Friday, October 23, 2009

〔他者と衝動〕9、他者と良心

 他者と良心を語る時、それを語る者が他者に対して一定の配慮を示すことにおいて自らの幸福を考えるという基本がある。しかし例えばマゾヒズム的な快楽主義者の場合自虐的な快楽に幸福を求める、そういう極度に満たされない状態こそが幸福であるとする逆説的言説によって意志や感情を考える傾向があるから、当然例えば尿意や便意を満たすことではなくそういった生理的に自然な欲求そのものを限りなく我慢すること自体に愉悦を覚えたり、死刑が施行されるまでの一日一日を過ごす恐怖の日々そのものを求めんがために数人以上の人間を殺害したりするようなタイプの意志と行動を自らの欲求充足感と幸福追求において正当とすることすら可能なのだから、当然人間の幸福が自らの幸福と似たものを他者も求めるだろうという目算において成立する他者に対する配慮も、そのような異常な幸福追求と快楽の規準ではないものとして考えることは至極当然であると言えるだろう。(特異な犯罪者にとって他者に対する配慮はそういう異常性を持ち合わせている者にのみ共感するところからスタートする筈である。)だから他者と良心について考えるということは、社会的要請の全てを善であると認めないまでも、一定の範囲内の行動遂行に対する要請を正当のものとして認める特殊意志減圧の意志として自らに言い聞かせる部分があることをまず容認することが基本としてある。だから一定の原音楽的な任務遂行性が行動基準としてあるという行動意志と他者に対する配慮は密接なる相関がある。
 その前にではそのように良心を他者に対して採る態度として容認することを自然なものにすることを積極的に選択することであるなら、自らの幸福の規準を一般的基準からある程度確定的なものとしておかなくてはならないだろう。
 例えば人を差別することを常としている者こそ最も他者からの差別を恐れるという神経症的傾向を示すことがある程度真実を突いたものであるなら、自らの幸福の規準が極度に他者一般のそれと乖離しているのでない限り、その者が他者に対して示す配慮も強ち的外れではないということが言えるだろう。
 ではそもそも自らの幸福の規準を他者一般の幸福の基準との照応操作をすることが求められるということは、幸福一般の基準があることを意味するが、それすら恣意的な捉え方に依存すると言える。
 例えばこう考えてみよう。それを得ない不幸は、それを得てそれを失う不幸よりはましである、としよう。すると例えば結婚して子どもを儲けることが幸福であると取り敢えず認めて、それがなし得ない夫婦が不幸であると一概に決め付けられないのは、当然子どもを儲けた夫婦が理不尽な形で災害とか殺傷事件等によって愛する息子や娘を失う場合を考えればよく理解出来るだろう。要するに得たものを失うことによって得る不幸の基準は、何を得るかに拠る。例えば記憶喪失者はある意味では幸福であるともし言ったとしても、それは最低限の人格的な相同性、アイデンティティーの上で成り立つ全ての幸福を得られないのだから、記憶がある人が記憶と想起の能力を滞りなく可能とする事実が附与されていることの幸不幸の規準とはまるで異なっており、そもそも比較の対象にもならないだろう。まず幸福とはそのような最低限の能力が備わっていることからしか論じられないのだ。だから「あの人は記憶を失っているから、何でも自分にとって不都合なことをも覚えていなくてはならない我々よりもそういう部分では幸福だ。」と言ってみたところで、それはただ単にその記憶喪失者に対する憐憫が、その者の特権を敢えて見いだすという作為に基づいてなされているに過ぎず、それは価値判断としての幸不幸の判定では決してない以上、それを他者に対する配慮と見做すわけにも当然いかない。だから他者に対して良心を発揮するということはニーチェ的な意味での憐憫を払拭して自己が得ている幸不幸の規準の最低ラインをその他者も満たしているかということの是非をまず前提として必要とする。それが非であるのなら、そもそもその者を自らの幸不幸の規準で語る資格はないと言ってよい。だから他者に対する良心とは自己の立たされている状況とほぼ社会的要請に対して受け答えるレヴェルでは相同であると認識し得るような規準に立ってなされ得なくてはならないと肝に銘じるべきである。そうでないのならそれは同情であるに過ぎない。だからこそ他者に対する良心は、自らに対する良心の問題でもあるのである。
 だから他者に何か宣言する時それを言葉の力として効力を発揮するということは、その言葉を宣言することの意味と、意義がその他者に理解し得るということを前提としているだけでなく、その効力そのものに対する同意が最低限なされているということも前提している必要があるのである。
 かかる規準に対して合格ラインにあるということが、例えばジョン・ラングショー・オースティンの言説として有名なパフォマティヴという概念の有用性に対する認識を可能にするのである。しかしこのパフォマティヴが提出された背景には更に哲史的にも伝統的な一つの認識があったことを考慮しなくてはならない。例えばトマス・ホッブスの「リヴァイアサン」を紐解いてみよう。

 《無償贈与は、現在または過去のことばによって転移する》ことばだけであれば、もしそれらが、来るべき時にかんするものであり、たんなる約束を内容とするものであるならば、無償贈与の不完全なしるしであり、したがって私の権利がまだ譲渡されないで、私がなにか他の行為によってそれを譲渡するまで、残存するということのしるしである。しかし、もしことばが、「私は与えてしまったとか、私は明日ひきわたされるように、いま与える」というように、現在または過去の時についてのものであれば、そのばあいには、私は明日の権利が今日手ばなされ、それは、他の時についてのものであれば、そのことばの効力によってそうなのである。そして、velohoc turm esse cras とCras daboすなわち「私はこれが明日はあなたのものになることを欲する」と「私はそれを明日あなたに与えることを欲する」とのあいだには、おおきな意味のちがいがある。すなわち、まえのいいかたにおける「私は欲するI will」ということばは、現在の意志の行為をあらわすが、あとのいいかたにおいては、それはきたるべき意志の行為についての、約束をあらわすのであって、したがってまえのことばは、現在のものであるから、未来の権利を譲渡し、未来についてのものである後者は、なにも譲渡しないのである。しかし、もしそこに、ことばのほかに、権利譲渡の意志のしるしがあれば、そのばあいには、贈与は無償であっても、その権利は未来のことばによって転移するものと理解されうる。ある人が競争の決勝点に最初にくる人に賞を与えようと提案するように、贈与は無償であり、そしてことばをそのように理解されたいとおもわないならば、かれはかれらをはしらせなかっただろうからである。((一)水田洋訳、岩波文庫、223~224ページより)

 ここでホッブスは明らかに他者存在一般に対するある特定の個人に対して抱かれる贔屓感情を度外視した私的な動機による良心を公的に表明するということに内在する約束とか約定ということが、社会的なその発言者に対する人物評定ということに直結するようなタイプの認識を生じさせることについての真理を言っている。それは私的な満足(良心の発動による)が、公的に私的欲求が認められることを社会そのものが容易に容認することを個人が期待する権利として享受することにあるとする一般的な価値基準に基づいている。それはそう率先して行為する贈与者の公的な良心の発動によって具現化される幸福感を個人が享受する権利が、公的な贈与として社会的に有益に機能する限りで大いに認められるという社会判断に依存する限り制限されるべきではないという公的良心の定義として位置づけられている。重要なこととは、幸福ということの規準が、ここでは公的な了解とか総意とか、社会一般の良識とか通念ということで考えられているということである。
 しかし幸福ということの規準とは実は、それが他者に対して迷惑とか社会的な害悪に該当しない限りで、極めて個人毎にその判定がまちまちで、個人の主観に依存しているというもう一つの決定的な真理を無視する限りで有効であるに過ぎない。
 勿論他者に対して幸不幸の規準を同一のものとして推し量ることを一般に公的に容認された社会制度でもある結婚の例に喩えると、当然既婚者同士、独身者同士という共通項によって比較することしかなし得ないだろうが、ここで仮に既婚者の幸福の内容が、人によって子どもを育てることにあるとしても、あるいは夫の収入の源である職場での出世とそれに伴う社会的地位に安住した生活にあるとしても、子どもも仕事も眼中になくまして良妻としてよい食事を作ることでも作って貰うことでもなく相互に性愛の秘儀に熱中することであるとしても(カントが他律と言ったことの内には性欲ということもあるが、この場合それより高次の性的パートナーに対する性愛的な奥義という意味でである。)相互に異なった価値基準である以上恐らく同じ既婚者同士でも同一の幸不幸の判定をすることは不可能である。どのタイプであっても、子どもがいない夫婦に対して子どもを育てることだけが幸福の評定規準の夫婦は不幸であると断じるだろうし、安定した高水準の社会的地位に伴う社交の満たされない夫婦は、仮に子どもを持つことによって得られる幸福が満たされている夫婦を見ても羨ましいとは終ぞ思わないだろうし、性愛の秘儀を追求する夫婦にとって、他のいかなる家庭的幸福を得ている夫婦があったとしても、自分たちの方を常に上位に感じる以外にはないだろう。だから同一の価値基準を持つ者同士が他者に対してする宣言でない限り、その宣言の有用性はとんと理解され得ないということがまずオースティンのパフォマティヴには顕著に示されている。
 しかし問題なのは、そもそも私という意識も自己意識も、自己身体意識も、他者存在に対する覚知と、その存在に対する羞恥による衝動から喚起されるモラル意識、アンチ・モラル意識だとするなら、一つの夫婦関係というものの在り方に対する価値基準は、全てそれを成立させる衝動によるものでもあるということだ。他律的生き方も、自律的生き方も同じ範疇のモラルを通して見る生き方から喚起される衝動の様態の一種でしかない。宣言というものは確かに規制緩和が正しいとする政治家と、規制を設ける必要性を主張する政治家とでは、そのスローガンやマニフェストを叫ぶ対象となる大衆とか民衆とか国民とかの性格は自ずと異なってくるだろう。そのような意味で夫婦の在り方とか、結婚生活の在り方だけでなく、友情の在り方、仕事関係の同僚とか関係者同士の人間関係的考え方まで全てそういう規範を設ける存在者たちによるその都度判断をし、自分の判断を正しいと思わせる衝動である。つまりそれら全ての連動を指して我々はたまたまそれを自由意志という名で語ってきたというわけである。
 だから良心という衝動も、羞恥の尊重においては情動的良心の発動を潔くし、羞恥の払拭においては自由論的、理性論的良心の発動を潔くするかも知れない。前者はより友愛協調的な感情に彩られ、後者はより公正的態度と個人的感情抑制的もう一つの感情に彩られていると言えるだろう。つまり良心の在り方を巡る衝動そのものもまた、他者に対する私の側からの認識、他者性格判断、他者一般の中でその態度を差し向けるべき他者像の在り方を巡る判断が大いに関わっている。つまり衝動というのは、羞恥同様、情動的なものでさえ判断レヴェルの認識に深く関わっており、逆に認識主体的で、理性論的判断においてさえ抑制的情動と感情的な傾向性にも深く関わっていると言うことが出来る。と言うのも他者存在の在り方そのものが接する他者毎にも、同一の他者においてもその都度の気分や判断や認識の仕方の衝動によっても異なるからである。つまり特異な判断というものが正当な判断、常套的な判断と抱き合わせとなっているという意味で、常識的判断というものも特別扱い的判断と抱き合わせであるし、そうであるからには、情動と知覚、感情の経路のように、認識と判断、あるいは論理思考と非論理的感受の相反するようなもの同士は常に抱き合わせであると言えるからである。
 すると言語化し得る意志というものは、言語化し得ない意志という広大な領域の中のほんの一部であるという見方も成り立つ。言語化し得る意志というものもまた一種の衝動ということになる。言語化とは理念化でもあり、論理化と言ってもよい。例えば全ての実在とは逸脱体である。その逸脱体の中でも一際その時々の支配的な気分の傾向によって魅力的に映るものだけが時として名誉的称号=正当として位置付けられるだけのことである。実際は非言語的意志(例えばモーツアルトが楽理習得以前の幼少期に既に音楽的な非認識的意志<表現欲求>を携えていたことに象徴されるようなものとしての)の中の特定の一部だけが言語化され得、それが論理的正当となり、理念化するのだ。だから前言語状態としての非説明的な意志伝達欲求こそが意志の根源でもあると言える。だからその中でも特に顕著にその時々の気分を代表しているもののみを抽出してそれを理想と化しつつ、正当とすることそれ自体もまた、一種の言語化したい反省的意識の下で認識したい一つの固有の衝動でしかないのである。良心とはその中でも一般化し得るものとは一体何なのかということに対するその都度の返答なのであり、それは私という意識、あるいは自己身体とか自己領域といったものをその都度の他者との関わりの中から形成するプロセスでそういう恣意的な意志を産出する他者存在を、その都度の固有に接する他者から像として顕在化させてゆくことの中にある固有の羞恥と密接な衝動、つまり具体→一般という経路を辿るその都度の判断なのである。しかしそのように経路を辿るということの内には言語化する欲求と衝動、あるいは理念化する価値規範産出的な欲求と衝動、論理的枠組の形成という欲求と衝動が控えている。つまり良心とは存在者としての我々が羞恥そのものを保持しているが故にその事実を容認することを他者にも強いる要請であると同時に、羞恥を隠蔽することも同時にするような他者に対してなされるポーズへの同意(あなたも私と同じようにそう望むのならいっそ協調しましょうという)の要請なのである。だからこそ良心には理念として固定化させ続けることをこちらもあちらも望むような性格があり、実はその理想の雛形とはその都度少しずつ書き換えられ続けていることを直接明示するのではなくそれとなく暗黙に了解し合うという意識を他者と共有し合うことでもあるのである。
 なぜそのようにそのように相互に暗黙にその固定化を望むのかと言うと、それは端的に他者というものの存在が常に私にとっても向こうにとっても、即自的なものではないということに尽きる。つまり私たちはゾンビという観念を発生させたことの根拠に、それが即自的なものでは決してあり得ないという直観が横たわっているのだ。恐らく良心とはそのような直観によって支えられた、即自ならぬ存在者に対する条件反射的な反応なのかも知れない。それは「そうしないとまずいかも知れない」という他者存在という気配そのものに対する無意識の返答なのである。何故なら他者にも強要し得るような性質のものは、向こうもまた恐らく私に対して同様の請求をなすであろうという目算を私が即座に成立させるようなもの以外ではないからなのだ。強要し得ることとは必ず向こうも同意するものでなければならないが、そのなければならないという考えは、直観的な判断によるものであり、思慮を必要とするようなものではない。哲学でそのこと自体を思慮するということが逆に、それを日常において実践するということの内に何らの思慮も必要ない、いやそれがあったのなら寧ろ実践に支障をきたすものであるという性質があるのである。だがこの直観こそが、先述のホッブスのような贈与に纏わる社会的私的幸福の享受が公的な良心に基づいてなら容認されるという世間一般の良識を生む土壌でもあると言えるのである。
 実際には社会には公言すれば非難されるのに、それをしさえしなければ容認されるような態度とか心持というのは多く存在する。その一つが悪戯に至らない、しかもいじめともつかない意地悪である。
 これは端的に良心の発動を持続することで我々が得るストレス解消のために社会成員の多くが一般的に悪質過ぎない限り暗黙に容認し、それをすることを直ちに悪と決め付けないことに対して同意している策定である。このことについて次節で詳述しようと思う。

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