Wednesday, December 9, 2009

〔羞恥論‐素直と依怙地<衝動論第二幕>〕第二章 第四節及び全部の 結論

 解剖学者の養老孟司氏は若者に対して「本当の自分探しなどするな」と言い放っている。それはある意味では極めて正当な意見である。しかし同時に山竹伸二氏はそれだけでは納得出来ないとして「「本当の自分」の現象学」という本を書いている。
 あるいは茂木健一郎氏は「意識とは何か」において一人の女性がある時は母親として、ある時は妻として、ある時は娘として振舞う、つまり息子や娘の前、夫の前、両親の前、と私たちはそれぞれ使い分けている、そのことについて触れている。学生時代の友人と会えばどんな偉い人でも昔に戻るだろう。しかしこれは極めて自然に執り行われる日常的な心理的な転換である。
 ヒールとして名高かったプロレスラーのフレッド・ブラッシーは一度だけ見たくないとして一度もリング上の彼を観戦して来なかった母親が一度だけ自分の息子の職業上の姿を見ようとして観戦し終わった後、あまりの日頃に自分に対して示される態度や物腰とのギャップに「本当はどちらのあなたが本当なの?」と聞かれ、「どちらも本当ではない」と答えたそうである。つまりそれはある意味では哲学的に正しくある意味では正しくはない。
 つまりある殺人犯がその事件を起こしたことそれ自体に関しては極悪な人であっても、それ以外の場面では極めて善良な市民であるとしたら、それは決して嘘ではないだろう。つまりある人にとって極めて非礼な人が、別のある人に対しては極めて礼節な人であるということにおいて、どちらが嘘でどちらが本当であるとは言えないのと同じである。
 つまりそのどちらも本当であり、同時にそのどちらも嘘であるとしか言いようがない。
 日本人は明らかに対峙と共有ということで言えば共有意識が濃厚であり、欧米人は対峙的であるように見える。しかし恐らくそれは民族文化そのものが対外部的にアイデンティファイされた固有の物語の像であるとも言えはしまいか?そのように言うと前節の日本人の隠蔽されたことの方を真実であると信じる日本人固有の羞恥さえ嘘ということになるという反論が聞こえてきそうだが、実はそうではない。
 日本人は確かに物事には裏があるという考えそのものに対して自然ではないと感じる感性がある。しかし隠蔽されているからこそそこに何か特別なものがあるように思えるのだということに対しては比較的明白に理解もしている。その点では明らかに欧米人、あるいはもっとイスラム教徒の方が凄絶にタブーを抱いている。しかし一番重要なのは、ある別の人に対して悪人である<ある人>が自分にとって善人であるのなら、それは嘘ではないだろうということである。勿論そこに民族の差などない。永井均氏は「倫理とは何か」で人間は皆二重スパイであると言っている。そしてそれは氏の意図においては正しいだろう。
 しかし本職の二重スパイでさえそれはどちらの側に対しても偽装しているということそのものにおいてどちらも真実の姿で対外部的に接しているのだ。つまり嘘つきということは、嘘つきであるという姿として本物であり、真実の姿を晒しているのである。だから必然的に対峙であることも共有であることも全て真実の姿であり、人間心理の偽らざる姿なのである。
 つまりいつでも私たちは統一された人格でいる、いなければいけないということそのものが既に歪曲化されたモラルなのである。自分より目上の人に対しては謙り、自分よりも目下の人に対しては大人の態度を示そうというのが人間の普通の姿である。あるいは他人というものは全てそれぞれ固有の考えや心理を抱いているので、その人その人に応じて異なった態度を使い分けるということもまた普通の姿である。ましてや職業的像と、家庭の像が異なるということもまた極めて自然なことである。
 そもそも精神分析という分野が登場した背景には西欧の倫理的な理性主義に対する抑圧された心理が欧米人にあったものと私は考えている。つまりフロイト以降転移という考え方が示されてきた背景には、同一性という名の下に心理的な抑圧、ピアプレッシャーが顕在化してきた現代人の心理に即応して臨床医や神経科医たちが、多重人格を含めて新たな人間に対する像を構築しようという必要性からであった思う。つまり対峙も共有も共に自然な人間心理であるということである。同一性に対する懐疑は何もポスト構造主義以前のこの頃、つまり精神分析が手法的に定着していた頃から実はあったのである。
 しかしそれまでの社会では同一性とか統合された人格という考え方の下で極めて矮小化された像を常に提示することを求められてきたのが人間の姿だったのかも知れない。つまり対外部的に示される像としての物語(それを私は「私」としている)に忠実であれという支配階級からの訓示は、一面では反社会的動きを封印するために有効に作用した、永井均的に捉えれば、モラルの発生の理由、原因、根拠に対する関心を封鎖すること、閉じ込めて人々の関心が向かわないようにすることという醜悪な人間的要望に対する隠蔽の意図が支配階級から発動されてきたというのは中世、近世に至っても極めて自然である。何故なら近代以前、いや戦前までは全ての社会が構築というベクトルだけを携えてきたからである。そこにある破壊は部分論的なものでしかなかった。しかし核兵器が全てを変えた。本当に人類が死滅することは人類の手によって可能となったからである。
 外部的な像としての抑圧論的な自己は、実はカントの格律においても既に示されていた。
 しかし抑圧論的な自己を自我レヴェルで最も体現しているのが日本人であると言える。今日でも日本人は精神科医にかかることをひた隠すことがある。これは対外部的メッセージである「私」に呪縛されているということだ。ただ人間は必要以上に病理的状態でもないのに、他者に依存し、苦悩を告白することによって寧ろ本当の病理状態へと陥らすということがあり、その意味で日本人は「人の言うことを一々気にしないで生きていった方がよい」と考える傾向があり、要するに楽天的な民族であるということだけは言えそうである。しかし本当に病理的精神の人もいるし、それを隠すということに日本人固有の羞恥が感じられるが、それは集団内の恥という観念に起因するのであり、例えば誰でも気にするだろうと考えるから、つまりそれが恥ずかしいから隠すということがある。しかし意外と他人というものは大して自分にとっての他人の人生まで深く考えないものなのだ。だから最近では大分オープンに自らの精神疾患について告白する人も多くなった、例えば欝病などはその典型例であろう。
 本論で触れたように他者大勢の中で自然と対峙する時と、親しい友人とそうする時とでは本質的に心理的に異なった状態に私たちはある。あるいは一人で嵐の夜を田舎の山小屋で過ごすのと、そうではなく都会のマンションの一室で過ごすのとでも異なってくるだろう。だがそういった対自然的な意味での対峙と共有ということと、社会構成的な意味で敵対する者と相対する時とか、友好的グループを構築することというのは、ある意味では極めて自然とは異質な部分があることも確かである。ピア・プレッシャーということは欧米、日本に限らず殆ど現代人に普遍的な命題である。
 しかし不思議なことに精神分析の世界では極めて多くの女性が昔から活躍してきた。メラニー・クライン、マリー・ボナパルト、アンナ・フロイト、アニー・ライヒといった人たちがすぐ浮かぶ名前である。しかし哲学者は本論の序で示した中島氏の叙述のように少ないというのは何故だろうか?
 一つには精神分析が哲学よりも歴史が浅いということも言える。
 そしてもう一つは哲学が空間認識的な視座を観念的に必要とするメタ認知学であるということである。この種の能力は男性の方が優れているという報告がある。例えば一つの岩を見て、それがその外部の状況、時間的な推移でどのような意味を持つのかという連想は恐らく女性よりも男性の方が先天的に得意とするところではないだろうか?つまり認識的洞察力ということである。しかしこれも今まではそうだったということでしかないのかも知れない。
 哲学界とは究めて地方芸術家のコミュニティーのように閉鎖的なのである。学会毎に閉鎖的な集団内羞恥を採用しており、他集団と交流しようとしないのだ。要するにモンロー主義なのである。
 また日本人の楽観主義は逆にプレッシャーになっているのだ。つまり楽観主義的協調性のない人を仲間外れにしていく傾向が無意識に発動されるからだ。これが端的にいじめの精神構造なのだが、そのことに当事者は気づいていないということにある始末の悪さがある。
 そればかりではない。日本人は各省庁にしろ、民間企業にしろ、閉鎖集団的な様相の集団内羞恥が徹底管理されている。第一自分の社を弊社と呼び、社長の名を社員が呼び捨てにする習慣そのものがそれを表している。日本では自分の身内を他人の前では敬語では呼ばないが、韓国では自分の身内であれ、他人であれ年配者に対して全て敬語で統一されている。
 要するに日本人の場合「そんなこと気にする方がおかしいよ」という言説それ自体が通念となっており、それが処世訓となっているのだ。この奇妙な楽観主義は端的に羞恥に対する隠蔽である。しかし精神科医にかかることを隠さないアメリカ人は日本人に固有の楽観主義はない。深刻であることが許されているのである。
 つまり哲学界そのものが日本社会に似ているところがある。それは下町や田舎の閉鎖的であり、顔馴染みとそうではない者とを一瞥で峻別するようなタイプの人間関係に近いと思えばよいかも知れないが、恐らくそれは哲学界だけではない。そして日本に固有であると私が仮にそう語った羞恥は別の民族にも濃厚にあるのかも知れない。そのことに対する発見は未だ私のサイドにはないのだが、日本人に固有であるとたまたま私の目にそのように映じた羞恥は、端的に自然を前にして一人で耐える式ではなく、まさにビートたけしの言っていた「赤信号皆で渡れば怖くない」式の極端な共有そのものなのだ。要するに大勢による自然の共有という意識に近いのだ。しかしある人物に対して差し向けられる態度とそれとは別の人に対して差し向けられるそれが異なるのが当たり前のように、私たちは概して皆で赤信号を渡るのが好きであるにしても、全く一人でそうしたい時もあるし、その点では例えばアメリカ人はアメリカ人で、皆で赤信号を渡るのが日本人とは別の意味で好きだし、彼らとて、地方のコミュニティーは閉鎖的であろう。
 つまりこう考えるのが理に適っているだろう。内と外という区分けそのものに内在する認識転換が容易に出来ない時私たちは疎外されていると感じる。つまり皆が精神的疾患であることを恥だとそう思っているから精神的苦悩を抱いているということを他人には隠すのだ。しかしよく考えれば自分だけではなく皆そうかも知れないと思い、思いっきり告白したら、案外他人とは気にしないということもある。ある意味では現代人は全成員が病理的状態であるとも言えるからだ。勿論そこで偏見を持たれ全てご破算ということもあるにはあるだろう。しかし全てを告白することがよいとは限らないが、羞恥的に思われること全てを用意周到に隠蔽すること、これは端的に悪弊である。悪い習慣である。
 つまり誰でもそう感じるに違いないという思い込みが私たちに勇気ある行動を阻止することがあるのだ。例えば私は意図的に日本社会を閉鎖的であり、集団内羞恥が徹底していてまさに「あんたがたどこさ肥後さ、肥後どこさ、熊本さ、熊本どこさ、船場さ」で通していると言わんばかりの論調を敢えて前節では採用した。しかしそれは日本人に固有ではない面も多々ある。
 つまり誰でもそう思うだろうという思い込みそれ自体を誰しも持っていると考えればよいのだ。悪い習慣を根絶するという意味では今日でも未だ哲学的理性主義は有効である。あるいはよい感性を習慣化し、意図とすることにおいてもそれは有効なのである。分析哲学はある意味ではモラル論的な哲学の本論を本質的に復活させるために敢えて論理的なことに多くを費やしたとも言える。つまり学術的に言えば、今後の哲学や精神分析は益々融合していく可能性の方が大きい。つまり脳科学と哲学を結ぶ結節点として精神分析が作用していく可能性としてもである。
 例えば自我という言葉があるが、この自我も哲学、精神分析、心理学とそれぞれの分野でその捉え方に大幅な違いがある。しかし一番重要なこととは、自我も願望も希望も全て何らかの形で脳による複合的な作用であって、例えばfMRIによって測定したとしても脳のどこに自我があるという風には答えられない。例えば意欲は前頭葉において発動されるとか、言語的な活動は側頭葉によって発動されるとか、身体的記憶とか身体生理的直観は小脳で補われるとか色々考えられていても、では自我はどこで作用しているのかと言ったら、恐らく脳の全ての箇所が何らかの形で総動員してそういう作用が起こっているとしか言いようがないのではないか?尤も前頭前野がかなり重要な役割を果たしているらしいとは言われている。しかしやはり局在論的なことだけでは足りないと言えそうだ。
 それを言うなら恐らくこれから結論として考えていく羞恥はまさにその典型であるようにも思われる。それは確かに身体生理的なことでもあるが、同時に極めて社会制度的、文化規定的、そして何よりも極めて言語認識的でもあるからだ。
 人前で赤っ恥をかかされるという体験は誰でも一度は経験していることであるが、それもまた恥じをかかされる内容如何にも拠るし、またどのような人から別のどのような人に対してどういう言葉をどういう状況で聞かされたかということにも大きく関わる。だが総体的に言って、ある言葉をある人からただ聞かされるだけではあまり苦痛に感じないにしても、別の誰かの前で同じことを言われるとそれだけで非常に苦痛に感じるということはやはり羞恥の典型的な例ではないだろうか?それは一面は自我の自己防衛的な戦略によるものかも知れない。
 そもそも精神分析はそのような体験が何らかの形でトラウマとかルサンチマンとして沈殿しているその滓を取り除くという意識のクライアントと医師との共同作業という側面がある。つまり羞恥そのものの構造を解析してかかるものであるというわけだ。
 例えば私は日本人であり50歳であり、男性である。だからそれを基準にしてしか全てに対して認識することが出来ない。例えば私が考える年少の人々に対する考えはあくまで私もかつてはそういう年齢であったことがあるということから来る想像だし、老人に対する認識も今の自分の中に感じる老いの兆候を必死に見つけ出し想像しているに過ぎないし、女性に対する考えも、私がたまたま知るごく小数の女性から引き出した一般論でしかないし、アメリカ人に対する見識の全ても私が過ごしてきた僅かな時間の範囲内の僅かな情報量で知るアメリカとアメリカ人の言動から引き出されたものでしかない。しかも私自身の様々な条件に左右されている。つまり私自身の固有の眼差しによって歪曲化されている。
 しかしある意味ではそれは全ての人にとってもそうなのである。つまり全ての判断は自分の中の記憶と経験からしか引き出しようもないものである。つまり端的に言えば世界とはそのようなどこかで必ず歪曲化されたと言うより、その個人固有の特殊な体験に根差した認識が含有されている。しかしどの見方も全てに共通する性質もあるだろう。だからどの個人のどのような見方を採用していくかという決断がその都度極めて重要になってくる。
 ある地方の海岸沿いを車で走って見る時、その海岸の波模様を観察する時、その者が海にどのように関わるかということが極めて重要であり、海洋地形学者と気象予報士と、漁師とサーファーとでは自ずから一つの波に対する認識に違いが生じるのは当たり前であり、またそれらの中の幾つかが自分の求める海岸の波の状態に対する認識に沿うものとなるというような意味である事柄やある現象に対する判断はその判断された後で達成されるべき目的の違いに応じて異なっているということが当然なのである。
 だから当然羞恥という心理に関しても、私の考える羞恥にはそれ固有の色合いがあるだろう。そして精神分析が患者ごとに異なった対応が必要なのも当然だが、精神科医も十人十色であるということからも、同じクライアントに対して全く異なった対応の仕方があって当然である。
 その見方は一面は相対主義である。しかしある固有の目的を持って臨めばやはりどの精神科医においても、手法とかセッションの際の応対の仕方そのものに違いがあっても、同じような対クライアントの認識や理解の仕方がなされるということもまた当然であろう。
 私は私自身に固有の眼差しによる歪曲化されたものの見方しか出来ないということの後に「しかしある意味ではそれは全ての人にとってもそうなのである」と言った。しかしこの見方それ自体はかなりオプシミスティックな考えであり、それ自体はかなり自己欺瞞的な気休めである部分もある。だからある時には真剣に悩んだ方がいい。しかしあまりにも自分が他者と違い、どこにも結節点が見出せず、特別であるということが、例えばアートの才能における天才性を発揮し得るような可能性を見出せるものとしてではなくもっとペシミスティックな見方になっていくと病理的状態となり、精神分析の対象となってしまう。だから社会制度的な規範としての楽観主義がお仕着せ的になって、苦悩を抱くことそのものが極度に羞恥化してしまい人に相談出来なくなってしまうこともまずいのだが、同時にあまりにも常に深刻に自らの歪曲した見方にネガティヴな関心の集中の仕方となるとやはり危険ということは承知しておくべきだろう。
 つまり精神科医は人それぞれ固有のセッションの仕方や処方があるだろうが、やはり精神科医全員が共通して持つあるクライアントに対する認識や理解の仕方があるのだ、という楽観主義が脳の活動をより円滑に前頭葉の意欲を産出することに直結するだろう。つまり自分は他者とそう変わりない部分も十分にあるのだと捉えられるということがいい意味での神経症的症状を回避する方策であるということである。それは特に抑鬱状態の時はそうである。だから精神科医の和田秀樹氏は気分が落ち込んだ時には決して反省しないということを薦めている。(「人は<感情>から老化する」)
 しかし逆にかなり気分的にハイテンションの時には、他者との間に存在する自らのネガティヴな相違点に対して着目する必要はあるかも知れない。そしてその相違点を逆に欠如を補うに余りある長所として活かすことを考えるということはかなりいいことである。つまり欠点を長所として利用するということである。
 例えばサーファー出身の気象予報士はサーフィンの経験を活かした気象に対する見方を採用してもいいだろうとか、空手をしていたシェフが自らの武道経験を料理の世界で活かすということを参考にして、あるいは不器用なアーティストは、器用に描けない欠如を哲学的思惟を表現することを通して克服していくといったことである。だから羞恥的抵触をする他者の言動を前にした時怒りをあらわにするくらいなら、寧ろその者の生い立ちとか周囲との人間関係を分析して、要するに自己流の精神分析をして、その者の自らに対する言動の根拠をメタ認知するということが最も理に適った対処法である。怒りを飲み込むのではない、怒りを起こさないように、そのネガティヴな他者から羞恥的抵触を来たす言動を浴びせかけるという体験そのものを貴重な恩寵として利用するのである。それは哲学的な廃物利用とも言える。中島義道氏はこのような怒りの体験を文章化するという方法(「怒る技術」)を言っているし、茂木氏は怒りを呼び起こす状況全体を俯瞰的な位置に自らを持っていってその根拠を思考するということを言っている。
 そういう時こそ自分以外の多くの人々がかなり辛い体験をしてきているということを想起するということもいい考えかも知れない。リチャード・ドーキンスは「神は妄想である」において、アラン・チューリングがゲイであったがために、それだけの理由で第二次世界大戦において敵方ナチスの戦略を見抜いた功績がありながら自殺したことについて宗教教義上での逸脱によってのみその自殺が執行されたことについてネガティヴな事例として触れているが、今日人工知能問題(Artificial Intelligence)において彼の名前を知らない者は潜りである。自分の体験は固有であるが、特別異例ではないという認識はいい意味での楽観主義を醸成する場面で役立つ。つまり多くの人は自分と恐らく似たような体験を多かれ少なかれ味わっているものなのだ。あるいはもっと自分より酷いケースもあるし、それを考慮に入れれば、自分はましなケース、いや幸運ですらあるかも知れない。
 しかしそのように一旦精神的安定を得た後は、逆にサルトルの「存在と無」で工場労働者たちに向けてアジテート的な説諭、つまり革命的意図を鮮明にするためには自らの立たされた状況を極めて不幸なものとして認識するということを奨励しているような意図で、自らの他者と比較してネガティヴな固有条件を一つ一つ備に検証していく必要性がある。
 和田秀樹氏に拠ると、精神分析医のハインツ・コフートは自己対象という見方を採用するに当たって、三つの自己対象を考えた。要するに対象とは自己と完全に切り離されている客観的認識だが、自己対象とは依存とか甘えといった精神状態を許容する、私が日本人固有の自然認識には馴染みのあるものとそうではないものという西欧社会では殆どないと思われる二分法を考えたのだが、それに近いものがあると思われる。つまりコフートは鏡自己対象、理想化自己対象、双子自己対象というものを精神科医に対して患者が抱く感情分析を行ったのだ。(つまり精神科医とは端的に常に精神的な疾患とか病理状態の人々と接しているので、自らの精神的対処法としても、治癒客観的認識としても、自分と精神病患者の間の関係を適切に理解しておく必要があるのだ。)
 鏡自己対象とは、精神病患者の立場に立てば、自らのいいところを精神科医の先生に褒めて貰うことによる精神的充足、満足感を得ることを言い、理想化自己対象はまさに精神科医の先生を自らの父親の如く理想化して安心して依存する気持ちになることを言い、双子自己対象は、逆にそのように理想化された精神科医の先生に対してコンプレックスを得ることを忌避して、寧ろ誰であっても従ってその先生であれ、自分と同列の似たような悩みもあるし、弱点もあるということを患者が示されることによって安心するというものである。
 これらは恐らく私の推測ではかなり一個一個が完全に独立した在り方をしているのではなく、相互に密接に関係し合っているのではないだろうか?
 ここにも対峙と共有ということが立ちはだかっている。つまり精神科医と患者は本来全く立場を異にすることである。しかしマルチン・ブーバーとカール・ロジャースの対談で示されていて私は極めて関心を持ったことがあるのだが、ロジャースは共感を最も重視していたが、ブーバーは完全に理性論的に精神科医と患者は立場の違いを認識すべきという意見だった。つまりここにも哲学者と精神科医との立場上の相違が示されている。ブーバーは対峙を、ロジャースは共有を主張しているのだ。
 しかし恐らくこの二つの考えは両方とも必要なのである。それは目上の人と話す時にも年齢的な違いを考慮した礼儀は必要だが、同時に相互に共感し合うことも必要なようにである。つまり相手は目上の人でも神様ではないのだし、精神科医も患者にとって神ではないからである。

 精神分析ではこのように極めて多様な考え方がある。フロイトはどちらかと言うと理性論的に自己を確立することで疾患を治癒するという方向へと意志が働いていたと言うが、依存や共感といった作用を重視する方向へとアメリカ国内の精神分析は、向かって行ったということもそれなりに理解出来る。
 つまりヨーロッパの哲学の伝統とは分離した形での思考がアメリカには可能だったからであろう。
 しかし私は別の論文「意味の呪縛」(別ブロガーブログ「存在と意味」に掲載)の結びに次のような文章を掲載した。
 
私たちの祖先はまさに記憶内容→記憶事実の報告への意志・欲求という他の動物には決して見られない稀な能力、つまり自らの能力自体への感動、自らの能力の素晴らしさへの感動を共有したいということを感じ、それを必然的に他個体へと伝えようとして、そのことも一つの能力となっていったのである。

 ここで重要なこととは、自らの能力の誇示、例えば全ての芸術家たちは自らのアートやミュージックの能力を誇示しているのだし、全てのスポーツ選手もそうである。だが同時に彼らは皆自らの能力を世間に公表することで、そのアートやスポーツの能力を他者と共有しているとも言える。それは社会そのものが協力という観念を機軸に成立しているからである。
 そのことを考えると対峙と共有という心的作用の本質が仄見えてくる。
 つまり大自然の脅威に晒され、それに戦いている時ほど私たちにとって自然とは全の人々に、少なくともその自然の脅威に晒されている地域の人々に共有されているということになる。自然は誰にとっても脅威であるという認識で自然が別の機会には私たちを救ってくれるかも知れないとも思う。この時自然は共有されているし、自然の猛威に立ち向かう時には人間は他者一般と協力体制に赴くわけである。
 これは自然という存在を通して私たちが他者一般と基本的に信頼し合っているということである。
 しかし捻くれ者というものはいるものである。他者一般に対して人間不信状態にある時、自然の災害の脅威に飲み込まれる他者一般に対してさえある者は「ざまあ見ろ」とまで思うかも知れない。それは自らの不幸を他者にも味合わせたいという不遜な気持ちからである。この時彼は他者一般と対峙して、自然に対しては感謝している。しかしこれが長期持続すると深刻な精神病理状態となり得るだろう。あるいはあまりにも自分の心理状態が惨めな時には、私たちは自分にだけ神が語りかけてくれ、自分にだけ味方してくれるのではないかという幻想さえ抱く。
 これは借金を背負い、債権者から夜逃げする人にとってもそうだし、警察に追われ逃亡する犯罪者にとっても同様の心理であろう。
 人間には自分だけは助かるのではないかという漠然とした楽観性があり、そのことを精神分析では全能感と呼ぶ。これもいずれ脳科学が何故そのような気休めを私たちに与えてくれるのかという機能が解明されていくかも知れない。何らかの脳内物質、例えばドーパミンとかと関係があるのかも知れない。しかしその時でも哲学的に対峙とか共有ということは常に考えられ続けるであろう。何故ならどんなに脳内物質が解明されても、その脳内物質を有効利用しようと私たちは考え、それは私たちの意志によってしか達成されないからである。意志そのものも脳内の作用によってなされ得ると言えるだろう。しかし私たちは自らの意志を待つわけではない。そういう気持ちになるということと同時に、そういう気持ちにならなくては、とそうも思うのである。だから脳そのものの能力と対峙するという風に、意志的に脳を利用しようと思う時私たちの心理はなっていると言える(依怙地)。それに対して、脳の能力と私たち自身が共有しようという気持ちになっている時、私たちは案外不安ではなく何かに切迫されていると感じているでもなく、寧ろ心穏やかに充実している(素直)とも言えるのではないだろうか?(了)

参考文献

稲垣諭「衝動の現象学」知泉書館刊
ルドウィッヒ・ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」藤本隆志/坂井秀寿訳、法政大学出版局刊
中島義道「狂人三歩手前」新潮社刊「たまたま地上に僕は生まれた」筑摩書房刊「悪について」岩波新書「怒る技術」
ミシェル・アンリ「現出の本質」北村晋/阿部文彦訳、法政大学出版局刊
マルティン・ハイデッガー「存在と時間」原佑・渡邊二郎訳、中公クラシックス
サイモン・バロン・コーエン「共感する女脳・システム化する男脳」三宅真砂子訳 NHK出版刊
永井均「<私>のメタフィジックス」勁草書房刊「倫理とは何か」産業図書刊
オイゲン・フィンク「存在と人間」座小田豊/信太光郎/池田準訳、法政大学出版局刊
ジョン・ラングショー・オースティン「言語と行為」坂本百大訳、大修館書店刊
リチャード・ドーキンス「利己的遺伝子」「神は妄想である」垂水雄二訳、早川書房刊
エトムント・フッサール「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」細谷恒夫・木田元訳、中央公論新社刊
ジャン・ポール・サルトル「存在と無」松浪信三郎訳、人文書院刊
フリードリッヒ・ニーチェ「この人を見よ」手塚富雄訳、岩波文庫
吉本隆明「共同幻想論」角川文庫
プラトン「国家(上9)」藤沢令夫訳、岩波文庫
茂木健一郎「意識とは何か」ちくま新書
和田秀樹「<自己愛>と<依存>の精神分析」「壊れた心をどう治すか」PHP新書
「人は<感情>から老化する」祥伝社新書
大森荘蔵「時は流れず」青土社刊
Peter Frederick Strawson Naturalism and Skepticism
小此木啓吾「自己愛人間」ちくま学芸文庫
ブーバー‐ロジャース対話 ロブ・アンダーソン+ケネス・N・シスナ編著 山田邦男監訳 今井伸和+永島聡訳 春秋社刊

 付記 今回で「羞恥論‐素直と依怙地<衝動論第二幕>」を終了致します。暫く休暇を頂き、再び別の論文「時間・空間・偶然・必然 意識という名のミーム<科学で切る哲学、哲学で切る科学」を掲載更新致します。論文は中ほどに幾つか未だ未完成箇所があり多少更新に時間を要する場合があることをご了承下さい。(河口ミカル)

Monday, December 7, 2009

〔羞恥論‐素直と依怙地<衝動論第二幕>〕第二章 対峙と共有 第三節 日本人の自然認識

 日本人の行動パターンを西欧社会流に解析すると、日本人は支配階級の訓示を建前的には聞いておけばよいという考えが暗黙の知恵となっていて、そのことに対する主体論的な反感から真摯にその訓示を受け留めておこうと心に決め込んだ庶民、大衆の心理によって内向きになって意志発動抑止型の保守主義になりやすいところがある。そして日本人の支配階級とは端的に民主主義的なリーダーではない。それは非哲学的、非思索的な弱者なのである。(このことは中島義道氏が常々主張しているところでもある。)だから日本では支配階級とは概してマスコミそれ自体、ジャーナリズムそれ自体なのだ。そしてその利害は著しく政財界の利害とは対立している。
 このことは合理主義的な想念としては政財界の論理が正しいと考えているのに、心情的には昔からの地域エゴ的な馴染みの人々と、そうではない人々という非交流的、非オープンな閉鎖社会固有の不干渉主義に端を発する。実は日本社会はそれが地方にだけあるのではなく、全ての専門領域においても言えるのだ。科学者の世界、アーティストの世界、学者の世界、全部がそのような意味では閉鎖的である。他ジャンルとの交流とか他専門分野との協力よりは、ずっと相互不干渉を決め込むタイプの小集団の共存という現実の方が遥かに多い。
 つまり日本人と西欧人とでは自然認識にずれがあるのは、外敵に常に晒されてきたと同時に異民族との交流を支配‐被支配の関係で余儀なくされてきた歴史のヨーロッパとでは異なるということに起因するものと思われる。
 つまりその自然認識上の違いはこうだ。
 日本人にとって手に馴染むものというのは自然でいいという意味で自然という言葉を使う。勿論英語にもナチュラルnaturalという言葉はある。しかしそれは自然という正確な語義からの転用にしか過ぎない。日本人にとっては寧ろその転用の方が主たる語義的ニュアンスなのである。顔馴染みということもそのことと同じである。
 しかし西欧人にとって自然とは元々は神が支配する摂理とか今日の科学主義的に言えば、自然法則が支配するという意味、つまり法則秩序的という意味を示すということの方が正確なのである。
 その考え方と言うよりも生理的レヴェルの感性の違いは、集団内でどのような立ち位置を他者に示すかということについて西欧社会と日本には多少の違いを齎すだろう。例えば遠慮ということが日本人には染み付いている習慣である。目上の人に対して配慮するということは殆ど万国共通であるが、本当の意志を示すよりは、建前上の態度を示すことが多いのが日本人の特徴かも知れない。
 ではそれは何故かと言うと、やはり集団内で示すアイデンティティー、つまり個人に纏わる物語、しかもそれは決して自分で自分のことを規定する物語ではなく、自分の外部から自分に対して規定してくる自分の像の方を最優先するという心理が日本人の場合強く働く。それは一面では建前的偽装へと私たちを導くことになるが、そのような心理はやはり日本人固有の羞恥に起因するところが大きい。つまり他者に対して身内の恥を晒したくはないという心理は、共同体閉鎖社会における対他的な戦略として古来より日本人に染み付いてきている習慣だからだ。グローバリズムとかコスモポリタニズムといった考え方や習慣は本質的に日本人には定着していない。それは要するに日本的所作にとっては不釣合い、要するに不自然なことなのである。ある個人の恥は集団の恥という観念はより欧米人よりも日本人に強いだろう。
 本来エゴというものは単に対他的な自己防衛性のものなのではなく、この羞恥感情を巡る対他的な自己物語の語り方に存する。例えばルソーの「告白録」のようなタイプのテクストは日本の文献史においてはそうないのではないだろうか?ある程度その資質を裏切って見せた哲学者は中島義道氏だったと言えるだろうが、文学においては近代以降は自然主義文学等においてそれは実践済みである。しかし少なくとも江戸期以前にはそのようなタイプの文献は極めて手紙とかを除いて稀だったのではないだろうか?
 勿論西欧社会でも近代以前よりは近代以降の方がその種の恥を表に曝け出す式のものは多いということは顕著に言えるだろう。そもそも精神分析などのような学問が出現してくる必然性としてそれは近代の個の主張ということで理解することも可能だろう。しかしもっと率直に言えば、西欧社会とそれ以前の彼らの民族的アイデンティティーの礎となっているユダヤ、ギリシャにおいてさえ、我々日本人にとっては極めて異質な自己意識というものを見ることは可能である。そもそも心理学的な礎は既にギリシャにもあったし、旧約聖書それ自体が人間の性欲とかインモラルな行為に対する欲求というものを鋭く描写して憚らない。そのような礎を散見することが可能なのは寧ろ日本の古来のテクストではなく、仏典の方だろう。日本にはそもそも精神文化的な羞恥に触れる告白とか曝け出しということはなかったと言ってよい。だから吉本隆明が「共同幻想論」において示した近親相姦その他の事柄に対する言説はあくまで戦後日本社会においてのみ可能だったのだ。
 プラトンの「国家」には既に近親相姦に対する戒めが載っている。ギリシャ世界にはそのようなイメージは一見不似合いにすら思えるくらい私たちはギリシャ哲学に固有のステレオタイプを押し付けがちだ。しかし恐らくギリシャにおいてさえ、ユダヤ世界に負けずと劣らず陰惨な人間の欲望と、インモラルな行為が脱法的と言うより、法の鎧の下で堂々と行われてきたのかも知れない。同性愛などは未だ序の口なのである。つまりそのように法において実体論的には人間の所業が腐敗していても、表面的には綺麗なものとして取り繕うという知恵は恐らく全ての初期共同体からあったと思われる。
 つまり法逸脱的なことというのはあくまで反権威的な権力外階級によって齎された時初めて問題化するのであり、恐らく全ての支配階級においてはそれらの行為は建前上隠蔽されたこととして、暗黙の容認として英々と行われてきた、しかしそれは支配階級であるが故に容認されているのであって、そうではない階級の人々からそれらの欲望が要請されるや否や途端にそれを取り締まるという意識を支配階級の生じさせたということは言えるかも知れない。
 つまりそこで法という体系が、建前上支配者による被支配者に対する恩寵という形で権威づけられていったということは考えられる。つまり暗黙の容認において密かに愉悦の如く行われている内は、それは法逸脱行為とはならない。しかしそれが一般庶民にも浸透してゆき、認められて然るべきであるという欲求が大衆に浸透してゆくに従って法官僚による節制論的な法秩序が確立していくのである。
 日本の律令制度から御成敗式目に至るまでの全ての法は暗黙の容認から逸脱する支配階級のお墨付きのレヴェルから庶民レヴェルにまで浸透していきつつある兆候を敏感に察知して設えられたと考えることこそが自然であると私は思う。しかしそういったアイデアは極めて日本社会では未だに不自然であると考えられているのである。寧ろ日本人は支配階級の恩寵としてそれらを抑制する美学を実践する一部の保守主義的官僚たちによる訓示が最もよく行き渡った民族かも知れない。
 つまり隠されるとそれが見たくなるというタイプの欲求として支配階級に容認された様々な愉悦が英々と行われてきているということは、それは一旦全てを白日の下に晒したら、幻滅するほどの種類のものが多いのだろう。しかしそれはあたかもそこに特権的な愉悦が存在するかの如く振舞う中位権力者であるところの官僚たち(それは全ての専門世界に君臨する人々であるから政治家であれ、財界人であれ、教育関係者であれ、学者であれ、ジャーナリズムの世界であれ、アーティストの世界であれ存在する人々のことである。)によって一般開放されていない特権的事項のように振舞われれば、一般庶民はそこに何かあるのではないかと訝しがるようになる。しかし実態的にはそれは殆ど大したものなどないのだ。
 全ての権威とはそのようなヴェールに包む支配階級の貧困な精神性が象徴されている。そしてそのヴェールを剥がそうとする実存主義者たちの行為に対して「それは不自然だ」とするのが日本人にとって固有の羞恥なのである。それは何も性的な愉悦だけではない、全ての仕来りに漲る形式主義的支配階級の隠蔽的な所作、あるいはそういう階級の顕著な話題の質とか、要するに中位官僚たちによって時代時代に作成されてきた有職故実のことなのである。
 だがそういった隠蔽体質的な所作とか「知らぬが仏」的な知恵が蔓延すると、それは最も自然なもの、つまり日本人にとって固有の馴染みあるものとなり、それは精神的な神棚となってしまうものなのだ。
 だから最初からそこには実体論的に何ら崇め奉るべき何物もないと言い切ってしまえばよいのかも知れない。それが哲学者に残された仕事である筈である。しかし恐らくつい最近までそのようなことは哲学界においてもご法度であったし、今でも私の考えるところ一部の人々によってのみそれがなされている。
 正直に告白すると私自身は実体的に空無な形式主義的所作とか仕来りに対しての一切の幻想を抱いてはいないものの、愛する人がエイズに感染してしまって、彼(女)がもし傍にいたとして彼(女)を接吻することが出来るかどうか自信が持てないでいるのだ。それが何の躊躇もなく出来るのだと言い切れるとして、それが自然であるとするなら、その時それが欧米人であれ、日本人であれ本当の自然認識、つまり道徳的認識と自然認識が一致する地点なのかも知れない。それは理性主義とか経験主義とかの論争よりはずっと言説化不可能な領域である。

Friday, December 4, 2009

〔「羞恥論‐素直と依怙地<衝動論第二幕>」〕第二章、第二節 西欧社会=ユダヤ・キリスト教的世界観での自然認識

 私たちが自然に行うという時、どこか肯定的なイメージを持ってことに臨む。しかしそれは行為が自然であることを意味し、自然そのものはまた別の意味合いを持っている。例えば「人類は自然を侮っている」とか表現する時明らかに自然とは宇宙誕生から地球誕生、そしてそれ以来の地球環境の刻々と変化し続けて来ている歴史を言うことが多いが、もっと卑俗な意味合いからは我々は文明とか、都市とか、要するにアーティフィシャルな現実に対して自然を野生とか野蛮とかという考えとして取り扱う。
 要するに自然と言う時我々は全宇宙的規模からそう言う時と、地球環境内的に言う時もあるにはあるが、生命体の一部である我々だが、我々の生命は他の種の生命とは格別の存在理由が少なくとも我々自身にとってはあるので、要するに人間以外の動物や植物に対してそれを自然と呼ぶことも多い。最後のケースでは明らかに人間だけが「考える葦である」というパスカルの言説のような意味合いで、哲学的存在者であるという意識が根底にはある。またそのような捉え方は、少なくとも人類をも他の生命体と同列に扱う自然科学的認識外的では、宗教も全く同じであると言えよう。つまり哲学上での我々自身の存在に対する捉え方には、宗教ではこれこれこういう風に扱ってきたということと無縁ではない部分がある。そもそも自然科学は自然哲学という名で西欧の歴史においては哲学の一部として発展してきたが、宗教に対しては私たちは哲学の歴史においては、常に宗教権力とはまた別の価値規範として神そのものに対する捉え方をも含めて考え続けてきたと言ってもよいだろう。
 それは宗教が本質的に人類に降りかかる災厄に対する救済という意味合いがあったのに対し、哲学は本質的に宗教精神に抱かれている救済という観点から言えば、貧困とか社会の腐敗とか自然環境それ自体からの人類への影響といったことに対して直接に処方箋を提供するものとして発展してきたわけではない。もっと哲学では思考することそれ自体に内在する私たちの生における基本的な指針をある時には極めて精緻な論理において、ある時は極めて倫理的に捉えてきた。
 しかし倫理的と言っても、教条的な情に流されることなく、寧ろ倫理に内在する論理として取り扱ってきたとも言えるし、例えば法体系的な正義とか社会規範的な善悪からではなく、それら自体を成立させる根幹の人間精神の基盤から善とか悪とか、法それ自体を問い続けることをしてきたというのが実像である。
 そして自然という語彙そのものに対しても、ある時は我々に与えられた能力を自然の一部として、ある時は我々自身の自然全体に対する侮りそのものに対する反省として我々自身への脅威として、その時々の我々の思考的、認識的要請に従って微妙に意味を変えながら使用してきたという歴史がある。ある時は我々は動物を我々に近い存在として、ある時は我々以外の霊長類をも含めた全ての動物を我々とは縁遠い存在として考えてきて、その都度自然という語彙に対する定義も変更してきた。
 しかし通常自然科学では自然という語彙を、何ら懐疑的な眼差しなしに使用してきているものの、哲学では自然の代わりに神と言ってみたり、世界と言ってみたり、存在と認識してみたり、自然と言う語彙を少なくとも宇宙とか地球環境全体としてよりは、懐疑主義と自然主義というように、要するに概念把握的思考傾向の様相として捉えてきたとも言える。
 それは哲学それ自体が心の学問であり、我々が考えるということは一体どういうことなのかということに対する問いの歴史を持っているからである。
 例えば我々は敢えて何かの考えを抱く時、意図的であり、恣意的であり、要するに自然に物事を考えているというよりは、不自然に、歪曲して物事を捉えることをしている。そういう場合明らかに私たちがある私たちがよくする考え方それ自体に対して批判的な眼差しを持っている。だから敢えて依怙地にそう捉える必要性を感じているというわけだ。
 しかしそういう風に懐疑的に私たち自身の思考傾向性に対して臨む必要がないばかりか、寧ろそのように懐疑的に認識することが誤っていると感じる時我々は自然に物事を考えることが多い。
 この二つの態度は実はその都度交互に立ち現われると言ってよい。
 例えば素粒子論とか生化学的認識において私たち人類は私たちにとって自然に思われる自然に対する認識それ自体をその都度大きく変更せざるを得ない局面にしばしば立ち会ってきたという意味では、自然に考えること、つまり素直に何かを考えることが必ずしも正解ではない、最早危険ですらあるということを知っている。それは「あんな感じのいい人なのに殺人犯だったなんて」という言葉でも言い表されていると思う。しかし人間は恐らくある他者に対する親切ということと、別の他者に対する残虐ということを難なく両立出来る生活者でもあるのだ。つまりそういうような意外性、勿論それは私たち自身にとっての意外性ということなのであるが、そういうことが自然全体にもあり得るということを既に我々はよく知っている。つまり安易な直観でそれが自然だと規定しては危ないということを我々は既にかなりのレヴェルで経験的に学んできているのだ。
 勿論自然には、殺人犯が殺した相手に対する贖罪とか後悔とか反省が、その他の人々への良心となって顕現されるというようなレヴェルの人格転換性など嘲笑うかのごとくもっと私たち自身の感情をいともたやすく裏切るくらいに残酷である。そもそも自然には残酷とか無残であるとかいう観念などもとよりないのだ。そういう意味では野生という語彙は自然を表す意味合いとしては最も正しい。
 寧ろそういった自然の我々自身にとっての苛烈さそのものが我々をしてその都度自然は雄大だとか、自然は淡々としているとか、自然は無情だとか勝手に形容せしめてきているだけのことである。
 そういう観点から語彙としての自然と言う時、明らかに哲学で言うところの存在というのが語彙使用を纏わる現実としては最も近い。哲学では日常的に我々が使用する自然は全て存在として扱われている。
 だから逆に哲学者が自然と言う時、それは通常一般社会で自然という語彙を使用している規準とはかなり異なった考えで使用していると考えてよい場合も多々あり得るということだ。つまり自然主義ということを言いたい場合でも、それは懐疑主義に対してそう言っているのであり、しかも懐疑主義ということが哲学では決して否定的なニュアンスで言われているのではなく、寧ろそれは前提なのだから、当然自然主義ということを言う場合でも、それは単純に肯定的なニュアンスで言っているのではなく、要するに本来なら訝しげに捉えられ得ることなのにもかかわらず敢えてそれを選択すべきであるというニュアンスなのである。
 それはしかし西欧社会において、あるいはアメリカにおいても私たち日本人と最も異なっている部分として考えることも出来る。何故なら彼らにとって八百万の神という想念は全くないのだし、神による創造という形でしか理解出来ない自然が前提としてあるからだ。だから日本人にとって自然である八百万の神的想念は、逆に彼らにしてみればかなり努力して会得する特殊な想念なのだ。
 そしてそれ以外でも最も私たち日本人にとって注意しなくてはならないこととは、端的に神による赦しとか罪という観念が本質的には我々にはよく理解されていないだけではなく、それにもかかわらず我々は既に江戸期終了時において、完全にかつて日本人が持っていた特殊な共同体意識を捨て、西欧キリスト教社会の隣人愛とか正義という観念を受肉して、私たちが自然なものとして現在利用しているあらゆる社会通念は全てキリスト教的世界観に基づくものであるということである。
 つまり日本人にとっての倫理観とか、宗教観とは端的に罪と神による赦しという観念の完全に欠如した、それでいて社会倫理的には忠実なる西欧社会の模倣という特殊な、ある意味では極めて歪な想念によって支配されていると言ってよいものなのである。日本人にとっての罪と赦しとは神と個人個人が直接契約したものなのではなく、集団内での調和とか、協調性という通念によって排他的であったり、一度仲間として容認されるとあらゆる個人主義を抹殺したりすることが美学であるようなタイプの善悪に依拠している。つまり一度仲間になった相手に対してはいつでも助けようとするが、そうではない人、そうではなくなった者には冷淡な態度で他人のように扱うということである。
 しかしその種の古来よりの日本的なタイプの人間関係は実は常に、支配階級による訓示によってその心がけを十分理解しているという特権意識によって大衆レヴェルで履行されてきたのである。
 それに対して西欧社会では常にモラルも論理も、神によって与えられたという想念が幼児期に徹底して植えつけられているので、逆に純粋なモラルや論理というものへの希求そのものが早い時期より彼らの脳裏には芽生える。ユダヤ選民思想もある意味ではそれを生きることに理性を感じる人々にとっては極めて価値論的に確かさを持つが、一方非ユダヤ人には全くその恩恵に預かれないということをも意味し、ユダヤ選民思想がどこか日本人の庶民、大衆の意識に近いところがあるのもそのためである。
 つまり自然に仲間は善で仲間以外は悪であるという想念で生活する者にとって自然とは心地よいということを意味する。しかし本来西欧社会には自然に対して常に拮抗してきて、大自然の克服が至上命題であった民族であるが故に、それは心地よいなどという生易しいことではなく、端的に脅威であり、神の怒りである。そこに神の意志を感じ取るということにおいて、そうではない自然は自然ではないし、それは偉大であるとか克服出来たとかそういう人間勝手な意識で推し量れるものを悠に超えていると、それを神秘主義的な見解ではなしにドーキンスのように叫ぶ(「神は妄想である」)必要性は、逆にそのような想念が自然である、つまり懐疑主義的な想念さえ並行して価値として認められる社会でしか本質的には育たないのだ。
 つまり西欧合理主義とか無神論とかの考えは自然とは仲間内で協調していこうという考えの地域閉鎖的共同体意識の日本人(次節で取り扱う。)とは違って、本質的に全ての市民は対等であり、どこそこ出身ではないということを前提とした責任論(つまり何をしても自由だが、地域の好では決して助け合わないというクールでドライな考え)それがカントリーならぬネイションという考えの基本であることを考えれば、ユダヤ教が選民思想によってなされた地域エゴに対応する一民族至上主義、つまりエスノセントリズムであることを考えれば、キリスト教とは、少なくとも西欧社会全体においては(勿論当初はそこにコーカソイド以外の民族は含有されていなかったものの)少なくとも建前上では完全にどこそこの民族出身であるということを度外視した要するに宗教信仰上のコスモポリタニズムによる産物なのである。

Wednesday, December 2, 2009

〔羞恥論‐素直と依怙地<衝動論第二幕>〕第二章 対峙と共有 第一節 一人で旅行する時の気持ちと二人以上で旅行する時の気持ち

 私たちは演劇や映画を観る時明らかにそれが嘘の世界、虚構的真実であるということを前提して楽しむ。しかし第一章で述べたように、異星人が初めて演劇や映画を観る時、彼らの文明にそういうものがないと仮定したなら、彼らは例えば二つの演劇とか映画を観て、同一の役者が出演していたとしたら、その二つの演技の違いから、しかし同じ面相から、「あの時刑事だった同じ男が、何故今は犯罪者なのかその理屈が分からない」と言うかも知れない。つまり彼らは顔とか身体の風体によって同一の人物を特定しているのに、その特定の人物が全く異なる文脈上に登場することの意味が理解出来ないであろう。しかし彼らは演劇とか映画の巧妙な術には嵌っているのである。しかしその嵌っているということを理解出来ない、つまりメタ認知出来ないのである。
 これはある意味では赤ん坊がテレビに受像された映画やドラマを観る時に、同じ役者であることを見抜くことは出来ても、それが演技によって異なる役を演じているということを理解出来ないのと同一のことである。私たちは今度は映画とか演劇を楽しむということを覚えると、今度は一々役者の顔があの時観た別のドラマでこれこれこういう役で出演していたという記憶などどうでもよくなるのである(映画とかドラマの評論家とか、その役者のファンであるという場合を別にして)。
 つまりここには虚構というものに対する固有の構えがあることが明瞭に理解出来るだろう。しかし私たちは現実のビルを見たり、現実の馬や犬を見たりする時明らかに、それらを嘘であるとは思わない。勿論旅行して自然の景観に圧倒される時、それらは人為的に作られた建造物とは違うということは意識するし、例えば古びた寺社や、神社の景観そのものが現代のビルとは異質な空間であると感じることもある。しかし少なくとも、それらは現実の姿であり、例えば映画のセットとかドラマが演じられる舞台上の大道具とか小道具とは違うということを明瞭に意識することが可能である。勿論舞台上のセットも大道具、小道具も、それ自体は現実の物体であり、本物であるが、それらを例えば岩とか、教会とか空とか認識して演劇を鑑賞し、あるいは映画の場合にはそれらが恐らくセットであろうと思いながら、そのビルが爆破される光景を鑑賞する。つまり現実の物体であるということと、その物体が何か別のものをかたどっているということを認識することを同時に脳内で理解する。
 しかし実際の風景はそういうものではない。(絵画はどうなのかと言うと、そこに描かれたポットや裸婦が本当のポットではないし、本当の裸婦ではないことを知りつつも、同時にそれらをかたどっていると認識し、かつその画布上の絵の具の塗り方や、色彩の光彩に思いを馳せる。そして絵画そのものもまた現実の物体であるという意識と、その物体上の表現を重ね合わせて見るのだ。)つまり現実の光景とは、認識する道具として立ち現われ得るのではない。それは虚構的真実に対して構えるマナーとは本質的に異なるものである。知覚そのものの読み取りということはあり得るだろうが、それらは虚構的真実の表現とか訴え性とは本質的に異なる実在感、存在感である。それは臨場感という言葉で語るにはあまりにも直撃的であり、且つあまりにも自然なのである。
 ここで自然という言葉が出てきたので、言葉の定義について考え、つまり私が与えたような定義で実は我々は日常的に色々の心的作用をしているのではないかと捉えてみたい。
 まず自然というものは、元来恐れ多いものであり、その脅威に対して克服不可能なものであっただろうが、ある時それでは駄目だと思い人間は克服対象として認識し始めた。だからこそ橋を作り、港を作ったのだ。塔を作り、城を作り、壁を作った。しかしやはり自然はそれらの我々の努力をもものともしなかった。要するに我々の存在をどこかで嘲笑っていたのだ。そして我々は気付いた。自然という言葉を言う時それは我々にとって支配に対する欲求を限りなく我々に齎しはするが、実は誰一人自然の摂理に逆らえる者などいはしないという意味では自然とは、支配に対する断念に他ならないのだ、ということを。例えば現代の地球温暖化などもこのことを示しているように思う。
 そう考えてくると、全体という概念とは、全部分に対する探索に対する断念だし、世界という概念は、全地域、全宇宙、全事象に対する観察に対する断念だ、と言うことが可能である。いや心的な全ての判断そのものが、既に綿密な理解や解析そのものに対する断念であるとさえ言える。そして過去に向けられた作用である想起にしても、全ての過去事象に対する想起の断念が常に容易に想起を可能としていることに我々は気付かされる。何故なら我々は忘れていたものやことをも、そのものを見たり、聞いたりすることによって初めて思い出すということがしばしばだからである。
 要するに<自然=拮抗し得ぬ>ということであり、<世界=把握することで観察を断念する>ことであり、<全体=認識且つ判断>であるが故に把握することで探索を断念することであるという風に言葉の定義そのものをまず考えておかなくてはならないのだ。
 だからこそ我々は一人で自然、とりわけ大自然の前にいる時には、自然の一部に吸収されていくような不思議な身体的知覚に誘われるのだ。しかし二人以上の人間で大自然の前に立っている時、どこか我々はその大自然そのものの持つ圧倒的な驚異に対して拮抗しているという意識を生じさせるのだ。それは人間という実存そのものの能力に対する可能性の認識に近い。だから自然が一つの脅威として立ちはだかった時我々は自然そのものを「私たち」によって共有されたものであるという運命共同体的な意識へと転換するのだ。それは所有することが不可能ではあるが、意識の上で共有し得るのだということでもある。つまり自然とは我々の存在、意識も身体も含めた全てが既に自然の一部であることから、必然的に支配し得ないということ、そしてその支配し得なさそのものが、私たちに教えてくれることとは、端的に支配するべきこととは、自然そのものなのではなく、我々の自然に対して立ち向かうという行為を把握することが安易なような意味で、支配も可能なのではないかということそのもの、つまり我々の心の思い上がりなのである。その思い上がりそのものを阻止するためにかつて人類は神という概念を設けたのだが、私はその神という概念そのものが既に思い上がりであると考えている者である。尤も本論ではそのことを中心には述べない積りである。(それは「意図論」<当ブロガーにて別に掲載更新中>や「言語空間と言語行為」などにおいて詳しく述べている。)
 人間は人間同士での様々な関係においてより心を砕いている時というのは、自然は人間同士によって拮抗し得る、協力して人間中心に自然を人間の側に引き寄せるべき対象となるが、逆に一人で大自然を前にしていると、特に煩わしい人間関係から逃れて大自然に身を委ねている時、私たちは自然と自然に対して素直になる。そして人間関係そのものに対して依怙地になる。誰から理解されなくてもいいという決意を自然に対して「だけど、君だけは僕の味方だよね。」と語りかける。逆に人間関係が巧く捗っている時、私たちは人間関係全体に対して素直になり、自然に対しては「今君は僕たちの安定に身を乗り出して来ないように願うよ。」と心の中ではそう呟いている。
 要するにどんなに人間社会で糾弾されている者でも、大自然を前にすれば、その大自然を味方にすることも可能だと思ってしまい、逆に大自然の脅威全体に対する憂慮は、ことに人間社会で円滑な人間関係を構築している状態の者にとって他者たちと共に克服すべき対象となる。だから昔から大犯罪者たちがどんなに人間社会ではアウトローのレッテルを張られても、神だけは見捨ててはくれないだろうと一縷の望みを抱いたりしてきたことというのは、ある意味ではこの大自然を前にした逸れ者の心境と近いかも知れない。だから人間同士の運命共同体という発想とは人間全体が自然に拮抗し得るのではないかという幻想を抱かせる(人間もまた自然の一部なのにもかかわらず)、人間を甚だ思い上がった心持にさせる傾向をも十分に持ち併せたものでもあるのである。
 要するに自然とは我々がそこから誕生してきた懐なのだが、四面楚歌の人間を包み込むこともあるし、あるいはどんな仕打ちを社会から受けても、君だけは僕の味方なのだよね、と天空を見上げて祈るような心境にも持ってゆくようなところがあり、それら全ては我々が自然を前にした時にそう思う、自然をそういう風に解釈するということから来ることである。だから当然それは正しいことをして自然に守って欲しいと捉える場合もそうであれば、社会にとって罪悪なことをしても、自然はもっと人間に刃を向けてきたのだから、僕のすることは君のしてきたことでもあるのだよね、と捉える場合もそうだということである。
 そのようなことを例えば二人の友人同士が旅行した時に視る風景とは、共有するものであるが、一人で旅をした時に視る風景とは、対峙するものであるという風にまず私は考えたのだ。しかし共有とはある意味では運命共同体として自然全体に立ち向かうという対峙であるし、逆に一人で自然を前にするということはそれ自体では対峙であるものの、その対峙姿勢そのものをも包むということから逆に自然に吸収されていく感じがするというのは、たとえ自然を前にしても我々は他者の存在を通した自己ということを考えてしまう生き物であるということを物語ってはいないだろうか?
 ここで一つの図式を提示しておこう。

①一人で自然に対峙する→自然に拮抗し得ないが故に自然の一部として自己を捉える。(自然からの吸収、あるいは自己から主体的に自然へと吸収されることを望む。)
 人間関係から疎外されている場合、自然だけを味方にする。

②二人以上で自然に対峙する→自然に対して人間同士で協同して拮抗することが可能なように思える(自然の共有)
 人間関係が円滑な場合、自然を共に克服しようとする。

 要するに①も②も、共に自然に対する私たちの心理であるが、同時にその心理には人間同士の関係の状態を、つまり孤独を必要とする心理と、集団に同化する心理をその都度変換するような具合に、不可避的に介在させているということになる。カントの「判断力批判」における自らが美しいと感じるものを他者全てに対しても美しいと感じることを我々が望むということの本質は勿論自我論的な意味合いからもあるが、自らの身体的存在としての現存在に対する覚知と認識の双方が、実は自然の一部でありながら、自然へと拮抗してゆく志向性を持った存在であることの無意識の了解の下で展開しているということそのものが、人間存在を自然>人間ということと、人間全体>自己ということを常に対比させながらやっと自己を捉えられるような内的プロセスを表しているように私には思われるのである。だから自己とは端的に人間全体の中の一部であるにもかかわらず、自然という途轍もなく巨大なものに拮抗する時には唯一味方となるすぐ上の気のいい上司のようなものでもあるのだ。人間全体とは即ち人間存在の全事実のことである。しかし同時にその気のいい上司さえ見いだせないような場合、全ての他者、他人を敵対させてでも、唯一自分だけは自然の一部であることを一番了解した存在であるという認識から、その疎外状況を乗り切ることを可能にするようなものとして自然は存在し得るのだ。自己とは自然=世界に対してさえ対峙し得る状態の自分、それが見いだせない時の自分は自分が自然の一部だと感じるということに他ならない。だから当然前者の自分では自然の一部とは感じることはないだろう。
 私は何気なく自然に対して救いを求めるようなことを神に対して救いを求めるような心理と重ね合わせて考えた。しかしこの二つは勿論違う。特に欧米では全く異なったタイプの心理として位置づけられるだろう。しかし私がそういう風に二つを重ねて捉えたのは、私が日本人であるということとも無縁ではないが、欧米人でも少なからずそういう心理で物事を捉える人もいるということからである。特に昔の哲学(形而上学)ではそうだった。しかし現代ではそれに対して異議を申し立てるタイプの論客も多い。例えば生物学者のリチャード・ドーキンスは明らかにそのタイプの人である。多くの形而上学を無二の礎とする哲学者たちは当然自然=神という捉え方を自然なものとするだろうが、ドーキンスは科学者の中でも合理的な考え方をするのにいざ神となると信じてしまうタイプの人に対して批判的なように、恐らくそういうタイプの哲学者に対しても同様に批判するだろう。そして私自身も自然=神という図式には強烈な違和感を覚えるし、神=人間の思考傾向性とか、神=幻想という風に常に捉えてきた。そしてそのことについてはこの章の第三節と第四節の結論部において詳述する積りである。
 ただ本節において重要な主張とは、端的にこの二つは何かに依拠する心理とか、救いを求める心理としては共通しているということである。そして救いを求める心理には当然対峙する心理と、共有する心理の奇妙な合一的な共進化関係が密接にかかわっているだろうというのが、私の考えである。
 しかし本節で最も言いたいこととは、例えば親しい友人と共に大自然を前にした時というのは、ある意味では極めて自然に対する脅威に額ずくような神に対する敬虔にも似た自然に対する従順な心理さえどこかに吹き飛び、自然そのものが、つまり大自然の全体が既に極めて虚構めいて見える、あるいはそういう風に捉える心理にもなっていることも多く、そしてそのような心持でもって友と一緒に大自然を目にする時、どこか一人で夜道を歩いている時のような一人で大自然に対峙している時に感じる心細さは吹き飛び、勇気と大胆さ、そして何よりも自然全体を客体化する心の余裕が生じているということが多いように私には思われるのである。しかし勿論それはかなり親しい他者との間ではよりそうであり、それほどでもない他者と一緒の場合はそれほどでもないかも知れない。
 だから①で示された自然からの吸収とは、一人でいることの心細さそのものを払拭するように我々の無意識が自動的にそうするであろうある諦観、諦念なのである。
 しかし②の自然を共有ということは二人以上の人間同士でいる限り、一人で大自然を前にした時よりも少なからず、大自然の脅威に曝された場合ですら、被害者は二人になるという意味でも、自然と自然全体を、その脅威的事実をも共有するという心理になっている。そういう風に認識していることによって我々はどこか自然全体に対してさえ、極めて精妙な作り物のような巨大な虚構を前にした時のような客観視が可能となり、要するに東京の大都会の様が別の形で田舎には残っているとばかり感じる自然の虚構化を心の中に自然と行っているのである。大自然が作り物めいて見えるという心理には親しい間柄の友人同士では尚更それら全体を二人で共有しているという妙に一人で大自然を前にしている時とは異なった心理にあり、必然的に風景全体に対する印象さえ違ってくるということは往々にしてあると私は思う。
 サルトルは「存在と無」の前半に崖の上を歩く自分が一瞬先の未来にそのまま投身する不安を描出して、未来の無ということに起因する時間論的不安、不安論的時間を描いているが、実はそれこそが自然からの吸収という無意識的で身体不随意的な想念なのである。それは心理的なものとも違い、言葉を交わす相手、つまり他者不在時に一人で崖の上を歩いている時というのは、二人でそうしている時よりも確かに不安である。未来に対して希望を抱いている時でも一寸先は闇であるような未来の不確実性というものはそれ自体が不安である。そしてその不安とは端的に人からどうされるかという不安ではなしに、自分が自分に対してどうするかという不安である。
 サルトルは精神分析に対して否定的であり懐疑的であったが、期せずしてこの部分ではフロイトが唱えた死への無意識的願望であるタナトスを彷彿させる。つまりそういう想念は恐らく親しい友人と一緒に崖の上を歩いている時には、共に「足元に気をつけろよ」とでも言い合うであろうからだ。だから自殺というのは他者と共にいる時には余程のことがない限りないことだろう。
 勿論極めて自分に対して侮蔑的な他者が自分をけしかけて、「ここから飛び降りる勇気さえ君にはないだろう」などと言われた場合ならまんざら全くあり得ないということはないかも知れない。これならまさに危険行動誘引的な侮蔑である。しかし人によっては、つまりそれにつき従うような精神状態ではないタイプの精神状態の時には、そういう相手に対して「君こそそうしてみろよ」と言いながらその者を突き落とすことさえあり得るかも知れない。非合理的な崖の上の根気試しである。だから下に見えるのが陸地であるなら「ふざけたことを言うな」と切り返すところだが、海とか川とか湖だったなら、万に一つの可能性を信じて巧く飛び降りなければ全身の骨を砕け散らし死ぬだろうが、思い切って実行することもあるかも知れない。もしその死のダイヴに成功でもしたのなら、そのけしかけた者が何か褒賞でも出すということなら、挑戦する者もいるかも知れない。
 しかしこれはあくまで例外的な思考実験である。
 だからひょっとしたら、フロイトの言っているタナトスという概念は、実は他者に対して素直に自分の非とか無能力を認めるようなタイプの素直さを排除してまで、依怙地になり自己能力誇示をその他者の口車に乗って自己劣等性をその他者に悟られまいとする極度の精神病理的な羞恥の表れのことなのかも知れない。「お前なんぞに見くびられてたまるものか」という心理に無理矢理させられ、口車に乗ってと言うより自分でも出来ると他者に対して優位を見せびらかす虚栄心から宣言してしまったが故にエッフェル塔の展望台から飛行機が発明されていない頃ダイヴに挑戦した稚拙な飛行機の発明家であるダイヴァーが大勢死んでいたのだ。