Sunday, June 3, 2012

時間・空間・偶然・必然_意識という名のミーム<科学で切る哲学、哲学で切る科学> 10、私は今を食い尽くす

 結論的に言えば、私は時間というものを、自己意識による消費と考えている。私は常に現在を食い尽くしているというわけである。尤もこの考え方に睡眠時というものは含まれないことは言うまでもないが(睡眠については別の箇所で考えることとする)。
 例えば今私は食事をし終えて今この文章をパソコンの画面を見ながらワードで打ち込んでいる。だからさっきまで食事していた時間は既に過去のものである。しかし食べている時私は明らかにその食べる行為を今の行為として意識していた。つまり何か継続的な行為をしている時には、その行為を始めた瞬間からずっと継続した今であるということは然程問題のある認識ではないだろう。従って過去というのはある意味では一つの行為が途切れて、別の行為に赴く時に、今している行為に対してさっきまでしていた行為を振り返るという形で到来するのではないだろうか?
 端的に私にとって私に対する自己意識においては常に今である。だから過去はただ単に私にとっての今を今ではない時に対する意識として浮上させているだけである。ここら辺は中島義道の第二次想起、つまりリテンツイオン(retention)優位の考え方と同じである。過去とは端的に今していること(行為)ではない自らが「した」と信じている(想起しつつ)行為へと向けられていると考えてもよいのではないだろうか?では未来とは?
 そのことに関しても中島義道が「生きにくい•••私は哲学病」等でより適切な主張をしていると思う。
 中島の主張するように未来は確かに実在しない。それは過去が実在しないという形とはまた違った様にである。と言うのも過去とは想起においてのみ実在することが可能だからだ。従って私にとって私の過去(に対する私の記憶<内容>)こそが「世界」の過去を知るための唯一の里程標であり、「世界」の過去における私がこの世に誕生する以前の過去は、私にとっては実在的な感触はゼロである。それらは端的に「世界」から私の世界に与えられた「外部からの知識として植えつけられた記憶」でしかない。
 しかし中島が時間というものを流れとして位置づけることとは要するに時間の空間化であるという主張をそのまま受け入れれば、進化論とは生物学、考古学、博物学一般において受け入れられている定説としてのダーウィンの進化論を含めて、それらは哲学ではないから、当然今という意識は欠如している。そもそも化石によって発見されるもの同士を例えば炭素含有量などを糧にデータ産出して示した一つの過去の別の過去に対する前後関係であるから、それは例えば現在の我々ホモサピエンスを規準にした過去の遺物に対する認識を構成する一種の時間の空間化の際たるものである。
 しかし私が考えるところスーザン・ブッラクモアは心理学者なので、決して哲学者ではないから、哲学者が考えるような意味で今とか私ということを意識した認識でははいものの、少なくとも認識論的には時間の空間化という従来型の進化論(社会生物学を含める)に対して、空間の時間化という新たなフェイズを導入しているように思われる。
 要するに時間側から空間側へと、そしてその逆に空間側から時間側への接近を統合しようとしている様に思われるのだ。
 何故なら後者に関して、私は彼女の主張には、遺伝子作用に対してミーム作用というものの存在を主張することによって、二つの相反する作用が相補的に絡まり合って、二つの関係はフォイエルバッハが主張するような意味での延長と思惟(思惟もまた存在する意識の内的行為事実として実在認識可能である。「キリスト教の本質・上」の88ページより)というジョン・ロックの考えを発展させたものと考えられる思惟の側からの延長(対象に対する認識)に対する認識作用という認識を発展させたものであるとも思われるからである。
 つまり遺伝子とミーム両者のいずれの側からも成立する主体と客体の距離そのものは空間的であるが、その二つの相補的なアプローチという事態そのものは時間的な尺度でも考えられ得るから、当然この二つの相補作用においては、二つの主体は異なった進化の時間が与えられるので、従来型の社会生物学にはなかった空間関係における時間的推移という観念が付与されていると思われるからである。また従来型の進化論では遺伝子だけが主体であったが、それは遺伝子がミームに対して受動的に翻弄されている様をも描出しているからである。  ここで時間論を巡る我が国の哲学界の論争について考えてみたい。
 1で述べた時間論において私は意図的に時間というものを哲学的な「私にとって」という視点を排除してみた。それは私自身がプロの哲学者ではないということから哲学テクストとしての体裁を敢えて避けたかったからである。つまり哲学的思惟を既にあるものとして示すことは本ブログの目的には沿わないと思ったからなのだ。
 しかし変化というものを保障する場こそ時間であるという考えは、ある意味では空間と協同して体裁を形作っているという印象を与えたかも知れないが、空間と時間とは我々がそのように区分けして認識しているだけで、そもそもあるものではない。
 例えば空間はただニ物の関係を同一の場に保証するという事態を我々がそこに「空間があるからだ」と認識するから派生するものに過ぎず、時間はそのニ物間の関係自体の変化の成り行きを全体として保証する猶予であるとしても、時間そのものはある意味ではそういう風に事後的に反省意識の下で想起したり、過去事実化したりしているからこそ認められるだけで、そこにそういう一連の「流れ」があったということはただ単に幻想であるかも知れない。時間が流れではないという考えは大森荘蔵や中島義道が主張してきていることだから、ここでは繰り返さない。
 私が敢えて哲学的な「私にとって」を排除したもう一つの理由は外在主義的に捉えたかったらである。では内在主義的にはどのように捉えられるのだろうか?
 私は私という意識を常に今である行為の最中であり、思惟の最中である私によって保持されつつ認めている。そして常に今でありながら、刻々とその今が過去に後退しているように感じられるのは、さっきまで食事していた自分の姿が想起においてしか認められないという事実をもって、ほんの少し前での過去の私は食事していたが、今はワードで文字を入力し、保存しようとしているということを私が知るからであり、そこに一つの断絶を読み取っているからである。今ではないあの時の私、過去ではない今の私という比較を生じさせる事態全体を通して、その全体を経験している同一の人格として私は「変化しない」・「私の世界」として認めている。つまり私の中の変化とは「変化しない」・「私の世界」を前提している。
 私にとって他者であるのは、ある意味では人格を持った存在者だけではなく、過去における「私」も含めた今ではない「私の世界」の中の「私の世界であった」ことにおける全てである。過去の事実とは記憶しているのだから、「私の世界」において経験したことである筈だ。そして記憶しているからこそ想起し得るのだ。私が想起において確認し得る全ても私にとって他者であるが、現在知覚において確認出来るものもまた私にとって他者である。そして今知覚し得るものとして不在であるものもまた不在という形で想起、表象し得る他者である。そしてこれら他者は全て変化し得るのだという私の目測がある。
 しかし私にとって親しい友人といった他者たち、つまり頻繁に会うことの出来る人たちや、私にとって身近な事物などはその変化というものを容易に察知することが出来ない。しかしある時ふとそれらの過去における姿を想起すると、以前とは変わってしまったと認められることがあるとしたら、そういう想起とは、例えば久し振りに会う知人が以前と随分変わったという印象を持った時に、我々はいつも接している他者や事物のことを思い返す、するとそこに歴然として変化を認めざるを得ないこととなるというわけである。
 そしてそういう風に私の周囲の身近な他者や事物の変化を認めざるを得なくなると、今度は必然的にそういう「私の世界」の登場人物や大道具、小道具であるものなどが、「「私の世界」の中の私が変わってしまった」(「私の世界」であったものの中の「私」が変わってしまった)という事実へと私を突きつける。つまり私の周囲の他者や事物が、見慣れたものであるために気づくことがなかったが、ある時ふとその変化に眼を転じると、途端にその変化を認めた「私」もまた「変わってしまった」と気づくというわけである。
 しかし不思議なことに「あいつは変わった」とか「彼女変わったよね」と言うことはあっても、「俺は変わった」と言うことは決意表明、つまりパフォマティヴな言辞以外では殆どないと言ってよい。これは何故なのだろうか?  もし誰かにそう言うとしても、それは前後の文脈で、ある考え方について会話しているという状況全体の中から「<それについての考え方において>俺は変わった」とか言い得るのであって、あくまで自分自身の全体の変化、例えば年老いて皺が顔に多くなったとか、白髪が増えたとか背が縮んだというような場合以外で「俺は変わった」とか「私は変わった」と他者に告げることはない様に思われる。それは何故だろうか?
 それは自分というものに関する説話という秩序において、我々は自分を客観的に認識することなど出来ないという不文律が一人称的言辞において、少なくとも具体的な指示、例えば背丈とか、考え方とかが与えられていない時に、そのように他者に自分の変化を告げることが、ある種の羞恥を催すような私的言語禁止的規約が暗黙の内に張り巡らされているということは言えるかも知れない。このことについては後章において詳しく考察してみようと思う。

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