Monday, January 25, 2010

時間・空間・偶然・必然_意識という名のミーム<科学で切る哲学、哲学で切る科学>5、盲目の信頼と全能感

 人間は幾つになっても、自分だけは特別だ、という観念から抜けきることなど出来はしない。そして体はもう十に老いてきているのに、若い頃の気持ちだけは変わらず、無理をして体を痛めたりするし、要するに「自分だけは大丈夫だ。」というごまかしの気持ちに支配されている。つまり死ぬということがその直前にならなければ、決して意識において主要な部分を占めないそういう生き物なのである。またそれだからこそのほほんと生きていけるのであるが。つまり私たちの脳はいつからかは知らないが、何らかの切迫感を感じずに済むような形で「自分だけは大丈夫だ。」という気持ちを持ちながら、最終的な死というものを意識しないで済むように脳が命令しているようである。
 生物学者ならこのような全能感を進化による獲得能力であると捉えるかも知れないが、この全能感というものは大人になればなるほど付帯してくるものでもあるようだ。幼児的全能感とも呼ばれるこの気持ちとは、例えばあらゆる専門職に就く人々の気持ちを支配している。
 例えば営業畑の人間は商品開発部とか総務部といった会社の部署のどの人間よりも自分たちが一番社を動かしていると考えているようだし、政治家は官僚だけが社会を動かしているという気持ちを抱き、事実そういう面もあるが、彼らだってある意味では政治が一番経済社会のリーダーシップを取るべきであると感じ取っている。あるいは医師には色々な専門があるが、どの専門分野の人間でも自分たちがいなかったなら、世の中は混乱すると信じて疑わない。科学者の世界では細分化が進んでいるけれども、どの専門分野の人々も自分たちのする専門が一番正しく、どうして国はもっと自分たちにお金を出してくれないのかといつも不満たらたら洩らすことを厭わない。
 哲学者は哲学者で一番自分たちが公平な目で社会を観察していると本気で思い込んでいるし、文学者や芸術家たちは自分たちがいなかったなら、社会や世界は間違った方向へと突き進んでいくに違いないと真剣に考えている。しかしそんなことは恐らくない。今生きている哲学者たちが全くいなくなっても、それ以外の職業の中からそれに類する思考の人々は必ず出現するし、今いる芸術家が全員いなくなっても同じことだし、全ての政治家がいなくなっても、彼らの代わりは幾らでもいるし、医師も官僚の同じことである。要するにそういう風に「もし自分たちがいなかったなら世の中は困る」とそう勝手に思い込みそれを気休めにあらゆる困難なそして不可避な命題、例えば死、例えば人類の絶滅ということを回避して誤魔化して生きているという風にも言えるのだ。まあそう言うことそのものが哲学者的、中島義道氏的であるという指摘もあるかと思うが、そんな深刻にならなくても、恐らく全ての職業、立場の人間は自分を中心にしてしか全てを把握、認識することが出来ないのだから、そういう楽観的な把握、認識の仕方が実は一番落とし穴であるという意識だけは捨てずに生きていくということが極めて重要ではないのだろうか?
 そしてそのように「自分だけは大丈夫である」という変に吹っ切った考えに支配されていること、そういう状態を維持することが一番生きていく上で障害がないという感覚こそ最も我々人類が誰からともなく獲得したものではないだろうか?
 このように誰からともなく伝えられるような感覚、思いの状態を、心理学者のスーザン・ブラックモアはその言葉の創作者であるリチャード・ドーキンスから拝借して創作者の満足を得る形で体系化した。その言葉こそミームである。ミームはまるでウィルスのようの増殖して人間から人間へ、人間が書く本からそれを読む人間、それに基づいて新たに本を書く人によって更に教え伝えられてゆくものである。本以外にも看板、コンピューター、あらゆるメディアによって伝えられていく。あるいは服装のモードや建築の様式、芸術の形式、法体系といった全てがこのミームに該当する   このことは3節で私が述べたように、もし嫌な奴は集団内にしてそいつを殺したとしても、集団が多ければ多いほどまたその生き残った奴の中に気に入らない奴はいて、そういう風に繰り返してゆくと、次第に残された成員は三人になり、そしてその中で他者である二人の中でひとりが気に入らないから殺すとすると、最後には自分ともう一人だけになる。しかしそいつが嫌で殺したら、集団内には自分一人だけになる。そういう風に考えれば逆に政治家という職業が嫌いだからと言って政治家全員を殺したとしても尚、生き残った他の職業に就く人々の中から政治向きの人間が現われ、また政治家という職業が復活するという意味で、仮に「俺たちのような職業だけが生き残れば社会は大丈夫だ。」と高を括るような楽観的な全能感を持つ(こういう職業的プライドはインテリ、エリートにより顕著であるが)としても、恐らく自分たちだけが社会を支えているという幻想そのものは潰え易い。もし銀行の頭取が突然死したとしても、その銀行に対する信頼が世間から厚ければ厚いほど恐らくその銀行の経営そのものはその頭取の死をものともせずに以前のまま何らかの形で存続してゆくことだろう。勿論人事面では多少の突発的は変更をきたすことがあっても尚、社会全体に与える影響というものは然程大きなものではないであろう。そういう意味ではブラックモアの主張するミームの波及力というものは、ある意味では一人の人間の存在というレヴェルから言えば空しいくらいに無時間化された自然の意図であるとさえ言えよう。
 例えば今言った銀行の頭取の例で言えば、会社や組織に長年尽くしてきた人物がリタイヤすることとなり、それまでの人生の生き甲斐を急激に喪失して、老後の人生の過ごし方そのものがどうあるべきか思い至らなくなり、次第に社会での疎外感を感じつつ寂しい老後を送ることになるような意味で、人間の生き甲斐とか人生の幸福感情といったものも、一旦それまで中心だった仕事中心の生活が一挙に失われると途端に路頭に迷うというようなことが十分人間人生において考えられるところのことである。
 しかしミームというものをそのような人生のあるべき本来の姿と言うような哲学的命題にまで遡及するようなタイプの考えをも含有させ、全能感というオプシミスティックな処世訓として得るものは全く逆のものとして考え合わせると、ミームというもののあり方は多様を極めるとも言い得る。
 生物学者の長谷川真理子氏は「科学の目 科学のこころ」(岩波新書)で次のように述べている。少し長いが重要だ思われるので節全部を掲載しておこう。


ハンディキャップの原理

 交差点の赤信号で車が止まるのはなぜかと聞いたら、それは規則だからという答えが返ってくるだろう。確かにその通り、そういう取り決めになっているのだ。
 しかし、「そういう取り決めになっている」ということと、「実際にその取り決めが守られている」ということは別だ。「赤信号は止まる」という取り決めが守られているのは、そうしなければ、本当に危険なことが多いからである。その証拠には、車がこないことが明白である場合、歩行者は信号を無視することがよくある。
 クジャクの雄の華麗な羽は、雌に対する求愛の信号である。雌は、雄の羽をみて相手を選んでいるらしいが、そこにはどんな情報が含まれているのだろうか?また、多くの動物は、直接的な闘争を避けるために、さまざまな儀式的な信号を発達させている。威嚇の信号をみた相手は、それだけで、実際の闘争には至らずに逃げてしまうことがある。では、なぜ威嚇の信号は信用されるのだろうか?
 毒があって味がまずい種類の動物は、そのことを強調して示すために、警告色と呼ばれる派手な色をしていることが多い。また、毒がなくても無害な種が、実際に毒があってまずい種に似せる、ベイ型擬態というものがある。これらはなぜ信用されるのだろうか?
 コミュニケーションの進化、信号の進化は、行動生態学の非常におもしろい一分野である。なかでも「ハンディキャップの原理」と呼ばれているものは興味深い。それは、イスラエルのアモツ・ザハヴィが考え出したもので、信号が信用されるためには、発信者にとってコストのかかるものでなければならない、という説である。
 威嚇のシグナルを考えてみよう。そのシグナルは、「自分は本当に闘ったときには非常に強いのだぞ」という情報を発している。もしも、本当は強くないのにそのような信号を発する個体がたくさんいるのならば、やがて、そんな信号は誰も信用しなくなるだろう。そこで、その信号が信用されるためには、それは本当に正直に内容を示すものでなければならないはずである。
 そのためには、本当に強いものだけしか出せないような、つまり、強くない個体にはまねができないような、コストのかかるものでなければならない、という説である。ハンディーを背負えるものだけがそれを発することができるという意味で、ハンディキャップの原理と呼ばれている。
 クジャクの雄の羽がどんな信用のできる情報を伝えているのかは、まだはっきりとはわかっていない。しかし、雌は確かにそこから情報を読み取っているようだし、あの華麗な羽を生やすのには本当にコストがかかっている。あんな大きなものを生やすための余分な栄養も必要だし、目立つので捕食者にもねらわれやすい。風の強い日など、それに逆らってあの羽を広げてみせるには、相当のエネルギーが必要である。
 毒があってまずいことを知らせる警告色は、赤、黄色、黒といった縞や斑点であることが多い。これらの色素を作りだすにもコストがかかる。こういった化学物質の多くはカロチノイド系であるが、これらを合成するのは、それほど簡単なことではない。ベイツ型擬態で、毒のあるものに擬態している種類も、実際に毒はないものの、色を出す化学物質gは自ら作っているのであり、ただ楽々とまねているわけではないのだ。
 ベイツ型擬態の場合など、本当には毒ではないのだから、敵は、それを見分けることができた方がよいだろう。しかし非常によく似たものを見分けるには、また、見分ける側にコストがかかる。そして、中途半端に見分けて失敗したときのコストは、さらに大きくなるだろう。そこで、「一応、どれも信用する」という無難な手をとっているのかもしれない。
 細胞の表面には、さまざまな種類の糖鎖がくっついている。これらは、複雑な構造をしており、いろいろな細胞の種類を見分けたり、特定のタンパク質をみつけたりするための信号として使われている。
 最近これもハンディキャップの原理でできているのではないか、という説が出された。たとえば、酵母が細胞の表面にもっている複雑な糖鎖分子は、細胞どうしが接合するときに相手を選ぶために使われている、コストのかかる分子信号ではないかというわけである。クジャクの羽と同様の分子の飾りだ。
 この考えが正しいかどうかは別として、アイデアが、狭い専門分野を超えて広がっていくのをみるのは楽しい。異なる分野の研究者との雑談を通して、はっとひらめきが走る瞬間は、ちょっとした感動のときである。
 さて、ネオンサイン、コマーシャル、人々の服装や外見、言葉など、人間が発しているさまざまな信号はどうだろうか?これらでは、ハンディキャップの原理は成り立っているのだろうか?
 信号の信頼性やベイツ型擬態について考えるとき、私が思い浮かべずにいられないのは、日本全国の道路のあちこちにあった、おまわりさんの人形である。あれは、日本の警察が発明したベイツ型擬態であろう。果たして効果はあったのだろうか?最近見かけなくなったようだが、もう絶滅したのだろうか?

 この論文には幾つかの問題となる点が記述されている。例えば最後のおまわりさんを擬態する例の人形の絶滅という事態は、恐らく容易にそれがニセモノであるということを大勢の日本人ドライヴァーが見抜いたからである。そしてそれと同様のことというのは、ある意味では絶滅の危機に瀕した動物種にも見られるかも知れない。例えば最初は絶滅の危機というリスクを回避するというコストを払って獲得したベイツ型擬態の幼虫がいたとしよう。しかしその種の幼虫は長くそのベイツ型擬態の恩恵を被って既に絶滅種には属してはいない。その時捕食活動全般に渡って深刻な危機に見舞われた動物種がその擬態を見抜くということの可能性とは恐らくその種に許容された脳の進化の度合いによるか、さもなくば突然変異個体による偶然的な発見である。
 例えば本来ならば毒々しい色彩のその幼虫は害毒種であるという危険性を察知する視覚能力センサーの付与された種のあるセンサーが機能しない突然変異個体を持ったとしよう。そしてその個体は他個体と異なって臆することなくその幼虫を食べたのだ。するとそれがおいしいということが分かったし、それを食べても死ななかった。するとそれまでは回避してきた他の個体も挙ってこのベイツ型擬態の幼虫を食べ始めるだろう。これは動物に備わったミーム的現象である。恐らく生物学者たちは自然選択というものをそういうレヴェルで考えているのかも知れない。つまり安定化したベイツ擬態がほんの偶然によって見破られることによって、今度はベイツ型擬態のあり方、あるいは擬態そのもののあり方そのものに変更が加えられていくということは考えられるところのことである。
 スーザン・ブラックモアはミームということを人間による一つの驚くべき現象であるということをもってドーキンスが指摘したことを発展させて、一つの学問の域にまで拡張したが、そのミームの実質の一番特徴的な事態とは、端的にある行為を最初に始めた個体のするように模倣するということである。しかし恐らくブラックモアの主張するように、せいぜいのところ動物のなし得る模倣という行為は極めて限定されていよう。その点人間だけが殆ど彼女が指摘しているように笑う時にまで周囲が全員笑っていれば、連鎖反応で笑うようになる。つまり人間の大きな特徴とは極めて模倣能力に長けているということなのである。だからこそ滅多にないことであるが、ある専門分野のノウハウとか原理とかが別の専門分野のそれに影響を与えるというそのノウハウや原理の持つミーム性というものは、長谷川氏のような専門分野に携わる方にとって驚異の偶然であるということなのだ。つまり人間の能力としての模倣という事実に対して、いかに学問の世界の閉鎖性が、その本来の応用可能性を閉ざしているかということは、逆に言えば、人間は一旦獲得した能力とか知識を専門家のようなギルドによって独占され、またその事実に対して大した大きな疑問を抱かずに過ごすことが出来るとい安穏とした全能感と、最前線の専門分野の人々が往々にして抱く盲目の信頼という奴が人間を日常生活において支配している、ということなのである。(このことは本論全般に渡る一つの大きなテーマである。)
 このことこそ私が前節で示した「問題なのは、我々は①の不動事実であると思っているものの大半が実際に③のものであるということになかなか気がつかないということなのである。」という部分の主張に繋がるのである。
 細分化された自然科学分野の最前線というものはある意味ではその分野の携わっている人間にしかあらゆる知識やノウハウ、テクノロジーや思想が波及しないというの現代の常識なのである。このことを問題として提出された論文が佐藤徹郎氏の「科学から哲学へ」である。

 付記 論文未完成部分作成のために数週間お休み致します。(河口ミカル)

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