Thursday, May 17, 2012

時間・空間・偶然・必然_意識という名のミーム<科学で切る哲学、哲学で切る科学>6、専門的特殊技術と一般的知識

 一般的に言ってやはり私は科学向けの頭脳と哲学向けの頭脳というものはあるような気がするのである。勿論多くの哲学者が同時に天文学者であり、物理学者であったし、そういう意味ではデカルト、ライプニッツ、マッハ、ラッセル、ホワイトヘッドのように多彩な人というのはいたし、今でもいる。しかしそれでも彼らでさえどちらかと言うと科学者であるようなタイプと哲学者であるようなタイプというのは分かれるような気がするのである。だから当然職業としては哲学者であるのに、科学者的な人、あるいは職業としては科学者なのに哲学者的な人というのは資質論的にはあり得るだろう。
 まず科学は中島義道氏の主張するように人類の幸福のために学ぶという前提はあるように思える。しかし哲学では人生とか価値とかそういう大きな命題の前でも人生は無価値であるとか、価値といったことは幻想であると言うような捉え方をも辞さないというところがある、という意味では生に纏わる大きな命題を外延的に認識する学問であるのに対して、例えば数学では数学的真理という前提があり、大命題に対して内包的に学ぶという性質があり、そこからして既に真理究明という目的性が前提されている気がする。しかし哲学はここでも真理というものそのものをも疑うことを辞さないというところがある。
 例えばそれを文理系の国語ということに置き換えて哲学的な態度とそうではない態度というものを考えてみよう。
 次のような言葉を私が二十年間一度も会わなかった昔の友人と久し振りに再会して聞いたとしよう。
 「二十年間どういう風にして過ごしてきたって?そんなこと聞かれたって、あまりにも色々なことがあり過ぎて一々全部思い出せないし、そう簡単に伝えられないよ。」
 この言葉を聞いて中学校や高校の国語の教師であるなら、次のように解説することだろう。
 「あまりにも長い年月のことを聞かれたのに全てを咄嗟には思い出せないので具体的には答えられないでいることを私に伝えた。」 と言うように。しかし哲学者なら恐らくこの返答に対して
 「確かに二十年という歳月は長いので、どう過ごしてきたかということを咄嗟に聞かれて返答に窮してそのことを説明することが億劫で仕方なくそう答えたのだろうが、実際思い出そうと思えば全て思い出せるのだが、真意のレヴェルでは敢えて昔友人であったというだけで長い間会っていなかった私にそんなことまで伝える必要性を感じないでいるからそのことを暗に示そうと思ってお茶を濁したのか、久し振りに会った私に今も尚親しみを感じているのなら、あまり思い出したくはないことが多かったという意味だ。」 とそう言うだろうと思う。(前半の同じ部分よりも実際思い出そうと思えば以降の部分が最重要なのである。)しかしそこまで今の中学や高校の教育方針においては、教師は生徒にそうは言わないだろう、という確信が私にはある。
 つまりモラリスティックに認識する前提において何かを解釈するという図式が既に定着している感のある教育システムにおいては、今のような例でも理解出来るように、一定の解釈の図式を逸脱する解釈を仮に生徒がしたのなら、教育者という人々は猛烈に否定しようとするのではないだろうか?その意味では自然科学や数学の分野において何らかの逸脱をきたしたのなら、それは寧ろ哲学に近づいていると言ってもいいのかも知れない。
 例えば私は若い人には将来に向けて無限の可能性があるとよく年配者は言う。しかしそれはある意味では正しい部分もあるが、実際には偽善的であるし、間違ってもいる。
 と言うのも仮に私よりも若い人が必ず私よりも長く、つまり私が死ぬ時よりも後に死ぬとは限らないし、またその若い人がこれから生きていく上で選択する行為の数は私が既に五十過ぎまで生きてきたということからすれば、明らかに未知の選択可能性に満ちてはいるが、それを言うのならどのような人生も生まれた時にその人間に能力的に付与された可能性というものは大体既に限定されているのである。遺伝的な要因としてもそうだし、環境的な要因としてもそうなのだ。それは人類学者や生物学者であるなら同意する(こういう時には数学者とか物理学者の言うことは当てにならない。)ことだろうが、実は全ての人間はその限定された能力という可能性の範囲内でどちらを(或いは何を)選択するかということに悩んでいるに過ぎないのである。恐らく私は幼少の頃からどんなに努力したとしてもプロのスポーツ選手にはなれなかっただろうし、もう一度二十代に自分が戻ったとしても私は恐らく二十代の頃から今まで私がしてきたようなことを同じように繰り返すだろう、ということが私には想像されるからである。
 ところで私は最近幾つかのギャラリーに訪問し、時に職業的プロフェッショナルではない独学のアーティストたちとお会いする機会を得た。その際に感じたことというのは、最初からプロレヴェルの仕事をしているようなタイプのアーティストにはない自由さがあるということだった。そして私はこのプロならざる人々の感性というものをどこかで尊重しているところがある。
 例えば私は職業哲学者ではないから、恐らくプロの哲学者の哲学テクストに対する読み方とは若干異なった深読みとか、浅読みという事態も避けられないことであろう。しかし私がかつてカントもヘーゲルも読んでいない内に読んだメルロ・ポンティーに対する理解は勘違い的部分もあったであろうが、その際に読み取ったことの全てが誤りであったとは言えないだろう。つまり文学者がサルトルの名著を哲学的でではなしに、文学的に読んだとして、そこに文学的価値を見出すことというのは決して間違いではない、それは哲学的認識の正当性から言えば我流であると言うに過ぎず、決して間違いではない。と言うのもサルトルのテクストは職業哲学者たちのためだけに存在するのではないからだ。それはピカソのゲルニカがプロのアーティストが理解するためだけのものではないのと同じである。いや寧ろプロの哲学者の考えている方向で思いも拠らない本質をアマチュアの読者の方が見出しさえいるかも知れない。
 そういうことというのが恐らくアートの世界でも成り立ち、それどころか全ての分野にも当て嵌まるのではないだろうか?
 だからこそ逆にプロレヴェルの人たちは、そうではない人たちに対して啓蒙の意図と目的を持って接し、プロ固有の物の見方を普及することに努めるということには意味がある。そこで見出された齟齬と共通性から我々は新たなフェイズへと哲学を持ってゆくことが出来るからである。
 脳科学者の茂木健一郎氏は「「脳」整理法」において、科学者にはディタッチメントが要求されていると言っている。つまりそれはある科学的考えを発見した人が、その人固有の理解の仕方とか、発見者固有のパーソナリティーに順じて理解しなくてならないものではなしに、その発見者の人格とか功績とは無縁のいかなる日常的場面でも応用可能でなくてはならないという普遍性のことをそう呼ぶのだそうである。
 しかし佐藤徹郎氏の指摘によると、寧ろ哲学とはある哲学的考えを持つその哲学者固有の感じ方とか固有の信条と合致した感じ方のクオリアを有している者にのみ有効であるようなタイプの学であるというウィトゲンシュタイン的考えを採用している。このことを茂木氏はJ・L・オースティンの概念であるパフォマティヴとして、ディタッチメントと対極のスタンスであるとしている。(氏はそれを批判しているわけではない。)  
 ところで最後に再び世代の問題を述べるが、私は小説も書いているのだが、なかなか二十代の青年を主人公にした小説を書くことが困難なのである。勿論老人を主人公にした小説も、死や過去の人生全体に対する追憶というレヴェルでの切実さが実感出来ない以上それもまた難しいものとは言えるが、未だ二十代の青年を主人公にした小説を書くトライアルに比べれば楽な気さえするのである。それは何故か?
 まず私は五十二歳で、今年五十三歳になるのであるが、二十代という世代を私が過ごした期間は五十二分の十である。これを三十二歳の青年と比較してみるとたやすく理解できる。彼にとって三十二分の十というのは、十六分の五であり、私の二十六分の五よりも大きい。だからこれを八十二歳の老人と比較してみるともっとはっきりする。八十二歳の老人にとっての二十代というのは四十一分の五なのだから、彼にとっての二十代というものの長さというものは三十代前半の青年にとっての「二十代の頃の記憶」の切実さに比べれば、極めて僅かなものとなるのである。しかも人間は比較的最近の過去の方を切実に感じ取るという性質もある。すると私はこれから益々二十代であった十年というものの人生全体からの比重という観点ではそれを減少させてゆくのであるから、当然どこかこれから迎える老いの状態の自分を想像することの方が、徐々に遠ざかって行く二十代の十年間よりも切実であるという意味では、私が何故二十代の青年が主人公の小説を書くことに苦労するかということの根拠が極めて理路整然と説明出来る気がするのである。
 しかしこの小説の持つ虚構的世界の構築という性質は、実は哲学者たちがテクストを構築する時に、その時に内的に去来する哲学的思惟に忠実に書こうとするスタンスと著しく対立しはしないだろうか?
 実はこのことを考え始めたのはつい最近のことなので、今後の私の課題としたいと思っているのである。そしてその課題では先に述べた門外漢であるからこそ新鮮な着眼が出来るということの真実とどこかで重なりはしないかということも考えているのである。

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