Friday, November 20, 2009

〔羞恥論‐素直と依怙地<衝動論第二幕>〕第二節 依怙地でなければならない時

 羞恥とは隠蔽するからこそ悪となり得るのだ。そして哲学的悪とは必ずしもそれをするべきではないとは断定出来ないということだ。つまり必要悪ということはあるということだ。そしてこの節ではこの必要悪をより深く掘り下げたい。そしてこの場合素直であることは抵抗することであり、他者に阿らないことであり、ある時には攻撃することであるということである。
 それもそうであろう。通常大人社会では素直であることだけが態度として善であるとは決して認められることではないどころか、積極的にそういうことの方がより少ないのであり、真意を全て告げる者はこの社会から葬り去られるというケースの方が殆どである。
 寧ろ真意を告げることがより有効なケースとは社会的な成功者のみである。彼らにおいては、寧ろ演技したり、偽装したりする権利を主張するよりも、より真意に忠実に発言した方が信頼されるということがあり得る。それが世人一般の求めるところだからである。
 素直に真意を語ることとは敬遠の対象となるということを覚悟しなくてはならない。それは国家であれ、省庁であれ、法人であれ、要するに何らかの集合体のトップリーダーに関しては完全なる真実である。つまり彼らは端的に自己によって宣言したことや、既に彼の外部から半ば要請として強制された要望に忠実に、決められた信念によって行動をすることが求められており、その責任において、仮に億劫であっても、より困難に感じられていたとしてもその真意を告げることが許されないということがあるのだ。つまり彼らは端的に依怙地であることだけがある部分では求められているということである。
 例えば弁護士事務所を開設したばかりの経営者である弁護士のチーフは、恐らく対外部的には全くクライアントが訪れない場合でも、多少の誇張を伴って「色々な顧客の方がお見えになられます。」などと偽装することだろう。それを馬鹿正直に全く誰も来ませんと報告する者はいない。このような虚勢的な偽装報告は日常生活では随所で散見されることである。要するにどういう局面は真意を告げたり、真実を報告したりした方がよいが、逆にどういう局面では真意を隠蔽し、真実を報告することを絶対してはならないかということは、極めてその判断が難しい。だから依怙地という表現には語感的には、そのように意地を張る必要もないのに、そうしてしまうというニュアンスがあるが、経営をスタートさせたばかりの弁護士事務所のチーフにとっての対外的な偽装とは責務であり、端的にそれを依怙地とは言わないだろう。しかしある意味では資本主義社会であっても、その経営とか経理といったことにおいては依怙地になることもあるし、だからこそ逆にあまり今後の経営に自信のない場合は退陣するとかそういう潔さが本当は求められている場合もあるのである。しかしそうなかなか潔く決断出来ないのが人間なので、どうしても対外的なポーズを常習的に採ってしまうということもあるのだ。
 つまり公的なこととして責務と依怙地ということを履き違えるということがあり得るのであり、公的である筈の決断が私的なものになるという危険性があるのだ。そして依怙地であることとは私的なこととしては、あまりそれを連続していやっていると端的に自己を窮地に追い込むようなことを招く。本当のこと、つまり素直に自らの弱点を認めることが出来なくなるので、次第に精神的に窮屈になっていくのだ。だから逆に本当に自己の権利を守るために奔走しなくてはならない時とか、一歩後退することが許されない時というのは、依怙地であらねばならないものの、語義的には依怙地と言うよりは、決然としていると言うべきかも知れない。しかし決然であるとする意志とか決意とは、実は依怙地になろうとする意志と決意によって顕現され得るとも言い得るのだ。
 だからこう考えてもよい。通常あまり他者に対して攻撃的である必要性に迫られていないようなタイプの、言ってみれば善良っぽい対応だけで世間を渡ってきた者が、いざ本当に対他的に決然とした態度を特定の他者(大概が敵対する感情や利害を持った者であるが)へ示す必要性を感じた時というのは、かつて自分が依怙地になって失敗したこと、例えば素直でなかったばかりに損をした経験が逆に役に立つこともあるということである。自らの成功体験がいざとなって時に役立つこともあるが、往々にして成功体験によって得るものが多いのは、自らは一層落胆しているような時のみであり、寧ろ自らの失敗体験によって得るものとは、意外と決然とせねばならない時の方であり、そういう時は端的にかつて自分が他人に示したことのある悪の部分の行動なのである。つまり依怙地となって散々な目に遭ったという経験が逆に悪をもって悪を征す場面では役立つのだ。こういう時帰却って善良っぽい行動だけで対処してきた紳士的性格の人間は往々にして立ち往生するか、決然と出来ないばかりに何ら踏み込むことの出来ないまま自らが相手の思うままに利用されて悔しい思いをしながら、諦めるということになることが多いのだ。
 つまり依怙地であるということは、通常時では損をすることの方が多いし、素直な者の方がより得をすることが多いのにもかかわらず、非常時には極めてこの種の捻くれた経験が役に立つということである。
 勿論依怙地にならないで済む場合も多いし、却って自己内の悪の部分に必要以上に目覚めてしまったが故に損をすることになる場合も多い。しかし一度もそういう悪を発揮せずに、何をやっても損をするようなタイプの人生を送ってきた者にとって、依怙地になることで、相手が納得したり、それまで仕掛けてきた悪辣さを引っ込めることだってあるのだ。そういう風に功を奏した場合我々は明確に相手に対して本来なら悪辣な依怙地を仕掛けただけのことはあると溜飲を下げることが出来る場合もあるということである。
 この種の事例では、日頃のビジネスシーンにおける同僚間のジョークとか、皮肉とか、アイロニーとか、適度の敵対者に対する挑発という意図は、功を奏せばある程度の効果を持って寧ろそれ以前までの善良さだけで対処してきた人間関係に風穴を開けることに繋がる場合も多いのである。だからと言ってこの方法は多用すると墓穴を掘る場合があるから、効果的であった場合であればあるほど一回で打ち止めにしておくに限る。つまり依怙地さを発揮して他者を挑発して効果的なのは、一回こっきりということである。つまりそれ以上数回も仕掛けると、今度は仕掛けた方がより犯罪的意図のようなものとして受け留められるようになるからである。それは私たちが日頃冗談も度を過ぎると嫌がらせとかいじめにも繋がることになるということでもよく理解しているのではないだろうか?
 政治家はこの適度の他者に対する揶揄とか仕掛けること、ジョーク的な中傷の仕方が巧い方がより政治的指導力を発揮し得るということも言い得る。だからそれが極度に下手で効果的に仕掛けることに自信の持てないタイプのリーダーはそういうことを一切しないで済ます必要があるが、それでも慣れというものにとって多少の依怙地的悪辣さを発揮しないではいられない局面というものと必ず遭遇するものなのである。時には自分の不器用さを守るために悪辣な他者からの挑発や仕掛けに応報する必要がある。
 依怙地であることとは、ある意味では信じたいということ、あるいは信じられないということを極度に嫌う状態である。だから例えば信じていた者が自分に対して、あるいは自分が愛する者に対して邪険な態度を示したとしよう。しかしその者は、自分にとってそのような態度を採る筈がないという先入見があるから、当然その行為をそう振舞っているが、それは何らかの事情によってそのように演技している、あるいは邪険な態度を装っているのだと思い込もうとする。すると、その者の本来とかけ離れた自分に対する態度を依怙地に偽装であると信じるようになる。しかしよく考えれば相手を尊重するということは、尊重しているのにそうではない者が採るような態度を示したり、人権を無視したりするような行動に出るということがないということなのであり、尊重しているの邪険な態度で応対するということは語義矛盾なのである。
 例えばある異星からやってきた宇宙人がいて、人間と同じように対話することが出来、たまたま地球上での対話に彼が同化したとしよう。しかし彼の星では演劇とか映画とかドラマというものが一切ない文明だったとしよう。彼はあるホームドラマを観て、そのキャストの女優が途中で役割上死んだとしよう。しかし別のあるドラマでは元気に会話しているのを彼が観て「おかしい、彼女は死んだ筈だ。」と主張したとしよう。するとそこにいた地球人が「それは別のドラマのことでしょう。」と言ったとしよう。そしてその時初めて異星人である彼は自分の星の文明にはないのでドラマという語彙を覚えることがそれまでなかったことに気づき、「ドラマって何のことですか?」と尋ねるだろう。しかしそれを聞いた地球人は「そんなの冗談なんでしょう?」と尋ね返す。しかしその時「だって、さっき別のチャンネル(その語彙は意味を理解し使用することが出来る。)で観ていたら、そこで彼女は臨終を迎えた筈だ。」と真顔で主張する。この時地球人はその真顔であり別のドラマで違う配役をしているということそのものを理解していないからこそ真剣に彼女が女優であり、演技で死んだ振りをしていたことを理解していず、本当に死んだものと理解していたということを知るのだ。つまり彼はドラマというものが配役に俳優がなりきっている見世物であるということを理解してないということに気づくのである。そこで彼は異星人に対してドラマとドラマを演じる俳優というものについて文明の一つの様相である演劇文化とか映画文化について語り説明し始める。しかし彼が真剣に異星人に対して啓蒙する気になったのは、彼が真顔で彼女が死んだことを別のチャンネルで知ったことを告げるその表情とそれなのに今つけているチャンネルで別の役で出演しているその女優が生きているということはおかしい矛盾する、まさか彼女の幽霊ではないのかと訝る彼の訴えそのものが「何かを信じることが出来ない」という事態と完全に合致しているからなのである。
 つまりある感情を抱くということと、その感情を表現するということ、つまり態度や仕種、表情や会話する言葉の意味内容といったもの全ては必ず志向的に同じベクトルを示していなくてはならないということなのだ。だから逆にある者が抱いている筈の感情と全く異なったその感情の表現と真逆の態度や言説がその者から示された場合、それは最初に彼がこういう感情を抱いている筈だと考えたいたことそれ自体が考え違いか思い違いか勘違い、あるいは判断ミスであったと考えることは極めて自然である。それが素直にその者の感情を理解するということであり、本当は自分のことを尊重しているのに、態度や別の他者がいる状況で自分に対して侮蔑的な表情や言葉をかけるということは感情とその表現というレヴェルから言えば矛盾しているのである。だからその者に対して自分に対して尊重している筈であると信じていた場合、そうではない態度や表情、言葉をその者から得た場合、その者の自分に対する感情が暫く会わない内に変化したのだろうと考えることは自然である。しかし私たちとは本当は仲がいいのに仲が悪い振りをする必要がある場合もあるし、その逆で本当は仲が悪いのに仲のいい振りをする必要がある場合、例えば演技ということはあり得るということを知ってもいるということである。それと同時にもし異星人がどんなに説明されても演劇とか映画という表現上でのフィクションそのものの存在を意味あるものとして信じられないのであれば、どんなに彼(地球人)が異星人にその演技と俳優ということを説明しても、依怙地になって「いや彼女が死んだところを私は確かに別のチャンネルで確認したのだ。」といつまでも言い張るに違いない。そしてそのような主張がどんなに依怙地に見えても本当は素直なだけで、演劇とか映画とかでの演技上での虚構という現実に対する非理解という彼の感情に、その依怙地な主張とか、彼固有の演技とか俳優という現実に対する「信じられない」ということ、「何故本当ではない振りをするそんなものを地球人は見たがるのか」という疑問に対応した態度とか表情とか言葉としてそれらの言説は極めて自然に合致していると言えるだろう。
 しかし重要なこととは、その異星人は、まず俳優の演技ということを知った上でそれを楽しんでいたのではなく、端的にその振る舞いが本当のことであると思って観ていたということである。そのように演技とか虚構を本当のことであると信じ込んでしまうということについて次は考えてみよう。
 実際には好きな人に対して本当の気持ちを告白することが出来ずにいるということ、あるいはとりわけ若い世代の女性が好感を持っている男性に対してつっけんどんな態度で出るというようなことはあるかも知れない。しかし本当に好きではない相手に対して好きである風を装うということは少し矛盾している。つまり好きであるように振舞うということは、本当は好きではないのだが、例えば凄く尊敬し、感謝している両親から薦められてあまり乗り気ではないのだが、そのことを表立って告白することを躊躇して、ある縁談を快諾するように振舞っているような場合に考えられることである。しかし結婚することになる相手に対して抱く乗り気ではない感情を態と押し殺すような場合にこそ、私たちは好きである風を装うという表現を使用する。しかしそういう場合本当の気持ちは振舞いから乖離している。だが本当の気持ちを抑制する願望がより強い場合には、その振舞いや装いの方が自分の本当の気持ちであるように考えるようになる。するとその本当の気持ちに蓋をしているような場合、周囲の者たちがその振舞いや装いの方をてっきり信じてしまい真意に気づくことなくその者の振舞いや装いをやり過ごしてしまうというようなケースなら考えることが出来る。だから逆にその振舞いや装いを振舞いであり装いであるように見抜くということが、その者の真意を汲み取るということになる。だから逆に本当は我が子が自分たち両親の意を汲んで真意ではある相手と結婚することを全く望んではいないのに、自分たちに合わせて合意している、真意での乗り気のなさを隠蔽しているような場合でも、「いい子」を振舞う我が子の態度に感銘を受け、我が子の結婚をする意志を真意であると思いたいというような場合、往々にして自らの事業のためにある相手と我が子が結婚してくれるという理想的状況を前にして、本来なら両親とは我が子の幸福だけを望むべきものなのだがその子の「いい子」振りがあまりにも自らの実利に合致しているので、我が子が自分たちに気を遣うことに甘え自己欺瞞に陥り我が子の振舞いを振舞いとしてではなく、真意であると思いたいので、そのまま受け取るというようなこともあるかも知れない。それだけ人間は自らのエゴイスティックな願望に忠実であること、とりわけ実利的なこととしてはそうなりがちであるということである。しかしそういう我が子の振舞いに甘え、子どもがもし不幸になっていったのなら、その時我が子の配慮に甘えた自分たちの考えに対していつしか後悔する時が来るかも知れない。
 しかし問題となるのは、自分の遺伝子を持った子どもの幸福とは自分自身の幸福とは違うということであり、それはある時には自分自身の幸福とも対立するということを知り、しかし自分の幸福よりは子どもの幸福を願うか、それとも自分の幸福を願うかという選択肢が存在するということなのである。性行為というものを自らの遺伝子を持つ子孫を生み出すための行為であるとして割り切るなら性行為に纏わる快楽は然程重要なことではなくなり、射精し、その射精された精子が相手の子宮に着床すればそれでよいということになったり、射精された精子が自分の子宮に着床されてくれればいいのであり、自分が相手が射精する瞬間に然程性的快楽がなくても大した問題ではないということになったりする。しかし人間はその快楽が半減することに不平感を抱くようになる。と言うことは、すなわち人間は自分の遺伝子が自分の死後に残存すればそれでよいのではなく、自分自身が生きている間に味わえる自分自身の身体を通した幸福を求める生き物であるということになる。だからこそ性行為を相手との密着感を味わうためのものであるという意味ではボノボと同じように生殖目的ではない性行為をすることを正当化するに留まらず、性行為の際に介在する固有の快楽を求めることすらも正当化するようになる。
 アメリカのテレビドラマで「エンジェルズ・イン・アメリカ」(アメリカ・カナダ制作)というものがあった。(マイク・ニコルズ監督)このドラマには主に一組のゲイのカップルを中心に、その周囲の妻、そのカップルの一人がエイズに感染して死に直面している時に、そのパートナーに接近する潜在的ゲイ的傾向者、そしてその妻(性的欲求不満を抱いている。)、そしてその潜在的ゲイ的傾向者にとって上司のゲイの悪徳弁護士(エイズに感染している。そして自分の資産で高額なエイズ治療薬を沢山保管している。)、そして彼(潜在的ゲイ傾向者)の母親といった人間関係と人間模様が描かれていた。しかしこのドラマで最も主張する役割は、エイズに感染したカップルの男性の元カノであり、悪徳弁護士のかかりつけの看護士ベリーズである。彼は性接触を持つことはあっても、決して生では接することなく、入院している悪徳弁護士が吐血した時も冷静に手袋を嵌めて彼の治療を施す。要するに彼は理性論的には自らの生存を義務として捉え、しかし性的快楽追求(勿論それは精神的であると同時に肉体的である。)のためには自らをエイズに感染させないような配慮を常に怠らないでいて、相手と性交渉に臨む時も、そういう意味では醒めている。ではこの男性は果たして相手に対して懐疑的であるから愛の実践において道義的に劣ると言えるのだろうか?少なくとも相手に対する配慮を重んじるばかりに自分までがエイズに感染することを阻止する理性を持ち、エイズを蔓延させることを予防して、自らの生命を持続させているという観点からは彼は賢明であると言える。しかし同時にそれを徹底させている限り、逆に相手の心情云々よりも、自らの性的テイストを満喫させるためにのみ性行為を行なっているという限りで彼は心情的には不純である。つまり彼は責任倫理に徹底しているのである。
 自分がエイズに感染しても、自分の息子や娘がそうでなければ、別に構わないという感情もあり得るだろう。例えばエイズに感染した相手を愛した息子や娘の代わりに、その感染した相手のパートナーを買って出るという選択肢もあり得る。しかし同時にどんなに自分の子どもが幸福であっても、自分自身は不幸であることは耐えられないとする人生観も成り立つだろうし、息子や娘がどんなに健康であっても、自分自身が死に直面していることそれ自体はどうにも耐えられないとする気持ちもまた自然である。それは結局のところ、人間は自分を中心に展開される人生を基軸にしかその在り方を考えることが出来ないということに帰着する。
 「エンエンジェルズ・イン・アメリカ」で示されていた性行為と愛情というワンセットとなった実行に対して、性行為を快楽のためのものとするということと、性行為を相手に対する愛情ということにする(それはゲイでもあり得る。)ということのどちらに比重を置くかという選択肢、つまり性行為は相互に自己快楽を追求するためのものであるなら、自分がエイズに感染することを予防することが最も望ましく、しかし相手に対する心情的な配慮に徹するのなら、自己予防的な理性は二の次であるということになる。責任に比重を置くか、心情に比重を置くかということについては、他人であれば前者を、自分の肉親であれば後者を選択するということが最も一般的な考え方ではないだろうか?だから他人の誰と性的接触をする時も必ず性病予防には余念がないということと、エイズに感染した相手を愛した息子や娘の代わりに、その感染した相手のパートナーを買って出るという選択肢は両立し得ると言えるかも知れない。
 この場合依怙地であるということは、自分の下す判断を絶対的に正当化して、後悔が出来る限り行為遂行後に少ないようにしようという心理において自然(素直)である。他人に対しては自己保身を責任として、社会的に正当である権利として認識し醒めた待遇を他人に対しては施し、且つ自分の遺伝子を分けた存在者に対してはよりその遺伝子存続を目的とする遺伝子レヴェルの判断=心情を優先し、自分よりも我が子の幸福を優先するという選択肢は存在する。しかしもし自分の子孫に幸が及ぶことを選択しても尚、それで自分が不幸になることはそれはそれで耐えられない(若くして親となって自分の幸福にあまりにも結婚生活が支障をきたす場合離婚を選択肢するということもあり得る。)という考えがあってもそれもまた自然である。そしてこの場合両方の選択肢が自然なものとして依怙地にそれを主張すること自体が素直であるということになる。つまり素直であるということは拒否においては依怙地であることそのものが素直であり、相手の願望が自分の願望と一致しているとして受け容れることを望む場合のみ素直に素直であることになる。自分の息子や娘が自分の思い通りになるということは、当事者が無理をしてそうしている場合でも、自分の意を汲んでくれているという事実が、自らの理想とか願望に沿ってくれているということで、仮に我が子が幸福である振りをして親の意に従う場合その子自身の幸福とどれだけずれているかという判断を曇らせる場合も多々あり得ることなのである。要するに人間は自分が望むような結果を示してくれるということに対して受け容れることを拒否することがなかなか辛いと感じる生物なのである。勿論「リア王」で描かれたようなタイプの親子の情とか絆というものも他方ではあり得るのだが。このドラマの場合振りをしない関係こそが、最も相手に対する愛情であるという考えが潜んでいる。
 ここで考えを纏めておこう。
 愛があるから通常私たちは相手(性的パートナー)を愛でる。愛撫する。しかしエイズにかかっていてもそうするか?エイズに共に感染することは本当に愛と呼べるものなのだろうか、ということは、ある意味ではキリスト教倫理にも関係してくる。愛とは他者に対する責任ではないのか?そう考えることも出来るからである。
 この場合キリスト教的には自殺を阻止させるモラルであり、要するに生き続ける意志である。
 しかし性的振舞いをすることに纏わる快楽が肥大するということは、ある意味ではこの種のエイズに罹った者とは生では性交渉を持たないという知恵と関連してくる。そしてそこまで行く(つまり性行為で得られる快感自体を相互に追求することがエイズに罹らないように注意する知恵と結託する。)とそれを愛と呼べるのだろうか、という疑念が生じる。つまり自己肉体の快楽を得ることをするために、異性愛情表現であるところの性行為を選択するからである。これは一種の肉体維持のためのエゴイズムではないのかというもう一つのキリスト教的原罪の観念が浮上する。
 ここでこう考える。エイズ感染者に対して、その者が愛する性的パートナーであっても、性行為、キスといった全てを頑なに拒否する(依怙地)ことは、責任レヴェルからは愛と呼べるだろうが、表現レヴェルでは愛とは言えない。愛する者同士が愛する振舞いをすることは自然であるという真理には悖る。何故ならエイズ感染の肉体とは、性行為を生ですることは憚らせるものであるという観念には、必然的に死者の肉体と性行為をすることを禁じることに通底するものがあるからである。しかしエイズ感染する恋人や配偶者は未だ紛れもなく生きている。
 しかしそこには行為目的論的な意味では「せめて私だけでも生き延びて、未来においてエイズで死すこの者の生きていた間の行状を他者に伝えていく」という使命に忠実であるとも言える。つまりエイズ感染者の性的パートナーとの接触を拒む者の心理と見解には、死者の肉体に対する性的接触に対する拒否という選択ではなく、生きているこの者の「精神の存在の意味」を伝達するということに主眼があるからである。ここで思わぬところから未だ潰え去っていない心身二元論が出てきた。ここに纏めると二つの選択肢が見解として示される。
 
 ① 責任ある愛(自分だけでも感染せずに生き延びてエイズで死した者のことを別の他者に語り続ける。)を依怙地に愛する者との生の接触を拒否することを選択する。
 ② 愛する性的パートナーとの生の性交渉をしてでも、表現ある愛を遂行する。その結果エイズに共に感染することになってでもその愛の表現を大切にする選択肢を採る。(これをジュリエット型の選択肢と呼ぼう。)
 
 ある意味では②のジュリエット型の選択肢は、愛とは、愛する者の死をもって終わりとする、寄り添い必定型の選択肢であり、心情倫理的な考えである。そしてそちらの側からすれば①の選択肢を潔癖であると言うよりは寧ろ薄情であるとするだろう。ここで図らずも私たちはこの二つの選択肢において、前者は心身二元論を無意識の内に選択し、後者では心身一元論を無意識の内に選択肢しているということに気づく。ここに愛することは愛する振舞いであるとか行為であるということにおいて、それらしい仕方だけではないとする前者と、いや常套的ではあっても、やはり自然であるという意味では後者であるということや、愛している振りをして愛していない場合もあれば、逆に愛していない振りをして愛する場合もあるということを私たちに喚起させる。だが少なくとも依怙地であることと素直であることは、ある一面だけからは総体的には理解し得ないということだけは確認出来たのではないだろうか?
 しかしここで問題となってくるのは哲学的定義の問題でもある。例え従来の哲学では①を理性とか、意志と呼び、②を衝動と呼んだ。そのような語義上の使用の仕方という意味では例えばJ.L.オースティンも変わりない。(「オースティン哲学論文集」坂本百大監訳(J.O.アームソン、G.J.ウォーノック編)161ページを参照されたし。この後の記述に関しても概してこのページに示された記述が元になっている。)しかし私は①をもそれ固有の衝動によるものと考える。それはある部分では極度に羞恥によって招聘された態度であると同時に、自己保身的な実利主義的な判断でもあるが、それら総体を衝動の一典型として捉えることを提唱したいのである。オースティンは明らかに自分が経験したことしか他人がすることにおいて理解することが出来ないということについて、ある感情を他人が確認して、それこそが怒りだと自分に対して提言したのと同じように、怒りだけではなく症状をもそのようにして理解するのだとしても、症状にして必ずしも他人の症状を自分自身が経験することなど出来ない場合もある(例えば男性とは妊娠出産は経験出来ない。)ことを鑑みると、それは総じて例えば味が他人と自分が相同の感覚で享受されているかどうか確かめようがないような意味で、私たちは他人の怒りも、症状も完全に理解することが出来ない以上、その怒りの感情や症状の痛みそのものを、そういう振舞いをしていることを確認して判断するしか手がない。ならばいっそそういう振舞いをすることを喚起するある種の意志伝達的なものも衝動と捉えられないだろうか?それを本当はそういう風に振舞わないで、自らの怒りをあからさまに表に出さないでいる場合、その怒りをオースティン流に言えば<信じている>と言い、そうではなくあからさまに他者が理解出来るようにそれ流に怒っているように振舞うことを<知っている>と言うとしても、前者が他者存在に対する配慮による羞恥(依怙地という名の)によるものであれ、後者を他者存在そのものを慮り過ぎていることを悟られることに対する前者とは逆のベクトルによる羞恥(素直という名の)だとしても、私たちはこの二つに関して前者を理性的判断そして後者を衝動と安易に識別してよいのだろうか?それはある感情に対する他者存在を考慮した(それは意識的であれ無意識的であれ)即時の判断であることを考えれば、この両者を衝動の性質の違いと考えた方がより哲学的に自然ではないだろうか?
 つまりその時々の衝動の性質によってある時には他者に対して怒りを表現することを憚り、ある時には怒りを表現することを躊躇わないということである。それは全く症状による病んだ状態そのものに関する表現をすることを憚ることとそうではないことでも同じことである。
 要するに衝動とここで私が言いたいことというのは、素直であれ依怙地であれ、そういう態度の示し方そのものを即座に判断させる内的な感情と判断の入り混じった根幹の対他的な処遇を喚起するエネルギーのようなものである。それは何かに対して素直であるということは一面では別の何かに対しては依怙地であることを、逆に何かに対して依怙地であることは一面では別の何かに対しては素直であることを意味するという結論へと私たちを導く。要するに素直であることにおけるその志向の先と、依怙地であることにおけるその志向の先そのものを決定させるものとして私はここで衝動を考えているのである。そしてその衝動は前作でも詳しく考えたように経験と記憶が関わっている。

 デネットが言う(「心はどこにあるのか」土屋峻訳、思草社刊)ように私たちはエレベータがあればそのボタンを押し上がったり下がったりするものと信頼してビルで利用する。通常エレベータとはそういうものであり、映画の撮影のために誂えられたセットのビルであり、そのエレベータのボタンを押してもエレベータはその階にやってこないし、扉は開かないかも知れないとは思わない。フェイクのエレベータである可能性とは、そういう厄介で紛らわしい代物を拵えて得になることなどないので、そのビルのオーナーがそういうことをする可能性というものは一切ないだろうと勝手に考えるからである。つまり我々は都市空間において、それらのインフラを利用出来る公共の機材であると捉え、それらを全て誰が利用してもよいものという通念を持って生活している。しかしいざ便利な乗り物でもそれが事故を起こせばその車や飛行機に乗っていたことが不運であったと遺族は嘆き、その乗り物を運用していた社を訴えるのである。しかしこのことはよく考えてみると極めて奇異なことではないだろうか?
 ビルでも私の所有である場合、中に入ってエレベータのボタンだと思って押してもうんともすんとも言わないという可能性は常にあり得る。尤もどんなに私有地に立てられたビルでも一定の高さがあればエレベータの設置が義務付けられているので、それをしない場合(例えばエレベータを設置しない)法的に違法ということになる。これは端的に法治国家と法の遵守ということ自体に対して我々一般市民の側からの信頼を規準に私たちの社会が整備されているということを物語っている。あるいは少なくともそうあるべきだという通念が我々を支配しているということを意味する。
 同じテクストでデネットは人間以外の動物に人間の思考と共通するものがあるか否かという論争について触れている。そのことについて私は親友のK氏と対話した。その時氏は私が「デネットも言っているけれども、人間っていうのは何かに熱中している時でも恐らく動物のようにそのことだけに意識が完全に集中することなどないのではないか?」と問いかけた時、「でも、スポーツ選手っていうのは、動物に近づくことを目標としているわけだろう。」と私にそう述べた。しかしそのことは人間という生き物は限りなく動物に近づくことは可能だけれども、完全に動物のようにある行動をしている時完全にその行動にだけ意識(それを意識と呼ぶべきか否かそれ自体も問題なのだが、そのことは取り敢えず不問に付すとしても)が集中するということはないのかも知れない。だからこそ没我とか忘我とか一如というような物言いが存在しているとも言える。すると信念というものは例えば先に述べたエイズに罹った愛人やパートナーに対する処遇を巡る愛の表現に纏わる生の接触を拒むか病気になる以前と変わらずに接するかという選択肢のように、一つの事実に対する判定というものそのものにあるバイアスのかかった主観が介入してくるということが言える。それはその判定をする者の立場、その時々の状況的判断、気分、各種衝動が影響を与える。そのこととスポーツをしている時に国民やファンに対する期待に応えるということに対するプレッシャーにも共通して言えることである。極自然に振舞うとか、緊張せずに伸び伸びとプレイしたり、走ったり、泳いだりとかとは一体どういうことを指すのだろうか、ということがアスリートたちを日夜苦しめる課題となる。
 ヘーゲルが提唱してサルトルが発展させた対自という概念も、そのような目標や価値論的な理想として没我、忘我、一如を示すことはしても、それはあくまで完全到達不能地点かも知れないということは言えるのだ。そうすると信じるということは、信じたことによって途方もない処遇を受けた(例えばいつものように家族が乗った飛行機が墜落したとか、列車が脱線転覆事故を起こしたとかのような偶発的な悲劇に見舞われるとかの)場合、初めて「うかうか安全を信じて疑わない神話のように扱うべきではない」と言うような論調をマスメディアに私たちは確認することになるが、それもこれもとどのつまり人間は常に精神的には隙だらけであり、だからこそ常に自分の存在の彼方に何かを見据える、それは予定でもそうだし、願望でもそうだし、理想でもそうなのだが、要するに完成された形態、欲求が百パーセント充足された状態へと終ぞ到達し得ないということ、即ち人間は即自ではないからこそ、失敗もするが、向上もするのだという真理を今更ながらに想起させる。

 私は昨今ある哲学者の私塾に参加することとなった。そこである青年と知り合い、彼が私に「将来哲学的な人間になりたいですね。」と語ったことが印象に残っている。しかしこのことをよく考えてみると、彼は講師の哲学者の本を粗方読んでいたのだが、目標とする師の著作を読むということは素晴らしいが、そのことと自分が哲学的であるかどうかということとはあまり関係がないのではないかという思念を私に齎した。例えば私は一度として哲学科というところを教育機関では属したことがないし、自分が果たして哲学的人間であるかどうかと言えば自信はない。ある意味では哲学的なところもあるが、別の意味では極めて非哲学的であるとさえ言えるだろう。要するに哲学的な人間であるか否かは自分で自分のこととして決めることではないし、それは他者が決めることであるが、同時にそれは自分自身謙虚になる必要があるということからそう言っているのではないし、第一哲学を学ぶことそれ自体が価値論的に必ずしも善であるとか好ましいという風には誰にも決められないし、また自分で自分のことを何か目標として状態に到達したのかということに対する問いに対して「そうである」と捉えることはある意味では何かの放棄であり、それは東洋的な禁欲主義的美学からそう言っているのではない。要するにそのように「自分は一流になった」とか「よく哲学が理解出来た」という認識そのものがある種の哲学の死であるとしたら、それは人間という存在がそのように到達達成感を得ることの終ぞ不可能であるという意味でそうなのである。デネットの言うように確かに人間が言語を利用して思考するということと、動物が人間のように言語を通してではなくて考えるということは、人間の思考とどう違うのかということに関して結論は出ていないが、少なくとも彼の言うように人間はある部分では自分を動物であると思いたい(勿論生物学的にはそうであっても、この場合哲学的にということであるが)し、動物を人間のように理解したいということなのである。このことはデネット自身も触れているトーマス・ネーゲルの視点でもある。
 しかしそれらのことは、最近観た例の「エンジェルズ・イン・アメリカ」での場面の一齣を私に想起させた。ドラマでは主人公の一人であるルイーズとゲイのパートナーに呼ばれている青年ルイスはユダヤ出自である。彼はユダヤシナゴーグでの会合に参加している。そして一人のラビの埋葬にも立会い、そこでやはり参列していたラビの一人に自分がゲイである(パートナーであるプライヤーからはこの後エイズに罹っていることを告白される。)ことに苦悩して相談する。そしてその時の会話がなかなか秀逸である。(これはドラマのプロローグに当たる部分で登場する。)ルイスはラビに問う。「何故棺桶の釘を半分しか打たないままにしておくのですか?」するとラビは答える。「生き返った時に棺桶から楽に出られるようにするためさ。」そして自らのゲイとしての性交渉に関する苦悩をラビに匂わせ、彼はこの苦悩からいかにしたら逃れるかラビに相談するとラビは迷惑そうに「聖書(この場合旧約)では罪についてしか触れられていない。赦しについては触れられていないからな。しかし私はこの葬儀の帰り道でさえしんどいというのによりによって何か。」と返答する。
 ここには幾つかの真理が描かれている。それはそのラビにとって葬儀に参列するということは、それだけで大層億劫なことであると同時に、青年の悩みというものそのものが既に自分たちは関わりのないことなのだ、ということ。そして埋葬されても生き返る可能性を信じているということ(少なくとも宗教儀礼性としては)そのものに、そのような奇蹟が起きることそのものに対する止むことのない願望と、それを願望として成り立たす現実の奇蹟のなさである。
 このドラマでは度々エイズに罹った人びとの妄想の場面が出てくる。死期が近いことを認識した患者たちが幻覚を視るのである。そしてその内容が極めてモラリスティックであることが極めてキリスト教社会の重圧というものを感じさせる。しかもアメリカは国内にシナゴーグでの説教で示されているように、アメリカであってアメリカではない、約束の地であるという発想が民族毎に存在するのだ。アメリカ人であるということはユダヤ人も別の民族出自の国民も同じであるが、同時に彼らはそれぞれ別個なのである。そういう意味では依怙地であるべき部分とは同一国内での異民族間での感情的な衝突の際に顕著になるのだ。私は一度もアメリカには行ったことがない。しかしある意味では映画や音楽といった文化を通して移入されるアメリカ国内の情報に関して日本という国はかなり詳細な部分まで立ち入ってもいる。極自然に隣人が何系であれ同一国民である意識を生じさせる一方で、全く出自の異なった宗教観、倫理観を大切にするという意識も強い彼らは、ある部分では極めて巧妙に素直と依怙地を使い分けている。つまり依怙地になるべきところを心得てその上で素直に隣人と語り合うのである。そのように映画やドラマを通して感じさせるというところがアメリカのいい意味でも悪い意味でも懐の深さを感じさせる面なのではないだろうか?だからこそ次節で日本人の羞恥といこととはどういうことなのかという問いにも意味が出てくるのだ。私はまずサルトルの問う羞恥というものからスタートさせて、日本人の死生観、宗教観、時間的観念について考えてみたいと思う。

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