Thursday, May 24, 2012

時間・空間・偶然・必然_意識という名のミーム<科学で切る哲学、哲学で切る科学> 7、信じることの矛盾、神=完璧、理想というものの矛盾

 自然科学に対して我々が常套的な見解であると信じるのも、次の図式において説明することが出来る。
①初期設定的信念→決定→持続
②状況判断的信念→意識的、対自的常時保持
③被獲得信念→①の前提の上に②の経験と記憶によって統合されたもの
 つまり私たちは一つの信じるに足るバロメータを自分で設定して、その設定規準は幼少期においては両親の言うことであるとか、要するに自分にとって最も身近であり信頼するに足る人の言うことであるが、徐々にその信じるに足る人物の領域は拡大されてゆき、思春期に至っては、両親に対して一定の信頼を抱いていても尚、他の大勢の他者と彼らが同等であるという身近なものが客観的な対象ともなり得る様な認識拡張を持ち、親しみのある全てをも認識対象と化してゆく。従って信頼するに足る情報というような要するに「信じる」対象の意味内容というものは総じて①に対して③の信念を複合させたものが大半を占めるようになるだろう。 尤もこれらはこう言うことが出来る。「信じる」こととは記憶能力をそもそも前提している、と。
 つまり初期に設定された生活上での認識習慣的な記憶と、その後に環境的要因によって、あるいは自らの経験(記憶)を総合化したものを内的に複合化して一つの情報に対して信じるに足るということを自ら信念として保持するようになる。自分にとって信頼の足る存在者だって誤りも思い違いもする、ということにも目覚める。
 しかし私たちはある意味では脳科学者の池谷裕二の指摘している(「海馬 脳は疲れない」糸井重里氏との対談 朝日出版社刊)ように、暗記メモリー(私が指摘した①に近い)と経験メモリー(私が指摘した③に近い)をある時には区別し、しかしある時には複合化して何らかの信念をその都度抱く。当然知覚レヴェルでの現在時における認識という観点から①に対して②が、③に対して②が複合化されることもしばしばであることは言うまでもないであろう。
 しかし認識思考傾向として我々が抱く論理的無矛盾性というものは、それら三つとはまた別個に脳内で思念されていると言っても過言ではない。つまりこの三つに対して常に我々は認識思考傾向として思念上では完全なるものと不完全なるものという区分けをしているとも言えるのだ。勿論感覚的な思念においてそのニ値という状態にはない思念も多く確認され得ようが、それらを全て仮に不完全な思念と呼ぶとすれば、ある意味ではこのニ値的な認識は有効性を持つと言えるだろう。
 そして完全な論理ということそれ自体が仮に「そういうものは実際には幻想だ」と頭で理解していても尚、完全な論理をその都度要請するような我々の認識傾向それ自体はいささかも揺ぎ無いと言えるだろう。
 それは一面では社会的責任に於いて世界への理解と解釈を他者へ説明責任があるということと関係があろう。
 しかしそれは瞬時における単純な物事の進行とか予兆的な思念において示される場合には適合しても、その論理的無矛盾性そのものをいざ真摯に見つめ出すと、つまり一つ一つ丹念に解きほぐしてゆくと、無矛盾であるという状態そのものにある種の矛盾を発見せずにはおられない。その点でミシェル・アンリの最晩年のテクストである「受肉」の第二十四節である<身体についてのギリシャ的な考えから、肉の現象学へ。エイレナイオスとテルトゥリアヌスの基礎的諸問題構制>は示唆的な内容のものであると私には思われる。よって本節ではこの節の記述の意味するところを粒さに検証しつつ、信じるという心的状態そのものの持つ矛盾と、背理性、自己欺瞞性、幻想性について考えてみたい。まずアンリの記述を掲載しよう。
 「肉なくしては誕生なく、誕生なくしては肉はない」と、テルトゥリアヌスは述べている。哲学的な観点からするなら、肉とは何であるかも誕生とは何であるかも知らされないかぎりは、断定的な仕方で『キリストの肉体について』の分析の原理に置かれている相関関係は、全面的に未規定のままにとどまるのだということを、認めなければならない。せいぜいのところひとは、一方の本性が他方の本性に依存すると思惟しうるだけである。あるいはいっそうラディカルには、両者が同じひとつの理解地平のうえに浮かび上がり、両者には同じひとつの根拠が割り当てられるというかぎりで、両者は結びついていると思惟しうるだけである。テルトゥリアヌスはそのことを、きわめてはっきりと知っている。まさに彼が異端に対して、この場合ウアレンティノス派の人たちとの論議はほうっておいて、われわれはこう問う。つまり、どのような現象学的な、したがってまた存在論的な前提事項から出発して、テルトゥニアヌスは誕生を、肉を、両者の必然的相関関係を、理解しているのだろうか。教父たちの問題構制が展開されている歴史的地平においては、肉/誕生の相関関係は、様々な諸主題を喚起し、それらの諸主題は、異論の余地なきひとつの哲学的意義と、異論の余地なきひとつの哲学的妥当性を有しており、この観点からわれわれは、それらを吟味することにしよう。すべての諸主題はまた、肉についての中心的な問いに関係づけられてもいる。
 最初の主題は、誕生と死との連帯性を申し立てる。つまり誕生には、死が必然的に結びついているのである。「誕生は、死に対して負債がある」。もしキリストが誕生したのであれば、それは彼の使命が、世界[世=世の人々]の救済のために死ぬことだったからである。それゆえキリストが自らの誕生のときにまとった肉は、一箇の死すべき肉であらねばならなかった。まさしくこの点においてこそ、彼の肉は、われわれの肉に似た一箇の肉であり、「死へと定めされている一箇の肉」なのである。どのような肉が、死へと定められているのだろう。どのような誕生が、この死すべき肉のうちにわれわれを置くのだろう。それは地のちりから、世界の物質から成る一箇の肉であり、一箇の「地上の肉」である。そして誕生することは、もし問題にされているのが死のために誕生することであるなら、次のことをしか意味しえない。つまり、一箇の地上の肉のうちに到来すること、この場合、ひとりの女の腹のうちに到来することである。ひとりの女の腹のうちで誕生して、キリストが自らの肉を、地上的で人間的な一箇の肉を、彼女から得ているのだからこそ、彼は、人類の仕方で生きてきたのであり、栄養を摂取し、疲れを感じ、眠らなければならず、手短にいうなら、人間たちの運命を共有しなければならなかったのである_自らの運命を、完遂しうるために。自らの運命とは、十字架に架けられ、死に、埋葬され、そしてその場合に_その場合にのみ_復活することなのであった。
 それゆえ、肉の起源を指し示すことによって、肉とその誕生とのあいだの相関関係は、曖昧さなくこの肉の真の本性を顕示する。この肉は、あらゆる肉がそこから生じたところの、初次的にはあらゆる肉がその一部であるところの、女としての肉としての一箇の地上的な肉なのである。そこから、教父たちの関心を惹く二つの性格が生じてくる。すなわち、この肉の死すべき性格_キリストが死ななければならないかぎりで_と、この肉の人間的な性格_この肉をまとうことによってこそ、キリストが人間という条件を取るかぎりで_と、この肉の人間的な性格_この肉をまとうことによってこそ、キリストが人間という条件を取るかぎりで_とである。かくしてキリストの誕生に、或る女の腹とは別の或る場所意を、「天上的」、「天体的」、「霊的」、あるいは他の起源をもつ一箇の肉を_またこのような仕方で、その神的な条件にいっそうふさわしくなくてはならない或る条件を_割り当てようと主張する異端が、斥けされているのである。
 しかしながら、われわれの注意を引きとめなければならないのは、異端排除の真の動機である。テルトゥニアヌスや教父たちの眼に問われているのは、キリストの肉の起源ならびに本性が、われわれの肉の起源ならびに本性と同一でないなら、その場合キリストは、受肉することによって、本当に〔reellement〕実在的に]われわれの肉のような有限な、したがってその諸欲求、その渇き、その飢え、そのもろさをともない、その誕生いらい自らのうちに記入されたその死をともなった一箇の肉、そのような肉の重さをこうむったのではないことになってしまう。彼は本当に死んだのではなく、復活したのではないことになってしまう。手短にいうなら、一連の現れへと還元され、同時に一種の神秘化へと還元されているのは、神への人間の実在的な同一化の条件としての、人間への<言>の実在的な同一化という、キリスト教的な過程全体なのである。
 この神秘化は、そのうえ、キリスト自身の事実であり、また彼の教え全体の事実であろう_われわれの身体の負債をも含め、われわれになされる不正や過ちを受け入れるようにわれわれを誘い、この世でもっとも幼くもっとも単純な者たちが耐え忍ぶようにして、忍耐と謙虚さのなかで、一種の素朴さをともなって不正や過ちを耐え忍ぶようわれわれを誘う、そのキリストの。キリスト自身が、砂漠の断食のなか、その苦難のただなかで、その受難のあいだ、狼藉者たちが彼を打ち、彼を鞭打ち、あざだらけの彼の顔に茨の冠を押しつけ、彼の肉を釘と槍で貫いていたあいだ、不正や過ちを耐え忍んだように。しかし、こうしたことすべてを耐え忍ぶためには、まさしく一箇の肉が必要であり、その地上的実存のあいだ、飢え、渇き、疲れを耐え忍んだあと、打たれ、鞭打たれ、貫かれ、嘲弄されうるような一箇の実在的な肉が必要なのである。そしてこの肉が実在的でないなら、こうしたことのどれひとつとして、やはり実在的ではないことになる。それは飢えの見せかけ、飢えていない飢え、渇いていない渇き、まったくやけどさせないやけど、炸裂も肉もない炸裂なのである。謙虚さと優しさの<師>、自分の敵たちにけっして口答えせず、すべて無言で耐え、「自らの受難を受苦した」者が、もし肉体の見せかけしか有していなかったとするなら、何ひとつ受苦せず、何ひとつ耐えなかったことになる。<師>は、ひとりの詐欺師なのである。彼は彼の同時代人たちをはなはだしく欺いたのだが、次のようなすべての人たちをも、つまり、次のようなすべての人たちをも、つまり諸世紀を通じて彼の存在を信じ、キリストノマネビ(imitatio Christi)を実践し、禁欲主義に没頭し、快楽を拒み、エゴイズムを超克し、キリストゆえに、またキリストの名において不正や中傷を迎え入れ、今度は自らが受難のうちに、かくも世界[世間]が振りまく多様な諸形式の受難のひとつのうちに入り、最後に犠牲と殉教とを受け入れることになるはずだったすべての人たちを、はなはだしく欺いたのである。エイレナイオスの恐るべき言葉が、われわれのところにまで鳴り響いてくる。「彼がじっさいそうではなかったものであるかのように見せかけることによって、当時の人々を欺いたように、彼は、彼自身が耐えなかったものを耐えるようわれわれを説き勧めることによって、われわれをも欺いているのである。このいわゆる<師>が受苦しも耐えもしなかったものを、われわれが受苦し耐えるであろうときには、われわれは<師>を凌駕さえしていよう」。
 彼はアンリとアンリを通した西欧人、つまり一々その存在理由を説明することなく哲学を語れる人々に対してこう言いたいのだ。キリストという神性とは即ち、神ならぬ我々卑俗な人性を必要とし、それによって逆に証明されるということだ。しかしそのことによって同時に神性であることが、我々の苦痛や全ての悲しみを代理するような存在である神であるなら、我々同様苦痛を感知する人性を備えていなくてはならないことになるだろう。つまり俗生の経験し得るのと同様の体験を我々は彼に与える必要がある。しかしそのように神が人のような労苦を背負うということは一面では神性に対する冒瀆である。しかしもし神がどのような人間に対しても労苦であるようなことを背負わされても何も感じはしないような存在であるのなら、それはただのゾンビであろう。つまり耐えることは出来るが、それをものともしないように鈍感であっては困るという我々による神の存在の人間学的な気高さに対する願望は、我々が神を論理的な存在として位置付ける際に極めて大きな矛盾を招聘することとなるのである。要するに人間であっても困るし、人間離れし過ぎていても親しみが持てないというジレンマがここに生じる。そこで我々は勝手に次のように神を位置付ける。神とは我々にとって縋るに足る神なのだ、と。
ここにおいて完璧という概念など実は成立し得ないのだ、という事実が我々に突きつけられる。即ち完璧という概念は神に代行されてはいるものの、それは我々の我々自身の勝手な理想であると同時にその理想に縋ることそのものを安楽に保障するようなタイプの願望的な理想に過ぎないのである。何故なら人間として受苦を我々に成り代わって背負ったという神の事実は、その分人間の願望に加担しているが、それは論理的には完全なる存在、つまり人間を超越していることにはならないからである。つまりここでは論理的整合性と人間の人間のための願望は著しく離反する。つまり人間は思惟においてと、信じたいと願うことにおいて異なった完璧という概念を求めるのである。
 自らキリスト教徒でもあり、かつ哲学者でもあったアンリはここで惑う。その時テルトゥリアヌスとエイレナイオスの言葉が彼に囁きかけるのだ。そのことをアンリは承知しつつ、それでも尚神性に対する尊崇をキリスト教教義に則って遂行しようと決意するのである。それは何故か?
 恐らく私の考えるところ、論理や科学といった思惟において無矛盾性を追い求めても、我々は必ず科学論理的に証明され得る自然の原理や機能に対して自然に理解することを阻む様相を発見する(ゲーデルの不完全性定理によってもアインシュタインの相対性理論によっても理解し得るだろうが)。そしてその理解し難さという観点において我々は自らの存在の微弱さに思い至る。しかしそのあらゆる哲学的ドクサとか誤謬を引き受け、その思い違いを抱えつつ生きていかねばならないのなら、信じられる「あり方」そのものに対する開き直り、つまり「そうであること」と「そうであって欲しいこと」の乖離を承知しているのなら、いっそ「そうであって欲しいこと」を真理としようという決意が、自然に対する「そうであること」に対する承知外にあってもよい、という「生き方」の問題が浮上するのだし、そのような「生き方」を人生の最終地点で選択して死を迎えようという心理にアンリ自身があったのだ、と想像することが出来る。
 要するに「信じる」という心的様相には必ずと言ってよいほど自己欺瞞があるのである。つまり「信じる」という心的志向性には「信じられないことを排除したい」という心理が大きく介在しているのである。つまり「そうであること」が「信じられない」からこそ、「そうであって欲しいこと」を真理とするような心的態度、命題的態度が要請されるのだ。つまり「そうであること」があまりにも「信じられない」場合、我々は「そうであって欲しいこと」を「信じられる」こととして納得し、「そうであること」を理不尽なことであると決め付けることをするのだ。我々はその時本当は「信じる」ということの矛盾を知ることとなる。またその「そうであること」に対する理不尽さに対して何とかして欲しいという心理が却って再び神=完璧という観念を心的に生じさせることとなるのである。
 そもそも生命現象というものをもし客観的に捉えるなら、それは一言で言えば、代謝活動をするということになるが、その代謝活動を支えるものとは、欠乏に対する認識である。食料であるとか養分であるとかを求めるということは、動物に関しても、植物に関しても当て嵌まる。それは欠乏を欠乏として認識するということ、それが人間のように意識的に理解することが出来るか、無意識的に悟る(?)ことであるかという違いがある(この区分けがそもそも問題である。そのことは述べる。)にしても、全ての生命は欠乏に対して「このままでは危ない」と認識することをもって、生の意志があるということになる。要するに「生きている」ということは常に何らかの形で完璧ではないということを意味する。だから科学的に全てを理解しようとしても尚、矛盾を感じたりする人間はそういう観点から言えば、「そうであること」に対して「そうあって欲しいこと」をこの生命の基本、つまり意志に順じて理解するからこそ、認識論的なパラダイムをその都度変更してきたのだ。つまり「そうであること」の確からしさを常に「そうであって欲しいこと」の究極の理想としてきたということである。それは自然科学のオプシミズムを見れば一目瞭然であろう。その変更に対する意志と希求に哲学や文化、芸術の全ても含有される。
 スーザン・ブラックモアがドーキンスの理論を発展させたミーム学とは、やはり一言で言えば、模倣能力を促進させる第二の自己複製子であるところのミームが、遺伝子と共進化するようなタイプの「自然選択の可能性の追求」である、と言える。
 つまりミームそのものに対して常に相補的な遺伝子とその発現作用の全てがミームと遺伝子(ミームは遺伝子、つまり生命現象を必要とする。)による表現型であると捉えるところに社会生物学的視点から一歩進めたユニークさがブラックモア理論にはあった。元来表現型とは遺伝子の発現作用による必然的、偶然的である全ての結果だけのことを言った。しかしブラックモアによってここにミーム、つまり遺伝子保持存在者による模倣せずにはおれないクオリアを有するシステム(それは最初極めて偶発的要素が濃厚なセレンディピティーがあったのだろうが)、記憶促進対象によって生命は外在的な存在物によって内在的な生の意志を確認出来るようなフィードバックシステムを獲得したのだ。要するに遺伝子が遺伝子外に自然選択対象を発見し、それと共進化する道を選んだのだ。
 しかしもしコリン・マッギンのコグニティヴ・クロージャー説を有意味なものとして受け取るなら、我々は実は生命と非生命との境界も、あるいは生物と無生物の境界も、あるいは有機物と無機物の境界もよく理解していないことにもなるし、そもそも人工的な機械や、コンピューター、ロボット、あるいは無機物においてそれらのものに心などないと決め付けてきたことに対する代償として、意識と等価のものを非生命に認める可能性を捨て去るわけにはいかないことを認めなくてはならない。何故なら生命そのものだけでは完璧ではないからこそ我々人間を含め生命現象はミームを必要としてきたのではないかという説が成り立つからである。
 では完璧であるとはどういうことか、と言うとそれは生命とミームの共進化であるということになれば、自然界で有機物と無機物とが相補的な存在であるような意味で、この地球上での全存在こそが完璧であるといういささかスピノザ的な認識に照明が当てられることとなろう。そして自然を含む存在そのものが神であるという論理が成り立つ。つまり矛盾とか矛盾を矛盾と捉える存在者一切を含有する、自然界の秩序も、偶然も全て含有する存在こそが神であり、完璧なものなのである、という論理が。この論理で行けば、要するに我々が我々にとって都合のいい形で完璧をその都度希求しているに過ぎないということである。つまり自然科学は偶然を記述することは可能だが、偶然の根拠を解明することは出来ない。と言うのも自然科学はそもそも奇蹟ということを排除することを前提しているからである。だから却ってそのことが自分たちにとって都合のよい理想をでっち上げ、その都度完璧であるように錯覚する論理を組み立ててきただけのことであるというわけである。つまり科学もまた一つの我々による幻想以外のものではないということになる。
 そう考えれば尚更意識を持つのは人間だけであり、それは解明不可の命題であるというディヴィッド・チャーマーズの論理は脆くも崩れ去る。非生命に生命の一種である我々によって覚知される意識と等価のものがないと証明出来ない以上我々は意識を人間としての存在者に固有の現象であると断じることは出来ない。(我々は人間以外のものになりその立場では感じることは出来ないからである。)このことはこれを書いてから後で知ったことだが、コリン・マッギンとはまた違った形で、つまり空間ということではなく、物体そのものに認めているという意味では、ヒラリー・パットナムが「理性・真理・歴史」(法政大学出版局刊の150ページより)で示していることである。
 従ってチャーマーズがしきりに論じている生命的に機能はしていても尚意識に該当するもののないゾンビという概念そのものが、意識という存在を特化させるために拵えあげられた概念にしか過ぎないということになる。そもそも我々は意識と意識のないゾンビというものの違いを明確には証明することなど出来はしないのだから(ここから先は永井均氏の独在論の活躍する場である)。
 そうするとある意味では「そうであること」と「そうであって欲しいこと」の齟齬においてのみ何らかの真実を視るというスタンスはあながち間違ってはいないことになる。と言うのも「そうであって欲しいこと」がかくも真実味があるのに、「そうであること」があまりにも矛盾に感じられるのなら、ひょっとしたら「そうであること」の確定そのものに誤りがあるかも知れないからである。しかし同時に「そうであって欲しいこと」があまりにも出来過ぎていても、我々はそこに懐疑の目を向けよう。従ってこの二つのどこかに真実があると視る見方は間違ってはいないだろう。
 脳科学者の池谷裕二は、海馬を除去された人でも、扁桃体さえあれば、感情的なことだけなら記憶していると言う。例えば私に海馬がなかったなら、私は親しい友人の顔を見ても、忘れており、彼とかつて行った旅行のことも記憶にないだろう。しかしそれは意味記憶、エピソード記憶としてはそうであるが、氏の紹介する科学的データによると、私はその時親しい友の顔を見て感情的には嬉しい気持ちにだけはなれる、と言う。逆に海馬はあっても扁桃体のない人は、親しい友と行った旅行の事実も、行き先とかそこであったことの全てを記憶してはいるが、全くその記憶内容によってその旅が楽しいものであったか否かという判断は持てない、と言う。
 池谷は「海馬が、扁桃体の感情を参照しながら取捨選択していく」という仮説を唱えている。そして現代哲学の中でも現象学はより扁桃体的判断の追求を主軸に展開し、分析哲学とか言語哲学の系譜のものは逆に海馬中心のものを主軸に展開している、と言うことも出来るかも知れない。
 もう一度整理しておこう。完璧であること、つまり無矛盾であるということは、より個人的なことを除外した普遍というものに対する信仰によって構築されてきた。だからそれは必然的に科学至上主義となる。しかし宗教では心の拠り所として「そうであって欲しいこと」が完璧なことであるとしてきた。しかしその二つの人間の心における共存はアンリの指摘の示すところのように矛盾を来たしているし、それを現代人は知っている。
 しかしそのことと矛盾に真理を求めるか否かはまた別のことである。何故ならそれは「生き方」の問題へと移行しているからである。リチャード・ドーキンスは神の不在と宗教(彼によると心のウィルスであるらしい。)の不必要性を訴えるが、アンリのようなタイプの哲学者は神への信仰を最後の縁にすることを選択した。しかしそのように「生き方」の問題を持ち出さなくてはならないということは、寧ろ矛盾をどう心の中で解決するべきかという倫理の問題へと移行する。そしてその倫理的選択としてドーキンス型のものとアンリ型のものを両極端として認識することが出来るだろう。そしてそれはどちらのタイプの選択が人生をよりよく生きるための認識とすると思えるかという個人的選択に依存する。そしてそれは個人的な価値規範としての理想というもの、それはかつて宗教や科学が普遍的価値として認めたがった理想ではない、もっと(佐藤徹郎の主張するように)ウィトゲンシュタインが自らの哲学テクストを万人に認められるものとしては決して求めなかったようなタイプの個人的価値規範のクオリアに依存するようなタイプの理想なのであって、その理想そのものを持つことと、その理想が矛盾しているかどうかということは然程この際問題ではないような性質のものであると言ってもよいだろう。
 私は哲学も科学も、宗教も芸術も文化も、全てこのようなタイプの理想としてだけ有用であるような認識がより現実的であると今日においては感じられるのである。

No comments:

Post a Comment