Monday, December 7, 2009

〔羞恥論‐素直と依怙地<衝動論第二幕>〕第二章 対峙と共有 第三節 日本人の自然認識

 日本人の行動パターンを西欧社会流に解析すると、日本人は支配階級の訓示を建前的には聞いておけばよいという考えが暗黙の知恵となっていて、そのことに対する主体論的な反感から真摯にその訓示を受け留めておこうと心に決め込んだ庶民、大衆の心理によって内向きになって意志発動抑止型の保守主義になりやすいところがある。そして日本人の支配階級とは端的に民主主義的なリーダーではない。それは非哲学的、非思索的な弱者なのである。(このことは中島義道氏が常々主張しているところでもある。)だから日本では支配階級とは概してマスコミそれ自体、ジャーナリズムそれ自体なのだ。そしてその利害は著しく政財界の利害とは対立している。
 このことは合理主義的な想念としては政財界の論理が正しいと考えているのに、心情的には昔からの地域エゴ的な馴染みの人々と、そうではない人々という非交流的、非オープンな閉鎖社会固有の不干渉主義に端を発する。実は日本社会はそれが地方にだけあるのではなく、全ての専門領域においても言えるのだ。科学者の世界、アーティストの世界、学者の世界、全部がそのような意味では閉鎖的である。他ジャンルとの交流とか他専門分野との協力よりは、ずっと相互不干渉を決め込むタイプの小集団の共存という現実の方が遥かに多い。
 つまり日本人と西欧人とでは自然認識にずれがあるのは、外敵に常に晒されてきたと同時に異民族との交流を支配‐被支配の関係で余儀なくされてきた歴史のヨーロッパとでは異なるということに起因するものと思われる。
 つまりその自然認識上の違いはこうだ。
 日本人にとって手に馴染むものというのは自然でいいという意味で自然という言葉を使う。勿論英語にもナチュラルnaturalという言葉はある。しかしそれは自然という正確な語義からの転用にしか過ぎない。日本人にとっては寧ろその転用の方が主たる語義的ニュアンスなのである。顔馴染みということもそのことと同じである。
 しかし西欧人にとって自然とは元々は神が支配する摂理とか今日の科学主義的に言えば、自然法則が支配するという意味、つまり法則秩序的という意味を示すということの方が正確なのである。
 その考え方と言うよりも生理的レヴェルの感性の違いは、集団内でどのような立ち位置を他者に示すかということについて西欧社会と日本には多少の違いを齎すだろう。例えば遠慮ということが日本人には染み付いている習慣である。目上の人に対して配慮するということは殆ど万国共通であるが、本当の意志を示すよりは、建前上の態度を示すことが多いのが日本人の特徴かも知れない。
 ではそれは何故かと言うと、やはり集団内で示すアイデンティティー、つまり個人に纏わる物語、しかもそれは決して自分で自分のことを規定する物語ではなく、自分の外部から自分に対して規定してくる自分の像の方を最優先するという心理が日本人の場合強く働く。それは一面では建前的偽装へと私たちを導くことになるが、そのような心理はやはり日本人固有の羞恥に起因するところが大きい。つまり他者に対して身内の恥を晒したくはないという心理は、共同体閉鎖社会における対他的な戦略として古来より日本人に染み付いてきている習慣だからだ。グローバリズムとかコスモポリタニズムといった考え方や習慣は本質的に日本人には定着していない。それは要するに日本的所作にとっては不釣合い、要するに不自然なことなのである。ある個人の恥は集団の恥という観念はより欧米人よりも日本人に強いだろう。
 本来エゴというものは単に対他的な自己防衛性のものなのではなく、この羞恥感情を巡る対他的な自己物語の語り方に存する。例えばルソーの「告白録」のようなタイプのテクストは日本の文献史においてはそうないのではないだろうか?ある程度その資質を裏切って見せた哲学者は中島義道氏だったと言えるだろうが、文学においては近代以降は自然主義文学等においてそれは実践済みである。しかし少なくとも江戸期以前にはそのようなタイプの文献は極めて手紙とかを除いて稀だったのではないだろうか?
 勿論西欧社会でも近代以前よりは近代以降の方がその種の恥を表に曝け出す式のものは多いということは顕著に言えるだろう。そもそも精神分析などのような学問が出現してくる必然性としてそれは近代の個の主張ということで理解することも可能だろう。しかしもっと率直に言えば、西欧社会とそれ以前の彼らの民族的アイデンティティーの礎となっているユダヤ、ギリシャにおいてさえ、我々日本人にとっては極めて異質な自己意識というものを見ることは可能である。そもそも心理学的な礎は既にギリシャにもあったし、旧約聖書それ自体が人間の性欲とかインモラルな行為に対する欲求というものを鋭く描写して憚らない。そのような礎を散見することが可能なのは寧ろ日本の古来のテクストではなく、仏典の方だろう。日本にはそもそも精神文化的な羞恥に触れる告白とか曝け出しということはなかったと言ってよい。だから吉本隆明が「共同幻想論」において示した近親相姦その他の事柄に対する言説はあくまで戦後日本社会においてのみ可能だったのだ。
 プラトンの「国家」には既に近親相姦に対する戒めが載っている。ギリシャ世界にはそのようなイメージは一見不似合いにすら思えるくらい私たちはギリシャ哲学に固有のステレオタイプを押し付けがちだ。しかし恐らくギリシャにおいてさえ、ユダヤ世界に負けずと劣らず陰惨な人間の欲望と、インモラルな行為が脱法的と言うより、法の鎧の下で堂々と行われてきたのかも知れない。同性愛などは未だ序の口なのである。つまりそのように法において実体論的には人間の所業が腐敗していても、表面的には綺麗なものとして取り繕うという知恵は恐らく全ての初期共同体からあったと思われる。
 つまり法逸脱的なことというのはあくまで反権威的な権力外階級によって齎された時初めて問題化するのであり、恐らく全ての支配階級においてはそれらの行為は建前上隠蔽されたこととして、暗黙の容認として英々と行われてきた、しかしそれは支配階級であるが故に容認されているのであって、そうではない階級の人々からそれらの欲望が要請されるや否や途端にそれを取り締まるという意識を支配階級の生じさせたということは言えるかも知れない。
 つまりそこで法という体系が、建前上支配者による被支配者に対する恩寵という形で権威づけられていったということは考えられる。つまり暗黙の容認において密かに愉悦の如く行われている内は、それは法逸脱行為とはならない。しかしそれが一般庶民にも浸透してゆき、認められて然るべきであるという欲求が大衆に浸透してゆくに従って法官僚による節制論的な法秩序が確立していくのである。
 日本の律令制度から御成敗式目に至るまでの全ての法は暗黙の容認から逸脱する支配階級のお墨付きのレヴェルから庶民レヴェルにまで浸透していきつつある兆候を敏感に察知して設えられたと考えることこそが自然であると私は思う。しかしそういったアイデアは極めて日本社会では未だに不自然であると考えられているのである。寧ろ日本人は支配階級の恩寵としてそれらを抑制する美学を実践する一部の保守主義的官僚たちによる訓示が最もよく行き渡った民族かも知れない。
 つまり隠されるとそれが見たくなるというタイプの欲求として支配階級に容認された様々な愉悦が英々と行われてきているということは、それは一旦全てを白日の下に晒したら、幻滅するほどの種類のものが多いのだろう。しかしそれはあたかもそこに特権的な愉悦が存在するかの如く振舞う中位権力者であるところの官僚たち(それは全ての専門世界に君臨する人々であるから政治家であれ、財界人であれ、教育関係者であれ、学者であれ、ジャーナリズムの世界であれ、アーティストの世界であれ存在する人々のことである。)によって一般開放されていない特権的事項のように振舞われれば、一般庶民はそこに何かあるのではないかと訝しがるようになる。しかし実態的にはそれは殆ど大したものなどないのだ。
 全ての権威とはそのようなヴェールに包む支配階級の貧困な精神性が象徴されている。そしてそのヴェールを剥がそうとする実存主義者たちの行為に対して「それは不自然だ」とするのが日本人にとって固有の羞恥なのである。それは何も性的な愉悦だけではない、全ての仕来りに漲る形式主義的支配階級の隠蔽的な所作、あるいはそういう階級の顕著な話題の質とか、要するに中位官僚たちによって時代時代に作成されてきた有職故実のことなのである。
 だがそういった隠蔽体質的な所作とか「知らぬが仏」的な知恵が蔓延すると、それは最も自然なもの、つまり日本人にとって固有の馴染みあるものとなり、それは精神的な神棚となってしまうものなのだ。
 だから最初からそこには実体論的に何ら崇め奉るべき何物もないと言い切ってしまえばよいのかも知れない。それが哲学者に残された仕事である筈である。しかし恐らくつい最近までそのようなことは哲学界においてもご法度であったし、今でも私の考えるところ一部の人々によってのみそれがなされている。
 正直に告白すると私自身は実体的に空無な形式主義的所作とか仕来りに対しての一切の幻想を抱いてはいないものの、愛する人がエイズに感染してしまって、彼(女)がもし傍にいたとして彼(女)を接吻することが出来るかどうか自信が持てないでいるのだ。それが何の躊躇もなく出来るのだと言い切れるとして、それが自然であるとするなら、その時それが欧米人であれ、日本人であれ本当の自然認識、つまり道徳的認識と自然認識が一致する地点なのかも知れない。それは理性主義とか経験主義とかの論争よりはずっと言説化不可能な領域である。

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