Thursday, February 27, 2014

時間・空間・偶然・必然_意識という名のミーム<科学で切る哲学、哲学で切る科学>18、「私は変わった」とは言わないのに何故「私は生まれ変わった」となら言うのか?

 ほんの時々我々は生まれ変わったと自分のことを言うことがある。尤もこういう言い方は全ての人が使う訳ではない。それ迄余りにも酷い生き方をしてきたと自覚する者のみが心を入れ替えたという意味でそう語る。しかしそう語るにはやはり信用を取り戻そうという意図だけはあると言えるだろう。と言ってそう言い放ちその様になかなか人は変われない。変われないのに変わる。これは語義矛盾ではない。つまり自然と変わる。変わりたい様には変われない、ということだからだ。意図的に変わろうとしても変わらず、意図的に変わらない様にするのに変わるのが我々なのだ。だから「私は変わった」ともし言ったなら、そうかその様に今気づいたのかと言われやすい言い方となるので、敢えてそうは言わないのだ。何故なら変わったか変わらないかは自分自身のことを言語行為で他者に告げることではないからだ。何故そうであるかは前章で既に論じた。要するに自分で自分を変わったと言う場合意志的に変わったのなら「生まれ変わった」と言うべきだし、又自然と変わったのなら「(誰からから)最近変わったと言われる」と言わなければ事実報告として不自然だと思われるからである(実はこの自然ということもそれ自体かなり難しいことなのだが、それは今後の宿題とすると言うにとどめ、先を行こう)。他者が自分に対して、或いは自分から他者へ「貴方は変わった」となら言うことは出来る。それは要するに自分自身から観た貴方への率直なる印象告白なのだから。
 しかし私は生まれ変わったと言うのは、それ迄の悪い意味での変わらなさへの反省から変わることにした、そして事実変わったと告白することである。しかし敢えてそう言わなければ信用を取り戻せないのは単に人間がそう簡単には意志的には変わらない、自己、自分自身をそう容易には変えられないということを我々が知っているからである。
 哲学では惰性的に、(本来なら)変わるべきであるのに、意志薄弱的に変われない侭で居ること、要するに弱い意志のことをアクラシアと言う。このアクラシアこそが生まれ変わることを意志的な意味で価値的なことと我々がしやすいこととなっている訳である。だから生まれ変わったと言えばそれなりの決意をしたのだなと取り敢えず受け取ることも可能なのだ(勿論そういう言い方自体を白々しいとして一切受け付けないということも我々に於いては多いのだが)。
 誰しもアクラシアであることをアクラシアと自覚する者はその脆弱な意志そのものを変えたいと望む。それはしかし容易ではないと知っているので、今回取り上げた「生まれ変わる」という表現自体も日常的に頻繁には決して使わない。変わったと言われるということはよく言うことである。しかしこれも表情とか顔とかそういう具体的な指示を伴ってであることが大半だ。人間性そのものが変わったということを自己客体化して告げるという報告状況そのものが特異であるので、必然的に生まれ変わるにせよ、もっと「私は変わった」とその言葉単独で告げることはない。もしそう言うとしたなら、それは変わるという事態に就いて論じている文脈上だけであろう。
 しかし変わるということそのものを哲学的に論じだしたなら、恐らく一冊の本が書けるくらい、否それだけでもとどまらない深い論議へと直結する。だからこそこの変わるということを自己に対して他者へ報告することも、他者へ直にその自己、自分からの印象を告げることはそう滅多にはない、とも言える。しかし親しい間柄であれば、そういう変わったという印象を告げるべきだと判断する時は確かにあると言えばある。しかしやはりそう頻繁ではない。と言うことは我々が変わるということをやはり特異なこととして理解している証拠である。
 変わるということは自然であると我々は考える処はある。成長、老化等に拠ってそれを実感することは生きていれば容易い。だから変わらないということは変わっていく自分自身に対して何時迄も同じに感じられるということである。となれば逆に変わらずにある様に思える錯覚でしかなく、実際には変わっていないということはあり得ない、と一方では我々は知ってもいる、ということでもある。
 変わらないということはしかし他方もっと高次のレヴェルに迄視点を拡張すれば、変わり続けること自体は変わらない、と言い得る。要するに仏教用語的に言えば無常なものとして移り変わりゆき、それが止まることがないというレヴェルでは一切は変わりないし、変わらない(と言い得る)。つまり常に移り行くことそのものは常に変わらないのだ。唯個々のことを一々論えばやはりそれ自体は変わり続けているのだ。
 ギリシャの哲学では変わらないというより、動き自体が一切幻で、全ては動いている訳ではないのにあたかも全てが動いている様に思えるという考えは存在した。それもしかし煎じ詰めればやはり変化自体など存在し得ないということである。その考えから言えば確かに変わり続けていることそれ自体が変わらないのだから、何も変わらないということだけが真理だともなる。
 しかしやはり変わるとか変わらないと、そう語るのは我々自身だけである。語ることでは変化しか注目し得ない。変化しないということ、変わりないということを告げることも実は、結局変化していないという事態こそが以前とは変わってしまったことだ、という意味である。それは停滞の報告であり、変わるべきものが頑固に変わらずに居るという不平や不満や驚嘆の報告である。
 そういった報告が出来る、という我々自身の性質こそが、意志的に、意図的に、意思決定とか決意的に生まれ変わるということを思念すること、そう意志することが有意義に我々にとって感じられる時がある、ということにほかならない。
 自分自身の変化は人からどう思われているかと聞かれぬ限り報告することは不自然であると我々は感じる。つまりそういう破綻を一切認めない処でのみ意志疎通が成立しているということそのものこそコミュニケーションが慣習化され因襲化されていることを証明している。だから先手を打って相手から問い質される前に自分から自分の意志、決意として生まれ変わったと告白することを一手ではあるし、前章で可笑しいとした「私は変わった」とそう言うことも又一手だとは言い得る。
 しかし繰り返すがそれが一手であることは、即ちそれが自然ではないとする慣習、因襲に取り囲まれて我々が生活しているということでもある。だからこそ「生まれ変わった」と言わなければいけないこととか、態々そう言い放つことが有意義に思える瞬間が日常に稀には存在するのだ。
 結局この生まれ変わるということを決意してそう実践していることを報告することを自然なものにする状況(それがまさに本章で私が問題化させているのだが)そのものは、私は変わったと何の前触れもなく告げることを不自然とする厳然としたコミュニケーションをスムーズに運用する為の自然な流れというものを我々が認識している、という事実を物語っているのだ。そしてその自然さとは自然界の自然さではなく、端的に倫理的な自然さである。そしてそのことは言語行為では純粋に自然界的な自然さの方がずっと少なく、寧ろ意志的、感情的、情動的な報告の方がずっと多い、ということを意味している、示している様に思われるのである。
 しかしそのことは表現そのもの以前的に文法的に、品詞論的に(つまり形容詞でも名詞でも動詞でもだが)既に言語行為の形式、運用される体裁自体に既に内在している問題でもあるのだが、それは本章の手に負えることでは今の処ない。