Monday, November 30, 2009

〔羞恥論‐素直と依怙地<衝動論第二幕>〕第四節 結論

 人間は自らが幸福であると感じている時にはなるべく他者の不幸とは遭遇したくはないと望み、自らが不幸の渦中にあると感じている時には、なるべく幸福な他者と遭遇したくはないと望むものである。だからこそ思い遣りということは、自らが幸福である時にも他者の不幸に思いを致し、自らが不幸の渦中にあっても、他者の幸福を喜ぶといういささか不自然な形を取って、行なわれる。だからその人がいい人であるという風に評定されるのは、その思い遣りが実に自然であるという技巧に帰する。つまりぎこちない仕方だと、それは不自然となり、その真意にいかに思い遣りがあっても、それは相手には通じず、ただ偽善的な匂いだけが立ち込める。するとここで我々はある行為をするのが自然であるということは、自らの感情から自然に出た行為であるという振舞いの巧みさということになる。だからいかに真意レヴェルでは本心からある他者に眼をかけようとしていても、その仕方が下手であるのなら、相手にとってその者の振舞いは愛情の欠けたものとなる。つまり「こんなに俺は彼女を愛しているのに、彼女は全然そのことを気づいてくれない。」というある男のある女に対する愛の苦悩が告白されることとなる。
 結婚式に間に合うように式場に向かうある男が、その徒歩の途中で少女が交通事故に遭うその現場に居合わせた。本心ではそういうことが一切起こらずにすんなりと式場に行けることを望んでいた彼だが、致し方なくその彼女の具合を診て至急携帯電話で救急車を呼ぶ。しかしその振舞いが厭々ではなく、ごく自然であれば、エゴイスティックな人ではないということが周囲に悟られるが、そうではなければ、冷たい人だと思われる。これはその人が内心ではどういう気持ちであるかどうかとはかかわりなく真意と振舞いの齟齬によって齎されることである。このことは正しい人と正しく見える人ということで、プラトンが「国家」の中で明示している問題でもある。
 人間はしかし一番親しい間柄の人間同士ではさして気を遣うことなく、「愛しているなんてのは当たり前ではないか」ということで、逆に親しくない人に対して、つまり他人に対してより親切にする。それは社会的責務としてもそうだし、親しい者同士での愛情に縛られたくはないという深層心理における無意識の願望からでもある。つまり人間は親しくない者に対して親しい振舞いをいすることによって親しい者同士での義理から解放されたいと望む一方、同時に親しい者同士だけで過ごしたいという気持ちも持ち、その二つが常に共存して拮抗し合っているのである。だから親しい者同士では出来る限り真意では愛情があるのだから、振舞いにおいて真剣な態度で臨むことを省略しようという同意が暗黙の内になされ、そして親しくはない人に対しては真摯な態度で臨むという責務を全うしようという心積もりになるのである。しかし親しき仲にも礼儀ありということで、親しい者同士で感謝の意を表していたりすることが常に求められてきたということは、親しい間柄での方がより親しくない人同士よりも、より決裂の危険性と隣合わせであったということを物語っている。だから総じて敵とは一度は親身になってくれる味方であったという歴史的な経緯の中でそれが決裂したという場合が多いのである。
 哲学的に言えば、何かをすることと、何かをすることを知っているということは別のことであり、その二つが常に共存しているということをサルトルは対自(pour  soi プル・ソワ)という形でヘーゲルから受け継いだ概念で人間の実存を示したのだ。しかしこの概念規定において我々は常に自らの行為をしている最中に、その行為をするとは何かということを問うことを強いることとなり、要するに自らの行為を巧くなし得ているのかという自問自答が発生するので、その行為が行為によって期待されるべく結果に円滑に結びつき、効果的に他者に対してその行為の結果が示され得るようになされているかという反省を常に呼び起こし、しかもあまりぐずぐすしていては、効果が半減するようなケースでは常に迅速にその効果が表出しているかどうかをチェックするように自己を差し向ける。
 つまり何かを伝えること(それは報告事項であっても、愛の告白であっても)と、その伝えたいことを巧く伝えられるかという技巧上での心得とが常に重なって意識されてしまう。従って何かを伝えることと、何かを巧く伝えるということの双方が常に重なっているべきであるという意識が逆にその二つを次第次第に分裂させていってしまうという結果にも陥るのだ。そしてその時本末転倒であるのにもかかわらず、何かを効果的に伝えることとは、何かを相手に説得することとか同意を得ることの方が先行してしまい、伝えたいことの内容の方が疎かになるという事態も稀ではなくなってしまう。
 例えば我々は次のようなことを意識することがある。
★ 日本人らしく振舞う(オリンピックで自国の選手を応援する)
★ 世界市民らしく振舞う(地球温暖化に対して解決策を検討する)
★ 現代人らしく振舞う(何か緊急の時には携帯電話で連絡する)
★ 男らしく振舞う(街角で迷惑している女性がいたら、助けに行く)
★ 人間らしく振舞う(自らの過失<犯罪>により全てを失っている者に最後の機会を与える)
 つまりこれらの意識されることとは、その都度この★印の中のどれがいいかということを、言葉とか概念としてではなく、恐らく直観的に判断して何らかの行為(例えば括弧の中のような)へと赴き、ただその全体を反省してこのような~らしく振舞うというパラダイムを私が設定しただけのことである。しかしこの★の中のどのようなタイプの振舞いが有効であるかどうかを常に私たちは無意識の内に選択しているわけである。すると次のようなことがこの★印の行為選択の際の判断を司るものとして考えられる。

振舞う→そうであらねばならないように心掛ける→そうではない形だと巧くいかないということを経験的に知っている (勿論ここで言う経験的ということは、認知レヴェルでもだし、意識レヴェルでもだし、身体感覚的にもである。)

 つまり何かを意図的に選択する場合でも、無意識的に選択する場合でも、その選択ではない形での選択によって過去に失敗したケースでの経験則が有効に作用している筈なのである。
 しかし無意識に何かをなす場合はいざ知らず、意識的にこのような選択肢を採るという場合、私たちはごく自然にする場合と違って、あるいはごく自然に出来たということの悦に浸っている場合でもそうなのだが、振舞うということの中にあるある種の意図的な戦略性とか、反省する中で得る自己欲求満足とか、自己愛的なダンディズムの欲求解消に伴う罪悪感が発生する、つまり何故かしら義務的に親切な行為に赴く際の(しかし勿論他人が困っている時に助けないで済ました時の罪悪感を避けたいという願いからなのだが)偽善的な匂いが行為選択に伴うというのはどうしてなのだろうか?それは私たちの純粋な良心に対する価値規範からなのだろうか?
 エイズになった恋人や伴侶を抱きしめることは出来る。しかしキスを避ける、性交渉を避けるということは感染を避けることが正しいと考えている限りで正しいと思えるが、行為として自然さを求めるという気持ちの中では幾分の不自然さを、あるいはやりきれなさを感じてしまうということもごく自然である。確かに自分がエイズではなく、相手がエイズに罹った場合、その恋人や伴侶は一回は少なくとも自分を裏切ったのである。だからそれで二人の間の信頼は一挙に崩壊することもあり得る。しかし同時に、たった一回の誤りに対しては寛大であり、その恋人や伴侶の行く末に思いを馳せるということもまた自然な心理である。だからもし恋人や伴侶がエイズに感染して、その者に対してキスすることを憚る場合、その行為に対して愛情レヴェルでの贖罪意識を持つのなら、それはエイズに感染した相手に対して感染するからではなく、気持ち悪いという拒否反応があるからなのでは、という思いが去来するからなのである。要するにその一点でキスを拒否する自分に対して思い悩んでしまうのだ。
 意図的選択とは無意識の選択の結果失敗した時の忘れ難い後悔の念によって支えられている場合が多い。こうすれば巧くいくという経験則によって我々は何かを意図的にする。それは端的にそうしなければ巧くいかないから、そうではない仕方を意図的にしないように心掛けるということでもある。
 しかしそのような経験を反復し得るものと、生涯に一回しか経験し得ないような特殊なケースとでは本来行為に赴く決定に費やされる苦悩は段違いなのである。だからある気持ちを相手に伝える場合でも、その恋人や伴侶をゲットするという目的の場合と、そうではなく既にゲットした親しい間柄での場合とでは意味が異なる。相手に対して適切に自己の胸中を伝えるという場合、前者の場合真摯だが自然なる振舞いがより必要であり、後者の場合にも自然であるが、しかし真摯であることの方を強調する必要がある。そして他人を援助するとかレスキューするという場合、その振舞いが善意を表に出し過ぎると、途端に偽善とか自己欺瞞の匂いが立ちこめ、レスキューされる側に心の負担となって襲いかかる。自然に振舞うとはどういうことか、あるいは自然に振舞えないこともあるというところから、この問題は発生する。
 と言うのも自然に振舞うという考えそれ自体が既に人工的な考え方なのだ。そしてそのことを我々は既によく知っているのだ。自然に振舞うということを考えずに済むことが理想であると我々は知っている。だから自然に振舞うという言説とは、自然ということの中にそうではなく人工的に、意図的に、恣意的にということが既に含まれており、振舞うということの中に自動的にとか無意識的にとかの要素を含んでいるのだ。だから振舞うと態々言わなくても済む場合以外のケースが多いということを我々は先験的に知っているということなのだ。
 例えば意図するということの中には、そう意図しなくては巧くいかないという想定(認知、経験的記憶)が既に含まれている。つまり失敗を避けるという暗黙の認知がそこにはある。そしてその巧くいかないケースということの内には当然そうである場合行為そのものの意図の挫折から自分自身の人生での損失が想定されている。そしてそのような人生での損失とは引いては自分が他者とかかわる社会生活の中で円滑に自己能力を他者に示し得ないというところから信用とか信頼の問題に著しく損失を与えるということを我々は先験的に知っている。要するに自分にとっての行為の成否とはそれ自体既に他者‐自己の問題、すなわち意思疎通上でのモラルの問題を孕んでいることとなるのだ。そして重要なこととは、そのような行為の失敗ということは、行為の成功の後でしか告白したくはないということからも、行為をして、その行為による結果が望ましいということの報告のみで他者と接する時に満たしたいという思いそのものは既に羞恥というものが介在しているので、必然的に何か行為に赴く時に抱く意図とは、羞恥が失敗を忌避することを内定メカニズムとしては保有していることとなる。
 だから事後的に反省して得られる行為概念としての振舞うということの内には、無意識の内に私たちがそうすることで、自らの感情や意志や意図が特定の他者に示され得るということから発生する行為の結果を想定しているということを意味する。その想定それ自体も意識的である場合もあれば、当然無意識的な場合もあるだろう。
 私たちは健康な他者を望むし、病の他者を望まないので、たとえ肉親であれ、病によって醜くなっている他者を気持ち悪いとさえ思う。そう思ってはならないとしながらもである。だからこそモラル上で我々はその肉親をはじめ親しい他者に対してそういう気持ちをおくびにも出さないでおこうと心掛ける。それが愛する者同士でのごく自然な振舞いという概念を呼び起こすのだ。
 自然な行為は振舞うことと振舞われることが波長を合わすことを確認し合う内に達成されることもあるだろう。だから自然に何かがなされるということの内には持続的な反復という意図的な努力を要するということである。(このことは脳科学者の茂木健一郎氏もしばしば指摘していることである。)だから語義的には初めから巧くいくことを自然に行為するとは決して言わない。自然に行為するということの内には意図的な努力ということが含まれているからである。
 纏めよう。すると意図的であることが、他者存在を前提して含み込まれているモラル的な意識であるなら、意図的であることの内、無意識に失敗を恐れる失敗に伴う羞恥を回避する試みが含まれていると考えていいことになろう。ここに次の図式が得られることとなる。

意図的であること→他者存在とそこから得られる失敗に伴う羞恥の回避→羞恥を発動させたくはないという感情

 欲求レヴェルから言えば、私たちは常に自己同一性が先験的に備わっているとも言えない。何故ならある欲求とはある時点では最大であるかも知れないが、その欲求が充足され、実現されると、途端に最大のものではなくなり、新たな別の欲求が最大のものになるからである。
 脳自体もまた、決定されたことを行為することの持続、行為の没頭とは、その行為の結果が出されれば、次の行為をしようと考えが切り換わり、要するに脳はその時点で再び反省を強いられる。脳そのものが既に反省を時々求めるのだ。反省とは一つの区切りである。そして茂木氏の主張されるように、想起する時の脳内の作用と、創造をしようとする時の脳内の作用が類似しているということも、そのことからも理解出来るだろう。要するに次に何をなすべきかということは、過去の成功体験とか失敗体験を下に判断されることが多いからである。
 過去とは現在へと繋がっていると考えることが我々には出来るし、そのことを理解し、納得することで次の行為へと移ることが可能となる。少なくとも円滑に行為を転換し得る。つまり想起し、過去の出来事を再現しようと脳内で試みる時我々は新たな欲求が発生する。過去を、あるいは過去の現在における在り方(過去の在り方とは常に現在においてである。)に対する一つの決着、つまり解釈的な固定化こそが、新たな行為への構えを作る。つまり新たな欲求とは新たな行為に対する決意であり、それは新たな行為の創造の脳内での狼煙である。そのような現在を次になすべき行為に対する構えとして脳を活用することが、過去から現在へと時間が繋がっているという意識を得ることによってなされると言ってもよいだろう。そのような過去から現在へと繋がり、それが未来に対する構えとなる時我々は時間と共に歩む私たち自身の自己同一性を理解し、納得したと言い得るわけだ。だから想起が現在を獲得する、少なくとも現在の意味を理解させるとも言い得るし、これこそ大森荘蔵の力説してきた過去制作ということの実体である。想起はだから過去‐現在‐未来という図式そのものに対する理解から発生し得るとも言い得るが、実際はそれはほんの些細な部分であり、寧ろその時々の諸欲求の充足、未充足状態そのものに対する意識的、無意識的な認知そのものが、齎すだろうという意味では、ある意味では想起とは快・不快ということから齎されるものでもあるのだ。
 例えば楽しい時には辛かった過去の思い出を想起することで、ほっとしたり、現在救われていると感じたりすることが出来るし、現在辛い時には過去にあった楽しかった思い出を想起することで、自分もかつては幸福な状態にあったこともあると今現在の苦悩を紛らわし、自らを慰めることをするのである。
 想起とは快・不快によって恐らく全くその都度異なった現れ方をするのだろうと私は思う。そして想起と想像はやはり極めて隣接した脳作用なのだろうとも思う。そしてこの想像とは自己の死に対するものに代表されるだろう。つまり人間は他者の死を見て、自己の死に対する自覚を抱くのだ。とすると、我々は他者の死によって他者存在の脆弱さを知るが、そのことは同時に自己存在の脆弱さを知ることでもあるということとなる。
 このことはやはり永井均氏が極めて適切に記述している。(「<私>のメタフィジックス」より)

(前略)他者の身体もその外界にふくまれているという事実こそが、逆に他者の身体がそれから区別される「物」のうちに自己の身体がふくまれているという可能性の想像を許すのである。(205ページより)

 つまりここで説かれていることとは、端的に自己とは他者にとって取るに足らない存在であり得るその可能性を見いだすことによって、逆に他者存在が自己にとってどうでもいいものではないという認識から逆に、自己存在を他者にとってどうでもいい存在ではないもの(つまり「物」ではないということ)であらしめるには、他者に対する接し方とか、他者存在に対する考え方に依存するという単純な真理についての考えなのである。しかし勿論それを説諭的に、教条的に永井氏は語っているわけでは決してない。そういうものとして他者存在を自己存在の鏡として見るその見方の事実を述べているに過ぎない。そして重要なこととは他者の死に遭遇することによって、自己の死を我々が生の中に位置づけることを誰しも密やかに経験してきているということである。それは声高に誰かが述べたことでもなければ、一緒に考えることで理解したのでもないということなのだ。
 これはある意味では音楽がどのように楽しい音楽であれ、始まりと終わりがあり、始まりは生の起源、つまり誕生を表し、逆に終わりは死を表す、あるいは自然と形式的に象徴するところから、音楽が起源的にはあるいは葬送のためのものであったこと、死者に対する弔いが死者を黄泉の国へと送り出し、二度と現世には戻ってこないように祈念する(お祓い)という目的性においてリズムとメロディーをそこに乗せた、そしてその際に踊ったということが事実であるとすれば、より理解しやすいのではないだろうか?
 アートはその点逆に生きている人間同士はそのものの前に集い、別れるための里程標だったのであり、それは形式的には死を忘れさせる作用のものである。音楽が死の想念を喚起することで、逆にカタルシスを呼び起こすタイプの表現であるのに対し、アートは生の躍動を直接的に示すものであった(だから死を連想させるアートの誕生は宗教権力がアーティストに依頼するようになる歴史を待たねばならない。)、勿論そこに建築も含まれるのだが、それは他者存在の生きていることの証と、その他者存在に対する承認において自己を成立させる自己確立の目論み、つまり社会形成の起源としての個人として集合スペースへの参加ということであるのに対し、詩の朗読や音楽、舞踏は、その参加スペースにおける発話と、場そのものの雰囲気に対する同化を目的とした身体表現であったということから、空間的設定としてのアートに対して、人間の存在の脆弱さに対する言及という形での空間内表現としての詩・音楽・舞踏というもののあり方を永井氏のこの言説は想起させてくれる。そしてそれらの表現に不可欠であるのは、どの個体にとっても他者であり得る者に対する出会いと、出会いの予感であり、端的に他者存在の脆弱さ故に自己を自己あらしめる想念を育む場と場内の発話という基本形が横たわっているのである。
 しかし恐らくそういった場設定と、場内発話ということも制度的に目的性に随順して履行されていたわけではないだろう。そういった育みの全てに対して哲学者たちが意図とは何かを問うことを喚起するように半ば無意識に、半ば願望覚醒的に執り行われてきたのだろうと私は思う。そして集い別れるということは、端的に個人的に死を理解したということ、つまり密やかに死を自己の生に位置づけた者同士の生の中での出会いと別れをアートは育む場として機能し、詩・音楽・舞踏はその場の中で発話することの代理として(つまり説明不可のものの存在に対する成員同士の無意識の総意として)無意識の人間の願望を顕在化させる機能として存在し続けたと捉えることも出来よう。
 
 私たちは真意を知ることが難しいので、ある時には、特に何をなすべきか即座に理解出来ない時になど、殊更他者に迷惑をかけない範囲内で衝動的に何かをする。これは中島義道氏が「悪について」でカントが「実践理性批判」で対象としなかったことであるとしているが、要するに悪でも善でもない広大な範囲の衝動的な行為がある。それはある意味では無意味な行為であるが、さりとて人生に害悪を齎すようなものではない。少なくとも他者と共同体における責任論というレヴェルでは許される、あるいは公的事実として記録され得ない行動である。
 しかし真意を知ることが出来ないという認識と真意を知ればその願望や意志に従って行動したいということは共存し得る。だからそういう風に真意が明確で、その意志と願望に沿って行動するようなことを理想として、憧れを抱くというところから私たちは創作上での人物の行動に惹かれるのだ。そこに小説や映画、あるいは演劇のヒーローやヒロインに対して限りない関心を日常で示すという一面を我々は発揮するのである。それは衝動的に何かをするということと、その結果齎されることとの間での齟齬を常日頃から実感しているということから来る必然的な嗜好傾向であると言ってもよい。そしてだからこそ何か真意を抱き、その真意が有効な形で他者に伝達されればそれでよいし、いつもそうであるなら問題がないわけだが、案外我々は常日頃から真意が有効に伝達され得ず、しかも自然に行動することが難しい、それはただ単にその行動を円滑に執り行うための技術不足であるというだけではなく、その行動に伴う気持ちが有効に作用し、あるいはその行動に相応しい感情のあり方が自然に他者に伝達され得ないという苦悩に端緒のある齟齬なのである。だからこそ衝動をいい意味で円滑に運搬するようなタイプの自然な行動であることとその振りをすることの落差のなさを理想としつつ、つまりその行動に相応しい感情のあり方が行動と共に有効に他者に伝わることをすることに長けている、要するに演技のプロとか、表現のプロに自らの果たし得ない衝動的実現を代理的に託して、溜飲を下げるというわけである。
 人間はだからこそ観念に囚われやすいのだとも言い得る。つまりドラマや小説の登場人物たち、とりわけ感情移入すべきヒーロー、ヒロインたちの行動や衝動は常にポジティヴなものであるわけではない。ドストエフスキーの「罪と罰」のように金貸しの老婆を殺害しようと企て、履行するラスコーリニコフのようなタイプの者からカフカの毒虫に変身させられるグレゴール・ザムザのようなタイプのカタストロフィに陥るようなタイプの登場人物から、果ては銀行強盗にまで我々は感情移入してそのドラマや映画や小説の時間を生きる。とりわけ愛の破局や失恋のようなタイプの経験を自らの身に置き換えた時、決して現実において再現され得ないで欲しいと願うようなタイプの運命のヒーロー、ヒロインたちの行動や運命にさえ共感するし、その悲惨な運命の時間を共に生きることを喜ぶし、感動するのだ。
 寧ろ小説や映画の登場人物は大成功するようなタイプの行動とか運命よりも、生彩のない平凡でつまらない、あるいはある時は不運以外の何物でもないものの方においてより共感を示す。これは成功をした人でも同じことである。もしそれが本当に自分の人生の現実に起こったことであるのなら、即座にその運命を呪い、忌避したいと願うようなタイプの運命のヒーロー、ヒロインたちの行動に注視の視線を注ぎ、ある意味ではそうであるが故にこそ感動するということは、私たちは現実上でその登場人物のような共に最高の理想にはほど遠い生を、生活を送ることを余儀無くされているという側面からか、寧ろ今読んでいる小説の主人公よりはよっぽど自分の方が器用に世間を渡っているとさえ感じられるヒーローの行動の愚鈍さにさえ感動し、しかしそれが現実に自分の身に降りかかるということは完全に拒否すべき事実として知っているのに、その感動それ自体には何の日常的な矛盾を感じないということは、絵画が現実とは違うものであると知りながら、その壁画であれ、額縁絵画であれ、掛け軸空間であれ、それを鑑賞することを好む我々の日常と一にする日常的感情の選択であるということを意味する。つまり現実には只管避けたいと思うような悲惨であったり、平凡過ぎてつまらないと思えたりするようなタイプの現実の自分の方がよっぽどましであるとさえ思えるヒーロー、ヒロインたちの行動と運命の方により感銘を受けるということは、それが現実ではないからということがまず考えられる最も単純かつ重大な真理であるが、と同時に、どのような悲惨や退屈でも、それが一旦ドラマや映画や小説というフィクションに閉じ込められると途端にそれが挫折や敗北体験であってさえ、いやそうであればあるほど感動するようなタイプの現実に成り変るという不思議を我々は実は殆ど顧みることなく日常をやり過ごしているということなのである。それは挫折や敗北の中にさえ、我々はそれを生きる者のある理想を読み取りたいという欲求がある証拠でもある。
 つまり平凡であれ、非凡であれ現実そのものは常にシビヤである。要するにリアルであるし、そのリアルさから脱却することは不可能である。しかしだからこそ、自分の生きる現実にはないリアルを生きる者に対して、それが現実上での自分の愛する者や知人ではないからこそ、より共感し得る対象として無意識の内に選び取るということは、一面では我々は自分で知らない自分の中の深層心理に触れて、言語化し得ないようなタイプの理想を言説化して日常的な関心事項の中に位置づけたいということを意味している。だからこそある意味では真っ当な社会生活と適度に世間体によいと思われるような社会的地位を獲得している成員であれ、非日常的現実描写の小説や映画に惹かれ、ある時はバイオレンスを履行するようなならず者タイプのヒーローに惹かれ、冒険的であるし、社会通念逸脱的ヒーローの反社会性に対して強烈なエールを送ろうとさえするのである。それは現実がそのようなものではないからであると同時に、密かに人間がいつかは自分も愛する親族が死んでいったように死ぬのだと自覚する時と似て、自分もこの小説や映画や演劇やテレビドラマの登場人物のような反社会性を持ち合わせていることを確認し、そうしたいと内心愉悦の中でそう願っているからなのである。勿論そうしたいという欲望を一方に持ちながらも、我々はそう安易にはそうしないでいることを選択し、不安定さと不安とギャンブル性の皆無な日常を知らず知らずの内に最高の理想として疑う余地のないものとして選び取っている。しかし内心そうしながら、誰しも本当はもっと刺激的で、生きているという実感を確かなものにすることが明快なものとしての理想があるのかも知れないと誰にでも公言することなく携えてもいるのである。それは積極的に安全地帯に居座ることを選び取り、頑なに無変化的日常を選び取っているという惰性があるからこそ、それに反発する形で無意識の中にトグロを巻いているということとしてそうなのである。
 凡俗な反復と無変化という理想はだから、ある意味ではそこから幾分逸脱することを自らに許容し、他者に許容させる冒険的意図を欲求レヴェルで充足したいからこそ、あるいはその逸脱に伴われる生の実感を得たいがために取り敢えず間違いのないものとして選択してきているという意識も誰しも持っている。ここで再び自己同一性の問題が立ちはだかるのだ。
 要するに我々は公的な責務として責任論として、自由論に伴うモラル論として人格の同一性を求められている、あるいは求められているように自己を規制して生きることを選択する。しかし問題なのは、その同一性を最も疑っているのは、他者に対しては同一性を装うことを臆することなく選択する自分自身であるということである。それは哲学的には権利問題である。しかし権利問題であるのは、享受すべき、享受して然るべき権利ということ、つまり仮に日和見主義者であり、八方美人であるようなタイプの成員でもその者にとって採られた行動が称賛に値するとしたら、その者が日頃疎まれるようなタイプの行動の多い者であっても、そうではないタイプの成員と等し並に評価されて然るべきという社会的差別に対する考えからなのであって、寧ろ本人は常に自己同一であることを自然なことであるとは露ほども信じてはいないし、そうありたいと望んでいるわけでもない。それが何より自己欺瞞であるということを一番知っているのは自分自身だからである。あるいは記憶喪失者やアルツハイマー患者にはあらゆる意味で享受すべき権利(年金を受け取るべきであるかの)として、自己同一性が保証されて然るべきなのであって、それは対差別的、対偏見的なこととしての権利問題なのであって、差別のない社会というあり得ない仮想においては、願望レヴェルでは自己同一性とは責任的呪縛の苦痛以外の何物でもないとさえ言えるのだ。要するにある意味では権利問題として自己同一性を保証されて然るべきであるという思想そのものが、既に無意識の内に我々が総意として自分の中の反社会性を認め、その反社会性的気質に対して共感することを知っているということが集合されて、一つの歯止めとして作用していると捉えることも出来るのである。つまり権利を保障する全ての法的措置とは、言ってみれば端的に人間の性質的根源とは悪であるということの容認に基づいているのである。そして法とは悪に対してそれを歯止めするフィクションであるし、ただ法にのみつき従って内的なモラルや内的な人間的願望の希薄な者に対して軽蔑の眼差しを注ぐような価値観は、ある部分では極めて凡俗な市民性を裏切るような反逆的意図さえ有する反社会的意識でもあるのである。そのような意識は法という凡俗な日常に対して解放の意図を汲むような別のタイプのフィクションである。
 だから人間には歯止めをすることを保証するフィクションを、その歯止めから解放することを旨とするフィクションと常に共存させつつ、拮抗させてもいるのである。だからこそ生涯変わることのない見たり読んだりした特定のドラマや映画や小説に対する登場人物への共感とか創作全般に対する感動と同時に、読んだり見たりした時期に抱いていた感情や人生の局面とか人生の初期か後期に見たり読んだりすることによって変化する感動の質や有無といった両極のフィクションに対する感じ方というものがあるわけである。
 あるフィクションに対して抱く感想の違いは、感じ方に対する変わりなさと変わりやすさの両方を常に示している。要するに変わり得ぬものも有限であるなら、変わり得るものも有限なのである。そして変わり得なさというレヴェルで権利問題としての自己同一性が存在し、変わりやすさというレヴェルで自己同一性を保証するという権利問題が派生することとなる。
 するともう一歩踏み込むと、羞恥とは変わり得ない部分に対する着目によって問題化されるが、この変わり得なさとは端的に常にポジティヴなものであるわけでもないということなのだ。
 そして興味深いことには、人間は一方では凡俗で代わり映えのしない日常を権利として享受することを主張しながら、他方同時にその日常性を打破し、逸脱するような非日常的冒険やリスクをも権利として享受することを主張するのだ。そしていい気なことには、前者が有効に手中に納まった場合には、後者を求めるが、後者が手中に納まった場合でも、それが行き過ぎたり、ネガティヴな意味で運命のカタストロフィに陥ったりした場合にはすかさず前者を取り戻そうと試みるのである。
 それは他者存在に対する感じ方のレヴェルにも反映された願望である。
 つまりある時には他者を必要とするのに、ある時には他者を極度に忌避し、それとの接触を回避するという行動に我々は出る。哲学上でカントの善意志とは、理性とか良心といったものを持ち出してきた近代ドイツ観念論哲学上での知的冒険は、要するに私たちが巧くことが運んだ時には、その行動を支えた衝動が有効に作用したのだと知りながら、自らの衝動とその衝動によって齎された行動の齎した結果が思わしくない時(特に他者に対して注がれた結果がよくない時)に、衝動の責任にした、それは端的に衝動そのものではなくその行動の仕方、要するに振舞いそのものが稚拙であったがためにそうであるのに、衝動を悪者に仕立てあげてきただけのことである。へーゲルは「法の哲学」において諸論において衝動を意志や行動の誘引的起爆力として大いに取り上げている。だから衝動は不当に評価されてきたきらいはある。
 しかし他者に対して忌避的行動に咄嗟に出るという時には、自らのそういう衝動に対して羞恥を呼び起こす。つまり公的な良識という名の下で自らのエゴイズムを抑えようと少なくとも表面上ではそのように振舞わねばと思う。
 例えば先日私の住むマンションで私はエレベーターに乗った時たまたま同じく居合わせた私よりも年少の母親とその息子の姿を見るなり私は一瞬気持ち悪かったのだ。その息子が顔面中央を脹れた状態にしていて、所々血糊も付着して、晴れ上がった顔面で恐らくその母親が付き添って外科医院にでも行こうとしていたのだろう。私はその親子と全く親しい関係にはない、ただ顔だけを知っているというだけの間柄だったので、思わず、その晴れ上がった顔面に対してただ気持ち悪いという感情を抱いたわけである。勿論その時私は格別幸福な気分であったわけではないので、ある意味では極度に不幸に見舞われた状態の他人と遭遇することが不愉快というわけではなかったものの、一瞬もしその時の私よりももっと幸福な状態にある人間であったなら、そういう光景というものでさえ一瞬でも眼にしたくはないものの部類に属するのであろうと思ったものだった。だから私はそう思いながらも同時に一瞬出来る限り平静を装う、少なくともその息子と母親に対して注がれる視線においてある種の忌避したいという感情、つまり気持ち悪いと感じていることを悟られまいと心掛けたのである。
 要するに私は世間体としてその気持ち悪い光景をただ見たくはないものとしてあからさまに避けるということをいけないこととして認識したのだ。しかしそのように認識することとは端的に、気持ち悪いという感情をとりたてて面識のあるわけではない他人に対してなら、もしその子が自分の子だったり、親戚だったりしたなら、一瞬見たくはないという感情を抱かないでいたであろうものをそのように感じてしまうということの内に、実は私たちの中に、例えば交通事故に遭遇した時至急警察に連絡すべきではあるが、その日あなたが仮にそれから結婚式に出向く筈の花婿であるとしたらその場を他の人の良心に委ねて即刻立ち去るということを選択するかも知れないであろう。あるいは実際に私の周囲であったことだが、老婆が車にはねられた時、ある中小企業の社長は、他の周囲の歩行者の良心に委ねて即刻その場から逃げ去ったということも理解出来るだろうと私は思う。
 要するに私たちはモラル上では他人に対しても身内や知人と等価の公的な良心を発動すべきであると誰しも心得ていながら、その実身内や知人の間で起こる出来事と全く同じように良心を発動する者はほぼ皆無なのである。だからこそ責任とか良心とかモラルという観念が私たちの中で常に問題とされてきたとも言い得るのである。
 そしてその根底には他者恐怖という感情が巣食っているということが言えると思う。だからアートが古来より人類にとって集合と離散のスペースとして機能していたのではないかという私の推察は、一面では人類がそのような身勝手なエゴイズムを常に携えていることを知りつつ、他者恐怖とは他者が身近な存在になるに従って克服されていくという現実をも知る我々が、愛とは自然な衝動と、有効にその衝動が作用した時には問題がないが、その衝動が他者拒否の感情と行動に赴いた時には一挙に差別にも繋がるということを知りつつ、その拒否行動と感情の中に巣食う他者恐怖を克服する意図と意志においてアガペーとしての愛が作用するという理想論をも我々がアートや、そのアートを記したスペースにおいて詩を朗読したり、音楽を奏でたり、それと共に身体を揺さぶったりしてきたことの内に見いだすことが出来るとも言えるのではないだろうか?
 つまりそのような残酷さと身勝手さという我々の性向を、一瞬で忘れさせ、吹き飛ばす作用としてのアートや音楽、朗読、舞踏といった行為は、ある意味では陳腐で代わり映えのしない現実に対して、その現実の哀れさを表現の中に閉じ込めることによってより感動し得る体感性にまで高めることによって、自然に愛せるとか、自然に愛の振舞いをすることが出来るということが、そうは出来ないとか、振舞うという意識を発動させずには履行出来ないというような事実への懊悩そのものに対して、「そうであったっていいじゃないか」という提言として作用するような意味でアートとか音楽とかが存在してきたとも言い得るということだ。
 ニーチェは「この人を見よ」において生理学者は他者畏怖の感情を肯定的に捉えているとしている。彼はそれに対してモラル論者は否定的に捉えていることに対して批判しているわけだ。要するにドラマにした時ある人間の愚鈍な行動とか弱さとか、平凡さとか、無鉄砲な衝動とかさえもが感動し得る現実の対象、あるいは似姿になるということそのものの内に、恐らく他者恐怖感情とは、よくないことなのではなく、他者信頼を理想としてそれを克服すべきであるという意味で、必要なものであり、そうである生物学的には我々に他人に対する警戒心が皆無であったなら、生存を危ぶまれてきたということは言えるのだから、当然備わったその本能を、しかし一方では有効な形でエネルギー転換させることの可能性の中に、理想とか理性とか良心とか、あるいはそれら全てを含み込む愛を私たちは捉えてきたのである。観念的な姿をこよなく愛する我々にとってドラマ、映画、小説に描かれた行動や運命とは、それ自体が、愛というものの価値を教えてくれるものであるのだ、あるいはそういうものとして我々はあらゆるフィクションを利用してきたのだ。
 しかし愛は常に差別と憎しみも生む。だからこそ差別を愛と両立させようとしてアガペーを我々は措定してきた。だからエイズに感染した愛人の身体を、自らもエイズに感染することを阻止する形で接するという行為選択はそれ自体は苦悩の下であるのだが、決して否定することも出来ない。何故なら愛とはその自然な振舞いとして外見的に示されるものだけでもないからだ。それはつまり愛が行動的実践であると同時に理念的実践でもあることを示している。
 卑俗な例で言えば、それが意図的に達成し得ることもある(自然な振舞いとして他者に受け取られる)が、ある時には疎ましい他者に対して「あんな奴でもいいところもあるんだな。」と思えるような他者内真実のセレンディピティーということにおいても有用であると言うことは出来るかも知れない。勿論カントがそのように善を手段化する(有用であると認識することそのものに内在する自己愛)ことを断罪しようとしたことは一方で認めよう。しかしエイズに罹ってしまった愛人、恋人や伴侶を気持ち悪いと一瞬でも思うことを断罪しようと私たちがするのなら、逆に気持ち悪い、感染しはしないだろうかという恐怖がもし全く存在しないのであれば、逆に、その者を、あるいはその者の命や身体が、あるいはその存在そのものが愛しいという感情さえ抱けないままでいるかも知れないと思うべきなのかも知れない。
 自らが幸福の絶頂にある時に他者の不幸に遭遇したくはないというエゴイズムも、しかしそれがあるためにキリスト教の「汝の隣人を愛せよ」という言説が意味を持つのだとも言い得るのである。
 愛は存在論的にも意味論的にもその愛を踏みにじるような行動や振舞いによって寧ろ価値規範的に際立たせられている。つまりアガペーは他者存在に纏わる恐怖感情の克服と共に達成され得るわけだが、それは同時に他者に対する羞恥を他者の不幸を忌避することと同時に、それをエゴイズティックなものであると自己愛否定的に捉えることを誘引する克服材料であると考えると、アガペーにとって対他的羞恥は必要不可欠な要素ということにもなるのである。
 しかしアガペーとは人間がエロスに付き従うことそれ自体に対する恐怖が生み出した幻想であるとも言い得るのだから、当然人間は衝動論的には、それを有用化しても悪用してもエロス的存在ということになる。エロスは本論においてはネガティヴに捉えるべきものとしては取り扱わない。そもそも羞恥は、エロスによって誘引されて行動する主体における反省的、あるいはもっと醒めた言い方をすれば、メタ認知的な認識能力であるとも言えるのである。
 しかし人生とは残酷なもので、どんなに情愛的なエロスを感じ取って結ばれた男女であっても、結ばれたという既成事実それ自体が人生において組み込まれた途端に、それはただの凡俗な日常となるということである。それはある意味ではどのようなタイプの恋愛至上主義者でも、どのようなタイプの好色家であっても、ある種の欲求を成し遂げた後の一抹の空しさと共に感じ取る痛烈なる諦観であると同時に、その凡俗なる日常に支配されることそれ自体を肯定的に生において捉えることをも余儀なくさせるどんなに先鋭な哲学者であっても、生物学的法則には逆らい得ないという真実に対して強制的に目覚めさせるようなタイプの経験である。
 ある意味ではエロスの衝動によって結ばれた男女でも、その関係が日常化されるとそれは関係の維持と持続に意志を伴うようになるので、エロス的ではない形での人間的触れ合いが重視されていってしまう。これはエロスに伴う衝動のどうしようもない運命である。
 つまり真剣に愛するということはエロスの衝動に忠実であったという事実を相互に価値的に認識するということなのである。それは価値的になすということからも、愛する振舞いを、自然な形でなされた衝動とは別地点で意識的に反復していく必要性を生じることなので、振りをするということ、あるいは愛しているように演じることで、最初期のエロス衝動の純粋さを維持しようとする意志の出現を余儀なくされるということである。

 ここで再び振りをすることについて少し考えてみよう。
 振りをする振りをして本当はそのこと自体をしているということはあり得るだろうか?
 
 例えば舞台上の役者Aが演技で役者Bを叱責する場面で、迫真の演技でそれをしていると衆人環視の状況で役者Aは演技を離れた日常における役者Bの人間性に対して怒りの感情を持っており、思わず本気で役者Bにではなく、日常的場面での本人の人格に対して叱責する気持ちを入れてしまったとしよう。するとそれは彼にとってはただつい本気で役者Bの演じる役に対する演技としてではなく、役者Bの役者としての演技を離れた地点で彼自身の人格に対してそうしてしまったのである。勿論日常での役者Aから自分に対する感情を知っている役者Bは、それが演技であることを知りつつもどきっとしたかも知れないし、本当は役者Bが演じる役に対してではなく、役者Bの日常的人格に対して怒りの矛先を向けられていると見抜いたかも知れないが、そんなことは観客にとってはどうでもいいことである。要するに問題なのは、観客の前で地を出してしまっているのにもかかわらず、役者Aの役者Bに対する叱責が演技として観客からは受け取られたという事実である。その証拠に演劇そのものの進行上での必然性からただの一人もそれが演技ではなく、役者Aの仕事を離れた私情からの言葉であることなど露ほども疑っていないし、その誤解された迫真の演技に対して拍手喝采していたのである。
 つまりこのようなことというのは現実にあり得よう。しかしこの時役者Aの採った行動は真に役者としての職業的モラルから言って褒め称えるべきことではないだろう。勿論結果論的には観客から喝采されはしたものの、それと役者の仕事を離れた行動という意味では糾弾されて然るべきである。しかし勿論そういうことを役者Aはするわけはない。彼はただ内心は罪悪感に見舞われながらも、予想外に自分の採った枠を外れた行動が好結果に繋がったのだ。そういう意味では運命に感謝し、生涯このことは秘密にしたままでいることだろう。勿論心のどこかでは役者Bだけはことの真相に気づいていはしまいかという疑念と、そのことを誰かに告げ口されはしないだろうかという恐怖だけは密かに携えながら。

 私はどの集団に属しても、私だけが集団の中で異分子ではないだろうかという思いを必ずと言ってよいほど心のどこかでその都度抱いてきた。そしてそれは今でも変わりない。しかしそれは私以外の誰でも抱くようなタイプの思いなのかも知れないし、私が仮にそのことを誰かに告げた途端、私個人の固有のこの思いが一挙にその告げた者をも含めた一般的な事柄に転落してしまう。このことに関しては永井均氏もくどいくらいに述べてきている。しかし今私がそう述べたことは勿論一般論としてではないのである。私固有のそういった思いである。しかしこの文章を読まれる読者諸氏は、必ず、それを私、つまり散散・美散に固有の経験としてではなく、読者であるあなたにも思い当たる経験としてそれを受け取ることだろう。それは前記の例で役者Bが舞台の演劇上で、役者Aが自分に役者の演技として叱責した時に、彼自身勝手に日頃の役者Aとの交際において自分が叱責される可能性というものをどこかで感じ取っていたので、そう言われて、それが演技に違いないと思いながらも、どきっとするということはあるかも知れないし、役者Aの懸念とは裏腹に実際には彼がそう思い、役者Aが思わず演技を離れて役者Bに対する個人的感情をぶつけたのだと見抜いたという可能性の方が実は低いかも知れないというこの例にも当て嵌まる。つまり役者Bは演技としての役者Aの舞台上での自分に対する叱責を、心のどこかでぎくりとするということそれ自体が、私が今こうして書く文章の意味内容としての、私の集団内での疎外感情というものを、本来は著者である私の経験であるとして受け取りつつも、私のものとしてではなく、読者は読者個人の経験の中で思い当たることに照応して読んで納得する(勿論そういうことなどないと思われる読者諸氏もおられることと思うが)ということと同じ内的なメカニズムがある。
 つまり人間は知覚上で外界の全てに対して視線を注ぐ時、ある意味ではその視覚知覚対象としての全ての事物に対してそのものとして受け取りつつ、その事物から受け取る印象を絶えず、自分自身の内的な経験とか記憶上での全くその事物と関係のないことと照応させつつ、つまり知覚認知とは関係のない内的世界の思念と共にそれらを眺め、見つめているのである。そういう意味ではこの文章において私が、私は集団内で常に疎外感を抱き続けてきたという告白をあくまで私の告白であると知りつつ、そのことだけを念頭に入れてこの文章を読むということの方が恐らく読者諸氏には大変なことだとだろう。そういうことがある可能性とは、その読者が私自身、つまり河口ミカルという著作家に対する評論を書く意図で、この文章を読むような場合にのみあり得ることだろうが、その場合でも、純粋に自分の経験と切り離して私河口ミカルの経験としてだけ考えてこの文章を読むということは恐らく至難の業であろうと私は思う。(反論のある方はどうぞ私宛に意見をお送りいい頂きたい。)
 話しを元に戻そう。
 私は兎に角、集団内で常にそのような自分だけが浮いているという感じを抱いてきた。しかし恐らく私はそれが私に固有の経験であるにもかかわらず、心のどこかではそういう経験を、誰しもが一度は抱くであろうようなものとして判断したいという欲求を持ってもいる。つまりそのような形で納得して安心を得たいのだ。しかし同時に、この私に固有なものだと私には確固として思われるこの思いを、ではどのようにしたら、私に固有の思いであるかそうではないかということを私は知ることが出来るのだろうか?もし私がそのことを親友に告げたとしたら、親友は自分にも同じような経験があると言うかも知れない。しかしその時その友人の私に対する返答は、ただ単に私に対する同情心から、友人としての社交辞令でそう言っているだけかも知れないし、または彼は私に対してそういう風な経験が自分にもあると私の告げるその彼の経験が、果たして私が日頃集団において私が感じ取っている疎外感と同じ性質のものであるとどうしたら、一体確かめることが出来るのだろうか?
 ある意味ではそれは大体のところで知ることが出来るかも知れないが、同時に、正確には永久に知ることが出来ないようにも思われる。それは要するに私の痛みが、彼の痛みと同じ性質であるのか、それとも似ているように私と彼との間でそう相互に思えるだけのことであり、実際は確かめようがないのと同じことであるように私には思われる。
 そして今このように問う私の疑念そのものが、私固有の経験として今こうして書かれているにもかかわらず、そう書かれた瞬間その経験が「私の経験」という一般的記述として私自身と離れるということも不可避的な事実であるように思われる。だからこそ、この私固有である筈の私という人生における集団内での疎外という事実そのものが、私固有の人生上での経験と離れて、一般的な問いへと転化し得るとしたなら、それは何故かということも大いなる疑問ではあるが、ではもし私固有の集団内での疎外感というものを読者によって理解され得、つまり私に固有の思いの性格を実質的に知りえた時、それが一笑に付されることなく再び一般的な問題として作用し得るか否かということに対する疑問も、私には常に残る。
 つまりこのことは、孤独という感情は一般化し得ることなのか、ということと、そうではなく、孤独感情そのものがその感じられ方から、感じる質に至るまで個人毎に全部違うものなのか、ということとが密接に一つの問題として存在するという風にも考えられる。それは要するに一人一人全く違う瞬間に、違う状況で孤独感情を味わうのかも知れないということと、いやそれは同じ瞬間、同じ状況でそう感じるのだが、感じる人によってその性質が違うのかも知れないということの二つが常に共存しているということなのである。そしてこの問いも決して答えが見いだせないように私には思われる。しかしだからと言って私はその都度好きなように私なりに答えを用意すれば、それでよいということにもならないように私には思われる。つまりだからこそ私は常に私に固有の思いであるにもかかわらず、一人心に抱え込むことをせずに、思い切ってこうして文章にしているのである。つまりそれは私が私に固有の感じ方かも知れないと思いつつも、その固有の思い方をどのように読者は受け取るものなのだろうかということを知りたいと私が願うから思い切ってこういう風に告白しているとも言えるし、私に固有のこの感じ方を理解することの出来る読者の存在をどこかで望み、その存在に対する蓋然性を想定して私がこう書いているとも言える。そしてその二つは微妙に絡まり合って存在している。
 これらの問いは、しかしある意味では何故人が「~する振りをする」のかという問いの根拠になり得るように私には思われる。
 ある意味では「~する振りをする」こととは、そうすることが適切であるような場合に、積極的に採用される態度である。しかし振りをすることは、そうであると見抜かれるということは好ましいことでは当然ないのだから、効果的である状態とは「~する振りをする」の「~する」の部分だけで受け取られることが理想である。そしてそれが有効に作用して、「~している」と思われること、あるいはそうであることに慣れることこそが私が感じる孤独とは私に固有のものなのかという思いを殊更持ち出す必要性を思い起こすことなく済ますということを意味している。
 何故そうかというと、私の感じる孤独とは私に固有であるか一般的なことなのかという問いは立証不可能なので、それが何故そうなのかと問うことは、哲学的に必要であっても、日常的な時間の中で四六時中それを考えて過ごすことは人生そのものにおいては適切であるとは思われないからである。つまりそれは一日中考えたからと言って解けるようなタイプの問いではないということである。その問いを無効化するようなもう一つの考え(それを答えと我々は呼ぶ。)とはそれだけに拘って見いだされるものではなく、何か他の行為に絶えずかかわっていながら、ある時ふと閃くようなタイプの問いかも知れない。しかもある程度長い年月をかけて初めて仄見えてくるようなタイプの問いと言えるかも知れない。
 私が私に固有の孤独感とか寂寥感とは何かと問う時明らかに、私は答えを期待している。答えとは端的に「そうである」と決めることである。そうであると決めることとは端的にそうであるかも知れない他の広大な答えの有効性に敢えて眼を瞑ることなのである。そしてそれは言語の運命でもある。
 例えば私は海に行くとしよう。その時海が水平線にまで広がる景色を前に、雄大だとか壮大だとか言う時、その私の眼前に繰り広げられる光景全体を、私がそこにいるという事実に収斂させて、そう言うのだ。しかし私の身体上での全ての感官は、ある意味ではそういうメタ認知を無効にするような刺激と、言葉に言い尽くせない爽快感を伴っている。それをクオリアと呼んでもいいかも知れないが、兎に角私はそのように感覚的には明らかにある言葉によって指示されたものと別の言葉によって指示されるであろう間隙、つまり言葉と言葉の隙間をある言葉の選択によって捨てて話している。しかしその敢えて捨てるということをしなければ、私には他者に何も伝えられない。しかしある言葉と別の言葉の間隙ということそのものは、ある言葉を選びその言葉ではない別の言葉全てを選ぶことを捨てることを意味するから、当然ある言葉と別の言葉の間にある無数の言葉にならない感覚があることを私はどこかできちんと知っていることになる。つまり全てを語れないから何かを捨てて何かを言うことを選ぶという意思は何かを伝えるためにそれ以外の言い表し得る全てを捨て去る以外に方法はないという決意を生む、広大な示し得るべき全てを示すことの不可能性への自覚でもあるのである。だからそれは広大な風景を前にした爽快感に関してもそうであるが、孤独感とか寂寥感といったタイプの感情的な心の状態に関しても全く当て嵌まる(尤もだからこそ哲学や文学が営々と滅ばずに存在し続けているのだが)。
 ただ私は素直に「言葉には言い尽くせない」と語ることもあるし、「誰からも声をかけられないでいる時のような孤独感」という風に言語化することもあるだろう。後者の場合私はある言葉には言い尽くせない感情を敢えて何とか他者に伝えようとして、要するにある言葉を選択することに依怙地になっていて、素直になることを避けている。素直になるということはこの場合語ることをやめることである。しかし何かを語るということは他者の心を動揺させようと目論んでいることから来る必然的な私の意志と欲求のなせる技である。要するに素直と依怙地は同じフィールドにおける判断である。
 だから言葉に言い尽くせないクオリア的感動とは、言葉で言い表すということ(決意)の裏返しなのである。そして言葉を追求していくこととは、言葉では表現出来ないものの正体を知ることとも等しいのである。だからこそ本論において言葉で言い尽くせないことを次章で示そうと思うのだ。そのためにも依怙地になるということが、素直でいることをどういうことか、それがいいことだとか、そうありたいけれどそうはいかないということを承知でしていることであるということを示すということの意味があるように私には思えたのである。つまりそれがクオリアとエロスを概念とタナトスと対になるような図式で捉えることの有効性の中で思考する道を開いていくように私には思えるからである。そして次章ではまず言葉にならないという身体的体験、経験を考えるところから始めよう。

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