Tuesday, October 27, 2009

〔他者と衝動〕結論 自己と他者①

 私たちが知る他者の像とは極めて限定的である。それは自分のことを考えてみればよく理解出来るだろう。私たちはあくまで自分のことを他人に告げる時、全てを一々誰彼の差別なく告白しているわけではない。羨ましいと誰からも思われている者が多大な借金を背負っていたり、崇高なことばかり考えているのだろうと敬意を集めている者がとんでもなく俗っぽいことを考えていたりするというのが人間の真の姿である。
 衝動と言えばよからぬ突発的で取り返しのつかない行動へと誘引するもののみを今までは扱ってきた。しかし他者性という認識と、そのことによる自己、私という像の創出それ自体が既に衝動であると捉えれば、我々は自己と他者との関係を、一つの衝動的な接触と捉えることも出来る。
 親密さというのは、ある意味では一定の距離を相互に取り合うことで保たれる。同時に不信の念というものは、それを打ち破ろうとする意志を読み取ることに起因する。しかし言語行為を持つことで一定の理解を得ることが人間関係であるとするなら、親密さはある部分では真意を表明する決意でもあるし、それは形を変えたプライヴァシーの吐露でもある。例えば職業的な秘密とか極意、あるいは何らかの専門的であるがために一々説明することを省略するようなことというのは、総じて他者に告げるべきものでもないし、告げる必要もないものだが、そういう秘密を保持して社会人として生活する実感そのものは、職業的な関わりのない自然人的な交際において告白しやすいということは言える。つまり社会的な利害関係のないところで成り立つ友情というのは概してそういうものである。つまり人間には夫婦にしか理解出来ないこととか、夫婦間でしか話せないこともあるが、同時に夫婦の間柄だから決して言えないこととか、聞けないことというのも多く持っているのだ。それは他全ての関係に当て嵌まる。親子、兄弟姉妹、近隣住民、同僚、上司‐部下、同業者、趣味のサークルといった人間関係において、自らの立場と近いからこそ告白し得ることと、逆に告白出来ないことというのがあるというわけである。例えばある老人が自分の抱く本当の意味での人生の悩みを孫にだけなら告白し得るということもあるかも知れない。却って実の息子や娘、あるいは同年輩の友人には決して言えないことを、孫の相手をしている時なら気軽に告白出来るということがあり得るかも知れない。つまり他者とは告白し得る内容の差をそれぞれが持っている存在であるとも言えるのだ。つまりこういうことはこいつには言えるが、あいつには言えないのだが、ああいうことはあいつになら言えるが、こいつには言えないのだ、ということ、つまり告白内容そのものの性質的差異において各他者というものの存在理由が位置づけられるというわけである。
 人間という生き物は、家族であるとか肉親であるから理解出来るということはあるが、同時にたとえ親子でも兄弟でも理解出来ないこと、あるいは何を考えているか見当もつかないことというのが必ずあるし、そうでなければ親子関係も兄弟関係の成立し得ないという部分さえある。
 あるいは既に述べたことでもあるが、本質的な意味では我々は自分というものの真意を掴むことだけに一生を費やすということさえ言えるのである。それこそそうなのである。例えば私は私の後姿がどのようなものであるか映像で確かめる以外に知る方法はないし、何より私自身が他者に対してどのように接しているか、例えば私の物腰はある特定の他者に対して温和な態度で接しているのか、表情が柔和であるのかとか、慎ましやかであるかとか、別の他者に対して威圧感を与えていはしないかとか、そういうことを直接知ることが出来ない。だからそういうことというのは敢えて誰か特定の他者から聞き出すしかない。つまり私は私自身を他者として扱う視線を有する他者には終ぞなり得ないのである。だからこそ逆に私による他者に向けられた物腰、態度、表情、仕種といった逐一が私以上に重要である存在者はこの世界には一人もいはしない。私は私に向けられた好意と、好感とによってのみ、私が私以外の他者に対してどのように接しているかということを知ることが出来る。勿論私に対する反感によってもある程度なら知ることが出来る。しかしそういう場合私はあくまでその者にそれ以上発展的な私の態度とか表情を作ることが許されているとは言えない。
 ある者が別のある者の彼に対する態度や物腰や表情の在り方を報告し、忠告し得るのは、その者が別のある者に対して信頼を寄せている時だけである。こいつにならこいつ自身がどういう風であるかを報告することが出来るということが思わせられるということが、その私をこいつと呼ぶ者に対して私が勝ち得る信頼である。信頼とはそもそも私が誰かに無償で何かをしてあげようという気持ちになることなのだ。その者に対して私は少なくとも信頼を寄せている。しかしその者も私と同じであるかどうかは分からない。勿論ある程度私がその者に寄せる信頼と、その者が私に寄せる信頼の程度と質が一致しているということこそが友情の萌芽であると言える。だから真に信頼し合えるということは、一致しているとは必ずしも限らないものの、少なくとも一致していることを常に願い、そのことに関してだけは信じて疑わないということが第一条件なのである。このことはしかし同性同士の友情と、異性間の愛情とでは勿論多少異なっているだろう。しかし信頼ということの内にはそのような性差とか立場の違いを超えて、信じ合えるのだという確信のようなものが必要とされる。つまりそれは一致とか完全性ということにおいてはやはり一つの幻想であることを全ての成員は了解している。しかしその幻想を共有し合えるということが重要であるという認識では全ての成員は一致している。だからもし相互に信頼し合えるという幻想さえ疑わしいものであるのなら、その者は恐らく他者に対してそれを他者であるとさえ認識し得ないということを意味しよう。それはデカルトのコギトとも関係してくる。もし疑わしいと実在そのものを疑っても、そう疑うことそれ自体だけは疑い得ようもないということなのだから。
 だから信頼関係というものは相互の幻想性と、幻想を抱くという心的な希求性を容認し合うということに他ならない。それはある意味では他者の衝動を直観的に自分の衝動と一致し得る可能性に賭けるということでもある。勿論他者の衝動が理解出来ない時もある。そういう時私は考える。私もまた他者に対して「あいつの衝動が理解出来ない」と思わせる時があるだろう、と。それは教訓としてそうしているわけではない。本能的にそうしているとも言えるし、そうとしか思えないということでもある。
 私は必ずしも常に私が信頼を寄せている他者に私の真意が常に百パーセント理解されているだろうとも思わない。ある部分では私の好意が私の本意から著しくずれて理解されてしまうこともあるだろう。しかしそれは向こうも同じであると私は時々考える。勿論それが常にではないからこそ、私はその者を理解し、信頼していると言えるのだ。しかしそういう固有の他者でさえある時、ある瞬間には確かに未知の他者となり得る。またそのことに対する了解こそが私にとって他者とはどうあるべきかという問題を私なりに理解しておく必要があるのと、そのようなものとして私が理解し、信頼し得る他者もまた考えるだろうという目算を、私と彼(女)との間の信頼性という形での幻想を保持していくための指針としているというのもまた一つの直観的な衝動であり、本能的であると同時に、認識努力的な意味でもそうである。
 意思疎通ということにおいてはしばしば消極的に何かを伝えるということが予想外に強烈に何かを伝達してしまったり(伝える積りのなかったことまで)、その逆でかなり積極的に伝えた積りが、全く意に反して滞りなく伝わるということがなし得なかったりということもある。しかし信頼合える相手というものは、少なくともそのことの頻度が比較的小さいということだけは言える。そういうことの頻度が大きいということはとりも直さず理解し合えていないということである。
 しかし重要なこととは、意志を伝達するということは言葉そのものの力によって必ず変形されるということである。だから意に反して強烈に伝達されることや、意に反してあまり適切に伝わらないということは、私自身の語彙の選択とか、語調の選び方とか伝える順序の適切性とかそういうことにもかなりな比重で関わっている。そしていい意味で、つまり伝えたいことが最小限度の努力で有効に伝わり、その事実に対して相互に満足し得ているということがある意味では一番信頼関係の基本として横たわる事実だろう。もし本意が伝わることそれ自体に躊躇を持つのなら、その意味とは本意を伝えなくてはならないのに伝えることを憚るという遠慮的な関係にその者に対して私があるということを意味しよう。
 遠慮とか尻込みということは、それ以上相互の信頼し合いたくはないということを意味する。勿論そういう関係の方が人間社会では多い。またその事実を確認し合えるということもまた、ある程度距離が縮まっている必要があるということと、一定の他者に対する配慮と、全ての成員に対して等価に信頼と愛情を注ぐことなど無理であるという諦念を会得している必要はあるだろう。
 そうなのだ。私たちは只の一人として、全ての成員に対して責任を持ち、信頼し、愛情を注ぐことなど出来はしないのである。だからこそ他者という問題、自己にとっての他者という問題が常に哲学的命題たり得るのである。ある特定の他者を信頼するということは、別の特定の他者に対しては一定の敬遠関係と、疎遠な態度を採ることを自然なものにするのである。つまりある特定の他者への信頼の獲得と保持、維持とは、とりもなおさず他の大勢の他者に対しての不干渉を決め込むことを意味するのである。
 またそうでなければその者に対して採る態度の多くの部分が欺瞞ということとなるのである。
 ある者(他者)に対する信頼とその者から信頼される関係の獲得とは、その者以外の大勢の者(他者一般)に対して適度の距離を発展的ではない形のままうっちゃっておくことを意味するのだ。理解し合えるということには質的にも量的にも私たちの能力としては限界がある。従って私たちは全ての他者を等価に、あるいは等量に理解し合うことなど不可能なのである。理解し合えないということの相互の了解に対する相互の自覚こそが私たちに相互の争いごとを避けさせる唯一の方策なのである。これはある意味では成員の数が増えれば親族間でも、親子間でも、兄弟姉妹間でも同じことが言える。
 信頼する者の数とは自然と少なくなるということもあり得るが、やはりどこかで私たちは意図的にそうしているのである。無意識の内にそれを願いそうしているのである。無意識の意図というものが恐らくあり得るのだと私は思う。これは天才的な音楽家たちが幼少の頃から楽理的知識のない内に内的な音楽的意志によって自然と作曲してしまうことと同じではないだろうか?
 哲学では通例他者と言うと、基本としては知人であり、明確に知人ではなくても意思疎通するために話すことが出来る、つまり理解し合える、意志伝達可能であると捉えるが、私はこの捉え方は曖昧であると考える。何故ならただ話せるというのであれば、外国人とも英語を通じて話せるし、あるいはロボットとも可能であるが、通例哲学者は、感情があり、機械のような与えられた指令によってではなく自らの意志で話し、自己同一性を保持していると考えているようだが、私は他人、つまり生涯一度も知り合うことなく無数に存在するということを我々が知る地球人という意味での存在者、つまり私が一度も会うことなく終わる者をも含めていっそ哲学的他者と呼ぶのなら、私にとって重要なのは、寧ろ一度も知り合うことなく終わり、しかもその者が存在することを知る漠然とした存在者一般かも知れない。しかし同時に、それは私がよく知る親しい他者によってそれ以外という形で構成されている以上、その不特定多数の無数の存在者たちは、私の知人としての、家族とか友人としての他者によって構成されていると言ってよい。つまり私にとっての他者一般は私のよく知る他者によって成立しているのである。
 哲学者の中島義道は、私というものが先験的に存在するから他者があると考えている(「私の秘密 哲学的自我論への誘い」157ページ他)ようだが、これは大人になって初めて意志が持てるという常識においては正しいと思われるが、そもそも常識も言語習得も、全て他者の存在にとってであるという意味では概念理解レヴェルでの認識に留まっている。
 例えばもし仮に生後直後、人間社会と隔絶した環境で育った人間がいたとしたら、彼にとって他者は狼かも知れないが、この場合哲学では他者と呼ばない。しかしではもし私たち一般を規準にした考えの下で(つまり狼を他者と呼ばないとするのなら)他者が存在するというのなら、寧ろ他者以前に私があるという考え方はおかしい。他者認識する私という先験性とは端的に、他者存在への覚知という事態を通過した段階において形成される自我ということであって、そもそも他者一般も他者も存在しないような環境においては、狼少年を私たちと同じ存在者と呼ばない以上、私という意識も、自己という意識も少なくとも私たちと同じようには生じようもない。だからいかなる状況下でも他者認識を生じさせる常識的私が誕生するとは限らないという意味では、他者存在の方を私よりも先験的であるとしなければ論理矛盾を来たす。つまり他者一般も他者も全く存在しない環境で生物学的人間は我々と同じようには私という意識も自己という意識も生じさせることなど出来ないという意味で、狼少年を我々は現存在的存在者とは呼ばないことからも、他者が私に先験するのである。
 私は無意識の意志もまた一つの意志であると考えるのだ。それは音楽的意志という形で少年モーツアルトが持っていた天才性をも意志と考えるからである。それは意志ではないと捉えると人間の能力のほんの一部しか知性としても、創造としても認められなくなるからである。例えば文字を理解しない存在者がいたとしても彼らの全てが自己同一的な意味で私を理解しない者であるとは言い切れない。そういう観点に立てば、中島氏の主張される私というものは極めて限定的なものである。氏の主張によると文字を持たない文明のクルド人たちは私がないということになりかねない。そこまで氏も主張されないであろう。
 つまり私は、他者とは私に先験し、先験するものとして存在するも、一旦確立された私の下では、それを通して(のみ)理解されるものと考えている。しかしやはりそれは私の恩人なのである。それは私という認識を形成せしめたものとして恩人なのである。中島氏は一方で大人としての自覚を持つ者のみを私を持つことの基本としていながら、同時にあたかももし育ててくれる両親並びにそれに該当する他者がいなくても立派に私という意識が生じ得るかの如く論説しておられるが、それこそが現実離れしていると言えるのではないか。つまり人間はあくまで能力として他者を理解するということは、備わった力と同時に人工的意図的環境によってもなのである。そうでなければ言語行為そのものを理解し得ない狼少年をも我々と同等の私を持つ存在者として認識しなければおかしくなる。そもそも全く他者の不在な環境で私意識、自己同一性の意識の確固とした存在者が構成され得るかということは実験出来ない以上意味のある問いではないとも言える。恐らく我々に近い意識を半分は持てるかも知れないとしか言いようがないだろう。つまり現実問題として私たちは一定の備わった能力と人間社会という人間自身による意図的な環境の双方を経験し、初めて人間として、つまり私という意識や自己意識を持つ存在者として振舞えるようになるのである。
 中島氏はデカルト主義的な前提の下で、狭い範囲のみを私とか意志ということに関して考察対象とされていると思われるが、哲学が問うべき領域とは我々にとって知られざる無意識的意志や、意味づけ不能な衝動や、非言語的で言語化不能な領域にまで拡張すべきなのである。そうでなければ無意識であっても欲求レヴェルでは渇望しているような衝動を、それを他者の前では否定してみせるからそれは意志でないとするなら、我々は説明レヴェルのことだけを意志と呼ばなくてはならないこととなるのではないだろうか?私の考えでは私たちが意識的に認識していると思っているものは、無意識に認識しているものをも含めたほんの一部であるのだ。
 それは他者一般ということにも該当する。例えば他者とは私が私の記憶と生活上での認識として知人とか面識があると考えている人よりは外延は広いと思う。例えば顔だけ覚えていてよく視線さえ合う人でも、名前も職業も知らない近隣住民か自分がよく居合わせる地域で働く人であるなら、その人と顔が合った時だけ思い出す存在者であるが、普段意識的には思い出さないこの種の他者一般をも私たちはやはり記憶していると呼べると思うからである。それは説明不能な記憶と、親近的な認知なのである。(そういう他者一般は、熟知する他者より一層多い。)
 話を戻して、他者一般を一度も会うことなく終わる無数の他者であるとするなら、私たちは寧ろ私という意識を教えてくれたのが最初は両親に象徴される他者であったが、一定の年齢以上となった時、寧ろ近しい人びと以外にも多数存在に対する呼び方である「人びと」という認知によってであることが了解される。例えば電車に乗って高校へ通った学生時代に、電車に乗っていた大勢の見知らぬ人々、地震や火災によって生命を失ったということだけを知っている無数の見知らぬ人びとの存在こそが、私が親しい者を大切にしなくてはならないが、同時に親しい人びと以外にも大勢の見知らぬ人びとが私たち同様幸福を求めて生活しているという意識こそが私という意識を植え付けてくれた気がするからである。つまり私という意識はその基盤は私たちの両親をはじめ、大勢の知人、あるいは同級生によって醸成されていったのだが、寧ろその私という意識を一層徹底させてくれたのは、私が知らない大勢の私と同様生活を営む存在者一般に対する私の意識なのである。だからこそ私は他者を私のよく知る他者だけではなく、会えば意思疎通可能な存在者一般として、社会認識と、責任と、良心を知人関係にある人びとたちの間だけのエゴとしてではなく理解することが出来たのである。地球の裏側にも私たち同様の悲喜こもごもの生活者たちが無数に暮らしているという実感こそが、人類の歴史において徐々にその地域的広大さを拡張しながら、我々が獲得してきた公的な意味での私という意識である。そして言語とはまさにそのような全ての意思疎通可能な潜在的意志伝達同意者に向けた意識として習得されてきたのである。勿論その発端となったものとは私にとっての両親とかいつも身近に生活してきていた人びと、つまり近しい他者たちである。しかし私はそういった人びとの存在を中心にして生活していた時にも、明らかにそれ以外の大勢の私や私の知人たちの知らない生活者としての存在者がいることを知っていた。寧ろそういった潜在的意志伝達同意者たちに対する無意識の伝達への欲求と衝動こそが、私をして言語を習得せしめるモティヴェーションたり得たのではないだろうか?勿論現実的には私は両親の発話行為から言語を習得したのにもかかわらず、どこかでは彼らがいなくなっても他の人びとを両親の代わりとして意志伝達する可能性をも無意識の内に考慮に入れて言語行為を人並みに習得してきたのではなかったか?
 つまり言語を通した意志伝達という行為には、明らかに自分にとっての固有の親しい人びとそのものが、実は大勢の潜在的意志伝達同意者の中のほんの一部であるという認知と無意識の自覚がその習得を円滑にし、有効にしていく基盤として存在しているように私には思えるのである。しかし勿論そうい潜在的な無数の存在は、何度も言うようだが、私を取り巻く人びとによって知った存在事実である。
 だから他者が私に先験するということは、ある意味では私が私としての意識を生じさせた後にしか理解出来ない事実であるという意味では中島氏の主張は全く正しい。しかし私は意志というものの在り方をより広範に捉えきらない限り、説明レヴェルでの意識のみを欲求と捉えることに終始し、しかも衝動によって言語行為をすら我々は滞りないものとして遂行していることの実像を捉えきれないと考えるのである。そしてまさに私は私にとっての家族や知人以外の近しくない大勢の人々、まさに無数と言ってよい潜在的意志伝達同意者の存在への認識こそが、そう言われれば誰しも気づくものの、そう言われなければ一生気づくことのないレヴェルの私たちの言語行為を主軸とする意志伝達、意思疎通誘発者であると考えるのである。だからこの潜在的意志伝達同意者という認識は、社会意識に照応させて私を捉えない限り出てこない概念である。従って私自身の生活感情にとっては然程重要なことではない。事実私はニュースで見て知る悲惨な死に方をされた大勢の人びとの存在に対して一々悲しまない。しかしそういう事実があることを理性レヴェルでは憂えることが可能である。つまり感情レヴェルでは常に私というものは私の周囲にいる知人とか家族を中心として得られる損得に彩られている。しかしその個人的な市民感情を構成するものとしては明らかに無意識の内に認めるストレンジャー、つまり親しくはないが、私たち同様の人生と生活を全うしているだろう存在者というものがあるのである。これをも他者と呼ぶ時、それはある意味では哲学をより社会学と相同のレヴェルで考察することをも強いるのであるが、私たちは無数の潜在的意志伝達同意者を中心とした他者一般‐家族、知人を中心として親しい、近しい人びとという新たな本能的、直観的レヴェルで習得され得るカテゴリーを見いだすことが可能となるのである。
 意志的に親しい間柄の人間と絶縁することというには、例えば離婚もそうだし、絶好もそうであるが、私たちはこの意志的行動、意図的行為をある意味ではこのカテゴリーにおいて理解するなら、家族、知人を中心として親しい、近しい人びとを無数の潜在的意志伝達同意者を中心とした他者一般‐無数の潜在的意志伝達同意者を中心とした他者一般へと沈み込ませる意志と考えることが出来る。
 つまり私という意識を敢えて根源的な他者理解とするなら、自己意識とはこのカテゴリーに対する明確な衝動、行動をする際に欲求されていることと考えれば語義定義的には正しいかも知れない。つまり私意識は明らかにによって確固としたものになるが、自己意識というものはそれとは少し性格が異なっていて、無数の潜在的意志伝達同意者を中心とした他者一般へ向けて私意識を発動させる際の衝動によって利用されると考えたらよいのかも知れない。
 例えば私は最近大勢の新しい親しい知人を得た。それは私が関わった幾つかの集団の存在によってである。しかし今現在のように親しくなる前に私と彼らの間には初めて会った無数の潜在的意志伝達同意者を中心とした他者一般同士という関係であった。第一印象を抱くということそのものがそれを表している。しかし長く一緒に学ぶ内に彼らは全員それ以前から親しかった人びと、つまり家族、知人を中心として親しい、近しい人びととなっていった。恐らくその過程において、私にとっての彼ら一人一人の像というものは変質してきただろうように、彼らから見た私の像も最初は私が彼らに対して抱いた第一印象が徐々に剥ぎ取られていったように、現在ではかなり変質していったであろうことを想像することは難くない。
 つまり私が見ていた最初の彼らに対する後姿とか固有の像の見方は、徐々に彼らの存在が私の日常に入り込むことによって変質していった。そして私にとって身近であったが、彼らと知遇を得ることと引き換えに疎遠になっていった一群の人びともいるのだが、彼らの像は徐々に私にとって彼らと出会った時の第一印象へと再び収斂していくこととなり、それまで一番親しかった時期に抱いていた親しい知人としての印象は薄れていった。つまりある一群の人びとと交際を密に親しくなるということはとりも直さず初めて会った無数の潜在的意志伝達同意者を中心とした他者一般同士が徐々に家族、知人を中心として親しい、近しい人びとの一部と化していくことであり、逆にそのことによって疎遠となっていった人びとの存在はそれとは逆のベクトルを得ることであるということだ。そして私は私に対する他者から持たれる像というものを家族、知人を中心として親しい、近しい人びとだけが知り得る姿と、無数の潜在的意志伝達同意者を中心とした他者一般なら必ず抱くよう姿という両義性を保有していると言える。そして親しい間柄であればあるほど「あなたは他者一般からはこう見られている」と言って貰えることが出来る。それをずばりと直言するということはある意味ではかなり親しくならない限り不可能なのである。それこそが私が結論の比較的最初の方で述べた信頼ということなのだ。つまり信頼し合っている間柄での人間関係において私や他者に対して注がれる視線や眼差し、あるいは私や他者に対する像とはそうではない人びと、つまり無数の潜在的意志伝達同意者を中心とした他者一般が保有する私や他者に注がれるそれとは本質的に異なっている。それこそ前者の関係を私意識の像、そして後者の関係を自己意識の像と呼んでよいかも知れない。勿論ここで言う像とは一般的な他者から私に注がれる印象と言い換えてもよいかも知れない。
 私が前節において示した然程の他意はないのだから気にしないに限り意地悪というのは概して友人関係にまでは至らない知人同士でよく見られる意志的行為である。無意識的に示される小さな悪意も含む。しかし難しいのは友人と呼び合えるほどの信頼関係ではないからこそ示すことの可能な小さな悪意も存在すると同時に、そうではない関係であるからこそ示すことの可能な小さな悪意もあり、つまり親しいから言えること、親しいから言い難いこと、あるいは親しくはないからこそ言えること、親しくはないからこそ言い難いことというのがそれぞれあり、それらは恐らく前のパラグラフで書いた私意識の像やら自己意識の像とも大いに関係があるだろう。そのことについて少し詳しく考えてみよう。
 一つ重要なこととは、私が考える他者と自己の関係とは親しいということ、そして信頼し合っているということ、そうではないこととは一体どういうことか、ということと、それらが一体羞恥と衝動とどう関わっているかということである。
 私は先ほど「私にとって身近であったが、彼らと知遇を得ることと引き換えに疎遠になっていった一群の人びともいるのだが、彼らの像は徐々に私にとって彼らと出会った時の第一印象へと再び収斂していくこととなり、それまで一番親しかった時期に抱いていた親しい知人としての印象は薄れていった」と述べたことなのだが、そこで言っておきたいこととは、一度親しくなっていったが、その後何らかの感情の行き違いとか相互の誤解とか、親交そのものに対する何らかの理由による疲労により意図的に絶好する場合、あるいは男女間のことで言えばそれ以上に複雑な要因による離婚ということを考えた場合、我々は一回親しくなった者同士が絶縁した場合、一度も親しくならずに終わる関係とは全く異なっているということである。
 事実然程親しくならずに終わった、例えばそもそも交流そのものを仮に相手から求められても拒絶したようなケースよりも、私にとって一度は親しくなれた間柄の場合の方が圧倒的にある種の懐かしさを抱くことは多いということである。そうすると、一体親しくなり相手を信頼するとは哲学的にはどういうことなのかということをまず見極めねばならないだろう。そしてこのことが意外と哲学では瑣末な命題以前的なこととして考えられて来たことではなかったろうか?
 そのことを考え上で信じるということの現象的な作用についてもう一度確固として考えを抱いておく必要がある。
 しかし信じることの心的性格をこと細かく分析するとそれだけで一つのテクストが出来上がるくらいの手間がかかるので、ここでは宗教的な信仰心ということに限定して考えてみたい。
 宗教的信仰心というものは、その考えや思いを表明するということと、本当に言明の通りにその者が信仰しているかということは全く別個であると言わねばなるまい。例えば本当にある宗教的言説を信じている場合、それは自分自身の原体験と、宗教テクストの言説が一致している箇所を発見したという事実が大きく関わっていることが多いだろう。しかしそのような一致点を終ぞ発見し得ない者は、本当は信仰心を持っていないのに、社会モラル的(つまり社会強制的)にある特定の宗教信仰心を持つことが積極的に求められている社会や共同体では信仰している表明だけはなされるかも知れない。そして真実の信仰の場合我々はそれを原羞恥レヴェルで信じるということがなされているので真意であると受けとめられるが、ただ表明においての「合わせる」ことをしている場合、つまり真実の信仰心であると偽装している場合我々はそれを原音楽レヴェルで言明しているのだと言うことが出来る。
 一般的に日本人は恥の文化の国民だと言われる。では欧米人には羞恥という意識がないのだろうか?
 そんなことはないだろう。アメリカ人にはアメリカ人に固有の羞恥心、あるいはもっと適切に言えば、我々日本人と同じ性質ではあるが、異なったその羞恥を表現する仕方があるに違いない。では日本人には欠如していると思われる「救われる意識」、あるいは「救われたい意識」が、直ちに日本人が信じることをしないで他者に「合わせる」ことだけをしていると言えるかと言えばそれも違うだろう。
 恐らく日本人はより信じやすいということは言えるかも知れない。恐らく日本人は「合わせる」ことを皆がしているものこそ信じるべきだという通念があるのかも知れないからである。それは何を信じるべきかということの民族的な資質として傾向の違いが横たわっているかも知れない。しかもある部分では確かに日本人の方が他者に「合わせる」ことが正しいと信じているかも知れないが、別の部分ではアメリカ人よりも自らの判断を正しいと信じることがあるかも知れない。例えば神はいないということにおいてである。だからこそ日本人には「救われる意識」は欠如しているのかも知れない。何故なら「救われる意識」とは一度は信じて疑わなかったものを懐疑の対象としてしまったことに対する罪滅ぼしの感情から誘引されるものだからである。従って最初から疑いの目を持っている場合「救われる意識」など生じようもないということが言えるからである。尤も自己意識というものにおいて日本人は他者の羞恥を尊重し、自己の羞恥を他者から斟酌して貰いたいと願うが、一方極めて積極的に他者にプライヴァシーに介入することもある人びとも多い。他方アメリカ人には自己意識において羞恥を払拭することが常に求められ、他者にもそれを求める。しかし双方とも何らかの形で羞恥自体と向き合っているという意味では同じである。
 話しを戻すと、要するに「信じる」ということの本質はそれが実際上正しいのだという見解に対する不動点に対する希求なのであって、正しいか誤っているか判然としないものに対して我々は少なくとも「信じ込もうとする」ことはあっても、真実に信じているとは言い切れない。それはただの自己欺瞞である可能性の方が高い。だから自然と信じられるということは、それが正しいという以外により適切な判断が成立し得ないということに対する確信に他ならない。
 しかしある他者と言語行為をするということの内には少なくとも、その者が哲学的他者として自分の発話内容を斟酌してそれに対して誠意を持って返答するだろうという目算において行為するという自覚がある筈である。このことは「他人の心」(坂本百大監訳、勁草書房刊)においてジョン・ラングショー・オースティンは次のように述べている。
 
(前略)語り合うという活動においては(他の事柄においてと同様に)、相手に疑いの目を向けるべき何らの具体的理由がないかぎり、相手を信頼してかまわないということが基礎をなしています。人を信じること、つまり、その証言を受け入れるということこそは、語り合うという活動の眼目(ないし主な眼目の一つ)なのです。われわれが(勝ち負けのある)試合をしていることになるのは、相手側が勝利をおさめるべく努力していることへの信頼のもとにおいてのみです。さもなければ、それは試合ではなく、何か別のものです。同様にわれわれは、人が情報を伝えようとしているということへの信頼のもとにおいてしか、(記述的に言って)人と語りあっているとことにはならないのです。(115~116ページより)

 これはある意味では当然過ぎる真理であるが、ここで示されている何か別のことこそ、偽装であり演技であり、詐欺であると言える。親しくなるということはだから偽装すること、演技すること、詐欺的に自らの感情を偽ることを持続することに対する放棄であると言える。少なくとも初めて会った他者に対して我々はそれをしているからである。それは私を守る最低限の防御であり、私が自己意識以前的に露出していることそれ自体に対する無防備を悟られることに対して「気のいい奴だ」と相手に思われ、「いっちょう利用してやろうか」という悪意を生じさせないようにする警戒心からである。(どんな善人でも人間には相手の弱みに付け込む悪意を生じさせる能力がある。)公的な自己意識をまず提示して見せることで、我々は私的感情だけで動くということから生じる社会的倫理の欠如を否定して見せているわけである。だから親しくなるということはその最低限のルールを遵守していることを相互に了解し合うことで、無数の潜在的意志伝達同意者を中心とした他者一般同士に固有のある「構え」を解除していくプロセスなのである。しかしそのプロセスはあくまで社会倫理の欠如の否定という暗黙のルールに則った上でのことである。しかしオースティンは恐らく極度の懐疑主義に対するアンチ・テーゼとして先述の論理を持ち出してきている。従って当の懐疑主義とは一体何なのかを見てみなくてはならない。
 それは恐らくこういうことである。
 親しくなってゆくに従って芽生える羞恥というものについて考えてみよう。
 親しくなるということは他者に対する固有の「構え」(それは後で述べる。)を解除していくことであるから、原音楽的に「合わせる」ことを回避して真理究明して原羞恥そのものを見つめることを回避するようになる。(だからこそ私が私意識を中心に生に他者に接することを自己意識の重要さにおいて批判する親しい者と何らかの感情的行き違いから絶好した場合、その他者が意外と後から考えると批判主義者であったことを了解し懐かしくなることもあるのだ。)つまりそんなことをしなくても気心が知れているということにより、要するに懐疑的であることに対して羞恥を覚えるようになる。つまり親しくなるということは懐疑的であることを「水臭い」と感じることであるから懐疑に対する羞恥の芽生えであると定義してもよい。
 つまりこの人間は自分に好意を抱いているから自分に害悪を齎すことなどないであろう、従って間違ったことをこの者が仮に私に述べたとしてもそれはあくまで誤りであって悪意からではないのだから、適当にその発言に合わせておけば自分も損をすることはあるまいし、態々そういった調和を掻き乱してまで波風を立てつつ抵抗することは無意味である故、そういった抵抗をすることを止そうという一時的な波風を立てることをせずに済ますという短絡的判断が、その親しい者の発言内容に対して公平で客観的な判断をすることを妨げるのだ。実は世の中の全ての権威に対する恐縮とはこういう形を採るものなのだ。
 それに対して無数の潜在的意志伝達同意者としての他者一般に対して抱く羞恥は性質を異にしている。
 それは多分に自己真意を直に告げる自己防衛のなさを隠したいとする、つまりお人好しであることを悟られることで、相手の狡さとか悪意を引き出すことを未然に防止している知恵であり、それは私意識の隠蔽であると同時に自己意識の表示、つまり公的な意味で責任遂行者である旨の表明であるから、その表明に対する他者の理解とは端的に「この人にも私同様の私があるに違いない」という理性論的な判断である。そしてその判断には他者一般(親しい間柄ではない人びと)に対する配慮があるが、それが無数の潜在的意志伝達同意者としての他者一般に対して抱く羞恥と言える。
 つまりオースティンはこの後者の羞恥を言語行為の基本として考えているのだ。これはホッブスの考える相互の信頼、信約にまで遡ると思われる。
 ホッブスの「リヴァイアサン」における大いなる骨子の一つは責任問題である。そしてその責任が一方で権利と対になっていると同時に、他方それは責任転嫁へと対になっている。権利と対になっている段ではそれは義務という形で考えられるが、責任転嫁と対になっている段ではそれは人間の傾向性と言う形で考えられる。例えば次の一節はそのことを端的に示している。
 「ローマ人は、おおくの属州の主権を有したが、しかしそれらを、ローマ市や隣接諸領土を統治したように合議体によってではなく、つねに総督および長官によって統治した。イングランドから、ヴァージニアやサマー諸島に殖民するために移民団がおくられたときも、同様であって、そこにいる人びとの統治はロンドンにある合議体に委任されたが、これらの合議体は、かれらのもとにある統治を、そこにあるいかなる合議体にもけっして委任しないで、各植民地にひとりの知事をおくった。そのわけは、各人は、かれが出席しうるところでは、統治に参与したいといううまれつきの意欲をもっているが、しかし、かれが出席しないところでは、かれらの共通利益の統治を、民衆的形態よりむしろ君主政治的形態の統治に委任するという、やはりうまれつきの傾向があるからである。」(「リヴァイアサン2」水田洋訳、第二十二章 政治的および私的な、臣民の諸組織について 中113~114ページより、岩波文庫)
 また次のようにもホッブスは言う。
 「(前略)一般に、すべての政治体において、だれか個々の成員が、自分が団体自身によって侵害されたと、おもうならば、かれの訴訟事件の審理は、主権者と、こういう訴訟事件の裁判官として主権者がさだめておいた人びとに属し、その団体自身には属しない。このばあいには、団体全体がかれの同胞臣民なのだからであって、主権合議体のばあいにはちがう。それは主権者自身の訴訟事件ではあるが、そこでは、かれが裁判官でないとすれば、裁判官がまったくありえないからである。(同書同一章中115ページより)
 要するに個人は共同体に対して委任という形で個人の能力を遥かに超え得ることを責任転嫁し得るも、同時に個人に帰するべき責任に関して今度は共同体の方が責任転嫁し得るということを同時に満たすことによって共同体全体があらゆる個に対して等距離で接するという秩序と、永続的な安泰を維持しているのである。(このことはある意味では団体とか共同体自体が極めてその存在理由が脆弱であり、実体が見え難いという面も作っているのだが、そのことはまた改めて論じる機会を持ちたいと思う。)そして後者の引用文では共同体と共同体内の個的集団(民間団体)とを明確に峻別している。民間団体とは自由意志による責任遂行が求められており、それは個人としての成員と等価だからである。
 そのことを重々知っていたからこそオースティンは行為遂行的発言という形で他者一般を前にしてある宣言をすることで、その宣言をしたことの遂行以外の一切の責任を免除して貰えるという権利をも確保しているということを暗黙の内に示していたのだ。つまり親愛の情によって次第に過大な期待と、他者からの責任転嫁を背負わされること自体への未然の防止意図という要するに性悪的人間の傾向性に対する未然の発動阻止的知恵としてホッブスからオースティンへと至る英国流俗流プラグマティズム精神が発揮されていると見てよいと私は思う。
 要するに私たちは私意識で親しい他者と接する時も、実はその親しい他者と私との関係を、それほど親しくはない、つまり無数の潜在的意志伝達同意者としての他者一般に適用し得る方法で理解しているのである。(このことを最も大きく体験論的に主張している哲学者は家族に対してさえエゴイズムを貫くスタンスを明示している中島義道氏である。氏は家族にまで精神的自由獲得におけるゲゼルシャフト的な意義を適用している。)つまり家族、知人を中心として親しい、近しい人びととは端的に無数の潜在的意志伝達同意者としての他者一般の極めて特殊な例外であると考えているのだ。これは無意識においては完全にそうである。ただ意識レヴェルでは私たちはそう考えない。家族、知人を中心として親しい、近しい人びとがいるから逆に無数の潜在的意志伝達同意者としての他者一般が成立すると考える。しかし恐らく私たちは言語習得する際に例えば両親が発話する様子を、親しい者としてではなく、寧ろ他者一般として客観的に観察していた筈なのだ。そうでなければ親しい者との間では別に言葉を使用しなくても一緒に暮らすことが出来るのだから、言語はいつまで経っても習得され得なかったであろう。私たちが言語習得する際に、明らかに外国人が日本にやって来て日本語を話す日本人のことを羨ましく思い、何とか必死に日本語の挨拶や語彙を覚えるように両親その他の家族や自分も住む近隣住民の話す言葉を聴いて模倣して習得するのだ。それは歌舞伎一座に生まれた幼児が、初舞台を踏む時に、親から指導を受ける際に決して自らの子どもだからと言って容赦しないで指導することと、それに対して幼児が親を甘える対象としてではなく一個の他者として認識して必死に舞台での所作を習得することからもよく理解出来よう。
 あるいはそのような努力は、大人になってからも継続する。例えば親しき仲にも礼儀ありという格言に見られる配慮とは言ってみれば、親しい者を疎遠な他人、つまり無数の潜在的意志伝達同意者の中の一人と見做すことによって、例えばどんなに親しい間柄である親子でも世話になった時には礼を言い、逆に仮に自分の息子が悪いことしたのなら、潔くその息子の非を主張して息子が迷惑をかけた他所の少年の前で「彼に謝りなさい。」と叱る親のような判断をも生むのである。つまり親しい間柄を尊重する時にもそれを他者一般のように見做すが、同時に非難する時もそれを他者一般のように見做すということである。つまりそれこそが責任倫理の発生の根幹をなす認識である。
 だから私が言いたいこととは、無数の潜在的意志伝達同意者としての他者一般に対して我々が持つ心理の根幹をなすものとして羞恥という独特の「構え」とは端的に他者一般に対する配慮、敬遠しつつ信用を全くしないのではない中間地帯での判断である。だから親しくなっていく過程とはその羞恥が異様な形で膨張し続けることを自然化するような他者一般に対する態度(私は例えば人ごみの中を徘徊するのが最近嫌いになった。)に適用されている羞恥的「構え」の払拭を意味し、親しくなっても礼儀を失わないということこそ羞恥の尊重であるということになる。

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