Monday, September 24, 2012

時間・空間・偶然・必然_意識という名のミーム<科学で切る哲学、哲学で切る科学> 13、フォイエルバッハとアンリに見る宗教に対する構え方の違い

 悟性をもって_働く存在者だけが、直接に自己自身によって明晰で確実な存在者であり、自己自身によって基礎づけられた真実の存在者である。(「キリスト教の本質上」110ページより)
 この言説が意味するところは9において私が示した宗教に対する構え方の違いをアンリとの対比で考えたことから再び考え直してみる必要がありはしないだろうか?
 「人間は完全性への果てしない希求者であると同時に、それ故にこそ不完全性から出発することを余儀なくされ、即ち不完全者として行動することを運命づけられているのである。そしてそれを遂行することが出来るのは我々による我々内部に巣食う理性、つまり神の声なのである。」と私は言った。その時神の声というものそのものを、フォイエルバッハは人間そのものの能力と捉えたが、アンリは人間を超えたものへの尊崇と捉えるのではないかと私は考えたのだ。
 フォイエルバッハはだから働く人間と言った時、そこには否定的なニュアンスはない。寧ろ神という領域をさえ育む人間の内的に潜在する能力を信頼しているし、その能力を発掘し、進化させるための弛まぬ努力をこそ労働という観念に結びつけたのではないだろうか?その意味ではマルクスたちが影響を受けたことというのは彼のほんの一面だけではなかったろうか?勿論マルクスたちもまた労働を量化された、成果主義的翻弄として扱ったという意味ではフォイエルバッハの真意をそれなりに汲み取っていたとは言えるだろうが、マルクスやエンゲルスの持つ修辞的な戦略性とは一線を分かつものとして人間の行動をフォイエルバッハは捉えていた気が私に彼のテクストの記述的なクオリアから読み取るのである。
 率直に言ってアンリは生きた時代がフェエルバッハとは懸け離れている。そのような時代性を論じることを哲学者は嫌う傾向があるが、例えば「野蛮」の中でテレビと科学技術が現代社会に及ぼす野蛮について触れている箇所(<第六章、野蛮の諸実際>)を、時代固有の社会状況を無視して考えることは出来ない。そして現代社会における労働という観念を、よりその神聖なる動機(フォイエルバッハ的な)とか、マルクス主義的な量化システムと人間性の疎外という形で捉える図式からアンリは完全に脱却している。そこでは量化されたオートメーションシステムにおける成果主義的労働だけではなく、例えば頭脳労働とか、精神労働といったものさえも、つまりインテリやエリートたちの携わる労働さえも含有するマクロ的な労働の観念そのものが内実的な翻弄とか、内実的な無為なる反復でありながらもそのことを巧妙に隠蔽するシステムとしてまさに我々が称揚するような文化という身を纏って我々に制度的に無意識に従うように侵食するものとして捉えている。つまりそれらは一種の価値観という名のミーム、しかもネガティヴに我々の存在に対して立ちはだかるミームなのである。それは次の文面からも明らかである。(その意味では「野蛮」は最も社会告発的哲学テクストであると言えるだろう。)
 ところで、もう一度言っておくが、このエネルギーが用いられているのはたんに芸術作品だけではなく、文化の世界に属するあらゆる日常的なふるまいのうちに、このエネルギーの使用が認められるのであって、結局それらはこのエネルギーの使用によって動機づけられている。たとえば、労働は何千年もの間、マルクスの言っているように「労働の消費」としてその姿を呈してきたのであり、もっとも苛酷なものからもっとも安楽なものまでのさまざまな形態を通じて言えることは、つまるところ、そのうちでその堪え難さの厄払いをするようなものが密かに働いていたからこそ、労働は堪えられたのだ、ということである。(ここら辺はマックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義精神」に接近している。管理人注加入。)しかし、そのようなことが言えるのも、労働が生ける実践として、すなわち有機的主体性の諸能力の拡大として、その結果、主体性それ自身とそのエネルギーを最終的に実現するものとして、捉えられているかぎりのことである。 (188ページより、山形頼洋/望月太郎訳、法政大学出版局刊)
 つまりアンリは労働がそのような形で、つまり<主体性それ自身とそのエネルギーを最終的に実現するものとして>機能していはいないと言っているのだ。それは要するに社会という幻想、労働的価値という幻想、あるいは人類の未来という幻想の中に雲散霧消するような個人があたかも崇高な価値に勤しみ、公共的価値へと昇華されるという題目において我々に「生きてゆくことの意味」を得ているかの錯覚に陥らせる価値観という名のミームが知らず知らずに我々に与える行動原理の理性的価値規範であるに過ぎず、我々は「生きる」ことの実在的価値に真に目覚めてはいないということの主張である。そしてアンリは最晩年において「受肉」でキリスト教倫理を、自らの哲学的バックボーンの拠って立つギリシャ思想からの脱却において信仰心というものの持つ可能性に目覚めて回心しているのである。
 その回心の部分に対しては来場者諸氏も賛否両論あろうと私は思う。しかし実際この段になって以降の選択とはある意味では個人史、あるいは人生経験といったものが色濃く反映するものなので、一概にどのような選択を正しく、どのような選択を間違っていると断定することは最早出来ない。我々に出来るのは、ある選択をした個人の何らかの「魂の叫び」のようなテクストの息遣いを読み取ることだけである。
 中島義道もどこかで書いていたが、中島の考えている嫌いな人とか、アベル型の人間という存在は、カイン型を自認する人、あるいは好きな人と一緒に過ごしたいと願っている人にとって、ある意味では恩人である。中島の考えでは恐らくそれは「汝敵を愛せよ」という言説の持つ力をもその一部に持つようなもっと普遍的な考えであろう。
 つまりそういう意味ではフォイエルバッハの持っている無神論的な態度、つまり宗教は神というものに対する意識を人間が備えている以上、あるいは神の完璧に対して理想を抱くという一事をもってしても、神そのものが人間性の一部であり、神概念は人間が作ったものなのだから現世宗教的な教義を離れても、人間の心には本質的に拭い難く存在しているものであり、それは権威とか、正統性への主張という社会的行動へと収斂するものではない、だから自分は無神論であるからだろうが、それすらも宗教的思惟の一つであるという<考え=生き方>である。それに対してアンリはヨハネの言をはじめ、キリスト教教義の中の自分にとって切実な幾つかの部分は、それ自体で説得力のあるものなのだから、それを信仰の糧にしていこうという<考え=生き方>なのだ。そしてその二つの相反するようなスタンスは実は、相互に相互存在を薄々ながらも知りつつ、それを認め、そして自分は自分の道を行くという決意でもある。
 アンリはそもそも「受肉」(2000)に至る十三年前の1988年に「野蛮 科学主義の独裁と文化の危機」を発表している。このテクストは先にも多少触れたが、ガリレイ的地平における統計数値主義に代表される自然科学の猛威が未だ顕在している状況を、芸術の抵抗と、文化の科学的相対化、そしてテレビを通したマスメディアの人間に対する惰性化作用、そして大学の数値目標主義による荒廃的現実などを通して告発した社会的メッセージ色の強いものである。そしてこのテクストの終盤、結語である<アンダーグラウンド>において次のようにアンリは記述している。(同書254ページより)(太字散散選択)  
(前略)メディア的存在が生に提供するのは自己実現ではなくて、逃避である。怠惰がエネルギーを抑圧し、そのために自己自身にずっと不満を抱くようになっている人々に、その不満を忘れさせる機会である。各瞬間に、「力」と「欲望」の新たな高揚のたびごとに、やり直さなければならない忘却。週末の二十一時間をパリ郊外の児童たちは、彼らの教師たちと同様、テレビの前で過ごす。翌日の共通の話題にはこと欠かないというものだ。
 ここにはメディアが大衆各個人の持っている不満とか怒り、あるいは自我的な欲求の表出を巧みに、統制し、隠蔽し、まさに飲み込ませる装置としてメディア、とりわけテレビが作用している現代社会の姿を象徴している。その最たるものが、翌日の生徒同士の話題がテレビによって形作られるという現実である。
 エネルギーという表現が実に重要である。ここでは再び中島義道の一連のかつて引き篭もりをしていた自己自身に対する呼びかけという性質をも持っている、そういう若者や中年、壮年に向けて発せられた自己意識啓発的なテクスト、例えば「怒る技術」に顕著であり、それ以前にも「人生を<半分>降りる」、「「哲学実技」のすすめ_そして誰もいなくなった」、「働くことがイヤな人のための本仕事とは何だろうか」といった作品の中に納められている主張と奇妙にも符号するのである。
 つまり中島の主張とは、日常的な怒りとか不満それ自体は全て正しくも、正しくなくもないが、一番始末が悪いことには、社会は往々にして善良さを全ての市民に強制する。そして怒りを他者に向けないで欲求を抑圧することを社会がよしとして、善人、思い遣りある人という理想を押し付ける。我々の多くはそうして怠惰にも自らの中に巣食う悪を隠蔽しようとする。しかし一旦そのように自我的欲求を抑え込み、飲み込むことで、逆に他者の真実の怒りに対しても鈍感になり、果ては真摯に他者とコミュニケートすることを回避させ、相互の真意を直視することを隠蔽するような大多数の社会的規制に対して鋭く偽善的匂いが立ち込めたものとして告発する。そこにあるのは不健康な善良さという仮面を纏った偽善と、誤魔化しと、人生そのものの理不尽さを忘却させようとする<見えない悪辣な社会権力の策謀>である。しかし勿論中島は自らを反体制の旗手として意識することは終ぞない。それらの叫びは秘めやかに自分自身もまた悪の片棒を担ぐ小さな存在であることを自覚して、自己内の不幸を逆に恩寵として切実な財産であるとして育て、人生そのものの理不尽さを真摯に直視するという主張がある。そこに安易な社会思想家としてではなく、自我論、コミュニケーション論の探求者としての自己表明と、対他的な啓蒙意識が統合されたスタンスが仄見える。
 <見えない悪辣な社会権力の策謀>とはアンリに言わせれば、テレビを筆頭とするマスメディアの垂れ流し的な情報の無反省性である。それはまさに何かを記憶し、記録することを大衆に忘却させる無知化促進の装置である。その危惧に対する告発の果てになされる回心としてアンリはまさに世界最大のミームであるところの自己というものに対して、対話拒否をさせるメディアに唯一拮抗し得る存在として、自己内に巣食う信仰という意識へと読者に対して呼びかける。それは神を人性の顕著な一特質として定義したフォイエルバッハのスタンスを彼なりに一歩進めたものだったのだろう。
 ここで重要なこととは中島の主張にあるように、つまり自らの中に巣食う悪、狡さ、不幸さに眼を瞑らないで、直視し、他者に対して取り繕わないということ、往々にして我々は自らを幸福である振りをし、自らを善良そうに装い、狡いことを隠そうとするし、清らかな他者への思いだけを表明しようとする。しかし夫婦でも、親子でもいいことばかりを示しあうことでは何も先へは進まない。自分の中にある卑怯で、小心な部分を隠蔽し、他者に対する憤りを協調という名の美名でカモフラージュすることをあるいは、アンリは極度に回避したかったのかも知れない。それは論理的思考や思惟にまで適用出来る。例えば神は実在的にはいないかも知れない。しかし神に対しているかも知れないという思い自体はなかなか払拭出来ない。例えば永井均も主張している(「私、今そして神」)が、私たちは「あなたはもし生まれ変わったなら、今度は男性に生まれたいですか、それとも」と言うような問いに極自然に返答するのではないか。それはその返答を他者に与える時点で願望として、神が自分をもう一度別の生として生きる権利を与えてくれたらという思惟そのものを払拭し得ないということを表す。
 それをアンリは敢えて心的実在としての神はいてもよい、いやいなくてはおかしいと感じたのだろうと私は思う。事実フォイエルバッハは無神論をも宗教の一様相であると捉えたが、彼の中には時間すら終わりが来るかも知れないという思いもあったかも知れない。さすればアンリの中にあるある神への信仰心と敬虔に対する晩年の開き直りとは、フォイエルバッハが回答、つまり神の実在へと回答を与えることなく、神の、あるいは神の概念を疑わない人間による神の中にある人性というものに対して「人間がそのように自然あるいは宇宙を完全であると思うことの出来る能力」として認識する可能性に対する示唆を自ら実践する信仰心で返答しようとしたと考えてもあながち間違いではないだろう。だからそれは一哲学者同士の違いというよりは、アンリが先に生まれ、フォイエルバッハが後に生まれても同じような遣り取りがあったかも知れないと私に確信させるようなタイプの神と神の論理に対するけじめなのである。

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