Sunday, January 10, 2010

時間・空間・偶然・必然_意識という名のミーム<科学で切る哲学、哲学で切る科学>2、時間と意味、そして言語空間

 時間を事象間の連関を認識するものとして、あるいは空間的な展開の全行程を目撃し、それ自体は決して干渉しないようなタイプの変化を許容するような場を空間と呼ぶのなら、我々は次にこの時間を意味として考える場を得たとも言い得る。なぜなら意味とは変化というもの自体に即して他のものとの間で成立するものだからである。そして変化そのものが固定化したものではなく限りなく偶然的な展開を許容するような形で反復したり、しなかったりするということのあらゆる可能性の中の一つをたまたま選択するような展開の歴史を構成するその行程そのものを我々が時間と呼ぶなら、その歴史を意味として認識するということの意味は実は我々が時間を語るという行為の中にあるし、その時間を語るという行為そのものの意味を突き詰めることによって時間の意味も仄見えてくるという可能性を我々が信じることを諦めていないということをも意味する。
 我々はある意味では時間を意味として受け取ることの出来る唯一の存在者として自己を認識し得る。それが時間はその時間を語る存在者である我々の意識のあり方の中に見出し得るとも言い得ることと一の事実である。
 他者の存在が我々を他者の存在を語る上でその他者の存在理由を見出そうとする思考と言語行為の中で示す意味とは、他者の存在が不在となった時、とりわけその者の死をもってその者の不在の意味を探ろうとする言語行為の中で我々が他者の生前の存在理由を死後認識しようとする時により顕在化する。
 だから逆に死をもってその存在理由を敢えて見出す必要のないようなタイプの存在者には、確定的な彼にとっての他者による彼自身の存在理由の評定があるということを意味し、逆に敢えて死後彼の生前の存在理由を見出す必要があるという鎮魂的意図の言語行為をする必要があるということは、その者が端的に生前「影が薄い」存在だったということを意味する。
 私は今この日本語である「影が薄い」という言説に少し拘ってみようと思う。
 「影が薄い」という言説にはある種その者の存在が他者に与える影響力とか他者が彼の存在に見出すことが容易である(と言うことはわざわざ存在を見出す必要がないということを意味するが)のか、それとも敢えてその存在を見出す必要があるのかということにおいて、極度に後者であるということを表す。
 この言説を日本語で言う時、それは一般的言説なのであるし、常套的な表現でしかないのにもかかわらず、我々は、いや少なくとも私はこの謂いに極めてある真実を表現し得る巧妙さを見出すのである。だからもし英語でこの言説を英語上での常套的表現に委ねて、翻訳するのなら、あるいは通訳するのなら、きっと
He is unimpressive.(He is not characteristic.,He is not characterized.)
He is not so important for all.
He is not anyone.(He is not a someone.)
He is the person not(less) to miss for us.
と言うようなタイプの幾つかの言説が与えられるかも知れない。しかし敢えて私がこの日本語をそのまま直訳(直訳とも言えないようなタイプの翻訳なのであるが)し、例えば次のような翻訳をしたとしよう。
His shade is pale.
 するとある一定以上の知性を兼ね備えた英語圏のネイティヴなら、恐らく誰でもある程度納得し得るような態度を採って、私のこの翻訳あるいは通訳された内容を日本語が示す意味とほぼ相同のものとして理解することだろう。
 それは慣用的な日本語であるということを英語の慣用性へと置換するという観点からは、敢えて暴挙であるようなこの翻訳や通訳それ自体が、表現としての意味を問うた時、明らかにある種の意味論的普遍性を持っているということを意味するからである。
 ある存在者の存在理由を問うという行為は、その行為者たちがその存在者の生前の、あるいは生きている者の話題であるにしても尚、その存在理由を問わねばならないという行為に対する必要性を敢えて意識することを選択しているわけだから、当然そのように敢えて問わない存在者に対しては一定の存在理由を問う必要のない存在として認可しているという敬意に対する現われでもあることを意味する。
 ある存在者の存在理由を問うという行為の意味するところは、死者であるなら、その死者の生前持っていた彼の生そのものの存在理由を見出す必要をもって、その死者への敬意、あるいは鎮魂の情を示すということを意味するから、当然他者の生という事実を一定の時間を共有した者にのみ固有の、あるいは一瞬間たりとも共有していない場合なら、その者と仮にそういう瞬間を共有していたのなら生じるであろう他者の存在理由を問うことを通して、生という事実が変化であるということ、その変化がその語義上その時々において偶発性を有しているものであるということを前提しつつ、その他者や周囲の環境と相応しながら変化することそのものが生きた時間に対する承認を我々がなしているということ意味し、それは我々にとっての時間というものの意味が生の意味であるということを我々がどこかで意識するにせよ、無意識的にせよ覚知しているということでもある。そしてその<我々にとっての時間=我々の生の時間>という図式を理解することを意識的にせよ無意識的にせよなすことこそが我々にとって言語空間であるに他ならず、それが発話であれ、記述であれ我々に対してその言語的メッセージへと意識を向かわせるところのものなのである。

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