Thursday, May 31, 2012

時間・空間・偶然・必然_意識という名のミーム<科学で切る哲学、哲学で切る科学> 9、完全性という理想と不完全性からの出発

 空間というものは、私たちにとってある意味では完全に何か物体がそこにあり、その物体と私たちとの関係において世界を認識する端緒とするような場でなくてはならないということは粗方理解出来た。しかし空間そのものに内在する何らかの不可知の質とか、空間そのものの限界というものを我々が知らない以上、我々はこう考えることが出来たのだ。空間であれ、時間であれその本質を見極めることの出来る完全者というものが存在してもよい筈だ、と。しかしそのような存在は思念上では設定可能だが、立証不可能である。しかしだからこそそれは実在的な垢に塗れていないある種の崇高さと輝きを精神的に失ってはいないものとして我々は心の奥底に感じることが出来る。それは芸術の内的なモティーフであり続け、精神の拠り所であり続けてきたものである。それを神という名で代表させてきたとしたら、神という概念への認識は理解可能なものとなるだろう。
 その点で最も人間と神の関わり方を積極的に追求した哲学者としてフォイエルバッハを考えることが出来る。ルドウィッヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ(1804~1872)、刑法学者のアンゼルムの息子(四男)である。
 まずこの哲学者の考えを見据えながら、人間にとっての神という永遠性、絶対的理想とは一体何なのかということを掘り下げ、7で扱ったアンリ哲学との接点も見出し、考えていってみよう。
 「キリスト教の本質・上」(船山信一訳、岩波文庫)からまず幾つか抜粋してみよう。最初に示したいのは、第一部<宗教の真実な本質_すなわち宗教の人間学的本質>中第三章の<悟性の本質としての神>の初頭、彼はこう始めている。(103ページより)  
 宗教は人間が自己自身と分裂するということである。すなわち人間は〔宗教においては〕、自己(人間)に対立した存在者としての神を自己に対置させる。神の本性は人間の本性ではなく、人間の本性は神の本性ではない。神は無限な存在者であり、人間は有限な存在者である。神は完全であり、人間は不完全である。神は永遠であり、人間は一時的である。神は全能であり、人間は非力である。神は神聖であり、人間は罪深い。神と人間は両極である。神は端的に肯定的なものでありあらゆる実在性の総体であり、人間は端的に否定的なものでありあらゆる虚無性の総体である。
 しかし<人間は宗教のなかで自分自身のかくれた本質を対象化する。したがって、宗教は神と人間の対立葛藤から始まるのであるが、その対立葛藤は人間と人間自身との葛藤である、ということが明示されなければならない>。(<>管理人選択=重要箇所)
 この箇所から重要であると思われるのは圧倒的に最後の三行である。ある意味ではここにフォイエルバッハの本テクストの全てが集約されていると言ってもよい。
 つまり冒頭の文章の全ては最後の三行のために書かれている。
 そしてフォイエルバッハは決してニヒリストではないし、また原罪告発論者でもない。それは例えばこの文章に至るまでの緒論における次の箇所における記述からも明らかである。(98ページより)
 <人間は自分の本質を対象化し、そして次に再び自己を、このように対象化され主体や人格へ転化された存在者(本質)の対象にする。これが宗教の秘密である。人間は自己を思惟し自己にとって対象である>。しかし人間が自己にとって対象であるのは対象の対象_他の存在者の対象_としてである。今の場合も事情は同じことである。すなわちここでは人間は神の対象である。人間が善であるか、それとも悪であるか_それは神にとってどうでもよいことではない。いや、神は人間が善であることに対して生き生きとした真摯な関心をもっているのである。神は人間が善であり且つ浄福であることを欲する。なぜかといえば慈愛(善)がなければまた浄福もないからである。したがって信心深い人間は、人間の活動の虚無性を再び次のことによって取り消す。すなわち、人間が自分の心術と行為とを神の対象とし、人間を神の目的_なぜかといえば精神において対象であるものは行動においては目的であるからである_として、神の活動を人間の救いの手段にすることによってである。神が活動するのは人間が善になり且つ浄福になるためである。こうして、人間は外見上は最も神のなかで且つ神を通してもっぱら自分自身を目的としている。たしかに人間は神を目的にしている。しかし神は人間の永遠な道徳的救い以外の何物も目的としていないのである。したがって人間はもっぱら自分自身を目的としているのである。神の活動は人間の活動から区別されない。(<>管理人選択=重要箇所)
 フォイエルバッハのテクストは全体を通読しなければその哲学的本質の全てが直ちには了解出来ないようなタイプのものではなく、寧ろ最初から結論を積極的に示しつつ、逆に章を追うに従って微細に分析してゆくようなタイプのものである。従って彼が無神論者であるということも緒論の最後に既に示されている。(この部分は未だテクスト全体の五分の一くらいの箇所である。)
 要するに彼は神の本質とは人間の本質に他ならないという哲学認識を絶えず反復しているのである。そのような部分での主張が例えばマルクスやエンゲルスに啓示を与えたり、恐らくそれ以後もキルケゴール、ニーチェ、ハイデッガー、サルトル等にも影響を与えたりしたのではないかと察せられる。例えば記述順は前後するが、彼が労働の概念と時間の概念に触れた部分は、第一部<宗教の真実な本質_すなわち宗教の人間学的本質>中第三章の<悟性の本質としての神>の中盤に登場する。(110~111ページより)
 形而上学的存在者としての神は自己自身のなかで満足している知性である。またはむしろ逆に、自己自身のなかで満足している知性・自己を絶対的存在者として思惟する知性が形而上学的存在者としての神である。それ故に、神のすべての形而上学的な規定であるのは、ただそれらが思惟規定として認識され、知性や悟性やの規定として認識されるときだけである。
 悟性は「原本的原初的な」存在者である。悟性は万物の第一原因としての神から引き出す。悟性は悟性的な原因がなければ世界は意味も目的ももたない偶然にゆだねられているのを見いだすのである。また悟性はただ自己_自分の本質_のなかにだけ世界の根底と目的とを見いだすのである。また悟性は、ただ世界の現存在をすべての明晰で判明な概念の源泉から_すなわち悟性自身から_説明するときだけ、世界の現存在が明晰で判明なことを見いだすのである。悟性にとっては、ただ意図をもって且つ目的にしたがって_すなわち<悟性をもって_働く存在者だけが、直接に自己自身によって明晰で確実な存在者であり、自己自身によって基礎づけられた真実の存在者である。>それ故に、それ自身はなんらの意図ももたない存在者は、自分の現存在の根底を他の_そしてもとより悟性的な_存在者のなかにもたなければならない。そして、こうしてつまり悟性は自分の本質の根源的な事象としての存在者・第一の存在者・世界に先行している存在者として措定する。すなわち<悟性は、順位からいっては自然の第一の本質ではあるが、しかし時間からいっては自然の最後の本質である自己(悟性)を、時間からいってもまた最初の本質(存在者)にするのである。>(<>管理人選択=重要箇所)  
 ここでも最後の三行が最も重要である。ここにフォイエルバッハの時間論の本質も浮かび上がる。そしてこの考えは次の一節を考慮して再び考え直すと更によく理解することが出来る。(108ページ)
 神とは自己を最高の本質(存在者)としていいあらわす理性であり、自己を最高の本質(存在者)として肯定する理性である。<想像にとっては理性は神の啓示そのものもまたは神の一つの啓示である。しかし理性にとっては神が理性の啓示(顕示)である。>なぜかといえば、理性が何であり理性に何ができるかは、神のなかで始めて対象となるからである。
 つまり神が我々によって要請されるのは、神が理性を司ると我々が考えるからなのだ。そしてそれは先の引用のおける浄福が慈愛の所持によって可能となるような人間の人間による能力に対する信頼によってなされている信念であるということである。そして空想や想像を下位に置くフォイエルバッハによれば、想像するという現実に対する認知こそが、我々を想像に耽ることを戒める理性の存在を想起させ、一旦取り戻した理性において、我々はそこに神を見いだすという仕組みである。そしてその仕組みを見いだすことが行動となり、行動規範としての倫理となり、それが働く存在者であり、その働く存在者の生の現実こそが実存であるという認識へと至るのだ。ここにマルクス以降の経済学、社会学、哲学に対して啓示を与えた彼の本質が浮かび上がる。
 しかし恐らく彼の哲学はそういった後代への啓示性そのものにあるのではなく、やはり彼独自の論理的メカニズムにあると私は思う。
 例えば現代人というのは彼が悟性の本質であるとする法則、必然性、規則、尺度といったもの(107ページより)を自然全体の、あるいは世界的現実全体のほんの一部である、という直観をどこかで拭い去ることが不可能なのではないだろうか?それら悟性とは要するに我々に「そうであってほしいこと」のシンボルである。しかしそういったシンボルとは我々にとって実現可能な極めて限定された範囲の日常的現実でしかないことを知っている。
 例えば彼が最初に私が示した引用において言っているように人間は有限である。即ち人生はいつか終わる。そして我々は私たち一個の人生が終われば、全てが、つまり私にとっての世界が終わることを知りつつ、「世界」そのものは私の死をもってもびくともしないことをどこかで薄々知ってもいる。
 だからこそ不死とは最大の願望であり、神は不死であるという一事をもって最大のシンボルである。しかしそこで7で私が示したアンリの苦悩の問題へと関連づけられる。
 つまりアンリが人性と神性が分離することの苦悩をフォイエルバッハも既に注目していた。アンリの苦悩、つまり神性と人性の一致に対する願望と、その論理的矛盾に関してフォイエルバッハは次のように示している。(106ページより)
 哲学・数学・天文学・物理学_かんたんにいえば<学問一般_は、真実に無限で神的な活動であるから、この活動を事実によって証明しているものである。それ故に宗教的な神人同形説もまた悟性に矛盾する。悟性は神に関して神人同形説を認めず、それを否認する。しかしこのように神人同形説から解放されたところの容赦しない無感動な神は、まさに悟性自身の対象的な本質以外の何物でもない。>(<>管理人選択=重要箇所)
 つまり彼は神人同形説をまず悟性の側から否定する。しかし同時に悟性によるそういう判断に対する無頓着な信頼をも続けて否定するのだ。ここに彼の言いたいことの本質が 横たわっている。
 そしてこれはある意味ではアンリの苦悩の出発ではあるものの、結論ではない。つまりアンリの苦悩の根拠をフォイエルバッハは示しているが、彼はアンリと反対に無神論を貫くのである。だからこそ彼はまず神は人間と同形ではないという人間の論理を悟性の側から人間の願望よりも優先し(その仕方はカントが道徳的法則に基づいた理性的判断を個人の格律よりも上位に置くその仕方を彷彿させる)、その宗教的願望の虚妄を告発するのだ。しかしその告発はいささか人間学的にはゾンビと現代哲学者たちが表現するものに近づくというアポリアを示し、論理的悟性と、人間学的認識を区別する必要性を主張する。ここに哲学的苦渋の決断を読み取ることが出来る。
 つまり人間はアンリが「顕現の本質」(和訳では「現出の本質」として法政大学出版局において刊行されている)で主観以前に客観的認識が先行するという他性認識的存在者であるところの人間とは、<完全という人間にとっての他者>を願望的理想としつつ、その理想に程遠い存在として自己を認識し、行動する際に悟性を利用するというわけである。つまり人間は完全性への果てしない希求者であると同時に、それ故にこそ不完全性から出発することを余儀なくされ、即ち不完全者として行動することを運命づけられているのである。そしてそれを遂行することが出来るのは我々による我々内部に巣食う理性、つまり神の声なのである。ここにフォイエルバッハの主張のカント、ヘーゲルからの継承を読み解くことも出来る。
 しかしこのことは一面では哲学において他の動物をはじめとする生物全般を人間と人間以外の全てというカルテジアン認識を持つ哲学者全般に対して、一つの訓示を与える。それは「人間は自分で思うほど高尚ではなく罪深い」が、同時にフォイエルバッハはその事実を真摯に受け留め、決してニヒリズムには陥らせないのである。罪深いが、同時に人間には神になる瞬間があるということをフォイエルバッハは信じてもいる。つまり常に神ではいられないものの、人間が人間に対する興味において神を炙りだしたように人間は幾分確かに彼の言うように罪深いが、同時にキリスト教の原罪という観念に埋没することを批判しつつ、人間学的な人間の向上可能性に期待しているのである。そこに現世宗教的教義に対する批判と同時に神へと志向する思念上での人間の運命を本質宗教(そうであるべき宗教)というイデアに対する肯定を読み取ることが可能である。
 本節以降もたびたびフォイエルバッハとアンリ、そして更にポール・リクールのテクストを参考にしながら、論を進めていきたい。そして再び次節では時間論に踏み込むことになる。

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