Wednesday, December 2, 2009

〔羞恥論‐素直と依怙地<衝動論第二幕>〕第二章 対峙と共有 第一節 一人で旅行する時の気持ちと二人以上で旅行する時の気持ち

 私たちは演劇や映画を観る時明らかにそれが嘘の世界、虚構的真実であるということを前提して楽しむ。しかし第一章で述べたように、異星人が初めて演劇や映画を観る時、彼らの文明にそういうものがないと仮定したなら、彼らは例えば二つの演劇とか映画を観て、同一の役者が出演していたとしたら、その二つの演技の違いから、しかし同じ面相から、「あの時刑事だった同じ男が、何故今は犯罪者なのかその理屈が分からない」と言うかも知れない。つまり彼らは顔とか身体の風体によって同一の人物を特定しているのに、その特定の人物が全く異なる文脈上に登場することの意味が理解出来ないであろう。しかし彼らは演劇とか映画の巧妙な術には嵌っているのである。しかしその嵌っているということを理解出来ない、つまりメタ認知出来ないのである。
 これはある意味では赤ん坊がテレビに受像された映画やドラマを観る時に、同じ役者であることを見抜くことは出来ても、それが演技によって異なる役を演じているということを理解出来ないのと同一のことである。私たちは今度は映画とか演劇を楽しむということを覚えると、今度は一々役者の顔があの時観た別のドラマでこれこれこういう役で出演していたという記憶などどうでもよくなるのである(映画とかドラマの評論家とか、その役者のファンであるという場合を別にして)。
 つまりここには虚構というものに対する固有の構えがあることが明瞭に理解出来るだろう。しかし私たちは現実のビルを見たり、現実の馬や犬を見たりする時明らかに、それらを嘘であるとは思わない。勿論旅行して自然の景観に圧倒される時、それらは人為的に作られた建造物とは違うということは意識するし、例えば古びた寺社や、神社の景観そのものが現代のビルとは異質な空間であると感じることもある。しかし少なくとも、それらは現実の姿であり、例えば映画のセットとかドラマが演じられる舞台上の大道具とか小道具とは違うということを明瞭に意識することが可能である。勿論舞台上のセットも大道具、小道具も、それ自体は現実の物体であり、本物であるが、それらを例えば岩とか、教会とか空とか認識して演劇を鑑賞し、あるいは映画の場合にはそれらが恐らくセットであろうと思いながら、そのビルが爆破される光景を鑑賞する。つまり現実の物体であるということと、その物体が何か別のものをかたどっているということを認識することを同時に脳内で理解する。
 しかし実際の風景はそういうものではない。(絵画はどうなのかと言うと、そこに描かれたポットや裸婦が本当のポットではないし、本当の裸婦ではないことを知りつつも、同時にそれらをかたどっていると認識し、かつその画布上の絵の具の塗り方や、色彩の光彩に思いを馳せる。そして絵画そのものもまた現実の物体であるという意識と、その物体上の表現を重ね合わせて見るのだ。)つまり現実の光景とは、認識する道具として立ち現われ得るのではない。それは虚構的真実に対して構えるマナーとは本質的に異なるものである。知覚そのものの読み取りということはあり得るだろうが、それらは虚構的真実の表現とか訴え性とは本質的に異なる実在感、存在感である。それは臨場感という言葉で語るにはあまりにも直撃的であり、且つあまりにも自然なのである。
 ここで自然という言葉が出てきたので、言葉の定義について考え、つまり私が与えたような定義で実は我々は日常的に色々の心的作用をしているのではないかと捉えてみたい。
 まず自然というものは、元来恐れ多いものであり、その脅威に対して克服不可能なものであっただろうが、ある時それでは駄目だと思い人間は克服対象として認識し始めた。だからこそ橋を作り、港を作ったのだ。塔を作り、城を作り、壁を作った。しかしやはり自然はそれらの我々の努力をもものともしなかった。要するに我々の存在をどこかで嘲笑っていたのだ。そして我々は気付いた。自然という言葉を言う時それは我々にとって支配に対する欲求を限りなく我々に齎しはするが、実は誰一人自然の摂理に逆らえる者などいはしないという意味では自然とは、支配に対する断念に他ならないのだ、ということを。例えば現代の地球温暖化などもこのことを示しているように思う。
 そう考えてくると、全体という概念とは、全部分に対する探索に対する断念だし、世界という概念は、全地域、全宇宙、全事象に対する観察に対する断念だ、と言うことが可能である。いや心的な全ての判断そのものが、既に綿密な理解や解析そのものに対する断念であるとさえ言える。そして過去に向けられた作用である想起にしても、全ての過去事象に対する想起の断念が常に容易に想起を可能としていることに我々は気付かされる。何故なら我々は忘れていたものやことをも、そのものを見たり、聞いたりすることによって初めて思い出すということがしばしばだからである。
 要するに<自然=拮抗し得ぬ>ということであり、<世界=把握することで観察を断念する>ことであり、<全体=認識且つ判断>であるが故に把握することで探索を断念することであるという風に言葉の定義そのものをまず考えておかなくてはならないのだ。
 だからこそ我々は一人で自然、とりわけ大自然の前にいる時には、自然の一部に吸収されていくような不思議な身体的知覚に誘われるのだ。しかし二人以上の人間で大自然の前に立っている時、どこか我々はその大自然そのものの持つ圧倒的な驚異に対して拮抗しているという意識を生じさせるのだ。それは人間という実存そのものの能力に対する可能性の認識に近い。だから自然が一つの脅威として立ちはだかった時我々は自然そのものを「私たち」によって共有されたものであるという運命共同体的な意識へと転換するのだ。それは所有することが不可能ではあるが、意識の上で共有し得るのだということでもある。つまり自然とは我々の存在、意識も身体も含めた全てが既に自然の一部であることから、必然的に支配し得ないということ、そしてその支配し得なさそのものが、私たちに教えてくれることとは、端的に支配するべきこととは、自然そのものなのではなく、我々の自然に対して立ち向かうという行為を把握することが安易なような意味で、支配も可能なのではないかということそのもの、つまり我々の心の思い上がりなのである。その思い上がりそのものを阻止するためにかつて人類は神という概念を設けたのだが、私はその神という概念そのものが既に思い上がりであると考えている者である。尤も本論ではそのことを中心には述べない積りである。(それは「意図論」<当ブロガーにて別に掲載更新中>や「言語空間と言語行為」などにおいて詳しく述べている。)
 人間は人間同士での様々な関係においてより心を砕いている時というのは、自然は人間同士によって拮抗し得る、協力して人間中心に自然を人間の側に引き寄せるべき対象となるが、逆に一人で大自然を前にしていると、特に煩わしい人間関係から逃れて大自然に身を委ねている時、私たちは自然と自然に対して素直になる。そして人間関係そのものに対して依怙地になる。誰から理解されなくてもいいという決意を自然に対して「だけど、君だけは僕の味方だよね。」と語りかける。逆に人間関係が巧く捗っている時、私たちは人間関係全体に対して素直になり、自然に対しては「今君は僕たちの安定に身を乗り出して来ないように願うよ。」と心の中ではそう呟いている。
 要するにどんなに人間社会で糾弾されている者でも、大自然を前にすれば、その大自然を味方にすることも可能だと思ってしまい、逆に大自然の脅威全体に対する憂慮は、ことに人間社会で円滑な人間関係を構築している状態の者にとって他者たちと共に克服すべき対象となる。だから昔から大犯罪者たちがどんなに人間社会ではアウトローのレッテルを張られても、神だけは見捨ててはくれないだろうと一縷の望みを抱いたりしてきたことというのは、ある意味ではこの大自然を前にした逸れ者の心境と近いかも知れない。だから人間同士の運命共同体という発想とは人間全体が自然に拮抗し得るのではないかという幻想を抱かせる(人間もまた自然の一部なのにもかかわらず)、人間を甚だ思い上がった心持にさせる傾向をも十分に持ち併せたものでもあるのである。
 要するに自然とは我々がそこから誕生してきた懐なのだが、四面楚歌の人間を包み込むこともあるし、あるいはどんな仕打ちを社会から受けても、君だけは僕の味方なのだよね、と天空を見上げて祈るような心境にも持ってゆくようなところがあり、それら全ては我々が自然を前にした時にそう思う、自然をそういう風に解釈するということから来ることである。だから当然それは正しいことをして自然に守って欲しいと捉える場合もそうであれば、社会にとって罪悪なことをしても、自然はもっと人間に刃を向けてきたのだから、僕のすることは君のしてきたことでもあるのだよね、と捉える場合もそうだということである。
 そのようなことを例えば二人の友人同士が旅行した時に視る風景とは、共有するものであるが、一人で旅をした時に視る風景とは、対峙するものであるという風にまず私は考えたのだ。しかし共有とはある意味では運命共同体として自然全体に立ち向かうという対峙であるし、逆に一人で自然を前にするということはそれ自体では対峙であるものの、その対峙姿勢そのものをも包むということから逆に自然に吸収されていく感じがするというのは、たとえ自然を前にしても我々は他者の存在を通した自己ということを考えてしまう生き物であるということを物語ってはいないだろうか?
 ここで一つの図式を提示しておこう。

①一人で自然に対峙する→自然に拮抗し得ないが故に自然の一部として自己を捉える。(自然からの吸収、あるいは自己から主体的に自然へと吸収されることを望む。)
 人間関係から疎外されている場合、自然だけを味方にする。

②二人以上で自然に対峙する→自然に対して人間同士で協同して拮抗することが可能なように思える(自然の共有)
 人間関係が円滑な場合、自然を共に克服しようとする。

 要するに①も②も、共に自然に対する私たちの心理であるが、同時にその心理には人間同士の関係の状態を、つまり孤独を必要とする心理と、集団に同化する心理をその都度変換するような具合に、不可避的に介在させているということになる。カントの「判断力批判」における自らが美しいと感じるものを他者全てに対しても美しいと感じることを我々が望むということの本質は勿論自我論的な意味合いからもあるが、自らの身体的存在としての現存在に対する覚知と認識の双方が、実は自然の一部でありながら、自然へと拮抗してゆく志向性を持った存在であることの無意識の了解の下で展開しているということそのものが、人間存在を自然>人間ということと、人間全体>自己ということを常に対比させながらやっと自己を捉えられるような内的プロセスを表しているように私には思われるのである。だから自己とは端的に人間全体の中の一部であるにもかかわらず、自然という途轍もなく巨大なものに拮抗する時には唯一味方となるすぐ上の気のいい上司のようなものでもあるのだ。人間全体とは即ち人間存在の全事実のことである。しかし同時にその気のいい上司さえ見いだせないような場合、全ての他者、他人を敵対させてでも、唯一自分だけは自然の一部であることを一番了解した存在であるという認識から、その疎外状況を乗り切ることを可能にするようなものとして自然は存在し得るのだ。自己とは自然=世界に対してさえ対峙し得る状態の自分、それが見いだせない時の自分は自分が自然の一部だと感じるということに他ならない。だから当然前者の自分では自然の一部とは感じることはないだろう。
 私は何気なく自然に対して救いを求めるようなことを神に対して救いを求めるような心理と重ね合わせて考えた。しかしこの二つは勿論違う。特に欧米では全く異なったタイプの心理として位置づけられるだろう。しかし私がそういう風に二つを重ねて捉えたのは、私が日本人であるということとも無縁ではないが、欧米人でも少なからずそういう心理で物事を捉える人もいるということからである。特に昔の哲学(形而上学)ではそうだった。しかし現代ではそれに対して異議を申し立てるタイプの論客も多い。例えば生物学者のリチャード・ドーキンスは明らかにそのタイプの人である。多くの形而上学を無二の礎とする哲学者たちは当然自然=神という捉え方を自然なものとするだろうが、ドーキンスは科学者の中でも合理的な考え方をするのにいざ神となると信じてしまうタイプの人に対して批判的なように、恐らくそういうタイプの哲学者に対しても同様に批判するだろう。そして私自身も自然=神という図式には強烈な違和感を覚えるし、神=人間の思考傾向性とか、神=幻想という風に常に捉えてきた。そしてそのことについてはこの章の第三節と第四節の結論部において詳述する積りである。
 ただ本節において重要な主張とは、端的にこの二つは何かに依拠する心理とか、救いを求める心理としては共通しているということである。そして救いを求める心理には当然対峙する心理と、共有する心理の奇妙な合一的な共進化関係が密接にかかわっているだろうというのが、私の考えである。
 しかし本節で最も言いたいこととは、例えば親しい友人と共に大自然を前にした時というのは、ある意味では極めて自然に対する脅威に額ずくような神に対する敬虔にも似た自然に対する従順な心理さえどこかに吹き飛び、自然そのものが、つまり大自然の全体が既に極めて虚構めいて見える、あるいはそういう風に捉える心理にもなっていることも多く、そしてそのような心持でもって友と一緒に大自然を目にする時、どこか一人で夜道を歩いている時のような一人で大自然に対峙している時に感じる心細さは吹き飛び、勇気と大胆さ、そして何よりも自然全体を客体化する心の余裕が生じているということが多いように私には思われるのである。しかし勿論それはかなり親しい他者との間ではよりそうであり、それほどでもない他者と一緒の場合はそれほどでもないかも知れない。
 だから①で示された自然からの吸収とは、一人でいることの心細さそのものを払拭するように我々の無意識が自動的にそうするであろうある諦観、諦念なのである。
 しかし②の自然を共有ということは二人以上の人間同士でいる限り、一人で大自然を前にした時よりも少なからず、大自然の脅威に曝された場合ですら、被害者は二人になるという意味でも、自然と自然全体を、その脅威的事実をも共有するという心理になっている。そういう風に認識していることによって我々はどこか自然全体に対してさえ、極めて精妙な作り物のような巨大な虚構を前にした時のような客観視が可能となり、要するに東京の大都会の様が別の形で田舎には残っているとばかり感じる自然の虚構化を心の中に自然と行っているのである。大自然が作り物めいて見えるという心理には親しい間柄の友人同士では尚更それら全体を二人で共有しているという妙に一人で大自然を前にしている時とは異なった心理にあり、必然的に風景全体に対する印象さえ違ってくるということは往々にしてあると私は思う。
 サルトルは「存在と無」の前半に崖の上を歩く自分が一瞬先の未来にそのまま投身する不安を描出して、未来の無ということに起因する時間論的不安、不安論的時間を描いているが、実はそれこそが自然からの吸収という無意識的で身体不随意的な想念なのである。それは心理的なものとも違い、言葉を交わす相手、つまり他者不在時に一人で崖の上を歩いている時というのは、二人でそうしている時よりも確かに不安である。未来に対して希望を抱いている時でも一寸先は闇であるような未来の不確実性というものはそれ自体が不安である。そしてその不安とは端的に人からどうされるかという不安ではなしに、自分が自分に対してどうするかという不安である。
 サルトルは精神分析に対して否定的であり懐疑的であったが、期せずしてこの部分ではフロイトが唱えた死への無意識的願望であるタナトスを彷彿させる。つまりそういう想念は恐らく親しい友人と一緒に崖の上を歩いている時には、共に「足元に気をつけろよ」とでも言い合うであろうからだ。だから自殺というのは他者と共にいる時には余程のことがない限りないことだろう。
 勿論極めて自分に対して侮蔑的な他者が自分をけしかけて、「ここから飛び降りる勇気さえ君にはないだろう」などと言われた場合ならまんざら全くあり得ないということはないかも知れない。これならまさに危険行動誘引的な侮蔑である。しかし人によっては、つまりそれにつき従うような精神状態ではないタイプの精神状態の時には、そういう相手に対して「君こそそうしてみろよ」と言いながらその者を突き落とすことさえあり得るかも知れない。非合理的な崖の上の根気試しである。だから下に見えるのが陸地であるなら「ふざけたことを言うな」と切り返すところだが、海とか川とか湖だったなら、万に一つの可能性を信じて巧く飛び降りなければ全身の骨を砕け散らし死ぬだろうが、思い切って実行することもあるかも知れない。もしその死のダイヴに成功でもしたのなら、そのけしかけた者が何か褒賞でも出すということなら、挑戦する者もいるかも知れない。
 しかしこれはあくまで例外的な思考実験である。
 だからひょっとしたら、フロイトの言っているタナトスという概念は、実は他者に対して素直に自分の非とか無能力を認めるようなタイプの素直さを排除してまで、依怙地になり自己能力誇示をその他者の口車に乗って自己劣等性をその他者に悟られまいとする極度の精神病理的な羞恥の表れのことなのかも知れない。「お前なんぞに見くびられてたまるものか」という心理に無理矢理させられ、口車に乗ってと言うより自分でも出来ると他者に対して優位を見せびらかす虚栄心から宣言してしまったが故にエッフェル塔の展望台から飛行機が発明されていない頃ダイヴに挑戦した稚拙な飛行機の発明家であるダイヴァーが大勢死んでいたのだ。

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