Wednesday, January 20, 2010

時間・空間・偶然・必然_意識という名のミーム<科学で切る哲学、哲学で切る科学>4、信じることのプロセスから考えられる時間の性質

 哲学者がものを書く時、その言説は日常的に彼が内的に実感し得ることを糧に内容を決定するだろうし、その決定された内容に盛り込まれた主張が正しいと実感し得る時にのみ書こうとするだろう。それは倫理的に正しいことであると言うよりは必然的な行為のあり方である。しかしそれはどこか科学者が実験によって得られたデータを下に法則的事実を発見したと確信した時にする理解の仕方と、その啓蒙意識に共通性がある。しかし科学は実践出来ることにおいてのみ実験しようとするが、哲学は科学で言うところの実験は不可能な領域を最初から目指す。
 しかし極めて重要なこととは、その言説と言説を成り立たせた信念とが仮に一致していたとしても、その言説が他者、つまり哲学テクストの読者に対して一定の説得力を持ち得るかどうかに関して彼ら哲学者とは決して最初から完全なる自信があるわけではない。
 自信を得るために書こうと決意する時もあれば、恐らくこれだけは確かだろうという信じる気持ちが強い時にこそ書こうとすることもあろう。
 そこで本節では信じる気持ちというものがどういう風に立ち現われるのかということを軸に、信じる気持ちとは一体何なのか、どういう意味を持ち得るのか、ということについて考えてみたい。
 そもそも1945年8月15日に終戦を迎えた太平洋戦争、あるいは大東亜戦争、そして第二次世界大戦という歴史的事実を信じるということの内にある私にとっての「信じる」意味と、今日さっきパスタを私は食べたということを「信じる」意味と、私が日頃から感じていて、その感じていることの根拠とか、感じていることを成立させる背景に対して哲学的に究明し、一つの真理を発見したとして、その真理そのものに対して「信じる」ということの意味はそれぞれ異なっているように思われる。それは成立する状況も違えば、立ち現われる「信じる」ことの性質さえ異なっているように思われる。
 例えば私は1959年に生まれたので、当然戦争を知らない世代であるが、しかし戦争がかつて日本であったということを知っている。だから私は外部的な環境によって、例えばこの例でいけば、両親が戦争を体験しており、その体験談という形で、あるいは歴史について触れた本や新聞や、テレビやその他のメディアによってその体験を綴った内容のフィクションとかノンフィクションを通して私は戦争に対する知識を得、それを糧に私はそのような戦争があったと「信じている」。
 しかしそのようなこととしてさっき私がパスタを自分で茹で、食べたということが私によって信じられているわけではない。それは現実に私がなした行為に対する今現時点での確信からそう言うのである。しかし重要なこととは、私が今日食べたパスタのこと、つまり私が茹で皿に盛り、食べた事実は、私が一年後仮にこの文章を自分で読む時には恐らく思い出すかも知れないが、そういうことでもない限り一切私は今日夕飯のパスタのことをけろりと忘れて過ごしていくことだろう。
 しかしその点私は太平洋戦争に関する歴史的事実を「あった」と信じることは一年後も恐らく今現時点とそう変わりないだろうということは予想出来る。勿論その時の世界情勢とか社会情勢次第では太平洋戦争という歴史的事実に対する受けとめ方は今とは変わっているかも知れない。しかし恐らく終戦記念日とかその終戦へと至ったという歴史的事実の本筋においてはそう変更があることはないだろう、勿論新たな新事実が歴史を掘り起こして発見されるということはあるかも知れないが、そのことは寧ろ私が他の多くの日本人が知識としての実感として知っている戦争のイメージをそうたやすく変えるものではないだろうということは容易に想像出来る。
 さてそういう意味では私がある程度長い時間をかけて醸成させた自らの信念に近い、最後の例である哲学的考えというものは、私自身の人生に何か途轍もなく大きな異常体験があったのならともかく、そう大筋では変わらない生活を一年後私がしているのなら、その時なりの今とは違う受けとめ方があったとしても尚、私はそれを例えば今書くこの文章をその時読んでも、先ほどのパスタの例のように「そうか、そうだったか。」ということとは違った形で、私は「なるほど、今でも基本的にはそう考えているよな。」と思うことだろうと私は思う。そういうある種の不変性という意味では私にとっての太平洋戦争の終戦という歴史的事実に対する知識としての「信じる」と似ている。
 しかし太平洋戦争の終戦の日という事実とは外部強制的に私にかつて到来し、その時点から固定化されたのに対して、私の哲学的信念という奴は、ある意味では私という人間の内部主体的な到来によってのものである。勿論私自身の信念は恐らく多くの対私の外部規定的なこととか、私にとって思いも拠らない多くの私自身には責任のない多くの出来事がかかわっていることだろう。しかしそういった外部的な非私的な要因を差し引いても尚、そこに私自身が自殺でもしない限り、生への執着を保持している限り、私自身の内発的な要求に拠るものであり、私自身にその信念の責任がある。
 例えば実際にはこんなことは滅多にあることではあるが、哲学的には私たち戦後世代の全ての人が実は全くなかった戦争というものを上の世代によって捏造され、信じ込まされているという可能性というものも皆無ではないとだけは言い得るのである。事実生物学者のリチャード・ドーキンスは宗教倫理的な、宗教教義的なものに端を発する全て信仰や迷信、あるいは伝統的な文化コード的な支配力の全てを「本当にはなかったのに、あったかの如く幼児期に刷り込まれてきた悪弊」であると断じている(「悪魔に仕える牧師」、「神は妄想である」等より)が、このような考え方はある意味では私が今述べた戦争がなかったのにあったとして教え込むようなことの実例を理解するためには役に立つだろう。
 要するに自分がしたことに関する行為事実に対する認定という意味合いでの私が茹でてさっき食べたパスタということに対する確信と、太平洋戦争の終戦という歴史的事実に対する確信と、私が日頃感じ続けてきて、次第に確固となってゆく哲学的な確信という三つの間には明確な違いがあるのである。 
 では私はこの三つの信念に対してその「信じる」こととなるプロセスを通してその醸成の違いに注視しながら時間というもののあり方に関して考えていってみようと思う。
 まず太平洋戦争の終戦という歴史的事実に対して、そういうことが過去にあったということを「信じる」ことの信じ方の範疇には極めて多くの他の「信じる」が入る。つまりある程度永久にそうであると信じることから、人生に大半と言っていいほどの長期的な期間変わらない真実に対して向けられる信念だからだ。
 この中には我々が両親に対して、あるいは配偶者や子供に対して抱く同一的な識別ということも含まれる。通常はそういう人間関係を誤って記憶するということはあり得ない。あるいはこの中には三角形の内角の和は180度であるというような数学的な知識、物理学的な知識、つまり定理や法則に対する一般常識も含まれる。
 それに対してさっき私が食べたものはパスタであるという信念はその時々には全く疑う余地のないものであっても、それが二日三日、一週間とたつ内に忘れ去られる信念なので、そういう信念は要するに「今」ということに深く関わっている。
 最後の一つは私が例えば50年生きてきて、人生全体から、そして日々の生活の実感から得た教訓とか、人生訓とか、哲学的考えといったものであるが、こういった信念とは要するに経験によって培われるものであるから、第一の信念のようにかなり長期的に不動である場合も多いが、何らかの変更を来たす可能性は大いにあり得る。そういった意味では通常自分の両親(特に生みの)が変更されないとか、数学の定理が覆されないというような意味での不動性、固定性というものは絶対的ではない。しかしある意味では生活において四六時中住みつくという意味合いにおいて極めて大きなものがある。たとえそれが思い違いであったり、考え違いであったりしてもこういった信念というものはかなりな部分で人生での成否を決定すると言ってもよいだろう。
 この三つの信念を差し当たって、次のように定義しておこう。

① 不変的真理、不変的事実に対する信念(初期設定的信念)
② 今の状況、今している行為を基軸とした信念(状況判断的信念)
③ 継続的経験に基づいた生活上、人生上の信念(被獲得信念)
 
 この①において我々はその事実を信じるにあたり、一定の確信を得るために信憑性というものを得る必要があり、その信憑性というものは例えば自分の両親というものの存在のように外部的に強制的に告げ知らされるようなタイプのものと、学校とか教育機関においてやはり強制的に教えられるものがあり、一定の努力の末に掴み取るようなもの、例えば仕事上のノウハウといったものは③に属すということにしようと思う。
 ここで問題なのは③とは要するにある程度長期間における断続的な経験というものを必要とするということ、そして①はそれとは違って大半が幼児期に決定されるものであるということ、そして②は人生のどういう時期であれ、意識というもの、あるいは自我というものを持つことになる年齢以降の全ての瞬間に介在する信念であるということである。
 信念とは形成されることにおいても一定の時間を要するが、それが極めて重要であるということはやはり一定の時間を保持する必要性が生じることでもあるが、①の場合、その信念は人間として生きていく上で社会的な認識力とか常識という意味では、不可避的なものであり運命的なものでさえある。まず両親とか子供という存在に対する同一的識別の信念がそうであるし、どこそこの国に生まれ、どういう民族、どういう社会体制の国や共同体で生活するのかということに関する信念は、自分の努力ではどうすることも出来ない。それは家族構成とか生まれた時の環境と同じようにである。
 しかし②においては自分の自宅にいる時でも、外国旅行中でも、拉致されて監禁されている部屋においても、いつ何時でも等しく経験する知覚、感覚、意識に対する信念である。
 その意味では不動のものでも、今現時点のものでもない信念である③にはある程度流動的であるとも言える分、その流動性を構築するために①や②があるとさえ言い得る。
 つまり①は初期段階で決定されるものであり、②はその都度のものだとすれば、③は明らか①という前提においてその都度の②の集積とか統合によって形成されるものであるとは言えないだろうか?
 この三つの信念を時間的なスケールで示すと次のような図式が与えられる。

① 初期設定的信念→決定→持続
② 状況判断的信念→意識的、対自的常時保持
③ 被獲得信念→①の前提の上に②の経験と記憶によって統合されたもの
 
 従って①の決定的な運命に対してその都度の生の時間内における②の集積は経験と記憶によってなされるが、その運命的事実に対する記憶とエピソード記憶的な想起と、その都度のその二つの統合(恣意的なものである)、あるいは再構成ということにおいて③が成立するわけだから、①の不動の記憶に対して②のその都度の意識の連続とそれに対する想起が、生全体に必要とされる記憶の再構成という事態をもって、はじめてその都度③が形成されると考えてもよいだろう。そして②に対する記憶はその都度選択されて想起されるだろう(忘れ去られることも多いだろうが)し、③の成立によってその都度②のエピソード記憶に対する想起内容、想起対象の時期や瞬間が確定されると言ってよいだろう。
 しかし問題なのは、我々は①の不動事実であると思っているものの大半が実際に③のものであるということになかなか気がつかないということなのである。
 このことに関して次節からはスーザン・ブラックモアの「ミー・マシーンとしての私」と佐藤徹郎氏の「科学から哲学へ」という二つのテクストに対する解釈からこの難問取り組んでみたい。

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