念が我々を支配しているということを意味する。
 同じテクストでデネットは人間以外の動物に人間の思考と共通するものがあるか否かという論争について触れている。そのことについて私は親友のK氏と対話した。その時氏は私が「デネットも言っているけれども、人間っていうのは何かに熱中している時でも恐らく動物のようにそのことだけに意識が完全に集中することなどないのではないか?」と問いかけた時、「でも、スポーツ選手っていうのは、動物に近づくことを目標としているわけだろう。」と私にそう述べた。しかしそのことは人間という生き物は限りなく動物に近づくことは可能だけれども、完全に動物のようにある行動をしている時完全にその行動にだけ意識(それを意識と呼ぶべきか否かそれ自体も問題なのだが、そのことは取り敢えず不問に付すとしても)が集中するということはないのかも知れない。だからこそ没我とか忘我とか一如というような物言いが存在しているとも言える。すると信念というものは例えば先に述べたエイズに罹った愛人やパートナーに対する処遇を巡る愛の表現に纏わる生の接触を拒むか病気になる以前と変わらずに接するかという選択肢のように、一つの事実に対する判定というものそのものにあるバイアスのかかった主観が介入してくるということが言える。それはその判定をする者の立場、その時々の状況的判断、気分、各種衝動が影響を与える。そのこととスポーツをしている時に国民やファンに対する期待に応えるということに対するプレッシャーにも共通して言えることである。極自然に振舞うとか、緊張せずに伸び伸びとプレイしたり、走ったり、泳いだりとかとは一体どういうことを指すのだろうか、ということがアスリートたちを日夜苦しめる課題となる。
 ヘーゲルが提唱してサルトルが発展させた対自という概念も、そのような目標や価値論的な理想として没我、忘我、一如を示すことはしても、それはあくまで完全到達不能地点かも知れないということは言えるのだ。そうすると信じるということは、信じたことによって途方もない処遇を受けた(例えばいつものように家族が乗った飛行機が墜落したとか、列車が脱線転覆事故を起こしたとかのような偶発的な悲劇に見舞われるとかの)場合、初めて「うかうか安全を信じて疑わない神話のように扱うべきではない」と言うような論調をマスメディアに私たちは確認することになるが、それもこれもとどのつまり人間は常に精神的には隙だらけであり、だからこそ常に自分の存在の彼方に何かを見据える、それは予定でもそうだし、願望でもそうだし、理想でもそうなのだが、要するに完成された形態、欲求が百パーセント充足された状態へと終ぞ到達し得ないということ、即ち人間は即自ではないからこそ、失敗もするが、向上もするのだという真理を今更ながらに想起させる。

 私は昨今ある哲学者の私塾に参加することとなった。そこである青年と知り合い、彼が私に「将来哲学的な人間になりたいですね。」と語ったことが印象に残っている。しかしこのことをよく考えてみると、彼は講師の哲学者の本を粗方読んでいたのだが、目標とする師の著作を読むということは素晴らしいが、そのことと自分が哲学的であるかどうかということとはあまり関係がないのではないかという思念を私に齎した。例えば私は一度として哲学科というところを教育機関では属したことがないし、自分が果たして哲学的人間であるかどうかと言えば自信はない。ある意味では哲学的なところもあるが、別の意味では極めて非哲学的であるとさえ言えるだろう。要するに哲学的な人間であるか否かは自分で自分のこととして決めることではないし、それは他者が決めることであるが、同時にそれは自分自身謙虚になる必要があるということからそう言っているのではないし、第一哲学を学ぶことそれ自体が価値論的に必ずしも善であるとか好ましいという風には誰にも決められないし、また自分で自分のことを何か目標として状態に到達したのかということに対する問いに対して「そうである」と捉えることはある意味では何かの放棄であり、それは東洋的な禁欲主義的美学からそう言っているのではない。要するにそのように「自分は一流になった」とか「よく哲学が理解出来た」という認識そのものがある種の哲学の死であるとしたら、それは人間という存在がそのように到達達成感を得ることの終ぞ不可能であるという意味でそうなのである。デネットの言うように確かに人間が言語を利用して思考するということと、動物が人間のように言語を通してではなくて考えるということは、人間の思考とどう違うのかということに関して結論は出ていないが、少なくとも彼の言うように人間はある部分では自分を動物であると思いたい(勿論生物学的にはそうであっても、この場合哲学的にということであるが)し、動物を人間のように理解したいということなのである。このことはデネット自身も触れているトーマス・ネーゲルの視点でもある。
 しかしそれらのことは、最近観た例の「エンジェルズ・イン・アメリカ」での場面の一齣を私に想起させた。ドラマでは主人公の一人であるルイーズとゲイのパートナーに呼ばれている青年ルイスはユダヤ出自である。彼はユダヤシナゴーグでの会合に参加している。そして一人のラビの埋葬にも立会い、そこでやはり参列していたラビの一人に自分がゲイである(パートナーであるプライヤーからはこの後エイズに罹っていることを告白される。)ことに苦悩して相談する。そしてその時の会話がなかなか秀逸である。(これはドラマのプロローグに当たる部分で登場する。)ルイスはラビに問う。「何故棺桶の釘を半分しか打たないままにしておくのですか?」するとラビは答える。「生き返った時に棺桶から楽に出られるようにするためさ。」そして自らのゲイとしての性交渉に関する苦悩をラビに匂わせ、彼はこの苦悩からいかにしたら逃れるかラビに相談するとラビは迷惑そうに「聖書(この場合旧約)では罪についてしか触れられていない。赦しについては触れられていないからな。しかし私はこの葬儀の帰り道でさえしんどいというのによりによって何か。」と返答する。
 ここには幾つかの真理が描かれている。それはそのラビにとって葬儀に参列するということは、それだけで大層億劫なことであると同時に、青年の悩みというものそのものが既に自分たちは関わりのないことなのだ、ということ。そして埋葬されても生き返る可能性を信じているということ(少なくとも宗教儀礼性としては)そのものに、そのような奇蹟が起きることそのものに対する止むことのない願望と、それを願望として成り立たす現実の奇蹟のなさである。
 このドラマでは度々エイズに罹った人びとの妄想の場面が出てくる。死期が近いことを認識した患者たちが幻覚を視るのである。そしてその内容が極めてモラリスティックであることが極めてキリスト教社会の重圧というものを感じさせる。しかもアメリカは国内にシナゴーグでの説教で示されているように、アメリカであってアメリカではない、約束の地であるという発想が民族毎に存在するのだ。アメリカ人であるということはユダヤ人も別の民族出自の国民も同じであるが、同時に彼らはそれぞれ別個なのである。そういう意味では依怙地であるべき部分とは同一国内での異民族間での感情的な衝突の際に顕著になるのだ。私は一度もアメリカには行ったことがない。しかしある意味では映画や音楽といった文化を通して移入されるアメリカ国内の情報に関して日本という国はかなり詳細な部分まで立ち入ってもいる。極自然に隣人が何系であれ同一国民である意識を生じさせる一方で、全く出自の異なった宗教観、倫理観を大切にするという意識も強い彼らは、ある部分では極めて巧妙に素直と依怙地を使い分けている。つまり依怙地になるべきところを心得てその上で素直に隣人と語り合うのである。そのように映画やドラマを通して感じさせるというところがアメリカのいい意味でも悪い意味でも懐の深さを感じさせる面なのではないだろうか?だからこそ次節で日本人の羞恥といこととはどういうことなのかという問いにも意味が出てくるのだ。私はまずサルトルの問う羞恥というものからスタートさせて、日本人の死生観、宗教観、時間的観念について考えてみたいと思う。

Monday, November 16, 2009

〔羞恥論‐素直と依怙地<衝動論第二幕>〕第一章 第一節 素直な気持ちになるとはどういうことか

 私たちが何か虚心坦懐に考え、これこれこういうことなのかと判断する時明らかに私たちは素直な気持ちになっている。そしてそのことそれ自体に別に不思議に思ったりなどしはしない。そしてそういう風にどのような場面においてもあってくれれば、私たちは何も人生に悩むことなどないだろう。しかし実際にはそうではなく、誰か別の人が自分よりも何か自分も努力していることで、どんどん先へ進んでいるのを発見すると、何やら急に胸騒ぎがして胸中穏やかならず、いてもたってもいられなくなるということは珍しいことではない。要するに自分というものにおける心の平静とは、ある意味では他者の状況というもの次第では実に脆弱なものでしかないということさえ言えるのだ。
 人間は人を羨んだり、嫉妬したり、そういう始末に終えない存在である。私たちが素直になれる時とは大体自分の進むべき方向性が見え、未来に対してささやかながらも希望とか期待が持てる時である。そして他者の状況に対して配慮する心の余裕が持てる時である。
 しかし他者は自分がそう思っていても、そういう自分の配慮を必ずしも汲んでくれるとは限らない。「俺のことなどほっておいてくれ。」と言わんばかりにつっけんどんに応対してくる他者も少なくない。それはとどのつまり他者に対していかに気遣おうとも、もしその者が依怙地になっていたり、しょげ込んでいたりするのならその者のことを私たちはどうすることも出来ないし、その者の気持ちからすれば他者からなどどうされることもないからである。人間は自分のことだけで精一杯であり、それ以上他者の今後のこととかを斟酌する余裕など本来ないものなのだ。だからこそ少なくとも他人に迷惑になるようなことだけは避けたいというような気持ちに人間はなることもあるのだろう。しかしそう考えていても、実は一番気にかかることというのは自分のことである。
 だから逆に自分のことくらいなら自分で責任を持とうと心に決めた時に自分というものは意外と素直な気持ちになれるのかも知れない。素直な気持ちでいるということは極めて主体的に何事かを実行するのに適した心の状態である。しかし素直でいるということは自分に対してならいつでも可能であるが、他者とのかかわりにおいて私たちはその他者から何か言われることもあるので、必ずしも自分の心の中では迷いがなくても、その他者とのかかわりにおいて他者から何か予想外のことを言われて動揺することもあるだろう。そして他者に対して素直になれるということは、その他者をよほど信用していなくてはならないから、そういう気持ちに他者に対してなれるということは例外的な心の状態である。寧ろ人間は自分に対して素直になりたいがために他者に対しては演技したり、偽装したりすることの方がずっと多い。せめて自分の気持ちを普段通りの平静なままでいたいがために相互に他者に対して気遣うことの内には他者の内面には干渉しないとかそういう心積もりでいようということである。つまり人間は自分というものを確保するために他者に対して配慮するということが自分の側からも、社会の側からも求められていると自然に感じているということである。
 そして自分の中から決めたことが社会から求められていることと一致していて、自分でもやはり正しかったのだと思えることもたまにはあるが、そうではなく逆に社会が自分に求めているものが著しく自分で心に決めたこととずれているということも決して私たちの日常においては珍しいことではない。この自分の心で決めたことと社会が自分に求めるものとのずれをなるべく意識しないで済ませられはしないかと考え、最終的に自分で自分に対して決定したことというのが、なるべく自分の心の内は、少なくとも自分で決めた心積もりだけは他者にはそう容易には語るまいという決意となり、それがやがて社会から自分に対して何かを求めてくることを避けるようになり、自己閉鎖的となり、他者とのかかわりを避けるという生活態度を招聘するようになる。この時私たちは知らず知らずの内に自分に対して素直でいたいがために他者に対しては素直でいられなくなっている自分に気づく。勿論こういう生活態度もあまり極端でなければある程度誰にでも許されたことであるだろう。しかしその社会から求められることを極度に警戒し、自分の内面にだけ素直でいることを自分に求めるようになると、少しでも社会からの声と自分の内面での思いの間にずれを感じると途端に焦るようにもなる。そしてやがて他者全般に対してヒステリックな態度を採るようになる。
 だからある意味ではそういうことを未然に防止するためにも、素直でいるということは自分にとってであることは勿論であるが、そのことを他者に出来る限り演技したり偽装したりすることをせずに示すことにおいてもそうであることが最も望ましい状態であり、内面と対他的な態度が全く一致していることが絶対不可能であるにしても、少なくとも極端にずれていて、そのずれを必死になって自分が内面でカヴァーすることに翻弄されているような惨めな状況だけは回避したいというのは極自然な欲求であると言えるだろう。
 
 他者に対して何らかの偽装をするということは端的に自己内の思念を他者に悟られたくはないという羞恥によるものであるが、他者の言、例えば自分では自分の歩き方を遠目で確認することは出来ないし、自分の後姿がどういう印象であるかを確認することは通常(ヴィデオなどで撮影されたものを見る以外は)出来ないということから来る、自分は他者一般からはどのように見られているかということに関して他者に意見を聞くということは、そういう風に他者に対して自己内思念を悟られないようにする偽装とはまた一味違うもっと根本的に偽装不可能な全体的風体というものに対して他者の言に対して真摯に受け留める、いかに自分がこういう存在であると力説してみたところで他者一般から受け留められる自分の社会的に通用する像(それはそう変更の利くものではない)と自分の想像する像とは著しく異なるということを認めるということに尽きる。
 そもそも他者一般から受け取られる自分に関する記憶とは全面的に外面的な印象の総合である。しかし自分にとって自分に関する記憶とは、かつて自分がどんなことを考えていたかとかどんなことを思い出していたかとか、どういう風にある過去の出来事があった時に感じ、対処したかということ、つまり対処したという行動的な事実に対する記憶は、ほんの付随的なことでしかなく、寧ろその行動の時にどういう感情でいたかとかどういう考えに支配されていたかということの総合なのである。つまり内的関係全般に関して自分以外の他者全ての介入を阻止し得る(他者が自己の内的関係的事実に闖入してくるということは、「あの時あなたは笑顔をして一見嬉しそうに振舞っていたけれど本当は不安と苦悩に満ちた表情でしたね」とかそれほど自分の真意を見抜かれたくはない親しくない他者から指摘される時に感じることである。)という事実こそが実は自分にとっての自分の歴史と社会内で通用する自分の歴史のずれを構成している当のものなのである。
 つまり内的関係において最も顕著な例とは想起であろう。我々は大森荘蔵や中島義道の主張するように想起しつつ現在知覚する存在者である。中島氏は現在及び現在知覚を過去に対する認識と過去出来事に対する想起という日常的事実によって支えられている、つまり過去認識と想起能力のない者は現在という認識も、知覚も不可能であると考えている。このことを比較的分かりやすい形で示した文章をここに引用しておこう。

「ある」ことと「あった」こと
(前略)
 哲学において、私に何かオリジナルなものがあるとすれば、それはいっぷう変わった「時間」の捉え方であろう。「過去」についての考えであろう。私が知る限り、私のように考える哲学者はいない。ということは間違っている可能性が大であるが、私にはどうしてもそう思えてしまうのだからしかたない。
 世界についてでも、私自身についてでもいい、物体についてでも、心についてでもいい、われわれは現在の知覚を規準にして、何らかの客観的対象が「ある」とみなしがちである。言い換えれば、それを客観的認識としがちである。だが、これはまったくの錯覚ではなかろうか。むしろ、物や心が客観的に「ある」ということの規準は、過去において「あった」ということと現在「ある」ことの両立不可能な二重のあり方のうちにあるのではなかろうか?確かに、過去の出来事は「うっすらと」しかないのに対して眼前の光景は「がっしりと」そこにある。だが、あり方の強度と「ある」ことの原型とは別である。現に見えているかと現に触れるということが、ただちには何かが(客観的に)「ある」ことの条件ではないことはすぐにわかる。第一に、世界のほとんどの客観的な事物や出来事を、私は現に見ていないし、現に触れていない。第二に、動物でも赤ん坊でも知覚はしているが、ただちに何かを(客観的に)「ある」とみなしているとは言えない。
 では、何かが「ある」と言えるためには知覚に加えて何が必要なのだろうか?何かが「あった」ということをとらえる能力としての「想起」である。精巧なロボットが、ある事象を観察し、それをすばらしい言語で表現し、そのときの高揚した気分を語りつくすとしよう。そうですね、ここにトーマス・マンのような文才のあるロボットがいるとする。
 Rは語る。「ミュンヘンは輝いていた」と。Rはそう語ったすぐそばから自分が何を語ったか忘れてしまう。Rに「ミュンヘンは輝いていた」という文章を見せても、(その意味はかわるが)自分が書いたことを思い出すことができない。この場合、総体的に見て、彼はミュンヘンについて「認識」したのではないであろう。つまり、認識とは瞬間的な知覚や思考に基づくことはないのだ。それは、あるスパンの知識である。想起も瞬間的にとらえてはならない。想起だと思っていたものが、じつは単なる想像だったのかもしれない。つまり、正しい「想起」は、一個の想起からではなくさまざまな想起郡(それに知覚郡)との連関の中で与えられるのだ。想起とは定義的に「過去に起こったこと」の想起である。そして、現に起こったことをわれわれは当の想起によってだけではなく、現在の知覚(証拠)および信頼できる推測に支えられて知るのである。ということは、正しく知覚できない者、正しく推測できない者は、正しく想起することもできない。しかし_ここが大切なことであるが_正しく想起できる者は正しく知覚し正しく推測できるのである。
 想起の対象は過去の事象である。だが、過去の事象は知覚できない。見えず、聴こえず、触れられない。それを一言で言い表せば、_このあたりは大森荘蔵先生の過去論を真似るのだが_「ある」としても、知覚的にあるのではない。「ミュンヘンは輝いていた」という言葉の意味として、言語的にあるだけである。「ミュンヘンは輝いていた」ことを、いかにありありと想起しても、その「輝き」は(薄まった知覚ではなく)、知覚の対象とはまったく別物である。過去とは過ぎ去った擬似(薄まった)知覚的世界ではないのだ。それは、_プラトンのイデア界のように_われわれの知覚世界とはまるで異なった意味世界なのだ。だから、そこには「戻れない」。戻れるのは、何らかの知覚的世界だからであり、意味の世界に「戻る」ことは原理的にできないからである。われわれはいかにも現在の知覚的世界だけに生きているように見えるが、じつは刻々と過去世界に取りかこまれて、いや浸されて生きているのである。過去の事象を(客観的に)「あった」ものとして認識することは、言葉の意味としての過去世界を眼前の知覚風景にうまく関連づけてとらえることである。現在の事象を(客観的に)「ある」ものとして認識することは、眼前の知覚風景を言語の意味としての過去世界にうまく関連づけてとらえることである。
 ということは、われわれは、常に現在に生きているのではない。常に現在と過去に生きているのである。過去に生きることができる者のみが、現在に生きることができる。現在にのみ生きている、といわれる動物や赤ん坊は、過去に生きることができないゆえに、じつは現在にも生きていないのである。これを言い換えれば、「あった」ということがわからない者は「ある」こともわからないのだ。あなたが自分のからだを観察しても、心の状態を観察しても「私」をとらえることができない理由もここにある。「私」とは、現在と過去という両立不可能な二重の世界に生きることができるような者なのであるから。そして、われわれは現在と過去とを一挙に対象的にとらえることはできないのであるから。(「狂人三歩手前」164~168ページ、新潮社刊より)

 想起と想像は協力関係にあると言ってよいだろう。しかし感情という奴はもっと手強い。つまり感情は現在的状況の把握と記憶とが渾然一体となって現況に対する措置と、過去のデータから引き出される像(嫌な他者を目前にして楽しくないという感情は、その他者の過去のデータとそれによって喚起されるその他者像や過去にその他者と接した時に感じた嫌な感情の記憶によるものである。)との協同作業によって構成されているからだ。しかし感情というものは常にあるのだから、逆にただの知覚でさえ感情的様相にその都度左右されて、ある時には容易に気づくことをその時には気づかなかったとか、逆に普段だったら見過ごすことをその時には注意深く観察し、発見することが出来たというようなこともあるだろう。
 しかし想起(その能力とそのことによる過去認識、つまり今<現在>を過去ではないという形で認識する能力)ということを中島氏は重要視しているが、問題なのは夢に出てくる像の多くは記憶の再処理というようなことも考えられているところを見ると、どうやら知覚像というものとその記憶された形ということが最も重要であり、と言うことはある意味では過去も大切であるが、やはり中島氏の批判する「生き生きとした現在」というものもまた極めて大きなウエイトを占めているということになりはしないだろうか?
 つまり私たちは極めて覚醒時による知覚とそれによる脳内のその都度の総合的判断とか、クオリア的な感受ということに関して、記憶される内容までも左右されるものとして現在知覚とは大きな存在であるということである。勿論恐らく私たちが覚醒時に現在起こりつつある出来事を記憶する時には、それまでの記憶(経験と密接な)によって「何を記憶したいか」という日常全般を支配する関心傾向によって既に取捨選択されているわけだから、現在知覚されるもの、現在感じられるクオリアに対する印象全般は、完全に過去のクオリア像とか、過去事実とそれと同伴した自己経験的記憶と、その記憶による判断が大きく左右しているだろう。するとクオリアは記憶を呼び覚ましつつも、現在の知覚に最も左右されるが、端的にアイデンティティーとか自我と呼ばれるものは中島氏の指摘のように過去と現在との比較とそれを通底する同一性ということ、つまり認識カテゴリーが重要であるが、クオリアの感受とか、どういうニュアンスとか感覚で何かを記憶するかということは認識外的なことの力の方がより強いということになる。
 
 話を自己と他者との関係に戻そう。自己というものの像とはかなり他者一般から受け留められる像とはずれているわけだから、そのずれに対する補正として、他者とりわけ親しくなった者に対して「私は鷹揚な性格のように他人からは受けとめられているようだけど、本当は神経質なんですよ。」と告白するようなことによって(それはそれで他者に対する素直であり、他者一般が形成する自己像に対する批判という形の素直である。)素直を発揮するわけだ。そこで素直には二つの姿が認められることが明白化した。

① 他者から自分がどう見られているか、ここで言えば鷹揚な性格であると皆から第一印象的に、あるいは然程親しくなっていない他者全般から受け留められている像そのものを「そのように見られているのか」という風に事実として受け留めるということに関する素直さ

② しかし本当の自分の気持ちはこれこれこういう風なのですよ(本当は神経質なのですよ)と親しくなった他者に告げるような素直さ、つまり他者一般から受け留められる肯定的な自己像を演じ続けることを拒否する真意を告げる素直さ

 この素直さというものをもう少し哲学的に考えてみよう。
 人間は即自ではないので、内的関係としてたとえ目的意識を携えていても尚、その一度自ら設定した目的自体に対する懐疑とか、要するに全ての決定事項に対して一致し得ない感情を抱き、「本当にそうなのか」とか「本当にそれでいいのか」とか考えるし、躊躇とか迷いとか不安を抱くのである。それはある意味ではヘーゲルが唱えた否定という能力の故でもある。あるいはそれは内的な思念や感情を外界に存在しているように見える全ての知覚されるべき対象世界に対して意味づけること、つまり内的世界のパラダイムを外的世界の原像に重ね合わせる能力と言い換えてもよい。
 永井均は「<私>のメタフィジックス」において次のように述べている。

 たとえばJ・ユクスキュルによれば、ダニは明度覚、嗅覚、温度覚の三つしかもたない。その三つだけでダニの生存のために必要な行動を導くのにじゅうぶんだからである。「ダニを取り囲む豊かな全世界は収縮して、大ざっぱに言えば三つの知覚標識と作用標識とからなるみすぼらしい姿に、つまりダニの環境世界に変化する。しかし、この環境のみすぼらしさこそ、まさに行動の確実さを約束する。そして確実さの方が、豊かさよりも大切なのだ。」ところが種としての人間には行動の確実さを約束してくれるはずの環境の「みすぼらしさ」があたえられていない。人間は確実な生存の型(Lebensform)を自らの手でつくり出さねばならず、そのようにして自力でつくり出され、持続的につくり出され続けているのが特定の文化における慣習や制度なのである。したがって、その内部で生まれ育った人間にとってそれがどれほど「自然」なものに見えようとも、人間における慣習や制度は歴史的形成物であって動物における種に固有な環境世界とはちがう。動物の生とその環境のあいだにはなんらの矛盾も疎隔もないが、人間の生とその人為的な擬似環境世界のあいだにはつねに潜在的な矛盾と疎隔がある。それゆえ、人間は生まれ育った擬似環境世界を超えて「世界そのもの」を構想する能力をもつ。すなわちあたえられた世界をあたえられていない世界の一部とみることができるのである。(「<私>のメタフィジックス」中、188~189ページより)(太字著者選択)

 永井氏がここで指摘していることは寧ろ自分が使用する言語とか文化というものを相対的に見る見方のことである。しかしその自分が使用する言語とか文化とは、ある意味では自分を中心に形成されてきたものである。勿論そこには自分と出会った周囲の他者一般の存在が欠かせない。しかしまず一般的な言語とか文化として私たちは理解してきたのではなく、まず自分を中心とする「世界」を自分なりに獲得してからそういう観念を引き出してきたのである。その意味では内的世界ということは、一般性理解ということにおいても欠かせないどころか、その発端でさえある。勿論その内的世界ということを言っても、個人史的なことと、内的世界一般のことでは様子が違うということは言えるだろう。誰でもこういう時にはこう感じるだろうということ(一般性)と、だからと言ってその対処の仕方は個々異なるだろうという意味で、私たちは誰しも感じるという一般性と、自分というものに固有(と自分では少なくとも思われる)のその時の心の処し方とか、行動の起こし方とは必ずずれているだろう。それは自分の像が自分自身で抱くそれと他者一般が抱くそれとではずれがあるのと同じ意味においてである。
 しかし恐らく一般的な内的世界という一つの幻想を育むものとは、直に自分で知り得る自分の内面史以外のものであり得るだろうか?もしそのようなものがあるとするなら、それは私が例えば今日本語で書いているということを、アメリカ人として生まれ、英語を習得した後、成人してから日本語を習得したケースにおいて私の今の現況と比較することを意味する。しかしそれは端的に私以外の者に今の私にはなれないから意味のない想定である。私というものは私以外の他者の状況と比較することが出来ないからこそ私なのである。そして私が一般的な内的世界という幻想を得るとしても、それは私個人の今立たされている状況からでしかあり得ないのである。だから自分たち、つまり自己を中心とした自分と同一民族成員全員が共通して使用する言語とか文化を相対的に見るという認識そのものもまた、自分を中心とした内的世界と自分以外の他者の内的世界とのずれとかそれを相互に熟知した上で共存を余儀なくされる社会生活という現実によって得られた認識であると言えよう。
 つまり内的世界とか内的関係というものは、たえず外的世界とか他者間において成立する間主観性と密接な関係にあるのである。そのことは私たちが机を見て、これは「私の机ではない」とか「椅子ではない」と認識出来るような意味での否定の能力とも関連づけて考えることも可能である。そしてその否定の能力は自分の知る世界を「世界」として自分の与り知らない世界との対比で捉えることも可能にする。
 現在知覚を過去全般から得る認識と同時に作用していると捉えることは、自分のそういった能力全般が自己を含む他者全てがそれぞれ持つ能力の合計の中のほんの一部であるとする認識をも生む。それは永井氏の「人間は生まれ育った擬似環境世界を超えて「世界そのもの」を構想する能力をもつ。」(「<私>のメタフィジックス」中189ページより)とする部分を私なら「人間は自分が知る世界を、自分の知らない世界全体の中の一部として認識する能力をもつ。」としたいところの言説の内容とも絡んでくる。それはつまり自分で世界であると思っているもの自体を「世界」として認識する反省能力であるとも言えよう。この固有の反省能力に関してオイゲン・フィンクはまた少々ニュアンスの異なる表現で次のように述べている。(「存在と人間」座小田豊/信太光郎/池田準訳、法政大学出版局刊)

 エレメントに対して人間的現存在が理解的に開かれてあることは、ある一定の指示の特質を備えている。ちょうどエレメントがあらゆる事物に現前しつつも、それと一体に落ち合うことがないように、世界もまたすべての世界内的な存在者に現前しつつ、決してそれと端的に一体にならない。そして事物がいわばその境界づけられた所与性の持つ押し付けがましさのなかで、自らがそれから成り立っているところの境界線を持たないエレメントを塞いでしまうのとちょうど同じように、事物は世界を塞ぐのである。とはいえこの比較はぎこちないし、だとすればそのぎこちなさを与えている点に注意を払うことがぜひとも必要である。それというのも、事物とエレメントは根本的には世界のうちにあるものだからである。世界そのものが世界内部的なものでもって自らを偽装し引き退いていくというあり様は、それ自体すでに世界内部で起こるような関係、すなわち事物とエレメントのあいだの関係によってあくまで不適切かつ間接的な形でしか告知されえない。したがって、あらゆる事物がそこより成り立っている大地の上に私たちは立ち、また天の開けのうちで私たちは動きまわっている、と私たちが述べたとき、それは現象的なものの観点から語られていたのである。思想において思考されねばならないような大地とは、私たちの足下にある硬い表土、たとえば畑や牧場ではないし、岩や陸地ではない。それはそもそも存在者ではなく、事物でもエレメントでもなく、むしろ閉鎖性という存在の威力なのであり、現象的な大地は、せいぜいこの存在の威力の象徴でしかありえないのである。閉ざされたものを思考することは困難である。なぜならそこでは、思考に対する存在の通徹不可能性がまさに思考されねばならないからである。しかしこれは単純な仕方で任意に提起されるような単なる要求であってはならない。存在の通徹不可能性は経験としてわれわれに生い育ってくるのでなければならない。通徹不可能なものは、まずはその通徹不可能性において私たちに押し迫ってくるのでなければならない。これは、いかなる侵入も己から拒む理解しえないものへと私たちの理解が投げ返されるときに起こる。なるほど人間の把捉能力を凌駕したものではない。人間的認識の偶然的な限界ではなく、その本質的な限界が問題なのである。端的に理解不可能なこととは、存在者がそもそも与えられているという事実である。事物ならそれを引き起こした他の事物へとさかのぼることで、出来事からそれを引き起こした他の出来事を通して、私たちは「説明する」ことができる。しかし存在者がそもそも与えられているという事実は通徹不可能である。この根源的事実は概念把握的思考のあらゆる侵入を拒絶する。創造する神へと存在者を差し戻すことで一切の事物を貫く説明と見通しが得られたのだ、と人は主張するかもしれない。しかしそれはただ単に問題を先送りしただけである。その場合存在の通徹不可能性は、神あるいはデミウルゴス〔世界制作者〕のそれとして示されているのである。もし人が、私たちがさしあたり通徹不可能性と名づけるものを、ただ存在者の事実性として<何であるかWassein>と対立する<現実にあることWirklichsein>として「《本質存在essentia》」と区別された「《事実存在existebtia》」としてのみ捉えようとすれば、それは誤解というものであろう。むしろ本質Wasと事実Daβと分岐するような存在者がそもそも存在するということこそがまさに根源的事実である。通徹不可能なものとは、普遍的な理性的本質が現実化するという非合理のことではなく、存在者の事実‐存在や本質‐存在や真理存在がそもそも与えられているという事実こそがまさにそれである。いわゆる非合理なものは、合理的なものよりも―私たちの考える意味で―より通徹不可能だというわけではないのである。このことは、通徹不可能性という世界性格が理性的なものと非理性的なものという通常の区別の先回りをしているということを意味する。根源的‐事実として理解するならば、理性的なもの、思考、明け開けですら通徹不可能である。ここに想定された世界性格は個別の事物に即したのでは決して感知可能とはならない。私たちがすべての事物の全体を思考しようとするときに、それははじめて私たちに迫ってくる。個別のものは何かしら次々と他の個別のものによって「説明」されうるし、またそこから理解されうるのであり、全体そのものになってはじめて理解不可能なのである。ここでさらなる誤解を避けておかねばならない。人は次のように考えたくなることがあるかもしれない。いわゆる「自然事物」だけがその事実性において概念把握不可能である。つまり自然事物は、それらを支配している法則に従って探求することはできても、その法則の根拠に従って尋ねることはできない。一方歴史の国においては、人間が自分で原因であるのだから、そこにはより高度な了解性が備わっている。要するに自然は概念把握不可能だが、歴史は人間の自由に由来する以上概念把握可能なのだ、と。この自然と歴史の区別についてもまた、存在の通徹不可能性という世界性格が先回りしている。結局私たちが最も警戒しなければならない誤解は、通徹不可能性をあたかも普遍的な存在の特質としてそのつど現前する事物に認めるところに生じる。それというのも、その場合世界契機がいわば事物の性格へと歪曲されてしまうからである。すべての存在者は通徹不可能性という媒介のなかに立っているが、しかしこの通徹不可能性は事物に即してあるのではない。むしろ通徹不可能性の方がすべての事物を包括しつつ保持しているのである。したがって通徹不可能性ということで考えられているのは、単純な現前存在の契機や単なる存立の契機ではない。へーゲルの即自存在という概念が持つ疑わしい点は、この概念が、より根源的には「大地」という世界契機であるものを、存在者の普遍的な存在の特質として受け取っているということである。事物やエレメントは存在している。事物が滞留することと過ぎ去ることの区別は途方もなく大きい。草木と同様に枯れしなびていくはかない人間と、何千年かけて風化する岩塊とのあいだはとてつもない差異がある。ところがまた事物と万有のエレメントとのあいだの差異はさらに大きい。しかし事物とエレメントのあらゆる変化は、大地の閉鎖する威力のうちにあくまでとめおかれたままなのである。私たちはそうした大地の威力を、いかなる事物に即しても、またいかなるエレメントに即しても見出すことはない。しかしそれは非現実的ながらもあまねく現在しているものなのである。表象的な思考は、そのつど個別的なものを包括的な全体よりつかみ出して、それを出会いへともたらすのであるが、あらゆる出会いやあらゆる対象性に先立っているもの、すなわち全体としての存在における声もない静かな閉鎖性を聴取することはできない。表象的な思考が受けとめるのは、ただ自身に対して立てられるものだけであり、それは大地の閉鎖し所蔵する純粋な支配を、つまり、つねに近くにありながらしかし把捉不可能性において自ら引き退いているものを、決して聴取しない。
 おそらく時にはそうしたものの予感が私たちに降りかかることがあるだろう。私たちが色や景色を眺めやるときに、ただ牧草地の斜面や、農夫の家や、空に浮かぶ雲を見ているわけではない。ただ草むらの甲虫や、上空を舞う鷹を見ているのではない。むしろあらゆる事物の背後に、あるいはよりふさわしい言い方をするならば、あらゆる事物のうちに私たちは大いなる牧羊神パンのあまねく現在する近さを感じ取っているのである。(272~275ページより)

 「思想において思考されねばならないような大地とは、(中略)そもそも存在者ではなく、事物でもエレメントでもなく、むしろ閉鎖性という存在の威力なのであり、現象的な大地は、せいぜいこの存在の威力の象徴でしかありえない」とか「表象的な思考は、そのつど個別的なものを包括的な全体よりつかみ出して、それを出会いへともたらすのであるが、あらゆる出会いやあらゆる対象性に先立っているもの、すなわち全体としての存在における声もない静かな閉鎖性を聴取することはできない」という部分の閉鎖性ということが永井氏の言う、あたえられていない世界のことであり、現象的な大地が存在の威力(閉鎖性として押し迫っているところの)の象徴でしかないという考えは意外とプラトンのイデアと事物がその影であるという考えに近い。フィンクはその意味ではフレーゲと共通する資質の哲学者かも知れない(それは最後の段落に特に象徴されている)。「大地の閉鎖し所蔵する純粋な支配=つねに近くにありながらしかし把捉不可能性において自ら引き退いているもの」は全体をイデアとして捉える認識として受け取ることも可能だ。それは永井氏のあたえられた世界をあたえられていない世界の一部とみることの本質にもプラトニズムが控えていることを暗示する。つまり永井氏の主張されるようにデカルトが近代において初めて問題設定上私を神より優位に置いたことの前段階としてプラトンが世界を 私たちの知る世界 外 の中の一部として見る見方(それは当然ソクラテスの考えに起源的には立脚しているのだが)を定着させたものとしてデカルト以前の神として考えることも可能であろう。
 しかし現代では内的世界が外的世界よりもデカルト以降性として重視させられ、しかもその内的記述が何故なされるのかという現代的問題設定において世界の一部である私ではなく私が世界を構成するというカント感性論的視点以降性の定着によって私が既に述べた「現在知覚を過去全般から得る認識と同時に作用していると捉えることは、自分のそういった能力全般が自己を含む他者全てがそれぞれ持つ能力の合計の中のほんの一部であるとする認識をも生む。」という考えをより説得力あるものにする。つまりその考えの延長に全ての現代哲学(現象学も、分析哲学も)が位置づけられる。
 しかし不思議なことに他者全ての能力の合計と言っても、それは実現可能レヴェルから言えば理想であり幻想である。全ての世界市民が協力して内的世界とか真意を曝け出して人類のために供することなどあり得ない。また仮にそう心掛けても、自己の真意は必ず他者によってずれて伝わるし、内的世界を全て報告することは不可能である。従って他者は全てそのことを了解しつつ諦念をもって半分真意を表明しつつ、半分内的世界を隠蔽する(控え目に言ってもせざるを得ない)と考えれば、自分だってそもそも内的世界の全てを他者に告げることなど出来なしないし、またそれを知っているので、敢えてする必要もないのだから、とどのつまり存在者全員の能力の合計といってもそれは思念上だけのことである。しかし少なくとも地球の上空を覆う空は世界各地で異なった様相で存在者全員に対して注がれており、そういう意味では自分が見る空を空の「本当の姿」(そういう認識は認識で幻想である可能性が高いのだが)のほんの一部であるとする認識もまた極めて自然な思惟の結果であろう。
 つまり自分の知る世界を世界の中のほんの一部であるとする意識、つまり「世界」であるという認識とは、とどのつまり公的に自分の位置を中心の位置から貶める作用なのである。このことは言語行為において永井均の常日頃から主張していることである。そしてそれは他者存在全般に対する配慮であり、羞恥であると言える。つまり誰しも我々は既に自分の知る世界しか自分では知り得ようもないし、また自分の知る世界の消滅とは自分の死であり、仮に世界が自分の死後も存続したとしても、それは私という一個の個が世界に対峙しているような形のものでは決してないのだから、そういう世界というものは、実は私にとっては大した価値などないのに、それでもそういう世界こそが世界であり、自分にとっての世界を「世界」であるとするところの公的な自己意識として我々が社会成員として生きる決意がある。そしてそれを支えるものもまた羞恥である。
 すると私たちは次の二つの素直を乖離したものとして認めることになる。

① 自分を他者全般にとって位置づけるために世界を全ての存在者のため存在する公的なものとして認める素直さ
② 自分以外の全ての存在者にとっての世界と言っても、それは自分が死んだら全てお終いなのだから、そんなことを言ってもそれはさして自分の世界以上には重要ではないということを認める素直さ

 端的に①は公的場において「いい子」振ることで示す素直さであり、責務的であるし自己欺瞞的である。公的宣言的な真意表明である。しかし②はある程度親しくなった者同士でしか語り得ないような素直さである。これは人間の中のアウトロー的部分、あるいは本当はいけないことであると知りつつ、犯罪者に共感し得るようなアンチ・ヒーロー志向的部分、つまり公的には悪の部分の真意表明であるが、本意である。要するに公的宣言表明とは、自己内の非公的思念だけが全てであるという考えに対する一応の払拭(このことを永井氏は「それは新たな、より深い眠りの開始であろう。しかし、人間の大人は以後この深い眠りからけっして醒めない、いや醒めてはならないのである。」(「<私>のメタフィジックス」中212ページより)と述べている。)の意図以外のものではないし、それは私的な意味でもそうだし、公的な意味でもそうなのである。

 しかしそのような宣言表明とはオースティンの言ったパフォマティヴを想起させると言う人びともいるだろうし、事実そうなのである。つまりオースティンは端的に①に見られる素直さ、それを世間では誠実と呼ぶが、そのことを言いたいがために英語の動詞に見られる性格を事細かに分析して、パフォマティヴとコンスタティヴとに分類したのである。彼の言う発語行為、発語内行為、発語媒介行為とは端的に、そういう誠実性、つまり言語行為とは他者に対して自己としての誠実性を示すことを本論としたものであるということをここで私は言いたいのだ。
 しかし人間には②のような真意をも確かに持っている。(例えば結婚式の際に神父に対して「隣にいる彼女を我の妻とすることを誓います。」と宣言しつつ、そのこと自体に対してこの状況から逃れたいとか、一緒に暮らす配偶者を赤の他人のように感じ、疎ましく感じることもあるだろう。それはそれで真意であるが通常我々はこういう真意は離婚を決意している場合以外は告げることをしない。)これを中島義道氏はカイン型の人生観であるとしているが、しかし何もこのような考えに取り付かれるのは氏の主張されるような哲学病患者と表現するある種の病的な哲学者のようなタイプの人間だけではないだろう。つまり他者としての自己の誠実さを示す①の素直さとはたとえそれが親しい間柄である二人の間の約束であれ、確約であれとどのつまりは公的な宣言以外のものではあり得ない。しかし②においても、このような私的意見を他者に告げることというのはあり得る。それは親しい間柄となった者同士の間でである。(結婚生活に関する苦情なら妻や夫以外の同性に対してなされるだろう。)しかしこのような意見はあまり日頃から親密な関係にはない他者に対してとりわけ公的な場では憚られる意見陳述内容であることも確かである。
 しかし恐らくこう問う人もいるかも知れない。たとえ親しい間柄でその②のような発言をしたとしても、それは私と他者との間のことなのだから、私自身だけが知る私の内的関係としての記憶を脳内で思念したり、想起したりするようにはいかないのではないか、つまり他者に真意を告げるという段階で既にその他者を理解させるために操作が介在するので、それは素直に「振舞う」ことではないのか、と。
 そうなのである。素直でいることと素直に振舞うこととは分離しているようでいて、実は対他的な意味では一致しているとも言えるのだ。(ある意味では一番素直でいることは他者と接することを避けることである場合もあるからである。)このことは嘘を動物がつくことが出来るかという問いと同一のベクトルを持っている。
 ある種の鳥は他の鳥に対して餌のない方向にさも餌があるように振る舞い他個体を出し抜き自ら餌を独り占めすることが知られている。(リチャード・ドーキンス著「利己的遺伝子」より)しかしこの時その鳥は果たして嘘をついていると言えるのか?
 嘘をつくということを知ることとは、端的に嘘をつかずに誠実であるということをも認識することである。すると誠実であるということとは嘘をつかずに真実を語るということを意味する。ここで動物にも言語が所有し得るか、そうだとしたらそれは人間の言語とどのように異なる性質のものであるか否かという問いは大した問いではない。つまり問題なのは、人間が嘘をついたと他者に対する言語行為において意識することが出来るような意味で、鳥はそう思えるかと言えば、それは違うということである。鳥はただ「嘘をつく」と人間が表現する本当のことを告げないことを通して自らの利益を享受しているだけなのである。それに対して私たちが「他者を欺く」とか、「嘘をつく」と語る時明らかに誠実に真実を述べるという行為を怠るという意味が含まれているからである。それは端的に道徳的、倫理的な意識なのである。
 そうすると、ある他者に対して本当は意見の違いを如実に感じてその意見に対して反意を抱いているのに共感しておこうと振舞うことを素直に振舞うのだ(実はそうではないのだが取り敢えず)としたら、それは本当に素直な態度でその他者に接しているのではないから、その他者に対して素直に振舞うこと=素直であることにはならないだろう。それは素直ではなく偽装して素直でいる振りをすることだからである。しかしそういうことがなく本当にその他者の意見に賛成であり、そのことを示す時には明らかに私たちはある他者に対して素直に振舞うこと=素直であることは成立することになろう。
 このことはある意見に賛意を示すことがたとえそれが真意から出たことであれ、幾分かはその意見を提出した者にそのことに関してはつき従うという意識を生じさせるものであることは了解されよう。だから会議などである程度日頃殆ど意見を言わずにいて消極的で存在感が希薄であるという汚名を返上する意味合いも含めて誰でも気づくことでも率先して発言して点数を稼ぐようなこともあれば、逆に日頃からよく発言するので、今日くらいは少しあまり日頃発言しない者の発言する機会を増やし、普段積極的であることは通常ではいいことだが、時には慎みを発揮して他者に正当な意見を公表させて自分の意見は遠慮しておいた方が長い目で見れば人間関係的な雰囲気構成においては得策であるということから敢えて発言すべきことを理解していても発言を差し控えるということもある。それもこれもとどのつまりある意見に賛意を示すということはとりもなおさずその意見を最初に示した者の功績になるという一定の法則があるからである。
 私たちは言説そのものの、陳述そのものから、それが嘘であるか否かを見抜くことは出来ない。しかし嘘をついている、つまり本当は共感も賛成もしていないのに、そのように敢えて相手に合わせて振舞うことを持続している場合、大体においてその偽装性とか胡散臭さを嗅ぎ取り、その余所余所しい態度にある種に違和感を抱くようになるものである。その違和感の出所とは賛意とか共感を示す言説そのものに対する有効性如何よりも、その言説を発話する時の言辞や、語調そのものに漲る態度に拠るものである。だからたとえ間違った報告をしている場合でも、その語調とか態度において嘘がない場合(本当のことを告げていると報告している本人が信じている場合)には、我々は一旦その報告を正しいものとして受け取る場合が多い。百歩譲ってその報告の誤りが即座に聞いている者の判断によって発覚した場合ですら、報告者本人の誠実性が疑われることはないことの方が多いだろう。つまりその場合ただその者は嘘をつく気があったのではなく、ただ勘違いをしていただけのことなのだから。
 すると他者と合わせて発言するような態度がどのような親しい他者との間でもあり得るとしても、少なくともある言説において、陳述において示される賛意とか共感そのものにおいては、勿論本当に親しい間柄の人間同士が一番態度も自然であるが、少なくとも他の事項に関する意見がたとえ対立していても尚、その意見に関して賛意や共感を示すことが可能なら、その時そのことを告げる言説とか陳述において私たちは総じて相手が誰であれ、偽装的であったり演技的であったりするような白々しさとか余所余所しい態度にはならない筈なのだ。
 要するに私たちは次のようにこのことを定義することが出来る。

① 私たちは何か発言する時そのことを真意で述べる(素直な気持ちで陳述する)時のみ説得力を持つ。嘘やごますりがある時には胡散臭さを嗅ぎ取られる。
② 私たちはたとえ親しくはない者と対話する時でも(概ね意見が対立する者と対話する時でも)、相互に意見が合う時には和やかな気持ちになることが出来る。それが他者に対する素直な気持ちである。
③ 他者と親しくなれる理由とは端的に意見が合うということである場合が多い。ただ一旦親しくなると意見が合わないことがあっても多少相手と妥協することはあるけれど、意見が合わないのに性格が合うようになるということはあまり現実味のあることではない。
 
 しかし最も重要な真理命題として次のことをここで示しておくべきだろう。つまり

④ 私たちにとって言説とか陳述自体の意味内容の真偽性と、その話者がその陳述をするという言語行為が必然的であると感じる(話者の真意如何ということの信頼性)ということは全く別個のことである。簡単に言えば私が仮に「年間数億の収入があります。」と居酒屋で哲学研究のサークルの人と一緒に飲んでいる時にそう研究仲間に告げた時、一般的には俄かに私の言うことを信じることはないどころかジョークを言っているか、それとも私の表情があまりにも真剣であるのなら、私が狂ったと仲間たちは思うだろう。つまりある陳述の意味内容の真偽(たとえ年間数億の収入があると言ってもそれは原理的には可能である。)と、その言説を語る者と言説内容の必然的一致(つまり信頼性)とはその話者の立場による他者説得を有効なものにする信頼性、つまり言説の信憑性というもの(簡単に言えば社会的地位)に依拠しているということである。
 
 そして私たちは通常言語行為をするということの背景には、言説の意味内容よりも、寧ろある話者がこれこれこういう意味内容のことを語るということの必然性、つまり本当のことを語っているのか否かということの信頼性によってその話者の発言内容を信じたり、疑ったりするということである。だから素直に何かを告白するということが必ずしも素直に受け容れられるとは限らない、例えばある人は「既に私には孫がいるんです。」と告白しても、あまりにも若い風貌なので「嘘でしょう?」と信じて貰えないということはあり得るのである。あるいは何もかも嘘っ八な言説だらけで語っても、その者に対する信頼が絶大である場合、全て信用されるということも十分あり得るということである。
 カントは端的に嘘を言ってはならないとは言ったが、全てを告白せよとは言わなかった。つまりカントはそういう意味では極めて常識人であった。要するに信用されること以外のことは、たとえそれが真実だったとしても語らずに済ましておく方が無難なこともこの世の中では多いということである。だから素直な気持ちになるとはどういうことかを理解することが仮に出来たとしても、他者の言を素直に聞き入れるとはどういうことかということ、つまり人間は嘘をつく生き物であるということと、本当のことでも嘘っぽい真実は幾らでもあるということに関する問いには全く答えられないということなのである。
 つまり世の中には心臓の位置が反対の人もいるし、ペニスが二つある人もいる。あるいは結婚していなくても子どもが百人くらいいる人もいることだろう。仮にそれが真実だとしても、そういうことを素直に他者全てに告白する人は少ないだろうし、仮にそうしても信じて貰えないということもあり得るということだ。だからこの節における結論とは素直な気持ちになる必要があるとしたなら、それはあくまで素直になった方がより道徳的にも倫理的にも正しいと誰の目にも明らかな場合のみなのであって、他者とか権力から強制されて言わなくてもいいこととか、言いたくないことまで告白しなくてはならないという事態に対して嘘をつかないまでも報告したくはないということはあり得るし、それは<① 自分を他者全般にとって位置づけるために世界を全ての存在者のため存在する公的なものとして認める素直さ ② 自分以外の全ての存在者にとっての世界と言っても、それは自分が死んだら全てお終いなのだから、そんなことを言ってもそれはさして自分の世界以上には重要ではないということを認める素直さ>という素直さに関するカテゴリーとも全く異なるカテゴリーを必要とするということを意味する。
 それは法的な黙秘権とも関係のあるプライヴァシーの権利とか真偽を確かめるべき筋合いのものなのか否かということに関する評定の問題に関わってくる。そしてそれこそが次節におけるテーマと深く関わってくるのである。