Saturday, May 26, 2012

時間・空間・偶然・必然_意識という名のミーム<科学で切る哲学、哲学で切る科学> 8、空間の記憶

 私は常々思ってきたことがある。私たち自身が自分自身の人生上でのあらゆる記憶というものを持っているように、空間自体もそのような記憶を持っているとは考えられないであろうか、と。空間は人間にとっては人間の身体的なサイズとか観測的データから換算される感覚的世界でしなかいし、そういう「人間の空間」でしか人間は生活出来ないし、進化してくることも出来なかったであろう(そのことは数学者イアン・スチュアートが論じている)。私はマンション建築物の四階に住んでいるのだが、私が住む以前には別の所帯が私の自室に住んでいた。若い夫婦である。しかしそれ以前はこのマンションは建造されていなかったのだから、私の住んだ十五年余の歴史は、私が住むこのマンションの自室の空間に刻み込まれている。しかし同時にそれ以前の若夫婦の住んでいた時期の歴史も、それ以前に未だこの建物が建造されていなかった時期の恐らく鳥が行き交っていたであろう歴史もまた刻み込んでいるに相違ないのである。つまり空間の記憶である。
 だから厳密に言えば昨日の私の自室自体が有する記憶内容と、今日の記憶内容は、私の昨日から今日に至るまでの行動によって異なったものになっている筈である。そしてそういったその時々の空間による記憶内容の差がそこに住む私の行為や心理や決断に影響を与えているのではないだろうか?ということである。つまり私の内的な性質は、私の住む空間の性質にもどこかでは依存していると考えることが自然である以上、私は私が住み行動する空間(厳密に言えば、私が行動する全空間のであるが)の記憶内容と共に変化して、相互に影響し合っているということである。
 だから私の行為は私によって空間を誘い込みもするが、同時に空間自体の勧誘によってもその都度誘い込まれ、その相互の勧誘の応対というシステムこそが環境ということなのではないか、ということである。
 昨日の私のいかなる行為であれ、空間の側からすれば、私の行動の残像として事実上過去事実に対する空間の記憶に格納され、静止していて、それ自体は死んだ、かつて無数の滑空する鳥たちによる過去における行為の残滓と等格である。残滓とは行為がなされているということにおいて死んでいるということなのである。
 だからたとえ私が自分のした行為の中で自分では忘れ去った事柄があったとしても尚、空間自体はまるで神のように私の行為の逐一を眺めてきているし、そういった私の行為を死んだ残滓としていつまでも記憶しているかも知れないのである。
 私たちの生における瞬間の全ては、実はこの空間の過去の死んだ行為の残滓、その中には人間の行為もあっただろうし、動物たちの行動もあったであろうし、植物とか空気とかあらゆる自然現象の変転と流転が刻み込まれているのであろうが、要するにそれらすべての残滓が記憶されている空間に包み込まれている。刻み込まれている。そして私たちが、あるいは他の一切の動植物、自然現象それ自体がそれを忘れて今の行為と今の現象に感けていたとしても尚、空間自体はそのことを決して忘れ去ってはいないのではないか、と私は常々考えてきたのである。つまり空間はあくまで空間の側の事情によって独自に記憶のシステムも持ち、あるいは想起もするのではないか、と私は考えてきたのだ。それと似たことはコリン・マッギンも語っていた。しかし彼は意識というものがあるのではないかと考えていた(「意識の<神秘>は解明できるか」より)が、私は記憶というもの、つまり過去の全残滓をそこに読み取ることさえ可能ではないだろうか、と考えているのである。
 それはある意味では非科学的な空想かも知れない。しかし哲学が全て自然科学において認可された事態の追認であるのなら、いっそ哲学などない方がずっとましである。哲学は自然科学が思いつきもしないことを率先して考えだすことにこそ意味がある。
 つまり私たちのある種の「魂の彷徨」のような心的な様相が存在するのなら、それらはどこかで空間全体が私たちに無意識の内に教え語ってくれる、失われた空間内での過去の行為、現象の数々が確かに一度は存在したのだ、ということを。現在はどこかできっと過去の残滓全てによって支えられている。生者とはある意味では死者たちと自分たちの中でも死んだ数々の行為の残滓によって現在を生きることを支えられているのである。過去の死んだ行為の残滓とは、それに一度は確かに立ち会った空間の側の忍耐強い洞察によって必ず空間によって記憶として留められているのではないか、という私の確信は、私自身体調が優れなかったり、思わぬエネルギーを得たりするという日々の微妙な変化によって益々強くなってきているのである。空間は記憶しもするし、想起もするのではないか、と一旦全てをそういう風に開放して考えれば、自然科学の今後も大きく開かれてくるのではないだろうか?
 ところで私は空間というものは時間と共に宇宙に出現したと考えるとより全てがクリアになると考えてもいるのだ。
 つまりこういうことである。空間というものは何らかの存在物をもって初めてその存在を主張出来る。宇宙というものそのものが存在しないような空間というものが考えられるであろうか?我々は二個の物体を空間の中に認め、そのニ物の関係において初めて空間を意識することが可能である。しかしもしそういったニ物以上の関係の一切ない空間というものがあるとすれば、そこでは距離というものも持たないだろうし、空間というものは現出しないのではないだろうか?つまり存在物のない空間というのは語義矛盾でもあるし、またあり得ないだろう。
 例えば宇宙の出現をもって初めて空間が誕生したとしたなら、それ以前には空間すらなかったと考えることも出来る。つまり空間というものはそこで物体間の関係を生じるような状態が皆無の状態では存在し得ないし、それは無でもない。
 因みに不在とは「ない」という形であることであるから、当然空間的認識の、あるいは状況認識において有の特殊な形態である。しかしもしそういう何物かが不在であるとか、物体間の関係を保障する場として機能しない文字通り何もない空間というものがあるなら、それは本質的に無ではなく非在である(ある、と言うことが語義矛盾である様な状態である)。宇宙外を想定しても、それは存在することがあり得ないものとして言いようがない。
 真空状態というものは全く非在とは異なる。それは我々にとって熟睡している状態での意識のあり方に対して、我々が無意識であったと言うのに近い。しかしそのような真空状態というものは我々の手によって恣意的に作られた無であり、言わば存在状態の中での特殊存在=有である。そもそもそれは容積を持つからである。それに対して物質を不在にすることすら出来ない非在であるのなら、それは有の領域外のものであり、カテゴライズすることが不可能な事態であり、それは語る対象にもならない。従って空間と言う時我々はあくまで無であるにせよ、有という事態の中の特殊様相であると言い得るのである。それは物体というもの、物質的存在によって初めてその命脈を得ることが出来るのである。
 よって我々は空間それ自体に記憶というものがないとは言い切れはしないし、事実証明することも出来ないのではないかという確信があるのである。つまり空間のそういう無意識的な意図のようなものがあるとすれば、それと私たちの存在が呼応することによっての日その時の気分とか精神状態とか、健康状態とか、私たちが生活する場の雰囲気とか空気(物理学的な意味だけではないものとしての)を構成し、その構成された場状況そのものが私たちの行動と意志を支えているかも知れないという思いを私は日々強くしているのである。

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