Friday, October 9, 2009

〔他者と衝動〕2、「語り」の意味

 我々は我々の性向によって知った真理を我々を成立させる全自然に適用しようとする。そのことをミシェル・アンリは同じく「受肉」で次のように述べている。

 エロティスムを客観的な生(sexualite)に還元することによって、裸になる行為が以後まとう重要性が、説明される。もはや問題とされているのは、その全体におけるエロス的過程をしるしている。それは二つの存在のあいだの関係が以後生じることになる場所を定義し、展開する。この所作において、決定的な移動が完遂され、この移動によって、各々の生ける者の欲望が、つまり、もうひとりの生ける者と合一するという欲望が、生とは別のところで、もはやひとりとして生ける者が存在せず、いかなる生も可能ではないような領土において、演ぜられようとしているのである。(400ページより、中敬夫訳、法政大学出版局刊)

 いかなる生も可能ではないような領土において演ぜられることとは、端的に人間が自ら作り出した想念という仮想によって現実の不毛地帯にまでその理想を適用しようと欲する、まさにそのことがあらゆる文明を築き上げてきたことにもなるのだが、そこに脈打つ真理とは、端的に自ら見出した真理の虜になるという負の一面もあるということである。ホッブスもそのことは指摘していた。
 だからもし我々が何かを語るとしたら、その語られる対象や出来事以上の輝きをそこに見いださずに語ることは出来ないという側面から我々は語ることそのものを見据えなくてはならないのだ。だから本節において私は「語る」という行為を哲学テクストに限定して、テクスト創造することから、哲学者当人における私と彼にとって彼の哲学を支える他者との関係から哲学的言説が齎す「語り」の本質的な意味について考えてみたい。
 そして自由、自由意志という側面から幾つかの哲学テクストで示されている「語り」(それ自体一つの哲学者による世界把握のクオリアであるところの)の本質というものを探ろうと思う。
 そのために随時、ホッブス、デカルト、ジョン・ロック、スピノザ、ヒューム、ルソー、コンディヤック、カント、ベンサム、メーヌ・ド・ビラン、ヘーゲル、キルケゴール、ニーチェ、フッサール、ベルグソン、ウィトゲンシュタイン、レヴィナス、サルトル、クワイン、パットナム、リクール、アンリ、ヘア、デネット、あるいは現代日本の哲学者たちのテクストがその都度参考にされたり、考察されたりすることによって私の考えの上で示されることだろう。それら全てを本論に引用列挙するものではないにしろ。
 
 あらゆる哲学者がテクストを発表することに内在するモティヴェーションとは、哲学界の時代的状況、それは哲学者たちの顔ぶれによるところも大きいが、それと即応した時代的哲学潮流の中での発言の適切性(社会成員としての責務)と、哲学史のみならず哲学者本来の責務との間で一致する部分と、齟齬をきたす部分との間の折り合い、それを示そうということに尽きる。
 例えばそれは伝統や文化全般に対する敬意と反逆の意図を持ったアーティストの絵画作品発表を巡るモティヴェーションとも共通する。
 それはエドワール・マネが「草上の昼食」や「オランピア」を西欧近代絵画史上、裸婦表現の形式的伝統と系譜学的認識(常識)に対する痛烈なる批判として作用するものとして発表当時のアートの精神の理解者による共感と、それを理解することを拒む常識人との間の葛藤によって歴史的に立証されている。
 つまり初めて宗教上のテーマから裸婦を解放させたギュスターヴ・クールベの裸婦の持つ日常的側面、市井の人々がモティーフとなっていることなどが基盤として表現上の冒険としてあったればこそ、休日のピクニックとそこで交わされる男女の会話という前提における冒険的意図と、それまで誰も描いたことのない娼婦が投げかける視線を絵にするということの冒険が、それまでの宗教絵画上で常套的であった横たわる裸婦という形式によって表現されているということのアイロニーに内在する挑発的意図が、そこには読み取れるのである。
 マネは要するにそれらの時代的常識を逆手にとって伝統に対する挑戦と、アート形式の系譜学的な意図への敬意とが折り合い一体化して、その戦略が形成されたのである。つまりそこにはそのように読み取って欲しいという意図が込められていたのである。
 つまり私が言いたいのは、哲学者たちはアーティストが絵画作品を発表するモティヴェーションと極めて共通する伝統に対する敬意と反逆の意図が綯い交ぜとなった歴史を認識しつつ、歴史を作ろうという意図と目的をもって哲学テクストを公表するということなのだ。それはある意味では一つの歴史という哲学者にとっての「他者」に対する目論見以外の何物でもない。そしてそこには確固たる発表しようとする衝動が息衝いている。
 歴史とは哲学者にとって全哲学史、あるいは全哲学領域に対して提言する自由として君臨している。敬意と反逆とが綯い交ぜになったままで歴史に参加する意志を発生させる制度としての哲学学問的カテゴリーは、哲学者個人にとっては全哲学者と、彼をも含む他者全般と、彼を含む自己‐他者の全部の意味を含む彼によって新たに独自に展開される哲学への衝動を掻き立てる契機が潜んでいる。
 しかしもっと我々にとって重要なこととは、アート史としてはマネの冒険と反逆が重要であるということが今日自明だとしても、そのようにマネを固有の革新的存在へと押し上げているものの方の正体を見極めるということである。
 つまりある革新的な表現とか、革新的な思想とか哲学を際立たせているものとは、とりもなおさず凡庸なる発想の幾多の常套的な表現、思想、哲学なのである。そして例えば今挙げたマネの革新とは、端的に本来裸婦とはこうあるべきであるという通念こそが支えているのである。そして我々はこの時、例えばマネ芸術を支える、マネを天才たらしめているところの「当たり障りのない」、「常識と良識に沿った」絵画芸術上の形式的秩序としての裸婦というものが、何故我々にとって存在しているのだろう、ということに対する疑問に対してそれなりに回答を見いだすということなのである。
 私はそれを結論から言えば人間の羞恥という感情に見るのである。そして羞恥という感情は、「こうあって欲しいけれども、こうあるべきであるということが存在するので、仕方なくそれに付き従う」という選択以外のものではない。そして本当はこうしたいということがあり、それを容易にすることが出来ないので、それを敢えてする人に拍手喝采を送ることに吝かではないという幾多の選択こそが天才を天才として社会に存在せしめている。そしてこうしたいとかこうあって欲しいということがあるのに、それを容易にさせないでいるものの正体こそ、他者に対する羞恥なのである。
 つまり何故裸婦とはそれを鑑賞する立場の人々から言えば、深層心理的な意味で本当は市井の人々が日常の中で感じるエロチシズムを求める筈のものなのに、マネ以前にはそのようなことをあからさまに表現する人は、数えるくらいしか、例えばクールベくらいしかいなかった。ということはその本来の人々の願望を滞りなく叶えることを阻止している<見えない壁>が存在することになる。そしてその<見えない壁>こそが、裸婦を描く時には聖書とか、要するにそれが許される順当な歴史的テーマという堅い堅実で、面白みはないが揶揄されることを免れる市民としての慎みと良識なのである。そしてその慎みと良識を構成しているものこそ、他者に全て真意をあからさまに伝えることは恥ずかしいし、みっともないし、第一不躾以外の何物でもないという考えであり、それは黙っていれば問題を引き起こさずに済むという保守的で、非冒険的で、要するに消極的な選択肢なのである。
 もし敢えて何か言いたいことを言うとして、その結果その発言によって恥をかくことになるかも知れないし、第一いつも黙って耐えている人(大勢の人)に対して恨みを買うことになるかも知れないという安寧を望む心理は常に我々に付き纏う。それは端的に勇気のなさであり、当たり障りなく全てを問題なくやり過ごしたいという感情である。そういう行動規範とは、端的に老いも若きも老成ということ以外のものではない。そしてそのようにいつも行動を踏み止まらせ、積極的行為を回避し続けさせるものこそ、実は他者に対する羞恥である。他者に対して羞恥するということは、他者に対して先述した通り前節での纏めで述べた「私は他者の衝動と接することを避けることも出来る。」という②の選択肢である。この選択肢は完全に保守的であり、もっといい展開が望めるかも知れないのに、敢えて今冒険をして失敗するくらいなら何もしないでおこうという決心である。それは消極的な決心であり、保守的な決心である。勿論あらゆる局面でこの決心が誤っているわけではない。そういう考えの方がより正しい局面というのは多々あり得る。しかし同時に常にそうであっては、そういう行動規範は発展性が皆無である。
 そして私が考えている「語り」の意味とは少なくとも、そのような心理による消極的決心とか、保守的決心ではない。たまたまマネの試みは歴史に残ったし、同様にそういう試みをして、力足らず潰え去った大勢のアーティストはいただろう。だから今私が考えている「語り」の意味とは、ある部分では極めて危険であり、それをしないで済むのなら、しない方がずっといい場合も多々あり得る。しかしそれはただの閑談であり、空談であり、要するにただの発声行為である。
 「語り」とはそれがどんなに些細なことであっても、話者双方が何らかの精神的利益を得ることが出来る何らかの未来に対して希望を抱かしめるもののことである。一切の希望がないし、絶望することすら自由であるというあのサルトルの哲学に見られるような言説をも含む、それを聞く者が、語り合う者が、読む者が傾聴に値する、熟読することに値するという価値規範的判断を可能にするもののことを、我々は「語り」と呼ぶ。そして私はどんなに冒険的意図に満ち満ちた人でも、かなりの頻度で空談、閑談に明け暮れ、逆にどんなに保守的で消極的な人でも、有益な「語り」をすることはあり、それはその「語り」をする者の「語り」の頻度ということには全く関係がないし、その発話者、記述者の日頃の力量にも左右されない。ただ多く語る者とか、時々語る者がいるというだけのことである。そしてただいい語りと下らない語りがあるだけのことである。

 私たちは他者と語る時、その他者に対して羞恥が弱ければそれを払拭して語り、羞恥が強ければそれに対峙して語る。そして羞恥感情を見抜かれること自体を回避すべきケースと、そうではなく寧ろ羞恥感情を直接示しても問題がないケースとがあり、我々は常にその間を行ったり来たりしている。
 特に冒険的意図を強く心の中で示している時、我々は羞恥を殺すことを考えるだろう。つまり羞恥は保守安寧と、消極的安定を求める作用であることがこのことによって了解される。
 そこで本節では「語り」ということを決心する際の羞恥感情について、その根拠を問おうと思う。そして主にその羞恥を生理的、心理的に発生させる根拠について、他者と私とのかかわり合いにおいては次節に回そう。
 語りたいと我々が思う時に他者に対面して、発話を決心する際に取り払われる内的に現象論的な解釈によると、語りを決心することにおいて次のようなことが瞬時段階論的に考えられよう。
 
① ある事柄が思念上で浮かぶ。その思念は今相対している他者との息遣いによってと、それ以前に一人で考えていたこととが重なり合っている。
② その思念が今相対している相手(他者)に語るに値するか否かを思念する。
③ その思念内容が今相対している他者にとって関心を惹くものであるか否かを思念する。
④ 今相対している相手にとって利益になる内容であれば羞恥は払拭する必要なし。しかし今相対している相手にとってそうではない内容であるのなら羞恥を払拭する必要性が生じる(後者は相手に対する異議申し立てにあり得るケースだ)。
⑤ 他者の関心全般ではなく、より今相対している相手の関心を惹き付ける、それがその相手に対して利益にならないことであれ、利益になることであれ思念を語ろうと④の前者の場合には決心がつき、他者の関心全般において妥当な内容の思念内容を今度は語ろうと、もし④における後者の場合には決心がつき、それまでの対話の流れを調整しようとする。あるいは④以上にその対話を続行することを断念する。

 私たちはこの段階論的な現象論的な解釈において②から④において一定時間を要するものを躊躇と呼び、それを省略して⑤の後者の行為へと赴く場合、それを対話する意図なしととる。④の前者の場合(しかしの前)融和的、あるいは多少ネガティヴな心理が働いている場合宥和的な、後者の場合(しかしの後)非難口調や批判的態度の言辞となり、そのプロセスの後で、融和的、宥和的であるのに⑤で初めて批判へと転じる場合は前者の決心を要し、逆に調整しようとする場合④の後者の選択の後に、融和、宥和へと差し戻そうとする意志がある。だが④の後でいきなり⑤の後者を選択した場合、融和的、宥和的なままにして対話を中断する選択肢と、逆に批判的、非難的なままにして対話を中断する場合とがあるだろう。尤も最も全体論的に融和的な対話とは躊躇しないで全てのプロセスを踏襲する(特に⑤の前者も選択する)ことであり、しかもその中でも最上のものは②から④へのプロセスが迅速であることに尽きる。逆に最も融和的ではない選択肢とは①において何も語らず、いきなり⑤の後者を選択することである。その次に融和的ではないケースは①の後で躊躇した末に⑤の後者を選択するケースであり、その次は同じく⑤の前者、あるいはまた最初に戻って全工程の反復を選択するケースである。
 躊躇はある意味では必要な心的作用である。しかしそれが強過ぎると一切の意思表示に支障をきたし、また弱過ぎると他者に対して一切の配慮を欠くことになる。だがそれらも所詮、ある一定の方向へと意識的に他者との対話を持っていこうとする意図がある場合には、それらの配慮全般に対して、躊躇もなく、あるいは躊躇すること自体を回避するためにその他者とそもそも接近することを拒否するという選択肢もあり得るから、その対話をするか否かということに関する決断が最も重要だということになる。
 端的に躊躇とはあまり持続することが好ましい心的状態ではないし、また他者との衝突それ自体も必要欠くべからざる場合以外は回避するに越したことはない。
 要するに「語り」とは一定の説得力があると思える場合のみ、融和的であれ、宥和的であれ、非難的であれ、なされるべきものなのであり、何を言っても通じないというケースにおいては最早いかなる選択肢も残されおらず、要するにその他者との接触自体を回避するべきなのだ。
 しかもその他者とは強烈に自分に対して敵意を剥き出しにする場合ばかりではない。あらゆる善意、優柔不断といった中庸的態度全てに適用される。
 そもそもある言辞において、その言辞が「語り」として有効であるか否かは、その「語り」が指し向けられる他者に対する感情的な敵意に満ちていて、内的感情そのものを表示しようとする場合(現実にこれ以上その他者とかかわりたくない場合には仕方ないだろう。)以外は、端的にその他者の行動や思想や、見解等に対してそれが間違っているという指摘そのものの正当性と、その正当性に対して他者が聞く耳を持つような話し方とか態度、論理的な筋道を持っていることである。このことは次節においてより詳細に論じることとなるが、要するに他者の人格そのものに対する非難ではなく、行動、思想、見解に対する批判であるべきなのである。それはパトスではなくエートスとしての他者との接触以外のものではないだろう。しかしこれも次節で扱うが、その事実は寧ろ人間はパトスとして行動することの方がずっと多いということから来る意図的、意識的な行動原理としてである。
 「語り」にはそれを語る人間の出自とか、性格とか、人格といったことは関係がなく、語る内容そのものの正当性、説得力が最も重要である。勿論それはそれを語る者の出自とか性格とか人格をもって聞くに値するか否かを決定するという現実が一方で存在するからこそ意味があることなのである。つまりある者の語りを聞くに値するかという判断が前もってあるからこそ、我々はその内容が優れているか否かという判定そのものを用意するか否かが決まってくるのであり、そもそもどんなにいい語りを語る能力を有している者でも、その語りを語る機会を得ることがなければ宝の持ち腐れである。そしてそういうことというのが意外と人間社会では多いのだ。だからこそ我々は一方でどのような者の語りでも、その語る内容と、語り方から説得力があり、論理的に優れているかという査定が重要であるというモラルを携えるのである。

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