Wednesday, October 21, 2009

〔他者と衝動〕8、記憶と経験

 羞恥は他者存在に対する意識によって顕在化することは分かったが、ここで他者存在と羞恥を結びつけるものとして記憶を考えることは重要であろう。そして記憶とは外在的事物や現象に対する認識を生じさせながら、固有の出来事に付帯する像の集積によって形成されている一般的傾向に対する理解と抱き合わせであると言える。それは自ら主体的に外部の存在に働きかけることを通して得た体験的事実に対する記憶によっても促進される。つまり経験と記憶とは相互に依存しているのだし、フィードバックの関係にあると言ってよい。また記憶は絶えず言語化され続けてきており、経験もまたその経験によって得た教訓という形で常に言語化され続けてきている。経験とは端的に固有の出来事に対処したことの記憶である。だから経験を伴わない記憶というと、ただぼんやり眺めていたということになるだろうが、眺めるということも一種の消極的な主体的行為であり、経験である。知らされるということもそうである。要するに記憶することを促進するものとして経験としてある行動を、ある行為を認識する能力が我々にあると言ってもよいし、経験とは記憶された行為の一連の総合化によって得られる認識でもあるし、実際的な行為事実が身体的にその際の細々として感性的な記憶を我々に得させているのだから、経験は行為事実と行為する際の感受的な記憶によってより明確な実存的認識を得ると言ってよいだろう。
 羞恥の在り方は記憶に内在する成功体験とか失敗体験に依存していることが多いと言えるかも知れない。同じ他者に対してより多く羞恥を抱き、その羞恥を払拭し得ないとしたなら、我々はその他者に対する意識が強いと言ってよいだろう。それは我々がその他者との遣り取りからより強烈な意思疎通上での齟齬を感じ取ったが故に生じさせる「構え」を顕在化しているということである。その際に体験的記憶が即座に想起されるような条件反射的な意味づけがその他者に対して知覚レヴェルでもなされているわけであり、それはその他者を巡る経験則となっているということの現われである。
 しかし積極的行動であれ、消極的行動であれ、それが意識的であるか否か、つまり意図的であるか否かはまた別の規準になる。そこで記憶が意図的ではないということは、例えば一度見た顔というのは覚えている筈だし、それを咄嗟に思い出すことはあっても、その顔が自分の自宅近辺の近隣住民であるのか、勤めている会社の近くで見た人なのかということを思い出せないということからも明白であるし、経験というものもまた、自転車の乗り方を知っているということは足をペダルに乗せ、扱ぐことが言葉によって説明し得るということとは違う。例えばパソコンを考えてみよう。我々はパソコンの前に座り、キーボードを叩きワードを打ち込む段になって初めて各文字のキーを手によって思い出し、一々意識してそれを叩くことなどない、だから逆に一々ある文字(例えばG)単語のキーがどこで、どのキーの隣であるかなどと口で説明しろと言われると窮することとなる。つまりそれらは一体身体的な記憶として言いようがないのである。そういう行為にも積極的と消極的という差はある。
 そこで反射的に他者の意見に追随する時我々が採用する行為選択的な基準をまるで音楽に合わせて身体を動かすようなので、原音楽と呼ぼう。逆に反射的に他者に対して畏怖の感情を巣食わせる時、それはよく知る他者の意外な面を知る時、あるいは一度も会ったことのない他者が突如自宅を訪れる時、映像越しにその者を自宅内で確認する時に咄嗟に抱く警戒心のようなものを原羞恥と呼ぼう。この二つは連動しているし、ある時には協同するし、ある時には離反し合う。気心の知れた友人との対話には原音楽的行為選択が援用されることが多いだろうし、よく知らない部分の多い他者に対しては我々はより原羞恥を採用する。しかもそれらは常に無意識的になのである。勿論意図して原羞恥を採用することもあるだろうし、理解出来た他者に対して意図的に原音楽を採用することもあるだろう。しかし意図的にそうであるということは原音楽においても原羞恥においても、より羞恥レヴェルが強いということを意味する。真に信頼しきっている相手に対して我々は常に原音楽的であることが極めて自然である。それは勿論よく酒を一緒に飲む相手と酒を飲む時にであり、その者と議論するとなると話は別であるし、逆に議論することに慣れている相手に対して議論する時には原音楽的に振舞う(それは対立した意見を言うことすら信頼して相手を論駁するという意味である。)し、逆にそういう相手と初めて酒を飲む時には原羞恥が突如呼び起こされるだろう。議論も出来て、しかも酒も共に飲める相手というのはごく限られている。それら一切は全て記憶としてインプットされた他者像をその都度引き出しているのだし、そういった各個人毎のデータファイルとその内容はその他者に纏わる出来事と、その他者との一件(会話や対話その他共同作業等)における独自の、つまり他の他者との間にはなかった共感や反感といった感情レヴェルから、仕事とか作業の進行具合といった経験的事実(勿論そのことに対する記憶)に拠っている。  
 「意図的にそうであるということは原音楽においても原羞恥においても、より羞恥レヴェルが強いということを意味する。」と私が言ったことは極めて重要である。つまり私たちは羞恥を払拭するということの内に勇気を持つべきなのだとしたら、そういう他者と努めて親しげに接するということの内にl強烈な羞恥があると言ってよいだろう。従って本当に心が打ち溶け合っている相手とか仲間に対して我々は原羞恥を抱くことなどないと言ってよい。勿論最低限のそれは保持されていよう。しかしそれは極めて稀少なものでしかないだろう。そういう相手とはツーと言えばカーとくるわけだから、必然的に原音楽が自然な形で形成される。しかしそうでない相手とは羞恥を払拭して原音楽を構成しようと欲するのだから、必然的に原羞恥の範疇で擬似的に形成される原音楽と呼べる代物にその度毎に縋りつくという状況が生まれる。このことは接する相手に対する羞恥レヴェル、警戒レヴェルによって大いに異なってくるわけだから最重要であるし、それもまたその他者像というものが基軸となるし、その他者像とはその他者を巡るエピソード記憶に拠るところのものである。そしてその対他者記憶とは、端的にその他者を巡る像を形成する根幹となる私にとっての身体情動的な経験であり、経験記憶である。記憶には経験が必要であり、それなしには記憶という脳内の作用はあり得ないし、経験には必ず記憶が伴われるものなのである。
 ここで自由意志論と本論との関係について考えてみたい。脳科学や心理学では既に準備電位というものの存在が明らかにされ、要するに我々が何かを意志する前に脳では前段階としてその意志を発生すべく準備しているということなのであるが、では我々には自由意志の一欠けらもないのかというと、それも違うと言えると思うのである。要するにこういうことである。私がこの論文をパソコンで打って入力する時、私の指は一々私の意志によって動かされているというよりは、身体的な記憶と結びついているだろう。しかしその身体的記憶を引き出しているのは、さっきまでベッドで寝ていて、目覚めその時考えていたことを早速パソコンに入力しようと私が思い立った意志である。つまり脳内の準備電位を有効なものとして活用しているのは、私の日常的な意図、つまり生活において私がなすべきことと心得ていること、つまり自由意志である。だから身体記憶を慣用することを通して何らかの目的を遂行する限りにおいて自由意志論と脳内での準備電位を両立し得る。しかも自由意志とは、端的にその時々の私の生理的状態とか健康状態、及びそれと不可分の、あるいはそれらをも構成するその時々の衝動に左右されているし、あるいはこう言った方がよいと思われるが、他者に対する羞恥の在り方、その羞恥を呼び起こしているその時々の私の衝動の在り方そのものが私の意志なのである、と。だからモラル論的な自由意志と本論での衝動と羞恥の他者存在による私の存在という覚知とその維持と、意識そのものが行動を言語行為を誘発するような意味での私たちの在り方とは両立する、と言うより寧ろ一つのことを別の角度から見て判断したものであると言ってよいだろう。そしてその両立を成立させるものとして私の日常的意志そのものの記憶と、その意志を顕現させるものとしての私の経験とその記憶が私を自由な存在として位置づけると同時に、私をその都度の衝動によって、意志を顕現する在り方を変えもすると言えるのである。何故なら今現在このパソコンを入力している私は、さっきまでベッドで睡眠を取っていたが、そうではなくずっと起きて本を読んでいたなら、今私はこのようにパソコンに文字入力しているというわけにはいかなかったかも知れないからである。だから経験とその記憶という考え方からも、あるいは記憶によって構成されている私の経験という考え方からも、その時々の私の細々した意志と、もっと大局的な目的的意志とが交差したところの私において、その時々の細々した意志を発動させる衝動は、私の記憶と経験による生全体の大局的意図とか意志をより有効なものとし得るように準備されるのだが、その準備を滞りなくするものもこの全体的なシステムである羞恥と衝動とによる意志活性的な円環構造であると同時に、私の生全体の自由意志であるとも言えるのである。

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