Thursday, October 29, 2009

〔他者と衝動〕結論 自己と他者②

 少し話しの方向を転換してみたい。
 そもそも人間は感覚的授受において非言語的なものに対する認知(クオリア)を言語化したい誘惑がある。例えば画家は四角い画布に、紙に通常絵を構成しようとするが、それさえもが実は一個の言語化であると言える。オースティンが微細な語彙選択に関して哲学的に分析する時(「言語と行為」、「他人の心」他)彼の脳裏にはこのクオリアに対する視点と、そのクオリアを何とか哲学的に解明したいと考えていた節が伺える。そのことを顕著に示す記述として次の記述を掲載しておきたい。

(前略)あるいは、味や音色についてはどうでしょうか。われわれは視覚以外の感覚に関して、視覚の場合ほど断固としてはいません。そこでまさにそれだけにこれらの例は、良い例になってくれます。味や音色や匂い(や色)を記述することや感情や感じを記述することは、どの場合でも、われわれが以前に経験したことのある何かにそのものが似ていると言うことを含んでいます(いやまさしくそう言うことにほかならないのです)。記述的な語はどれもみな分類語であります。それは再認という契機を含んでおり、またその意味では記憶をも含みます。そして、この種の語(あるいは、結局帰するところは同じですが、名ないし記述)を使用する場合にのみ、われわれは何かを知っていたり、信じていたりするのです。ところが記憶と再認とは、しばしば不確実であてにならないものであります。(「他人の心」132ページより、坂本百大監訳、勁草書房刊)

 中島義道氏は「観念的生活」(7章 二重の「いま」109ページ)において

 クオリアの問いとは、現在性の問いであり、「いま」の問いである。「いま」の神秘は現実性の神秘に通じている。すべての生理学・心理学の知識をもってしても、なぜ私に眼前の赤が現に見えているのか説明はつかない。このことはいかなる時間秩序をもってしても、「いま」の登場は説明できないことに通じる。言い換えれば、「いま」現にあるということは、いかなる<法則を含めた>概念によっても導くことができないということである。それはまさに「いま」現にあることそのことから導くことができることなのである。
 
と述べているが後半の記述は全て正しいと思うが、最初の文だけが不完全である。これは先述しておいたオースティンの言説と合わせて考えるとより完全になる。つまり私なら

 クオリアの問いとは、現在性という形で現象するが、実際は現在性というものが潜在的な記憶とそれに対する再認という形で無意識になされていることから誘引される問いである。しかもそれはふと立ち現われる具体的な想起とも少々違っている。
 
と修正するところだ。
 クオリアは当然のことながら知覚とも深く関わっている。知覚という作用のないところではクオリアは成立し得ない。タコとイカの神経系の研究で著名な生理学者であるJ・Z・ヤングは

(前略)知覚は、ほとんど常に期待に基礎をおいており、その期待は外発的に引き起こされるか、あるいは内発的に動機づけられることによって生じている。(中略)同様に、知覚から得られる情報や知識は、本質的には、事象間の関係か、過去、現在、あるいは未来に関する期待の体系なのである。さらに、知覚は、通常何らかの活動を引き起こすか、あるいはさらに先の期待を生み出す。たとえその活動がその方向を見ることをやめることにすぎない場合であっても、そうなのである。

と述べているが、この考えは中島氏の時間論の考えに非常に近い。中島氏は人間の自我=私意識を、「いま」ではない過去と「いま」ということの類比の中で、連続してはいるが、想起において断絶してもいる過去と現在を一貫して同一の経験主体である私がいると他者に説明し得ること、その間に刻々と変化してきてはいるが、それでも同一の主体であると認知し得ることとしている。ヤングの指摘にはこれと全く相同のメカニズムが垣間見られる。中島氏は未来に対する不確実性と、不安の前で我々が未来の過去化(未来に想定された事実=結果が実現するためにはどのような行為が求められるかと考えること)によって未来へ向けた目的とか展望を抱くことによって行動へと差し向けられていると考えている。
 哲学者ジョン・ホーゲランドは知覚を倫理的な所作であると考えている。

 あるいは現象学者であるオイゲン・フィンクは

(前略)人間の思考にとっての存在問題とは、存在がそれ自身にとって問題であることの一形態でしかない。存在は概念を欠いた把握不可能性から概念の明るみへと突き進んでいく。存在は自らをよりいっそう「明け開く」という仕方で「存在している」。存在はその「全面的な明け開け」において自らを理念として把握するのであるが、この理念においては、自身に備わるあらゆる外面性が剥ぎ落とされ、あらゆる異質性の見かけが自身から取り除かれ、あらゆる自己疎外が打ち砕かれてしまっている。そのとき自然は理念の外面性が自己定立したものとして把握される。この定立された外面性から理念は自身へと返っていく。(「存在と人間」208ページより、座小田豊/信太光郎/池田準訳、法政大学出版局刊)

と述べているが、この記述はかなり難解であるが、最初の二文は理解しやすい。つまり人間にとって存在問題が、存在それ自身が抱えることの一部であるという認識はサルトル的ではないし、デカルト的でもないし、勿論ヒューム的でもあり得ない。恐らくヘーゲル的なのだろう。しかし次に述べられている存在それ自身の把握不可能性と彼が呼ぶ超越性はそれでも人間によって理解されるということにおいてまさにクオリア(本来言語化不能である筈のものである)をも言語化しようとするような意味で私たちの前に立ちはだかりそれを待っているというニュアンスである。しかし次の一文での存在とは存在する事物全てのことだろうが、次の一文での存在は明らかに私たち、現存在のことである。そして次の一文では現存在が存在一般に同化することが述べられている。その時初めて自然は我々にとって理解可能な理念化された存在となるという主張がここにはある。つまり自然=存在に対して我々はその一部にしか過ぎないという観念を介在した時初めて自然は語りかけてくるという主張としてこの言説を読み解くことが可能である。これは幾分ハイデッガー的言説である。そして最後の一文においてフィンクは理念によって理解された自然がその脅威を我々によって親しむべきものへと変貌した後では再び理念という一物は不要となるという気分が表示されているのだ。
 クオリアを考える時我々はこの自然に対する語りかけという特有の対話の中から炙り出される非言語的存在=自然と言語化という試みとの共存という現実、つまり我々の営みである言語自体もまた一つの存在であり自然であるという認識が哲学的な気分として意外とキー認識となっていくのではないかと私は考えたのだ。この考えを 言語=存在 説 と名づけよう。
 私たちの生活上で考えられる限り思い出してみよう。その時意外と重要なものとは気分であり、雰囲気ではなかろうか?
 例えば仕事というのはどのような職種でも一定の責務と、ルティンによって彩られている。しかしその仕事を出来る限り能率よくしたりするには、オフの時間の過ごし方一つで、日常生活の潤いがあるかないかによって決定される。そして夜寝床で読書する時どういう本を読むかとか、ソファに寝そべり聴く音楽はどういう種類のものかということは殆ど哲学では顧みられなかったが、意外と重要である。
 その日職場であったこと、営業先であったことなどを想起しつつ、今日の気分に最も合致した曲とは何か、どの歌手や演奏家のものがいいかということまでその時の感情的具合とか雰囲気によって決定される。ある音楽やある本はこれこれこういう気分の時に聴き、読むととても心地良いとか別のある本はそれとはまた全然異なった気分の時に読むのがいいし、また別の音楽はそういう時に聴くのにぴったりだという暗黙の了解が各個人毎にそれなりに決定されていはしまいか?要するに音楽のメロディーが志向する感情的傾向、あるいは本の文体などが鑑賞する者の心理に影響を与えるのである。
 例えば職場でのボードミーティング、プレゼン、会議といった場での進行を考えてみよう。勿論それらは仕事であり遊びではないから一定のルティンというものがその都度求められよう。しかし円滑にしかも充実した内容でそれらが運ばれるのは、堅い理性論からではないだろう。理性というものは寧ろ反省時に過去の出来事を評定したり、それこそ日常的語義として反省したりする時にのみ冷静な判断をするために必要とされるものであり、議事進行そのものを滞りなくさせるものはその場の参加者間での気分の盛り上がりとか一致とか、いい意味での共鳴である。それは暗黙の策定である。我々の社会とは一定のルールは常に必要であるが、絶対と言っていいほど予定通りにはいかないものである。と言うより常にその場その時の状況判断において(それこそがその都度の成員全員の気分と衝動が重要なファクターとなり得るのだが)機転の利いた変更とか脱線によって初めて成員全員の意気が合ってくるというものである。それらのことは言語行為というものがどんなに堅い内容の対話であってさえ、いやそれが堅いものであればあるほど逆にユーモアがアドリブでどれくらい出されるかとか、心地良い脱線がどれくらいいい意味で進行の具合を調整し、話題をより深化させるかということがキーとなってくる。
 それはオフの時間の過ごし方が下手な者が社会でいいビジネスが出来ないということと同じくらい集団とかペアとか複数の人間関係、会合にも言えることなのである。だからこそ意思疎通の手段として言語を採用してきた歴史の種である我々人間にとって 言語=存在 説 がより説得力を持つ考え方となり得るのである。言語は今まで多く認識論的な範疇で語られてきた。しかし言語行為を主体とする我々の実像を知る上でそこには自ずと限界がある。言語行為の流れとか方向性というものはそれ自体一つの生き物である。それは世論とか社会の風潮というものが一つの時代に固有の気分と衝動であるのと同じである。そのような現実に即した形で哲学する時我々にとって言語行為そのものが場と雰囲気の存在論的な見方から考えないと行き詰ってくるのだ。
 私たちは既にマイケル・ポランニーの主張していたような意味で暗黙知というものが認識一辺倒であるように思えた言語行為にも脈々と息衝いていることをどこかで薄々勘付いている。言語はある部分では思考の産物でもあるが、同時に感情の産物でもあるし、気分の象徴でもあるし、比喩とか暗喩とか揶揄とか直接、間接を通して気分と衝動に訴え、その都度の衝動同士の相関的な様相を決定するものでもある。言語そのものが気分や衝動を作っているという部分と、予め決定されたその都度の気分と衝動が言語を構成しているという部分が常に複雑に交差しているというのが現実ではないだろうか?そしてその都度の感情のクオリアとか、場の雰囲気のクオリアをも含めて要点を突いて、的確に表現した語彙や口調や話の意味内容といったものが我々の実際の知覚的なクオリアをより活性化するかと思えば意気消沈させるようなこともある、要するに成員=各私の自己化+他者の私化(私意識を集団内で自己意識に昇華させ、他者を固有の私保有者として私化することによって集団内の相互理解度を増さしめること)こそ、その限定された時間内において有効かつ充実した空間を構成するキーなのである。
 ここで明記しておきたいが、他者は他者としてのみ存在するのではなく私を含み込み、そして私とは端的に他者を含み込んでいる。私を自己化するということは端的に私の他者化なのだ。だから他者を信頼するということも他者の私化と言ってもよい。そして私たちは他者を羞恥という心的作用によって尊重もするし、その間の壁を取り払うために羞恥を払拭しようと試みる。つまり羞恥の扱い方そのものが即私の自己化と他者の私化という相互作用を円滑にするのである。
 私の考えでは正義とは社会が含有するその都度の時代によって構成される恣意的なものであると思う。つまり社会とか支配‐被支配という関係の構図において時として前時代なら英雄であった筈のある個性的成員を犯罪者に仕立てたり、逆に別の時代だったら当然罰せられていたであろうようなタイプの成員をヒーローに祭り上げたりするのである。正義の形態とはその時代毎に書き換えられ、常に価値規範を修正、転換してきている。つまりそのような変換のリズムそのものが私たちの衝動の集合によって構成されているのだし、また私たちのその都度の気分を決定づけてもいる。つまり相互侵食作用として個と集団が存在するのだ。昨今のKYという語彙、空気が読めないということに象徴される気分重視の社会の方向性は何も現代に固有の現象なのではない。私たちの暗黙の知性に対する要求が、そういった生理的レヴェルの判断にまでやっと辿り着いたということを意味するに過ぎない。恐らくいつの時代にもそういう空気に対する読みと他者一般の空気を読むこと、読まれることにおける競争とか葛藤があったのだと私は思う。(それを言うのなら、偉大な思想や哲学、文学や芸術を生み出すものとは、その何千倍もの愚かな人間の思想や行動であるとさえ言える。ヒトラーは自ら絶対に正しいと信じて行動した。そうでなければあれほどの行為を遂行することなど出来なかっただろう。正しいということは何か否定すべきものが自らの信念においてあるから可能となる信念なのである。そのことについてはヘーゲルとサルトルの功績を認めなくてはならない。)
 だから人間関係における信頼の構図というものは、ある意味では一つの緊張の解除でもあるし、一つの緊張の死とさえ言える。ある人間関係が不動点を迎えるということは新たな秩序が形成されることでもあるが、その秩序の崩壊の予告でもある。恋人が夫婦になることによって失われるものがあるような意味で私たちはその都度の時代の気分を反映させながらある集団においてその集団の性格を決定づけながら参加してその集団の気分と衝動を吸収してもいる。何かを得ることが何かを失うものであるような意味である一つの気分と衝動を得ることは別の気分と衝動の消滅を意味する。その気分と衝動を調整するものとして私は羞恥という心的作用を考えたのだ。
 そこで今度は言語行為においてどのようなニュアンスを話題転換とか決意表明性として示されているのかということを中心に考えてみよう。
 私たちの生において他者は私の恩人であると私は捉えたが、それは他者を想念するということは他者との出会いによってであるが、その時点で私を我々は巣食わせていることになり、要するに両者は相補的・共進化関係にある。そういう意味では他者‐私、私‐自己、他者‐衝動、衝動‐羞恥、羞恥‐経験、経験‐記憶、記憶‐想起、想起‐想像力あるいは連想、自己‐他者あるいは衝動、私‐羞恥、自己‐羞恥、経験‐羞恥、羞恥‐良心、良心‐記憶あるいは経験、想像力あるいは連想‐他者、私、自己、記憶、経験、想起といったものたちは皆相補・共進化関係にあると言ってよい。
 クオリアは記憶、経験、知覚とそのような関係にあるが、言語がなければ我々にとってクオリアはこれほど鮮やかなものではないだろう。つまりクオリアの持つ非言語的要素という認識や、感受そのものの性質とは最も私たちの言語化能力、言語習慣、言語行為、つまり言語に拠っているのである。言語‐クオリアの相補・共進化関係が成立する。そのことをオーティンとコンディヤック二人の哲学者の言説から見ていくことにしよう。
 オースティンは俗にパフォマティヴ<行為遂行的発言>という概念をより強調して示したと言われるが、それはクオリアとも大いに関係してくる。

(前略)知っている(つまり、判別することができる)と言う際にわれわれが主張しているのは再認ということです。ところが、再認とは、少なくともこの種の事例においては、われわれの経てきた経験のなかでは以前の何らかの機会において注目した(また、たいていは名指しした)ことのある何物かに類似していると確信をもって言えるような、一つないしそれ以上の特徴を目で見たり、他の何らかの仕方において感覚したりするということからなっています。しかしこのわれわれが見たり、他の何らかの仕方において感覚したりする当のものは、必ずしも「言葉で記述できる」とは限りませんし、ましてそれを詳細に中立的な言葉によって記述することは、誰にでもできることではまったくありません。いまにも怒り出しそうな顔つきやタールの匂いを再認することは、ほとんど誰でもできますが、それらを中立的に、つまり、「いまにも怒り出しそうな」や「タールの」といった言葉を使わずに記述できる人は殆ど皆無でしょう。(「他人の心」119ページ、この論文は「オースティン哲学論文集」(J.O.アーム
ソン、G.J.ウォーノック編)に収められている。)

これは先に挙げたクオリアと記憶の問題と深く関わり、先の掲載文より先に登場するが、より明確に非言語的感受の自然さと言語化不可能であることを逆に言語の存在によって知ること、そして何より非言語的感受さえ言語化しようとする我々の一つの生における重要な性格について物語っている。
 コンディヤックは啓蒙哲学者であり、ルソーやヴォルテールと並び称される存在であるが、より記憶と想起と連想、想像力に重きを置いている。例えば次のような記述がそうである。

§三九 記憶という働きは、すでに我々が見たように、観念の記号、ないしはその観念に関わる状況を呼び起こす能力の中にしか存在しない。そしてこの能力は、我々が予め選んでおいた記号の類推と、諸観念の間に我々が設定しておいた序列をとおして、思い出そうとする対象が我々のそのときの欲求の一つと繋がっている限りにおいて、はじめて発動するのである。要するに、我々がある事物を呼び起こすことができるのは、その事物がどこかで、我々の状態に関わる何らかの事物と結合している場合に限られるのである。ところで、偶然的な記号や自然的な記号しか持たない人間は、自分の意のままになる記号を全く持たない。それゆえ彼の欲求が引き起こすことが出来るのは、想像力の発動だけなのである。ここでは、記憶という働きは存在しないはずである。(「人間認識起源論(上)」81~82ページより)
 
ここでコンディヤックは記憶が経験を体系化して行為を意味づけることにおいて重要な役割を認めつつも、同時にもし記憶がなかったとしても発動され得る想像力で何とか最低限の行為を人間に可能にすることを主張しているとも言える。
 コンディヤックはロックから概念として延長以外にも観念とか想起とか記憶とか多大なエキスを注入しているが、最終的にはロックが観念のみで全てが理解出来るという考えに対して批判を加えている。彼は記号というものの存在、そしてその体系化ということをより重視したのだ。そして書くことで記憶へと植えつけることを主張してもいる。そういう意味では言語学とか記号学、あるいは現代脳科学の基礎的なアプローチをコンディヤックがしたと考えても強ち間違いではないだろう。しかし彼に最も欠けているのは記号というものの使用とか概念というものの把握にとって必要なのは他者であるという認識である。他者がいなければ我々は概念を必要とするだろうか?例えば何かを書くということは、それを読むのが自分一人であっても、それは自分を一人の他者として認識することではないだろうか?
 しかしそれでも尚私はコンディヤックの功績を高く評価したいのだ。それはこういうことである。コンディヤックは「人間認識起源論」の第五章 抽象について において抽象観念を実在を構成する(彼の主張によると矛盾を含まない可能性を通して)当のものであるという人間の誤謬を指摘して、要するに観念論より実在論を優先し、認識論をも含めた認識の起源に存在を認めたのだ。それを彼の記号に対する人間の態度を考慮に入れて整理すると、人間とは記号を頼りに認識し、それを先験的なものとして実在をもその支配下に収めようとする(抑え込もうとする)がそういった把握の仕方そのものが既に一つの衝動なのだ、ということを直観的に捉えたのである。衝動というと多くの人びとは認識外的なこととしてネガティヴに捉えるが、認識そのものも認識衝動であるという考えは、寧ろ衝動が認識も、認識外的な心的作用も両方司っているという新しい形での存在論を我々に見いださせる。だから人間が何かを書きとめようと思って記号を使用し、紙に鉛筆とかパソコンでワードを使って文字を入力するということもまた、一つの「書く」という衝動以外の何物でもないのである。
 ところで書くことは自分にとっての記憶に役立つ。脳科学者の茂木健一郎氏は文章を書き写す時、その文章を見ながら書き写すよりも、見て一旦記憶して元の文章を見ることを中断して思い出しながら書き写すとより記憶に定着することを主張している。(「脳を活かす勉強法 奇跡の「強化学習」」PHP刊)これは記憶と衝動の関係から「書く」ということを考える契機となる指摘ではないだろうか?つまり私たちは記憶したいという衝動によって書いたり、文字を見ないで、文字を覚えて書いたりしようと提唱しているのではないかということなのである。言語に纏わる記述も、発話も全て一つの衝動なのである。言語によって衝動を制御しているのでははない。私たちは言語や論理によって野生を制御しようとするという解釈を生むものこそ認識という一つの衝動なのである。
 
 そのことを証明する端的に事実として、私たちの言語行為は意味内容だけで構成されているわけではない。寧ろ意味内容の伝達を滞りなくさせるものとは場の雰囲気である。ある会合において円滑に議題とそれについての討議がなされていたとしよう。しかしある者が暴言に近い形での突拍子もない発言をしたとしよう。それはまさに言葉による猟奇的無差別通り魔殺人に近い。その場は一気に白けてしまい、最早先ほどまでの円滑に進行していた場の雰囲気を取り戻すことが全ての参加者にとって不可能となろう。最早修復不可能な場の雰囲気においてはいかに充実した意味内容の発言がなされたとしても全く効力を失ってしまう。そもそもそういう有益な発言が機能するためには場そのものがそれを吸収しようという雰囲気に包まれているということが大前提だからである(勿論そのネガティヴな空気が新たな意味を持つことも可能性としてはあり得るが)。そういう意味では先述のホッブスの信約という概念がまさに責任ということと、どのような成員も須らく権利を保持しているということと、その権利の享受という欲求、そして外圧を加えられたら抵抗する意志と能力を持っているということを意味しているように、私たちは自己の発言を私性に彩られたままにしておくわけにはいかない。場の雰囲気を構成する者としての責任がある。
 それはまさに他者とか自己だけを論じることは光を論じて闇を論じないでいること、闇だけに注目して光を無視するような暴挙であるのと同じで、意味内容を特権化し意味作用を無視することに等しいのである。オイゲン・フィンクは次のように述べている。(「存在と人間」第十三章中、227~228ページより)

(前略)伝統的な形而上学は、たとえそれが見かけ上はまったく別種の問題を扱う場合でも、たとえば無限なもの、神、自由、世界などを扱う場合でも、やはり事物存在論なのである。無‐限なものDas Un‐Endiche は有限なものからの離脱という形で考えるように試みられ、それによってついには「《無限な存在者ens infinitum》」として、また「絶対的実体」として評定される。有限なものを嵩上げするという方法も、有限なものに対して否定的に境界線を引くという方法も、どちらも事物的存在論的な可能性の空間内にとどまっている。事物存在論的な概念性の領野は、事物をそれとして扱うただの範疇論的構造分析よりもはるかに大きい。この事物的存在論的な概念性は見かけ上それが事物の事物存在を超えて問うているところでも、つまり事物へと向かう視線を捨てて、たとえばあらゆる事物の全体という方向へ踏み越えているところでも、なお力を発揮しており、またその支配をつなぎとめている。このことはたとえばカントが世界、自由、神といった問題に着手する際のやり方に即せばまったく明瞭になる。要するにカントはそれらの問題を純粋理性の理念的な表象の問題とみなすのである。理念のうちにアプリオリに表象されたものはいかなる「客観的妥当性」を持ってはいない。なるほど世界全体を現象の系列の全体性として思考することは必然的なことである。しかしそのように思考された全体は、純粋理性がつねにすでにあるあらかじめ開いてある地平ではあるが、しかし現に存立している全体ではない。世界を統制的理念へと格下げすることによって、つまり経験の使用にとっての規則として機能するような、必然的に思考される主観的な全体表象へと格下げすることによって、あらゆる現象は全体的統一性に帰属するものと考えられることになる。しかしまたそうであるかぎりで、こうした世界の存在の格下げは、その際の「存在」の規準を「事物」から、カント的にいえば、客観的妥当性をもった範疇から見て取っている。なぜならこの客観的妥当性を持った範疇において考えられたものが経験の対象としての事物だからである。このようにしてカントは大いに力点を置いて、事物を主題とした存在論を世界の自由や神などを主題とした存在論から切り離そうとするわけだが、それにもかかわらずそのように隔絶された非事物的なものが、やはり事物存在論的な根本表象に呪縛されて論じられているのである。私たちはいま「事物存在論」という表現をある根本的な意味で使用しているのだが、それは有限な事物に即するにせよあるいはそこから離脱するにせよ、いずれにせよ有限な事物へ向けられた視線のなかで思考しつつ存在を規定しようとする存在の問題構制の形態を意味している。ところで事物的存在論とは、人間が選び取ったり逸らしたりすることができるような理論的な可能性ではない。それは伝統的な形而上学における思考の軌道であり、私たちのあらゆる存在概念的思考がそこに由来するところの歴史である。かくして私たちはすでにその事物的存在論のうちにいるわけであるが、それにもかかわらずそれはそれ自体問うに値する何ものかとしては、決して私たちの目にとまることがない。存在がまさにそれであるところのものが新たなより根源的な次元において立ち現われてくるとき、事物存在論ははじめて私たちにとって疑わしいものとなりうる。

 またマックス・ヴェーバーは「社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」」中で次のように述べている。

(49)理念型は、その機能という点では、歴史的個体あるいはその個々の構成部分を、発生的な概念において把握しようとする試みである。たとえば「教会」および「教派」の概念をとってみよう。両者は、純然たる分類としては、いくつかの標識〔メルクマール〕の複合に分解されるであろう。ただしそのさい、両者間の境界のみでなく、概念内容もまた、つねに流動的なままであるにちがいない。ところで、わたしがいま、特定の重要な文化意義に関連させて把握しようとすれば、両者の標識のうち、特定のものだけが、本質的となろう。というのも、ほかならぬその標識が、そうした〔近代文化におよぼした〕作用にたいして適合的な因果関係にあるからである。ところが、それと同時に、当の概念は、理念型となる。というのは概念は、概念上十全に純粋な姿では〔教派ないしは教派精神を、全体として〕代表するものではないし、ただ個別的にしか代表していないからである。ここでもまた、純然たる分類概念以外の概念は、まさしくいずれも、実在から遠ざかる。けだし、われわれの認識の比量的な性質、すなわち、われわれが実在を把握するのは、一連の表象の変移をとおしてのみである、という事情が、こうした機会の速記術を要請するのである。われわれの想像力は、研究の手段としては、しばしば確かに、実在の明晰な概念的定式化なしにすますことができる、しかし、叙述のためには、それが一義的であろうとするかぎり、明晰な概念の使用は、文化分析の地盤の上では、多くのばあい、まったく不可避である。これを原則的に斥ける者は、文化現象の形式的な、たとえば法史的な側面に自己限定しなければならない。法規範の宇宙は、当然のことながら、概念的に明確に規定できると同時に、〔もとより法的な意味で!〕歴史的実在にたいしても妥当する。ところが、われわれの意味における社会科学的研究が取り組まねばならないのは、法規範の実践的意義である。ところで、この意義は、経験的に与えられたものを、理想的な極限事例と関係づけることによって初めて、一義的に意識されることがきわめて多い。もし(最広義における)歴史家が、こうした理念型を定式化しようとする試みを、「理論的構築」として、つまり、かれの具体的な認識目的には役に立たないもの、あるいは無くても済ませられるものとして、拒否するとすれば、その結果は、通例、かれが、意識してしか無意識にか、他の同じような虚構を、ただ言語による定式化と論理的な加工を怠ったまま使用しているか、あるいは、かれが、漠然と「感得される」だけで〔明晰に〕限定されないものの域にとどまっているか、どちらかである。(120から122ページより、富永祐治・立野保男訳、折原浩補訳、岩波文庫)

 私たちは自由や自由意志、あるいは自由意志論の奴隷であると言える。だからこそ逆に私たちはそういう認識論‐観念論の呪縛から、あるいはフィンクやマックス・ヴェーバーの指摘する理念及び理念型からの脱却を図らねばならない。つまり存在論‐実在論として言語行為を語らねばならないのだ。
 そのためには私たちには言語空間という捉え方が必要とされている。私は正義とは時代によって構成される恣意的なものであると言った。そのことは正義そのものが常に不在であることを意味するのではなく、常に正義はあるが、それは常に別様であり、変化し続けているのであり、重要なこととして我々は正義をその都度見測る規準だけは常に持っている。しかし正義の在り方は常に前時代、そして現在ということの相対的な在り方でしか顕現していない。拠って我々はその都度正義の在り方を組み替え直さなくてはならないのだ。つまり同じ決断が仮になされたとしても、前回のものが正義と呼ばれ得るとしても、今回においてはそうではないという判断は、その時代状況や状況性に対する我々の読みや正義を殊更必要としているのかというその都度の我々の精神状態に依存している。だからと言って全てが相対主義によって説明が尽くかと言えばそうではないだろう。そのことはヒラリー・パットナムがより適切な形で「理性・真理・論理内在的実在論の展開」(野本和幸/中川大/三上勝生/金子洋之訳、法政大学出版局刊)に詳述されている。(第五章 二つの合理的理性概念 なぜ相対主義は整合的でないか)しかしそのことは先に述べた「我々は正義をその都度見測る規準だけは常に持っている」という記述で事足りるだろう。
 要するに私たちに残されている命題は、衝動と羞恥を連動させつつ、意志をそこにあたかも実体論的に現出させる当のものとは他者存在であるには違いないが、その他者存在と自己‐私を常に意識させるものとしての意思疎通とか意思疎通希求を招聘する場である言語空間であると言える。それこそが他者存在を哲学的他者として我々をして語りしめるものなのである。

Tuesday, October 27, 2009

〔他者と衝動〕結論 自己と他者①

 私たちが知る他者の像とは極めて限定的である。それは自分のことを考えてみればよく理解出来るだろう。私たちはあくまで自分のことを他人に告げる時、全てを一々誰彼の差別なく告白しているわけではない。羨ましいと誰からも思われている者が多大な借金を背負っていたり、崇高なことばかり考えているのだろうと敬意を集めている者がとんでもなく俗っぽいことを考えていたりするというのが人間の真の姿である。
 衝動と言えばよからぬ突発的で取り返しのつかない行動へと誘引するもののみを今までは扱ってきた。しかし他者性という認識と、そのことによる自己、私という像の創出それ自体が既に衝動であると捉えれば、我々は自己と他者との関係を、一つの衝動的な接触と捉えることも出来る。
 親密さというのは、ある意味では一定の距離を相互に取り合うことで保たれる。同時に不信の念というものは、それを打ち破ろうとする意志を読み取ることに起因する。しかし言語行為を持つことで一定の理解を得ることが人間関係であるとするなら、親密さはある部分では真意を表明する決意でもあるし、それは形を変えたプライヴァシーの吐露でもある。例えば職業的な秘密とか極意、あるいは何らかの専門的であるがために一々説明することを省略するようなことというのは、総じて他者に告げるべきものでもないし、告げる必要もないものだが、そういう秘密を保持して社会人として生活する実感そのものは、職業的な関わりのない自然人的な交際において告白しやすいということは言える。つまり社会的な利害関係のないところで成り立つ友情というのは概してそういうものである。つまり人間には夫婦にしか理解出来ないこととか、夫婦間でしか話せないこともあるが、同時に夫婦の間柄だから決して言えないこととか、聞けないことというのも多く持っているのだ。それは他全ての関係に当て嵌まる。親子、兄弟姉妹、近隣住民、同僚、上司‐部下、同業者、趣味のサークルといった人間関係において、自らの立場と近いからこそ告白し得ることと、逆に告白出来ないことというのがあるというわけである。例えばある老人が自分の抱く本当の意味での人生の悩みを孫にだけなら告白し得るということもあるかも知れない。却って実の息子や娘、あるいは同年輩の友人には決して言えないことを、孫の相手をしている時なら気軽に告白出来るということがあり得るかも知れない。つまり他者とは告白し得る内容の差をそれぞれが持っている存在であるとも言えるのだ。つまりこういうことはこいつには言えるが、あいつには言えないのだが、ああいうことはあいつになら言えるが、こいつには言えないのだ、ということ、つまり告白内容そのものの性質的差異において各他者というものの存在理由が位置づけられるというわけである。
 人間という生き物は、家族であるとか肉親であるから理解出来るということはあるが、同時にたとえ親子でも兄弟でも理解出来ないこと、あるいは何を考えているか見当もつかないことというのが必ずあるし、そうでなければ親子関係も兄弟関係の成立し得ないという部分さえある。
 あるいは既に述べたことでもあるが、本質的な意味では我々は自分というものの真意を掴むことだけに一生を費やすということさえ言えるのである。それこそそうなのである。例えば私は私の後姿がどのようなものであるか映像で確かめる以外に知る方法はないし、何より私自身が他者に対してどのように接しているか、例えば私の物腰はある特定の他者に対して温和な態度で接しているのか、表情が柔和であるのかとか、慎ましやかであるかとか、別の他者に対して威圧感を与えていはしないかとか、そういうことを直接知ることが出来ない。だからそういうことというのは敢えて誰か特定の他者から聞き出すしかない。つまり私は私自身を他者として扱う視線を有する他者には終ぞなり得ないのである。だからこそ逆に私による他者に向けられた物腰、態度、表情、仕種といった逐一が私以上に重要である存在者はこの世界には一人もいはしない。私は私に向けられた好意と、好感とによってのみ、私が私以外の他者に対してどのように接しているかということを知ることが出来る。勿論私に対する反感によってもある程度なら知ることが出来る。しかしそういう場合私はあくまでその者にそれ以上発展的な私の態度とか表情を作ることが許されているとは言えない。
 ある者が別のある者の彼に対する態度や物腰や表情の在り方を報告し、忠告し得るのは、その者が別のある者に対して信頼を寄せている時だけである。こいつにならこいつ自身がどういう風であるかを報告することが出来るということが思わせられるということが、その私をこいつと呼ぶ者に対して私が勝ち得る信頼である。信頼とはそもそも私が誰かに無償で何かをしてあげようという気持ちになることなのだ。その者に対して私は少なくとも信頼を寄せている。しかしその者も私と同じであるかどうかは分からない。勿論ある程度私がその者に寄せる信頼と、その者が私に寄せる信頼の程度と質が一致しているということこそが友情の萌芽であると言える。だから真に信頼し合えるということは、一致しているとは必ずしも限らないものの、少なくとも一致していることを常に願い、そのことに関してだけは信じて疑わないということが第一条件なのである。このことはしかし同性同士の友情と、異性間の愛情とでは勿論多少異なっているだろう。しかし信頼ということの内にはそのような性差とか立場の違いを超えて、信じ合えるのだという確信のようなものが必要とされる。つまりそれは一致とか完全性ということにおいてはやはり一つの幻想であることを全ての成員は了解している。しかしその幻想を共有し合えるということが重要であるという認識では全ての成員は一致している。だからもし相互に信頼し合えるという幻想さえ疑わしいものであるのなら、その者は恐らく他者に対してそれを他者であるとさえ認識し得ないということを意味しよう。それはデカルトのコギトとも関係してくる。もし疑わしいと実在そのものを疑っても、そう疑うことそれ自体だけは疑い得ようもないということなのだから。
 だから信頼関係というものは相互の幻想性と、幻想を抱くという心的な希求性を容認し合うということに他ならない。それはある意味では他者の衝動を直観的に自分の衝動と一致し得る可能性に賭けるということでもある。勿論他者の衝動が理解出来ない時もある。そういう時私は考える。私もまた他者に対して「あいつの衝動が理解出来ない」と思わせる時があるだろう、と。それは教訓としてそうしているわけではない。本能的にそうしているとも言えるし、そうとしか思えないということでもある。
 私は必ずしも常に私が信頼を寄せている他者に私の真意が常に百パーセント理解されているだろうとも思わない。ある部分では私の好意が私の本意から著しくずれて理解されてしまうこともあるだろう。しかしそれは向こうも同じであると私は時々考える。勿論それが常にではないからこそ、私はその者を理解し、信頼していると言えるのだ。しかしそういう固有の他者でさえある時、ある瞬間には確かに未知の他者となり得る。またそのことに対する了解こそが私にとって他者とはどうあるべきかという問題を私なりに理解しておく必要があるのと、そのようなものとして私が理解し、信頼し得る他者もまた考えるだろうという目算を、私と彼(女)との間の信頼性という形での幻想を保持していくための指針としているというのもまた一つの直観的な衝動であり、本能的であると同時に、認識努力的な意味でもそうである。
 意思疎通ということにおいてはしばしば消極的に何かを伝えるということが予想外に強烈に何かを伝達してしまったり(伝える積りのなかったことまで)、その逆でかなり積極的に伝えた積りが、全く意に反して滞りなく伝わるということがなし得なかったりということもある。しかし信頼合える相手というものは、少なくともそのことの頻度が比較的小さいということだけは言える。そういうことの頻度が大きいということはとりも直さず理解し合えていないということである。
 しかし重要なこととは、意志を伝達するということは言葉そのものの力によって必ず変形されるということである。だから意に反して強烈に伝達されることや、意に反してあまり適切に伝わらないということは、私自身の語彙の選択とか、語調の選び方とか伝える順序の適切性とかそういうことにもかなりな比重で関わっている。そしていい意味で、つまり伝えたいことが最小限度の努力で有効に伝わり、その事実に対して相互に満足し得ているということがある意味では一番信頼関係の基本として横たわる事実だろう。もし本意が伝わることそれ自体に躊躇を持つのなら、その意味とは本意を伝えなくてはならないのに伝えることを憚るという遠慮的な関係にその者に対して私があるということを意味しよう。
 遠慮とか尻込みということは、それ以上相互の信頼し合いたくはないということを意味する。勿論そういう関係の方が人間社会では多い。またその事実を確認し合えるということもまた、ある程度距離が縮まっている必要があるということと、一定の他者に対する配慮と、全ての成員に対して等価に信頼と愛情を注ぐことなど無理であるという諦念を会得している必要はあるだろう。
 そうなのだ。私たちは只の一人として、全ての成員に対して責任を持ち、信頼し、愛情を注ぐことなど出来はしないのである。だからこそ他者という問題、自己にとっての他者という問題が常に哲学的命題たり得るのである。ある特定の他者を信頼するということは、別の特定の他者に対しては一定の敬遠関係と、疎遠な態度を採ることを自然なものにするのである。つまりある特定の他者への信頼の獲得と保持、維持とは、とりもなおさず他の大勢の他者に対しての不干渉を決め込むことを意味するのである。
 またそうでなければその者に対して採る態度の多くの部分が欺瞞ということとなるのである。
 ある者(他者)に対する信頼とその者から信頼される関係の獲得とは、その者以外の大勢の者(他者一般)に対して適度の距離を発展的ではない形のままうっちゃっておくことを意味するのだ。理解し合えるということには質的にも量的にも私たちの能力としては限界がある。従って私たちは全ての他者を等価に、あるいは等量に理解し合うことなど不可能なのである。理解し合えないということの相互の了解に対する相互の自覚こそが私たちに相互の争いごとを避けさせる唯一の方策なのである。これはある意味では成員の数が増えれば親族間でも、親子間でも、兄弟姉妹間でも同じことが言える。
 信頼する者の数とは自然と少なくなるということもあり得るが、やはりどこかで私たちは意図的にそうしているのである。無意識の内にそれを願いそうしているのである。無意識の意図というものが恐らくあり得るのだと私は思う。これは天才的な音楽家たちが幼少の頃から楽理的知識のない内に内的な音楽的意志によって自然と作曲してしまうことと同じではないだろうか?
 哲学では通例他者と言うと、基本としては知人であり、明確に知人ではなくても意思疎通するために話すことが出来る、つまり理解し合える、意志伝達可能であると捉えるが、私はこの捉え方は曖昧であると考える。何故ならただ話せるというのであれば、外国人とも英語を通じて話せるし、あるいはロボットとも可能であるが、通例哲学者は、感情があり、機械のような与えられた指令によってではなく自らの意志で話し、自己同一性を保持していると考えているようだが、私は他人、つまり生涯一度も知り合うことなく無数に存在するということを我々が知る地球人という意味での存在者、つまり私が一度も会うことなく終わる者をも含めていっそ哲学的他者と呼ぶのなら、私にとって重要なのは、寧ろ一度も知り合うことなく終わり、しかもその者が存在することを知る漠然とした存在者一般かも知れない。しかし同時に、それは私がよく知る親しい他者によってそれ以外という形で構成されている以上、その不特定多数の無数の存在者たちは、私の知人としての、家族とか友人としての他者によって構成されていると言ってよい。つまり私にとっての他者一般は私のよく知る他者によって成立しているのである。
 哲学者の中島義道は、私というものが先験的に存在するから他者があると考えている(「私の秘密 哲学的自我論への誘い」157ページ他)ようだが、これは大人になって初めて意志が持てるという常識においては正しいと思われるが、そもそも常識も言語習得も、全て他者の存在にとってであるという意味では概念理解レヴェルでの認識に留まっている。
 例えばもし仮に生後直後、人間社会と隔絶した環境で育った人間がいたとしたら、彼にとって他者は狼かも知れないが、この場合哲学では他者と呼ばない。しかしではもし私たち一般を規準にした考えの下で(つまり狼を他者と呼ばないとするのなら)他者が存在するというのなら、寧ろ他者以前に私があるという考え方はおかしい。他者認識する私という先験性とは端的に、他者存在への覚知という事態を通過した段階において形成される自我ということであって、そもそも他者一般も他者も存在しないような環境においては、狼少年を私たちと同じ存在者と呼ばない以上、私という意識も、自己という意識も少なくとも私たちと同じようには生じようもない。だからいかなる状況下でも他者認識を生じさせる常識的私が誕生するとは限らないという意味では、他者存在の方を私よりも先験的であるとしなければ論理矛盾を来たす。つまり他者一般も他者も全く存在しない環境で生物学的人間は我々と同じようには私という意識も自己という意識も生じさせることなど出来ないという意味で、狼少年を我々は現存在的存在者とは呼ばないことからも、他者が私に先験するのである。
 私は無意識の意志もまた一つの意志であると考えるのだ。それは音楽的意志という形で少年モーツアルトが持っていた天才性をも意志と考えるからである。それは意志ではないと捉えると人間の能力のほんの一部しか知性としても、創造としても認められなくなるからである。例えば文字を理解しない存在者がいたとしても彼らの全てが自己同一的な意味で私を理解しない者であるとは言い切れない。そういう観点に立てば、中島氏の主張される私というものは極めて限定的なものである。氏の主張によると文字を持たない文明のクルド人たちは私がないということになりかねない。そこまで氏も主張されないであろう。
 つまり私は、他者とは私に先験し、先験するものとして存在するも、一旦確立された私の下では、それを通して(のみ)理解されるものと考えている。しかしやはりそれは私の恩人なのである。それは私という認識を形成せしめたものとして恩人なのである。中島氏は一方で大人としての自覚を持つ者のみを私を持つことの基本としていながら、同時にあたかももし育ててくれる両親並びにそれに該当する他者がいなくても立派に私という意識が生じ得るかの如く論説しておられるが、それこそが現実離れしていると言えるのではないか。つまり人間はあくまで能力として他者を理解するということは、備わった力と同時に人工的意図的環境によってもなのである。そうでなければ言語行為そのものを理解し得ない狼少年をも我々と同等の私を持つ存在者として認識しなければおかしくなる。そもそも全く他者の不在な環境で私意識、自己同一性の意識の確固とした存在者が構成され得るかということは実験出来ない以上意味のある問いではないとも言える。恐らく我々に近い意識を半分は持てるかも知れないとしか言いようがないだろう。つまり現実問題として私たちは一定の備わった能力と人間社会という人間自身による意図的な環境の双方を経験し、初めて人間として、つまり私という意識や自己意識を持つ存在者として振舞えるようになるのである。
 中島氏はデカルト主義的な前提の下で、狭い範囲のみを私とか意志ということに関して考察対象とされていると思われるが、哲学が問うべき領域とは我々にとって知られざる無意識的意志や、意味づけ不能な衝動や、非言語的で言語化不能な領域にまで拡張すべきなのである。そうでなければ無意識であっても欲求レヴェルでは渇望しているような衝動を、それを他者の前では否定してみせるからそれは意志でないとするなら、我々は説明レヴェルのことだけを意志と呼ばなくてはならないこととなるのではないだろうか?私の考えでは私たちが意識的に認識していると思っているものは、無意識に認識しているものをも含めたほんの一部であるのだ。
 それは他者一般ということにも該当する。例えば他者とは私が私の記憶と生活上での認識として知人とか面識があると考えている人よりは外延は広いと思う。例えば顔だけ覚えていてよく視線さえ合う人でも、名前も職業も知らない近隣住民か自分がよく居合わせる地域で働く人であるなら、その人と顔が合った時だけ思い出す存在者であるが、普段意識的には思い出さないこの種の他者一般をも私たちはやはり記憶していると呼べると思うからである。それは説明不能な記憶と、親近的な認知なのである。(そういう他者一般は、熟知する他者より一層多い。)
 話を戻して、他者一般を一度も会うことなく終わる無数の他者であるとするなら、私たちは寧ろ私という意識を教えてくれたのが最初は両親に象徴される他者であったが、一定の年齢以上となった時、寧ろ近しい人びと以外にも多数存在に対する呼び方である「人びと」という認知によってであることが了解される。例えば電車に乗って高校へ通った学生時代に、電車に乗っていた大勢の見知らぬ人々、地震や火災によって生命を失ったということだけを知っている無数の見知らぬ人びとの存在こそが、私が親しい者を大切にしなくてはならないが、同時に親しい人びと以外にも大勢の見知らぬ人びとが私たち同様幸福を求めて生活しているという意識こそが私という意識を植え付けてくれた気がするからである。つまり私という意識はその基盤は私たちの両親をはじめ、大勢の知人、あるいは同級生によって醸成されていったのだが、寧ろその私という意識を一層徹底させてくれたのは、私が知らない大勢の私と同様生活を営む存在者一般に対する私の意識なのである。だからこそ私は他者を私のよく知る他者だけではなく、会えば意思疎通可能な存在者一般として、社会認識と、責任と、良心を知人関係にある人びとたちの間だけのエゴとしてではなく理解することが出来たのである。地球の裏側にも私たち同様の悲喜こもごもの生活者たちが無数に暮らしているという実感こそが、人類の歴史において徐々にその地域的広大さを拡張しながら、我々が獲得してきた公的な意味での私という意識である。そして言語とはまさにそのような全ての意思疎通可能な潜在的意志伝達同意者に向けた意識として習得されてきたのである。勿論その発端となったものとは私にとっての両親とかいつも身近に生活してきていた人びと、つまり近しい他者たちである。しかし私はそういった人びとの存在を中心にして生活していた時にも、明らかにそれ以外の大勢の私や私の知人たちの知らない生活者としての存在者がいることを知っていた。寧ろそういった潜在的意志伝達同意者たちに対する無意識の伝達への欲求と衝動こそが、私をして言語を習得せしめるモティヴェーションたり得たのではないだろうか?勿論現実的には私は両親の発話行為から言語を習得したのにもかかわらず、どこかでは彼らがいなくなっても他の人びとを両親の代わりとして意志伝達する可能性をも無意識の内に考慮に入れて言語行為を人並みに習得してきたのではなかったか?
 つまり言語を通した意志伝達という行為には、明らかに自分にとっての固有の親しい人びとそのものが、実は大勢の潜在的意志伝達同意者の中のほんの一部であるという認知と無意識の自覚がその習得を円滑にし、有効にしていく基盤として存在しているように私には思えるのである。しかし勿論そうい潜在的な無数の存在は、何度も言うようだが、私を取り巻く人びとによって知った存在事実である。
 だから他者が私に先験するということは、ある意味では私が私としての意識を生じさせた後にしか理解出来ない事実であるという意味では中島氏の主張は全く正しい。しかし私は意志というものの在り方をより広範に捉えきらない限り、説明レヴェルでの意識のみを欲求と捉えることに終始し、しかも衝動によって言語行為をすら我々は滞りないものとして遂行していることの実像を捉えきれないと考えるのである。そしてまさに私は私にとっての家族や知人以外の近しくない大勢の人々、まさに無数と言ってよい潜在的意志伝達同意者の存在への認識こそが、そう言われれば誰しも気づくものの、そう言われなければ一生気づくことのないレヴェルの私たちの言語行為を主軸とする意志伝達、意思疎通誘発者であると考えるのである。だからこの潜在的意志伝達同意者という認識は、社会意識に照応させて私を捉えない限り出てこない概念である。従って私自身の生活感情にとっては然程重要なことではない。事実私はニュースで見て知る悲惨な死に方をされた大勢の人びとの存在に対して一々悲しまない。しかしそういう事実があることを理性レヴェルでは憂えることが可能である。つまり感情レヴェルでは常に私というものは私の周囲にいる知人とか家族を中心として得られる損得に彩られている。しかしその個人的な市民感情を構成するものとしては明らかに無意識の内に認めるストレンジャー、つまり親しくはないが、私たち同様の人生と生活を全うしているだろう存在者というものがあるのである。これをも他者と呼ぶ時、それはある意味では哲学をより社会学と相同のレヴェルで考察することをも強いるのであるが、私たちは無数の潜在的意志伝達同意者を中心とした他者一般‐家族、知人を中心として親しい、近しい人びとという新たな本能的、直観的レヴェルで習得され得るカテゴリーを見いだすことが可能となるのである。
 意志的に親しい間柄の人間と絶縁することというには、例えば離婚もそうだし、絶好もそうであるが、私たちはこの意志的行動、意図的行為をある意味ではこのカテゴリーにおいて理解するなら、家族、知人を中心として親しい、近しい人びとを無数の潜在的意志伝達同意者を中心とした他者一般‐無数の潜在的意志伝達同意者を中心とした他者一般へと沈み込ませる意志と考えることが出来る。
 つまり私という意識を敢えて根源的な他者理解とするなら、自己意識とはこのカテゴリーに対する明確な衝動、行動をする際に欲求されていることと考えれば語義定義的には正しいかも知れない。つまり私意識は明らかにによって確固としたものになるが、自己意識というものはそれとは少し性格が異なっていて、無数の潜在的意志伝達同意者を中心とした他者一般へ向けて私意識を発動させる際の衝動によって利用されると考えたらよいのかも知れない。
 例えば私は最近大勢の新しい親しい知人を得た。それは私が関わった幾つかの集団の存在によってである。しかし今現在のように親しくなる前に私と彼らの間には初めて会った無数の潜在的意志伝達同意者を中心とした他者一般同士という関係であった。第一印象を抱くということそのものがそれを表している。しかし長く一緒に学ぶ内に彼らは全員それ以前から親しかった人びと、つまり家族、知人を中心として親しい、近しい人びととなっていった。恐らくその過程において、私にとっての彼ら一人一人の像というものは変質してきただろうように、彼らから見た私の像も最初は私が彼らに対して抱いた第一印象が徐々に剥ぎ取られていったように、現在ではかなり変質していったであろうことを想像することは難くない。
 つまり私が見ていた最初の彼らに対する後姿とか固有の像の見方は、徐々に彼らの存在が私の日常に入り込むことによって変質していった。そして私にとって身近であったが、彼らと知遇を得ることと引き換えに疎遠になっていった一群の人びともいるのだが、彼らの像は徐々に私にとって彼らと出会った時の第一印象へと再び収斂していくこととなり、それまで一番親しかった時期に抱いていた親しい知人としての印象は薄れていった。つまりある一群の人びとと交際を密に親しくなるということはとりも直さず初めて会った無数の潜在的意志伝達同意者を中心とした他者一般同士が徐々に家族、知人を中心として親しい、近しい人びとの一部と化していくことであり、逆にそのことによって疎遠となっていった人びとの存在はそれとは逆のベクトルを得ることであるということだ。そして私は私に対する他者から持たれる像というものを家族、知人を中心として親しい、近しい人びとだけが知り得る姿と、無数の潜在的意志伝達同意者を中心とした他者一般なら必ず抱くよう姿という両義性を保有していると言える。そして親しい間柄であればあるほど「あなたは他者一般からはこう見られている」と言って貰えることが出来る。それをずばりと直言するということはある意味ではかなり親しくならない限り不可能なのである。それこそが私が結論の比較的最初の方で述べた信頼ということなのだ。つまり信頼し合っている間柄での人間関係において私や他者に対して注がれる視線や眼差し、あるいは私や他者に対する像とはそうではない人びと、つまり無数の潜在的意志伝達同意者を中心とした他者一般が保有する私や他者に注がれるそれとは本質的に異なっている。それこそ前者の関係を私意識の像、そして後者の関係を自己意識の像と呼んでよいかも知れない。勿論ここで言う像とは一般的な他者から私に注がれる印象と言い換えてもよいかも知れない。
 私が前節において示した然程の他意はないのだから気にしないに限り意地悪というのは概して友人関係にまでは至らない知人同士でよく見られる意志的行為である。無意識的に示される小さな悪意も含む。しかし難しいのは友人と呼び合えるほどの信頼関係ではないからこそ示すことの可能な小さな悪意も存在すると同時に、そうではない関係であるからこそ示すことの可能な小さな悪意もあり、つまり親しいから言えること、親しいから言い難いこと、あるいは親しくはないからこそ言えること、親しくはないからこそ言い難いことというのがそれぞれあり、それらは恐らく前のパラグラフで書いた私意識の像やら自己意識の像とも大いに関係があるだろう。そのことについて少し詳しく考えてみよう。
 一つ重要なこととは、私が考える他者と自己の関係とは親しいということ、そして信頼し合っているということ、そうではないこととは一体どういうことか、ということと、それらが一体羞恥と衝動とどう関わっているかということである。
 私は先ほど「私にとって身近であったが、彼らと知遇を得ることと引き換えに疎遠になっていった一群の人びともいるのだが、彼らの像は徐々に私にとって彼らと出会った時の第一印象へと再び収斂していくこととなり、それまで一番親しかった時期に抱いていた親しい知人としての印象は薄れていった」と述べたことなのだが、そこで言っておきたいこととは、一度親しくなっていったが、その後何らかの感情の行き違いとか相互の誤解とか、親交そのものに対する何らかの理由による疲労により意図的に絶好する場合、あるいは男女間のことで言えばそれ以上に複雑な要因による離婚ということを考えた場合、我々は一回親しくなった者同士が絶縁した場合、一度も親しくならずに終わる関係とは全く異なっているということである。
 事実然程親しくならずに終わった、例えばそもそも交流そのものを仮に相手から求められても拒絶したようなケースよりも、私にとって一度は親しくなれた間柄の場合の方が圧倒的にある種の懐かしさを抱くことは多いということである。そうすると、一体親しくなり相手を信頼するとは哲学的にはどういうことなのかということをまず見極めねばならないだろう。そしてこのことが意外と哲学では瑣末な命題以前的なこととして考えられて来たことではなかったろうか?
 そのことを考え上で信じるということの現象的な作用についてもう一度確固として考えを抱いておく必要がある。
 しかし信じることの心的性格をこと細かく分析するとそれだけで一つのテクストが出来上がるくらいの手間がかかるので、ここでは宗教的な信仰心ということに限定して考えてみたい。
 宗教的信仰心というものは、その考えや思いを表明するということと、本当に言明の通りにその者が信仰しているかということは全く別個であると言わねばなるまい。例えば本当にある宗教的言説を信じている場合、それは自分自身の原体験と、宗教テクストの言説が一致している箇所を発見したという事実が大きく関わっていることが多いだろう。しかしそのような一致点を終ぞ発見し得ない者は、本当は信仰心を持っていないのに、社会モラル的(つまり社会強制的)にある特定の宗教信仰心を持つことが積極的に求められている社会や共同体では信仰している表明だけはなされるかも知れない。そして真実の信仰の場合我々はそれを原羞恥レヴェルで信じるということがなされているので真意であると受けとめられるが、ただ表明においての「合わせる」ことをしている場合、つまり真実の信仰心であると偽装している場合我々はそれを原音楽レヴェルで言明しているのだと言うことが出来る。
 一般的に日本人は恥の文化の国民だと言われる。では欧米人には羞恥という意識がないのだろうか?
 そんなことはないだろう。アメリカ人にはアメリカ人に固有の羞恥心、あるいはもっと適切に言えば、我々日本人と同じ性質ではあるが、異なったその羞恥を表現する仕方があるに違いない。では日本人には欠如していると思われる「救われる意識」、あるいは「救われたい意識」が、直ちに日本人が信じることをしないで他者に「合わせる」ことだけをしていると言えるかと言えばそれも違うだろう。
 恐らく日本人はより信じやすいということは言えるかも知れない。恐らく日本人は「合わせる」ことを皆がしているものこそ信じるべきだという通念があるのかも知れないからである。それは何を信じるべきかということの民族的な資質として傾向の違いが横たわっているかも知れない。しかもある部分では確かに日本人の方が他者に「合わせる」ことが正しいと信じているかも知れないが、別の部分ではアメリカ人よりも自らの判断を正しいと信じることがあるかも知れない。例えば神はいないということにおいてである。だからこそ日本人には「救われる意識」は欠如しているのかも知れない。何故なら「救われる意識」とは一度は信じて疑わなかったものを懐疑の対象としてしまったことに対する罪滅ぼしの感情から誘引されるものだからである。従って最初から疑いの目を持っている場合「救われる意識」など生じようもないということが言えるからである。尤も自己意識というものにおいて日本人は他者の羞恥を尊重し、自己の羞恥を他者から斟酌して貰いたいと願うが、一方極めて積極的に他者にプライヴァシーに介入することもある人びとも多い。他方アメリカ人には自己意識において羞恥を払拭することが常に求められ、他者にもそれを求める。しかし双方とも何らかの形で羞恥自体と向き合っているという意味では同じである。
 話しを戻すと、要するに「信じる」ということの本質はそれが実際上正しいのだという見解に対する不動点に対する希求なのであって、正しいか誤っているか判然としないものに対して我々は少なくとも「信じ込もうとする」ことはあっても、真実に信じているとは言い切れない。それはただの自己欺瞞である可能性の方が高い。だから自然と信じられるということは、それが正しいという以外により適切な判断が成立し得ないということに対する確信に他ならない。
 しかしある他者と言語行為をするということの内には少なくとも、その者が哲学的他者として自分の発話内容を斟酌してそれに対して誠意を持って返答するだろうという目算において行為するという自覚がある筈である。このことは「他人の心」(坂本百大監訳、勁草書房刊)においてジョン・ラングショー・オースティンは次のように述べている。
 
(前略)語り合うという活動においては(他の事柄においてと同様に)、相手に疑いの目を向けるべき何らの具体的理由がないかぎり、相手を信頼してかまわないということが基礎をなしています。人を信じること、つまり、その証言を受け入れるということこそは、語り合うという活動の眼目(ないし主な眼目の一つ)なのです。われわれが(勝ち負けのある)試合をしていることになるのは、相手側が勝利をおさめるべく努力していることへの信頼のもとにおいてのみです。さもなければ、それは試合ではなく、何か別のものです。同様にわれわれは、人が情報を伝えようとしているということへの信頼のもとにおいてしか、(記述的に言って)人と語りあっているとことにはならないのです。(115~116ページより)

 これはある意味では当然過ぎる真理であるが、ここで示されている何か別のことこそ、偽装であり演技であり、詐欺であると言える。親しくなるということはだから偽装すること、演技すること、詐欺的に自らの感情を偽ることを持続することに対する放棄であると言える。少なくとも初めて会った他者に対して我々はそれをしているからである。それは私を守る最低限の防御であり、私が自己意識以前的に露出していることそれ自体に対する無防備を悟られることに対して「気のいい奴だ」と相手に思われ、「いっちょう利用してやろうか」という悪意を生じさせないようにする警戒心からである。(どんな善人でも人間には相手の弱みに付け込む悪意を生じさせる能力がある。)公的な自己意識をまず提示して見せることで、我々は私的感情だけで動くということから生じる社会的倫理の欠如を否定して見せているわけである。だから親しくなるということはその最低限のルールを遵守していることを相互に了解し合うことで、無数の潜在的意志伝達同意者を中心とした他者一般同士に固有のある「構え」を解除していくプロセスなのである。しかしそのプロセスはあくまで社会倫理の欠如の否定という暗黙のルールに則った上でのことである。しかしオースティンは恐らく極度の懐疑主義に対するアンチ・テーゼとして先述の論理を持ち出してきている。従って当の懐疑主義とは一体何なのかを見てみなくてはならない。
 それは恐らくこういうことである。
 親しくなってゆくに従って芽生える羞恥というものについて考えてみよう。
 親しくなるということは他者に対する固有の「構え」(それは後で述べる。)を解除していくことであるから、原音楽的に「合わせる」ことを回避して真理究明して原羞恥そのものを見つめることを回避するようになる。(だからこそ私が私意識を中心に生に他者に接することを自己意識の重要さにおいて批判する親しい者と何らかの感情的行き違いから絶好した場合、その他者が意外と後から考えると批判主義者であったことを了解し懐かしくなることもあるのだ。)つまりそんなことをしなくても気心が知れているということにより、要するに懐疑的であることに対して羞恥を覚えるようになる。つまり親しくなるということは懐疑的であることを「水臭い」と感じることであるから懐疑に対する羞恥の芽生えであると定義してもよい。
 つまりこの人間は自分に好意を抱いているから自分に害悪を齎すことなどないであろう、従って間違ったことをこの者が仮に私に述べたとしてもそれはあくまで誤りであって悪意からではないのだから、適当にその発言に合わせておけば自分も損をすることはあるまいし、態々そういった調和を掻き乱してまで波風を立てつつ抵抗することは無意味である故、そういった抵抗をすることを止そうという一時的な波風を立てることをせずに済ますという短絡的判断が、その親しい者の発言内容に対して公平で客観的な判断をすることを妨げるのだ。実は世の中の全ての権威に対する恐縮とはこういう形を採るものなのだ。
 それに対して無数の潜在的意志伝達同意者としての他者一般に対して抱く羞恥は性質を異にしている。
 それは多分に自己真意を直に告げる自己防衛のなさを隠したいとする、つまりお人好しであることを悟られることで、相手の狡さとか悪意を引き出すことを未然に防止している知恵であり、それは私意識の隠蔽であると同時に自己意識の表示、つまり公的な意味で責任遂行者である旨の表明であるから、その表明に対する他者の理解とは端的に「この人にも私同様の私があるに違いない」という理性論的な判断である。そしてその判断には他者一般(親しい間柄ではない人びと)に対する配慮があるが、それが無数の潜在的意志伝達同意者としての他者一般に対して抱く羞恥と言える。
 つまりオースティンはこの後者の羞恥を言語行為の基本として考えているのだ。これはホッブスの考える相互の信頼、信約にまで遡ると思われる。
 ホッブスの「リヴァイアサン」における大いなる骨子の一つは責任問題である。そしてその責任が一方で権利と対になっていると同時に、他方それは責任転嫁へと対になっている。権利と対になっている段ではそれは義務という形で考えられるが、責任転嫁と対になっている段ではそれは人間の傾向性と言う形で考えられる。例えば次の一節はそのことを端的に示している。
 「ローマ人は、おおくの属州の主権を有したが、しかしそれらを、ローマ市や隣接諸領土を統治したように合議体によってではなく、つねに総督および長官によって統治した。イングランドから、ヴァージニアやサマー諸島に殖民するために移民団がおくられたときも、同様であって、そこにいる人びとの統治はロンドンにある合議体に委任されたが、これらの合議体は、かれらのもとにある統治を、そこにあるいかなる合議体にもけっして委任しないで、各植民地にひとりの知事をおくった。そのわけは、各人は、かれが出席しうるところでは、統治に参与したいといううまれつきの意欲をもっているが、しかし、かれが出席しないところでは、かれらの共通利益の統治を、民衆的形態よりむしろ君主政治的形態の統治に委任するという、やはりうまれつきの傾向があるからである。」(「リヴァイアサン2」水田洋訳、第二十二章 政治的および私的な、臣民の諸組織について 中113~114ページより、岩波文庫)
 また次のようにもホッブスは言う。
 「(前略)一般に、すべての政治体において、だれか個々の成員が、自分が団体自身によって侵害されたと、おもうならば、かれの訴訟事件の審理は、主権者と、こういう訴訟事件の裁判官として主権者がさだめておいた人びとに属し、その団体自身には属しない。このばあいには、団体全体がかれの同胞臣民なのだからであって、主権合議体のばあいにはちがう。それは主権者自身の訴訟事件ではあるが、そこでは、かれが裁判官でないとすれば、裁判官がまったくありえないからである。(同書同一章中115ページより)
 要するに個人は共同体に対して委任という形で個人の能力を遥かに超え得ることを責任転嫁し得るも、同時に個人に帰するべき責任に関して今度は共同体の方が責任転嫁し得るということを同時に満たすことによって共同体全体があらゆる個に対して等距離で接するという秩序と、永続的な安泰を維持しているのである。(このことはある意味では団体とか共同体自体が極めてその存在理由が脆弱であり、実体が見え難いという面も作っているのだが、そのことはまた改めて論じる機会を持ちたいと思う。)そして後者の引用文では共同体と共同体内の個的集団(民間団体)とを明確に峻別している。民間団体とは自由意志による責任遂行が求められており、それは個人としての成員と等価だからである。
 そのことを重々知っていたからこそオースティンは行為遂行的発言という形で他者一般を前にしてある宣言をすることで、その宣言をしたことの遂行以外の一切の責任を免除して貰えるという権利をも確保しているということを暗黙の内に示していたのだ。つまり親愛の情によって次第に過大な期待と、他者からの責任転嫁を背負わされること自体への未然の防止意図という要するに性悪的人間の傾向性に対する未然の発動阻止的知恵としてホッブスからオースティンへと至る英国流俗流プラグマティズム精神が発揮されていると見てよいと私は思う。
 要するに私たちは私意識で親しい他者と接する時も、実はその親しい他者と私との関係を、それほど親しくはない、つまり無数の潜在的意志伝達同意者としての他者一般に適用し得る方法で理解しているのである。(このことを最も大きく体験論的に主張している哲学者は家族に対してさえエゴイズムを貫くスタンスを明示している中島義道氏である。氏は家族にまで精神的自由獲得におけるゲゼルシャフト的な意義を適用している。)つまり家族、知人を中心として親しい、近しい人びととは端的に無数の潜在的意志伝達同意者としての他者一般の極めて特殊な例外であると考えているのだ。これは無意識においては完全にそうである。ただ意識レヴェルでは私たちはそう考えない。家族、知人を中心として親しい、近しい人びとがいるから逆に無数の潜在的意志伝達同意者としての他者一般が成立すると考える。しかし恐らく私たちは言語習得する際に例えば両親が発話する様子を、親しい者としてではなく、寧ろ他者一般として客観的に観察していた筈なのだ。そうでなければ親しい者との間では別に言葉を使用しなくても一緒に暮らすことが出来るのだから、言語はいつまで経っても習得され得なかったであろう。私たちが言語習得する際に、明らかに外国人が日本にやって来て日本語を話す日本人のことを羨ましく思い、何とか必死に日本語の挨拶や語彙を覚えるように両親その他の家族や自分も住む近隣住民の話す言葉を聴いて模倣して習得するのだ。それは歌舞伎一座に生まれた幼児が、初舞台を踏む時に、親から指導を受ける際に決して自らの子どもだからと言って容赦しないで指導することと、それに対して幼児が親を甘える対象としてではなく一個の他者として認識して必死に舞台での所作を習得することからもよく理解出来よう。
 あるいはそのような努力は、大人になってからも継続する。例えば親しき仲にも礼儀ありという格言に見られる配慮とは言ってみれば、親しい者を疎遠な他人、つまり無数の潜在的意志伝達同意者の中の一人と見做すことによって、例えばどんなに親しい間柄である親子でも世話になった時には礼を言い、逆に仮に自分の息子が悪いことしたのなら、潔くその息子の非を主張して息子が迷惑をかけた他所の少年の前で「彼に謝りなさい。」と叱る親のような判断をも生むのである。つまり親しい間柄を尊重する時にもそれを他者一般のように見做すが、同時に非難する時もそれを他者一般のように見做すということである。つまりそれこそが責任倫理の発生の根幹をなす認識である。
 だから私が言いたいこととは、無数の潜在的意志伝達同意者としての他者一般に対して我々が持つ心理の根幹をなすものとして羞恥という独特の「構え」とは端的に他者一般に対する配慮、敬遠しつつ信用を全くしないのではない中間地帯での判断である。だから親しくなっていく過程とはその羞恥が異様な形で膨張し続けることを自然化するような他者一般に対する態度(私は例えば人ごみの中を徘徊するのが最近嫌いになった。)に適用されている羞恥的「構え」の払拭を意味し、親しくなっても礼儀を失わないということこそ羞恥の尊重であるということになる。

Sunday, October 25, 2009

〔他者と衝動〕10、経験と衝動

 通常些細な意地悪は、それが法的に逸脱していたり、悪質で精神的な打撃にならったりしない限りで容認されていると言ってよい。それは勿論程度の問題でもあり、主観的な問題でもあるが、少しくらいの皮肉を言われて酷く傷つくとしたら、寧ろ傷ついた方が神経症的に病理的体質の人間であるという判定が下される。と言うことはある意味では適度の意地悪を容認するという社会的策定とは、個人に内在する些細な悪意に対する免疫的能力そのものへの社会通念的な信頼があるということを意味しよう。
 それらは端的に人間的生活上での経験が、それくらいのことを気にしていては、生きていけないぞという暗黙の些細なことを気にしないように怒りを抑制する衝動、つまり大きなことと小さなことを区別する社会通念的認識力を構成する能力、つまり経験と衝動が結託した知恵というものを我々がある程度病理的ではない通常の個人に認めているということを意味する。そしてそのくらいのことを気にせずに生きていくということの規準は多少その人間の育ちの部分における社会環境、教育環境に左右されるだろう。しかし恐らく神経症になる寸前のところで大体の差異は解消されるものである。
 それは端的にどの程度の意地悪なら、もしそのことで酷く相手が傷ついて自殺でもしたとしても、意地悪をした者が非難されることを回避するかという通念を我々が形成することと関係があるだろう。もしそれくらいのことを言ったくらいで相手が自殺をしたのなら、寧ろそれを深刻に受け取って自殺した者の方により病理的欠陥があったのだと判定することを自然にするある程度の意地悪の許容量というものがあるのだろうと私は思う。もしそうでなければ我々は多少気まずい雰囲気において他者に対して神経を遣い過ぎるあまり息が詰まってしまうだろうし、また日頃全ての嫌な相手の態度に対して飲み込み我慢することで多大なストレスを感じ、果ては精神的にまいってしまうからである。だから逆に精神病理的体質の人間というのはこの社会的策定の前では生きていき難いということもあるかも知れない。しかし社会はその意地悪があまりに悪質でない限り、ある程度の不快な態度を他者から採られることに対して抵抗力と免疫を得ることを個人の能力として求めるものなのだ。そしてその能力に対する判定とは自己抑制力と、経験的に小さな悪意を受け流す知恵を身につけているか、つまり他者の悪意を増幅させないで適当に他者からの攻撃をかわしたり、他者に対してその者が持つ悪意を善意に変えさせたりするような機転があるかということであり、そのためにも小さな意地悪はそういう能力を醸成する上であった方がよいと通常多くの人々が感じる類のものである。つまり期待されるべきその能力とはそれが著しく欠けているのなら、寧ろ人格的にも問題がある、寛大さの欠片もない、悠然としたところの欠片もない、余裕の一滴もないと判定されるような性質の寧ろ人間的にも能力査定的にも敬遠の対象と化してしまうようなものであると言ってよい。だからこれはある程度そういうことで悩みのある人間にとっては克服しておいた方がよいものであろう。
 ただ難しいのは、こういう意地悪とはそれをする者にとって親しい者からは許されることでも、逆にそれをされる者にとって親しい者からは決して許されないという親密さから生じるエゴイズムと密接に絡んでくる、つまり感情論へと発展するという難点を孕んでいる。だからある意味ではどんなに些細な意地悪でも即座にいじめとか悪戯に転化する危険性を孕んでもいるとは言えるだろう。しかもその意地悪もあまり数度度重なると非難の対象と化すということもある。だから些細な意地悪は悪戯に転化しない内に寸止めしておく必要性が常に求められているのである。それは皮肉的で些細な言辞でも度重なると悪意に受け取られかねないのと同じである。そのような微妙な判定を成立させるものこそ経験と衝動が結託した心的作用であると言えるだろう。往々にして若者の一部には異様に相手からの揶揄的言辞に敏感な者が見受けられるが、そうかと言ってそういうタイプの人間に極度に非があるわけではないし、そういう敏感なところを強みとして活かして成功を収めているタイプの人も大勢いる。要するにそういう些細な他者からの悪意を深刻に受けとめないでいるということの収斂が人間にはある程度要求されているのだ、と考えればよいだろう。要するに経験による認知が衝動的な情動の焦燥感を紛らわすことが出来るということを本節で私が主張したいことなのだ。
 こういうことを考えてみよう。ある友人が些細な約束を守らないからと言って、その友人を必要以上に攻め立てることが大人気ないということは、その友人が普段からどのような約束も全て反故にするようなタイプの人間であるか否かということが重要な規準となるということは即座に了解されることではないだろうか?つまり大抵のことであるなら約束を守る相手に対して、こちらからもう一度頼めば済むことを態々別の他者にその者が約束を守らないでいることを執拗に告げ口するとしたら、そうする側の方の度量が小さいという判定を受けることになること必定である。要するに些細な他者の失点に対してある程度寛容になることがある意味では最も賢明な他者対人関係の基本であるかも知れない。
 私の見るところ多くの猟奇的な衝動無差別殺人事件の犯人の多くが被害者意識だけが異様に増幅されているということが常に気になってきた。彼らは総じて通常だったなら、大して気にも留めないことを異様に増幅して過大なこととして受け取る被害妄想者なのである。そしてそのような被害妄想へと自らを駆り立てるものとは、端的にストレス解消法の知らなさである。そして他者からの揶揄に対しての免疫力のなさである。だからこそ私は他者からの小さな悪意にある程度慣れろと全ての人に言いたいのである。勿論他者への悪意、例えば意地悪が執拗を極めるのなら、それを実行する者に非が十分にある場合もあるだろうが、些細な悪口くらいで一々深刻に受けとめていたのなら、逆にその者には何も言えないという雰囲気になってしまうと言いたいのだ。だから小さな悪意を感じ取ったなら、適度に応酬するくらいの抵抗力を見につける術も必要かも知れない。逆にそれに慣れれば、他者からの小さな悪意がユーモアとして受け取る心の余裕も身に付くかも知れないではないか。
 社会とはそもそも真に誠実な人間を歓迎するような場所ではない。例えば資本主義社会である以上、我々は生き馬の眼を抜くような過当競争に常に晒されており、そういう日常においてはよりシビアに現実を見つめ、時として他者を出し抜き、外部に対して不良であることを実践し、内部においては同僚や部下に対して叱咤激励するようなタイプの成員が待ち望まれることさえある。故に適度にシニカルで、他者の安っぽい善意とか責任を伴わない生半可な思い遣りなどない方がましであるとさえ思わせるような徹底した現実主義者の方がより尊敬を集めるケースが多い。すると簡単な揶揄に一々傷つくような柔な神経の持ち主は軽蔑こそされても、決して同情されることなどないと考えた方がよい。だからあるシニカルで意地悪な一言が仮に同僚とか上司からかけられたとしても、そう言われることに対して気の毒にと思われるよりは、そう言われても仕方ないなと思われる場合も多い。つまり社会とはそれだけの厳しい現実において展開しているわけだから、許される意地悪が飛び交うことの方が寧ろより効率とか潤滑油的な意味で自然であるという場所なのである。シニカルな言辞と、皮肉と、揶揄が正当とされる同意は、その都度のその言葉を吐く人間に対する実力的な評定が大きく左右する。敵対する者同士は寧ろ表面だけの褒め言葉によって埋め尽くされている。だから逆に真に味方である者同士ではささやかな揶揄、意地悪い一言は寧ろ対外的な戦略の前では、例えば言葉巧みに騙してくる本当の悪党に対してそれを見抜く眼を養成するためにも寧ろ有効であるとさえ言える。私たちは寧ろ許される限り皮肉と、罵倒を有効に活用すべきであるとさえ言える。つまり真意をそのような表だけを取り繕うことではなしに多少の荒っぽさを味方同士で示すということは、対外的な悪魔の囁きに対してそれがいかに真に思い遣りの欠如した言辞であるかをとくと知るために寧ろ必要でさえあるのだ。
 しかしそういったことを真に理解出来るということは、ある意味では経験的なことである。失敗と挫折を通過しない者には理解が難しいかも知れない。そして意地悪を適度に実践することで、逆に真に悪辣な底意地の悪い行動を慎むという意味でも適度の他者に対する侮蔑的表情、表現とは予防装置として、取り返しの尽かない失敗とか他者攻撃を緩衝し、抑制する一つの知恵ある衝動であると言える。

Friday, October 23, 2009

〔他者と衝動〕9、他者と良心

 他者と良心を語る時、それを語る者が他者に対して一定の配慮を示すことにおいて自らの幸福を考えるという基本がある。しかし例えばマゾヒズム的な快楽主義者の場合自虐的な快楽に幸福を求める、そういう極度に満たされない状態こそが幸福であるとする逆説的言説によって意志や感情を考える傾向があるから、当然例えば尿意や便意を満たすことではなくそういった生理的に自然な欲求そのものを限りなく我慢すること自体に愉悦を覚えたり、死刑が施行されるまでの一日一日を過ごす恐怖の日々そのものを求めんがために数人以上の人間を殺害したりするようなタイプの意志と行動を自らの欲求充足感と幸福追求において正当とすることすら可能なのだから、当然人間の幸福が自らの幸福と似たものを他者も求めるだろうという目算において成立する他者に対する配慮も、そのような異常な幸福追求と快楽の規準ではないものとして考えることは至極当然であると言えるだろう。(特異な犯罪者にとって他者に対する配慮はそういう異常性を持ち合わせている者にのみ共感するところからスタートする筈である。)だから他者と良心について考えるということは、社会的要請の全てを善であると認めないまでも、一定の範囲内の行動遂行に対する要請を正当のものとして認める特殊意志減圧の意志として自らに言い聞かせる部分があることをまず容認することが基本としてある。だから一定の原音楽的な任務遂行性が行動基準としてあるという行動意志と他者に対する配慮は密接なる相関がある。
 その前にではそのように良心を他者に対して採る態度として容認することを自然なものにすることを積極的に選択することであるなら、自らの幸福の規準を一般的基準からある程度確定的なものとしておかなくてはならないだろう。
 例えば人を差別することを常としている者こそ最も他者からの差別を恐れるという神経症的傾向を示すことがある程度真実を突いたものであるなら、自らの幸福の規準が極度に他者一般のそれと乖離しているのでない限り、その者が他者に対して示す配慮も強ち的外れではないということが言えるだろう。
 ではそもそも自らの幸福の規準を他者一般の幸福の基準との照応操作をすることが求められるということは、幸福一般の基準があることを意味するが、それすら恣意的な捉え方に依存すると言える。
 例えばこう考えてみよう。それを得ない不幸は、それを得てそれを失う不幸よりはましである、としよう。すると例えば結婚して子どもを儲けることが幸福であると取り敢えず認めて、それがなし得ない夫婦が不幸であると一概に決め付けられないのは、当然子どもを儲けた夫婦が理不尽な形で災害とか殺傷事件等によって愛する息子や娘を失う場合を考えればよく理解出来るだろう。要するに得たものを失うことによって得る不幸の基準は、何を得るかに拠る。例えば記憶喪失者はある意味では幸福であるともし言ったとしても、それは最低限の人格的な相同性、アイデンティティーの上で成り立つ全ての幸福を得られないのだから、記憶がある人が記憶と想起の能力を滞りなく可能とする事実が附与されていることの幸不幸の規準とはまるで異なっており、そもそも比較の対象にもならないだろう。まず幸福とはそのような最低限の能力が備わっていることからしか論じられないのだ。だから「あの人は記憶を失っているから、何でも自分にとって不都合なことをも覚えていなくてはならない我々よりもそういう部分では幸福だ。」と言ってみたところで、それはただ単にその記憶喪失者に対する憐憫が、その者の特権を敢えて見いだすという作為に基づいてなされているに過ぎず、それは価値判断としての幸不幸の判定では決してない以上、それを他者に対する配慮と見做すわけにも当然いかない。だから他者に対して良心を発揮するということはニーチェ的な意味での憐憫を払拭して自己が得ている幸不幸の規準の最低ラインをその他者も満たしているかということの是非をまず前提として必要とする。それが非であるのなら、そもそもその者を自らの幸不幸の規準で語る資格はないと言ってよい。だから他者に対する良心とは自己の立たされている状況とほぼ社会的要請に対して受け答えるレヴェルでは相同であると認識し得るような規準に立ってなされ得なくてはならないと肝に銘じるべきである。そうでないのならそれは同情であるに過ぎない。だからこそ他者に対する良心は、自らに対する良心の問題でもあるのである。
 だから他者に何か宣言する時それを言葉の力として効力を発揮するということは、その言葉を宣言することの意味と、意義がその他者に理解し得るということを前提としているだけでなく、その効力そのものに対する同意が最低限なされているということも前提している必要があるのである。
 かかる規準に対して合格ラインにあるということが、例えばジョン・ラングショー・オースティンの言説として有名なパフォマティヴという概念の有用性に対する認識を可能にするのである。しかしこのパフォマティヴが提出された背景には更に哲史的にも伝統的な一つの認識があったことを考慮しなくてはならない。例えばトマス・ホッブスの「リヴァイアサン」を紐解いてみよう。

 《無償贈与は、現在または過去のことばによって転移する》ことばだけであれば、もしそれらが、来るべき時にかんするものであり、たんなる約束を内容とするものであるならば、無償贈与の不完全なしるしであり、したがって私の権利がまだ譲渡されないで、私がなにか他の行為によってそれを譲渡するまで、残存するということのしるしである。しかし、もしことばが、「私は与えてしまったとか、私は明日ひきわたされるように、いま与える」というように、現在または過去の時についてのものであれば、そのばあいには、私は明日の権利が今日手ばなされ、それは、他の時についてのものであれば、そのことばの効力によってそうなのである。そして、velohoc turm esse cras とCras daboすなわち「私はこれが明日はあなたのものになることを欲する」と「私はそれを明日あなたに与えることを欲する」とのあいだには、おおきな意味のちがいがある。すなわち、まえのいいかたにおける「私は欲するI will」ということばは、現在の意志の行為をあらわすが、あとのいいかたにおいては、それはきたるべき意志の行為についての、約束をあらわすのであって、したがってまえのことばは、現在のものであるから、未来の権利を譲渡し、未来についてのものである後者は、なにも譲渡しないのである。しかし、もしそこに、ことばのほかに、権利譲渡の意志のしるしがあれば、そのばあいには、贈与は無償であっても、その権利は未来のことばによって転移するものと理解されうる。ある人が競争の決勝点に最初にくる人に賞を与えようと提案するように、贈与は無償であり、そしてことばをそのように理解されたいとおもわないならば、かれはかれらをはしらせなかっただろうからである。((一)水田洋訳、岩波文庫、223~224ページより)

 ここでホッブスは明らかに他者存在一般に対するある特定の個人に対して抱かれる贔屓感情を度外視した私的な動機による良心を公的に表明するということに内在する約束とか約定ということが、社会的なその発言者に対する人物評定ということに直結するようなタイプの認識を生じさせることについての真理を言っている。それは私的な満足(良心の発動による)が、公的に私的欲求が認められることを社会そのものが容易に容認することを個人が期待する権利として享受することにあるとする一般的な価値基準に基づいている。それはそう率先して行為する贈与者の公的な良心の発動によって具現化される幸福感を個人が享受する権利が、公的な贈与として社会的に有益に機能する限りで大いに認められるという社会判断に依存する限り制限されるべきではないという公的良心の定義として位置づけられている。重要なこととは、幸福ということの規準が、ここでは公的な了解とか総意とか、社会一般の良識とか通念ということで考えられているということである。
 しかし幸福ということの規準とは実は、それが他者に対して迷惑とか社会的な害悪に該当しない限りで、極めて個人毎にその判定がまちまちで、個人の主観に依存しているというもう一つの決定的な真理を無視する限りで有効であるに過ぎない。
 勿論他者に対して幸不幸の規準を同一のものとして推し量ることを一般に公的に容認された社会制度でもある結婚の例に喩えると、当然既婚者同士、独身者同士という共通項によって比較することしかなし得ないだろうが、ここで仮に既婚者の幸福の内容が、人によって子どもを育てることにあるとしても、あるいは夫の収入の源である職場での出世とそれに伴う社会的地位に安住した生活にあるとしても、子どもも仕事も眼中になくまして良妻としてよい食事を作ることでも作って貰うことでもなく相互に性愛の秘儀に熱中することであるとしても(カントが他律と言ったことの内には性欲ということもあるが、この場合それより高次の性的パートナーに対する性愛的な奥義という意味でである。)相互に異なった価値基準である以上恐らく同じ既婚者同士でも同一の幸不幸の判定をすることは不可能である。どのタイプであっても、子どもがいない夫婦に対して子どもを育てることだけが幸福の評定規準の夫婦は不幸であると断じるだろうし、安定した高水準の社会的地位に伴う社交の満たされない夫婦は、仮に子どもを持つことによって得られる幸福が満たされている夫婦を見ても羨ましいとは終ぞ思わないだろうし、性愛の秘儀を追求する夫婦にとって、他のいかなる家庭的幸福を得ている夫婦があったとしても、自分たちの方を常に上位に感じる以外にはないだろう。だから同一の価値基準を持つ者同士が他者に対してする宣言でない限り、その宣言の有用性はとんと理解され得ないということがまずオースティンのパフォマティヴには顕著に示されている。
 しかし問題なのは、そもそも私という意識も自己意識も、自己身体意識も、他者存在に対する覚知と、その存在に対する羞恥による衝動から喚起されるモラル意識、アンチ・モラル意識だとするなら、一つの夫婦関係というものの在り方に対する価値基準は、全てそれを成立させる衝動によるものでもあるということだ。他律的生き方も、自律的生き方も同じ範疇のモラルを通して見る生き方から喚起される衝動の様態の一種でしかない。宣言というものは確かに規制緩和が正しいとする政治家と、規制を設ける必要性を主張する政治家とでは、そのスローガンやマニフェストを叫ぶ対象となる大衆とか民衆とか国民とかの性格は自ずと異なってくるだろう。そのような意味で夫婦の在り方とか、結婚生活の在り方だけでなく、友情の在り方、仕事関係の同僚とか関係者同士の人間関係的考え方まで全てそういう規範を設ける存在者たちによるその都度判断をし、自分の判断を正しいと思わせる衝動である。つまりそれら全ての連動を指して我々はたまたまそれを自由意志という名で語ってきたというわけである。
 だから良心という衝動も、羞恥の尊重においては情動的良心の発動を潔くし、羞恥の払拭においては自由論的、理性論的良心の発動を潔くするかも知れない。前者はより友愛協調的な感情に彩られ、後者はより公正的態度と個人的感情抑制的もう一つの感情に彩られていると言えるだろう。つまり良心の在り方を巡る衝動そのものもまた、他者に対する私の側からの認識、他者性格判断、他者一般の中でその態度を差し向けるべき他者像の在り方を巡る判断が大いに関わっている。つまり衝動というのは、羞恥同様、情動的なものでさえ判断レヴェルの認識に深く関わっており、逆に認識主体的で、理性論的判断においてさえ抑制的情動と感情的な傾向性にも深く関わっていると言うことが出来る。と言うのも他者存在の在り方そのものが接する他者毎にも、同一の他者においてもその都度の気分や判断や認識の仕方の衝動によっても異なるからである。つまり特異な判断というものが正当な判断、常套的な判断と抱き合わせとなっているという意味で、常識的判断というものも特別扱い的判断と抱き合わせであるし、そうであるからには、情動と知覚、感情の経路のように、認識と判断、あるいは論理思考と非論理的感受の相反するようなもの同士は常に抱き合わせであると言えるからである。
 すると言語化し得る意志というものは、言語化し得ない意志という広大な領域の中のほんの一部であるという見方も成り立つ。言語化し得る意志というものもまた一種の衝動ということになる。言語化とは理念化でもあり、論理化と言ってもよい。例えば全ての実在とは逸脱体である。その逸脱体の中でも一際その時々の支配的な気分の傾向によって魅力的に映るものだけが時として名誉的称号=正当として位置付けられるだけのことである。実際は非言語的意志(例えばモーツアルトが楽理習得以前の幼少期に既に音楽的な非認識的意志<表現欲求>を携えていたことに象徴されるようなものとしての)の中の特定の一部だけが言語化され得、それが論理的正当となり、理念化するのだ。だから前言語状態としての非説明的な意志伝達欲求こそが意志の根源でもあると言える。だからその中でも特に顕著にその時々の気分を代表しているもののみを抽出してそれを理想と化しつつ、正当とすることそれ自体もまた、一種の言語化したい反省的意識の下で認識したい一つの固有の衝動でしかないのである。良心とはその中でも一般化し得るものとは一体何なのかということに対するその都度の返答なのであり、それは私という意識、あるいは自己身体とか自己領域といったものをその都度の他者との関わりの中から形成するプロセスでそういう恣意的な意志を産出する他者存在を、その都度の固有に接する他者から像として顕在化させてゆくことの中にある固有の羞恥と密接な衝動、つまり具体→一般という経路を辿るその都度の判断なのである。しかしそのように経路を辿るということの内には言語化する欲求と衝動、あるいは理念化する価値規範産出的な欲求と衝動、論理的枠組の形成という欲求と衝動が控えている。つまり良心とは存在者としての我々が羞恥そのものを保持しているが故にその事実を容認することを他者にも強いる要請であると同時に、羞恥を隠蔽することも同時にするような他者に対してなされるポーズへの同意(あなたも私と同じようにそう望むのならいっそ協調しましょうという)の要請なのである。だからこそ良心には理念として固定化させ続けることをこちらもあちらも望むような性格があり、実はその理想の雛形とはその都度少しずつ書き換えられ続けていることを直接明示するのではなくそれとなく暗黙に了解し合うという意識を他者と共有し合うことでもあるのである。
 なぜそのようにそのように相互に暗黙にその固定化を望むのかと言うと、それは端的に他者というものの存在が常に私にとっても向こうにとっても、即自的なものではないということに尽きる。つまり私たちはゾンビという観念を発生させたことの根拠に、それが即自的なものでは決してあり得ないという直観が横たわっているのだ。恐らく良心とはそのような直観によって支えられた、即自ならぬ存在者に対する条件反射的な反応なのかも知れない。それは「そうしないとまずいかも知れない」という他者存在という気配そのものに対する無意識の返答なのである。何故なら他者にも強要し得るような性質のものは、向こうもまた恐らく私に対して同様の請求をなすであろうという目算を私が即座に成立させるようなもの以外ではないからなのだ。強要し得ることとは必ず向こうも同意するものでなければならないが、そのなければならないという考えは、直観的な判断によるものであり、思慮を必要とするようなものではない。哲学でそのこと自体を思慮するということが逆に、それを日常において実践するということの内に何らの思慮も必要ない、いやそれがあったのなら寧ろ実践に支障をきたすものであるという性質があるのである。だがこの直観こそが、先述のホッブスのような贈与に纏わる社会的私的幸福の享受が公的な良心に基づいてなら容認されるという世間一般の良識を生む土壌でもあると言えるのである。
 実際には社会には公言すれば非難されるのに、それをしさえしなければ容認されるような態度とか心持というのは多く存在する。その一つが悪戯に至らない、しかもいじめともつかない意地悪である。
 これは端的に良心の発動を持続することで我々が得るストレス解消のために社会成員の多くが一般的に悪質過ぎない限り暗黙に容認し、それをすることを直ちに悪と決め付けないことに対して同意している策定である。このことについて次節で詳述しようと思う。

Wednesday, October 21, 2009

〔他者と衝動〕8、記憶と経験

 羞恥は他者存在に対する意識によって顕在化することは分かったが、ここで他者存在と羞恥を結びつけるものとして記憶を考えることは重要であろう。そして記憶とは外在的事物や現象に対する認識を生じさせながら、固有の出来事に付帯する像の集積によって形成されている一般的傾向に対する理解と抱き合わせであると言える。それは自ら主体的に外部の存在に働きかけることを通して得た体験的事実に対する記憶によっても促進される。つまり経験と記憶とは相互に依存しているのだし、フィードバックの関係にあると言ってよい。また記憶は絶えず言語化され続けてきており、経験もまたその経験によって得た教訓という形で常に言語化され続けてきている。経験とは端的に固有の出来事に対処したことの記憶である。だから経験を伴わない記憶というと、ただぼんやり眺めていたということになるだろうが、眺めるということも一種の消極的な主体的行為であり、経験である。知らされるということもそうである。要するに記憶することを促進するものとして経験としてある行動を、ある行為を認識する能力が我々にあると言ってもよいし、経験とは記憶された行為の一連の総合化によって得られる認識でもあるし、実際的な行為事実が身体的にその際の細々として感性的な記憶を我々に得させているのだから、経験は行為事実と行為する際の感受的な記憶によってより明確な実存的認識を得ると言ってよいだろう。
 羞恥の在り方は記憶に内在する成功体験とか失敗体験に依存していることが多いと言えるかも知れない。同じ他者に対してより多く羞恥を抱き、その羞恥を払拭し得ないとしたなら、我々はその他者に対する意識が強いと言ってよいだろう。それは我々がその他者との遣り取りからより強烈な意思疎通上での齟齬を感じ取ったが故に生じさせる「構え」を顕在化しているということである。その際に体験的記憶が即座に想起されるような条件反射的な意味づけがその他者に対して知覚レヴェルでもなされているわけであり、それはその他者を巡る経験則となっているということの現われである。
 しかし積極的行動であれ、消極的行動であれ、それが意識的であるか否か、つまり意図的であるか否かはまた別の規準になる。そこで記憶が意図的ではないということは、例えば一度見た顔というのは覚えている筈だし、それを咄嗟に思い出すことはあっても、その顔が自分の自宅近辺の近隣住民であるのか、勤めている会社の近くで見た人なのかということを思い出せないということからも明白であるし、経験というものもまた、自転車の乗り方を知っているということは足をペダルに乗せ、扱ぐことが言葉によって説明し得るということとは違う。例えばパソコンを考えてみよう。我々はパソコンの前に座り、キーボードを叩きワードを打ち込む段になって初めて各文字のキーを手によって思い出し、一々意識してそれを叩くことなどない、だから逆に一々ある文字(例えばG)単語のキーがどこで、どのキーの隣であるかなどと口で説明しろと言われると窮することとなる。つまりそれらは一体身体的な記憶として言いようがないのである。そういう行為にも積極的と消極的という差はある。
 そこで反射的に他者の意見に追随する時我々が採用する行為選択的な基準をまるで音楽に合わせて身体を動かすようなので、原音楽と呼ぼう。逆に反射的に他者に対して畏怖の感情を巣食わせる時、それはよく知る他者の意外な面を知る時、あるいは一度も会ったことのない他者が突如自宅を訪れる時、映像越しにその者を自宅内で確認する時に咄嗟に抱く警戒心のようなものを原羞恥と呼ぼう。この二つは連動しているし、ある時には協同するし、ある時には離反し合う。気心の知れた友人との対話には原音楽的行為選択が援用されることが多いだろうし、よく知らない部分の多い他者に対しては我々はより原羞恥を採用する。しかもそれらは常に無意識的になのである。勿論意図して原羞恥を採用することもあるだろうし、理解出来た他者に対して意図的に原音楽を採用することもあるだろう。しかし意図的にそうであるということは原音楽においても原羞恥においても、より羞恥レヴェルが強いということを意味する。真に信頼しきっている相手に対して我々は常に原音楽的であることが極めて自然である。それは勿論よく酒を一緒に飲む相手と酒を飲む時にであり、その者と議論するとなると話は別であるし、逆に議論することに慣れている相手に対して議論する時には原音楽的に振舞う(それは対立した意見を言うことすら信頼して相手を論駁するという意味である。)し、逆にそういう相手と初めて酒を飲む時には原羞恥が突如呼び起こされるだろう。議論も出来て、しかも酒も共に飲める相手というのはごく限られている。それら一切は全て記憶としてインプットされた他者像をその都度引き出しているのだし、そういった各個人毎のデータファイルとその内容はその他者に纏わる出来事と、その他者との一件(会話や対話その他共同作業等)における独自の、つまり他の他者との間にはなかった共感や反感といった感情レヴェルから、仕事とか作業の進行具合といった経験的事実(勿論そのことに対する記憶)に拠っている。  
 「意図的にそうであるということは原音楽においても原羞恥においても、より羞恥レヴェルが強いということを意味する。」と私が言ったことは極めて重要である。つまり私たちは羞恥を払拭するということの内に勇気を持つべきなのだとしたら、そういう他者と努めて親しげに接するということの内にl強烈な羞恥があると言ってよいだろう。従って本当に心が打ち溶け合っている相手とか仲間に対して我々は原羞恥を抱くことなどないと言ってよい。勿論最低限のそれは保持されていよう。しかしそれは極めて稀少なものでしかないだろう。そういう相手とはツーと言えばカーとくるわけだから、必然的に原音楽が自然な形で形成される。しかしそうでない相手とは羞恥を払拭して原音楽を構成しようと欲するのだから、必然的に原羞恥の範疇で擬似的に形成される原音楽と呼べる代物にその度毎に縋りつくという状況が生まれる。このことは接する相手に対する羞恥レヴェル、警戒レヴェルによって大いに異なってくるわけだから最重要であるし、それもまたその他者像というものが基軸となるし、その他者像とはその他者を巡るエピソード記憶に拠るところのものである。そしてその対他者記憶とは、端的にその他者を巡る像を形成する根幹となる私にとっての身体情動的な経験であり、経験記憶である。記憶には経験が必要であり、それなしには記憶という脳内の作用はあり得ないし、経験には必ず記憶が伴われるものなのである。
 ここで自由意志論と本論との関係について考えてみたい。脳科学や心理学では既に準備電位というものの存在が明らかにされ、要するに我々が何かを意志する前に脳では前段階としてその意志を発生すべく準備しているということなのであるが、では我々には自由意志の一欠けらもないのかというと、それも違うと言えると思うのである。要するにこういうことである。私がこの論文をパソコンで打って入力する時、私の指は一々私の意志によって動かされているというよりは、身体的な記憶と結びついているだろう。しかしその身体的記憶を引き出しているのは、さっきまでベッドで寝ていて、目覚めその時考えていたことを早速パソコンに入力しようと私が思い立った意志である。つまり脳内の準備電位を有効なものとして活用しているのは、私の日常的な意図、つまり生活において私がなすべきことと心得ていること、つまり自由意志である。だから身体記憶を慣用することを通して何らかの目的を遂行する限りにおいて自由意志論と脳内での準備電位を両立し得る。しかも自由意志とは、端的にその時々の私の生理的状態とか健康状態、及びそれと不可分の、あるいはそれらをも構成するその時々の衝動に左右されているし、あるいはこう言った方がよいと思われるが、他者に対する羞恥の在り方、その羞恥を呼び起こしているその時々の私の衝動の在り方そのものが私の意志なのである、と。だからモラル論的な自由意志と本論での衝動と羞恥の他者存在による私の存在という覚知とその維持と、意識そのものが行動を言語行為を誘発するような意味での私たちの在り方とは両立する、と言うより寧ろ一つのことを別の角度から見て判断したものであると言ってよいだろう。そしてその両立を成立させるものとして私の日常的意志そのものの記憶と、その意志を顕現させるものとしての私の経験とその記憶が私を自由な存在として位置づけると同時に、私をその都度の衝動によって、意志を顕現する在り方を変えもすると言えるのである。何故なら今現在このパソコンを入力している私は、さっきまでベッドで睡眠を取っていたが、そうではなくずっと起きて本を読んでいたなら、今私はこのようにパソコンに文字入力しているというわけにはいかなかったかも知れないからである。だから経験とその記憶という考え方からも、あるいは記憶によって構成されている私の経験という考え方からも、その時々の私の細々した意志と、もっと大局的な目的的意志とが交差したところの私において、その時々の細々した意志を発動させる衝動は、私の記憶と経験による生全体の大局的意図とか意志をより有効なものとし得るように準備されるのだが、その準備を滞りなくするものもこの全体的なシステムである羞恥と衝動とによる意志活性的な円環構造であると同時に、私の生全体の自由意志であるとも言えるのである。

Monday, October 19, 2009

〔他者と衝動〕7羞恥と記憶(衝動と記憶と共に)

 羞恥は払拭するも尊重するも、感情のバロメータである。だからそれは行動の際の意思決定の合理化、つまり決心の構造とも深く関わる。そこで本節では行動に纏わる動因として羞恥を考え、行動そのものがどの程度の積極性であるかということに注目してその段階毎の内的な羞恥に対する心の在り方を巡って考えていってみよう。
 まず次のようなことが考えられよう。

 ① 積極的に積極的行動に出る選択衝動→羞恥の能動的払拭<迷い、逡巡なし>
 ② 消極的に積極的行動に出る選択衝動→羞恥の控え目な払拭<迷い、逡巡あり>
 ③ 消極的に消極的行動に出る選択衝動→羞恥そのものに丸ごと取り込まれる<控え目>
 ④ 積極的に消極的行動に出る選択衝動→羞恥の尊重<配慮>

 そこでこれらが何故衝動足り得たかということについて記憶との関連で考えてみると、
次のようになるだろう。

 ① ああしたのでああなったという成功体験に対する記憶から、あるいは結果はどうなるか分からないが、そうするしかないと、かつてそうしようと思ったが踏み止まったことに関する後悔があるので今回はそうしようと決意する。(成功体験の記憶か思いとどまった記憶により雪辱を晴らしたい)
 ② 一か八かやってみようという決意(今まで一度も思い切ったことをしてこなかったという後悔)
 ③ 何をしても巧くいかなかったという思いから、何もすまいと決意する(成功体験の皆無の記憶)
 ④ ああしたからこうなったという失敗体験に対する記憶から、その二の舞だけは踏みたくはないということから決意する。(失敗体験の記憶)

 しかしこのような成功体験とか失敗体験といったものをそのように意味づけるものはその都度の記憶の在り方とその都度の感情である。積極的であるとか消極的であるとかの程度の差も、その都度の感情は言うに及ばず、行動に巻き込まれる他者の私の行動に対する反応如何によって変化してゆく。あるいは一つの行動の意味は前記した二つの全部に常に該当するくらいその見方によって変化し得る。そしてその見方とは、私がどの他者と接することによってその他者との関係でその行動の意味を探るかによってなのである。
 私の記憶とは端的に私にとっての他者全てに対してその都度変化し得る。一つの会合に出席した者同士が再び別の日に集まるとしよう。すると私は前の時に同席したAとB二人と個人的にその時の会合でのCの発言を想起しつつ、陳述したとしよう。するとその陳述時には、Aとの対話の時と、Bとの対話の時とではまるで異なった様相で過去事実によって想起され得るし、その想起されたCの発言時に私が抱いた私の感情の意味づけをその都度まるで異なった様相で要求する。そしてAとの対話におけるCの発言に対する存在理由と、Bとの対話におけるCの発言に対する存在理由とは、その意味も様相も志向性も全く異なったものとなるだろう。そして更に後日私がAと交した陳述と、Bと交した陳述を想起する時にはまるで異なった感情を喚起するだろうし、まるで異なったCの発言に対するその時の感情をその都度喚起することは言うまでもない。
 本来他者の像とは常に可変的であり、しかも全体というものを取り結ぶことなどない。何故なら私にとってどのような他者でもその他者と接する時にその他者が私に見せる像を中心にしかその像を結ぶことなど出来はしないからである。私はAと会う時、Aがいつも見せる笑顔や言葉遣いや、会話の口調や、表情によってAの像を勝手に私の内部で構成するし勿論同じように恐らくAは私に対して私の像を構成するであろう。しかし私は恐らくBと接する時にはまるで異なった笑顔や言葉遣いや口調や表情をしている筈なのだ。当然AはBと二人でいる時と私と二人でいる時には、あるいはBはAと二人でいる時と私と二人でいる時にはまるで異なったそれらを携えている筈である。そして個々の他者に対して私が抱く像は勿論時間と共に変化してゆくわけだが、その変化はあくまで私が知る彼らに対する像であるという範囲を超えることは決して出来はしない。
 私は要するにAに対してもBに対しても、私と二人でいる時、あるいはその限定された構成員全員でいる時に限定されてしかそのAの採る態度の全てを知ることなど出来はしない。よってどのようによく知る他者であっても、私が知るその他者ということでしかないのであって、私が不在な時にAやBが私のことを話題にすることがあるにしてもないにしても、私が不在な時に見せる彼ら全員の態度は、私がいる時とでは自ずと異なっているだろうし、それはどのような成員においても恐らく(その成員にとっての<他者の顔ぶれ>の在り方全てに対して)該当する。
 つまり羞恥の在り方、あるいはその都度の羞恥の様相や、それらに対する記憶の仕方、想起の仕方とは成員の顔ぶれ如何によってもだが、その成員の態度の志向性、性格によっても常に変化し得る。よって羞恥と記憶の連関作用とは、他者像の在り方の連関作用(過去のAに対する像と現在の像)、あるいは他者個別の像間での連関作用と常に並行している。そしてそれらはある時には対応し、ある時には無関係を決め込むことだろう。何故なら羞恥と記憶は常に自分にとっての他者とか自分ということであるが、他者像の在り方とは、自分にとっての他者に対してであると同時に、自分にとってということと関わりなくその他者が世間一般で見いだす存在理由に対する評定ということが絡んでくるので要するに実存的であると同時に超越的でもあるからである。この超越的であるということは、端的に「我」とか「私」が超越的であるということとは性格が異なる。
 羞恥はしかし記憶と同時に衝動とも連動している。衝動は羞恥を発動させるべく常に待機していると言ってよい。しかも衝動は言語行為つまり発話行為を誘発しもする。言語意志と衝動は一種の抱き合わせ関係にあると言ってよい。言語行為はそれ自体で一つの行動である。そして言語それ自体、例えば言語構造、例えば統語秩序とか語彙とかイディオムとかがそれ自体衝動を誘発するのである。そして重要なこととは、言語行為はそれ自体で他者を必要とし、他者存在は衝動を誘発するし、他者存在は言語を誘発するので、当然他者‐衝動‐言語という三角形が構成されるのだ。この三角形は羞恥と記憶と連関している。衝動は記憶に誘引されるし、羞恥と抱き合わせである。そして他者存在は羞恥を喚起するし、記憶によって他者の像を取り結ぶし、他者の像は他者一般に対する記憶と、特定の他者に対する記憶とによって構成される。言語は側頭葉による記憶に依拠しているし、言語行為に赴くこと自体に羞恥を介在させる。他者存在と言語は記憶と羞恥を介在するのである。

Saturday, October 17, 2009

〔他者と衝動〕6、他者と記憶

 ここで他者という存在に対して人間にとって自己とのかかわりを、主に記憶の問題から考察する段階にきた。そこでそのための指針として幾つかの共進化的な事項について考えたい。
 まず思考回路としてそれが自然であるということを思惟の自然であり、それが実在するかどうかという判断を自然の自然としよう。だから神は思考上では自然であるが、実在を証明するとなると困難であるという意味では思惟の自然による概念であると言える。
 また創造はある可能性の開示であると同時に、創造されたものを前にした時決定であるので、別の諸可能性に対する封印であるとも言える。だから創造とは支配と共進化するものであると言える。
 また責任は公的な価値規範であるから、当然その責任を負うこと、つまり義務を履行することを通してその報酬として権利を得ることが出来、その権利の享受という意味では個人主義(プライヴァシー)というものは責任と共進化するものである。
 また意味とはその意味を成立させる人間の事象、即自、対自全般に対する感情が不可欠なので、意味と感情は共進化するものであると言える。
 ここで幾つかの事項が共進化するものとして浮上した。纏めると、創造‐支配、責任‐個人主義、意味‐感情となる。
 さて神による支配という想念は我々に、では自由とは何かという思念を発生させる。そして自由という観念は主体的行動というものを想定させる。また神による創造という想念は神による被造物という因果関係を想定させる。従って主体的行動はその対極にある因果関係と対となり得る。従って主体的行動(あるいは自由と言ってもよいが)‐因果関係という共進化関係が生じる。
 あるいは責任は道徳と密接であるし、また個人主義も同様であるから、道徳と責任の連関において他人には迷惑をかけないという意識が生じるように、道徳と個人主義の連化において友人や知人(ただの他人ではない人)に対する思い遣りとか配慮という意識が生じるので、<他人とは赤の他人であるとすると他人に迷惑をかけない‐友人、知人に対する思い遣り、配慮>という共進化関係が成立する。つまり<公共的な道徳‐個人的な愛する人への感情>という共進化関係である。それはしかし別の意味では<他者からの傍若無人に対して耐え忍ぶ、怒りを飲み込む決意‐他者の傍若無人に対してものともしない怒りを表出する勇気と知恵>という共進化関係を形成するということでもあり得る。
 意味‐感情については、概念というものがかかわる。概念はある事物、事象、つまりあらゆる即自、対自に対する感情の不動点、安定、決定である。だから概念と我々が言う時、その概念が設定されてゆくプロセスを前段階として想定することが可能である。だから概念は変更される可能性を常に孕んでいるようなある意味と感情の間の暫定的な決定であると言える。
 言語を品詞的に認識すると、名詞は決定や決断を示し、動詞は過程や説明を示す。だから何かを理解するということは、その理解されるべき対象における背景と主体、要するに空間的、時間的因果関係が想定される。そこで理解‐因果関係という共進化関係がここで新たに成立する。当然その共進化を説明し、努力(過程)し、納得(決定)するという意味で動詞‐名詞という品詞間の共進化関係が成立する。
 これら全ては記憶と経験がかかわってくる。ここで経験は記憶に含有させて考えることとしよう。
 創造‐支配、責任‐個人主義、意味‐感情は、全て他者とかかわる。他者とは友人、知人と赤の他人とを合わせたものと考えてよい。主体的行動は創造の一つであり、主体的行動は必ず他者を巻き込む。それは相互にそれがなされる時、支配‐被支配=能動‐受動という共進化関係にあると言ってよい。故にそれは他者と密接であるし、責任も個人主義も同様に他者との相関に成立しているし、意味‐感情も意味は他者と共有する欲求から概念を招聘するのだし、感情は他者と共感、反感するということで成立している(それはカントの「判断力批判」が参考になるだろう)。
 これらを他者との関係において考えていくと、明らかに創造は創造された状態(支配が完了した状態でもある)を想定してなされる限りにおいて記憶と密接であるし、責任も個人主義も履行し、実現され得た状態を想定しているので、記憶と密接である。意味も感情も意味された状態やあること・ものに対して得る感情を前段階において認知しているが故に今現在の状況において再び持ち出される、あるいは今の感情がそれまでにはなかったものであり、今感受している意味が未知のものであったとしても尚既知であることとの対比において捉えられる限りでそれらは総じて記憶と密接であると言える。あらゆる初体験とは体験されて知る状態を他方所有している限りで得られるものであるという意味では記憶は全てに密接に関わっている。肯定的な感情も意味も、否定的なそれらも必ず記憶との関係において捉えられるのである。
 家族であれ、親族であれ、友人であれ、知人であれ、同僚であれ、恩師であれ、上司であれ、先輩であれ、部下であれ、後輩であれ全ての他者はそれらのカテゴリーに属するべき像を持つ他者対象として記憶という前提に乗っている。他者の像とは他者に対する記憶に支えられている。
 しかしこうも言える。昨日会った時上機嫌だった私の友人は今日は心なしか憂鬱に見える。このように私にとってその友人の像とは刻々と変化し続ける存在としてただの一瞬たりとも固定したものであるわけではない。つまり像とは不変な要素を幾分かは常に保っていると同時に常に変化し得る部分をも保っている。このことは時間の経過における変化と不変化にも言える。サルトルは「存在と無」において第一章 否定の起源中Ⅴ無の起源において「(前略)未来の私の存在と、現在の私の存在とのあいだには、すでに一つの関係がある。しかし、この関係のふところに一つの無が滑りこんできている。私は、私があるであろうところのものでは、いまはあらぬ。それは第一に、時間が現在の私を未来の私と切り離しているからである。第二に、私が現にあるところのものは、私であるであろうところのものの根拠ではあらぬからである。最後に、現在のいかなる存在者も、私がまさにあろうとするところのものを、厳密には決定しえないからである。」と述べているが、このことはサルトルを非決定論者であることを決定づけているが、同時に衝動を持ち出す可能性を正当化する。つまり衝動は常に変化し、変化することで因果を否定する。従って今の私とは根本的に過去の私とは全く別様であり、将来の私とも同様である。と言うことはある意味で衝動というものは、過去から一貫した私の像というもの、あるいは私によって抱かれる他者の像というもの、あるいは将来あるべき姿としての私や、私にとっての他者、あるいはその像と拮抗する。対立する。つまり衝動は常に記憶の一貫性と対立するのである。
 しかしまたこうも言える。三年前に私が友人と出掛け旅行の日程に対する記憶や、そこで起こった出来事は私と私の友人が生きている限り変更されることのない固定した事実内容であり得るが、その後の三年間の間で私と彼との間で起こった出来事や記憶とによってその三年前の旅行の意味、あるいはその旅行そのものに対する私にとっての感情的意味、彼にとってのそれは刻々と変化し続けてきているし、これらかも恐らくそうであろう。少なくともどちらかが死なない限り。
 つまり記憶された事実認識そのものは常に不変であるが(忘却することがない限り)、その事実と今との関係、つまり現在を中心として事実関係による記憶された出来事の意味とそのことに付随する感情は常に変化し続けているし、これからもそうであろう。だから今現在の衝動という意味では記憶内容の不変にかかわらず、記憶事実に対する感情は常に変化し続け、変化し得るが、それはある意味では過去の事実、例えば三年前に私が友人と出掛けた旅行の日程と、行き先ということが固定化し、流動化し得ないという事実によって支えられているとも言えるのである。
 だから衝動というものと記憶というものは常に離反的であるとも言えるし、対立軸であるとも言えると同時に、共同的であり協力的でもあり相互補完的でもあると言えるのである。それは私とその友人との間の友情とか対人関係が常に相互に相手の個人主義を尊重し、絶えずある一定の距離を保持し続けてきていると同時に、共犯関係的な共同、共存であるという意味で空間的にも時間的にも両義的であるのと同様である。
 だから他者に対する私の記憶も、恐らく他者から私に向けられた私に対する記憶も、共にその時々の衝動という可変性と共に、私とその他者との不変的な過去の事実とその記憶(過去の事実とはそれに対する記憶なしには何の意味も持たない)との共存によってのみ意味を保つということが出来る。記憶された固定化して不変である事実関係のないところでは常に変化し続ける感情やらその時々の衝動というものの意味も存在理由も生じ得ようもないのである。要するに衝動というものはある部分で常に一瞬たりとも相同ではないという形で極めて気紛れであるのにもかかわらず強力に記憶の不動性、事実関係の不変性というものを欲し、それらによって常に補強されてもいるのである。だから端的に記憶とその不変的事実、あるいは固定化された像というもののないところでは同時に衝動も決して成り立たないということが出来る。ここで新たな共進化関係が成立し得た。それは衝動‐記憶である。
 このことは次節における<羞恥と記憶、衝動‐記憶と共に>でより新たな関係と相貌の下で再び詳細に考察され得ることとなるだろう。だがその前に今節において私は衝動と記憶の相関性における他者性というものをもう一度考察する機会を持とうと思う。
 他者に対する私の印象は刻々と変化し続けている。しかしその変化というものは常にその他者に対する私の変わらぬ第一印象とか、ある出来事によって固定化された私にとってのその他者の像、つまり記憶内容に支配されているとも言える。それは私が私自身に対して抱く私の像にも言えることである。
 私は常日頃私自身勇気がなく、意気地がないと心得ているが、ある日突発的に衝動的と言ってもよい積極的で例えば私にとって屈折した対抗すべき他者に対してアグレッシヴでさえある行動に出たとする。すると私の中にずっと巣食ってきていた意気地のない私という像はある意味ではその瞬間から変化を強いられる。あるいは逆に私は常に他者に対して配慮を欠くずうずうしさを保持しているという反省を私が私自身に対して抱いているとしよう。すると逆にその事実が次の他者に対する言動において極めて繊細な配慮を持って臨んだとしたなら私は私自身に対する他者に対する配慮に欠けた態度の人間であるという評定とか固定化した像に対してある種の変更をすることに躊躇しないであろう。そう認識することによって私は私自身の私に対する自信のなさと自己嫌悪を克服することが出来る。同様に私が私にとっての全ての他者に対して抱く先入見とか、像それ自体も常に変更され得るものとして新たな私の中の像というものは修正され得る対象としても存在し続けている。それは端的に常に不動ではあらぬ、つまり変化し続けるものでありながら、そうであり得るのは、それらはある固定化した印象においても評定においても決定された像というもの、つまり固定化し、変化することのない個々に固有の過去の事実に対する変わることのない私にとっての記憶があるからでもあるのである。
 だからこうも言える。私にとっての他者に対する記憶とは常に私自身の変化と変化しなさに影響を与えられずにはいられないと同時に、私自身にとっての私に関する記憶とは常に他者と私の関係の変化と変化しなさと同時にその他者そのものの変化と変化しなさとに影響を受けずにはおられないのだ、と。
 だから他者と記憶の問題とは常に私と記憶の問題が常に他者と記憶の問題と等価であるような意味で、私と記憶の問題と等価であるのだ。もし私がある他者との関係そのものに対する感情と意味を変えずにいるとしたら、その他者の像というものは常に変わらずにそのままであろう。例えばその他者に対する肯定的な評定や私にとっての存在理由というものに関してもそうだし、否定的なそれに関しても同様である。私にとって愛すべき家族や友人との関係やそのものに対する私にとっても意味や存在理由は肯定的な感情によるものであるなら、益々よい方向へと変化(進化)し続けるであろうし、逆にいつまでたっても好感情を抱けない他者にとっては益々どうでもよい方向、そういう他者とは出来る限りかかわりなく過ごしたいという自己の中の安定志向的、保守自己防衛的な方向へと流されてゆく(退化してゆく)であろう。
 このような常に流動的であると同時にそうは変わらない部分とが共存することによって私にとっての他者と私との関係は保持されてゆく。だから他者と記憶の問題を考える時必須となる考えとはとりもなおさず私自身の問題、私の私に対する記憶と私の他者に対する私の記憶に対する配慮であると言えるだろう。それは当然私の記憶そのものに纏わる私が現在その記憶すること・ものに対して私が与える意味‐感情によって常に書き換えられ、尚且つ変化することのない認識をも持つということにおいてであろう。
 そしてそのような私と他者、つまり私‐他者という共進化関係とは、端的に私と私にとっての他者に対する私の羞恥の在り方によって決定づけられ変化し続けるであろうという目測が私の中に生まれる。
 本節では最後に哲学史的に各テクスト=言説を解釈することを通して、纏めておこう。
 理性と良心も他者に対する認識が作る。感情が情動の意味づけであり、知覚と連関した作用であるとすれば、理性や良心は他者存在と感情が連関しつつ、理性や良心が作る感情という側面と同時に他者存在に対する認知と覚知が作る感情によって理性や良心が作られるという側面の両方が拮抗しつつ、協同してもいると言えよう。
 時間論的な未来に対する不安は、存在の不安でもあり、存在の不安は自らの衝動に対する不安である。意志は私たちの衝動の中の一つの在り方である。他者という存在は一つの衝動起爆剤、誘引剤であるばかりかそれ自体で一つの衝動そのものである。
 ヘーゲルが「法の哲学」において、第一部 抽象的な権利ないし法、第二部 道徳、第三部 倫理 へと展開してゆくその前哨戦として緒論に度々登場する衝動は、他との連関としてしか捉えられてこなかった。しかし今日この事実を見逃すことは出来ない。何故ならハイデッガーが存在の気遣いと呼び、存在の配慮、視慮と呼ぶもの(「存在と時間」より)の正体とは、紛れもなくこの衝動のことだと思われるからである。ハイデッガーのこれらの重要概念は明らかに反理性主義としての使用において示されており、その源流を辿れば、必然的にカントへと至り着く。しかし例えばデカルトにおいては僅かに「情念論」においてのみその考え方が示されている。
 ヘーゲルの否定は、サルトルによってその存在と否定へと受け渡されたが、今日問題視されているクオリアは、人類がアートや哲学へと赴く根源的な衝動と関係がある。フッサールが批判した(「ヨーロッパの諸学の危機と超越論的現象学」より)自然科学の、とりわけガリレイ以後の合理主義は、それ以前には確かに自然科学によって手答えとしては携えられていたある種の質、つまり今日問題視されるクオリアを自然科学が再考することを促す契機となっている。
 未来への不安、存在への不安を構成するものもまた他者の存在である。そして他者の存在そのものが、自己、あるいは「私」、「我」を構成するとしたら、不安を(ということは期待をも)掻き立てる他者の存在とは、「私」の衝動の意味づけそのものが「私」であるという実存を構成するものである。
 我々は過去に対する記憶と想起とによって他者を未来や存在の不安を構成するものとしている。このことはある意味ではデカルト以前のホッブスとデカルトとヒュームとカントとヘーゲルとフッサールとハイデッガーとサルトルを並置した哲学秩序の下に結びつける。そして現代哲学が全ての哲学者の存在を等距離なものとして現代哲学との関係に意味を与えてくれる。それはある意味では起源と遡及という認識と志向の一元化のことなのである。
 そして私は他者と記憶を考えることとは他者を通した「私」の羞恥の記憶であると考える。私はこの並列した哲学秩序において「羞恥の克服」を意図した者としてデカルトとヘーゲルを、羞恥の隠蔽によってそれを意図した者としてカントとサルトルを、「羞恥の尊重」においてそれを隠蔽した者としてハイデッガーを考えている。
 そしてヒュームとフッサールを私は羞恥そのものを対象化した存在として考えているのだ。
 勿論デカルトとへーゲルは、あるいはカントとサルトルは、あるいはヒュームとフッサールとは異なっている。ただ似通ったベクトルを羞恥に関して持っているということを言いたかったのだ。そのことの本質はおいおい本論において明らかになってゆくことだろう。
 では他者に対して記憶を作用させる(記憶が作用する)とはどのような意味において「私」の羞恥の記憶であり得るのだろうか?そのことを衝動との連関で考える地点に辿り着いた。そこで次節に移ろうと思う。

Thursday, October 15, 2009

〔他者と衝動〕5、羞恥と良心、衝動と良心

 フッサールがガリレイをして発見する天才であると同時に隠蔽する天才であると言ったような意味で、私たちは何かを発見し、それを重宝することにより、他の何かを真剣には見まいとし、ある時にはそれらをひた隠そうとさえする。
 理性が本能を隠蔽するように良心は衝動や気分を隠蔽する。しかし何かを隠蔽しようとするものもまた一つの衝動であり、気分なのである。そして良心もまた一つの衝動なのである。
 良心は理性とも又一味違ったものである。理性では許されないことでも良心では許すこともあるからである。だからこの二つは時として協力するが、時として離反する。
 良心によって抑制し得るもののみを衝動と呼ぼうとする試みの方が巷では多いが、良心も又幾分自己利益によって支えられ、利他的に振舞うことで得る他者からの信頼という報酬を無意識に期待しているところがある。人間の生涯において、純粋に利他的に振舞えることというのはそう多くはない。あると
してもそれを良心という一言で表してもよいものだろうか?
 良心は確かに利他的である面もあるが、公平とか公正ということにおいて考えると、良心は理性と結託すると残忍にもなるし、逆に愛情と結託すると利己的になり、当然残忍になることもあるから、それらは動機ではあるが、結果ではない。つまり結果は必ずしも同情的なものとばかりとは限らないのである。しかし我々は前者のように理性のみに従順であるような人間をまず愛しはしないし、信頼することもないだろう。人間はその人間の善良さに比例してアンチ・ヒーロー志向もある。例えば犯罪そのものは悪であると知っていても、尚犯罪者に共感さえすることがある。例えば幸不幸ということのバロメータは必ずしも安定して収入の多い生活ばかりであるとは言えないどころか、我々は常に警察に追われている犯罪者の逃亡生活の中にさえ生きている実感さえあれば幸福であるかも知れないとさえ思える。
 また愛する者を救う為には理性をも顧みないようなタイプの行動にさえ我々は共感する。復讐ということは法的に禁じられていても復讐心に理解を示すことが出来る。
 だから愛とは良心とは明らかに異なる規範である。すると良心はある意味では主に愛する対象である家族や親族、親友に対して向けられたものであるというより、憎しみ合う親族や家族、あるいは同僚や他者一般に対して向けられた理性と言い換えてもよいかも知れない。

 エートスはその都度パトスに対して、事後的に時間意識を持つ我々が理性を持ち込んで価値規範的に生を反省する時に得られる認識と言ってもよい。その都度のパトスとは記憶と経験が現在において把握されて構成される羞恥と衝動の連動によってその都度決定されているその時々の我々の気分と言ってもよい。
 良心とは本質的にその時々のパトス=気分に左右されている我々の実存に意味を付与する理性の衝動に従って我々の行為に価値的意味を見いだすことである。それは概ね他者存在に対する羞恥(とある意味では恐怖)、そして発動される思惟である。
 ①他者存在に対する衝動(動揺と言ってもよい。)、②自己意識という衝動、そして③生を理性によって意味づけようとする良心という衝動は常に自己利益追求という形と不可分に他のあらゆる衝動と連動し、行為においてはまず①を発動させ、その行為を持続させる意志は②を、そして①や②を意味づけようとする時③を発動させるのだ。
 
 哲学では「私」の心はその存在を確固としたものとして認めるが、他者の心は「私」のようではない、意識があるかどうかは分からないとする。そこでゾンビという概念が生じるのだ。これは哲学的懐疑主義によるものである。しかしそう問うということを成立させる状況とは、端的に他者が自己以上に心を持った存在であるように感じる気配故であり、この気配こそがあらゆる哲学的問いを成立させるのだ。つまり他者の心があるような威圧感、他者の気配に漂うただならぬ生命の存在感こそが、寧ろ自己というものの在り方を決定するのであり、ゾンビという考え方が前提としてあるのでは断じてない。
 ゾンビとは他者の心を最優先し過ぎる我々の心理的傾向故に捏造されたのである。自己を存在から超出させなければ存在を自己がそこに属する構造から解き放つことこそが存在を認識することにおいて必要である旨をサルトルは「存在と無」で述べているが、このことはヘーゲルが「キリスト教の精神とその運命」において描出しているアブラハムのユダヤを選民として扱うことの心理的決断、あるいは生き方の選択に既に予兆していた。ゾンビとは自己を固有の存在として認め、そのことから自己以外の全てを自己の認識から発生させる旨を理解するために必要な心的操作である。ゾンビという概念が出される以前から既に哲学では他者を扱う時、既に認識論上では自己だけが固有であり、それ以外は全てその世界での登場人物であり、監督や演出家にとってはどのように料理すべき存在であるかという操作選択の問題でしかないということの内の一つであることへと転落することが運命づけられていたのだ。
 すると良心とはそのような自己中心主義的な認識の在り方をそれが起源であるのに、その起源以前にも何かありはしないだろうかという迷いが生じさせたものであるとも言える。その迷うことが脳それ自身の認識によって生じた他者存在への覚知と、その覚知によって「私」を生じさせる時、起源的である脳内認識を自己意志によるものであると誤魔化すために設けられた他者優位にさせておく自己保身、利他的戦略なのである。つまり良心とは他者という存在感、威圧的気配故にその存在に屈することを欲しない自分が本来認識の起源であるところの自己中心主義的な世界によって登場させた他者の存在理由を、その存在理由(つまり自己本位の認識による)へと推し留めようと画策することから生じさせる他者に自己に対する脅威となる行為を発動させないための方策、付け焼刃的な応急措置として懸案された考えなのである。
 しかし言語とかカテゴリーとか規範とか論理思考性ということを考える時、良心があるということは一定の段階を踏んだ考えであることが了解される。つまり言語とは真意を告げるものであるからこそ進化したのだし(このことは永井均氏が「<私>のメタフィジックス」(勁草書房刊)において142~144ページにおいて強調されているので参照されたし。)善意などという語彙が出現する以前に必要性に応じて道徳は形成されていた。だから善意とか真意というような概念は、道徳規範を前提として社会ゲームにおいてゲームの規則の逸脱という新たな段階における規範意識が台頭してきて以降のある部分では極めてソフィスティケートされた概念であると言える。従って良心と殊更強調して語彙化しなくてはならない事情とは、一面では極めて規則逸脱、規則無化的アナーキズムが一つの行動原理上の選択肢として定着して以降の常套的手法であるとさえ言える。犯罪と取り締まりという事態は一定の進化的段階を踏んだ上でなければあり得ない状況である。少なくとも言語獲得していく過程において当初から犯罪が常習化していたとは考えられない(今のところであるが)。何故なら言語獲得することによって生存的な自然選択を生き延びてきたということが人類の進化上での真実であるなら、言語行為の定着それ自体は暗闇から光が見える世界への階であると言ってよく、そのプロセスにおいて逸脱という行為習慣は定着することはなかったと考えた方がより自然であるからである。
 だから衝動もまたその語彙を敢えて本論のように強調せざるを得ないということの内には、理性論と良心というものの考え方全体に対してある種のアイロニーが介在しているのだということと、少なくとも著者である私にとって未だ衝動を定着することが必要であると考えているからなのだが、理性によって悪辣な衝動、利己的であり且つ法規範的に無法であることを躊躇しない性質のそれを抑制する必要性を感じている向きには衝動をクローズアップした本論に危険を感じるかも知れない。しかし逆に良心と理性論の常套的因襲性と、硬化した哲学固有の観念論的学閥的常識に抵抗感を感じる向きは、敢えて動物的側面でもあると言える衝動をクローズアップさせることに意味を見いだされるかも知れない。そして人間もまた一種の現在時点だけで判断する即自にしか過ぎないという見方に慰安を得ることさえ可能かも知れない。それに対して理性論的良識を重んじる向きには本論は自然哲学的ニヒリズムと映るかも知れない。その感じ方、受け取り方の感情論的クオリアの差異こそが本論を世に問うことの意味を見いだし得る場なのである。恐らくこの両極のその二つの感じ方は両方正しく、両方とも完全ではない。
 衝動の皆無の存在において行動はなされ得ないし、良心によってその行動を理性的判断の内で認識することの出来ない者は本質的に哲学的問いを問う存在者とは言えない。だが例えばフッサールが批判した自然科学の数量化的合理主義が、微細な現実的非理想性から逸脱したように感じられることを敢えて見ない振りをすることによって発展し、進化した近代科学主義的恩恵に、逆にネガティヴな目を再び注ぐなら、寧ろ自然科学が生を基本として一切死へ向けられた不安を見据えずに来たこと、それは単に宗教に任せておけばよいという安穏が、しかし一歩後退して全てを見渡してみると、全ての個体は死滅するし、もし未来が全て明るい素材だけで満たされているような肯定的なだけの科学的合理主義に破綻があるとすれば、それは「では何故永続的未来が保証された生命的秩序において、全ての個体は死滅するように運命づけられているのだろうか?」という半ば宗教的でさえある問いを投げかける時、我々は答えに窮するのに伴って、ただの自己欺瞞と化する。つまりもし人類が恐竜のように絶滅しないで済む生命秩序であったのなら、いっそ全ての散逸して存在する個体が個々死滅するように運命づけられずに、一個体(そういう場合個体とは呼ばないだろうが)だけであり、それが成長し、老化するような時間秩序ではない形で存在し得ただろうとさえ言える。そうではなく全個体が死滅せざるを得ないということ、子孫を残さずに死滅する個体も多く存在し、自然選択をここで取り上げて考えるとしても、多く子孫を残す個体が長く生存するとも限らないということ、あるいは強者である系統だけが繁栄するわけでもないことから考えると、どれだけこれだけのハンディーを背負って永続的に生命秩序を生存させ得るかという実験場としてのみ言語行為を主たる手段とした存在者による社会ゲームそれ自体は既に絶滅必定であることを運命づけられているからこそ、「生命とは何か」とか「生とは何か」と敢えて問う思念を例えば哲学を通じて発生せしめたかも知れないのだ。すると我々はこう考えることが出来る。仮に因果系列的に全ての事象を捉えることを基本に人間の行動や思念をさえ考える因襲を定着せしめた当のものとは、自然科学的未来予定調和に対して刃を向ける諸哲学(現象学、実存主義哲学等を筆頭として、ポスト構造主義にまで連なる系列)をさえ育む文化コード的な土壌であったかも知れないとさえ言い得る。
 原因が必ずある筈だという考えはサルトルの言う様に原因を探る心理状態を発生させる「私」意識の自覚によって保証されているに過ぎないとすれば、意識が幻想である(私はどちらかと言うとそう考えるタイプなのだが)と意識至上主義を批判する論をさえ発生させる当のものとは、存在者としての命脈を時間意識を介在させつつ自覚させ、客観的に全ての事象を捉えたり、主観的に全ての行動を決したりする認識力を置いて他にない。しかしそう言う当の私はそのような認識力を生じさせる原動力という根拠を再び求めている。これはある意味では思考の無限連鎖の起源である。しかしこの思考を育む精神的秩序そのものはやはり一つの衝動としか言いようがない。そして私が仮にこの文章、この言説の全てが闇に葬られる運命にあったとしても尚、執筆せざるを得ないとしたなら、この文章は私によって書かれ、私によって読まれるという私と私を他者として認識する私の中の他者である私の存在によって書くことを運命づけられていると言える(そのように他者を私の中だけに想定することさえ起源的には実際の他者の存在がある)。するとやはり衝動の存在理由、あるいは発生論的根拠として他者存在という私を発生せしめると同時にその私によって「私の身体」とか「私の態度」とか「私の感情」を萎縮させたり、遠慮させたり、配慮させたり、畏怖させたり、要するに羞恥という名の全態度、全行動、条件反応性の全様相と全尺度を司る、内的思念の全様相を引き受ける他者存在に対する覚知と、他者理解の根幹に位置する生命存在に対する気配察知(まさに脳科学的に言えば小脳によって古脳によって判断される無意識の)が考えられて然るべきである。羞恥は衝動と常に相補的である筈だ。
 しかし私にそう述べさせるもの、そう考えさせる当のものは、良心という理性を招聘した衝動以外のものではないだろう。私はそう述べ考えたことを伝えたいと欲する、そしてそのために慣用している言語秩序に則ってこうして言述しているのだ。羞恥が私に述べるという秩序を迎えに行かせるのだし(勿論そこに他者存在という覚知が私にはあるし、それが「私」を構成させてくれるのだが)、衝動が羞恥によるそのような選択肢を招聘しているのだが、同時に羞恥が衝動を催すのだ。私は良心という脳作用そのものを生理的に獲得しているわけではない。恐らく脳作用そのものが機能論的秩序を、私に現象させる時、現象としてしか全ての思惟を受け取ることの出来ない「私」によってその衝動と羞恥の駆け引きそれ自体を客観的に駆け引きであると認識させるものとして私は事後的に良心という語彙を選択するのだ。
 良心とはだから幻想にしか過ぎないと言うべきではないだろう。良心こそが先にあるから意志するのだと脳が「私」に命じるとしたら、私は恐らくそれに従うことに快楽と愉悦を感じるように思惟選択せざるを得ないように運命づけられているのだ。それは恐らく言語によって私が全ての読者(たとえそれが私という私の中の他者でしかなかったとしても)に向けて語彙を発することをごく自然に受け容れて、その事実自体に対していささかも強制的秩序であるとか、呪縛と感じることがないような意味でそうなのである。理性は良心を追いかけるのだ。そう私に思惟させる脳=存在を私に自然に認めさせることを自然のものとして生きる存在者を私は存在者と呼ぶ。全ての問いは与えられ考える存在であるという私たちの運命を受け容れるところから発する。

Tuesday, October 13, 2009

〔他者と衝動〕4、羞恥と衝動

 ハイデッガーは生を現存在とか世界内存在として、本来性へと差し向けられている旨を「存在と時間」において示したが、しかし現実には世人による頽落という形で妥協していることを述べているが、本来性と彼が考えるものとは生きる根拠のことである。人間は生活上で熟考することを時々するが、そのような熟考を四六時中しているわけではなく、多くの時間を実体視することなく、幻想視して過ごす。そのための方策として言語があり、認識力がある。だからこそと言うべきか、その前提としてと言うべきかはともかく、人間は根拠を求める。そこで因果関係という見方を採用する。つまり私たちの脳とは、それ自体が存在そのものであり、脳以外の全ての事物、現象に対して存在視を我々に付与している。
 その脳=存在は、その能力として全てに対する存在視において、我々に因果関係を要請させるのだ。
 だから我々がいかに熟慮して何かを決定しているのだとしても、殆ど衝動的に何かを決定しているのだとしても、どちらにも差はない。その差のなさとは、端的に決定することとは全て衝動的な行為である、ということである。行為に原因などというものはない。行為の全ては原因を作られるだけの話であり、それ自体明確な原因があるわけではないのだ。理由はあると言いたいだろうが、そうではない、理由とは事由というものは後からこじつけるだけのものである。しかしこの見方はニヒリズムではない。自然主義的な物の見方である。しかも衝動を意志や自由よりも優先するとしたら、ある意味では決定論でも非決定論でもない。決定論とは遺伝子に行動の根拠を求めるようなタイプの、例えばリチャード・ドーキンスのような物の見方においても確認出来る。彼はただ神から生理学的な究極の根拠へと問題を移行させただけである。自然科学者というものは、往々にして考察対象として、自然を選択し、人間の行動や思想、あるいは社会(状態としても行動としても)そのものをも自然として扱うので、職業的使命として自由意志という観点から言えば固い非両立論(決定論でも非決定論でもない)者であるが、直ちにその事実から彼等が全生活上でそれが信条であるかと言えばそうとも言えないだろう。彼等の多くは自然科学者としての職業倫理的スタンスと私的な信条とを区別することも多いからだ。ドーキンスもまた、自然淘汰と人間としての在り方、とりわけ道徳的意志とも明確に区別している。だからドーキンスの無神論と、ハイデッガーやサルトルの無神論とはその性格は異なっている。しかし少なくとも私はその二つ(勿論同じ哲学者であると言っても、ハイデッガーとサルトルとでは違う。)ともその立場なりに理解することが出来る。そして自分と意見の違う者に対して批判的であったり、敵対したりすることというのは、相互に敵対者を必要としているという意味では共存的な社会事実である。
 だから私たちは選挙で候補者の誰かに投票する時、明らかにその投票根拠としてこうあらねばならぬということはないのであって、私的な好み、贔屓で投票することもあれば、心を鬼にして贔屓感情を押し殺して思想的に投票するのだと言っても、前者のみを衝動的であるとも言えず、従って自己感情に素直であることも抑制的であることも共に衝動的なことなのだ。だから好きなことをし、気の赴くまま行動するタイプの人間であれ、努力し、自己欲求を抑制しつつ行動するタイプの人間であれ、そのような行為選択的なタイプに従って行動している以上両方とも自らの拠って立つ衝動に忠実であることに変わりはない。しかもその日によって同じ音楽でも聴いた時に受ける感想とか感動の色合いが異なるように、昔感動した映画を再び観た時以前ほどの感動を得ないこともあれば、逆に再び観たらそのよさを発見するということもある。それは何らかの理由をこじつけることも出来るだろう。例えば昔と今とでは人生観も社会観も、価値観も思想も変わっているのだから、と。しかしそのように映画や音楽に対して持つ印象というもの、感動の性質というものは、恐らくそれを鑑賞した時の精神状態とか気分とも密接に関係があるのだとしたら、それは因果関係的な原因とか理由とは違うものだろうと私は思う。その映画や音楽を聴いた時に感情的な色合いによって異なって印象されるだけのことなのだ。だからある行動とか決意そのものも極めて偶然的要素というものの方が強い。しかし重要なこととは、その偶然的な選択とか、偶然的な感情的な受け取り方全般に対して我々は何らかの根拠を求めずにはいられないということである。このことは永井均氏は「<私>のメタフィジックス」において<行為の正当化>というタイトルの章で詳述している。あるいはドナルド・デヴィドソンの哲学にも非法則的一元論的な意味でその都度の判断に理由とか原因を求めないという意味で衝動論的なニュアンスがあることもまた確かである。
 しかし私は衝動にも大きく羞恥がかかわっていると考えている。つまりある衝動を後押しするものとしても、ある衝動を抑えることにおいて用いられるものの両方に別の衝動が必要だが、その衝動とは原衝動と仮にここで命名するとすれば、原衝動とは羞恥のことだと私は言いたいのだ。
 ある衝動、つまり行動的欲求を後押しするものとして、我々はそれを賛成する衝動、迎合する衝動とか色々命名することは可能だが、それを一括りに「羞恥払拭型」と呼び、そうではなく逆にある衝動を抑制し、耐えようとする衝動を「羞恥尊重型」と呼ぼう。恥じを拭い捨てて何かをする時我々に必要なのは勇気であり度胸であろう。しかし逆にある行為を思いとどまらせるために我々に必要なものとは、遠慮(この言葉は翻訳不可能なニュアンスがあるので、あまり頻繁には使用したくはないのだが)、あるいは配慮であろう。
 ここで「羞恥払拭型」衝動が勇気や度胸を尊重するのに対し、「羞恥尊重型」衝動が遠慮や配慮を必要とするという時我々は一つのことに気付く。両方とも他者に対する態度であるということである。ある行動とは端的に他者に対する意識なしにはあり得ない。勇気とか度胸は、その大胆であることと、積極的であることによって他者から頼られる立場に自らを追い込むような責任の取り方があるのに対し、遠慮とか配慮とは逆に他者から応援や救助をして貰いやすいような立場に自らを追い込む責任の取り方があることは確かである。後者は端的に消極的な他者に対する態度表明なので、率先して何かをする(特に集団をリードする)ようなことへと他者から要請させることはないだろう。しかし前者では逆に率先して何かをすることを周囲に認めさせるが、容易に援助や協力を仰ぐことを周囲から自分へも、自分から周囲へも抑制させる傾向に赴くということは言えるだろう。要するにこの立場は積極的であるが故に他者からの内面への干渉を閉ざす方向へと差し向けられているということでもあるのだ。だから何か悩みを相談しやすい立場とは日頃からあまり積極的であり過ぎることよりは、消極的である方がより周囲からの配慮は得やすいということは、ある意味では極めて日本的な態度の取り方に起因する恩恵であろう。しかし恐らく積極的であることが大胆であり豪胆であることから、傲慢に転化する可能性もあるとするなら、同様に消極的であることが他者一般に対して敵対視されない安全地帯へと自らを赴かせるようなタイプの保守主義、あるいは安泰と平穏を望むが故になす弱者結束型で、大衆迎合的な判断へと転化する可能性もあるとしなければならないだろう。
 では羞恥とは一体衝動とどのような関係にあり、作用しているのだろうか?そのことについて考えてみよう。「羞恥尊重型」にはより他者依頼と他者委託同意というものがある。逆に「羞恥払拭型」には他者強要、他者信頼というものがより「羞恥尊重型」よりも強いだろう。しかし他者に内面の実情とか生活的事情を知らない内は往々にして我々は「羞恥尊重型」の態度で他者に臨み、逆に他者間で相手の立場に対する理解が深まればより「羞恥払拭型」の態度が望ましくなる局面というものは多く出現することとなる。
 羞恥とはだから払拭すべき障害として立ちはだかるか、それとも尊重すべき配慮として内在するかということを、その都度我々に自覚させる、その自覚はある意味では心理的な認識レヴェルでだが、別の意味では極めてその都度の気分にも左右される現象的なレヴェルでの意識でもある。ただ認識レヴェルにおいても払拭すべきか尊重すべきか双方の判断が可能となるし、意識レヴェルで固有の感じを気分として得ることはしばしばあることである。その場合でも払拭すべきか尊重すべきかを左右するものとは衝動である。だから他者信頼→他者依頼→他者強要という図式で積極的に慎みなく言いたいことを言うという言語行為へと赴くか、それとも他者立場理解→対他者配慮→遠慮という図式に則って真意を隠蔽するかということはその都度の衝動に左右されるわけだから、この二つ、つまり羞恥はその都度の衝動を意味づけたり、性格づけたりする一方その時々の衝動の性格が羞恥の色合いを決定し模すると言う、双方向的(インタラクティヴ)な、どちらが前提や背景でどちらが結果で図であるかとは言えない双方が前提であり結果であるような、双方が背景や地であり同時に図でもあるような関係にあると言ってよい。ただ言えることとは衝動とは他者に対するその都度の判定がかなりの程度左右する。
 例えばある事柄を告げたり、ある行動をその者の前で採ったりするのが、よく知る親しい他者である場合とそうではない場合とでは自ずと異なった対応になることは当然だが、その都度のその他者への共感と反感の間の微妙なグラデーションでの位置判定が言語行為を伴う場合でも、伴わない場合でもその行動の性格、つまり感情的な位置づけが変わってくることは当然である。つまり行動へと至る衝動とは他者との相関性が極めて重大なファクターとして作用するのである。
 本書のタイトルが「他者と衝動」であるのも衝動とは他者存在、あるいはそのことへの我々の意識が形作っているということに起因する。そしてその根幹には衝動と羞恥の連動性が考えられるのである。現象学者の多くはこの動因性についてキネステーゼという概念を使用している。しかしこのような現象学による身体論的なテーゼとは、端的に簡単な経緯によって獲得されたものではない。それは倫理へと問いとか、知性や理性への問いという延々と反復されてきた不器用なまでの執念が獲得したものなのだ。
 それに反して日本人には倫理への問いに執着するくらい大きな宗教心が希薄である。だから必然的に「救われる」という個人意識はない。しかしだからと言って西欧流の哲学の伝統のない土壌であるこの国でその文化を吸収した我々が西欧哲学を理解出来ないということはない。断じてない。それは恐らく表層的には私たちの文化に根付いてはいないが、何らかの我々人類の深層において私たちの精神を規定する脳内現象として哲学思考を巡る旅ということなのだろう。
 哲学思考が西欧と日本の文化的土壌の差異を克服するとしたら、他者(日本人にとっての西欧人)理解が必ずしも理性的レヴェルのものだけではない、感性的レヴェルのものによっても支えられているということは本論の主張と一致するところである。
 そもそも理解とは判断レヴェルのものより、より以上に衝動的なことなのだ。ここで一つ羞恥と衝動と理解との間に横たわる三者の関係について考えてみよう。その際「信じる」こととの対比で考えてみたい。
 
 理解するとはある部分納得することと同義でもあるので、知性的、悟性的だけであるかのように誤解しがちだが、本来納得することがある謎を構成する根拠を知ることによって謎が解消される(知性・悟性レヴェルの判断)ことを意味するから、起源的には謎が深まる状態を経ていなければいけないが、その謎が深まる状態こそ感性的な非綜合的、非論理的直観力、直感力、つまり惹き付けられる衝動以外の何物でもない。そしてそのものとの出会いの後、長く接していると、そのものの持つ魅力の謎が徐々に解明されてゆき、ある時「ああ、こういう仕掛けで我々は感動していたのか」と思える瞬間が訪れる。それもまた一つの納得という衝動である。この一連のプロセスにおいて惹き付けられつつ陶酔する状況をセレンディピティーと呼ぶのだろう。
 しかし意外なことに、信じるプロセスとはこれとは全く異なっており、理解よりもより言語的であり、倫理規定的であり、意志的である。私が今言った意志というのは、感性的なこととか感情的であるよりも、もっと信憑性そのものを構成する悟性的なこと(それは多分に倫理、道徳的である。尤も永井均氏は倫理的と道徳的とを区別しているが、ここではあまりそのことには深く立ち入らない。そのことは自著「羞恥論‐依怙地と素直<衝動論第二幕>」<後日掲載>を参照されたし。)なのだ。それは世人判断的なことなのである。何故なら信じるということが信じ「込む」という意思的な努力の賜物だからである。
 通常我々は教育によって様々な事項を真理であると信じ込まされる。その中には正しいこともあるし、
誤っていることもあるだろう。そして何かを正しいと信じる時には感情如何とか、感覚的齟齬といったことを一先ず棚上げにして意志的に理性論的にそれ以外に信じられないと判断しているのである。そしてその判断は極めて言語的な手続きがなされていると言ってよい。
 そこで理解することに戻ると、羞恥との関係において理解することとは、端的に「羞恥の尊重」であり、その羞恥こそが理解されるものの魅力を増さしめる。しかし信じることとは「羞恥の払拭」つまり魅力(ここで魅力と言っているのは信じるに足るという価値判断的な意味でである。勿論価値判断的な善にも感性的な、つまり好きな音楽のようなものと共通するものはあるだろう。)云々によって惹きつけられるとか、迷うとかの中間的状態そのものへの断念であり、納得した瞬間の確定性の永続不変的維持に対する決意に他ならない。すると理解するとは、緩やかな持続で自然なもの(自然に身を委ねてしまう)<線的>であるのに対し、信じるとは点的絶対性の人工的・意図的持続(断続的であることになるが)への意志に他ならない。
 そして重要なこととは理解へと赴く受動・受容的状態へのスイッチングオンも、逆に信じることへと赴く能動的・積極力動(発動)的状態へのスイッチングオンも共に衝動であり、その衝動は前者は「羞恥の尊重」、後者は「羞恥の払拭」を志向し、それらの衝動の志向的質は極めてその都度の外界(他者も含む)との接触とか交接による気分に左右される。勿論外界・他者への接触・交接はそれらのものとの経験的記憶というものが大きく左右している。このことは次々節で詳述する。
 しかしそのように生理的に左右される精神状態であるところの気分のみに左右されているとは思いたくはないのが私たちなのである。そこで我々は倫理的価値規範を導入してきたのである。これは個人的なこととしてそうなのであり、社会がそれを採用したのはア・ポステリオリにであろう。個人的ということそのものが社会を前提しているからとも言えるが、私はここでは人間は前社会的な意味でも、既に内観的に哲学思考的に倫理的価値規範は能力として備わっていると考えている。それらは当然次節以降に登場する良心ともかかわってくる。
 しかしもっと重要なこととしては、我々はそのように倫理的価値規範を導入せざるを得ないような心の状態になるというもう一つの衝動を持っているということである。外界との接触・交接による気分だけに左右されたくはないという衝動の中で最も確認しやすいものとして良心というものを考えることが出来る。
 我々はここでようやく次節へと移行し得る時を得たのである。

Sunday, October 11, 2009

〔他者と衝動〕3、他者に対する羞恥の根拠

 私は選挙において、明確な政治的意見とか思想がなく、その時の世相とか潮流に迎合して、ある政党とかある候補者に投票することに纏わる意識について以前書いたことがあり、それを冒頭に本ブログにつけ加えた。だから本節はそれを参考にして読んで頂きたいと思う。
 要するに私は選挙はその選挙で投票することに纏わる明確な政治参加意志を携えている者の方が常に少ないと考えている。だから選挙で投票する時、誰にするかということは、存外テレビで放映されている政治ヴァラエティー番組で話題となっていることに合わせてある候補者に投票するということが多いだろうと思う。あるいは政治番組で自分の贔屓にしている経済学者とかコメンテーターの意見に合わせるという行為選択が常套的である。だから明確にある政党を支持するという意思表示をする者は、仮にどんな世相であれ、自分にとって正しいと思われる政治思想に基づいてある政党が今窮地に追い込まれていても尚頑なにその党を支持することに吝かではないだろう。しかし何らかの与党に対する風当たりが強い世相において、本来なら支持政党である与党ではあるが、今回はちょっと一般的な世相に合わせて野党第一党に入れてみるかという行為選択が成立する場合もあり得る(例えばそれによって今回の政権交代がなし得られたわけであるが)。
 そのような外部的状況判断は、何も選挙の際の投票行動ばかりではなく、裁判において何らかの被告に対する判決を判事たちが決定することにおいても世相が影響を与えることはある。法廷における決定そのものは、政治や世相が軽犯罪だった筈のものまで重犯罪たらしめ、確固たる犯罪であるべきものを情状酌量の余地あるものとして軽減されたり、恩赦の対象となったりする。それは判決を下す法律専門家でさえ社会全体の風潮には逆らえないという感情があるからである。
 それは社会そのものが以前に判定を下したことに対して何らかの反省というものを抱いているからである。そしてその過去の轍は踏まないという意志が社会全体に漲っている場合、我々はしばしばある判決を予定調和的なものとして認識しさえし、その判決の妥当性を社会世相に迎合している場合、溜飲を下げることさえある。「よかった。全く少年だからと言ってああいう犯罪に死刑は妥当だよ。」と思ったりする。しかしその場合その犯罪を個別のケースとして認識していると言うよりは、社会世相そのものに対する判決を下す判事の決断が齎す社会的反応の方を重視しているのである。
 このようなことはある判例が個々別個のものでありながら、一連の似たケースとしてどうしても外部的な傍観者であるところの大衆が関係づけてしまうということがあるからだ。だから社会的な世相によって、軽い犯罪である場合ですら、そういう犯罪が多発する世相においては、より厳しい判定が下されたり、要するにある犯罪が発生した状況においてその犯罪の存在理由とか社会的影響力そのものが相対的に決定されてしまうということがあり得るのである。
 だから先に示したある選挙でどの政党を勝たせたいかという心理的な投票動機そのものが世相とか社会全体に漲る風潮に左右されがちであるということと、どういう犯罪をより重いものと見做すかということは大いに関係があると私は思うのである。
 しかしこのように個別のケースが外部的状況に左右されてしまうということ、それが故に自己信念がいかにあやふやなものであるかということの問題点とは、ピア・プレッシャーということによってもある程度説明し得ることである。しかしそのピア・プレッシャーを構成するものとして、我々は他者に対して遅れを取りたくはないという心理と、他者に対して一人だけ浮いた発言をすることに対する端的な恐怖、つまり他者に自己信念の世相無視的な様相を覚られたくはないという羞恥が大いにかかわっていることは確かである。それは自己信念が純粋であることを覚られたくはないという消極的自己意志表明の心理である。どんな世相であれ、自己信念が変わることはないという意思表示がしやすい状況とは、その意志を示す他者がより真意を告げることで怪訝な態度を取られることがないという信頼に依拠している。ある他者に世相と逆流するような意志表示をすることは、端的にその他者に対する人間的信頼が大きく決定因として作用する。あまり自分に対して好感を抱いていない者に対してまで、我々は敢えて語って損をするような真意を告げる決断に踏み切るメリットを感じないものである。そのような不審を抱いている者に対しては、我々は往々にしてあまり明確に自己意志、自己信念を披露しようとは思わない。
 言っていることは簡単なことだ。要するに信頼してはいない人間に対して我々は揚げ足を取られない
ように警戒するというだけのことである。しかしもし揚げ足を取られたからといって、それが致命傷となるような周囲の人間からの視線が冷たいものであるケースというのは殆どない。要するに気にしなければよいのであり、揚げ足を取る者に対して多くは怪訝な感情を抱くものである。だから他者に対して極度の自己防衛を張るということは、一面では自信のなさを露呈することにも繋がるから、我々はある意味では喜んで揚げ足と取られる方が得策である場合すらある。
 元来人間は殆どの場合他者というものに対してかかわってなどいられないものなのだ。つまり他者がどういう状況で恥をかくかということに対して余程その者に恨みを抱く者以外は殆どどうでもよい。要するにもし揚げ足を取られて滑稽であっても尚、その者に対して侮蔑の感情の一欠片も抱かないものである。気にしているのは本人だけである場合が殆どなのだ。要するに人間にとって最大の他者とは自分以外のものではないのだ。だからこそ多いに恥じをかくことは本人にとって何かを習得しようとか、学ぼうとしている場合には得であるとさえ言える。他者が滑稽であるからといって、その他者に行く末を案じていられるほど人間は悠長な態度をとっていられるわけがない。第一人間は自己にとって最大の他者である自分の未知の部分に慄き、将来に対して常に不安を抱いているのだから。
 だからこそ選挙では適当に世間の潮流に迎合しておけという選択肢が自己決断において浮上したとしても、そのことで他者から責められない限り大した問題ではないことになる。他者に対して羞恥の根拠となるものとは端的に、自己の自信になさに対して将来が不安になるということから来る他者にその不安を知られたくはないということに尽きる。つまり悪意ある他者はその不安に付け込み、自らがい続ける安全地帯そのものの安楽さを思って安心量とするのだ。つまり他者の不安の除去に対して憂慮するような態度を示し、自らの日頃の緊張を誇るのである。しかしそのように他者の不安に付け込みそれを利用して自分を安心させたいと望む輩とは、往々にしてそうしなければ自分自身はほっとしないのであるから全く余裕も、将来に対する展望もない場合が殆どである。他者に対する嘲笑とそれによる自分自身の安心という心理的メカニズムには我々は他者に対して信頼していない度に応じてより羞恥を自己防衛的に巣食わせるという性格がある。だから他者に対する羞恥の根拠とは、信頼出来ない相手に対して憂慮して心配してあげることを通して、逆に信頼出来る者同士の間ではその他者の大したことなさを嘲笑することを通して安心し合うということに尽きる。他者に対する羞恥とは悪意も含有されるのだ。その他者には心底では悪いと思いながらつい、その他者を憂慮して自分は安心するということのための手段としてしまうという悪意である。だからこそ信頼出来ない相手には我々は真意を滅多に告げまいと心に通常決めているのである。
 他者一般に対する軽蔑の心理にはだから当然その者を軽蔑することを通して自らの中に巣食う不安を除去したいと願う小心が巣食っているものである。小心とは反省心がないまま膨らむと明らかに悪意が充満してくる。他者に対して、その他者が信頼出来ないという度に応じて、自らの不安と弱点を悟られまいとする願望(欲望)が自己防衛を生む。その他者が脅威ある者であることに応じてその攻撃の度も増す。攻撃が最大の防御であることを我々は知っているからである。信頼できない他者に対してある事柄に関する無頓着を発見すると、その部分をさもその他者の行く末を憂慮しているかの如く振る舞いその他者に無頓着と呑気を心の奥底では嘲笑しつつ、自分自身はそのことに関して優位に立ち、安心を得るということ、これこそが信頼出来ない他者に対する羞恥が呼び起こす悪意の典型である。
 すると他者に羞恥を感じるとは、その内的メカニズムとは、その他者に対する信頼出来なさ=不審が控えていて、端的に羞恥それ自体が極度に顕在化するということは、真意をその他者には告げずに封印するということを意味するから、その時点でその他者に対する「構え」としては、その他者が油断する隙あらばこちらが優位に立つのなら、攻撃を仕掛けることも有利であるという目測も生む。そうすることによってその信頼出来ない他者からの嘲笑とか優位に立った憂慮を示されることで得る不快を避けることが可能となるからだ。それは安全地帯の確保の欲求に他ならない。その安全地帯の確保という欲求が高じてくると、他者に対する排斥という悪意ある願望が芽生えることになるのだ。羞恥という心的様相は悪意を孕む危険性と常に隣合わせなのである。
 拠って他者に対する羞恥の根拠とは、他者に対する不審とその他者の抱いている良心に対する信頼の出来なさ、つまり懐疑であり、心をその者に閉ざす消極的な意思表示以外の何物でもない。だから羞恥の克服とは、羞恥を感じる他者に対する信頼の発動であるということが逆に言える真理である。あまり揚げ足を取ろうとする悪意ある他者に対して不快の念を意志表示することをも含めて、羞恥の克服とは肯定的な意味でも、否定的な意味でも、ある他者に対する内的感情をある部分では包み隠さずに報告する真意の伝達(完全なる真意を告げることは常に憚られる。<又しようと思っても実は不可能だ。>相手がどんなに嫌いだからと言ってもし許されるものなら殺したいと思ったことまで告白することはそう容易には出来ない。)によって実行されることが多いだろう。
 しかし選挙では我々は立候補者に対して、誠意だけを必ずしも望まない。そういうものを重視して選ぶ場合もあることにはあるが、それは常に優先順位で上位を占めるわけではない。政治とは、他者、つまり政敵に対して羞恥している場合のものではないということを我々は知っているし、様々な利害が相互の政治家同士に絡み、弁論的な意味でも、政治的他者説得力と、他者信頼獲得能力(勿論そこには人間的な度量の大きさとか人徳とか、要するに人間学的吸引力のようなものも含まれる)といった手腕を我々は候補者に望む。それは政治が真意の表明性そのものが、弁論時における敵対勢力に対する感情論的なものでは決してなく、完全に弁論を手段としつつ、本論としてはその候補者が当選した暁には、彼(女)の政策と、政治的理念共にその実現能力にある、と我々が確信しているからである。
 だから敵対する政策サイドや政治的理念の政治家たちをやり込め窮地に追い込む他者否定的な意味での手腕が、自己信念に忠実でいて、それを弁論する力と同等に備わっている資質を我々は政治家に期待するのである。つまり他者(この場合には敵対するサイドの政治家とか党)への羞恥の克服の仕方の長けた政治家を我々は優秀な政治家と呼ぶのである。だからこそそういう者へ我々は当選して欲しいと望み、投票することになるのだが、始末の悪いことには、その手腕そのものに対する着眼の仕方、つまり価値論的な政治手腕の美学に対する判定において個人差があるということである。だからこそ我々は異なった候補者に対して異なった投票行動を採るに至るのである。しかしこのことは羞恥感情というものとその克服の仕方そのものにおいて、信頼出来ない他者に対する感情ということ、つまり私的な側面と、公的な責務とか義務という側面において我々が採る行動は一致することもあるが、一致しないことも多々あるということも証明している。そうでなければ我々はただ真摯な政治家に投票することばかりを目撃する筈だが、現実はそうではないだろう。悪辣な部分を持つ政治家に惹かれるということは大いにあり得る。嫌いな政治家を攻撃することに長けた候補者を選ぶこともあるだろう。それはある意味では個人的感情に対する代理欲求である。そのことについては次節において詳しく論じてみようと思う。

Friday, October 9, 2009

〔他者と衝動〕2、「語り」の意味

 我々は我々の性向によって知った真理を我々を成立させる全自然に適用しようとする。そのことをミシェル・アンリは同じく「受肉」で次のように述べている。

 エロティスムを客観的な生(sexualite)に還元することによって、裸になる行為が以後まとう重要性が、説明される。もはや問題とされているのは、その全体におけるエロス的過程をしるしている。それは二つの存在のあいだの関係が以後生じることになる場所を定義し、展開する。この所作において、決定的な移動が完遂され、この移動によって、各々の生ける者の欲望が、つまり、もうひとりの生ける者と合一するという欲望が、生とは別のところで、もはやひとりとして生ける者が存在せず、いかなる生も可能ではないような領土において、演ぜられようとしているのである。(400ページより、中敬夫訳、法政大学出版局刊)

 いかなる生も可能ではないような領土において演ぜられることとは、端的に人間が自ら作り出した想念という仮想によって現実の不毛地帯にまでその理想を適用しようと欲する、まさにそのことがあらゆる文明を築き上げてきたことにもなるのだが、そこに脈打つ真理とは、端的に自ら見出した真理の虜になるという負の一面もあるということである。ホッブスもそのことは指摘していた。
 だからもし我々が何かを語るとしたら、その語られる対象や出来事以上の輝きをそこに見いださずに語ることは出来ないという側面から我々は語ることそのものを見据えなくてはならないのだ。だから本節において私は「語る」という行為を哲学テクストに限定して、テクスト創造することから、哲学者当人における私と彼にとって彼の哲学を支える他者との関係から哲学的言説が齎す「語り」の本質的な意味について考えてみたい。
 そして自由、自由意志という側面から幾つかの哲学テクストで示されている「語り」(それ自体一つの哲学者による世界把握のクオリアであるところの)の本質というものを探ろうと思う。
 そのために随時、ホッブス、デカルト、ジョン・ロック、スピノザ、ヒューム、ルソー、コンディヤック、カント、ベンサム、メーヌ・ド・ビラン、ヘーゲル、キルケゴール、ニーチェ、フッサール、ベルグソン、ウィトゲンシュタイン、レヴィナス、サルトル、クワイン、パットナム、リクール、アンリ、ヘア、デネット、あるいは現代日本の哲学者たちのテクストがその都度参考にされたり、考察されたりすることによって私の考えの上で示されることだろう。それら全てを本論に引用列挙するものではないにしろ。
 
 あらゆる哲学者がテクストを発表することに内在するモティヴェーションとは、哲学界の時代的状況、それは哲学者たちの顔ぶれによるところも大きいが、それと即応した時代的哲学潮流の中での発言の適切性(社会成員としての責務)と、哲学史のみならず哲学者本来の責務との間で一致する部分と、齟齬をきたす部分との間の折り合い、それを示そうということに尽きる。
 例えばそれは伝統や文化全般に対する敬意と反逆の意図を持ったアーティストの絵画作品発表を巡るモティヴェーションとも共通する。
 それはエドワール・マネが「草上の昼食」や「オランピア」を西欧近代絵画史上、裸婦表現の形式的伝統と系譜学的認識(常識)に対する痛烈なる批判として作用するものとして発表当時のアートの精神の理解者による共感と、それを理解することを拒む常識人との間の葛藤によって歴史的に立証されている。
 つまり初めて宗教上のテーマから裸婦を解放させたギュスターヴ・クールベの裸婦の持つ日常的側面、市井の人々がモティーフとなっていることなどが基盤として表現上の冒険としてあったればこそ、休日のピクニックとそこで交わされる男女の会話という前提における冒険的意図と、それまで誰も描いたことのない娼婦が投げかける視線を絵にするということの冒険が、それまでの宗教絵画上で常套的であった横たわる裸婦という形式によって表現されているということのアイロニーに内在する挑発的意図が、そこには読み取れるのである。
 マネは要するにそれらの時代的常識を逆手にとって伝統に対する挑戦と、アート形式の系譜学的な意図への敬意とが折り合い一体化して、その戦略が形成されたのである。つまりそこにはそのように読み取って欲しいという意図が込められていたのである。
 つまり私が言いたいのは、哲学者たちはアーティストが絵画作品を発表するモティヴェーションと極めて共通する伝統に対する敬意と反逆の意図が綯い交ぜとなった歴史を認識しつつ、歴史を作ろうという意図と目的をもって哲学テクストを公表するということなのだ。それはある意味では一つの歴史という哲学者にとっての「他者」に対する目論見以外の何物でもない。そしてそこには確固たる発表しようとする衝動が息衝いている。
 歴史とは哲学者にとって全哲学史、あるいは全哲学領域に対して提言する自由として君臨している。敬意と反逆とが綯い交ぜになったままで歴史に参加する意志を発生させる制度としての哲学学問的カテゴリーは、哲学者個人にとっては全哲学者と、彼をも含む他者全般と、彼を含む自己‐他者の全部の意味を含む彼によって新たに独自に展開される哲学への衝動を掻き立てる契機が潜んでいる。
 しかしもっと我々にとって重要なこととは、アート史としてはマネの冒険と反逆が重要であるということが今日自明だとしても、そのようにマネを固有の革新的存在へと押し上げているものの方の正体を見極めるということである。
 つまりある革新的な表現とか、革新的な思想とか哲学を際立たせているものとは、とりもなおさず凡庸なる発想の幾多の常套的な表現、思想、哲学なのである。そして例えば今挙げたマネの革新とは、端的に本来裸婦とはこうあるべきであるという通念こそが支えているのである。そして我々はこの時、例えばマネ芸術を支える、マネを天才たらしめているところの「当たり障りのない」、「常識と良識に沿った」絵画芸術上の形式的秩序としての裸婦というものが、何故我々にとって存在しているのだろう、ということに対する疑問に対してそれなりに回答を見いだすということなのである。
 私はそれを結論から言えば人間の羞恥という感情に見るのである。そして羞恥という感情は、「こうあって欲しいけれども、こうあるべきであるということが存在するので、仕方なくそれに付き従う」という選択以外のものではない。そして本当はこうしたいということがあり、それを容易にすることが出来ないので、それを敢えてする人に拍手喝采を送ることに吝かではないという幾多の選択こそが天才を天才として社会に存在せしめている。そしてこうしたいとかこうあって欲しいということがあるのに、それを容易にさせないでいるものの正体こそ、他者に対する羞恥なのである。
 つまり何故裸婦とはそれを鑑賞する立場の人々から言えば、深層心理的な意味で本当は市井の人々が日常の中で感じるエロチシズムを求める筈のものなのに、マネ以前にはそのようなことをあからさまに表現する人は、数えるくらいしか、例えばクールベくらいしかいなかった。ということはその本来の人々の願望を滞りなく叶えることを阻止している<見えない壁>が存在することになる。そしてその<見えない壁>こそが、裸婦を描く時には聖書とか、要するにそれが許される順当な歴史的テーマという堅い堅実で、面白みはないが揶揄されることを免れる市民としての慎みと良識なのである。そしてその慎みと良識を構成しているものこそ、他者に全て真意をあからさまに伝えることは恥ずかしいし、みっともないし、第一不躾以外の何物でもないという考えであり、それは黙っていれば問題を引き起こさずに済むという保守的で、非冒険的で、要するに消極的な選択肢なのである。
 もし敢えて何か言いたいことを言うとして、その結果その発言によって恥をかくことになるかも知れないし、第一いつも黙って耐えている人(大勢の人)に対して恨みを買うことになるかも知れないという安寧を望む心理は常に我々に付き纏う。それは端的に勇気のなさであり、当たり障りなく全てを問題なくやり過ごしたいという感情である。そういう行動規範とは、端的に老いも若きも老成ということ以外のものではない。そしてそのようにいつも行動を踏み止まらせ、積極的行為を回避し続けさせるものこそ、実は他者に対する羞恥である。他者に対して羞恥するということは、他者に対して先述した通り前節での纏めで述べた「私は他者の衝動と接することを避けることも出来る。」という②の選択肢である。この選択肢は完全に保守的であり、もっといい展開が望めるかも知れないのに、敢えて今冒険をして失敗するくらいなら何もしないでおこうという決心である。それは消極的な決心であり、保守的な決心である。勿論あらゆる局面でこの決心が誤っているわけではない。そういう考えの方がより正しい局面というのは多々あり得る。しかし同時に常にそうであっては、そういう行動規範は発展性が皆無である。
 そして私が考えている「語り」の意味とは少なくとも、そのような心理による消極的決心とか、保守的決心ではない。たまたまマネの試みは歴史に残ったし、同様にそういう試みをして、力足らず潰え去った大勢のアーティストはいただろう。だから今私が考えている「語り」の意味とは、ある部分では極めて危険であり、それをしないで済むのなら、しない方がずっといい場合も多々あり得る。しかしそれはただの閑談であり、空談であり、要するにただの発声行為である。
 「語り」とはそれがどんなに些細なことであっても、話者双方が何らかの精神的利益を得ることが出来る何らかの未来に対して希望を抱かしめるもののことである。一切の希望がないし、絶望することすら自由であるというあのサルトルの哲学に見られるような言説をも含む、それを聞く者が、語り合う者が、読む者が傾聴に値する、熟読することに値するという価値規範的判断を可能にするもののことを、我々は「語り」と呼ぶ。そして私はどんなに冒険的意図に満ち満ちた人でも、かなりの頻度で空談、閑談に明け暮れ、逆にどんなに保守的で消極的な人でも、有益な「語り」をすることはあり、それはその「語り」をする者の「語り」の頻度ということには全く関係がないし、その発話者、記述者の日頃の力量にも左右されない。ただ多く語る者とか、時々語る者がいるというだけのことである。そしてただいい語りと下らない語りがあるだけのことである。

 私たちは他者と語る時、その他者に対して羞恥が弱ければそれを払拭して語り、羞恥が強ければそれに対峙して語る。そして羞恥感情を見抜かれること自体を回避すべきケースと、そうではなく寧ろ羞恥感情を直接示しても問題がないケースとがあり、我々は常にその間を行ったり来たりしている。
 特に冒険的意図を強く心の中で示している時、我々は羞恥を殺すことを考えるだろう。つまり羞恥は保守安寧と、消極的安定を求める作用であることがこのことによって了解される。
 そこで本節では「語り」ということを決心する際の羞恥感情について、その根拠を問おうと思う。そして主にその羞恥を生理的、心理的に発生させる根拠について、他者と私とのかかわり合いにおいては次節に回そう。
 語りたいと我々が思う時に他者に対面して、発話を決心する際に取り払われる内的に現象論的な解釈によると、語りを決心することにおいて次のようなことが瞬時段階論的に考えられよう。
 
① ある事柄が思念上で浮かぶ。その思念は今相対している他者との息遣いによってと、それ以前に一人で考えていたこととが重なり合っている。
② その思念が今相対している相手(他者)に語るに値するか否かを思念する。
③ その思念内容が今相対している他者にとって関心を惹くものであるか否かを思念する。
④ 今相対している相手にとって利益になる内容であれば羞恥は払拭する必要なし。しかし今相対している相手にとってそうではない内容であるのなら羞恥を払拭する必要性が生じる(後者は相手に対する異議申し立てにあり得るケースだ)。
⑤ 他者の関心全般ではなく、より今相対している相手の関心を惹き付ける、それがその相手に対して利益にならないことであれ、利益になることであれ思念を語ろうと④の前者の場合には決心がつき、他者の関心全般において妥当な内容の思念内容を今度は語ろうと、もし④における後者の場合には決心がつき、それまでの対話の流れを調整しようとする。あるいは④以上にその対話を続行することを断念する。

 私たちはこの段階論的な現象論的な解釈において②から④において一定時間を要するものを躊躇と呼び、それを省略して⑤の後者の行為へと赴く場合、それを対話する意図なしととる。④の前者の場合(しかしの前)融和的、あるいは多少ネガティヴな心理が働いている場合宥和的な、後者の場合(しかしの後)非難口調や批判的態度の言辞となり、そのプロセスの後で、融和的、宥和的であるのに⑤で初めて批判へと転じる場合は前者の決心を要し、逆に調整しようとする場合④の後者の選択の後に、融和、宥和へと差し戻そうとする意志がある。だが④の後でいきなり⑤の後者を選択した場合、融和的、宥和的なままにして対話を中断する選択肢と、逆に批判的、非難的なままにして対話を中断する場合とがあるだろう。尤も最も全体論的に融和的な対話とは躊躇しないで全てのプロセスを踏襲する(特に⑤の前者も選択する)ことであり、しかもその中でも最上のものは②から④へのプロセスが迅速であることに尽きる。逆に最も融和的ではない選択肢とは①において何も語らず、いきなり⑤の後者を選択することである。その次に融和的ではないケースは①の後で躊躇した末に⑤の後者を選択するケースであり、その次は同じく⑤の前者、あるいはまた最初に戻って全工程の反復を選択するケースである。
 躊躇はある意味では必要な心的作用である。しかしそれが強過ぎると一切の意思表示に支障をきたし、また弱過ぎると他者に対して一切の配慮を欠くことになる。だがそれらも所詮、ある一定の方向へと意識的に他者との対話を持っていこうとする意図がある場合には、それらの配慮全般に対して、躊躇もなく、あるいは躊躇すること自体を回避するためにその他者とそもそも接近することを拒否するという選択肢もあり得るから、その対話をするか否かということに関する決断が最も重要だということになる。
 端的に躊躇とはあまり持続することが好ましい心的状態ではないし、また他者との衝突それ自体も必要欠くべからざる場合以外は回避するに越したことはない。
 要するに「語り」とは一定の説得力があると思える場合のみ、融和的であれ、宥和的であれ、非難的であれ、なされるべきものなのであり、何を言っても通じないというケースにおいては最早いかなる選択肢も残されおらず、要するにその他者との接触自体を回避するべきなのだ。
 しかもその他者とは強烈に自分に対して敵意を剥き出しにする場合ばかりではない。あらゆる善意、優柔不断といった中庸的態度全てに適用される。
 そもそもある言辞において、その言辞が「語り」として有効であるか否かは、その「語り」が指し向けられる他者に対する感情的な敵意に満ちていて、内的感情そのものを表示しようとする場合(現実にこれ以上その他者とかかわりたくない場合には仕方ないだろう。)以外は、端的にその他者の行動や思想や、見解等に対してそれが間違っているという指摘そのものの正当性と、その正当性に対して他者が聞く耳を持つような話し方とか態度、論理的な筋道を持っていることである。このことは次節においてより詳細に論じることとなるが、要するに他者の人格そのものに対する非難ではなく、行動、思想、見解に対する批判であるべきなのである。それはパトスではなくエートスとしての他者との接触以外のものではないだろう。しかしこれも次節で扱うが、その事実は寧ろ人間はパトスとして行動することの方がずっと多いということから来る意図的、意識的な行動原理としてである。
 「語り」にはそれを語る人間の出自とか、性格とか、人格といったことは関係がなく、語る内容そのものの正当性、説得力が最も重要である。勿論それはそれを語る者の出自とか性格とか人格をもって聞くに値するか否かを決定するという現実が一方で存在するからこそ意味があることなのである。つまりある者の語りを聞くに値するかという判断が前もってあるからこそ、我々はその内容が優れているか否かという判定そのものを用意するか否かが決まってくるのであり、そもそもどんなにいい語りを語る能力を有している者でも、その語りを語る機会を得ることがなければ宝の持ち腐れである。そしてそういうことというのが意外と人間社会では多いのだ。だからこそ我々は一方でどのような者の語りでも、その語る内容と、語り方から説得力があり、論理的に優れているかという査定が重要であるというモラルを携えるのである。

Monday, October 5, 2009

<他者と衝動‐羞恥論序説>1、私と他者

 「私」という衝動は他者が作る。
 私たちは哲学という考えを抱いた。それは内的根拠への希求でもあった。現代の脳科学では全てを脳内現象として考えることを再考している。再考しているのだから、哲学ではもっとずっと早くその考えを射程に入れていたのだ。例えばデヴィッド・ヒュームがその代表である。心理学とか認知科学においてかつて論争された生まれか育ちかという問いは、遺伝子と環境ということであるが、純粋に経験によるものであるのなら、それは遺伝子からも環境からも一つの行動やその行動を誘発する因子を決定することが出来る。そして宗教という気分についてもそれなりの根拠を見いだすことも出来る。
 あるいは好き嫌いという感情もまたそれらが複合して作られるということが証明されるかも知れない。

 しかし形而上学的に捉えればカルテジアンでさえ大いに認めていることだろうが、対自とか内的関係ということの前提に他者が控えているということは最早動かし難いと思われる。しかしそれは弁証法的な認識だけでは問い続けることが出来ない性質のものであろう。弁証法を極限まで推し進めれば、神という観念を認めなくてはならなくなる。つまり理性論的思考の行き着くところは神の問題である。あるいは神に対する問題である。だから理性論から逸脱するという試みもまた、その神の問題に絡め採られているということを意味する。しかし他者の問題は神よりも先験的なことなのだ。
 私という意識は脳科学が生をシンボライズした形で捉える「意識」という客観的分析対象とは自ずと異なる。自我としての私、「今、ここ」にいる私、身体的存在としての私、あなたではない私、様々に述語化し得る私とは、他者を私が認めた瞬間、つまり私が私にとっての他者を認めた瞬間私の中にえも言われぬ衝動を齎す。そう私が記述することを可能にするように他者が「私」を与えてくれる。そのように与えてくれるように私は他者を認め、他者を望む。
 しかしその衝動とは一体何なのだろうか?
 意志を伝えるということは、即ち私が言語を通して他者と私、他者によって私を覚知し、私によって他者へ関心を寄せることを促す共通の場を私が他者との関係を通して構築してゆくことに他ならない。
 他者、それは悲劇である、と昔誰かが言った。私は私こそが悲劇の元凶であると言いたい。
 私が他者より先に、あるいは他者より後にこの世から姿を消すという、恐らくやがて来る逃れようもない事実こそが、ある意味では私が私の中に作る他者の起源である。そしてそれが有する悲劇性の中からしか真実を見いだせないという私の在り方そのものが一種の衝動なのである。
 すると私は次のように私を巡る実存を表現することが可能となる。
 私とは、私が他者を私の中で作り、その他者と実在する他者の一致点と、齟齬をきたす点において、他者と私の関係の在り方を知る、私の中の他者に対する、あるいは他者と接する私の衝動である。
 
 私は私という衝動、それは私が私という存在を他者へ認めさせる欲求であると言い換えてもよいが、それに支えられている。
 サルトルは「存在と無」の<時間性>の中で恐らく極力他者の存在によって影響を被らない範囲での私に拘ったのだ。それは私を自由と責任において認可する原初的な個というものの存在の仕方へのアプローチだったのだろう。
 レヴィナスでは私は他者へ差し出されている。それは存在しているという事実において人質以外のも
のではない。私たちは彼を通して私たち自身が私の顔に捕らえられているということを気づかされた。
 私は私という衝動を生きる。そして私という衝動は他者、私が覚知する他者が作る。つまり私という衝動とは、私の他者に対する覚知そのものなのだ。私がここにいる、私は今いる、ということは他者がそこにいるということであり、他者があそこにいるということを知っていても、つまりその他者が私を必ずしも眼差しておらずとも、私はその他者の存在(あるいはその覚知)によって、私が私という衝動によって立ち上げられているのを感じる。
 他者、それは何とやりきれない響きなんだろう。他者、何と私たちはこいつに翻弄され続けてきたことだろう。全ての宗教、全ての文学、全ての芸術は、他者がなかったなら、ただの幻想であり、ただの物質の集合である。一枚の紙にしたためられた文字と記号を意味あるものとするのは、他者である。私の中の他者への思いである。
 他者、それは私が私であることには全く無頓着であり、私の存在をある観点からは無視し続ける。私が私の生を引き受け、私の生活を引き受けるということは、私がある特定の他者に対しては強烈な眼差しを差し向けるが、同時に多数の他者を無視し続けることを意味する。
 それは私が他者だけはどうすることも出来ないということを知っているからである。だからこそ私は私にだけ知られ、他者には知られることのない私の誰かに注がれる眼差しが他者からの一切の干渉を免れ、自らによって所有されることを知っている。
 しかしそれは別の見方をすれば、そのように他者を常に私による関心対象という射程に入れておくことそのものに翻弄され続けているということでもある。
 要するに私は、私の眼差す対象への関心において、他者を私の内的関係の射程内に入れながら、その実そうすることによって私の関心を構成していることをまざまざと知らされるのである。
 その時私は、私一人ではない、と悟るよりはその他者を通して益々私は一人ぼっちであるよりないと悟る。寧ろ私は他者というものがこの世に一人もいないのなら、私が私であることを内的に得ることもないのだから、恐らく孤独というものを感じずにいることが出来たであろう。しかしそういうことはあり得ないと私が知ることで、私はどこまでも一人であると感じ続けることになるのだ。
 私が一人であるのは私以外の他者がいるからである。私は他者という私の関心の中で一人なのだ。それは他者が私と同じように感じているだろうと私がそう思っても、そう思うことと、私が一人であると私が感じられることとの間には圧倒的な違いがある。そのことを徹底的に問うているのが永井均である。勿論その問いは延々と哲学では論じられてきているし、解決がつかない問いであることは哲学者を自認する者は誰でも感じ取っている筈だ。
 中島義道は永井の問いはデカルトを超えていないとしている(「観念的生活」より)が私にはそうは思えない。永井の問い、つまりこの圧倒的な違いをデカルトは突き詰めていないと私は思う。寧ろその問いの重大性を感じ取っていたのはウィトゲンシュタインではないだろうか?言語ゲーム、私的言語という形での圧倒的な違いを問いとしては顕在化させている。勿論彼はそこから先へは進まなかったが。
 私たちの言語は欲望を理想化している。言語が倫理を作るのではない。欲望が倫理という一つの衝動を作り出す。抑圧された欲望を私が見る時、私はそこに抑圧する、あるいは理性によって制御しようとする衝動を読み取ってしまう。それはある意味では読み取られやすい衝動である。
 私たちの関心とは一つの志向性であるが、言語は我々の関心を納得させ、判断の構造を形作る。しかし判断の根源には欲求が控えている。ここで言う根源とは原因としてではない。判断の本質のこととしてである。それはアントニオ・R・ダマシオが考えている理性を制御し得るのは感情であるという考えとも一致する。情動から感情へと至る回路それ自体一つの衝動なのであり、その衝動とは我々に我々の
欠如があるということを知らしめる先験的な欲望なのである。
 すると欠如が欲望を内部に自覚させ、欲望が欠如を作り出し、私たちは他者を自己の中の欠如を見いだすために利用する。私という衝動は、自己の欠如を他者において見いだすことによって得るのだ。
 その欲望と欠如のサイクルを円滑にするために衝動が私たちを支配する。私たちは衝動を利用しているのではない。欲望と欠如のサイクルを滞りなく捗らせるために我々が衝動に利用されているのだ。だから逆に我々は自由と責任を、そして倫理的問いという衝動を持つのだ。持たされるように持つのだ。
 言語という衝動、倫理という衝動、自己抑圧という衝動、私という衝動が常に不可分に一体化したような形で、時々その中の幾つかが大きく浮上するだけのことである。
 私という衝動が他者を利用し私の中の欠如を知らしめる。他者に対する衝動が私を利用して、他者の中に欠如を告げさせる。私はそうすることで一時安堵し、同時に不安にもなる。不安が安堵を齎し、安堵が不安を再び作る。欠如に対する認知が不安を作り、その不安を解消するために私は他者を利用する。
 他者は私が利用するために存在しているのではないが、そういうものとして私は望む。そうすることで私は私が他者ではない私であるということを再び自覚する。しかしそう自覚せざるを得ないのは、私が他者の中に私の欠如を見いだすからだ。私は私の中に他者にはある私の欠如を知るから、他者を求めるのだが、同時に私の中にはあるが他者にはないものを望む。そしてそのような形で私が他者と接することをその他者も求めることを望む。それは一つの他者への私の側からの衝動であるが、他者の衝動を私は私の側からの衝動という圧倒的な違いの中に感じ取る。その感じ取り方は恐らく恐れと羞恥なのである。
 好き嫌いという感情は常に一つの感情の中に混在している。他者が好きなのも、嫌いなのも恐れと羞恥によって感じさせられていることなのである。敬遠も近親憎悪も共に恐れと羞恥の一体化した感情が作り出している。
 
 他者がそれ自体衝動であるのは、私が私の中に他者を、他者の中に私を感じるからである。他者の衝動の中に私の衝動を感じるからである。私の中の衝動は、私にはある意味では理解出来ない。だからこそ私はそれを知るためにも他者の衝動を利用する。
 私は私の自由を私の衝動には見いだし得ない。だからこそ私は私を抑圧し、ある意味では私の衝動を殺す衝動を作る。私の自由が私の衝動を殺すが、その殺す自由も一つの衝動なのである。そのように新たな衝動を常に作るのも私の衝動であり、そこに私の欲望と欠如のサイクルが控えている。何故私が私を殺しさえしようとするか、それは私が他者の衝動を殺すことが出来ないからなのである。私に出来ることと言えば、せいぜい他者の衝動を引き起こすことと、他者の衝動を見えないようにすることくらいである。私は要するに他者の衝動をどうすることも出来ないのである。だからこそ私にとって彼(女)は他者なのである。
 そしてそれは恐らく他者にとっての私もそうなのである。確かに私以外の全ての成員がゾンビである可能性もなくはない。しかしもし私以外の誰もがゾンビであるのなら、まず私だけゾンビであり、他の誰もがそれを知らないという可能性の方も考慮に入れなくてはならないだろう。
 だから私の存在が他者にとって脅威であるとかゾンビであるとかそういうことを決して私は私が私の心の中で存在する彼(女)に対する思いのように知ることは出来ないし、それは推測の域を出ないものなのであり、それが推測ではなくて真実であると思いたいから私は他者を信じようとするのである。あるいは信じたいのである。あるいは信じたいようなものとして、信じたいようにするために他者を求めるのである。
 他者の中にある私の中から見いだせる欠如を私は容易には知り得ない。だからこそ私は彼(女)を他者と呼ぶのである。

 恐らく判断の構造は言語にある。しかし判断の根拠に衝動がある。衝動の本質として欲望と欠如のサイクル、つまり運動がある。私たちの行動は私たちの衝動が突き動かすが、衝動が私たちの行動によって作られている。しかし他者の行動は私にとっての他者の衝動と繋がっているように私には見えない。
 その時ただ私は繋がっているのだろうと私を納得させるために理解しようとするだけのことである。そう解釈するだけである。だから理解と解釈の起源には他者がある。他者が私にとって存在しなければ当然私というものはあり得ないのだから、理解することも解釈することも生じ得ない。だから信じることも、信じたい(信じたいということは、私の中の欠如を他者に求めることである)ということも全くあり得ないということなのだ。信じることは他者が私に齎してくれる恩寵である。私は他者への衝動のどうしようもなさの中に私が他者を信じるという気持ちを得ることが出来る。
 他者の不在はだから他者がいないことではない。他者がいないのなら私でもない<私>の身体は何物からも翻弄され得ないだろう。たとえ豪雨が襲ってきても私でもない<私>の身体は平然としていられる。私は他者の存在によって豪雨を嫌がり、喜び、地震に恐怖し、あらゆる災害を忌み嫌い、ことの成り行きに焦燥し、他者の中にある私の欠如したことにおける充実に嫉妬し、そこに運命の翻弄を感じ取る。翻弄とは「私の中の欠如」という私が他者から得たものを私が他者を通して知るから感じ取ることの出来る状態なのである。私はある意味で私の中での固有の欠如を通してのみ私を理解する。解釈する。あるいはそうするように他者が私を理解し、解釈するだろうと推測する。
 しかしそのような理解とか解釈は、私が私の中で他者に対してするそれらとは圧倒的に異なる。私は私を信じるし、信じたいがそれも私が他者を信じ、信じたいのとも圧倒的に異なる。
 私はまず私に対する解釈や理解に対して客観的にはいられない。過去の自分に対してなら多少そういう解釈や理解が出来るように感じる。しかしそれは完全に客観的なものでは決してない。勿論そのことそのものに対して客観的になることくらいなら出来る。しかしそれでさえある意味では恣意的に自分を他者のように視る視点を獲得する想像上でのことに過ぎず、私は恐らくいつまでたっても、私自身に対して客観的になることは出来ない。だからこそ客観的な対象となり得るものとして他者を必要とするのである。しかし私は何故私自身に対して客観的でいられ得ないのだろうか?
 私に対して向かう時の私とは、他者に向かう時の私とは明らかに違う。私は他者に想像の上で向かう時、あるいは実際に他者と接する時、私の中の私が知る欠如を客観的に見ることが出来る。欠如している自分に対する客観視とは端的に解釈や理解が客観的ではなく、主観的であるということにおいて、可能である。つまり私は自分に対しては客観的であろうとする主観でしか接することが出来ないのである。だからこそ私は私の欠如において他者の充実を見る。端的に私にとっての他者とは他者の中の私にはない充実なのである。私にとって他者の中の私にはある欠如とはア・ポステリオリに知ることが出来るかも知れないが、それは圧倒的に乏しいし、そうであると思っていても、ただの自己欺瞞である可能性すらある。そして私は私の中の欠如をそう容易には私によって補うことも出来ない。私の中の欠如とは、私が発見した瞬間からいつまでたっても、私の中の欠如であり続ける。そういうものとして私に私の欠如を知らしめるものとして他者が存在する。
 私は他者の欲望や衝動、あるいは欠如ならば客観的に見ることが出来る。それは他者が私の欠如を知らしめてくれるということに対する覚醒において他者を私の起源とするからなのだ。だから当然私は私の欲望や衝動、及び欠如を客観的に見ることは出来ないから、主観的でありたいと望む。時として確かに私は私に対して客観的でありたいと望みもするが、既にそのように望むこともまた欲望であり、衝動であり、自ら欠如であることを知ることだからそれはやはり主観でしかないのである。
 だから恐らく他者に対して差し向けられる感情そのものは客観的でいられない。他者に対して注がれる視線や眼差しは客観的足り得るだろう。しかしその視線を注がせる感情そのものに対して客観的ではいられない。だから他者に対してなされる判断そのものに対してなら客観的でいられる。(過去の私の判断だから)しかしそうであるのもただ私が他者に対する感情そのものに胡坐をかいているからに過ぎない。
 しかしそのことは私自身に対しては適用出来ないのだ。私は元来私には日頃確認出来ない他者に対する私の視線を、それが客観的に確認することにおいて他者を必要とするという意味で私は私の視線の意味を客観的に捉えることなら出来るが、私が私自身を見ることそのものを客観的に見ることは出来ないのだ。何故なら私が私に対して注がれる視線そのものは私がその時どういう視線であるかを鏡によってなら確認出来るが、その鏡を見ている時の自分と鏡の自分から見られていることを確認する自分とは常に容易に入れ替えられることを知っているからである。しかしこの点私が他者に注ぐ視線がその他者にとってどういうものであるかという事実は私によって勝手にはどうすることも出来ないからである。それは決して入れ替えられないのだ。要するに私は私が他者に注ぐ視線の意味を他者という存在によって私が知らされることによって、私は私という存在を公的なものとして知るのだ。しかしにもかかわらず私が私を見るということに私は私的以外の意味を見いだすことが出来ないからなのである。私の視線が、齎す意味を私に教えてくれるのは私にとっては他者のみなのである。
 私には私の中にある私の好きなところも嫌いなところも、私が私を見る限りは私的なままに留まるが、一旦それが私を離れれば私はその好きなところも嫌いなところも私の自由にはならない。私が私自身に対して抱くことの出来る固有の感情とは、私が他者に与える固有の感情(つまり他者が私に対して抱く感情のこと)とは本質的に全く異なる次元の問題である。だからこそ私は私自身に対して持つ固有の感情が客観的に判断することが不可能であることを知るが、それは同時に私が他者に与える感情に対してなら客観的に判断出来ると思えるから、逆に壁をそこに見いだすのだが、その壁はある意味では私にとっては、他者が私に対して抱える感情は見えないからこそ、私には切実だという意味において、私にとっては主観的にしか捉えられないということになり、私は私の感情が客観的に捉えられないのと同じような意味で他者の感情を客観的に判断出来ても、尚その感情が私に向けられているということそのものに対しては決して客観的ではいられないという意味で主観的な壁でしかないのだ。つまりこの私が勝手に他者との間に築く壁とは、実は他者の衝動を私にはどうすることも出来ないという私自身の固有の感情によって作られるものなのだが、では私が感じる私と他者の間の壁という私と他者の絶対的違いから、私は私の衝動なら他者の衝動とは違ってどうにかすることが出来ると結論し得るのだろうか?
 そうではないだろう。そのことなら既に述べたが、私が仮に私の衝動を何とか納めようと思っても、その思いもまた一つの衝動でしかないからである。すると私が他者の衝動はどうすることも出来ないと思っていたことそのものに誤謬がある可能性を否定出来なくなる。
 しかしこうも言える。私が他者の衝動をどうすることも出来ないと言う時の「出来ない」と、私の衝動をどうすることも出来ないと言う時の「出来ない」とでは全くその性格は異なるだろうということなのだ。つまり私が他者の衝動はどうすることも出来ないと思っていたことそのものに誤謬がある可能性とは、他者だからこそ他者を信じることを通して他者から私に対して注がれる視線くらいならどうにかすることが出来るという形で私は他者の衝動に介入することの可能性を示唆しているのである。
 しかしそう言うことが可能であるということは、私はいつまでたっても、他者の衝動に関してなら、かかわらないようにすることも出来るのに対し、その事実自体が逆に私自身の衝動に対してはそのようにすることは決して出来ないという決定的な「出来ない」の性質の違いを私に直撃する。
 つまり前者の「出来ない」は私の自由と責任を前提しているが、後者の「出来ない」は私の自由でも責任でもどうすることも「出来ない」のである。
 と言うことは自由と責任には他者が絡み、他者は自由と責任によって認識出来るが、私という他者との連関によって得る「一人でいる私」そのものは他者に対する説明責任によって自由を確保し得ても、その私内部の衝動そのものは、私が生きている限りどうすることも出来ないということである。(外的関係としての「私」と内的関係としての(永井均的な)<私>)
 だから私は他者の衝動をどうすることも出来ないのは、決定に関してであり、動機に関してではないのに対して、私は私の衝動をどうすることも出来ないのは、動機に対してであり決定に対してではない。だから私は私に対する他者の衝動を回避したいのなら、端的にその他者に無関心を装っていればよいが、どんなに私が私に対して無関心でいたいと私が望んでも私にとって私の存在は無関心ではいられないのだ。私は他者に対して干渉しないという決定は容易であるが、同じことを私は私自身には適用出来ないのである。つまり私は眠たい時には眠たいのであり、考えたい時には考えたいのであり、死にたい時には死にたいのである。
 だから私は他者の衝動に対して介入出来るような意味では、決して客観的に私の衝動に対しては立ち向かえないのである。確かに私はあらゆる他者の他者による決定に参加することは出来ない。しかしその出来なさそれ自体において、寧ろ私は気楽に他者の動機に介入することが出来る。それこそ客観的にである。つまり他者による全ての決定に私はどうすることも出来ないのにもかかわらず、私が私の動機にも決定にも気楽に介入することが出来ないような意味で常に他者には気楽に介入出来るのである。だからどんなに親切であっても、他者の動機に対して介入することは私に対してよりも決定的に客観的なことでしかないのである。
 それは直ちに次のようなことを意味するだろう。つまり私はあらゆる他者の決定に対してどうすることも出来ないということは、要するに他者が他者によって得る衝動をどうすることも出来ないということを意味するが、少なくともそのことによって寧ろ他者の衝動に接することを回避したり、忌避したりすることくらいなら出来るという意味において他者は私には介入してこられないということを意味するのだ。それは私が私の衝動を特に他者に対してのものであるならどうにかすることが出来ても、私のその衝動に対して接することを回避することだけは決して出来ないということをも意味するのである。
 もしそれが可能であるとするなら、それは私が私の心から永遠に離れるということ、つまり死以外にはない。しかし私が死ぬということは、私が私と接することが出来なくなるということなので、私はそこから離れることすら出来ないということも意味するだろう(死によって私は私でなくなる)。 ここでこれまで考えてきたことを纏めておこう。

① 私は他者の衝動を変えることは出来ないが、変えるように介入することくらいなら出来る。つまり他者の動機に対してなら介入し得るが、決定には参加出来ない。

② しかし私は他者の衝動と接することを避けることも出来る。

③ 私は私の衝動を変えようとすることなら出来るが、その私の意志もまた、私のもう一つの衝動以外の何物でもない。

④ 私は私の衝動と接することを避けることなど出来はしない。

⑤ 私は他者に対する感情をどうすることも出来ないが、その感情自体を客観的に捉えることくらいなら出来る。だから時として他者の感情に干渉しようとするのだ。

⑥ しかし私は私に対する感情をどうすることも出来ない上、その感情を客観的に捉えることも出来ない。

⑦ しかし⑥を補足するのなら、私は過去の私に対してならある程度それが出来るように思える。しかしそれも所詮完全な客観視ではない。

⑧ つまり私は他者の衝動や感情に対してなら介入することは出来るが、決定することは決して出来ないのに対して、私は私自身の衝動や感情に対しては、決定するだけであり、決して介入するのではないのだ。私は私自身の衝動と感情それ自体でしかあり得ないのである。

 デカルトは衝動というレヴェルから私を考えることはなかった。彼にとって情念として衝動を認めることがあったとしても、それは私の意識とか自我を支えるものとしてではないだろう。カントも衝動について触れているが、衝動が理性や判断を支えるものであるとは思ってもみなかっただろう。
 中島義道氏は判断の構造を問うことが哲学であると確信し、山口一郎氏のように判断の根拠を問うことを判断の構造が私たちに与えている根拠への所在を巡る追求という眩惑的行為をただ私たちに与えているので無意味であると考えているようだが、これはロボット工学者出身の脳科学者前野隆司氏が脳は私たちに意識という幻想を与えていると捉えることに近い考え方である。何故なら脳が判断の構造を担っていると考えているからである。だからこそ中島氏は脳構造の根拠を哲学的に問うことを不毛と考えているのである。
 このこととも関係があるかも知れないが、中島氏は「今」とは恣意的であると考えているが、今だけではなく「暫く(の間)」も同様であろう。それらは恣意的な判断に供せられるのであり、単に副詞であるのではなく様相論的カテゴリーに属するからである。
 しかし脳科学者である茂木健一郎氏は「欲望する脳」において述べているが、「コンフーバーとディーッケが報告した「準備電位」は「指を曲げる」といった随伴運動が意識的に開始される一秒前に脳は既にその準備となる無意識の活動を始めていることを明らかにした」のだ。すると我々は山口一郎氏の考える判断の根拠への問いとはfМRIで確認する自然科学の脳機能と構造への分析とも図らずとも一致しているが、それを現象論的に捉えればその捉え方は我々が既に科学的認識として持つ客観的自己像と対峙させることになるが、哲学者は機能(それもまた一つの他者であるところの)論としてではなく、現象論としての分析に徹するべきであるという中島氏のスタンスは脳科学との分業を明確にするという意味においては有効であると言ってよいだろう。何故なら科学とは機能という対象化された分析を内的関係においてなすわけではないからである。我々は心を現象する。心は機能しているのではない。意志も機能しているのではない。我々は意志を持つように現象している。しかし脳はそれを先取りしているとは言えるだろう。そしてその先取りしている脳を現象するものこそ我々のその時々の心なのである。そして科学的に言えば心は脳が作り出した幻想であろう。しかし脳が心を幻想として作り出すという認識を科学的事実として信頼するということもまた心によってであり、しかも科学への信頼そのものが脳によって育まれた心による決意なのである。
 そもそも言語を通して私の意志を他者へと伝えるということの内に存する他者と、私がその存在を確認するだけの内にある他者とでは、その性格を全く異にする。そのことについて暫く考えてみよう。
 私は何かを他者に伝える時、それがパントマイムであれ、手旗信号であれ、手話であれ、発話であれ、私にとって他者は私の意志を理解してくれる存在者として、私によって承認されている。
 しかし、その存在を容認しながら、一切の意志伝達を発動させない他者とは、それが自分の近くにいればいるほど、通りすがりではないものの、相互に意思疎通の意志のない意思疎通意図を承認し合わない敬遠関係にあると考えてもよいだろう。しかしそれにもかかわらず、恐らく私はその他者が場合によっては私と意思疎通し合える可能性だけが所有していると捉えるなら、その者はただの他人ではないだろう。しかし特に都会ではそのように全ての他人を他者として意識することをしていたら身が持たない。
 それはある意味では摩擦を回避する最良の意図によってそうなのかも知れないが、あるいはより日本語的美徳として受け取れば中島義道氏の忌み嫌う遠慮によってである。しかしこのような関係にある他者は畏怖の感情が募り、やがてその存在感は逆に頂点に達する。つまり意思疎通し合う(可能性のある)他者というものは、畏怖の感情が後退していると言えるからである。しかし他者に対する畏怖の念はある意味ではそれを払拭する意味合いにおいてこそ存在理由がある場合もある。意志伝達の意欲と衝動を掻き立てさせるために必要なものとは端的に畏怖と羞恥であろう。
 意志伝達意図を相互に承認し合う他者間の関係とは、信頼を駆動させるために相互の存在をまず承認し、暗黙の内にまだ発話していない内から他者存在そのものを容認しているということである。それは事実関係としては原初的な他者への好奇心と私という意識の衝動の発生基盤である。
 つまり信頼の伏線には敬遠と遠慮が先験的にあるからこそ、それに追従することを中島氏は主張するのである。ミシェル・アンリは次のように「受肉」で述べている。(387~389ページより)
 
 (前略)もし欲望が、他人の生それ自体において、他人の生がそれ自身の根源的肉のうちで自己自身に到達するところにおいて、他人の生に到達したいという欲望だとしたら、この欲望はその目的に到達しないのである。
 それは性的行為についての或る現象学が、同じ仕方で示してくれるであろうところのものである。恋人たちの夜において、性的行為は、それぞれが自己の見えない物的身体の抵抗する連続体につまずくことになる二つの欲動的運動を、対化(acoupler)する。自己の見えない物的身体は、このように、二つの欲動の各々にとって、各々に服従し・次いで各々に自らを対置し・各々を圧し返す、この動く限界なのである。交換においては、二つの欲動が反響し合い、各々が自らを展開し、かわるがわるに譲る。しかしながら現象学的状況は、次のようなもののままあり続ける。つまり、各々の欲動がその能動的諸様態と受動的諸様態との交替のなかで認識するのは、けっしてそれ自身でしかなく、自分自身の運動でしか、また、その自己の見えない有機的身体の限界において感じ取られた諸感覚でしかない。他の欲動、他の欲動が体験するものは、前者が体験するものの彼方にとどまる。各々の欲動にとって、それ自身における他の欲動に到達できないというこの無力は、オルガスムの絶頂感におけるその解明にいたるまで、欲望の緊張を激化させ、したがって各々の欲動は、他の欲動が体験するがままの他の欲動のオルガスムを体験することができないままに、自らのオルガスムを有している。もし性的行為におけるエロス的欲動がかくのごときものであるなら、そこにあるのは、やはり失敗なのである。
 そしてこの失敗は、各人にとってそれがそれであるところのものにおいて、捉えられなければならない。この失敗は、一種の内在の断絶に由来するのではない。恋人たちの接吻をまえにして、この優しい行為の評価がリルケから、次のような幻滅の叫びを引き出すときのように。「ああ、いかにそのとき奇怪にも、すするものの存在はすするその行為から離脱してゆくことか」。愛の対化のうちに介入するのは、ひとつの「離脱」、ひとつの放心なのではない。もちろんそれは、そこに生じうるのだが。他人の快楽が自己自身に到達するところにおいて他人の快楽に到達することに欲望が失敗するのは、欲動の内在においてであり、各人にとって他人が両者を永遠に分かつひとつの壁の向こう側に位置するのは、恋人たちの夜においてである。その証拠を与えてくれるのが、行為の完遂のあいだ、恋人たちがかけ合う合図である。問題とされるのが、言葉なのであれ、ため息なのであれ、様々な表明なのであれ。したがって求められている一致とは、或るひとつの超越論的<自己>ともうひとつの超越論的<自己>との実在的同一化や、唯一の流れに融合する二つの印象的な流れの覆い合いではなくて、たんにせいぜいのところ、両者の区分を超克することのできない二つの無力な痙攣の、クロノロジカルな一致にすぎないのである。

 このように相互に自己と他者の間の理解し難さを語るということの内において、私が他者と接する時の「あるべき姿」(それを私は羞恥の克服と考えているがそのことは次節で論を展開したい)を希求するという私たちの一つの傾向を捨て置けないものとしてアンリは捉えていたということをこの記述は示す。
 ある種の理解し得なさ、し難さとは、そのことに対する自覚だけが私という衝動を、他者に対して「語る」ことを通して、私の孤立とその克服を試みんと欲する私たちが私たち自身に対して他者と衝動という人間的責務を際立たせることともなるのである。そうなのである。他者も衝動も人間的責務という感情なのであり、それ自体が根源的な衝動なのである。勿論それは原因なのではない。根幹に存在する存在者に固有の「生きている感じ」なのである。
 他者、それは私による私の意志の発動(脳が私に命令していると脳科学では考えている)と、それを他者に容認させようと欲し、他者もまたそのようなものとして容認することを通して孤立(それは他者が私に作らせるのだが)を克服する私と他者相互の協定という一つの衝動なのである。それは根源的な固有の「生きている感じ」以外のものではない。

Sunday, October 4, 2009

<行為哲学によって掬い取れ得る考え方について>

 今まで述べてきた選挙における投票を巡る心的なプロセスや、ある候補者を選び取る際の理由としてある意味では自覚的に、ある意味では事後的に心的様相を理解し得るものは実は全ての行為選択において採用し得るヴィジョンであるとも言い得る。
 というのもある行為、行動を規範として決心させるものとは、合理的に納得し得る理由(たとえその行為が非理性的であってさえ)の有無が重要な要素として浮上し得るからである。ある行為が理に適っているかいないかということは行為を正当化し得る重要なキーとなる。
 ある行為が例えば200X年夏の総選挙を振り返り、自己の投票行動を反省する時、自己選択が仮にテレビによるイメージ像による信頼感を機軸としたことを別段反省する(哲学的な意味での反省ではなく、日常的使用法によるの反省の意味)ことを必要的な意図としなくても構わないのだ、と考える向きは懐疑的な一党独裁的な今日の政治状況を憂う意識はない、別に現状のままで一向に差し支えないのだ、という観点によって裏打ちされている。そしてそれを憂うこと自体が教条的であると思われるという視点もまた別段自然な認識ではないとは言えないであろう。この事実は四年前の選挙でも今回の選挙でも言えることである。ただ一党独裁の持っているイメージが時代的状況の違いから違って感じられるだけで、本質的に健全な二大政党制には程遠いということに関しては四年前も現在も同じである。
 勝利予測可能性によって全体的なバランス(与党、野党議席数比の)を考慮に入れて投票する行為性には客観主義的な色彩が感じられるのに対して、その政策であれ、イメージ像であれ、兎に角贔屓であり、支持出来る候補者や党(今回のIOCのオリンピック開催国の選別ということにも当然言えることだが)にのみ投票したいという行為性には主観主義的色彩が感じられるだけである。そしてそういう2種の行為を誘引させるものとはその投票者の日常的な世界観や社会観が投影されている。そういった世界観や社会観は、ではどのような現実によって醸成されるのであるかを考えると、その投票者の日常的な慣習性やその投票者が住む地域コミュニティーの考え方、その個人の育った家庭環境や職業的な社会的地位(やそれに付随する職業的知性に伴う固有の判断力)その他様々な要素が複雑に絡まりあって一面的な根拠を論うことは出来ない。性格遺伝子的な判断も手伝うであろう。
 いずれにせよこういったたった一つの投票行動を分析してさえ、多層性が如実に垣間見られるのであるから、もっと日常的な行為においても微細な誘引性を持ち一つ一つの行為を実は今まで述べてきた多層的な選択性が支配しているものと思われる。しかもどこからどこまでが意識的な理性論的な意志決定合理化システムによって為され、どこからどこまでが潜在的な無意識の蓄積が理性論の装いを持って我々の意識を醸成しているのか、という判断は実は極めて困難である。
 テレビでそういった繰り返し反復されるイメージがあるイメージ像(政治家の場合ならその政治家の考え方に関するステレオタイプ)を形成すると思われる時、そのイメージ像が巧みに放送メディアが編集的な検閲性によって情報操作していると感じられることそのものさえもが、贔屓の考え方に関してなら我々はそのメディアの物の見方に関して否定的な感情を抱かないものである。つまり反感を感じるタイプの像を圧倒的にクローズアップして報じた際に不快感を得るのだ。自己の経験的な判断においてこのメディアの情報操作には違和感を持つとか、この操作には順当なものを感じるとかは個人差もあるし、また視聴者の側もまた好む情報操作タイプの番組や好む放送局のニュースだけを中心に見るということもあるからである。
 信念ということを考えてみよう。例えば信念とは政治的な判断(つまりここで話題としていることに関しては投票行為)ももっと根源的な生活信条も規定し得る。信念が、では言語的な思考と関係があるのかという視点においてジェリー・フォーダーは脳内の言語的な思考に無縁の信念はないのだ、と考えるのに対して、ダニエル・デネットは、信念とは前言語的なものである、と基本的には考えている。しかし私は例えば数学的思考同様、信念もまた前言語的、非言語的思考とそうではない、あくまで言語依拠的な思考の二通りあると考える。
 例えば人間の生物学的な親和力は前言語的であり非言語的である。その最も顕著な例は愛情的な感情である。親子、家族、友人、仕事仲間、地域的な人間の繋がりと言ったものは全て人間にとって社会学的な認識以前に大切なものであり、社会学的な認識はそのア・プリオリを考察した結果にしか過ぎない。これらの感情も信念であると言える。
 それに対して社会的な複雑な認識、たとえ親子や家族において異なる政治的な信条や宗教心といったものは個人的な感情レヴェルでは前言語的であるものの、それを自己の信条として位置付ける際の合理的判断においては明らかに言語的認識、言語習得以降の人間の論理性と不可分ではなかろうか?我々は信念を考える時、その二つの要素が、どのようなケースにおいても複雑に入り組んで我々の眼前に顕在化していると考えるべきではなかろうか?
 贔屓筋的な判断、それは多分に性格遺伝子的な判断(社会生物学的な選好性ということ)によるところが大であろう。また政策中心の候補者選択は信条的な判断である場合が多いと思われる。しかも同時に厄介なことには前者にも信条から生み出される部分はあるし、後者にも性格遺伝子的な判断が寄与する部分があるということは容易に察せられるのである。その比率を一々我々は検討しはしない。それこそその比率は常に変化し得るものであり、常にその比率が決定されてもいないのだ。つまりその時その場で我々は常に可変的にその両者の比率や比重を変更させながら行為選択しているのである。
例えばある候補の好感度をメディアからの影響であると知りつつも敢えてそれを否定もせずに受け入れることは政治をある程度ゲーム的なものとして認識することを許容する考え方があり、逆にメディアからの影響であると気が付かない者は政治をメディアからの影響通りの実体として認識するからゲーム的な認識は希薄となる。またそうではなく、メディアからの影響を頑なに拒むことは政策として主張されている考え方がメディア的な好感度以上に切実であると認識する考え方であるから、政治の持つゲーム性を現実としては認めつつも理念的には否定する考え方に近いこととなろう。
 政治の持つゲーム性はしかしあくまで政治家の立場からする戦略性に他ならないのであって、それを見守る国民にとっては自己の推挙する政治家だけがそのゲームで勝利して欲しいと願う以上のゲーム性を通常求めはしないものである。にもかかわらずそれ以上のゲーム性をまるで観劇でもするかのように捉えるなら、どのような政治的状況になっても自己の生活水準が変化するものではない、という信念が存在する場合のみであろう。そしてメディアの形作る政治状況においてさえ、その通りだと思うことについては、我々はそれほど目くじらをたてて批判しはしない。寧ろそのメディアの論調が自己の信念に逆らうものである場合にのみ我々はメディアからの影響を受けまいと頑なになる傾向がある。そういう場合メディアのゲーム性は脅威となり得るし、また逆にメディアのゲーム性が自己の信念を反映していると感じられる場合のみ、我々はメディアの威力を信頼するのである。だからメディアというものはマスメディアとしての存在理由を自己の信念に沿って選択するということがある。例えばインターネットが新聞やテレビにない公共性の意義を持つと感じられる部分では我々はインターネットを最も有効な手段であるとするし、逆にインターネットにおける双方向的な可能性にもかかわらず、政治的な発言などが自由で検閲されないという利点ゆえに逆に微弱な落書きでしかないような各種ブログの自己満足性において我々は逆にテレビの持つ影響力を再び見直したりすることとなるのである。
 そのようなメディア選択における行為性を哲学的に解釈しようとすると、我々は何を真理として信じ、何を真理としては受け入れられないかという価値判断へと行き着くのである。それは選挙の際に投票する候補者の略歴や政見放送などから受けるイメージ像やら日頃の言動(メディアが作り上げている側面があるが)とかの選択基準の多様性を物語る。そのどれを最優先的なファクターとし得るかはその選挙自体の意義に対する認識や政治状況に対する読みによってもその都度変化し得るであろう。
メディア自体が全ての側面から他のメディアの存在を前提している。例えばテレビは新聞を視聴者が購読していることを前提して報道し、新聞もまたテレビを見ないで新聞だけ読むような読者は鼻から想定してはいない。全てのメディアが共同戦略を採り、新聞はテレビを見る読者を相手にテレビは新聞を読む視聴者を相手に相互にシナジーを構成している。またそれを我々は承知してそれぞれのメディアを受け取り、そういった関連性や独自性を個々に見出しながら利用しているのである。そこである政治家のポリシーを知ることにおいて新聞が最初である場合もあるし、テレビが最初である場合もある。しかしそれらが全て一体となってシナジーを構成する全体が社会のイメージを作る。それは我々を取り巻く社会のイメージである。その社会のイメージに拮抗するようなポリシーを打ち出す政治家を我々は頼もしいと感じる。そういった活劇的なイメージを劇場型の社会は要求しもし、我々自身も期待する。ある意味ではテレビが供給する社会像とは我々自身が要求しもするところの、期待し、それに応じるような社会像である。我々は実は期待を持ってそれを見、それが期待感に沿ったものであれば、メディアを我々の味方と捉える。しかしそれが期待とは別個のしかもそれ以上のものでない限り、失望感をそこに感じる。そして自己の判断と思われる我々の政治家に対する判定もよくよく考えればテレビが何度も繰り返すイメージに起因していたり、テレビが与える情報を基盤とした新聞の論説であったりといった場合が多い。我々の行為はだからどこからどこまでが自己固有の世界観によって形作られ、どこからどこまでがメディアの植え付けるイメージであるかどうかをよく見極めなければならない。しかし同時に我々は一々全ての情報を自己固有のポリシーによって獲得している暇はない。そうしようとすればプロのジャーナリストになるしかない。しかし少なくともある情報を別の筋からの情報と幾つかのパターンから収集し、それを付き合わせて比較研究するくらいの暇を作る、真にその情報を糧に何か判断する場合(例えば事業をするとかの)には、そういう余裕が必要であろう。
 それはある情報を入手する時我々自身が選択しているのだ、と自覚し得る範囲であればまだ救いがあるということである。というのも我々は常習的に見慣れたある放送局の番組やニュースを最初は自己の期待感に沿うものであると直感的にそう思ったからその放送局のものを中心に見る習慣になっただけであり、実はそうしながら次第次第にその局のポリシーに操られているし、中毒症状に陥っているのにそのことを気が付かなくなっている。時たま意識的に他局のニュース、他の新聞を見るという転換が必要となってくるのである。我々自身がある刺激を求めたりするように情報の入手を期待するある種の好奇心が局を時として「やらせ」に走らせたりするのだ。そういう捏造性を回避するためにも我々は一つのニュースソースに拘ることを避ける必要があろう。
 しかし今度は余りにも多くの情報をキャッチするようになるとそのニュースソースに対してよほど警戒しないと例えばインターネットの情報は玉石混交であるから、それが真実の情報であるかどうかを見極めるのは難しい。勿論テレビや新聞でも「やらせ」や捏造記事は厳然と存在するし(ただそういう場合は事後的には謝罪する)またグレーゾーン的な真実に関してはある特定の推測においてその真実をテレビ局や新聞社のポリシーに沿った形で解釈する可能性もあるから、それだってどこまで信頼すべきであるかは疑問であろう。しかしインターネットの情報は無責任な書き込みも多いし、また匿名性故に責任の所在を追及し難い。よってこの種のどこからどこまではクレディビリティーがあり、どこからどこまでがそうではないかの判定は結局のところ個人の裁量に委ねられている。だからある政治家の意見とかその経歴や生い立ちなどの分析自体もそれを取材する側の主観が紹介される際には大きなウエイトを占めるのであるから、そう容易に信頼すべきものばかりとは言い切れないであろう。その意味で誰か特定の政治家を選挙で投票する場合もその投票行動自体がそれほど大きな責任を問われないということが政治をもある種のゲーム(ダービーのような)に仕立て上げていると言えよう。
 しかし圧倒的大多数の人々が支持する政治家に対してある種のクレディビリティーを持つことは心的に自然な選択であるとも言える。物凄く多い情報量においてある種の新奇な情報、しかもある出来事を伝えるのに一般的な物の見方に抗した物の見方を信じるに足ると認識することを選択する時、我々はしばしば自己の知識量や判断力の正しさを絶対的に自信を持てるくらいにその種の状況性への的確な判断やら造詣の深さを要求されよう。しかしそういった中でただ新奇なだけの奇異な情報的真実(ある出来事に対してその実像はこうである式の)は往々にして疑わしいものも多いことは確かであろう。そういう意味において人気政治家を投票することは取り敢えず間違いないであろうという判断は、ある意味ではかなり順当な判断でさえある。何も態々隠された実像という別個の一般的判断に抗した物の見方を採用する必要性を殊更感じない場合には我々はメディアが訴える我々の期待感に応じた政治家像を信頼することを選択する。つまり敢えて奇異な判断を採用することのリスクを冒す意義を見出せない場合我々はあくまで順当だと思われる政治家に投票しようという心的な決心を持つに至るというわけである。
 例えばあらゆる社会的慣例、伝統的な儀礼性、天皇制などを筆頭に挙げられる日本人の精神性にまで深く根を下ろしたと一般的に思われる伝統文化(その種の伝統的な文化コードの研究家の研究を期待したい)さえも言語行為とかあらゆる行為の決心においては、その慣習性が大きく立ちはだかっているので、そういった伝統文化コードが押し着せるような強制力のみをそれほど取り立てて論旨にするほど精神的な重大さとか、極端に美化したりもする必要が殊更あるわけでもないと思われるし、と言って目くじらをたてて、実害を論じる必要もないものである。そういうものは西欧社会でもキリスト教伝統文化として根付いている。その意味では寧ろ形骸化しているのに尚消滅しない各種の伝統文化コードの今日的な日常性とかの部分から妥当性を考察する方がより意味あることであろう。投票行為ということを巡るある種の分析もまた、そういう意味では古代から綿々と受け継がれてきた伝統文化コードでもあるし、と言って伝統にのみ依拠するものでもない。今日には今日的な特異な問題もあるし、いつの時代にも変わらない部分もあると捉えた方がよい。
 人気政治家は過去にも大勢いた。またそういう指導力のある強力なカリスマが時代的風潮を形成してもきた。その意味では200X年夏の総選挙はK泉首相の独壇場であったととも言えるし、今回はそれ以降のJ民党に対する曖昧な政策に対してお灸を据える意識が爆発的M主党ブームを呼び起こしたのであるが、それは選挙当時の我々の心的なモードが構築した政治的な結果でもあるのである。多分にテレビその他のマスメディアが構築したイメージ像が作用した選挙結果をこうして現在目にすることが出来る我々にとって重要なことは、「敢えて一般論に抗してまで奇異な説に加担して別の候補や党に投票する必要性を声高に叫ぶ必要のなさ」というものの正体とは一体何なのかということではなかろうか?そこにあらゆる独裁を生んだ時代の過去における人類の過ちやいい意味での安定的な政権を保持していた時代の教訓を得ることが潜んでいるのではなかろうか?
 K泉首相はワン・フレーズ・ポリティックスという言葉で代表されるイメージにもぴったりの名演説、名話者であった。そういう意味では言語学、言語哲学、言語心理学等の分野で言われる自然言語と人工言語というカテゴリーに照らして言えばK泉首相こそ大衆を説得するのに必要な理想的人工言語の装いで自然言語を駆使しながら魅了したと言える。だからこそあのクーデターとも思しき行為が圧倒的大多数の国民の支持を得たのであろうと思われる。そういう一般論にまで自己政治哲学を高めた首相の手腕もさることながら、私はあのように国民が首相に魅せれていった心的なプロセスとそのプロセスが意味するところに大いに興味をそそられるのである。だからこそそのようなカリスマ性自体に対する反省意図という側面からH山首相に期待する向きも逆に今回の選挙では多かっただろう。

追記
 私たちはこの200X年の総選挙の後、首相の交代を四回経験したし、その間М主党の歴史的勝利に終わった参議院選挙、捩れ国会も経験した。それもこれもあの200X年における総選挙のJ民党の歴史的勝利と、それに伴うK泉首相の翼賛体制に起因していることを今更ながらに実感し得ている。そして我々は経済的な未来に対して輝かしい実績を挙げたその体制とは一体何だったのかと考えている。経済ということのグローバリズムに乗せるという政府の題目と、その際に切り捨てられる幾多の各論的な問題の狭間に我々がいることは確かである。そしてK泉首相を独裁的翼賛体制へと追い込んだのは、抵抗勢力であり、それを後押ししたのも我々なら、国際経済社会からの孤立を招いたのも我々である。もう一度あの選挙において国民が後押ししたものは何だったのか考え直すことには意味がある。そしてそれを支える我々の心理とは羞恥以外にはないのではないのか?
 つまり客観的にある人物を推し、その者に投票するということと、そうではなく贔屓感情からそれをすることの間に果たしてどれほどの相違があるのだろうか?これはある意味では人間にとって理想とか理念とか愛情との間の差異が一見明確にあるようでいて、そうではないことを物語ってはいないだろうか?そもそも選挙をするということにおいて成立している民主主義体制そのものが、我々が権力をある特定の人間たちに委ねるという形での我々固有の日常的羞恥に起因しているのだ。そのことを考えて私は「他者と衝動」を書いているのだ(次回からその論文をお届けする)。そしてこの前置き的論文である決心の構造の多層性(ある選挙に立ち会って)における決心と政治参加における原動力である羞恥に関しては3節の他者に対する羞恥の根拠に示した積りである。つまりこの前置き論文の分析がそのまま3節の主旨へと直結していると考えてくださって結構なのである。