Sunday, October 11, 2009

〔他者と衝動〕3、他者に対する羞恥の根拠

 私は選挙において、明確な政治的意見とか思想がなく、その時の世相とか潮流に迎合して、ある政党とかある候補者に投票することに纏わる意識について以前書いたことがあり、それを冒頭に本ブログにつけ加えた。だから本節はそれを参考にして読んで頂きたいと思う。
 要するに私は選挙はその選挙で投票することに纏わる明確な政治参加意志を携えている者の方が常に少ないと考えている。だから選挙で投票する時、誰にするかということは、存外テレビで放映されている政治ヴァラエティー番組で話題となっていることに合わせてある候補者に投票するということが多いだろうと思う。あるいは政治番組で自分の贔屓にしている経済学者とかコメンテーターの意見に合わせるという行為選択が常套的である。だから明確にある政党を支持するという意思表示をする者は、仮にどんな世相であれ、自分にとって正しいと思われる政治思想に基づいてある政党が今窮地に追い込まれていても尚頑なにその党を支持することに吝かではないだろう。しかし何らかの与党に対する風当たりが強い世相において、本来なら支持政党である与党ではあるが、今回はちょっと一般的な世相に合わせて野党第一党に入れてみるかという行為選択が成立する場合もあり得る(例えばそれによって今回の政権交代がなし得られたわけであるが)。
 そのような外部的状況判断は、何も選挙の際の投票行動ばかりではなく、裁判において何らかの被告に対する判決を判事たちが決定することにおいても世相が影響を与えることはある。法廷における決定そのものは、政治や世相が軽犯罪だった筈のものまで重犯罪たらしめ、確固たる犯罪であるべきものを情状酌量の余地あるものとして軽減されたり、恩赦の対象となったりする。それは判決を下す法律専門家でさえ社会全体の風潮には逆らえないという感情があるからである。
 それは社会そのものが以前に判定を下したことに対して何らかの反省というものを抱いているからである。そしてその過去の轍は踏まないという意志が社会全体に漲っている場合、我々はしばしばある判決を予定調和的なものとして認識しさえし、その判決の妥当性を社会世相に迎合している場合、溜飲を下げることさえある。「よかった。全く少年だからと言ってああいう犯罪に死刑は妥当だよ。」と思ったりする。しかしその場合その犯罪を個別のケースとして認識していると言うよりは、社会世相そのものに対する判決を下す判事の決断が齎す社会的反応の方を重視しているのである。
 このようなことはある判例が個々別個のものでありながら、一連の似たケースとしてどうしても外部的な傍観者であるところの大衆が関係づけてしまうということがあるからだ。だから社会的な世相によって、軽い犯罪である場合ですら、そういう犯罪が多発する世相においては、より厳しい判定が下されたり、要するにある犯罪が発生した状況においてその犯罪の存在理由とか社会的影響力そのものが相対的に決定されてしまうということがあり得るのである。
 だから先に示したある選挙でどの政党を勝たせたいかという心理的な投票動機そのものが世相とか社会全体に漲る風潮に左右されがちであるということと、どういう犯罪をより重いものと見做すかということは大いに関係があると私は思うのである。
 しかしこのように個別のケースが外部的状況に左右されてしまうということ、それが故に自己信念がいかにあやふやなものであるかということの問題点とは、ピア・プレッシャーということによってもある程度説明し得ることである。しかしそのピア・プレッシャーを構成するものとして、我々は他者に対して遅れを取りたくはないという心理と、他者に対して一人だけ浮いた発言をすることに対する端的な恐怖、つまり他者に自己信念の世相無視的な様相を覚られたくはないという羞恥が大いにかかわっていることは確かである。それは自己信念が純粋であることを覚られたくはないという消極的自己意志表明の心理である。どんな世相であれ、自己信念が変わることはないという意思表示がしやすい状況とは、その意志を示す他者がより真意を告げることで怪訝な態度を取られることがないという信頼に依拠している。ある他者に世相と逆流するような意志表示をすることは、端的にその他者に対する人間的信頼が大きく決定因として作用する。あまり自分に対して好感を抱いていない者に対してまで、我々は敢えて語って損をするような真意を告げる決断に踏み切るメリットを感じないものである。そのような不審を抱いている者に対しては、我々は往々にしてあまり明確に自己意志、自己信念を披露しようとは思わない。
 言っていることは簡単なことだ。要するに信頼してはいない人間に対して我々は揚げ足を取られない
ように警戒するというだけのことである。しかしもし揚げ足を取られたからといって、それが致命傷となるような周囲の人間からの視線が冷たいものであるケースというのは殆どない。要するに気にしなければよいのであり、揚げ足を取る者に対して多くは怪訝な感情を抱くものである。だから他者に対して極度の自己防衛を張るということは、一面では自信のなさを露呈することにも繋がるから、我々はある意味では喜んで揚げ足と取られる方が得策である場合すらある。
 元来人間は殆どの場合他者というものに対してかかわってなどいられないものなのだ。つまり他者がどういう状況で恥をかくかということに対して余程その者に恨みを抱く者以外は殆どどうでもよい。要するにもし揚げ足を取られて滑稽であっても尚、その者に対して侮蔑の感情の一欠片も抱かないものである。気にしているのは本人だけである場合が殆どなのだ。要するに人間にとって最大の他者とは自分以外のものではないのだ。だからこそ多いに恥じをかくことは本人にとって何かを習得しようとか、学ぼうとしている場合には得であるとさえ言える。他者が滑稽であるからといって、その他者に行く末を案じていられるほど人間は悠長な態度をとっていられるわけがない。第一人間は自己にとって最大の他者である自分の未知の部分に慄き、将来に対して常に不安を抱いているのだから。
 だからこそ選挙では適当に世間の潮流に迎合しておけという選択肢が自己決断において浮上したとしても、そのことで他者から責められない限り大した問題ではないことになる。他者に対して羞恥の根拠となるものとは端的に、自己の自信になさに対して将来が不安になるということから来る他者にその不安を知られたくはないということに尽きる。つまり悪意ある他者はその不安に付け込み、自らがい続ける安全地帯そのものの安楽さを思って安心量とするのだ。つまり他者の不安の除去に対して憂慮するような態度を示し、自らの日頃の緊張を誇るのである。しかしそのように他者の不安に付け込みそれを利用して自分を安心させたいと望む輩とは、往々にしてそうしなければ自分自身はほっとしないのであるから全く余裕も、将来に対する展望もない場合が殆どである。他者に対する嘲笑とそれによる自分自身の安心という心理的メカニズムには我々は他者に対して信頼していない度に応じてより羞恥を自己防衛的に巣食わせるという性格がある。だから他者に対する羞恥の根拠とは、信頼出来ない相手に対して憂慮して心配してあげることを通して、逆に信頼出来る者同士の間ではその他者の大したことなさを嘲笑することを通して安心し合うということに尽きる。他者に対する羞恥とは悪意も含有されるのだ。その他者には心底では悪いと思いながらつい、その他者を憂慮して自分は安心するということのための手段としてしまうという悪意である。だからこそ信頼出来ない相手には我々は真意を滅多に告げまいと心に通常決めているのである。
 他者一般に対する軽蔑の心理にはだから当然その者を軽蔑することを通して自らの中に巣食う不安を除去したいと願う小心が巣食っているものである。小心とは反省心がないまま膨らむと明らかに悪意が充満してくる。他者に対して、その他者が信頼出来ないという度に応じて、自らの不安と弱点を悟られまいとする願望(欲望)が自己防衛を生む。その他者が脅威ある者であることに応じてその攻撃の度も増す。攻撃が最大の防御であることを我々は知っているからである。信頼できない他者に対してある事柄に関する無頓着を発見すると、その部分をさもその他者の行く末を憂慮しているかの如く振る舞いその他者に無頓着と呑気を心の奥底では嘲笑しつつ、自分自身はそのことに関して優位に立ち、安心を得るということ、これこそが信頼出来ない他者に対する羞恥が呼び起こす悪意の典型である。
 すると他者に羞恥を感じるとは、その内的メカニズムとは、その他者に対する信頼出来なさ=不審が控えていて、端的に羞恥それ自体が極度に顕在化するということは、真意をその他者には告げずに封印するということを意味するから、その時点でその他者に対する「構え」としては、その他者が油断する隙あらばこちらが優位に立つのなら、攻撃を仕掛けることも有利であるという目測も生む。そうすることによってその信頼出来ない他者からの嘲笑とか優位に立った憂慮を示されることで得る不快を避けることが可能となるからだ。それは安全地帯の確保の欲求に他ならない。その安全地帯の確保という欲求が高じてくると、他者に対する排斥という悪意ある願望が芽生えることになるのだ。羞恥という心的様相は悪意を孕む危険性と常に隣合わせなのである。
 拠って他者に対する羞恥の根拠とは、他者に対する不審とその他者の抱いている良心に対する信頼の出来なさ、つまり懐疑であり、心をその者に閉ざす消極的な意思表示以外の何物でもない。だから羞恥の克服とは、羞恥を感じる他者に対する信頼の発動であるということが逆に言える真理である。あまり揚げ足を取ろうとする悪意ある他者に対して不快の念を意志表示することをも含めて、羞恥の克服とは肯定的な意味でも、否定的な意味でも、ある他者に対する内的感情をある部分では包み隠さずに報告する真意の伝達(完全なる真意を告げることは常に憚られる。<又しようと思っても実は不可能だ。>相手がどんなに嫌いだからと言ってもし許されるものなら殺したいと思ったことまで告白することはそう容易には出来ない。)によって実行されることが多いだろう。
 しかし選挙では我々は立候補者に対して、誠意だけを必ずしも望まない。そういうものを重視して選ぶ場合もあることにはあるが、それは常に優先順位で上位を占めるわけではない。政治とは、他者、つまり政敵に対して羞恥している場合のものではないということを我々は知っているし、様々な利害が相互の政治家同士に絡み、弁論的な意味でも、政治的他者説得力と、他者信頼獲得能力(勿論そこには人間的な度量の大きさとか人徳とか、要するに人間学的吸引力のようなものも含まれる)といった手腕を我々は候補者に望む。それは政治が真意の表明性そのものが、弁論時における敵対勢力に対する感情論的なものでは決してなく、完全に弁論を手段としつつ、本論としてはその候補者が当選した暁には、彼(女)の政策と、政治的理念共にその実現能力にある、と我々が確信しているからである。
 だから敵対する政策サイドや政治的理念の政治家たちをやり込め窮地に追い込む他者否定的な意味での手腕が、自己信念に忠実でいて、それを弁論する力と同等に備わっている資質を我々は政治家に期待するのである。つまり他者(この場合には敵対するサイドの政治家とか党)への羞恥の克服の仕方の長けた政治家を我々は優秀な政治家と呼ぶのである。だからこそそういう者へ我々は当選して欲しいと望み、投票することになるのだが、始末の悪いことには、その手腕そのものに対する着眼の仕方、つまり価値論的な政治手腕の美学に対する判定において個人差があるということである。だからこそ我々は異なった候補者に対して異なった投票行動を採るに至るのである。しかしこのことは羞恥感情というものとその克服の仕方そのものにおいて、信頼出来ない他者に対する感情ということ、つまり私的な側面と、公的な責務とか義務という側面において我々が採る行動は一致することもあるが、一致しないことも多々あるということも証明している。そうでなければ我々はただ真摯な政治家に投票することばかりを目撃する筈だが、現実はそうではないだろう。悪辣な部分を持つ政治家に惹かれるということは大いにあり得る。嫌いな政治家を攻撃することに長けた候補者を選ぶこともあるだろう。それはある意味では個人的感情に対する代理欲求である。そのことについては次節において詳しく論じてみようと思う。

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