Friday, December 4, 2009

〔「羞恥論‐素直と依怙地<衝動論第二幕>」〕第二章、第二節 西欧社会=ユダヤ・キリスト教的世界観での自然認識

 私たちが自然に行うという時、どこか肯定的なイメージを持ってことに臨む。しかしそれは行為が自然であることを意味し、自然そのものはまた別の意味合いを持っている。例えば「人類は自然を侮っている」とか表現する時明らかに自然とは宇宙誕生から地球誕生、そしてそれ以来の地球環境の刻々と変化し続けて来ている歴史を言うことが多いが、もっと卑俗な意味合いからは我々は文明とか、都市とか、要するにアーティフィシャルな現実に対して自然を野生とか野蛮とかという考えとして取り扱う。
 要するに自然と言う時我々は全宇宙的規模からそう言う時と、地球環境内的に言う時もあるにはあるが、生命体の一部である我々だが、我々の生命は他の種の生命とは格別の存在理由が少なくとも我々自身にとってはあるので、要するに人間以外の動物や植物に対してそれを自然と呼ぶことも多い。最後のケースでは明らかに人間だけが「考える葦である」というパスカルの言説のような意味合いで、哲学的存在者であるという意識が根底にはある。またそのような捉え方は、少なくとも人類をも他の生命体と同列に扱う自然科学的認識外的では、宗教も全く同じであると言えよう。つまり哲学上での我々自身の存在に対する捉え方には、宗教ではこれこれこういう風に扱ってきたということと無縁ではない部分がある。そもそも自然科学は自然哲学という名で西欧の歴史においては哲学の一部として発展してきたが、宗教に対しては私たちは哲学の歴史においては、常に宗教権力とはまた別の価値規範として神そのものに対する捉え方をも含めて考え続けてきたと言ってもよいだろう。
 それは宗教が本質的に人類に降りかかる災厄に対する救済という意味合いがあったのに対し、哲学は本質的に宗教精神に抱かれている救済という観点から言えば、貧困とか社会の腐敗とか自然環境それ自体からの人類への影響といったことに対して直接に処方箋を提供するものとして発展してきたわけではない。もっと哲学では思考することそれ自体に内在する私たちの生における基本的な指針をある時には極めて精緻な論理において、ある時は極めて倫理的に捉えてきた。
 しかし倫理的と言っても、教条的な情に流されることなく、寧ろ倫理に内在する論理として取り扱ってきたとも言えるし、例えば法体系的な正義とか社会規範的な善悪からではなく、それら自体を成立させる根幹の人間精神の基盤から善とか悪とか、法それ自体を問い続けることをしてきたというのが実像である。
 そして自然という語彙そのものに対しても、ある時は我々に与えられた能力を自然の一部として、ある時は我々自身の自然全体に対する侮りそのものに対する反省として我々自身への脅威として、その時々の我々の思考的、認識的要請に従って微妙に意味を変えながら使用してきたという歴史がある。ある時は我々は動物を我々に近い存在として、ある時は我々以外の霊長類をも含めた全ての動物を我々とは縁遠い存在として考えてきて、その都度自然という語彙に対する定義も変更してきた。
 しかし通常自然科学では自然という語彙を、何ら懐疑的な眼差しなしに使用してきているものの、哲学では自然の代わりに神と言ってみたり、世界と言ってみたり、存在と認識してみたり、自然と言う語彙を少なくとも宇宙とか地球環境全体としてよりは、懐疑主義と自然主義というように、要するに概念把握的思考傾向の様相として捉えてきたとも言える。
 それは哲学それ自体が心の学問であり、我々が考えるということは一体どういうことなのかということに対する問いの歴史を持っているからである。
 例えば我々は敢えて何かの考えを抱く時、意図的であり、恣意的であり、要するに自然に物事を考えているというよりは、不自然に、歪曲して物事を捉えることをしている。そういう場合明らかに私たちがある私たちがよくする考え方それ自体に対して批判的な眼差しを持っている。だから敢えて依怙地にそう捉える必要性を感じているというわけだ。
 しかしそういう風に懐疑的に私たち自身の思考傾向性に対して臨む必要がないばかりか、寧ろそのように懐疑的に認識することが誤っていると感じる時我々は自然に物事を考えることが多い。
 この二つの態度は実はその都度交互に立ち現われると言ってよい。
 例えば素粒子論とか生化学的認識において私たち人類は私たちにとって自然に思われる自然に対する認識それ自体をその都度大きく変更せざるを得ない局面にしばしば立ち会ってきたという意味では、自然に考えること、つまり素直に何かを考えることが必ずしも正解ではない、最早危険ですらあるということを知っている。それは「あんな感じのいい人なのに殺人犯だったなんて」という言葉でも言い表されていると思う。しかし人間は恐らくある他者に対する親切ということと、別の他者に対する残虐ということを難なく両立出来る生活者でもあるのだ。つまりそういうような意外性、勿論それは私たち自身にとっての意外性ということなのであるが、そういうことが自然全体にもあり得るということを既に我々はよく知っている。つまり安易な直観でそれが自然だと規定しては危ないということを我々は既にかなりのレヴェルで経験的に学んできているのだ。
 勿論自然には、殺人犯が殺した相手に対する贖罪とか後悔とか反省が、その他の人々への良心となって顕現されるというようなレヴェルの人格転換性など嘲笑うかのごとくもっと私たち自身の感情をいともたやすく裏切るくらいに残酷である。そもそも自然には残酷とか無残であるとかいう観念などもとよりないのだ。そういう意味では野生という語彙は自然を表す意味合いとしては最も正しい。
 寧ろそういった自然の我々自身にとっての苛烈さそのものが我々をしてその都度自然は雄大だとか、自然は淡々としているとか、自然は無情だとか勝手に形容せしめてきているだけのことである。
 そういう観点から語彙としての自然と言う時、明らかに哲学で言うところの存在というのが語彙使用を纏わる現実としては最も近い。哲学では日常的に我々が使用する自然は全て存在として扱われている。
 だから逆に哲学者が自然と言う時、それは通常一般社会で自然という語彙を使用している規準とはかなり異なった考えで使用していると考えてよい場合も多々あり得るということだ。つまり自然主義ということを言いたい場合でも、それは懐疑主義に対してそう言っているのであり、しかも懐疑主義ということが哲学では決して否定的なニュアンスで言われているのではなく、寧ろそれは前提なのだから、当然自然主義ということを言う場合でも、それは単純に肯定的なニュアンスで言っているのではなく、要するに本来なら訝しげに捉えられ得ることなのにもかかわらず敢えてそれを選択すべきであるというニュアンスなのである。
 それはしかし西欧社会において、あるいはアメリカにおいても私たち日本人と最も異なっている部分として考えることも出来る。何故なら彼らにとって八百万の神という想念は全くないのだし、神による創造という形でしか理解出来ない自然が前提としてあるからだ。だから日本人にとって自然である八百万の神的想念は、逆に彼らにしてみればかなり努力して会得する特殊な想念なのだ。
 そしてそれ以外でも最も私たち日本人にとって注意しなくてはならないこととは、端的に神による赦しとか罪という観念が本質的には我々にはよく理解されていないだけではなく、それにもかかわらず我々は既に江戸期終了時において、完全にかつて日本人が持っていた特殊な共同体意識を捨て、西欧キリスト教社会の隣人愛とか正義という観念を受肉して、私たちが自然なものとして現在利用しているあらゆる社会通念は全てキリスト教的世界観に基づくものであるということである。
 つまり日本人にとっての倫理観とか、宗教観とは端的に罪と神による赦しという観念の完全に欠如した、それでいて社会倫理的には忠実なる西欧社会の模倣という特殊な、ある意味では極めて歪な想念によって支配されていると言ってよいものなのである。日本人にとっての罪と赦しとは神と個人個人が直接契約したものなのではなく、集団内での調和とか、協調性という通念によって排他的であったり、一度仲間として容認されるとあらゆる個人主義を抹殺したりすることが美学であるようなタイプの善悪に依拠している。つまり一度仲間になった相手に対してはいつでも助けようとするが、そうではない人、そうではなくなった者には冷淡な態度で他人のように扱うということである。
 しかしその種の古来よりの日本的なタイプの人間関係は実は常に、支配階級による訓示によってその心がけを十分理解しているという特権意識によって大衆レヴェルで履行されてきたのである。
 それに対して西欧社会では常にモラルも論理も、神によって与えられたという想念が幼児期に徹底して植えつけられているので、逆に純粋なモラルや論理というものへの希求そのものが早い時期より彼らの脳裏には芽生える。ユダヤ選民思想もある意味ではそれを生きることに理性を感じる人々にとっては極めて価値論的に確かさを持つが、一方非ユダヤ人には全くその恩恵に預かれないということをも意味し、ユダヤ選民思想がどこか日本人の庶民、大衆の意識に近いところがあるのもそのためである。
 つまり自然に仲間は善で仲間以外は悪であるという想念で生活する者にとって自然とは心地よいということを意味する。しかし本来西欧社会には自然に対して常に拮抗してきて、大自然の克服が至上命題であった民族であるが故に、それは心地よいなどという生易しいことではなく、端的に脅威であり、神の怒りである。そこに神の意志を感じ取るということにおいて、そうではない自然は自然ではないし、それは偉大であるとか克服出来たとかそういう人間勝手な意識で推し量れるものを悠に超えていると、それを神秘主義的な見解ではなしにドーキンスのように叫ぶ(「神は妄想である」)必要性は、逆にそのような想念が自然である、つまり懐疑主義的な想念さえ並行して価値として認められる社会でしか本質的には育たないのだ。
 つまり西欧合理主義とか無神論とかの考えは自然とは仲間内で協調していこうという考えの地域閉鎖的共同体意識の日本人(次節で取り扱う。)とは違って、本質的に全ての市民は対等であり、どこそこ出身ではないということを前提とした責任論(つまり何をしても自由だが、地域の好では決して助け合わないというクールでドライな考え)それがカントリーならぬネイションという考えの基本であることを考えれば、ユダヤ教が選民思想によってなされた地域エゴに対応する一民族至上主義、つまりエスノセントリズムであることを考えれば、キリスト教とは、少なくとも西欧社会全体においては(勿論当初はそこにコーカソイド以外の民族は含有されていなかったものの)少なくとも建前上では完全にどこそこの民族出身であるということを度外視した要するに宗教信仰上のコスモポリタニズムによる産物なのである。

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