Monday, October 19, 2009

〔他者と衝動〕7羞恥と記憶(衝動と記憶と共に)

 羞恥は払拭するも尊重するも、感情のバロメータである。だからそれは行動の際の意思決定の合理化、つまり決心の構造とも深く関わる。そこで本節では行動に纏わる動因として羞恥を考え、行動そのものがどの程度の積極性であるかということに注目してその段階毎の内的な羞恥に対する心の在り方を巡って考えていってみよう。
 まず次のようなことが考えられよう。

 ① 積極的に積極的行動に出る選択衝動→羞恥の能動的払拭<迷い、逡巡なし>
 ② 消極的に積極的行動に出る選択衝動→羞恥の控え目な払拭<迷い、逡巡あり>
 ③ 消極的に消極的行動に出る選択衝動→羞恥そのものに丸ごと取り込まれる<控え目>
 ④ 積極的に消極的行動に出る選択衝動→羞恥の尊重<配慮>

 そこでこれらが何故衝動足り得たかということについて記憶との関連で考えてみると、
次のようになるだろう。

 ① ああしたのでああなったという成功体験に対する記憶から、あるいは結果はどうなるか分からないが、そうするしかないと、かつてそうしようと思ったが踏み止まったことに関する後悔があるので今回はそうしようと決意する。(成功体験の記憶か思いとどまった記憶により雪辱を晴らしたい)
 ② 一か八かやってみようという決意(今まで一度も思い切ったことをしてこなかったという後悔)
 ③ 何をしても巧くいかなかったという思いから、何もすまいと決意する(成功体験の皆無の記憶)
 ④ ああしたからこうなったという失敗体験に対する記憶から、その二の舞だけは踏みたくはないということから決意する。(失敗体験の記憶)

 しかしこのような成功体験とか失敗体験といったものをそのように意味づけるものはその都度の記憶の在り方とその都度の感情である。積極的であるとか消極的であるとかの程度の差も、その都度の感情は言うに及ばず、行動に巻き込まれる他者の私の行動に対する反応如何によって変化してゆく。あるいは一つの行動の意味は前記した二つの全部に常に該当するくらいその見方によって変化し得る。そしてその見方とは、私がどの他者と接することによってその他者との関係でその行動の意味を探るかによってなのである。
 私の記憶とは端的に私にとっての他者全てに対してその都度変化し得る。一つの会合に出席した者同士が再び別の日に集まるとしよう。すると私は前の時に同席したAとB二人と個人的にその時の会合でのCの発言を想起しつつ、陳述したとしよう。するとその陳述時には、Aとの対話の時と、Bとの対話の時とではまるで異なった様相で過去事実によって想起され得るし、その想起されたCの発言時に私が抱いた私の感情の意味づけをその都度まるで異なった様相で要求する。そしてAとの対話におけるCの発言に対する存在理由と、Bとの対話におけるCの発言に対する存在理由とは、その意味も様相も志向性も全く異なったものとなるだろう。そして更に後日私がAと交した陳述と、Bと交した陳述を想起する時にはまるで異なった感情を喚起するだろうし、まるで異なったCの発言に対するその時の感情をその都度喚起することは言うまでもない。
 本来他者の像とは常に可変的であり、しかも全体というものを取り結ぶことなどない。何故なら私にとってどのような他者でもその他者と接する時にその他者が私に見せる像を中心にしかその像を結ぶことなど出来はしないからである。私はAと会う時、Aがいつも見せる笑顔や言葉遣いや、会話の口調や、表情によってAの像を勝手に私の内部で構成するし勿論同じように恐らくAは私に対して私の像を構成するであろう。しかし私は恐らくBと接する時にはまるで異なった笑顔や言葉遣いや口調や表情をしている筈なのだ。当然AはBと二人でいる時と私と二人でいる時には、あるいはBはAと二人でいる時と私と二人でいる時にはまるで異なったそれらを携えている筈である。そして個々の他者に対して私が抱く像は勿論時間と共に変化してゆくわけだが、その変化はあくまで私が知る彼らに対する像であるという範囲を超えることは決して出来はしない。
 私は要するにAに対してもBに対しても、私と二人でいる時、あるいはその限定された構成員全員でいる時に限定されてしかそのAの採る態度の全てを知ることなど出来はしない。よってどのようによく知る他者であっても、私が知るその他者ということでしかないのであって、私が不在な時にAやBが私のことを話題にすることがあるにしてもないにしても、私が不在な時に見せる彼ら全員の態度は、私がいる時とでは自ずと異なっているだろうし、それはどのような成員においても恐らく(その成員にとっての<他者の顔ぶれ>の在り方全てに対して)該当する。
 つまり羞恥の在り方、あるいはその都度の羞恥の様相や、それらに対する記憶の仕方、想起の仕方とは成員の顔ぶれ如何によってもだが、その成員の態度の志向性、性格によっても常に変化し得る。よって羞恥と記憶の連関作用とは、他者像の在り方の連関作用(過去のAに対する像と現在の像)、あるいは他者個別の像間での連関作用と常に並行している。そしてそれらはある時には対応し、ある時には無関係を決め込むことだろう。何故なら羞恥と記憶は常に自分にとっての他者とか自分ということであるが、他者像の在り方とは、自分にとっての他者に対してであると同時に、自分にとってということと関わりなくその他者が世間一般で見いだす存在理由に対する評定ということが絡んでくるので要するに実存的であると同時に超越的でもあるからである。この超越的であるということは、端的に「我」とか「私」が超越的であるということとは性格が異なる。
 羞恥はしかし記憶と同時に衝動とも連動している。衝動は羞恥を発動させるべく常に待機していると言ってよい。しかも衝動は言語行為つまり発話行為を誘発しもする。言語意志と衝動は一種の抱き合わせ関係にあると言ってよい。言語行為はそれ自体で一つの行動である。そして言語それ自体、例えば言語構造、例えば統語秩序とか語彙とかイディオムとかがそれ自体衝動を誘発するのである。そして重要なこととは、言語行為はそれ自体で他者を必要とし、他者存在は衝動を誘発するし、他者存在は言語を誘発するので、当然他者‐衝動‐言語という三角形が構成されるのだ。この三角形は羞恥と記憶と連関している。衝動は記憶に誘引されるし、羞恥と抱き合わせである。そして他者存在は羞恥を喚起するし、記憶によって他者の像を取り結ぶし、他者の像は他者一般に対する記憶と、特定の他者に対する記憶とによって構成される。言語は側頭葉による記憶に依拠しているし、言語行為に赴くこと自体に羞恥を介在させる。他者存在と言語は記憶と羞恥を介在するのである。

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