Thursday, November 26, 2009

第一章 羞恥の構造 第三節 日本人の羞恥とは何か

 私たちが通常伝統とか文化と言う時、それらを私たち自身の手によって守るべきであるとか、要するにそれらを我々の一つの財産として捉えることが多い。しかし伝統とか慣習とか文化といったものは一つの法であり、その法は時代と共に徐々に変化していくものであるとも言える。従って変化していくそのプロセスである現象を堕落であるとか、何らかの伝統とか文化の衰退であると言っても、それらはある意味では必然的な成り行きであるとも言えるのだ。もしそういう変化を一切赦さないものであるなら、いっそそのようなものなどない方がずっとすっきりするという観点から本節では考えていきたい。
 つまり私たちにとって伝統とか文化といったものはア・プリオリに存在するものなのではなく、ア・ポステリオリに選択するものなのである。どういうものを文化と呼ぶかとかどういうものを伝統として残していこうかという判断は極めて恣意的なものである。そういう意味では時代毎にもある程度の時代に固有の要請というものもあるだろうし、また個人毎にも異なる判断があって然るべきであろう。
 例えば言葉は徐々に変化し続けている。そういう意味では正しい言葉遣いという考えそのものが幻想であると言ってよい。勿論一定の秩序が必要であるという時代的な要請はあるだろう。しかし全て一律に何らかの法則に当て嵌めることが出来るほど一つの言語というものの成り立ちは実は単純なものではない。
例えばある文化を自ら好きだと他者に告げることを憚らないという日常的事実を考える時私たちはこう言うことが出来る。オリンピックなどの時に自国の選手を応援することと違って、例えばあるミュージシャンの音楽が好きで、その人が偶然日本人であるということがあるし、そのことに関連して言うのなら今日Bzなどの一流の音楽家が出現してくれたお陰で、最早日本人がロックを演奏したり歌ったりしても、「欧米人、アメリカやイギリスの真似だ。」などと世界中の誰も言いはしないだろう。つまりある素晴らしい作品や様式とか技術的なノウハウがまずあって、然る後にそれがどの国の人によるものなのかという事実が注目され、そしてそれが例えば日本人のものであるなら、私たちはそれを日本人の財産であるとか文化であるとか言って誇るわけである。しかしそういう判断を成り立たせるためにまず、私たちが個人でそのものを注目し、好きになったり、愛したり、凄いと感動したりといったことがあるわけである。つまり日本人が作ったものでも他の国の人が作ったものの方が優れていれば、そちらの方に軍配を上げるということは、最近でも水泳のスイミングスーツの例を見ても一目瞭然であろう。
 そして重要なこととは、最初は大勢の人によって好まれたり、評価されたりする作品や仕事があっても、それは最初はたった一人、あるいは極限られた人びとによる選択とか、あるいは注目というものがあるということであり、要するに仮に私が世間で注目を浴びているものに対して注目していたとしても、それはそれが自分にとって注目に値するものだからであり、世間の注目を浴びているからそれを注目したのでは決してないということである。そうなのだ、私たちは世間で注目を浴びている全てに常に関心を注ぐわけではなく、寧ろ好きになったものの中には注目を浴びているものもあれば(尤もある程度は注目を浴びているからこそその作品や仕事を私たちは知るようになるのだが)それほどでもないものもあるということである。そしてその点において世間に合わせるというようなことは現代の日本にはないと言ってよいだろう。
 しかし好きな音楽を聴いたり、好きな映画を鑑賞したり、好きな絵画を鑑賞したりすることに法はないが、では現代ではどのような音楽家が代表的な存在なのかと問うと途端に法的な意識になる。
 要するに法とは無意識の内にある意見に賛同してしまうようなタイプの、それでいてそれが自分の考えであると頑なにそう思ってしまうような通念も含めて私は捉えたい。
 例えば司法も法曹界もある意味では自らの判断に忠実なだけであるとは誰も思っていない。彼らの判断にも多分に時代的要請とか国民全体のその都度の反省的思潮的な傾向性に左右されている。端的にその時代のマスメディアと政治(それは何も強権政治ではなくても)に左右されている。しかもその都度の判断を彼らは自分の下したものであり間違ってはいないと確信している。
 しかし例えば遠慮がちであるが、極めて他者全般に対する配慮に無頓着なタイプの成員に対して、まさに中島義道氏の主張される(「たまたま地上に僕は生まれた」より)ように、その人だから嫌いであるというマイナスの感情とはそれ自体衝動的、生理的なものであるから理由なんてないのだが、そういう風にその成員に対して感情を抱いた場合、その者の欠点を優しく諭すようなことをする代わりに、その者が隙を見せれば一挙にその者の誠意を挫くような悪意ある皮肉や批判を繰り返すこととなっても、その悪意が功を奏せば、より快感なのでその度毎にしめしめと思い、やがてその悪意を強権的に発動する者の心理は問題児に接する教師のようになり(当然の権利と化する)、その者に対して恥をかかせることの快感に胡坐をかくようになるものなのだ。そしてその度にその者に対する揶揄とか侮辱が巧くいったと思い、自ら反省することがなくなるのだ。これもまた司法が政局とか一般世論にかなり左右されて判断しているのに(例えば裁判だけではなくどういう事件を立件するのかという警察あるいは観察判断も含めて)それら全てを自分の理性による正しい判断であると見做す自己欺瞞にかなり近いものとなる。威圧的な態度とか強権的な言説の全てはこの部類に入る。
 つまり人間は体制に順応したり、嫌いな他者の弱みに付け込んだりするような悪辣さを常に携えているということである。そして法とは順応すべき世間の潮流である場合もあれば、その者に対する規定的な思い込みにも介在している。そして法とは端的に人間の羞恥が呼び起こしたものとも言える。何故なら他人全般に対して公共的責任を常に携えているという一般意志(ルソー用語)は端的に、公共的なマナーを守らないで他者に恥じをかきたくはないという心理に根差しているからである。
 私は元来哲学者の内省的な独善が大嫌いである。そういう人種の反省的な態度とそれを清らかであると思って本質的には自己満足している風体と、それでいて自らを不幸振る態度を撲滅したいとさえ考えている。第一科学はフッサールの主張する(「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」より)ように限定された感性のみを正当なものとさせて合理主義的破綻をも齎したが、やはり総体的に見れば哲学よりはずっと人類に貢献してきたと思う。哲学的でなくても生活出来るが、どんなに哲学的に秀でている人間でも科学なしでは現代生活は送れない。私にとって思わずいじめたくなるようなタイプが哲学者タイプ然とした人間である。つまりこのように人間はぐずで弱弱しい人間をいじめたくなるような心理の持ち主なのだ。
 あなたは経験がないだろうか?体育の時間などに人より異様に着替えたりする動作がのろく、周囲の人間が規律に従って行動する時に足手まといになるような成員を見て、励ましたくなるどころか排斥したいとさえ思ったことが。これはことにチームプレイのスポーツでは顕著となる。しかも始末の悪いことには、自分がそういう風に集団の迅速な規律的行動からあぶれるタイプであると自覚している人間はより自分よりそうではないタイプを発見した時、励ますどころか寧ろ自分と同類ではないということを他者一般から悟られないように心がけ、その者に冷たい仕打ちをするようにさえなり、また自分の努力によって自分の中の他者全般に対して足手まといとなるような部分を克服した後は、寧ろかつてののろまでぐずな自分を思い出させるような成員に対していじめたくなるものなのである。実はこのような心理もまた人間の中の羞恥に根差している。勿論私は羞恥を一感情レヴェル以上の扱いをもって考えているのである。
 そして重要なこととは、何故だか思わずいじめたくなってしまうタイプの成員とは哲学者タイプの者、あまり才能のない(つまり巧みな技巧ではない)芸術家タイプの者に多く見られるが、要するにそういうタイプで自分はいいのだと開き直っている要するにタイプ然とした成員とは、その微弱な精神とのろさが他者一般のいじめたくなるような悪意を育てるのである。(その者がじっと耐えれば耐えるほどその忍従的姿勢そのものに対していじらしいどころか間抜け丸出しのその態度にいじめの誘惑を育てるのだ。)そしてそれこそ人間が自らの中に巣食う微弱でシャイな部分を垣間見られたくはないという欲望(このことではサルトルがサディストの誘惑として「存在と無」で記述している。)、つまり強がりたいという欲求に根差す羞恥というものなのだ。だからある意味では羞恥とは残虐性と隣接している。いやそれ自体でさえある。かつて日本軍の愚行などはこれに全く根差す。しかも人間は最初に弱者をいじめた者の勇気を賞賛し、共感さえするのである。そうすることで自らの中にある固有の弱さ、意志薄弱とか優柔不断に対する不安を共有し得るとしてほっとし、同一傾向の主体と結束するのだ。
 しかし私がここで言う羞恥とは自閉症とか神経症的なタイプの成員には当て嵌まらない。つまり通常の心理を持続出来る成員を基準にしている。
 つまりそういう通常の心理による成員にとって自己保身的な羞恥というものが相互に容認し合える関係を通常社会の通念ということになる。勿論悪の側面ばかりではなく通常社会にも正義も良心もあるだろう。しかしそれは私の考えでは限定的なものである。つまり自己犠牲を払ってでも守るべき正義や良心というのは仮にあるように思えてもそれは寧ろナルシスティックな美学から来るものであり、本質的には利己的な面が強い。自己内特殊的な価値規範によるものという意味でである。だから正義と言っても例えば司法が犯罪を裁く時、犯罪によって被害者が出現すると、その被害者による復讐心を煽り、ルソー的な特殊意志を発動させることを未然に防止する意味合いから制裁を代行するという意識によって法が守られているのなら、その正義は寧ろ人間の性悪的性格を周知の上で成立したものである。従って私たちは文化とか伝統と呼ぶ時も、それらは一般的には自己内の特殊意志を発動させることを阻止するようなモラルを性悪説的側面から適用したものなのである。文化、伝統、法といったものは端的に私利私欲的な欲求を抑制することによって個人の怨念を代行するような意味合いもあるのではないだろうか?要するに「私たちは概して皆こういう時こういう反応をするよね、ああいう時ああしたいと誰でも思うけれど、そうしてはいけないとも思うよね」という同意を暗黙に不動のものとする約定として文化、伝統、法とは端的にコードとして自然に張り巡らされるのである。
 では私たち日本人はどのような形で自己保身的に羞恥を介在させるのだろうか?そのことについて考えてみよう。
 私は民族固有の羞恥とは、その民族の最も密接な関係にあった隣国との折衝においてより屈辱的であったり、より劣等意識を生じさせたりという邂逅を巡る隣国との関係の記憶によるものであると考える。しかし羞恥をその場で発生させる感情論的なものとして片づけるわけにはいかないとも考える。つまり羞恥とは情動を意味づけるところの感情を誘引するようなものとしての起爆剤であると同時に、自我や誇りといった意識をも生じさせるものではなかったか?
 するとこういうことになる。民族の記憶はその民族の使用する言語が表している。だからアメリカ人やイギリス人にとっての英語が彼らの民族としての記憶を表現しているのと同じように、あるいは韓国人や北朝鮮人たちの民族の記憶がハングルによって表現されているような意味で、日本人の民族の記憶は日本語が表現している筈だ。だから日本語の構造については言語学者や文化人類学者に任せておこう。問題となるのは、言語という人類にとっても最も強力な道具であり武器である最大の他者に対して人類がどのように接しているかということ、つまり言語自体に対する民族の羞恥というものが言語行為を秩序づけるわけであり、それを言語空間という位相から捉える可能性を我々は見いだせる。
 つまり英語を使用するアメリカ人やイギリス人にとっての固有の言語に対する羞恥と、日本語を使用する日本人にとっての言語に対する羞恥とは、それぞれに固有の言語空間の在り方によって規定されているということが言える。勿論そういう言語行為を巡る文化と伝統は、先にも述べたように個人毎の判断が先験的に存在し、その判断の在り方という後天的な認識が民族の言語空間ということになるわけだが、同時に個人毎の判断という事実は、その民族の判断の在り方に依拠しているとも言い得るのである。それは恐らく同時的な相補関係にあると言ってよいだろう。すると言語空間は言語の文化や伝統にも依拠しているし、同時にその時代に固有の諸個人の判断にも依拠していることになる。
 では言語空間とは所与なのだろうか?ある意味ではそうだろう。しかし別の意味ではそうではないとも言える。つまり羞恥とは一つの能力である限り、意志とか努力以前に既に一つの所与であるという意味では各民族固有の言語空間は文化、伝統的な意味合いから所与であるが、同時にその文化、伝統というものが時代毎に固有の諸個人によって構成されているとしたら、当然それらもまた意志とか努力、あるいは固有の試みであるとも言えるからだ。それは言語習得能力そのものは人類不変の能力であるから所与であるが、個人毎に異なる言語理解能力や駆使力等は本人の意志と努力の賜物であるということからも明白であろう。
 日本人にとっての言語空間は明らかに江戸期、明治期、第二次世界大戦終了後の戦後といった三つの時代において固有の在り方をしてきたと言える。江戸期の言語空間は、恐らく室町時代以降の武家社会の完成期にあったと言えるだろう。しかし明治期に至って初めて日本人は世界的規模で言語空間の在り方を模索した。インターナショナリズムの登場である。そして戦後日本人はそれ以前の江戸期とも明治期とも異なる全く固有の言語空間を形成させたと言える。それはどういう意味においてそうなのか、それは江戸期には閉鎖的国家意識による異と他という意識、明治期は世界的規模の成員としての同と異という意識、そして戦後は世界的規模であることは継続的であるが、日本人の敗戦や侵略体験の挫折による固有のルサンチマン、つまり対自己的な羞恥の介在である。
 江戸期までの日本人の羞恥には異国に対して自国の誇りを顕示するという意識が直接的な形で表明されていた。実は今日の日本人の極端な遺伝子組み換え食品等に対するアレルギーはこの時期までの前西欧科学的固有の科学観に根差している。日本人は無農薬野菜とかそういう発想が好きだし、遺伝子という言葉そのものに既にアレルギーを抱いている。しかしこのアレルギーは世界でも恐らく固有の在り方である。
 しかし明治期にはその固有の民族的誇りに対して抱かれる羞恥、慎ましさが、世界成員としてのエスタブリッシュメントとして脱亜入応という形で工業化と生活レヴェルの先進性の獲得という形での高度成長を遂げる。そしてそのプロセスにおける大陸侵略と敗戦があり、その結果日本人は民族的誇りの顕示という羞恥から、民族的誇りの隠蔽という羞恥へと転換したのだ。だから今日の日本人の羞恥は民族伝統的なものではなく戦後に固有のものである。要するに価値倫理的に民族の誇りを顕示することそのものに対する躊躇が介在し、その躊躇が固有の羞恥の在り方を決定し続けてきたのだ。それは明らかにある部分では敗戦そのもの、大陸侵略を巡る贖罪意識によるものだっただろう。しかし同時に高度成長を遂げるに従って獲得していった経済社会としての世界的規模での優位的地位に伴う日本人固有のグローバリズムという意識もある。日本人が考えるグローバリズムと欧米人(勿論各国家毎に異なる)の考えるグローバリズムは異なる。まず宗教的死生観において異なるし、文化、伝統、及び言語に対する羞恥の在り方でも異なる。
 今日に固有の羞恥とは一方で敗戦体験に根差すが他方では国際的地位優位に伴う満身に根差す。つまりコンプレックスと優越意識の綯い交ぜとなった状態でのものである。そしてそれが江戸期以前からの固有の自民族=同に対しての異という形での羞恥と複雑に結びついている。つまり羞恥とはどのような時代でもどのような国家や民族の状態でも介在するが、その在り方は時代毎に固有のニュアンスを帯びるということである。
 私は「民族の記憶はその民族の使用する言語が表している。」と言った。これは例えば明治期に編み出されたであろう平和という概念は、その当時と現代日本では全く異なった様相で使用されているということをも意味する。つまり現代社会において世の中とは仮に日本国内においてであっても、それは他国、例えばアメリカ、EU、アジア諸国、中国、ロシアを含んでいる。つまり関係においてそれらの外国の存在はどんな庶民でも認識しているという意味ではやはり明治期と異なった使われ方であると言ってもよい。つまりその国の国民が使用する言語自体が民族の記憶を物語っているような意味で、恐らく個々の語彙も戦後日本固有の時代設定的な意味で平和とはアメリカと全面戦争した後に築き上げられたものという理念を帯びているし、世の中とは日本国内の出来事であっても不可避的に外国との貿易や経済流通的側面から外国人という存在を介在させているという意味では戦前や明治期とは本質的に異なった使われ方をしている。同一のベクトルの事項を表している同じ語彙が、内実的な意味論としては全く異なった性質を保持しているということが出来る。そういう意味では言語自体、あるいは言語行為自体の認識をも、つまりそこに介在する羞恥の本質をも異なった位相で我々は言語を利用しているということから変化させているのだとも言える。例えば明治期では親に対して子どもが意見するというようなことは考えられなかったが、現代社会では親子の間柄は勿論のこと、同と異の認識さえ、地域社会的な閉鎖性からではなく、グローバルな視点から考えられている。あるいは多層的な人間関係、職場と家庭という二本立てだけでは納まりきらない関係、ネット上での人間関係をも含めて、上司や経営者でさえ絶対的存在ではないし、若い投機家もいるし、対話性とかディベート性といった位相から一般庶民の会話の意味、言語行為の存在理由さえ戦前や明治期とは圧倒的に何もかも意味的様相を変化させているのだ。それは端的に皇族や天皇陛下の存在理由を筆頭に、全ての社会的地位、全ての階級にまで及んで明治期や戦前と同一のものなど一つも見当たらない。職業的な優劣とか色眼鏡さえ今日では殆どなくなったと言ってよい。恐らくそのような記憶を未だに会話の内容に介在させているタイプの成員は現代社会の根本的な動向とは無縁な立場で生きている人に限られている。だからこそ急速に変わりつつある語彙の規定の仕方、あるいは日常会話内での慣用句の使用の仕方の変化は私たちの未来がある意味では羞恥の在り方をも急速に変化させつつあるという実感を切実なものにしている。だから普遍的な何らかの日本人に固有の羞恥があるとすればそれは意味論的範疇のものでは決してないだろう。もっと根本的な一人称的視点と三人称的視点に関わる間主観性とか私とは何かという哲学的命題にかかわる差異としてなら、江戸期及びそれ以前、明治期、戦後社会に通底する共通性が炙りだされて来るかも知れない。ではそのことに関して今度は考えてみよう。
 繰り返すこととなるが、概念とは例えば平和にせよ、平等にせよ、職業にせよ常にそう変わりない。しかしその語彙をある時代に使用するという事実には、その時代に固有の概念使用の意味があるということである。つまりある概念を使用するという行為の裏側には常にその概念使用を巡るその時代や状況固有の理由があるということである。
 そして日本人が戦争に関して平和と言う時、それは中国その他の大陸、半島で行なってきたことに対する贖罪の意識を介在させるということの裏にはただ単に戦争に敗北したという事実があるからなのである。戦争とは端的には戦勝国において贖罪の意識は生じない。要するに敗戦国側だけが戦争をすることの愚かさを実感する。だからアメリカによって原爆を投下された事実も、そういう状況へと自らを追い込んだという贖罪意識から、幼少の少年少女までが広島や長崎の平和記念日において平和の尊さという語彙をマイクに向かって発せさせることとなるのである。しかしこれがもし日本が戦勝国であったなら、全く様相が変わっていたことだろう。平和という概念は戦争をして獲得するものであるという意味作用を帯びていたかも知れない。
 それに戦争それ自体は敵側の人間を抹殺することが巧くいけばいくほど愉快なものなのだ。端的に戦争という一種の知的ゲームはそれ自体に内在する巧くいくことに付随する快楽によって人類はなかなか今でもやめられないものなのだ。これは殺人にしても、テロリズムにしても、組織内の裏切り者に対する制裁にしても全く同じ精神構造によって支えられている。いや裁判でさえそうなのである。裁判とは本質的には犯罪者に対する見せしめを遂行することそのものに正義の名を与えるショーなのだ。
 だから日本は武家社会形成期から幕末開国期まで延々と戦とそれに備えるという社会体制を採ってきたのだから、たとえ幕末期において戦争が長らくなかったとしても社会倫理上では武士は自らによって法に背き、藩全体に迷惑がかかった時には腹を切らねばならなかったのである。よって介錯という行為は最後に武士に残された情けであったということになる。それは多分に集団内秩序を乱すことに対しては責任を取るという精神のものである。それは明治期以降切腹が廃止されても、辞任、退任、辞職といったことにおいてその名残がある。あるいはある一定の時期を置いてから平常の制度へと戻す禊という概念もその名残である。これらは端的に日本人に固有の羞恥を表現している。それはかつて戦国武将たちの多くが出家したこととも関係がある。戦争というものは、多くの犠牲者を生み、その勝者とは多くの犠牲の上で胡坐をかくこと以外の何物でもない。
 しかし私はここでヨーコ・オノが主張するような意味で戦争に本当の勝者などいないということを主張したいのではない。
 中島義道氏は約十年に渡る自らの思考の軌跡を「たまたま地上に僕は生まれた」でエッセイと対談、そして講演記録という多様な形式で一冊に纏めているが、その中の9 イヤでも働くことの意味 において9.11の同時多発テロが起きた時、経済の打撃とか、攻撃の理由とか世界情勢に行く末に対しては不謹慎であるが一切関心が持てず、哲学者らしくあの行為が意志によるものなのか、決定されていたことなのかの方により関心があったと告白している。しかしこの見方はかなり健康的な見方であると言える。私自身はあの時「来るべきものが来た」という感想だった。それは恐らく湾岸戦争時にまで遡る中東のアラブ過激派のみならず多くの市民の抱いていた反アメリカ感情の一部が突出したという気がしたからである。しかしここで私が強調したいことというのはそんなことでは勿論ない。
 私があの事件に対して特別な悲しみも驚きも感じなかったのは、端的に自分の死ではないからである。例えば戦争に赴く兵士を例に取ってみようか。私は一平卒として上陸作戦を任じられているが、隣に今か今かと上陸して敵陣に突進することを待つ私の戦友がいるとしよう。さあ上陸の瞬間になり、私たちは一目散に敵陣目掛けて銃を担ぎ突進し始めた。しかしさっきまで戦艦に乗って話をしていた戦友は上陸後直ぐの敵の砲撃か銃撃に遭い、即死したとしよう。しかし私にしてみれば、その戦友が撃たれた時にはいくらショックでも、恐らくそれでも介抱すれば助かる見込みがあるのなら、そうしようとするだろうが、何分敵側からの砲撃や銃撃の最中でもあって、私はその戦友が死去したのを一瞬見届けた後は気持ちを即座に切り替えて、自らの敵陣に対する攻撃の意志を貫こうとするだろう。さもなくば私もまた彼のように敵からの砲撃や銃撃に負傷してしまうだろう。だから出来る限り私は敵側からの攻撃を避けながら前進することに意識を集中させようと咄嗟に試みるだろう。このような状況下では私にはその戦友の死を悲しんでいる暇などない。
 しかしこのことは実は人生全体においても言えることなのだ。つい先達ても私の親しい知人が一人亡くなったが、その友人との会話を想起したりもしたが、基本的に私は生きているし、社会的な責務を全うしなくてはならないので、私はその知人の死をどこかでは完全に自分のこととは完全に切り離してある意味では冷酷になりきり、醒めた眼だけを大切にしようと試みる。それが生きるということなのではないだろうか?それは私が私の父が死去した時にも感じたことであった。いかに私がその時悲しかろうと、翌日には親戚一同が会する葬儀をどこかで巧く遂行しなければならないという責務的な感情を介在させずにはいられないというのが、人間が生きるということなのだ。
 また先ほどの9.11の話に戻すと、ある意味では現代社会に生きるということは、そのニュースがどんなに悲惨なものでも(例えば中島氏の指摘のようにある9.11が自然現象によって人が大勢死んだ場合と違い全く異なった感想を多くの人が持ったであろうような意味であったなら、それは意志と決定論の狭間での問いを産出するのだが)そういうニュースというのはいつ何時でも起き得ることであり、時として知る可能性があるということである。つまり現代では自分の住む地域とは離れた地球の裏側のニュースまで瞬時に報道されるので、そういう現実に慣れっこになっている私たちは、どんなに悲惨なニュースでもその事実が直接私たち自身の生活に何らかの影響を及ぼさない限り、そのニュースに対する反応を醒めたものとして受け取る習慣そのものが既に身についているのである。そうでなければ始終びっくりしていなくてはならないからである。
 つまりそういう意味では他者の死とは、その他者が極めて自分の日常生活に直接的に、特に精神的支えとなっている場合以外は、通りすがりの人の死と大して変わりないようなものとして受け取ることを習慣化することが強いられている、それが現代社会に生きる、生活するということでもあるのである。
 だから逆に世界の出来事としてなら、恐らく私の死とはとりとめのない、そして決して報じられることもない些細な日常でしかないだろう。しかし私にとってはそれこそが自らの世界の終焉を意味するのだから、逆に生きているということは、かつて作家の五木寛之氏がテレビでも述べておられたが、生きているということはそれだけで死者の犠牲の下でぬくぬくとしている狡く罪深いことであるということはある意味では正解である。だから私は前作では死者の魂によって自分が生かされているということを肝に銘じるというようなある種のモラルからそう思うのではなく実感するのである。しかしそう感じていられるのは、自分がある程度健康で正常な日常生活を送れる限りでのことでもあるのだ。
 例えば戦争で敵側の兵士を殺すことは兵士の義務なのだから、上陸した私はついさっきまで船上で会話していた戦友が死んだことはその時はショックだったが、やがて敵兵を射殺して、武勲を積み重ねるに従ってその友の死は平凡な日常的な出来事に一つとして私の強烈な印象とか記憶内容は後退していくことだろう。またそうでなければ、そして敵兵を死に至らしめる度に、内心うまくいったと思わずには恐らく私はその上陸した戦場を兵士としての義務を全うしつつ、行き抜くことなど出来はしないだろう。
 そういう意味では戦後日本人は原爆投下を米軍によって遂行されたことをある部分では免罪符として、大陸や半島で多くの市民を巻き添えにした贖罪意識に伴う精神的ダメージを潜在的に和らげる役割を果たしているとさえ言い得るのである。それはある部分では自分の祖先の犯した罪をより無意識の内に直視することを回避したいという欲求と、少しでも正当化したいという自己欺瞞とが綯い交ぜとなった心理的な作用でもあるのである。そこに私は逆に日本人もまた、恐らく9.11の悲劇をアメリカ人が少しでもイラク戦争で多大の犠牲を敵側に齎した事実(それは殆ど報道さえされない隠された事実として隠蔽さえされているのだが)を精神的に隠蔽するのに役立てているような意味で、自己の罪状を直視し、その事実をより克明に自らの記憶の中に留めておこうとすることを困難にするものもまた、一種の回避的な衝動であり、一個の羞恥であると言えるのだ。
 要するに羞恥とは精神分析的に言えば自己保存欲動的な部分に根差しており、だからこそそれは残虐とか冷酷と隣接しているのであり、それは生物学的にならもっと必然的な個体維持に必要な鈍感さを生み出すものでもあるのである。そしてその鈍感さを生み出す羞恥に日本人に固有の在り方というものが果たしてあり得るのだろうか?それがもしあるとしたなら、それは民族が祖先から口述されてきた歴史的意味内容の伝わり方に影響を受ける自民族中心であり、ご都合主義的な自己欺瞞的な記憶内容の刷り込みであり、それは恐らく全ての民族が内心の平衡状態を保つために採用していることである。だから逆に言えば私たちは自民族の悲劇を、自民族の犯した罪を一時でも忘れさせてくれるために寧ろ必要としているということでさえあるのである。
 だから日本人にとっての原爆投下という米軍の事実は、私たちの祖先の犯した罪を一時忘れさせてくるための有効な装置としてその歴史的事実が作用しているということであるのだし、そういう無意識の内の作為とは私たちが日頃から絶えず行なっているものなのである。だからひょっとしたら、そういう残酷で無責任な心理を正当化するために私たち生きている者は死者の魂に感謝の念を抱く必要があると自分で実感しているように私たちの脳が働くのかも知れない。それはある部分では自己逃避的な意識からのものであるかも知れない。つまり死者の魂に拠り所を求め、それを尊重することで自らの内的でエゴイスティックなご都合主義的心理に歯止めをかけてくれる神に対する尊崇の念によって救われたいと願う自己本位なのかも知れない。しかしそういう心理になるのも無理はない。本当に人間とは自己本位の生き物だからである。
 私は先日東京国政ブックフェアなる催し物に東京ビッグサイトまで出掛けた。その一貫としてゲストの脳科学者の茂木健一郎氏の基調講演を申し込み、出版社から郵送されてきた招待状を持って、少し早い、未だ東京ビッグサイトが稼動する時刻よりも先に国際展示場まだりんかい線で到着した。そしてビッグサイトの周辺を散歩して朝のすがすがしい空気を胸一杯に吸い込んだ。
 その時感じたことなのだが、海に面した遊歩道からゆりかもめの基地周辺を歩き、再び頭上に大きな建造物である東京ビッグサイトが差し迫ってきた時、周囲には未だちらほらしか人の歩いていない時間帯だったせいもあり、自分一人でその巨大な建造物とその周囲の空間を征服したような気分に浸っていた。そしてこの建造物を中心として巨大な施設が何か外部からの圧力によって粉々に破壊される状況を勝手に想像して愉悦に浸っていた。そういう想念を抱かせるのに早朝の殆ど人のいない巨大な施設に一人でいるという状況はまさにうってつけであるとその時私は思った。そしてその時同時に早朝の満員電車に乗って出掛けていた時、私が座るすぐ近くで咳き込む若い女性がいて、彼女が撒き散らすウィルスに感染する危険性を私は察知して必死に彼女の方に顔を向けるのを避けていた。その時私ははっきり見知らぬその若い女性の存在を疎ましく思った。しかし理性的に考えてみれば、彼女もまた満員電車の中で見知らぬ前に立つ男性のする咳から風邪かインフルエンザに感染していたのかも知れない。しかし微熱があっても無理して会社に出勤しなくてはならなかったのかも知れない。そういう風に考えることは出来るが、その咳き込む彼女の存在を一瞬でも厭で疎ましいと思わないでいられた人は周囲に何人いたであろうか?つまりそれだけ人間は常に自分本位で行動し、生活上でいかに人に差別すまいと理性的には考えることが出来ても、いざそういう局面に立つと、まず自分にその人の持つウィルスが感染しはしないかと懸念する。私が巨大な建造物を眺めて歩いているのが私一人であると、その建造物が破壊されることを想像することが楽しいということは、ある意味では全ての世界の存在は私のためにある、という意識を私が常にどこかでは持っているということを意味する。だからどんなに悲惨な運命の不幸を背負った人(軽い意味で言えば満員電車の中で咳き込む女性もその内の一人である。)がいて気の毒にと思ったとしても、私は咄嗟にそういう人と関わり合うのを避けようとする。それでいて、私自身がそういう立場に立った時、私を避けるようにする他人を私は憎む。
 その後、東京ビッグサイトに人が入れるようになって、私は茂木氏の講演会場に足を運び、講演を聴いた。その時茂木氏の人気によって千八百人の聴衆が集まったことを主催者側による説明で知った。その時再びこんなことを思った。もしこの会場に背広を着込んで人間の振りをして入場するチンパンジーがいたとしたら、即座に会場の係りに外へ連れ出されるだろう。しかしもし現代に冷凍保存されていたネアンデルタール人が発掘解凍され、蘇って人間の着る背広を着て会場を訪れたとしたら、そしてそのネアンデルタール人の発掘解凍を知らない会場の係りは果たして彼を一人前の人間と同じ扱いで処遇するだろうか?そして会場に入ることが赦される成員とは、基本的にどのような条件を満たしていればそれで何の差別もされずに処遇され得るのだろうか?例えば知性は人間以上のものを持っているのにもかかわらず、まさにドラマというものが演技による虚構の表現であることを見抜けないようなタイプの異星人であるなら、そういう者は見かけも人間とは異なるだろうから、会場の係りに必ず一度は呼び止められるか、警察が出動要請されるかも知れない。
 そういう場合私たち人間の判断とは、果たして彼らに対して差別していないと言い切れないだろうが、果たして差別とその行動を呼ぶことが出来るのだろうか?あるいは人間としての成員であるという判断そのものには本来そういう差別意識が既に介入しているかも知れないが、それは仕方のないことなのだろうか?あるいは、人間でもそのように即座にその場に相応しくない成員であると了解されない者も存在するとしたら、果たして他者全般に対する配慮とか礼節とは、どのような形で構成されているのだろうか?そこには既に差別されない人だけを処遇するという意識が介入していないとは言い切れないだろう。
 結局茂木氏の講演はブックフェアに相応しい本の存在理由をネット社会と両立し得るという比較的氏の普段抱いている考えをざっくばらんに語った爽快な内容だったが、一時間の講演の末、残り十五分を質疑応答の時間に主催者側が当てたので、私は早速手を挙げて質問をした。その時私は
「私は本業はアーティストなのですが、茂木さんとだいたい同世代です。そこで茂木さんからアーティストに望まれることとは何ですか?あるいは、私は実は哲学に関心があり、N先生の下で哲学を学ぶ者でもあるのですが、茂木さんから哲学者に望まれることとは何ですか?その二つについて何か一言仰って頂けませんか?」
 と質問したら、茂木氏は
「アーティストというのは既成の価値概念を覆すような仕事をなさって頂きたいです。そして哲学者とは今日この頃よく見受けられる辻説法的に大衆に媚び諂うようなタイプではない、もっと「お前たちなんかに俺たちの考えていることなんかわかってたまるか」という態度を示しながら、同時に大衆をその中に呼び込み、リードしていくような姿勢を期待します。」
 と述べられたのだ。(その際N先生の下にいらっしゃる方ならご理解されることと思いますが、と氏は付け加えられていた。)
 しかしこの茂木氏の言説は、ある意味では極めて矛盾して困難な要求でもある。アーティストに対して抱かれた感慨はよく理解出来るが、哲学者に対しての要求としては、二つの相異なるベクトル、一つは大衆に背を向けること、そしてもう一つは大衆を引き込むことを同時に要求するということの内には氏自身の哲学者に対する多大な期待が感じられたからである。そのことを親友のK氏(社会教育学者、大学教授)に電話で報告すると、氏はまさに私が茂木氏の回答に対して感じた過大な期待を「二つの矛盾した方向の要求だね。」と述べた。氏は私同様茂木氏の目を見張る活躍に関心のある方である。
 要するに人間はそのように過大な要求を他者にも自己にもかける存在であるということだ。
 例えば先に例に挙げた咳き込む満員電車内の若い女性は、ある意味では一番苦悩する存在であるのに、大半の人びとは彼女のような存在を迷惑がる。人間は不幸な人間を救いたいと願うどころか、なるべく自分よりも不幸な人とは接したくはないという心理の生き物である。それでいて「そうではいけない」と考える始末の悪い動物なのだ。要するに瞬時の生理的要求を、理性的判断とは全く別個な形で価値的に位置づけることをするのが人間なので、当然のことながら、茂木氏の主張されるように、一方で他人の目を気にすることなく思索に耽ることが哲学者に求められているが、同時にその姿勢を大衆とは隔絶した地点でのみ安穏としていてはいけないと常に悩まなくてはならない、要するに相反する二つのベクトルを常に同時に携えた存在であるという認識を私たちは持たなくてはならない。
 だから例えば私は日本人であるので、常に日本人的な考え方もするのだろう。しかしそれでいてアメリカ人のことを理解しようともするし、時として世界の中の日本人という位置づけを拒否すらしたくなる。つまりたまたま日本に生まれ育ったから日本人であるという偶然性を強調し、それでも尚日本人としての自覚を持つとすれば、それは自然とそうなっているのではなく、意図的にそうあらねばと選択したと考えたい。それは一部そう考えたいような意味で自然にそうなのだが、やはり一部は意識的にそうしているとも言える。
 つまり何かあることを自然となすことに臆するとしたら、それは日本人であることから来るごく自然な習慣である部分と、そうではなく、たまたま私個人の資質によるものである部分とが常に密接に隣接していて、その二つが純粋に乖離しているわけでもまく、またどちらか一方だけが完全に支配しているでもない状態というのが常ではないかと私は思うのだ。つまり私は常に日本人でありたいと願いつつも、同時にたまたま日本人なのであり、一世界市民であるという意識をも持っていたい、自分で自分のことを日本人であると思うのならいいのだが、急に見知らぬ他人から「お前日本人だろう」と言われることは極度に嫌悪する。これは本節のタイトルである「日本人の羞恥とは何か」という問いそのものを拒否したい願望と、いやそう真面目に問わねばという気持ちが常に入り混じっているということも意味する。
 しかし一般的傾向としては哲学そのものが不在である日本人は例えば愛するという心情と、愛する振舞いということが一致しているのか一致していないのかというようなことそのものを論じたり、考え抜いたりすることが概して嫌いである。だから日本からシェークスピアのような天才が出現しないのである。だから敢えて言えば日本人は真に世界市民という発想を環境問題とかそういう政治的レヴェルでは世界に発信出来ても、精神的な基盤ということに関する限り限りなく希薄である。故にもっと日本人であるとはどういうことかと問い詰めていく必要があるように私には思えるのだ。
 結論で私はこの日本人の世界市民であるという発想を一見受け容れながら、その実「お前日本人だろう」と言われることを極端に嫌う一面とは、日本人が世界に向けて日本人であるということを公言することを憚るような羞恥、つまり敗戦体験と、大陸・半島侵略体験に根差すものであると思うので、この歴史的誤りに起因する羞恥というものを日本人という枠からだけではなく世界のどの民族にも共通のものとして捉えて、しかしそれを民族的、共同体成員的な意識としてではなく、もっとマクロに他者存在に対する羞恥というレヴェルから羞恥の本質を捉えてみたい。

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