Thursday, October 15, 2009

〔他者と衝動〕5、羞恥と良心、衝動と良心

 フッサールがガリレイをして発見する天才であると同時に隠蔽する天才であると言ったような意味で、私たちは何かを発見し、それを重宝することにより、他の何かを真剣には見まいとし、ある時にはそれらをひた隠そうとさえする。
 理性が本能を隠蔽するように良心は衝動や気分を隠蔽する。しかし何かを隠蔽しようとするものもまた一つの衝動であり、気分なのである。そして良心もまた一つの衝動なのである。
 良心は理性とも又一味違ったものである。理性では許されないことでも良心では許すこともあるからである。だからこの二つは時として協力するが、時として離反する。
 良心によって抑制し得るもののみを衝動と呼ぼうとする試みの方が巷では多いが、良心も又幾分自己利益によって支えられ、利他的に振舞うことで得る他者からの信頼という報酬を無意識に期待しているところがある。人間の生涯において、純粋に利他的に振舞えることというのはそう多くはない。あると
してもそれを良心という一言で表してもよいものだろうか?
 良心は確かに利他的である面もあるが、公平とか公正ということにおいて考えると、良心は理性と結託すると残忍にもなるし、逆に愛情と結託すると利己的になり、当然残忍になることもあるから、それらは動機ではあるが、結果ではない。つまり結果は必ずしも同情的なものとばかりとは限らないのである。しかし我々は前者のように理性のみに従順であるような人間をまず愛しはしないし、信頼することもないだろう。人間はその人間の善良さに比例してアンチ・ヒーロー志向もある。例えば犯罪そのものは悪であると知っていても、尚犯罪者に共感さえすることがある。例えば幸不幸ということのバロメータは必ずしも安定して収入の多い生活ばかりであるとは言えないどころか、我々は常に警察に追われている犯罪者の逃亡生活の中にさえ生きている実感さえあれば幸福であるかも知れないとさえ思える。
 また愛する者を救う為には理性をも顧みないようなタイプの行動にさえ我々は共感する。復讐ということは法的に禁じられていても復讐心に理解を示すことが出来る。
 だから愛とは良心とは明らかに異なる規範である。すると良心はある意味では主に愛する対象である家族や親族、親友に対して向けられたものであるというより、憎しみ合う親族や家族、あるいは同僚や他者一般に対して向けられた理性と言い換えてもよいかも知れない。

 エートスはその都度パトスに対して、事後的に時間意識を持つ我々が理性を持ち込んで価値規範的に生を反省する時に得られる認識と言ってもよい。その都度のパトスとは記憶と経験が現在において把握されて構成される羞恥と衝動の連動によってその都度決定されているその時々の我々の気分と言ってもよい。
 良心とは本質的にその時々のパトス=気分に左右されている我々の実存に意味を付与する理性の衝動に従って我々の行為に価値的意味を見いだすことである。それは概ね他者存在に対する羞恥(とある意味では恐怖)、そして発動される思惟である。
 ①他者存在に対する衝動(動揺と言ってもよい。)、②自己意識という衝動、そして③生を理性によって意味づけようとする良心という衝動は常に自己利益追求という形と不可分に他のあらゆる衝動と連動し、行為においてはまず①を発動させ、その行為を持続させる意志は②を、そして①や②を意味づけようとする時③を発動させるのだ。
 
 哲学では「私」の心はその存在を確固としたものとして認めるが、他者の心は「私」のようではない、意識があるかどうかは分からないとする。そこでゾンビという概念が生じるのだ。これは哲学的懐疑主義によるものである。しかしそう問うということを成立させる状況とは、端的に他者が自己以上に心を持った存在であるように感じる気配故であり、この気配こそがあらゆる哲学的問いを成立させるのだ。つまり他者の心があるような威圧感、他者の気配に漂うただならぬ生命の存在感こそが、寧ろ自己というものの在り方を決定するのであり、ゾンビという考え方が前提としてあるのでは断じてない。
 ゾンビとは他者の心を最優先し過ぎる我々の心理的傾向故に捏造されたのである。自己を存在から超出させなければ存在を自己がそこに属する構造から解き放つことこそが存在を認識することにおいて必要である旨をサルトルは「存在と無」で述べているが、このことはヘーゲルが「キリスト教の精神とその運命」において描出しているアブラハムのユダヤを選民として扱うことの心理的決断、あるいは生き方の選択に既に予兆していた。ゾンビとは自己を固有の存在として認め、そのことから自己以外の全てを自己の認識から発生させる旨を理解するために必要な心的操作である。ゾンビという概念が出される以前から既に哲学では他者を扱う時、既に認識論上では自己だけが固有であり、それ以外は全てその世界での登場人物であり、監督や演出家にとってはどのように料理すべき存在であるかという操作選択の問題でしかないということの内の一つであることへと転落することが運命づけられていたのだ。
 すると良心とはそのような自己中心主義的な認識の在り方をそれが起源であるのに、その起源以前にも何かありはしないだろうかという迷いが生じさせたものであるとも言える。その迷うことが脳それ自身の認識によって生じた他者存在への覚知と、その覚知によって「私」を生じさせる時、起源的である脳内認識を自己意志によるものであると誤魔化すために設けられた他者優位にさせておく自己保身、利他的戦略なのである。つまり良心とは他者という存在感、威圧的気配故にその存在に屈することを欲しない自分が本来認識の起源であるところの自己中心主義的な世界によって登場させた他者の存在理由を、その存在理由(つまり自己本位の認識による)へと推し留めようと画策することから生じさせる他者に自己に対する脅威となる行為を発動させないための方策、付け焼刃的な応急措置として懸案された考えなのである。
 しかし言語とかカテゴリーとか規範とか論理思考性ということを考える時、良心があるということは一定の段階を踏んだ考えであることが了解される。つまり言語とは真意を告げるものであるからこそ進化したのだし(このことは永井均氏が「<私>のメタフィジックス」(勁草書房刊)において142~144ページにおいて強調されているので参照されたし。)善意などという語彙が出現する以前に必要性に応じて道徳は形成されていた。だから善意とか真意というような概念は、道徳規範を前提として社会ゲームにおいてゲームの規則の逸脱という新たな段階における規範意識が台頭してきて以降のある部分では極めてソフィスティケートされた概念であると言える。従って良心と殊更強調して語彙化しなくてはならない事情とは、一面では極めて規則逸脱、規則無化的アナーキズムが一つの行動原理上の選択肢として定着して以降の常套的手法であるとさえ言える。犯罪と取り締まりという事態は一定の進化的段階を踏んだ上でなければあり得ない状況である。少なくとも言語獲得していく過程において当初から犯罪が常習化していたとは考えられない(今のところであるが)。何故なら言語獲得することによって生存的な自然選択を生き延びてきたということが人類の進化上での真実であるなら、言語行為の定着それ自体は暗闇から光が見える世界への階であると言ってよく、そのプロセスにおいて逸脱という行為習慣は定着することはなかったと考えた方がより自然であるからである。
 だから衝動もまたその語彙を敢えて本論のように強調せざるを得ないということの内には、理性論と良心というものの考え方全体に対してある種のアイロニーが介在しているのだということと、少なくとも著者である私にとって未だ衝動を定着することが必要であると考えているからなのだが、理性によって悪辣な衝動、利己的であり且つ法規範的に無法であることを躊躇しない性質のそれを抑制する必要性を感じている向きには衝動をクローズアップした本論に危険を感じるかも知れない。しかし逆に良心と理性論の常套的因襲性と、硬化した哲学固有の観念論的学閥的常識に抵抗感を感じる向きは、敢えて動物的側面でもあると言える衝動をクローズアップさせることに意味を見いだされるかも知れない。そして人間もまた一種の現在時点だけで判断する即自にしか過ぎないという見方に慰安を得ることさえ可能かも知れない。それに対して理性論的良識を重んじる向きには本論は自然哲学的ニヒリズムと映るかも知れない。その感じ方、受け取り方の感情論的クオリアの差異こそが本論を世に問うことの意味を見いだし得る場なのである。恐らくこの両極のその二つの感じ方は両方正しく、両方とも完全ではない。
 衝動の皆無の存在において行動はなされ得ないし、良心によってその行動を理性的判断の内で認識することの出来ない者は本質的に哲学的問いを問う存在者とは言えない。だが例えばフッサールが批判した自然科学の数量化的合理主義が、微細な現実的非理想性から逸脱したように感じられることを敢えて見ない振りをすることによって発展し、進化した近代科学主義的恩恵に、逆にネガティヴな目を再び注ぐなら、寧ろ自然科学が生を基本として一切死へ向けられた不安を見据えずに来たこと、それは単に宗教に任せておけばよいという安穏が、しかし一歩後退して全てを見渡してみると、全ての個体は死滅するし、もし未来が全て明るい素材だけで満たされているような肯定的なだけの科学的合理主義に破綻があるとすれば、それは「では何故永続的未来が保証された生命的秩序において、全ての個体は死滅するように運命づけられているのだろうか?」という半ば宗教的でさえある問いを投げかける時、我々は答えに窮するのに伴って、ただの自己欺瞞と化する。つまりもし人類が恐竜のように絶滅しないで済む生命秩序であったのなら、いっそ全ての散逸して存在する個体が個々死滅するように運命づけられずに、一個体(そういう場合個体とは呼ばないだろうが)だけであり、それが成長し、老化するような時間秩序ではない形で存在し得ただろうとさえ言える。そうではなく全個体が死滅せざるを得ないということ、子孫を残さずに死滅する個体も多く存在し、自然選択をここで取り上げて考えるとしても、多く子孫を残す個体が長く生存するとも限らないということ、あるいは強者である系統だけが繁栄するわけでもないことから考えると、どれだけこれだけのハンディーを背負って永続的に生命秩序を生存させ得るかという実験場としてのみ言語行為を主たる手段とした存在者による社会ゲームそれ自体は既に絶滅必定であることを運命づけられているからこそ、「生命とは何か」とか「生とは何か」と敢えて問う思念を例えば哲学を通じて発生せしめたかも知れないのだ。すると我々はこう考えることが出来る。仮に因果系列的に全ての事象を捉えることを基本に人間の行動や思念をさえ考える因襲を定着せしめた当のものとは、自然科学的未来予定調和に対して刃を向ける諸哲学(現象学、実存主義哲学等を筆頭として、ポスト構造主義にまで連なる系列)をさえ育む文化コード的な土壌であったかも知れないとさえ言い得る。
 原因が必ずある筈だという考えはサルトルの言う様に原因を探る心理状態を発生させる「私」意識の自覚によって保証されているに過ぎないとすれば、意識が幻想である(私はどちらかと言うとそう考えるタイプなのだが)と意識至上主義を批判する論をさえ発生させる当のものとは、存在者としての命脈を時間意識を介在させつつ自覚させ、客観的に全ての事象を捉えたり、主観的に全ての行動を決したりする認識力を置いて他にない。しかしそう言う当の私はそのような認識力を生じさせる原動力という根拠を再び求めている。これはある意味では思考の無限連鎖の起源である。しかしこの思考を育む精神的秩序そのものはやはり一つの衝動としか言いようがない。そして私が仮にこの文章、この言説の全てが闇に葬られる運命にあったとしても尚、執筆せざるを得ないとしたなら、この文章は私によって書かれ、私によって読まれるという私と私を他者として認識する私の中の他者である私の存在によって書くことを運命づけられていると言える(そのように他者を私の中だけに想定することさえ起源的には実際の他者の存在がある)。するとやはり衝動の存在理由、あるいは発生論的根拠として他者存在という私を発生せしめると同時にその私によって「私の身体」とか「私の態度」とか「私の感情」を萎縮させたり、遠慮させたり、配慮させたり、畏怖させたり、要するに羞恥という名の全態度、全行動、条件反応性の全様相と全尺度を司る、内的思念の全様相を引き受ける他者存在に対する覚知と、他者理解の根幹に位置する生命存在に対する気配察知(まさに脳科学的に言えば小脳によって古脳によって判断される無意識の)が考えられて然るべきである。羞恥は衝動と常に相補的である筈だ。
 しかし私にそう述べさせるもの、そう考えさせる当のものは、良心という理性を招聘した衝動以外のものではないだろう。私はそう述べ考えたことを伝えたいと欲する、そしてそのために慣用している言語秩序に則ってこうして言述しているのだ。羞恥が私に述べるという秩序を迎えに行かせるのだし(勿論そこに他者存在という覚知が私にはあるし、それが「私」を構成させてくれるのだが)、衝動が羞恥によるそのような選択肢を招聘しているのだが、同時に羞恥が衝動を催すのだ。私は良心という脳作用そのものを生理的に獲得しているわけではない。恐らく脳作用そのものが機能論的秩序を、私に現象させる時、現象としてしか全ての思惟を受け取ることの出来ない「私」によってその衝動と羞恥の駆け引きそれ自体を客観的に駆け引きであると認識させるものとして私は事後的に良心という語彙を選択するのだ。
 良心とはだから幻想にしか過ぎないと言うべきではないだろう。良心こそが先にあるから意志するのだと脳が「私」に命じるとしたら、私は恐らくそれに従うことに快楽と愉悦を感じるように思惟選択せざるを得ないように運命づけられているのだ。それは恐らく言語によって私が全ての読者(たとえそれが私という私の中の他者でしかなかったとしても)に向けて語彙を発することをごく自然に受け容れて、その事実自体に対していささかも強制的秩序であるとか、呪縛と感じることがないような意味でそうなのである。理性は良心を追いかけるのだ。そう私に思惟させる脳=存在を私に自然に認めさせることを自然のものとして生きる存在者を私は存在者と呼ぶ。全ての問いは与えられ考える存在であるという私たちの運命を受け容れるところから発する。

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