Sunday, October 4, 2009

<行為哲学によって掬い取れ得る考え方について>

 今まで述べてきた選挙における投票を巡る心的なプロセスや、ある候補者を選び取る際の理由としてある意味では自覚的に、ある意味では事後的に心的様相を理解し得るものは実は全ての行為選択において採用し得るヴィジョンであるとも言い得る。
 というのもある行為、行動を規範として決心させるものとは、合理的に納得し得る理由(たとえその行為が非理性的であってさえ)の有無が重要な要素として浮上し得るからである。ある行為が理に適っているかいないかということは行為を正当化し得る重要なキーとなる。
 ある行為が例えば200X年夏の総選挙を振り返り、自己の投票行動を反省する時、自己選択が仮にテレビによるイメージ像による信頼感を機軸としたことを別段反省する(哲学的な意味での反省ではなく、日常的使用法によるの反省の意味)ことを必要的な意図としなくても構わないのだ、と考える向きは懐疑的な一党独裁的な今日の政治状況を憂う意識はない、別に現状のままで一向に差し支えないのだ、という観点によって裏打ちされている。そしてそれを憂うこと自体が教条的であると思われるという視点もまた別段自然な認識ではないとは言えないであろう。この事実は四年前の選挙でも今回の選挙でも言えることである。ただ一党独裁の持っているイメージが時代的状況の違いから違って感じられるだけで、本質的に健全な二大政党制には程遠いということに関しては四年前も現在も同じである。
 勝利予測可能性によって全体的なバランス(与党、野党議席数比の)を考慮に入れて投票する行為性には客観主義的な色彩が感じられるのに対して、その政策であれ、イメージ像であれ、兎に角贔屓であり、支持出来る候補者や党(今回のIOCのオリンピック開催国の選別ということにも当然言えることだが)にのみ投票したいという行為性には主観主義的色彩が感じられるだけである。そしてそういう2種の行為を誘引させるものとはその投票者の日常的な世界観や社会観が投影されている。そういった世界観や社会観は、ではどのような現実によって醸成されるのであるかを考えると、その投票者の日常的な慣習性やその投票者が住む地域コミュニティーの考え方、その個人の育った家庭環境や職業的な社会的地位(やそれに付随する職業的知性に伴う固有の判断力)その他様々な要素が複雑に絡まりあって一面的な根拠を論うことは出来ない。性格遺伝子的な判断も手伝うであろう。
 いずれにせよこういったたった一つの投票行動を分析してさえ、多層性が如実に垣間見られるのであるから、もっと日常的な行為においても微細な誘引性を持ち一つ一つの行為を実は今まで述べてきた多層的な選択性が支配しているものと思われる。しかもどこからどこまでが意識的な理性論的な意志決定合理化システムによって為され、どこからどこまでが潜在的な無意識の蓄積が理性論の装いを持って我々の意識を醸成しているのか、という判断は実は極めて困難である。
 テレビでそういった繰り返し反復されるイメージがあるイメージ像(政治家の場合ならその政治家の考え方に関するステレオタイプ)を形成すると思われる時、そのイメージ像が巧みに放送メディアが編集的な検閲性によって情報操作していると感じられることそのものさえもが、贔屓の考え方に関してなら我々はそのメディアの物の見方に関して否定的な感情を抱かないものである。つまり反感を感じるタイプの像を圧倒的にクローズアップして報じた際に不快感を得るのだ。自己の経験的な判断においてこのメディアの情報操作には違和感を持つとか、この操作には順当なものを感じるとかは個人差もあるし、また視聴者の側もまた好む情報操作タイプの番組や好む放送局のニュースだけを中心に見るということもあるからである。
 信念ということを考えてみよう。例えば信念とは政治的な判断(つまりここで話題としていることに関しては投票行為)ももっと根源的な生活信条も規定し得る。信念が、では言語的な思考と関係があるのかという視点においてジェリー・フォーダーは脳内の言語的な思考に無縁の信念はないのだ、と考えるのに対して、ダニエル・デネットは、信念とは前言語的なものである、と基本的には考えている。しかし私は例えば数学的思考同様、信念もまた前言語的、非言語的思考とそうではない、あくまで言語依拠的な思考の二通りあると考える。
 例えば人間の生物学的な親和力は前言語的であり非言語的である。その最も顕著な例は愛情的な感情である。親子、家族、友人、仕事仲間、地域的な人間の繋がりと言ったものは全て人間にとって社会学的な認識以前に大切なものであり、社会学的な認識はそのア・プリオリを考察した結果にしか過ぎない。これらの感情も信念であると言える。
 それに対して社会的な複雑な認識、たとえ親子や家族において異なる政治的な信条や宗教心といったものは個人的な感情レヴェルでは前言語的であるものの、それを自己の信条として位置付ける際の合理的判断においては明らかに言語的認識、言語習得以降の人間の論理性と不可分ではなかろうか?我々は信念を考える時、その二つの要素が、どのようなケースにおいても複雑に入り組んで我々の眼前に顕在化していると考えるべきではなかろうか?
 贔屓筋的な判断、それは多分に性格遺伝子的な判断(社会生物学的な選好性ということ)によるところが大であろう。また政策中心の候補者選択は信条的な判断である場合が多いと思われる。しかも同時に厄介なことには前者にも信条から生み出される部分はあるし、後者にも性格遺伝子的な判断が寄与する部分があるということは容易に察せられるのである。その比率を一々我々は検討しはしない。それこそその比率は常に変化し得るものであり、常にその比率が決定されてもいないのだ。つまりその時その場で我々は常に可変的にその両者の比率や比重を変更させながら行為選択しているのである。
例えばある候補の好感度をメディアからの影響であると知りつつも敢えてそれを否定もせずに受け入れることは政治をある程度ゲーム的なものとして認識することを許容する考え方があり、逆にメディアからの影響であると気が付かない者は政治をメディアからの影響通りの実体として認識するからゲーム的な認識は希薄となる。またそうではなく、メディアからの影響を頑なに拒むことは政策として主張されている考え方がメディア的な好感度以上に切実であると認識する考え方であるから、政治の持つゲーム性を現実としては認めつつも理念的には否定する考え方に近いこととなろう。
 政治の持つゲーム性はしかしあくまで政治家の立場からする戦略性に他ならないのであって、それを見守る国民にとっては自己の推挙する政治家だけがそのゲームで勝利して欲しいと願う以上のゲーム性を通常求めはしないものである。にもかかわらずそれ以上のゲーム性をまるで観劇でもするかのように捉えるなら、どのような政治的状況になっても自己の生活水準が変化するものではない、という信念が存在する場合のみであろう。そしてメディアの形作る政治状況においてさえ、その通りだと思うことについては、我々はそれほど目くじらをたてて批判しはしない。寧ろそのメディアの論調が自己の信念に逆らうものである場合にのみ我々はメディアからの影響を受けまいと頑なになる傾向がある。そういう場合メディアのゲーム性は脅威となり得るし、また逆にメディアのゲーム性が自己の信念を反映していると感じられる場合のみ、我々はメディアの威力を信頼するのである。だからメディアというものはマスメディアとしての存在理由を自己の信念に沿って選択するということがある。例えばインターネットが新聞やテレビにない公共性の意義を持つと感じられる部分では我々はインターネットを最も有効な手段であるとするし、逆にインターネットにおける双方向的な可能性にもかかわらず、政治的な発言などが自由で検閲されないという利点ゆえに逆に微弱な落書きでしかないような各種ブログの自己満足性において我々は逆にテレビの持つ影響力を再び見直したりすることとなるのである。
 そのようなメディア選択における行為性を哲学的に解釈しようとすると、我々は何を真理として信じ、何を真理としては受け入れられないかという価値判断へと行き着くのである。それは選挙の際に投票する候補者の略歴や政見放送などから受けるイメージ像やら日頃の言動(メディアが作り上げている側面があるが)とかの選択基準の多様性を物語る。そのどれを最優先的なファクターとし得るかはその選挙自体の意義に対する認識や政治状況に対する読みによってもその都度変化し得るであろう。
メディア自体が全ての側面から他のメディアの存在を前提している。例えばテレビは新聞を視聴者が購読していることを前提して報道し、新聞もまたテレビを見ないで新聞だけ読むような読者は鼻から想定してはいない。全てのメディアが共同戦略を採り、新聞はテレビを見る読者を相手にテレビは新聞を読む視聴者を相手に相互にシナジーを構成している。またそれを我々は承知してそれぞれのメディアを受け取り、そういった関連性や独自性を個々に見出しながら利用しているのである。そこである政治家のポリシーを知ることにおいて新聞が最初である場合もあるし、テレビが最初である場合もある。しかしそれらが全て一体となってシナジーを構成する全体が社会のイメージを作る。それは我々を取り巻く社会のイメージである。その社会のイメージに拮抗するようなポリシーを打ち出す政治家を我々は頼もしいと感じる。そういった活劇的なイメージを劇場型の社会は要求しもし、我々自身も期待する。ある意味ではテレビが供給する社会像とは我々自身が要求しもするところの、期待し、それに応じるような社会像である。我々は実は期待を持ってそれを見、それが期待感に沿ったものであれば、メディアを我々の味方と捉える。しかしそれが期待とは別個のしかもそれ以上のものでない限り、失望感をそこに感じる。そして自己の判断と思われる我々の政治家に対する判定もよくよく考えればテレビが何度も繰り返すイメージに起因していたり、テレビが与える情報を基盤とした新聞の論説であったりといった場合が多い。我々の行為はだからどこからどこまでが自己固有の世界観によって形作られ、どこからどこまでがメディアの植え付けるイメージであるかどうかをよく見極めなければならない。しかし同時に我々は一々全ての情報を自己固有のポリシーによって獲得している暇はない。そうしようとすればプロのジャーナリストになるしかない。しかし少なくともある情報を別の筋からの情報と幾つかのパターンから収集し、それを付き合わせて比較研究するくらいの暇を作る、真にその情報を糧に何か判断する場合(例えば事業をするとかの)には、そういう余裕が必要であろう。
 それはある情報を入手する時我々自身が選択しているのだ、と自覚し得る範囲であればまだ救いがあるということである。というのも我々は常習的に見慣れたある放送局の番組やニュースを最初は自己の期待感に沿うものであると直感的にそう思ったからその放送局のものを中心に見る習慣になっただけであり、実はそうしながら次第次第にその局のポリシーに操られているし、中毒症状に陥っているのにそのことを気が付かなくなっている。時たま意識的に他局のニュース、他の新聞を見るという転換が必要となってくるのである。我々自身がある刺激を求めたりするように情報の入手を期待するある種の好奇心が局を時として「やらせ」に走らせたりするのだ。そういう捏造性を回避するためにも我々は一つのニュースソースに拘ることを避ける必要があろう。
 しかし今度は余りにも多くの情報をキャッチするようになるとそのニュースソースに対してよほど警戒しないと例えばインターネットの情報は玉石混交であるから、それが真実の情報であるかどうかを見極めるのは難しい。勿論テレビや新聞でも「やらせ」や捏造記事は厳然と存在するし(ただそういう場合は事後的には謝罪する)またグレーゾーン的な真実に関してはある特定の推測においてその真実をテレビ局や新聞社のポリシーに沿った形で解釈する可能性もあるから、それだってどこまで信頼すべきであるかは疑問であろう。しかしインターネットの情報は無責任な書き込みも多いし、また匿名性故に責任の所在を追及し難い。よってこの種のどこからどこまではクレディビリティーがあり、どこからどこまでがそうではないかの判定は結局のところ個人の裁量に委ねられている。だからある政治家の意見とかその経歴や生い立ちなどの分析自体もそれを取材する側の主観が紹介される際には大きなウエイトを占めるのであるから、そう容易に信頼すべきものばかりとは言い切れないであろう。その意味で誰か特定の政治家を選挙で投票する場合もその投票行動自体がそれほど大きな責任を問われないということが政治をもある種のゲーム(ダービーのような)に仕立て上げていると言えよう。
 しかし圧倒的大多数の人々が支持する政治家に対してある種のクレディビリティーを持つことは心的に自然な選択であるとも言える。物凄く多い情報量においてある種の新奇な情報、しかもある出来事を伝えるのに一般的な物の見方に抗した物の見方を信じるに足ると認識することを選択する時、我々はしばしば自己の知識量や判断力の正しさを絶対的に自信を持てるくらいにその種の状況性への的確な判断やら造詣の深さを要求されよう。しかしそういった中でただ新奇なだけの奇異な情報的真実(ある出来事に対してその実像はこうである式の)は往々にして疑わしいものも多いことは確かであろう。そういう意味において人気政治家を投票することは取り敢えず間違いないであろうという判断は、ある意味ではかなり順当な判断でさえある。何も態々隠された実像という別個の一般的判断に抗した物の見方を採用する必要性を殊更感じない場合には我々はメディアが訴える我々の期待感に応じた政治家像を信頼することを選択する。つまり敢えて奇異な判断を採用することのリスクを冒す意義を見出せない場合我々はあくまで順当だと思われる政治家に投票しようという心的な決心を持つに至るというわけである。
 例えばあらゆる社会的慣例、伝統的な儀礼性、天皇制などを筆頭に挙げられる日本人の精神性にまで深く根を下ろしたと一般的に思われる伝統文化(その種の伝統的な文化コードの研究家の研究を期待したい)さえも言語行為とかあらゆる行為の決心においては、その慣習性が大きく立ちはだかっているので、そういった伝統文化コードが押し着せるような強制力のみをそれほど取り立てて論旨にするほど精神的な重大さとか、極端に美化したりもする必要が殊更あるわけでもないと思われるし、と言って目くじらをたてて、実害を論じる必要もないものである。そういうものは西欧社会でもキリスト教伝統文化として根付いている。その意味では寧ろ形骸化しているのに尚消滅しない各種の伝統文化コードの今日的な日常性とかの部分から妥当性を考察する方がより意味あることであろう。投票行為ということを巡るある種の分析もまた、そういう意味では古代から綿々と受け継がれてきた伝統文化コードでもあるし、と言って伝統にのみ依拠するものでもない。今日には今日的な特異な問題もあるし、いつの時代にも変わらない部分もあると捉えた方がよい。
 人気政治家は過去にも大勢いた。またそういう指導力のある強力なカリスマが時代的風潮を形成してもきた。その意味では200X年夏の総選挙はK泉首相の独壇場であったととも言えるし、今回はそれ以降のJ民党に対する曖昧な政策に対してお灸を据える意識が爆発的M主党ブームを呼び起こしたのであるが、それは選挙当時の我々の心的なモードが構築した政治的な結果でもあるのである。多分にテレビその他のマスメディアが構築したイメージ像が作用した選挙結果をこうして現在目にすることが出来る我々にとって重要なことは、「敢えて一般論に抗してまで奇異な説に加担して別の候補や党に投票する必要性を声高に叫ぶ必要のなさ」というものの正体とは一体何なのかということではなかろうか?そこにあらゆる独裁を生んだ時代の過去における人類の過ちやいい意味での安定的な政権を保持していた時代の教訓を得ることが潜んでいるのではなかろうか?
 K泉首相はワン・フレーズ・ポリティックスという言葉で代表されるイメージにもぴったりの名演説、名話者であった。そういう意味では言語学、言語哲学、言語心理学等の分野で言われる自然言語と人工言語というカテゴリーに照らして言えばK泉首相こそ大衆を説得するのに必要な理想的人工言語の装いで自然言語を駆使しながら魅了したと言える。だからこそあのクーデターとも思しき行為が圧倒的大多数の国民の支持を得たのであろうと思われる。そういう一般論にまで自己政治哲学を高めた首相の手腕もさることながら、私はあのように国民が首相に魅せれていった心的なプロセスとそのプロセスが意味するところに大いに興味をそそられるのである。だからこそそのようなカリスマ性自体に対する反省意図という側面からH山首相に期待する向きも逆に今回の選挙では多かっただろう。

追記
 私たちはこの200X年の総選挙の後、首相の交代を四回経験したし、その間М主党の歴史的勝利に終わった参議院選挙、捩れ国会も経験した。それもこれもあの200X年における総選挙のJ民党の歴史的勝利と、それに伴うK泉首相の翼賛体制に起因していることを今更ながらに実感し得ている。そして我々は経済的な未来に対して輝かしい実績を挙げたその体制とは一体何だったのかと考えている。経済ということのグローバリズムに乗せるという政府の題目と、その際に切り捨てられる幾多の各論的な問題の狭間に我々がいることは確かである。そしてK泉首相を独裁的翼賛体制へと追い込んだのは、抵抗勢力であり、それを後押ししたのも我々なら、国際経済社会からの孤立を招いたのも我々である。もう一度あの選挙において国民が後押ししたものは何だったのか考え直すことには意味がある。そしてそれを支える我々の心理とは羞恥以外にはないのではないのか?
 つまり客観的にある人物を推し、その者に投票するということと、そうではなく贔屓感情からそれをすることの間に果たしてどれほどの相違があるのだろうか?これはある意味では人間にとって理想とか理念とか愛情との間の差異が一見明確にあるようでいて、そうではないことを物語ってはいないだろうか?そもそも選挙をするということにおいて成立している民主主義体制そのものが、我々が権力をある特定の人間たちに委ねるという形での我々固有の日常的羞恥に起因しているのだ。そのことを考えて私は「他者と衝動」を書いているのだ(次回からその論文をお届けする)。そしてこの前置き的論文である決心の構造の多層性(ある選挙に立ち会って)における決心と政治参加における原動力である羞恥に関しては3節の他者に対する羞恥の根拠に示した積りである。つまりこの前置き論文の分析がそのまま3節の主旨へと直結していると考えてくださって結構なのである。

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