Friday, January 15, 2010

時間・空間・偶然・必然_意識という名のミーム<科学で切る哲学、哲学で切る科学>3、憎まれっ子世に憚る

 この節の表題となる言説は諺中でも屈指の他者論である。
 私はこの言説の意味するところを長く単純に、皆からの、周囲からの嫌われ者というものはいい人間とは違って周囲に、つまり他者間に違和感を齎すから目立つということ、あるいはいい人間というものは死んだら悲しいと思うのに対してそうではない者はなかなか死なないという風に思えてしまう人間の心理を表現するものであると理解していたが、それは勿論誤ってはいないものの表面的な理解であるということに最近気がついたのだ。
 この言説の持つ真の意味とは実はそのように他者の存在を認識するように我々は運命づけられているということそのものに対する覚醒の意図を持つ言説であるという風に理解しなおしたのである。
 つまり自分にとっては好きな他者というものは掛け替えがないものであるから共にいる時に違和感などないのは当然であるが、そうではない他者とは違和感を醸し出すものであるということは、つまりそういった存在、つまり存在理由が極大化された存在そのものを疎ましく思うという心理には社会そのものに対する我々の要望がいかに自己中心的なものであるかということを示すものである。従って夢というものが、あるいは願望というものが総じて容易く実現し得ないからこそ夢であり願望であるという意味と同様、他者のあり方そのものが我々の夢や願望通りにはいかないということが、例えば愛すべき他者においても、自分にとって好ましい部分だけではなく、自分にとって醜く感じられる部分をも併せ持つという現実そのものへの注視を促すような言説であるという風に理解の仕方に変化を加えたのである。
 つまりもっと簡単に言えば、私たちはただの一人も好きなことだけをするわけにはいかず、好きな人とだけ一緒にいることは出来ず、好ましい状態だけを生において享受するわけにはいかず、それどころか好きなことをするために嫌なことを沢山しなければならず、好きな人と一緒にいることを多くするためにはそれだけ嫌な人と一緒に色々のことをしなければならず、好ましい状態を獲得するためにはそれだけ多く好ましくない状態を多く経験しなければならないということ、そしてこの嫌なこととか嫌な存在者とかとの共存とは我々にとっての運命であるということをこの諺が示しているように思われたのである。
 それを言うのなら、この諺な明らかに他者論哲学の主たる命題を表しているとも言えないだろか? 
 人間は自然において憎まれっ子であると自分でそう思いたいという部分があり、その部分が哲学のような学問を生んできたとも言える。しかし存外自然は人間だけをそのように固有の存在ではなく、勿論影が薄い存在というわけもないものの、決して特別の存在であるとは考えもしないし、事実人間だけが特別であると感じるのは人間だけである。
 しかし哲学はカルテジアンなら格別にそうなのだが、人間と人間以外の全てという区分けしか持たない。しかし生物学者とはどこか人間への興味を人間以外の生命にも適用するということを無意識にしているように見受けられる。彼らにとって人間を含めた生命とそうでないものという区分けがある。
 しかし物理学者たちにとっては人間も、人間以外の生命も、それ以外のものも全て自然界の物質である。それに対して考古学者たちはどこか人間や生命に対する関心をそれ以外のものに求め、その自然に対する愛着を持続しているよう私には感じる。
 哲学者でしかも倫理学的認識のきちんと出来る人であれば、恐らく人間には固有の意志があり、自由があり、当然それと不可分の責任があるから、植物や動物が行為選択というようなレヴェルの行動ではない本能や遺伝子的決定に従っているだけである、ともし捉えても、恐らく科学者なら人間でさえそれと同じことを結果的にはしていると自然全体からは捉えられると言うだろう。
 憎まれっ子であるという意識を自分で認識することは、どこか他者からよく思われたいという姑息な浅ましさがある。だからそういう意識が哲学を生みもしたものの、同時に哲学によってそう思うことは浅ましいと考えることも生じさせたと言える。
 恐らくどのような人間存在も自分で考えるほどには憎まれっ子でもなければ、格別重要な存在でもない。それは格別偉大な業績を残した存在者もそうだし、極悪非道な犯罪者も同様である。そしてそう結論するという意味では哲学者も科学者もどこかで共通しているのではないだろうか?
 だからこそ憎まれっ子と共存するという運命は各存在者個人にとっては極めて当然の事実であり、その憎まれっ子ということの内にはあらゆる他者が、あらゆる自己が含まれるということである。

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