Monday, November 16, 2009

〔羞恥論‐素直と依怙地<衝動論第二幕>〕第一章 第一節 素直な気持ちになるとはどういうことか

 私たちが何か虚心坦懐に考え、これこれこういうことなのかと判断する時明らかに私たちは素直な気持ちになっている。そしてそのことそれ自体に別に不思議に思ったりなどしはしない。そしてそういう風にどのような場面においてもあってくれれば、私たちは何も人生に悩むことなどないだろう。しかし実際にはそうではなく、誰か別の人が自分よりも何か自分も努力していることで、どんどん先へ進んでいるのを発見すると、何やら急に胸騒ぎがして胸中穏やかならず、いてもたってもいられなくなるということは珍しいことではない。要するに自分というものにおける心の平静とは、ある意味では他者の状況というもの次第では実に脆弱なものでしかないということさえ言えるのだ。
 人間は人を羨んだり、嫉妬したり、そういう始末に終えない存在である。私たちが素直になれる時とは大体自分の進むべき方向性が見え、未来に対してささやかながらも希望とか期待が持てる時である。そして他者の状況に対して配慮する心の余裕が持てる時である。
 しかし他者は自分がそう思っていても、そういう自分の配慮を必ずしも汲んでくれるとは限らない。「俺のことなどほっておいてくれ。」と言わんばかりにつっけんどんに応対してくる他者も少なくない。それはとどのつまり他者に対していかに気遣おうとも、もしその者が依怙地になっていたり、しょげ込んでいたりするのならその者のことを私たちはどうすることも出来ないし、その者の気持ちからすれば他者からなどどうされることもないからである。人間は自分のことだけで精一杯であり、それ以上他者の今後のこととかを斟酌する余裕など本来ないものなのだ。だからこそ少なくとも他人に迷惑になるようなことだけは避けたいというような気持ちに人間はなることもあるのだろう。しかしそう考えていても、実は一番気にかかることというのは自分のことである。
 だから逆に自分のことくらいなら自分で責任を持とうと心に決めた時に自分というものは意外と素直な気持ちになれるのかも知れない。素直な気持ちでいるということは極めて主体的に何事かを実行するのに適した心の状態である。しかし素直でいるということは自分に対してならいつでも可能であるが、他者とのかかわりにおいて私たちはその他者から何か言われることもあるので、必ずしも自分の心の中では迷いがなくても、その他者とのかかわりにおいて他者から何か予想外のことを言われて動揺することもあるだろう。そして他者に対して素直になれるということは、その他者をよほど信用していなくてはならないから、そういう気持ちに他者に対してなれるということは例外的な心の状態である。寧ろ人間は自分に対して素直になりたいがために他者に対しては演技したり、偽装したりすることの方がずっと多い。せめて自分の気持ちを普段通りの平静なままでいたいがために相互に他者に対して気遣うことの内には他者の内面には干渉しないとかそういう心積もりでいようということである。つまり人間は自分というものを確保するために他者に対して配慮するということが自分の側からも、社会の側からも求められていると自然に感じているということである。
 そして自分の中から決めたことが社会から求められていることと一致していて、自分でもやはり正しかったのだと思えることもたまにはあるが、そうではなく逆に社会が自分に求めているものが著しく自分で心に決めたこととずれているということも決して私たちの日常においては珍しいことではない。この自分の心で決めたことと社会が自分に求めるものとのずれをなるべく意識しないで済ませられはしないかと考え、最終的に自分で自分に対して決定したことというのが、なるべく自分の心の内は、少なくとも自分で決めた心積もりだけは他者にはそう容易には語るまいという決意となり、それがやがて社会から自分に対して何かを求めてくることを避けるようになり、自己閉鎖的となり、他者とのかかわりを避けるという生活態度を招聘するようになる。この時私たちは知らず知らずの内に自分に対して素直でいたいがために他者に対しては素直でいられなくなっている自分に気づく。勿論こういう生活態度もあまり極端でなければある程度誰にでも許されたことであるだろう。しかしその社会から求められることを極度に警戒し、自分の内面にだけ素直でいることを自分に求めるようになると、少しでも社会からの声と自分の内面での思いの間にずれを感じると途端に焦るようにもなる。そしてやがて他者全般に対してヒステリックな態度を採るようになる。
 だからある意味ではそういうことを未然に防止するためにも、素直でいるということは自分にとってであることは勿論であるが、そのことを他者に出来る限り演技したり偽装したりすることをせずに示すことにおいてもそうであることが最も望ましい状態であり、内面と対他的な態度が全く一致していることが絶対不可能であるにしても、少なくとも極端にずれていて、そのずれを必死になって自分が内面でカヴァーすることに翻弄されているような惨めな状況だけは回避したいというのは極自然な欲求であると言えるだろう。
 
 他者に対して何らかの偽装をするということは端的に自己内の思念を他者に悟られたくはないという羞恥によるものであるが、他者の言、例えば自分では自分の歩き方を遠目で確認することは出来ないし、自分の後姿がどういう印象であるかを確認することは通常(ヴィデオなどで撮影されたものを見る以外は)出来ないということから来る、自分は他者一般からはどのように見られているかということに関して他者に意見を聞くということは、そういう風に他者に対して自己内思念を悟られないようにする偽装とはまた一味違うもっと根本的に偽装不可能な全体的風体というものに対して他者の言に対して真摯に受け留める、いかに自分がこういう存在であると力説してみたところで他者一般から受け留められる自分の社会的に通用する像(それはそう変更の利くものではない)と自分の想像する像とは著しく異なるということを認めるということに尽きる。
 そもそも他者一般から受け取られる自分に関する記憶とは全面的に外面的な印象の総合である。しかし自分にとって自分に関する記憶とは、かつて自分がどんなことを考えていたかとかどんなことを思い出していたかとか、どういう風にある過去の出来事があった時に感じ、対処したかということ、つまり対処したという行動的な事実に対する記憶は、ほんの付随的なことでしかなく、寧ろその行動の時にどういう感情でいたかとかどういう考えに支配されていたかということの総合なのである。つまり内的関係全般に関して自分以外の他者全ての介入を阻止し得る(他者が自己の内的関係的事実に闖入してくるということは、「あの時あなたは笑顔をして一見嬉しそうに振舞っていたけれど本当は不安と苦悩に満ちた表情でしたね」とかそれほど自分の真意を見抜かれたくはない親しくない他者から指摘される時に感じることである。)という事実こそが実は自分にとっての自分の歴史と社会内で通用する自分の歴史のずれを構成している当のものなのである。
 つまり内的関係において最も顕著な例とは想起であろう。我々は大森荘蔵や中島義道の主張するように想起しつつ現在知覚する存在者である。中島氏は現在及び現在知覚を過去に対する認識と過去出来事に対する想起という日常的事実によって支えられている、つまり過去認識と想起能力のない者は現在という認識も、知覚も不可能であると考えている。このことを比較的分かりやすい形で示した文章をここに引用しておこう。

「ある」ことと「あった」こと
(前略)
 哲学において、私に何かオリジナルなものがあるとすれば、それはいっぷう変わった「時間」の捉え方であろう。「過去」についての考えであろう。私が知る限り、私のように考える哲学者はいない。ということは間違っている可能性が大であるが、私にはどうしてもそう思えてしまうのだからしかたない。
 世界についてでも、私自身についてでもいい、物体についてでも、心についてでもいい、われわれは現在の知覚を規準にして、何らかの客観的対象が「ある」とみなしがちである。言い換えれば、それを客観的認識としがちである。だが、これはまったくの錯覚ではなかろうか。むしろ、物や心が客観的に「ある」ということの規準は、過去において「あった」ということと現在「ある」ことの両立不可能な二重のあり方のうちにあるのではなかろうか?確かに、過去の出来事は「うっすらと」しかないのに対して眼前の光景は「がっしりと」そこにある。だが、あり方の強度と「ある」ことの原型とは別である。現に見えているかと現に触れるということが、ただちには何かが(客観的に)「ある」ことの条件ではないことはすぐにわかる。第一に、世界のほとんどの客観的な事物や出来事を、私は現に見ていないし、現に触れていない。第二に、動物でも赤ん坊でも知覚はしているが、ただちに何かを(客観的に)「ある」とみなしているとは言えない。
 では、何かが「ある」と言えるためには知覚に加えて何が必要なのだろうか?何かが「あった」ということをとらえる能力としての「想起」である。精巧なロボットが、ある事象を観察し、それをすばらしい言語で表現し、そのときの高揚した気分を語りつくすとしよう。そうですね、ここにトーマス・マンのような文才のあるロボットがいるとする。
 Rは語る。「ミュンヘンは輝いていた」と。Rはそう語ったすぐそばから自分が何を語ったか忘れてしまう。Rに「ミュンヘンは輝いていた」という文章を見せても、(その意味はかわるが)自分が書いたことを思い出すことができない。この場合、総体的に見て、彼はミュンヘンについて「認識」したのではないであろう。つまり、認識とは瞬間的な知覚や思考に基づくことはないのだ。それは、あるスパンの知識である。想起も瞬間的にとらえてはならない。想起だと思っていたものが、じつは単なる想像だったのかもしれない。つまり、正しい「想起」は、一個の想起からではなくさまざまな想起郡(それに知覚郡)との連関の中で与えられるのだ。想起とは定義的に「過去に起こったこと」の想起である。そして、現に起こったことをわれわれは当の想起によってだけではなく、現在の知覚(証拠)および信頼できる推測に支えられて知るのである。ということは、正しく知覚できない者、正しく推測できない者は、正しく想起することもできない。しかし_ここが大切なことであるが_正しく想起できる者は正しく知覚し正しく推測できるのである。
 想起の対象は過去の事象である。だが、過去の事象は知覚できない。見えず、聴こえず、触れられない。それを一言で言い表せば、_このあたりは大森荘蔵先生の過去論を真似るのだが_「ある」としても、知覚的にあるのではない。「ミュンヘンは輝いていた」という言葉の意味として、言語的にあるだけである。「ミュンヘンは輝いていた」ことを、いかにありありと想起しても、その「輝き」は(薄まった知覚ではなく)、知覚の対象とはまったく別物である。過去とは過ぎ去った擬似(薄まった)知覚的世界ではないのだ。それは、_プラトンのイデア界のように_われわれの知覚世界とはまるで異なった意味世界なのだ。だから、そこには「戻れない」。戻れるのは、何らかの知覚的世界だからであり、意味の世界に「戻る」ことは原理的にできないからである。われわれはいかにも現在の知覚的世界だけに生きているように見えるが、じつは刻々と過去世界に取りかこまれて、いや浸されて生きているのである。過去の事象を(客観的に)「あった」ものとして認識することは、言葉の意味としての過去世界を眼前の知覚風景にうまく関連づけてとらえることである。現在の事象を(客観的に)「ある」ものとして認識することは、眼前の知覚風景を言語の意味としての過去世界にうまく関連づけてとらえることである。
 ということは、われわれは、常に現在に生きているのではない。常に現在と過去に生きているのである。過去に生きることができる者のみが、現在に生きることができる。現在にのみ生きている、といわれる動物や赤ん坊は、過去に生きることができないゆえに、じつは現在にも生きていないのである。これを言い換えれば、「あった」ということがわからない者は「ある」こともわからないのだ。あなたが自分のからだを観察しても、心の状態を観察しても「私」をとらえることができない理由もここにある。「私」とは、現在と過去という両立不可能な二重の世界に生きることができるような者なのであるから。そして、われわれは現在と過去とを一挙に対象的にとらえることはできないのであるから。(「狂人三歩手前」164~168ページ、新潮社刊より)

 想起と想像は協力関係にあると言ってよいだろう。しかし感情という奴はもっと手強い。つまり感情は現在的状況の把握と記憶とが渾然一体となって現況に対する措置と、過去のデータから引き出される像(嫌な他者を目前にして楽しくないという感情は、その他者の過去のデータとそれによって喚起されるその他者像や過去にその他者と接した時に感じた嫌な感情の記憶によるものである。)との協同作業によって構成されているからだ。しかし感情というものは常にあるのだから、逆にただの知覚でさえ感情的様相にその都度左右されて、ある時には容易に気づくことをその時には気づかなかったとか、逆に普段だったら見過ごすことをその時には注意深く観察し、発見することが出来たというようなこともあるだろう。
 しかし想起(その能力とそのことによる過去認識、つまり今<現在>を過去ではないという形で認識する能力)ということを中島氏は重要視しているが、問題なのは夢に出てくる像の多くは記憶の再処理というようなことも考えられているところを見ると、どうやら知覚像というものとその記憶された形ということが最も重要であり、と言うことはある意味では過去も大切であるが、やはり中島氏の批判する「生き生きとした現在」というものもまた極めて大きなウエイトを占めているということになりはしないだろうか?
 つまり私たちは極めて覚醒時による知覚とそれによる脳内のその都度の総合的判断とか、クオリア的な感受ということに関して、記憶される内容までも左右されるものとして現在知覚とは大きな存在であるということである。勿論恐らく私たちが覚醒時に現在起こりつつある出来事を記憶する時には、それまでの記憶(経験と密接な)によって「何を記憶したいか」という日常全般を支配する関心傾向によって既に取捨選択されているわけだから、現在知覚されるもの、現在感じられるクオリアに対する印象全般は、完全に過去のクオリア像とか、過去事実とそれと同伴した自己経験的記憶と、その記憶による判断が大きく左右しているだろう。するとクオリアは記憶を呼び覚ましつつも、現在の知覚に最も左右されるが、端的にアイデンティティーとか自我と呼ばれるものは中島氏の指摘のように過去と現在との比較とそれを通底する同一性ということ、つまり認識カテゴリーが重要であるが、クオリアの感受とか、どういうニュアンスとか感覚で何かを記憶するかということは認識外的なことの力の方がより強いということになる。
 
 話を自己と他者との関係に戻そう。自己というものの像とはかなり他者一般から受け留められる像とはずれているわけだから、そのずれに対する補正として、他者とりわけ親しくなった者に対して「私は鷹揚な性格のように他人からは受けとめられているようだけど、本当は神経質なんですよ。」と告白するようなことによって(それはそれで他者に対する素直であり、他者一般が形成する自己像に対する批判という形の素直である。)素直を発揮するわけだ。そこで素直には二つの姿が認められることが明白化した。

① 他者から自分がどう見られているか、ここで言えば鷹揚な性格であると皆から第一印象的に、あるいは然程親しくなっていない他者全般から受け留められている像そのものを「そのように見られているのか」という風に事実として受け留めるということに関する素直さ

② しかし本当の自分の気持ちはこれこれこういう風なのですよ(本当は神経質なのですよ)と親しくなった他者に告げるような素直さ、つまり他者一般から受け留められる肯定的な自己像を演じ続けることを拒否する真意を告げる素直さ

 この素直さというものをもう少し哲学的に考えてみよう。
 人間は即自ではないので、内的関係としてたとえ目的意識を携えていても尚、その一度自ら設定した目的自体に対する懐疑とか、要するに全ての決定事項に対して一致し得ない感情を抱き、「本当にそうなのか」とか「本当にそれでいいのか」とか考えるし、躊躇とか迷いとか不安を抱くのである。それはある意味ではヘーゲルが唱えた否定という能力の故でもある。あるいはそれは内的な思念や感情を外界に存在しているように見える全ての知覚されるべき対象世界に対して意味づけること、つまり内的世界のパラダイムを外的世界の原像に重ね合わせる能力と言い換えてもよい。
 永井均は「<私>のメタフィジックス」において次のように述べている。

 たとえばJ・ユクスキュルによれば、ダニは明度覚、嗅覚、温度覚の三つしかもたない。その三つだけでダニの生存のために必要な行動を導くのにじゅうぶんだからである。「ダニを取り囲む豊かな全世界は収縮して、大ざっぱに言えば三つの知覚標識と作用標識とからなるみすぼらしい姿に、つまりダニの環境世界に変化する。しかし、この環境のみすぼらしさこそ、まさに行動の確実さを約束する。そして確実さの方が、豊かさよりも大切なのだ。」ところが種としての人間には行動の確実さを約束してくれるはずの環境の「みすぼらしさ」があたえられていない。人間は確実な生存の型(Lebensform)を自らの手でつくり出さねばならず、そのようにして自力でつくり出され、持続的につくり出され続けているのが特定の文化における慣習や制度なのである。したがって、その内部で生まれ育った人間にとってそれがどれほど「自然」なものに見えようとも、人間における慣習や制度は歴史的形成物であって動物における種に固有な環境世界とはちがう。動物の生とその環境のあいだにはなんらの矛盾も疎隔もないが、人間の生とその人為的な擬似環境世界のあいだにはつねに潜在的な矛盾と疎隔がある。それゆえ、人間は生まれ育った擬似環境世界を超えて「世界そのもの」を構想する能力をもつ。すなわちあたえられた世界をあたえられていない世界の一部とみることができるのである。(「<私>のメタフィジックス」中、188~189ページより)(太字著者選択)

 永井氏がここで指摘していることは寧ろ自分が使用する言語とか文化というものを相対的に見る見方のことである。しかしその自分が使用する言語とか文化とは、ある意味では自分を中心に形成されてきたものである。勿論そこには自分と出会った周囲の他者一般の存在が欠かせない。しかしまず一般的な言語とか文化として私たちは理解してきたのではなく、まず自分を中心とする「世界」を自分なりに獲得してからそういう観念を引き出してきたのである。その意味では内的世界ということは、一般性理解ということにおいても欠かせないどころか、その発端でさえある。勿論その内的世界ということを言っても、個人史的なことと、内的世界一般のことでは様子が違うということは言えるだろう。誰でもこういう時にはこう感じるだろうということ(一般性)と、だからと言ってその対処の仕方は個々異なるだろうという意味で、私たちは誰しも感じるという一般性と、自分というものに固有(と自分では少なくとも思われる)のその時の心の処し方とか、行動の起こし方とは必ずずれているだろう。それは自分の像が自分自身で抱くそれと他者一般が抱くそれとではずれがあるのと同じ意味においてである。
 しかし恐らく一般的な内的世界という一つの幻想を育むものとは、直に自分で知り得る自分の内面史以外のものであり得るだろうか?もしそのようなものがあるとするなら、それは私が例えば今日本語で書いているということを、アメリカ人として生まれ、英語を習得した後、成人してから日本語を習得したケースにおいて私の今の現況と比較することを意味する。しかしそれは端的に私以外の者に今の私にはなれないから意味のない想定である。私というものは私以外の他者の状況と比較することが出来ないからこそ私なのである。そして私が一般的な内的世界という幻想を得るとしても、それは私個人の今立たされている状況からでしかあり得ないのである。だから自分たち、つまり自己を中心とした自分と同一民族成員全員が共通して使用する言語とか文化を相対的に見るという認識そのものもまた、自分を中心とした内的世界と自分以外の他者の内的世界とのずれとかそれを相互に熟知した上で共存を余儀なくされる社会生活という現実によって得られた認識であると言えよう。
 つまり内的世界とか内的関係というものは、たえず外的世界とか他者間において成立する間主観性と密接な関係にあるのである。そのことは私たちが机を見て、これは「私の机ではない」とか「椅子ではない」と認識出来るような意味での否定の能力とも関連づけて考えることも可能である。そしてその否定の能力は自分の知る世界を「世界」として自分の与り知らない世界との対比で捉えることも可能にする。
 現在知覚を過去全般から得る認識と同時に作用していると捉えることは、自分のそういった能力全般が自己を含む他者全てがそれぞれ持つ能力の合計の中のほんの一部であるとする認識をも生む。それは永井氏の「人間は生まれ育った擬似環境世界を超えて「世界そのもの」を構想する能力をもつ。」(「<私>のメタフィジックス」中189ページより)とする部分を私なら「人間は自分が知る世界を、自分の知らない世界全体の中の一部として認識する能力をもつ。」としたいところの言説の内容とも絡んでくる。それはつまり自分で世界であると思っているもの自体を「世界」として認識する反省能力であるとも言えよう。この固有の反省能力に関してオイゲン・フィンクはまた少々ニュアンスの異なる表現で次のように述べている。(「存在と人間」座小田豊/信太光郎/池田準訳、法政大学出版局刊)

 エレメントに対して人間的現存在が理解的に開かれてあることは、ある一定の指示の特質を備えている。ちょうどエレメントがあらゆる事物に現前しつつも、それと一体に落ち合うことがないように、世界もまたすべての世界内的な存在者に現前しつつ、決してそれと端的に一体にならない。そして事物がいわばその境界づけられた所与性の持つ押し付けがましさのなかで、自らがそれから成り立っているところの境界線を持たないエレメントを塞いでしまうのとちょうど同じように、事物は世界を塞ぐのである。とはいえこの比較はぎこちないし、だとすればそのぎこちなさを与えている点に注意を払うことがぜひとも必要である。それというのも、事物とエレメントは根本的には世界のうちにあるものだからである。世界そのものが世界内部的なものでもって自らを偽装し引き退いていくというあり様は、それ自体すでに世界内部で起こるような関係、すなわち事物とエレメントのあいだの関係によってあくまで不適切かつ間接的な形でしか告知されえない。したがって、あらゆる事物がそこより成り立っている大地の上に私たちは立ち、また天の開けのうちで私たちは動きまわっている、と私たちが述べたとき、それは現象的なものの観点から語られていたのである。思想において思考されねばならないような大地とは、私たちの足下にある硬い表土、たとえば畑や牧場ではないし、岩や陸地ではない。それはそもそも存在者ではなく、事物でもエレメントでもなく、むしろ閉鎖性という存在の威力なのであり、現象的な大地は、せいぜいこの存在の威力の象徴でしかありえないのである。閉ざされたものを思考することは困難である。なぜならそこでは、思考に対する存在の通徹不可能性がまさに思考されねばならないからである。しかしこれは単純な仕方で任意に提起されるような単なる要求であってはならない。存在の通徹不可能性は経験としてわれわれに生い育ってくるのでなければならない。通徹不可能なものは、まずはその通徹不可能性において私たちに押し迫ってくるのでなければならない。これは、いかなる侵入も己から拒む理解しえないものへと私たちの理解が投げ返されるときに起こる。なるほど人間の把捉能力を凌駕したものではない。人間的認識の偶然的な限界ではなく、その本質的な限界が問題なのである。端的に理解不可能なこととは、存在者がそもそも与えられているという事実である。事物ならそれを引き起こした他の事物へとさかのぼることで、出来事からそれを引き起こした他の出来事を通して、私たちは「説明する」ことができる。しかし存在者がそもそも与えられているという事実は通徹不可能である。この根源的事実は概念把握的思考のあらゆる侵入を拒絶する。創造する神へと存在者を差し戻すことで一切の事物を貫く説明と見通しが得られたのだ、と人は主張するかもしれない。しかしそれはただ単に問題を先送りしただけである。その場合存在の通徹不可能性は、神あるいはデミウルゴス〔世界制作者〕のそれとして示されているのである。もし人が、私たちがさしあたり通徹不可能性と名づけるものを、ただ存在者の事実性として<何であるかWassein>と対立する<現実にあることWirklichsein>として「《本質存在essentia》」と区別された「《事実存在existebtia》」としてのみ捉えようとすれば、それは誤解というものであろう。むしろ本質Wasと事実Daβと分岐するような存在者がそもそも存在するということこそがまさに根源的事実である。通徹不可能なものとは、普遍的な理性的本質が現実化するという非合理のことではなく、存在者の事実‐存在や本質‐存在や真理存在がそもそも与えられているという事実こそがまさにそれである。いわゆる非合理なものは、合理的なものよりも―私たちの考える意味で―より通徹不可能だというわけではないのである。このことは、通徹不可能性という世界性格が理性的なものと非理性的なものという通常の区別の先回りをしているということを意味する。根源的‐事実として理解するならば、理性的なもの、思考、明け開けですら通徹不可能である。ここに想定された世界性格は個別の事物に即したのでは決して感知可能とはならない。私たちがすべての事物の全体を思考しようとするときに、それははじめて私たちに迫ってくる。個別のものは何かしら次々と他の個別のものによって「説明」されうるし、またそこから理解されうるのであり、全体そのものになってはじめて理解不可能なのである。ここでさらなる誤解を避けておかねばならない。人は次のように考えたくなることがあるかもしれない。いわゆる「自然事物」だけがその事実性において概念把握不可能である。つまり自然事物は、それらを支配している法則に従って探求することはできても、その法則の根拠に従って尋ねることはできない。一方歴史の国においては、人間が自分で原因であるのだから、そこにはより高度な了解性が備わっている。要するに自然は概念把握不可能だが、歴史は人間の自由に由来する以上概念把握可能なのだ、と。この自然と歴史の区別についてもまた、存在の通徹不可能性という世界性格が先回りしている。結局私たちが最も警戒しなければならない誤解は、通徹不可能性をあたかも普遍的な存在の特質としてそのつど現前する事物に認めるところに生じる。それというのも、その場合世界契機がいわば事物の性格へと歪曲されてしまうからである。すべての存在者は通徹不可能性という媒介のなかに立っているが、しかしこの通徹不可能性は事物に即してあるのではない。むしろ通徹不可能性の方がすべての事物を包括しつつ保持しているのである。したがって通徹不可能性ということで考えられているのは、単純な現前存在の契機や単なる存立の契機ではない。へーゲルの即自存在という概念が持つ疑わしい点は、この概念が、より根源的には「大地」という世界契機であるものを、存在者の普遍的な存在の特質として受け取っているということである。事物やエレメントは存在している。事物が滞留することと過ぎ去ることの区別は途方もなく大きい。草木と同様に枯れしなびていくはかない人間と、何千年かけて風化する岩塊とのあいだはとてつもない差異がある。ところがまた事物と万有のエレメントとのあいだの差異はさらに大きい。しかし事物とエレメントのあらゆる変化は、大地の閉鎖する威力のうちにあくまでとめおかれたままなのである。私たちはそうした大地の威力を、いかなる事物に即しても、またいかなるエレメントに即しても見出すことはない。しかしそれは非現実的ながらもあまねく現在しているものなのである。表象的な思考は、そのつど個別的なものを包括的な全体よりつかみ出して、それを出会いへともたらすのであるが、あらゆる出会いやあらゆる対象性に先立っているもの、すなわち全体としての存在における声もない静かな閉鎖性を聴取することはできない。表象的な思考が受けとめるのは、ただ自身に対して立てられるものだけであり、それは大地の閉鎖し所蔵する純粋な支配を、つまり、つねに近くにありながらしかし把捉不可能性において自ら引き退いているものを、決して聴取しない。
 おそらく時にはそうしたものの予感が私たちに降りかかることがあるだろう。私たちが色や景色を眺めやるときに、ただ牧草地の斜面や、農夫の家や、空に浮かぶ雲を見ているわけではない。ただ草むらの甲虫や、上空を舞う鷹を見ているのではない。むしろあらゆる事物の背後に、あるいはよりふさわしい言い方をするならば、あらゆる事物のうちに私たちは大いなる牧羊神パンのあまねく現在する近さを感じ取っているのである。(272~275ページより)

 「思想において思考されねばならないような大地とは、(中略)そもそも存在者ではなく、事物でもエレメントでもなく、むしろ閉鎖性という存在の威力なのであり、現象的な大地は、せいぜいこの存在の威力の象徴でしかありえない」とか「表象的な思考は、そのつど個別的なものを包括的な全体よりつかみ出して、それを出会いへともたらすのであるが、あらゆる出会いやあらゆる対象性に先立っているもの、すなわち全体としての存在における声もない静かな閉鎖性を聴取することはできない」という部分の閉鎖性ということが永井氏の言う、あたえられていない世界のことであり、現象的な大地が存在の威力(閉鎖性として押し迫っているところの)の象徴でしかないという考えは意外とプラトンのイデアと事物がその影であるという考えに近い。フィンクはその意味ではフレーゲと共通する資質の哲学者かも知れない(それは最後の段落に特に象徴されている)。「大地の閉鎖し所蔵する純粋な支配=つねに近くにありながらしかし把捉不可能性において自ら引き退いているもの」は全体をイデアとして捉える認識として受け取ることも可能だ。それは永井氏のあたえられた世界をあたえられていない世界の一部とみることの本質にもプラトニズムが控えていることを暗示する。つまり永井氏の主張されるようにデカルトが近代において初めて問題設定上私を神より優位に置いたことの前段階としてプラトンが世界を 私たちの知る世界 外 の中の一部として見る見方(それは当然ソクラテスの考えに起源的には立脚しているのだが)を定着させたものとしてデカルト以前の神として考えることも可能であろう。
 しかし現代では内的世界が外的世界よりもデカルト以降性として重視させられ、しかもその内的記述が何故なされるのかという現代的問題設定において世界の一部である私ではなく私が世界を構成するというカント感性論的視点以降性の定着によって私が既に述べた「現在知覚を過去全般から得る認識と同時に作用していると捉えることは、自分のそういった能力全般が自己を含む他者全てがそれぞれ持つ能力の合計の中のほんの一部であるとする認識をも生む。」という考えをより説得力あるものにする。つまりその考えの延長に全ての現代哲学(現象学も、分析哲学も)が位置づけられる。
 しかし不思議なことに他者全ての能力の合計と言っても、それは実現可能レヴェルから言えば理想であり幻想である。全ての世界市民が協力して内的世界とか真意を曝け出して人類のために供することなどあり得ない。また仮にそう心掛けても、自己の真意は必ず他者によってずれて伝わるし、内的世界を全て報告することは不可能である。従って他者は全てそのことを了解しつつ諦念をもって半分真意を表明しつつ、半分内的世界を隠蔽する(控え目に言ってもせざるを得ない)と考えれば、自分だってそもそも内的世界の全てを他者に告げることなど出来なしないし、またそれを知っているので、敢えてする必要もないのだから、とどのつまり存在者全員の能力の合計といってもそれは思念上だけのことである。しかし少なくとも地球の上空を覆う空は世界各地で異なった様相で存在者全員に対して注がれており、そういう意味では自分が見る空を空の「本当の姿」(そういう認識は認識で幻想である可能性が高いのだが)のほんの一部であるとする認識もまた極めて自然な思惟の結果であろう。
 つまり自分の知る世界を世界の中のほんの一部であるとする意識、つまり「世界」であるという認識とは、とどのつまり公的に自分の位置を中心の位置から貶める作用なのである。このことは言語行為において永井均の常日頃から主張していることである。そしてそれは他者存在全般に対する配慮であり、羞恥であると言える。つまり誰しも我々は既に自分の知る世界しか自分では知り得ようもないし、また自分の知る世界の消滅とは自分の死であり、仮に世界が自分の死後も存続したとしても、それは私という一個の個が世界に対峙しているような形のものでは決してないのだから、そういう世界というものは、実は私にとっては大した価値などないのに、それでもそういう世界こそが世界であり、自分にとっての世界を「世界」であるとするところの公的な自己意識として我々が社会成員として生きる決意がある。そしてそれを支えるものもまた羞恥である。
 すると私たちは次の二つの素直を乖離したものとして認めることになる。

① 自分を他者全般にとって位置づけるために世界を全ての存在者のため存在する公的なものとして認める素直さ
② 自分以外の全ての存在者にとっての世界と言っても、それは自分が死んだら全てお終いなのだから、そんなことを言ってもそれはさして自分の世界以上には重要ではないということを認める素直さ

 端的に①は公的場において「いい子」振ることで示す素直さであり、責務的であるし自己欺瞞的である。公的宣言的な真意表明である。しかし②はある程度親しくなった者同士でしか語り得ないような素直さである。これは人間の中のアウトロー的部分、あるいは本当はいけないことであると知りつつ、犯罪者に共感し得るようなアンチ・ヒーロー志向的部分、つまり公的には悪の部分の真意表明であるが、本意である。要するに公的宣言表明とは、自己内の非公的思念だけが全てであるという考えに対する一応の払拭(このことを永井氏は「それは新たな、より深い眠りの開始であろう。しかし、人間の大人は以後この深い眠りからけっして醒めない、いや醒めてはならないのである。」(「<私>のメタフィジックス」中212ページより)と述べている。)の意図以外のものではないし、それは私的な意味でもそうだし、公的な意味でもそうなのである。

 しかしそのような宣言表明とはオースティンの言ったパフォマティヴを想起させると言う人びともいるだろうし、事実そうなのである。つまりオースティンは端的に①に見られる素直さ、それを世間では誠実と呼ぶが、そのことを言いたいがために英語の動詞に見られる性格を事細かに分析して、パフォマティヴとコンスタティヴとに分類したのである。彼の言う発語行為、発語内行為、発語媒介行為とは端的に、そういう誠実性、つまり言語行為とは他者に対して自己としての誠実性を示すことを本論としたものであるということをここで私は言いたいのだ。
 しかし人間には②のような真意をも確かに持っている。(例えば結婚式の際に神父に対して「隣にいる彼女を我の妻とすることを誓います。」と宣言しつつ、そのこと自体に対してこの状況から逃れたいとか、一緒に暮らす配偶者を赤の他人のように感じ、疎ましく感じることもあるだろう。それはそれで真意であるが通常我々はこういう真意は離婚を決意している場合以外は告げることをしない。)これを中島義道氏はカイン型の人生観であるとしているが、しかし何もこのような考えに取り付かれるのは氏の主張されるような哲学病患者と表現するある種の病的な哲学者のようなタイプの人間だけではないだろう。つまり他者としての自己の誠実さを示す①の素直さとはたとえそれが親しい間柄である二人の間の約束であれ、確約であれとどのつまりは公的な宣言以外のものではあり得ない。しかし②においても、このような私的意見を他者に告げることというのはあり得る。それは親しい間柄となった者同士の間でである。(結婚生活に関する苦情なら妻や夫以外の同性に対してなされるだろう。)しかしこのような意見はあまり日頃から親密な関係にはない他者に対してとりわけ公的な場では憚られる意見陳述内容であることも確かである。
 しかし恐らくこう問う人もいるかも知れない。たとえ親しい間柄でその②のような発言をしたとしても、それは私と他者との間のことなのだから、私自身だけが知る私の内的関係としての記憶を脳内で思念したり、想起したりするようにはいかないのではないか、つまり他者に真意を告げるという段階で既にその他者を理解させるために操作が介在するので、それは素直に「振舞う」ことではないのか、と。
 そうなのである。素直でいることと素直に振舞うこととは分離しているようでいて、実は対他的な意味では一致しているとも言えるのだ。(ある意味では一番素直でいることは他者と接することを避けることである場合もあるからである。)このことは嘘を動物がつくことが出来るかという問いと同一のベクトルを持っている。
 ある種の鳥は他の鳥に対して餌のない方向にさも餌があるように振る舞い他個体を出し抜き自ら餌を独り占めすることが知られている。(リチャード・ドーキンス著「利己的遺伝子」より)しかしこの時その鳥は果たして嘘をついていると言えるのか?
 嘘をつくということを知ることとは、端的に嘘をつかずに誠実であるということをも認識することである。すると誠実であるということとは嘘をつかずに真実を語るということを意味する。ここで動物にも言語が所有し得るか、そうだとしたらそれは人間の言語とどのように異なる性質のものであるか否かという問いは大した問いではない。つまり問題なのは、人間が嘘をついたと他者に対する言語行為において意識することが出来るような意味で、鳥はそう思えるかと言えば、それは違うということである。鳥はただ「嘘をつく」と人間が表現する本当のことを告げないことを通して自らの利益を享受しているだけなのである。それに対して私たちが「他者を欺く」とか、「嘘をつく」と語る時明らかに誠実に真実を述べるという行為を怠るという意味が含まれているからである。それは端的に道徳的、倫理的な意識なのである。
 そうすると、ある他者に対して本当は意見の違いを如実に感じてその意見に対して反意を抱いているのに共感しておこうと振舞うことを素直に振舞うのだ(実はそうではないのだが取り敢えず)としたら、それは本当に素直な態度でその他者に接しているのではないから、その他者に対して素直に振舞うこと=素直であることにはならないだろう。それは素直ではなく偽装して素直でいる振りをすることだからである。しかしそういうことがなく本当にその他者の意見に賛成であり、そのことを示す時には明らかに私たちはある他者に対して素直に振舞うこと=素直であることは成立することになろう。
 このことはある意見に賛意を示すことがたとえそれが真意から出たことであれ、幾分かはその意見を提出した者にそのことに関してはつき従うという意識を生じさせるものであることは了解されよう。だから会議などである程度日頃殆ど意見を言わずにいて消極的で存在感が希薄であるという汚名を返上する意味合いも含めて誰でも気づくことでも率先して発言して点数を稼ぐようなこともあれば、逆に日頃からよく発言するので、今日くらいは少しあまり日頃発言しない者の発言する機会を増やし、普段積極的であることは通常ではいいことだが、時には慎みを発揮して他者に正当な意見を公表させて自分の意見は遠慮しておいた方が長い目で見れば人間関係的な雰囲気構成においては得策であるということから敢えて発言すべきことを理解していても発言を差し控えるということもある。それもこれもとどのつまりある意見に賛意を示すということはとりもなおさずその意見を最初に示した者の功績になるという一定の法則があるからである。
 私たちは言説そのものの、陳述そのものから、それが嘘であるか否かを見抜くことは出来ない。しかし嘘をついている、つまり本当は共感も賛成もしていないのに、そのように敢えて相手に合わせて振舞うことを持続している場合、大体においてその偽装性とか胡散臭さを嗅ぎ取り、その余所余所しい態度にある種に違和感を抱くようになるものである。その違和感の出所とは賛意とか共感を示す言説そのものに対する有効性如何よりも、その言説を発話する時の言辞や、語調そのものに漲る態度に拠るものである。だからたとえ間違った報告をしている場合でも、その語調とか態度において嘘がない場合(本当のことを告げていると報告している本人が信じている場合)には、我々は一旦その報告を正しいものとして受け取る場合が多い。百歩譲ってその報告の誤りが即座に聞いている者の判断によって発覚した場合ですら、報告者本人の誠実性が疑われることはないことの方が多いだろう。つまりその場合ただその者は嘘をつく気があったのではなく、ただ勘違いをしていただけのことなのだから。
 すると他者と合わせて発言するような態度がどのような親しい他者との間でもあり得るとしても、少なくともある言説において、陳述において示される賛意とか共感そのものにおいては、勿論本当に親しい間柄の人間同士が一番態度も自然であるが、少なくとも他の事項に関する意見がたとえ対立していても尚、その意見に関して賛意や共感を示すことが可能なら、その時そのことを告げる言説とか陳述において私たちは総じて相手が誰であれ、偽装的であったり演技的であったりするような白々しさとか余所余所しい態度にはならない筈なのだ。
 要するに私たちは次のようにこのことを定義することが出来る。

① 私たちは何か発言する時そのことを真意で述べる(素直な気持ちで陳述する)時のみ説得力を持つ。嘘やごますりがある時には胡散臭さを嗅ぎ取られる。
② 私たちはたとえ親しくはない者と対話する時でも(概ね意見が対立する者と対話する時でも)、相互に意見が合う時には和やかな気持ちになることが出来る。それが他者に対する素直な気持ちである。
③ 他者と親しくなれる理由とは端的に意見が合うということである場合が多い。ただ一旦親しくなると意見が合わないことがあっても多少相手と妥協することはあるけれど、意見が合わないのに性格が合うようになるということはあまり現実味のあることではない。
 
 しかし最も重要な真理命題として次のことをここで示しておくべきだろう。つまり

④ 私たちにとって言説とか陳述自体の意味内容の真偽性と、その話者がその陳述をするという言語行為が必然的であると感じる(話者の真意如何ということの信頼性)ということは全く別個のことである。簡単に言えば私が仮に「年間数億の収入があります。」と居酒屋で哲学研究のサークルの人と一緒に飲んでいる時にそう研究仲間に告げた時、一般的には俄かに私の言うことを信じることはないどころかジョークを言っているか、それとも私の表情があまりにも真剣であるのなら、私が狂ったと仲間たちは思うだろう。つまりある陳述の意味内容の真偽(たとえ年間数億の収入があると言ってもそれは原理的には可能である。)と、その言説を語る者と言説内容の必然的一致(つまり信頼性)とはその話者の立場による他者説得を有効なものにする信頼性、つまり言説の信憑性というもの(簡単に言えば社会的地位)に依拠しているということである。
 
 そして私たちは通常言語行為をするということの背景には、言説の意味内容よりも、寧ろある話者がこれこれこういう意味内容のことを語るということの必然性、つまり本当のことを語っているのか否かということの信頼性によってその話者の発言内容を信じたり、疑ったりするということである。だから素直に何かを告白するということが必ずしも素直に受け容れられるとは限らない、例えばある人は「既に私には孫がいるんです。」と告白しても、あまりにも若い風貌なので「嘘でしょう?」と信じて貰えないということはあり得るのである。あるいは何もかも嘘っ八な言説だらけで語っても、その者に対する信頼が絶大である場合、全て信用されるということも十分あり得るということである。
 カントは端的に嘘を言ってはならないとは言ったが、全てを告白せよとは言わなかった。つまりカントはそういう意味では極めて常識人であった。要するに信用されること以外のことは、たとえそれが真実だったとしても語らずに済ましておく方が無難なこともこの世の中では多いということである。だから素直な気持ちになるとはどういうことかを理解することが仮に出来たとしても、他者の言を素直に聞き入れるとはどういうことかということ、つまり人間は嘘をつく生き物であるということと、本当のことでも嘘っぽい真実は幾らでもあるということに関する問いには全く答えられないということなのである。
 つまり世の中には心臓の位置が反対の人もいるし、ペニスが二つある人もいる。あるいは結婚していなくても子どもが百人くらいいる人もいることだろう。仮にそれが真実だとしても、そういうことを素直に他者全てに告白する人は少ないだろうし、仮にそうしても信じて貰えないということもあり得るということだ。だからこの節における結論とは素直な気持ちになる必要があるとしたなら、それはあくまで素直になった方がより道徳的にも倫理的にも正しいと誰の目にも明らかな場合のみなのであって、他者とか権力から強制されて言わなくてもいいこととか、言いたくないことまで告白しなくてはならないという事態に対して嘘をつかないまでも報告したくはないということはあり得るし、それは<① 自分を他者全般にとって位置づけるために世界を全ての存在者のため存在する公的なものとして認める素直さ ② 自分以外の全ての存在者にとっての世界と言っても、それは自分が死んだら全てお終いなのだから、そんなことを言ってもそれはさして自分の世界以上には重要ではないということを認める素直さ>という素直さに関するカテゴリーとも全く異なるカテゴリーを必要とするということを意味する。
 それは法的な黙秘権とも関係のあるプライヴァシーの権利とか真偽を確かめるべき筋合いのものなのか否かということに関する評定の問題に関わってくる。そしてそれこそが次節におけるテーマと深く関わってくるのである。

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