Saturday, October 17, 2009

〔他者と衝動〕6、他者と記憶

 ここで他者という存在に対して人間にとって自己とのかかわりを、主に記憶の問題から考察する段階にきた。そこでそのための指針として幾つかの共進化的な事項について考えたい。
 まず思考回路としてそれが自然であるということを思惟の自然であり、それが実在するかどうかという判断を自然の自然としよう。だから神は思考上では自然であるが、実在を証明するとなると困難であるという意味では思惟の自然による概念であると言える。
 また創造はある可能性の開示であると同時に、創造されたものを前にした時決定であるので、別の諸可能性に対する封印であるとも言える。だから創造とは支配と共進化するものであると言える。
 また責任は公的な価値規範であるから、当然その責任を負うこと、つまり義務を履行することを通してその報酬として権利を得ることが出来、その権利の享受という意味では個人主義(プライヴァシー)というものは責任と共進化するものである。
 また意味とはその意味を成立させる人間の事象、即自、対自全般に対する感情が不可欠なので、意味と感情は共進化するものであると言える。
 ここで幾つかの事項が共進化するものとして浮上した。纏めると、創造‐支配、責任‐個人主義、意味‐感情となる。
 さて神による支配という想念は我々に、では自由とは何かという思念を発生させる。そして自由という観念は主体的行動というものを想定させる。また神による創造という想念は神による被造物という因果関係を想定させる。従って主体的行動はその対極にある因果関係と対となり得る。従って主体的行動(あるいは自由と言ってもよいが)‐因果関係という共進化関係が生じる。
 あるいは責任は道徳と密接であるし、また個人主義も同様であるから、道徳と責任の連関において他人には迷惑をかけないという意識が生じるように、道徳と個人主義の連化において友人や知人(ただの他人ではない人)に対する思い遣りとか配慮という意識が生じるので、<他人とは赤の他人であるとすると他人に迷惑をかけない‐友人、知人に対する思い遣り、配慮>という共進化関係が成立する。つまり<公共的な道徳‐個人的な愛する人への感情>という共進化関係である。それはしかし別の意味では<他者からの傍若無人に対して耐え忍ぶ、怒りを飲み込む決意‐他者の傍若無人に対してものともしない怒りを表出する勇気と知恵>という共進化関係を形成するということでもあり得る。
 意味‐感情については、概念というものがかかわる。概念はある事物、事象、つまりあらゆる即自、対自に対する感情の不動点、安定、決定である。だから概念と我々が言う時、その概念が設定されてゆくプロセスを前段階として想定することが可能である。だから概念は変更される可能性を常に孕んでいるようなある意味と感情の間の暫定的な決定であると言える。
 言語を品詞的に認識すると、名詞は決定や決断を示し、動詞は過程や説明を示す。だから何かを理解するということは、その理解されるべき対象における背景と主体、要するに空間的、時間的因果関係が想定される。そこで理解‐因果関係という共進化関係がここで新たに成立する。当然その共進化を説明し、努力(過程)し、納得(決定)するという意味で動詞‐名詞という品詞間の共進化関係が成立する。
 これら全ては記憶と経験がかかわってくる。ここで経験は記憶に含有させて考えることとしよう。
 創造‐支配、責任‐個人主義、意味‐感情は、全て他者とかかわる。他者とは友人、知人と赤の他人とを合わせたものと考えてよい。主体的行動は創造の一つであり、主体的行動は必ず他者を巻き込む。それは相互にそれがなされる時、支配‐被支配=能動‐受動という共進化関係にあると言ってよい。故にそれは他者と密接であるし、責任も個人主義も同様に他者との相関に成立しているし、意味‐感情も意味は他者と共有する欲求から概念を招聘するのだし、感情は他者と共感、反感するということで成立している(それはカントの「判断力批判」が参考になるだろう)。
 これらを他者との関係において考えていくと、明らかに創造は創造された状態(支配が完了した状態でもある)を想定してなされる限りにおいて記憶と密接であるし、責任も個人主義も履行し、実現され得た状態を想定しているので、記憶と密接である。意味も感情も意味された状態やあること・ものに対して得る感情を前段階において認知しているが故に今現在の状況において再び持ち出される、あるいは今の感情がそれまでにはなかったものであり、今感受している意味が未知のものであったとしても尚既知であることとの対比において捉えられる限りでそれらは総じて記憶と密接であると言える。あらゆる初体験とは体験されて知る状態を他方所有している限りで得られるものであるという意味では記憶は全てに密接に関わっている。肯定的な感情も意味も、否定的なそれらも必ず記憶との関係において捉えられるのである。
 家族であれ、親族であれ、友人であれ、知人であれ、同僚であれ、恩師であれ、上司であれ、先輩であれ、部下であれ、後輩であれ全ての他者はそれらのカテゴリーに属するべき像を持つ他者対象として記憶という前提に乗っている。他者の像とは他者に対する記憶に支えられている。
 しかしこうも言える。昨日会った時上機嫌だった私の友人は今日は心なしか憂鬱に見える。このように私にとってその友人の像とは刻々と変化し続ける存在としてただの一瞬たりとも固定したものであるわけではない。つまり像とは不変な要素を幾分かは常に保っていると同時に常に変化し得る部分をも保っている。このことは時間の経過における変化と不変化にも言える。サルトルは「存在と無」において第一章 否定の起源中Ⅴ無の起源において「(前略)未来の私の存在と、現在の私の存在とのあいだには、すでに一つの関係がある。しかし、この関係のふところに一つの無が滑りこんできている。私は、私があるであろうところのものでは、いまはあらぬ。それは第一に、時間が現在の私を未来の私と切り離しているからである。第二に、私が現にあるところのものは、私であるであろうところのものの根拠ではあらぬからである。最後に、現在のいかなる存在者も、私がまさにあろうとするところのものを、厳密には決定しえないからである。」と述べているが、このことはサルトルを非決定論者であることを決定づけているが、同時に衝動を持ち出す可能性を正当化する。つまり衝動は常に変化し、変化することで因果を否定する。従って今の私とは根本的に過去の私とは全く別様であり、将来の私とも同様である。と言うことはある意味で衝動というものは、過去から一貫した私の像というもの、あるいは私によって抱かれる他者の像というもの、あるいは将来あるべき姿としての私や、私にとっての他者、あるいはその像と拮抗する。対立する。つまり衝動は常に記憶の一貫性と対立するのである。
 しかしまたこうも言える。三年前に私が友人と出掛け旅行の日程に対する記憶や、そこで起こった出来事は私と私の友人が生きている限り変更されることのない固定した事実内容であり得るが、その後の三年間の間で私と彼との間で起こった出来事や記憶とによってその三年前の旅行の意味、あるいはその旅行そのものに対する私にとっての感情的意味、彼にとってのそれは刻々と変化し続けてきているし、これらかも恐らくそうであろう。少なくともどちらかが死なない限り。
 つまり記憶された事実認識そのものは常に不変であるが(忘却することがない限り)、その事実と今との関係、つまり現在を中心として事実関係による記憶された出来事の意味とそのことに付随する感情は常に変化し続けているし、これからもそうであろう。だから今現在の衝動という意味では記憶内容の不変にかかわらず、記憶事実に対する感情は常に変化し続け、変化し得るが、それはある意味では過去の事実、例えば三年前に私が友人と出掛けた旅行の日程と、行き先ということが固定化し、流動化し得ないという事実によって支えられているとも言えるのである。
 だから衝動というものと記憶というものは常に離反的であるとも言えるし、対立軸であるとも言えると同時に、共同的であり協力的でもあり相互補完的でもあると言えるのである。それは私とその友人との間の友情とか対人関係が常に相互に相手の個人主義を尊重し、絶えずある一定の距離を保持し続けてきていると同時に、共犯関係的な共同、共存であるという意味で空間的にも時間的にも両義的であるのと同様である。
 だから他者に対する私の記憶も、恐らく他者から私に向けられた私に対する記憶も、共にその時々の衝動という可変性と共に、私とその他者との不変的な過去の事実とその記憶(過去の事実とはそれに対する記憶なしには何の意味も持たない)との共存によってのみ意味を保つということが出来る。記憶された固定化して不変である事実関係のないところでは常に変化し続ける感情やらその時々の衝動というものの意味も存在理由も生じ得ようもないのである。要するに衝動というものはある部分で常に一瞬たりとも相同ではないという形で極めて気紛れであるのにもかかわらず強力に記憶の不動性、事実関係の不変性というものを欲し、それらによって常に補強されてもいるのである。だから端的に記憶とその不変的事実、あるいは固定化された像というもののないところでは同時に衝動も決して成り立たないということが出来る。ここで新たな共進化関係が成立し得た。それは衝動‐記憶である。
 このことは次節における<羞恥と記憶、衝動‐記憶と共に>でより新たな関係と相貌の下で再び詳細に考察され得ることとなるだろう。だがその前に今節において私は衝動と記憶の相関性における他者性というものをもう一度考察する機会を持とうと思う。
 他者に対する私の印象は刻々と変化し続けている。しかしその変化というものは常にその他者に対する私の変わらぬ第一印象とか、ある出来事によって固定化された私にとってのその他者の像、つまり記憶内容に支配されているとも言える。それは私が私自身に対して抱く私の像にも言えることである。
 私は常日頃私自身勇気がなく、意気地がないと心得ているが、ある日突発的に衝動的と言ってもよい積極的で例えば私にとって屈折した対抗すべき他者に対してアグレッシヴでさえある行動に出たとする。すると私の中にずっと巣食ってきていた意気地のない私という像はある意味ではその瞬間から変化を強いられる。あるいは逆に私は常に他者に対して配慮を欠くずうずうしさを保持しているという反省を私が私自身に対して抱いているとしよう。すると逆にその事実が次の他者に対する言動において極めて繊細な配慮を持って臨んだとしたなら私は私自身に対する他者に対する配慮に欠けた態度の人間であるという評定とか固定化した像に対してある種の変更をすることに躊躇しないであろう。そう認識することによって私は私自身の私に対する自信のなさと自己嫌悪を克服することが出来る。同様に私が私にとっての全ての他者に対して抱く先入見とか、像それ自体も常に変更され得るものとして新たな私の中の像というものは修正され得る対象としても存在し続けている。それは端的に常に不動ではあらぬ、つまり変化し続けるものでありながら、そうであり得るのは、それらはある固定化した印象においても評定においても決定された像というもの、つまり固定化し、変化することのない個々に固有の過去の事実に対する変わることのない私にとっての記憶があるからでもあるのである。
 だからこうも言える。私にとっての他者に対する記憶とは常に私自身の変化と変化しなさに影響を与えられずにはいられないと同時に、私自身にとっての私に関する記憶とは常に他者と私の関係の変化と変化しなさと同時にその他者そのものの変化と変化しなさとに影響を受けずにはおられないのだ、と。
 だから他者と記憶の問題とは常に私と記憶の問題が常に他者と記憶の問題と等価であるような意味で、私と記憶の問題と等価であるのだ。もし私がある他者との関係そのものに対する感情と意味を変えずにいるとしたら、その他者の像というものは常に変わらずにそのままであろう。例えばその他者に対する肯定的な評定や私にとっての存在理由というものに関してもそうだし、否定的なそれに関しても同様である。私にとって愛すべき家族や友人との関係やそのものに対する私にとっても意味や存在理由は肯定的な感情によるものであるなら、益々よい方向へと変化(進化)し続けるであろうし、逆にいつまでたっても好感情を抱けない他者にとっては益々どうでもよい方向、そういう他者とは出来る限りかかわりなく過ごしたいという自己の中の安定志向的、保守自己防衛的な方向へと流されてゆく(退化してゆく)であろう。
 このような常に流動的であると同時にそうは変わらない部分とが共存することによって私にとっての他者と私との関係は保持されてゆく。だから他者と記憶の問題を考える時必須となる考えとはとりもなおさず私自身の問題、私の私に対する記憶と私の他者に対する私の記憶に対する配慮であると言えるだろう。それは当然私の記憶そのものに纏わる私が現在その記憶すること・ものに対して私が与える意味‐感情によって常に書き換えられ、尚且つ変化することのない認識をも持つということにおいてであろう。
 そしてそのような私と他者、つまり私‐他者という共進化関係とは、端的に私と私にとっての他者に対する私の羞恥の在り方によって決定づけられ変化し続けるであろうという目測が私の中に生まれる。
 本節では最後に哲学史的に各テクスト=言説を解釈することを通して、纏めておこう。
 理性と良心も他者に対する認識が作る。感情が情動の意味づけであり、知覚と連関した作用であるとすれば、理性や良心は他者存在と感情が連関しつつ、理性や良心が作る感情という側面と同時に他者存在に対する認知と覚知が作る感情によって理性や良心が作られるという側面の両方が拮抗しつつ、協同してもいると言えよう。
 時間論的な未来に対する不安は、存在の不安でもあり、存在の不安は自らの衝動に対する不安である。意志は私たちの衝動の中の一つの在り方である。他者という存在は一つの衝動起爆剤、誘引剤であるばかりかそれ自体で一つの衝動そのものである。
 ヘーゲルが「法の哲学」において、第一部 抽象的な権利ないし法、第二部 道徳、第三部 倫理 へと展開してゆくその前哨戦として緒論に度々登場する衝動は、他との連関としてしか捉えられてこなかった。しかし今日この事実を見逃すことは出来ない。何故ならハイデッガーが存在の気遣いと呼び、存在の配慮、視慮と呼ぶもの(「存在と時間」より)の正体とは、紛れもなくこの衝動のことだと思われるからである。ハイデッガーのこれらの重要概念は明らかに反理性主義としての使用において示されており、その源流を辿れば、必然的にカントへと至り着く。しかし例えばデカルトにおいては僅かに「情念論」においてのみその考え方が示されている。
 ヘーゲルの否定は、サルトルによってその存在と否定へと受け渡されたが、今日問題視されているクオリアは、人類がアートや哲学へと赴く根源的な衝動と関係がある。フッサールが批判した(「ヨーロッパの諸学の危機と超越論的現象学」より)自然科学の、とりわけガリレイ以後の合理主義は、それ以前には確かに自然科学によって手答えとしては携えられていたある種の質、つまり今日問題視されるクオリアを自然科学が再考することを促す契機となっている。
 未来への不安、存在への不安を構成するものもまた他者の存在である。そして他者の存在そのものが、自己、あるいは「私」、「我」を構成するとしたら、不安を(ということは期待をも)掻き立てる他者の存在とは、「私」の衝動の意味づけそのものが「私」であるという実存を構成するものである。
 我々は過去に対する記憶と想起とによって他者を未来や存在の不安を構成するものとしている。このことはある意味ではデカルト以前のホッブスとデカルトとヒュームとカントとヘーゲルとフッサールとハイデッガーとサルトルを並置した哲学秩序の下に結びつける。そして現代哲学が全ての哲学者の存在を等距離なものとして現代哲学との関係に意味を与えてくれる。それはある意味では起源と遡及という認識と志向の一元化のことなのである。
 そして私は他者と記憶を考えることとは他者を通した「私」の羞恥の記憶であると考える。私はこの並列した哲学秩序において「羞恥の克服」を意図した者としてデカルトとヘーゲルを、羞恥の隠蔽によってそれを意図した者としてカントとサルトルを、「羞恥の尊重」においてそれを隠蔽した者としてハイデッガーを考えている。
 そしてヒュームとフッサールを私は羞恥そのものを対象化した存在として考えているのだ。
 勿論デカルトとへーゲルは、あるいはカントとサルトルは、あるいはヒュームとフッサールとは異なっている。ただ似通ったベクトルを羞恥に関して持っているということを言いたかったのだ。そのことの本質はおいおい本論において明らかになってゆくことだろう。
 では他者に対して記憶を作用させる(記憶が作用する)とはどのような意味において「私」の羞恥の記憶であり得るのだろうか?そのことを衝動との連関で考える地点に辿り着いた。そこで次節に移ろうと思う。

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