Wednesday, December 9, 2009

〔羞恥論‐素直と依怙地<衝動論第二幕>〕第二章 第四節及び全部の 結論

 解剖学者の養老孟司氏は若者に対して「本当の自分探しなどするな」と言い放っている。それはある意味では極めて正当な意見である。しかし同時に山竹伸二氏はそれだけでは納得出来ないとして「「本当の自分」の現象学」という本を書いている。
 あるいは茂木健一郎氏は「意識とは何か」において一人の女性がある時は母親として、ある時は妻として、ある時は娘として振舞う、つまり息子や娘の前、夫の前、両親の前、と私たちはそれぞれ使い分けている、そのことについて触れている。学生時代の友人と会えばどんな偉い人でも昔に戻るだろう。しかしこれは極めて自然に執り行われる日常的な心理的な転換である。
 ヒールとして名高かったプロレスラーのフレッド・ブラッシーは一度だけ見たくないとして一度もリング上の彼を観戦して来なかった母親が一度だけ自分の息子の職業上の姿を見ようとして観戦し終わった後、あまりの日頃に自分に対して示される態度や物腰とのギャップに「本当はどちらのあなたが本当なの?」と聞かれ、「どちらも本当ではない」と答えたそうである。つまりそれはある意味では哲学的に正しくある意味では正しくはない。
 つまりある殺人犯がその事件を起こしたことそれ自体に関しては極悪な人であっても、それ以外の場面では極めて善良な市民であるとしたら、それは決して嘘ではないだろう。つまりある人にとって極めて非礼な人が、別のある人に対しては極めて礼節な人であるということにおいて、どちらが嘘でどちらが本当であるとは言えないのと同じである。
 つまりそのどちらも本当であり、同時にそのどちらも嘘であるとしか言いようがない。
 日本人は明らかに対峙と共有ということで言えば共有意識が濃厚であり、欧米人は対峙的であるように見える。しかし恐らくそれは民族文化そのものが対外部的にアイデンティファイされた固有の物語の像であるとも言えはしまいか?そのように言うと前節の日本人の隠蔽されたことの方を真実であると信じる日本人固有の羞恥さえ嘘ということになるという反論が聞こえてきそうだが、実はそうではない。
 日本人は確かに物事には裏があるという考えそのものに対して自然ではないと感じる感性がある。しかし隠蔽されているからこそそこに何か特別なものがあるように思えるのだということに対しては比較的明白に理解もしている。その点では明らかに欧米人、あるいはもっとイスラム教徒の方が凄絶にタブーを抱いている。しかし一番重要なのは、ある別の人に対して悪人である<ある人>が自分にとって善人であるのなら、それは嘘ではないだろうということである。勿論そこに民族の差などない。永井均氏は「倫理とは何か」で人間は皆二重スパイであると言っている。そしてそれは氏の意図においては正しいだろう。
 しかし本職の二重スパイでさえそれはどちらの側に対しても偽装しているということそのものにおいてどちらも真実の姿で対外部的に接しているのだ。つまり嘘つきということは、嘘つきであるという姿として本物であり、真実の姿を晒しているのである。だから必然的に対峙であることも共有であることも全て真実の姿であり、人間心理の偽らざる姿なのである。
 つまりいつでも私たちは統一された人格でいる、いなければいけないということそのものが既に歪曲化されたモラルなのである。自分より目上の人に対しては謙り、自分よりも目下の人に対しては大人の態度を示そうというのが人間の普通の姿である。あるいは他人というものは全てそれぞれ固有の考えや心理を抱いているので、その人その人に応じて異なった態度を使い分けるということもまた普通の姿である。ましてや職業的像と、家庭の像が異なるということもまた極めて自然なことである。
 そもそも精神分析という分野が登場した背景には西欧の倫理的な理性主義に対する抑圧された心理が欧米人にあったものと私は考えている。つまりフロイト以降転移という考え方が示されてきた背景には、同一性という名の下に心理的な抑圧、ピアプレッシャーが顕在化してきた現代人の心理に即応して臨床医や神経科医たちが、多重人格を含めて新たな人間に対する像を構築しようという必要性からであった思う。つまり対峙も共有も共に自然な人間心理であるということである。同一性に対する懐疑は何もポスト構造主義以前のこの頃、つまり精神分析が手法的に定着していた頃から実はあったのである。
 しかしそれまでの社会では同一性とか統合された人格という考え方の下で極めて矮小化された像を常に提示することを求められてきたのが人間の姿だったのかも知れない。つまり対外部的に示される像としての物語(それを私は「私」としている)に忠実であれという支配階級からの訓示は、一面では反社会的動きを封印するために有効に作用した、永井均的に捉えれば、モラルの発生の理由、原因、根拠に対する関心を封鎖すること、閉じ込めて人々の関心が向かわないようにすることという醜悪な人間的要望に対する隠蔽の意図が支配階級から発動されてきたというのは中世、近世に至っても極めて自然である。何故なら近代以前、いや戦前までは全ての社会が構築というベクトルだけを携えてきたからである。そこにある破壊は部分論的なものでしかなかった。しかし核兵器が全てを変えた。本当に人類が死滅することは人類の手によって可能となったからである。
 外部的な像としての抑圧論的な自己は、実はカントの格律においても既に示されていた。
 しかし抑圧論的な自己を自我レヴェルで最も体現しているのが日本人であると言える。今日でも日本人は精神科医にかかることをひた隠すことがある。これは対外部的メッセージである「私」に呪縛されているということだ。ただ人間は必要以上に病理的状態でもないのに、他者に依存し、苦悩を告白することによって寧ろ本当の病理状態へと陥らすということがあり、その意味で日本人は「人の言うことを一々気にしないで生きていった方がよい」と考える傾向があり、要するに楽天的な民族であるということだけは言えそうである。しかし本当に病理的精神の人もいるし、それを隠すということに日本人固有の羞恥が感じられるが、それは集団内の恥という観念に起因するのであり、例えば誰でも気にするだろうと考えるから、つまりそれが恥ずかしいから隠すということがある。しかし意外と他人というものは大して自分にとっての他人の人生まで深く考えないものなのだ。だから最近では大分オープンに自らの精神疾患について告白する人も多くなった、例えば欝病などはその典型例であろう。
 本論で触れたように他者大勢の中で自然と対峙する時と、親しい友人とそうする時とでは本質的に心理的に異なった状態に私たちはある。あるいは一人で嵐の夜を田舎の山小屋で過ごすのと、そうではなく都会のマンションの一室で過ごすのとでも異なってくるだろう。だがそういった対自然的な意味での対峙と共有ということと、社会構成的な意味で敵対する者と相対する時とか、友好的グループを構築することというのは、ある意味では極めて自然とは異質な部分があることも確かである。ピア・プレッシャーということは欧米、日本に限らず殆ど現代人に普遍的な命題である。
 しかし不思議なことに精神分析の世界では極めて多くの女性が昔から活躍してきた。メラニー・クライン、マリー・ボナパルト、アンナ・フロイト、アニー・ライヒといった人たちがすぐ浮かぶ名前である。しかし哲学者は本論の序で示した中島氏の叙述のように少ないというのは何故だろうか?
 一つには精神分析が哲学よりも歴史が浅いということも言える。
 そしてもう一つは哲学が空間認識的な視座を観念的に必要とするメタ認知学であるということである。この種の能力は男性の方が優れているという報告がある。例えば一つの岩を見て、それがその外部の状況、時間的な推移でどのような意味を持つのかという連想は恐らく女性よりも男性の方が先天的に得意とするところではないだろうか?つまり認識的洞察力ということである。しかしこれも今まではそうだったということでしかないのかも知れない。
 哲学界とは究めて地方芸術家のコミュニティーのように閉鎖的なのである。学会毎に閉鎖的な集団内羞恥を採用しており、他集団と交流しようとしないのだ。要するにモンロー主義なのである。
 また日本人の楽観主義は逆にプレッシャーになっているのだ。つまり楽観主義的協調性のない人を仲間外れにしていく傾向が無意識に発動されるからだ。これが端的にいじめの精神構造なのだが、そのことに当事者は気づいていないということにある始末の悪さがある。
 そればかりではない。日本人は各省庁にしろ、民間企業にしろ、閉鎖集団的な様相の集団内羞恥が徹底管理されている。第一自分の社を弊社と呼び、社長の名を社員が呼び捨てにする習慣そのものがそれを表している。日本では自分の身内を他人の前では敬語では呼ばないが、韓国では自分の身内であれ、他人であれ年配者に対して全て敬語で統一されている。
 要するに日本人の場合「そんなこと気にする方がおかしいよ」という言説それ自体が通念となっており、それが処世訓となっているのだ。この奇妙な楽観主義は端的に羞恥に対する隠蔽である。しかし精神科医にかかることを隠さないアメリカ人は日本人に固有の楽観主義はない。深刻であることが許されているのである。
 つまり哲学界そのものが日本社会に似ているところがある。それは下町や田舎の閉鎖的であり、顔馴染みとそうではない者とを一瞥で峻別するようなタイプの人間関係に近いと思えばよいかも知れないが、恐らくそれは哲学界だけではない。そして日本に固有であると私が仮にそう語った羞恥は別の民族にも濃厚にあるのかも知れない。そのことに対する発見は未だ私のサイドにはないのだが、日本人に固有であるとたまたま私の目にそのように映じた羞恥は、端的に自然を前にして一人で耐える式ではなく、まさにビートたけしの言っていた「赤信号皆で渡れば怖くない」式の極端な共有そのものなのだ。要するに大勢による自然の共有という意識に近いのだ。しかしある人物に対して差し向けられる態度とそれとは別の人に対して差し向けられるそれが異なるのが当たり前のように、私たちは概して皆で赤信号を渡るのが好きであるにしても、全く一人でそうしたい時もあるし、その点では例えばアメリカ人はアメリカ人で、皆で赤信号を渡るのが日本人とは別の意味で好きだし、彼らとて、地方のコミュニティーは閉鎖的であろう。
 つまりこう考えるのが理に適っているだろう。内と外という区分けそのものに内在する認識転換が容易に出来ない時私たちは疎外されていると感じる。つまり皆が精神的疾患であることを恥だとそう思っているから精神的苦悩を抱いているということを他人には隠すのだ。しかしよく考えれば自分だけではなく皆そうかも知れないと思い、思いっきり告白したら、案外他人とは気にしないということもある。ある意味では現代人は全成員が病理的状態であるとも言えるからだ。勿論そこで偏見を持たれ全てご破算ということもあるにはあるだろう。しかし全てを告白することがよいとは限らないが、羞恥的に思われること全てを用意周到に隠蔽すること、これは端的に悪弊である。悪い習慣である。
 つまり誰でもそう感じるに違いないという思い込みが私たちに勇気ある行動を阻止することがあるのだ。例えば私は意図的に日本社会を閉鎖的であり、集団内羞恥が徹底していてまさに「あんたがたどこさ肥後さ、肥後どこさ、熊本さ、熊本どこさ、船場さ」で通していると言わんばかりの論調を敢えて前節では採用した。しかしそれは日本人に固有ではない面も多々ある。
 つまり誰でもそう思うだろうという思い込みそれ自体を誰しも持っていると考えればよいのだ。悪い習慣を根絶するという意味では今日でも未だ哲学的理性主義は有効である。あるいはよい感性を習慣化し、意図とすることにおいてもそれは有効なのである。分析哲学はある意味ではモラル論的な哲学の本論を本質的に復活させるために敢えて論理的なことに多くを費やしたとも言える。つまり学術的に言えば、今後の哲学や精神分析は益々融合していく可能性の方が大きい。つまり脳科学と哲学を結ぶ結節点として精神分析が作用していく可能性としてもである。
 例えば自我という言葉があるが、この自我も哲学、精神分析、心理学とそれぞれの分野でその捉え方に大幅な違いがある。しかし一番重要なこととは、自我も願望も希望も全て何らかの形で脳による複合的な作用であって、例えばfMRIによって測定したとしても脳のどこに自我があるという風には答えられない。例えば意欲は前頭葉において発動されるとか、言語的な活動は側頭葉によって発動されるとか、身体的記憶とか身体生理的直観は小脳で補われるとか色々考えられていても、では自我はどこで作用しているのかと言ったら、恐らく脳の全ての箇所が何らかの形で総動員してそういう作用が起こっているとしか言いようがないのではないか?尤も前頭前野がかなり重要な役割を果たしているらしいとは言われている。しかしやはり局在論的なことだけでは足りないと言えそうだ。
 それを言うなら恐らくこれから結論として考えていく羞恥はまさにその典型であるようにも思われる。それは確かに身体生理的なことでもあるが、同時に極めて社会制度的、文化規定的、そして何よりも極めて言語認識的でもあるからだ。
 人前で赤っ恥をかかされるという体験は誰でも一度は経験していることであるが、それもまた恥じをかかされる内容如何にも拠るし、またどのような人から別のどのような人に対してどういう言葉をどういう状況で聞かされたかということにも大きく関わる。だが総体的に言って、ある言葉をある人からただ聞かされるだけではあまり苦痛に感じないにしても、別の誰かの前で同じことを言われるとそれだけで非常に苦痛に感じるということはやはり羞恥の典型的な例ではないだろうか?それは一面は自我の自己防衛的な戦略によるものかも知れない。
 そもそも精神分析はそのような体験が何らかの形でトラウマとかルサンチマンとして沈殿しているその滓を取り除くという意識のクライアントと医師との共同作業という側面がある。つまり羞恥そのものの構造を解析してかかるものであるというわけだ。
 例えば私は日本人であり50歳であり、男性である。だからそれを基準にしてしか全てに対して認識することが出来ない。例えば私が考える年少の人々に対する考えはあくまで私もかつてはそういう年齢であったことがあるということから来る想像だし、老人に対する認識も今の自分の中に感じる老いの兆候を必死に見つけ出し想像しているに過ぎないし、女性に対する考えも、私がたまたま知るごく小数の女性から引き出した一般論でしかないし、アメリカ人に対する見識の全ても私が過ごしてきた僅かな時間の範囲内の僅かな情報量で知るアメリカとアメリカ人の言動から引き出されたものでしかない。しかも私自身の様々な条件に左右されている。つまり私自身の固有の眼差しによって歪曲化されている。
 しかしある意味ではそれは全ての人にとってもそうなのである。つまり全ての判断は自分の中の記憶と経験からしか引き出しようもないものである。つまり端的に言えば世界とはそのようなどこかで必ず歪曲化されたと言うより、その個人固有の特殊な体験に根差した認識が含有されている。しかしどの見方も全てに共通する性質もあるだろう。だからどの個人のどのような見方を採用していくかという決断がその都度極めて重要になってくる。
 ある地方の海岸沿いを車で走って見る時、その海岸の波模様を観察する時、その者が海にどのように関わるかということが極めて重要であり、海洋地形学者と気象予報士と、漁師とサーファーとでは自ずから一つの波に対する認識に違いが生じるのは当たり前であり、またそれらの中の幾つかが自分の求める海岸の波の状態に対する認識に沿うものとなるというような意味である事柄やある現象に対する判断はその判断された後で達成されるべき目的の違いに応じて異なっているということが当然なのである。
 だから当然羞恥という心理に関しても、私の考える羞恥にはそれ固有の色合いがあるだろう。そして精神分析が患者ごとに異なった対応が必要なのも当然だが、精神科医も十人十色であるということからも、同じクライアントに対して全く異なった対応の仕方があって当然である。
 その見方は一面は相対主義である。しかしある固有の目的を持って臨めばやはりどの精神科医においても、手法とかセッションの際の応対の仕方そのものに違いがあっても、同じような対クライアントの認識や理解の仕方がなされるということもまた当然であろう。
 私は私自身に固有の眼差しによる歪曲化されたものの見方しか出来ないということの後に「しかしある意味ではそれは全ての人にとってもそうなのである」と言った。しかしこの見方それ自体はかなりオプシミスティックな考えであり、それ自体はかなり自己欺瞞的な気休めである部分もある。だからある時には真剣に悩んだ方がいい。しかしあまりにも自分が他者と違い、どこにも結節点が見出せず、特別であるということが、例えばアートの才能における天才性を発揮し得るような可能性を見出せるものとしてではなくもっとペシミスティックな見方になっていくと病理的状態となり、精神分析の対象となってしまう。だから社会制度的な規範としての楽観主義がお仕着せ的になって、苦悩を抱くことそのものが極度に羞恥化してしまい人に相談出来なくなってしまうこともまずいのだが、同時にあまりにも常に深刻に自らの歪曲した見方にネガティヴな関心の集中の仕方となるとやはり危険ということは承知しておくべきだろう。
 つまり精神科医は人それぞれ固有のセッションの仕方や処方があるだろうが、やはり精神科医全員が共通して持つあるクライアントに対する認識や理解の仕方があるのだ、という楽観主義が脳の活動をより円滑に前頭葉の意欲を産出することに直結するだろう。つまり自分は他者とそう変わりない部分も十分にあるのだと捉えられるということがいい意味での神経症的症状を回避する方策であるということである。それは特に抑鬱状態の時はそうである。だから精神科医の和田秀樹氏は気分が落ち込んだ時には決して反省しないということを薦めている。(「人は<感情>から老化する」)
 しかし逆にかなり気分的にハイテンションの時には、他者との間に存在する自らのネガティヴな相違点に対して着目する必要はあるかも知れない。そしてその相違点を逆に欠如を補うに余りある長所として活かすことを考えるということはかなりいいことである。つまり欠点を長所として利用するということである。
 例えばサーファー出身の気象予報士はサーフィンの経験を活かした気象に対する見方を採用してもいいだろうとか、空手をしていたシェフが自らの武道経験を料理の世界で活かすということを参考にして、あるいは不器用なアーティストは、器用に描けない欠如を哲学的思惟を表現することを通して克服していくといったことである。だから羞恥的抵触をする他者の言動を前にした時怒りをあらわにするくらいなら、寧ろその者の生い立ちとか周囲との人間関係を分析して、要するに自己流の精神分析をして、その者の自らに対する言動の根拠をメタ認知するということが最も理に適った対処法である。怒りを飲み込むのではない、怒りを起こさないように、そのネガティヴな他者から羞恥的抵触を来たす言動を浴びせかけるという体験そのものを貴重な恩寵として利用するのである。それは哲学的な廃物利用とも言える。中島義道氏はこのような怒りの体験を文章化するという方法(「怒る技術」)を言っているし、茂木氏は怒りを呼び起こす状況全体を俯瞰的な位置に自らを持っていってその根拠を思考するということを言っている。
 そういう時こそ自分以外の多くの人々がかなり辛い体験をしてきているということを想起するということもいい考えかも知れない。リチャード・ドーキンスは「神は妄想である」において、アラン・チューリングがゲイであったがために、それだけの理由で第二次世界大戦において敵方ナチスの戦略を見抜いた功績がありながら自殺したことについて宗教教義上での逸脱によってのみその自殺が執行されたことについてネガティヴな事例として触れているが、今日人工知能問題(Artificial Intelligence)において彼の名前を知らない者は潜りである。自分の体験は固有であるが、特別異例ではないという認識はいい意味での楽観主義を醸成する場面で役立つ。つまり多くの人は自分と恐らく似たような体験を多かれ少なかれ味わっているものなのだ。あるいはもっと自分より酷いケースもあるし、それを考慮に入れれば、自分はましなケース、いや幸運ですらあるかも知れない。
 しかしそのように一旦精神的安定を得た後は、逆にサルトルの「存在と無」で工場労働者たちに向けてアジテート的な説諭、つまり革命的意図を鮮明にするためには自らの立たされた状況を極めて不幸なものとして認識するということを奨励しているような意図で、自らの他者と比較してネガティヴな固有条件を一つ一つ備に検証していく必要性がある。
 和田秀樹氏に拠ると、精神分析医のハインツ・コフートは自己対象という見方を採用するに当たって、三つの自己対象を考えた。要するに対象とは自己と完全に切り離されている客観的認識だが、自己対象とは依存とか甘えといった精神状態を許容する、私が日本人固有の自然認識には馴染みのあるものとそうではないものという西欧社会では殆どないと思われる二分法を考えたのだが、それに近いものがあると思われる。つまりコフートは鏡自己対象、理想化自己対象、双子自己対象というものを精神科医に対して患者が抱く感情分析を行ったのだ。(つまり精神科医とは端的に常に精神的な疾患とか病理状態の人々と接しているので、自らの精神的対処法としても、治癒客観的認識としても、自分と精神病患者の間の関係を適切に理解しておく必要があるのだ。)
 鏡自己対象とは、精神病患者の立場に立てば、自らのいいところを精神科医の先生に褒めて貰うことによる精神的充足、満足感を得ることを言い、理想化自己対象はまさに精神科医の先生を自らの父親の如く理想化して安心して依存する気持ちになることを言い、双子自己対象は、逆にそのように理想化された精神科医の先生に対してコンプレックスを得ることを忌避して、寧ろ誰であっても従ってその先生であれ、自分と同列の似たような悩みもあるし、弱点もあるということを患者が示されることによって安心するというものである。
 これらは恐らく私の推測ではかなり一個一個が完全に独立した在り方をしているのではなく、相互に密接に関係し合っているのではないだろうか?
 ここにも対峙と共有ということが立ちはだかっている。つまり精神科医と患者は本来全く立場を異にすることである。しかしマルチン・ブーバーとカール・ロジャースの対談で示されていて私は極めて関心を持ったことがあるのだが、ロジャースは共感を最も重視していたが、ブーバーは完全に理性論的に精神科医と患者は立場の違いを認識すべきという意見だった。つまりここにも哲学者と精神科医との立場上の相違が示されている。ブーバーは対峙を、ロジャースは共有を主張しているのだ。
 しかし恐らくこの二つの考えは両方とも必要なのである。それは目上の人と話す時にも年齢的な違いを考慮した礼儀は必要だが、同時に相互に共感し合うことも必要なようにである。つまり相手は目上の人でも神様ではないのだし、精神科医も患者にとって神ではないからである。

 精神分析ではこのように極めて多様な考え方がある。フロイトはどちらかと言うと理性論的に自己を確立することで疾患を治癒するという方向へと意志が働いていたと言うが、依存や共感といった作用を重視する方向へとアメリカ国内の精神分析は、向かって行ったということもそれなりに理解出来る。
 つまりヨーロッパの哲学の伝統とは分離した形での思考がアメリカには可能だったからであろう。
 しかし私は別の論文「意味の呪縛」(別ブロガーブログ「存在と意味」に掲載)の結びに次のような文章を掲載した。
 
私たちの祖先はまさに記憶内容→記憶事実の報告への意志・欲求という他の動物には決して見られない稀な能力、つまり自らの能力自体への感動、自らの能力の素晴らしさへの感動を共有したいということを感じ、それを必然的に他個体へと伝えようとして、そのことも一つの能力となっていったのである。

 ここで重要なこととは、自らの能力の誇示、例えば全ての芸術家たちは自らのアートやミュージックの能力を誇示しているのだし、全てのスポーツ選手もそうである。だが同時に彼らは皆自らの能力を世間に公表することで、そのアートやスポーツの能力を他者と共有しているとも言える。それは社会そのものが協力という観念を機軸に成立しているからである。
 そのことを考えると対峙と共有という心的作用の本質が仄見えてくる。
 つまり大自然の脅威に晒され、それに戦いている時ほど私たちにとって自然とは全の人々に、少なくともその自然の脅威に晒されている地域の人々に共有されているということになる。自然は誰にとっても脅威であるという認識で自然が別の機会には私たちを救ってくれるかも知れないとも思う。この時自然は共有されているし、自然の猛威に立ち向かう時には人間は他者一般と協力体制に赴くわけである。
 これは自然という存在を通して私たちが他者一般と基本的に信頼し合っているということである。
 しかし捻くれ者というものはいるものである。他者一般に対して人間不信状態にある時、自然の災害の脅威に飲み込まれる他者一般に対してさえある者は「ざまあ見ろ」とまで思うかも知れない。それは自らの不幸を他者にも味合わせたいという不遜な気持ちからである。この時彼は他者一般と対峙して、自然に対しては感謝している。しかしこれが長期持続すると深刻な精神病理状態となり得るだろう。あるいはあまりにも自分の心理状態が惨めな時には、私たちは自分にだけ神が語りかけてくれ、自分にだけ味方してくれるのではないかという幻想さえ抱く。
 これは借金を背負い、債権者から夜逃げする人にとってもそうだし、警察に追われ逃亡する犯罪者にとっても同様の心理であろう。
 人間には自分だけは助かるのではないかという漠然とした楽観性があり、そのことを精神分析では全能感と呼ぶ。これもいずれ脳科学が何故そのような気休めを私たちに与えてくれるのかという機能が解明されていくかも知れない。何らかの脳内物質、例えばドーパミンとかと関係があるのかも知れない。しかしその時でも哲学的に対峙とか共有ということは常に考えられ続けるであろう。何故ならどんなに脳内物質が解明されても、その脳内物質を有効利用しようと私たちは考え、それは私たちの意志によってしか達成されないからである。意志そのものも脳内の作用によってなされ得ると言えるだろう。しかし私たちは自らの意志を待つわけではない。そういう気持ちになるということと同時に、そういう気持ちにならなくては、とそうも思うのである。だから脳そのものの能力と対峙するという風に、意志的に脳を利用しようと思う時私たちの心理はなっていると言える(依怙地)。それに対して、脳の能力と私たち自身が共有しようという気持ちになっている時、私たちは案外不安ではなく何かに切迫されていると感じているでもなく、寧ろ心穏やかに充実している(素直)とも言えるのではないだろうか?(了)

参考文献

稲垣諭「衝動の現象学」知泉書館刊
ルドウィッヒ・ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」藤本隆志/坂井秀寿訳、法政大学出版局刊
中島義道「狂人三歩手前」新潮社刊「たまたま地上に僕は生まれた」筑摩書房刊「悪について」岩波新書「怒る技術」
ミシェル・アンリ「現出の本質」北村晋/阿部文彦訳、法政大学出版局刊
マルティン・ハイデッガー「存在と時間」原佑・渡邊二郎訳、中公クラシックス
サイモン・バロン・コーエン「共感する女脳・システム化する男脳」三宅真砂子訳 NHK出版刊
永井均「<私>のメタフィジックス」勁草書房刊「倫理とは何か」産業図書刊
オイゲン・フィンク「存在と人間」座小田豊/信太光郎/池田準訳、法政大学出版局刊
ジョン・ラングショー・オースティン「言語と行為」坂本百大訳、大修館書店刊
リチャード・ドーキンス「利己的遺伝子」「神は妄想である」垂水雄二訳、早川書房刊
エトムント・フッサール「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」細谷恒夫・木田元訳、中央公論新社刊
ジャン・ポール・サルトル「存在と無」松浪信三郎訳、人文書院刊
フリードリッヒ・ニーチェ「この人を見よ」手塚富雄訳、岩波文庫
吉本隆明「共同幻想論」角川文庫
プラトン「国家(上9)」藤沢令夫訳、岩波文庫
茂木健一郎「意識とは何か」ちくま新書
和田秀樹「<自己愛>と<依存>の精神分析」「壊れた心をどう治すか」PHP新書
「人は<感情>から老化する」祥伝社新書
大森荘蔵「時は流れず」青土社刊
Peter Frederick Strawson Naturalism and Skepticism
小此木啓吾「自己愛人間」ちくま学芸文庫
ブーバー‐ロジャース対話 ロブ・アンダーソン+ケネス・N・シスナ編著 山田邦男監訳 今井伸和+永島聡訳 春秋社刊

 付記 今回で「羞恥論‐素直と依怙地<衝動論第二幕>」を終了致します。暫く休暇を頂き、再び別の論文「時間・空間・偶然・必然 意識という名のミーム<科学で切る哲学、哲学で切る科学」を掲載更新致します。論文は中ほどに幾つか未だ未完成箇所があり多少更新に時間を要する場合があることをご了承下さい。(河口ミカル)

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