Saturday, November 14, 2009

〔羞恥論‐素直と依怙地<衝動論第二弾>〕 序

 私たちは知性によって全ての行動を決めているように一見そう思う。しかし現代脳科学や現象学ではそう考えてはいない。現象学以外の哲学では知性とか理性ということよりも、もっと微細な分析によって逆に大枠での哲学的命題の中の諸々のものの証明をしようとしているように見受けられる。分析哲学とか言語哲学がそれである。
 私は前著「他者と衝動」において、欲望、欲求レヴェルでの衝動を大きな行動誘引の根拠として捉えたが、必ずしも知性や理性を否定したわけではない。それらもまた一つの衝動であると捉えたに過ぎない。要するに衝動は知の限界を哲学の側から見いだされたことに端を発している。それはウィトゲンシュタインの「言語の限界は世界の限界である」という有名な言説によって既に示されていた。つまりこういうことである。ウィトゲンシュタインは「論考」においてそう語ることで寧ろ世界という認識そのもの枠組みの、と言うより「世界」を成立させる根拠へと視点をずらすことを試みたのだ、と言うことが出来る。「世界」とは既にそう語り、そのように述べた瞬間に既にある狭い枠組みで全てを捉えようとする欲望を感じさせる。するとそもそも「世界」を成立させる場としての思考とか認識とかの根拠として知の限界をウィトゲンシュタインたちをも連想させた当のものとは、ある意味では論理とか真理とかを生み出す知の限界領域外とは何かを考えることを自然な成り行きとする。それはしかし絶対根拠ではない。寧ろ「世界」(と言う認識)を産出する内的で無意識の欲求に近いものと捉えることが出来る。それを私は前著から衝動と捉えたのだ。この衝動は稲垣諭氏の名著「衝動の現象学」に触発された面が極めて大きかった。しかしこれからも衝動と長く付き合っていこうと決意した手前敢えて氏の著作については全く触れなかったが、近作においてはそれを解禁しようと思う。
 脳科学者の茂木健一郎氏は何かに熱中すること、そしてその熱中することを強制されるのではなく自発的にすることが最も効果的な記憶と学習への近道であると「脳を活かす勉強法 奇跡の強化学習」で述べておられる。つまりそれは記憶しなければいけないという気持ちでは決して脳は効果的に学習されないということだ。そして一定の限定された短時間内に作業そのものを終わらせる、例えば読む本をいついつまでに読むということが学習と記憶に効果があることを氏は示しているが、要するにそれは強制であっても、自己強制であるべきであるということを意味すると同時に、その自己強制とは自分にとって興味や関心を惹かれるものに対する熱中ということを主眼とすることによって達成されると氏は考えておられる。つまりそれは何かを覚える覚え方にしても、他人のしているやり方でではなく、自分流のやり方でいいのだ、いや他人との比較が最も非効果的なことであるとまで氏は主張される。
 その考え方の線で考えると、記憶とは決して脳の強制ではない。記憶されるものは自然と脳がそのように働く。どんなに記憶しようと心掛けても、記憶され難いものはなかなか記憶されない。ならば自己強制的に、あるいは義務的に自分で記憶したいと思っている時には、自分流の最も楽しい記憶努力をするべきであるということになる。
 結論は人間は意図的に記憶しているのではなく、脳そのものが記憶したいように記憶しているのだ、ということになる。そしてそのことは知の限界とは意志的に覚醒し得る、つまり認識論上でその意味合いを判断し得るものではなく、あくまでその理由とは何か分からないが、まさに茂木氏が著作「すべては音楽から生まれる」において感動出来る(感動という言葉も茂木氏によってそれを使用するタブーがぶち破られた。)音楽とは論理とか理屈で説明が尽くものではないという考えと全く一致するのだが、何故惹かれるのかという理由を説明することは出来ないのだが、惹かれる仕方で何かに没頭するととてもよく捗るということからその外部には知そのものを支える根幹の人間的存在として何かやはり衝動という言葉でしか表現しようもないものがあると考えるのはそう間違ってはいないだろう。それはハイデッガーが世界の存在そのものが私であると捉えたような意味でそうである。
 しかし人間は秩序を好み、理性的判断をあくまで志向する生き物である。そこで形式とか法といったものが必要となってくる。そしてそういうものを述べる時、何故それらが必要であるかと問われると「何故かそれに惹かれるから」と答えてはいけないと私たちは考える。これはシステム志向的考えであり誰でもする思考である。そしてこれもまた間違いではない。何故ならこれもまた衝動の一つの変形であるからだ。しかしこれが認識至上主義に陥ることを批判したのがフランス啓蒙主義哲学者であるコンディヤックであったと私は前作において示した。
 心理学者であるサイモン・バロン・コーエンは「共感する男脳、システム化する女脳」という著作で、男性は「世界」に対して能動的にアプローチするシステム化能力に秀でているが、女性は逆に「世界」の内部でそのシステムに同化すること、つまり共感に優れていると指摘しているし、茂木氏もそのことは常々主張されていることである。このことに関しては中島義道氏も興味深い指摘をされているのでそのまま引用してみよう。(「狂人三歩手前」中 夏には哲学がよく似合う より)

 メルロ・ポンティーは次のようにも言う。「哲学者とは、目覚めそして話す人間のことである」(『眼と精神』)「目覚めている」とは絶えず周囲世界を見ているということである。そして「話す」とは、それを絶えず言語化しているということである。この条件さえ満たせば誰でも哲学者になれる。というより、すでに哲学者である。
 いや、もう一つの条件を加えておこう。どんな場合でも、周囲世界に埋没していないこと。われを忘れていないこと。いかなる事件が起ころうが、適度な距離をもって冷静に世界を眺めていること。つまり「冷たい」厭な人間であること。プラトンは哲学の開始を「驚き」と言ったが、ひとの驚くことに驚かず、ひとが驚かないことに驚くと言い換えてもいい。テロが起ころうが、いかな残虐な事件が起ころうが、驚かないが(私は地下鉄サリン事件にもアメリカの同時多発テロにも全然驚かなかった。)、「見えること」の不思議さに驚き、いつも「いま」であることの不思議さに驚く。
 思うに女性に哲学者が皆無なのは、こうした「驚きのズレ」がないためかもしれない。少なくとも、私は五十数年にわたる人生において、こういう病的なメカニズムを有した女性にお目にかかったことがない。もちろん、不安定なあるいは病的な精神をもった女性はいくらでもいる。しかし、一通り社会生活をこなしていて、しかも「いまとは何か」という問が絶えず脳髄の中で唸り声をあげている、という女性に遭ったことはないのである。夏の浜辺で、ある女性が太陽に身を焼きながら「いまとは何か?」と考えていることを想像するのは難しい。
 それはいかなる文化にも共通の根源的な両性の差異であるように思われる。女性たちは「世界の不安定」に対する懐疑を抱かない。ふっと抱くかもしれない。しかし、それを執念深く追究しようとしないのだ。次の瞬間世界がガラガラ崩れるかもしれない、という不安感がない。彼女たちの悩みは「世界の中」での悩みであり、「世界の枠」そのものに関わる悩みではない。それは彼女たちが生物体として劣っているからではなく、優れているからである。
 男性の不安定性と哲学は直結している。犯罪者も、自殺者も、精神病者も、性的倒錯者も、ひきこもりも、圧倒的に女性より男性の方が多い。哲学者も、疑いなくこうした反社会グループの一員なのである。
 
 そう述べる中島氏はどこか哲学自体に対しても覚めていて(氏は観念的哲学者、形而上学的哲学者である。)、より男性社会人として哲学者全般に対する社会の見る眼に対して返答している意識のようだ。しかし最後の言述に対してコメントを加えるとすると、犯罪者が男性の方が圧倒的に多いのは、社会的地位ということの精神的プレッシャーが男性の方に意識レヴェルで高いことに起因し、自殺者の数もそれを反映しているということ、そして精神病患者が男性の方が多いのもこのピア・プレッシャーが影響を与えているだろう。そして性的倒錯者に男性が多いのは、そもそも体内に生命を宿す女性は生理的宿命を帯びているので、性的に倒錯する理由がないということに起因する。ひきこもりもまた社会的責務とかピア・プレッシャーに左右されるところが大きい。
 端的に多少シンボリックでステレオタイプ的認識を採用するとすれば、男性は未来に対する展望を観念論的に設定することが得意であり、命令系統に対する同化と決定の明瞭さを好む。(だからこそ勝者と敗者が明瞭に区別されることから来る精神的プレッシャーも大きいのだ。)これを仮に観念的時間論者と呼ぼう。それに対して女性は忍従的な同化と共感的受容に長けている。それは未来に対する絵図よりも現在を大切にするという心的傾向のものであり(だからこそ逆に今とは何かと問う必要がない。)、これは命令系統とか決定に対する躊躇とか敬遠という心理に近い。これを実在的時間論者と呼ぼう。
 すると現代脳科学において茂木氏をはじめ多く研究者や論客が喧々諤々の論争をしているクオリアとは、端的に認識至上主義的な男性脳的傾向に対して、実践的現実受容的女性脳的傾向の感受という図式を取り入れていることになる。
 私たちの行動というものを今考えてみることにしよう。それはパソコンでネットサーフィンをすることでもワードに論文を入力することでも、原稿用紙に執筆することでも、テニスや卓球やゴルフをすることでもいいし、ミシンを踏んで洋裁をすることでもいいのだが、そのことに熱中しているといつの間にか我というものに対する明確な意識を失い没我状態となり、忘我状態になることがあるが、しかしこういった忘我とか没我というものも実は最初は意志的、意図的な考えとか意識があって、始めていることなのである。
 では考えることとか瞑想することとはどういうことなのだろうか?この場合私たちは思考錯誤を脳内だけでして、記述することも、行動することもなくただ思いあぐねているとすると、それは脳内の思惟であり、反省的意識に直結することとなる。そして想起とか想像という心的作用が登場し、ある時には堂々巡りになる場合もあるが、あまり意識的ではなく漠然と、あるいは漫然と何かを知覚したりしていている時に、ふと何かそれまでには思いもよらなかったような考えが閃くことがある。このことを哲学者のミシェル・アンリは「現出の本質」で光と呼んだものではないだろうか?つまりこの種の閃きのことをインスピレーションと呼んだり、脳科学ではセレンディピティーと呼んだりするのだろう。
 一般的傾向としての男性脳的傾向とは、端的に観念的時間論意識であり、物事を主催し、支配する意識であり、結論とか区切りを重んじるとすると、女性脳的傾向として私たちは、実在的時間意識として雰囲気の享受、感受、感得といったことを持ち出してもよいだろう。それは前者を「世界」の構築、美の構築、知の限界に対する認識とすれば、後者を「世界」の受容、美の感受、知の有用性に対して素直に利用することとならないだろうか?それは要するに生成の原理からすれば、前者を場の構築、後者を場へと吸収同化することと捉えてもよいのではないか?私たちの日常での自治会とかの会合から、会社の会議でも議会にしても、この二つの態度が男性女性にかかわりなく共存しているとは言えないだろうか?要するに理念的であり理屈っぽい男性脳と、現実的であり協調的である女性脳とが交差しているのだ。(政治の世界の根回しなどは女性脳的である。)
 これをシステム化場構築性(前者)と、共感性場吸収同化性(後者)と呼ぶことにしよう。そして芸術とか文学のような行為はその両方の融合であると考えてよいだろう。何故なら私たちはシステム化する知性によってそういう創造の世界を構築する(決意する、意志する)のだし、同時にそれは「世界」に対して対峙するだけではなく、「世界」に存在することそのもの、つまりハイデッガー的に言えば世界内存在的事実(そのことをハイデッガーは事実性と呼んだ。)として受け容れる(吸収される、同化する)ことが必要だからである。前者の認識は場と場以外の関係、場の内包と場の外延との相関性で見るメタ認知と言ってよいだろう。そして後者は認識と言うより自然的な選択であると言えるし、要するに内在的である。
 しかし私はそのような意志的な創造外的な局面において、例えば知人とか友人との会話において、よりシステム化するでもなし、かと言って素直に真意を告げるでもなく、どこか虚勢を張ったり、はったりをかましたり、要するに素直になれないような依怙地な気持ち、あるいは強情な気持ちになることもかなりある。
 私はそれを虚栄心をも産出するものとして羞恥というものを考えている。前作でもこの羞恥ということは大きく取り上げ、それを論の基軸にもしてきた積りだが、近作ではそれをより素直になれない気持ちということで代表させて追求してみたい。
 私は人間とは他者に対して抱く羞恥がないのなら、まず意思疎通するという気持ちにもならないし、なれないと考えている。そしてある特定の他者に対する羞恥の払拭が真意を告げることを誘引すると前作は考えた。そして今作でもその基本的考えに違いはないが、羞恥が行動の起爆剤であるという前作における考えをより徹底させ、時にそれを衝動を後押しするものとして、あるいは他者存在を意識することによって生じると私が考える意志とか欲求を整えるものとして、あるいはより行動をスムーズに遂行させる起爆剤として考えることにしようと思う。
 第一章では行動をする際の心的プロセスからその羞恥を考え、素直になれないということを構成する羞恥の正体を考え、そして素直になることをより主体的な行動であると考え、その内的連関と、相関性について掘り下げてみたい。
 そして第二章では私たちが自然とか空間的に雄大な場面に遭遇した時、一人でそれらと相対する時と、他者と共にそれらに相対する時との心理的違いにおいて、前者をより対峙的遭遇と呼び、後者を共有的遭遇と呼び、その内的連関と相関性について掘り下げてみたい。

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