Wednesday, September 26, 2012

時間・空間・偶然・必然_意識という名のミーム<科学で切る哲学、哲学で切る科学> 15哲学と科学

 科学では偶然を記述することは出来るが、偶然を解明することは出来ない。何故だろう?
 それは記述という行為が、偶然の必然化だからである。そして科学とは一般に偶然の必然化のことを言うからである。そして何か偶然的なことを記述した瞬間それが必然化されるということは、未来に対して過去と同一のことが起こるかも知れないという目測、あるいは安穏とした不安を打ち消すようなタイプの楽観的な思惟そのものが無効であり、私たちにとって記述される偶然という言葉そのものが語義矛盾であるからである。(その意味で永井均と中島義道は正しい。)
 何故なら偶然という言葉にはそもそも「そう滅多には怒らない」というニュアンスがあるからである。実はこれが曲者であり、たまたま起こったことというのは、それ自体で一つの特定の見方であり、つまり「たまたま起こったのだが、前もって決まっていたかのように感じられる」そういう固有の偶然というニュアンスがあるのである。
 そして科学とは本来奇蹟の排除であるから、偶然という思惟を嫌う。しかし偶然という思惟を嫌っても、自らそういう風にそれを必然化するという矛盾を避けるわけにはいかないので、科学には本来偶然という私たちの心が生み出したある事象に対する認識願望の絶対的定着という本能が潜んでいるということ示している。それは科学で言うところのペトワック(PETWACK、つまりPopulation of Events That Would Have Appeared Coincidental)、生物学者の福岡伸一は次のように翻訳している「本来偶然にすぎないのに、なにか関係があるように見える事象の集合」ということを科学が避けると標榜しながらも実は絡め取られているということである。  
 ちょっとそのことと離れて考えてみたいことがある。
 空間に意識があるということは、科学では非常識であるが、実は科学で意識が証明出来ない(デヴィッド・チャーマーズの言うことが正しければ)以上(あるいは科学で空間に意識などないとも証明されてはいない以上)、哲学的に空間に意識があるという可能性を否定することは出来ない。
 意識とはそれを一元的に捉えた時、神から与えられし、最後の仕事として神秘化し得るが、意識は多元的であると考えれば(チャーマーズ的にではなくデネット的に)、我々の意識も所詮空間の意識に我々が身体を実在的に、偶然同化させられる様に与えられた結果、意識を特別のものと感じざるを得ないことになっているという可能性を否定することは出来ない。
 つまり我々は身体を介して実在的存在であるからこそ、痛みとかクオリアとか色々なことを承知していると「考える」わけだが、実は身体という存在を離れて我々が何か特定のことを感じることというのを体験し得ない以上、かつてヒラリー・パットナムも示していたように事物にも人間が意識と考える特化されたものと等価なものがあるかも知れないという示唆から発展させて考えれば、意識と等価なものが空間にもあれば、我々はそのものの上に身体という実在を与えられ、そのために意識と言えるようにそれを感じるだけであり、従って私たちは死ねばその空間の意識と呼べるようなものの一部になり果てるだけで、その生きている限り体験することは出来ないその空間の意識の一部という感覚は恐らく我々が身体という実在を得ているがために経験することが出来ない、つまり意識という存在を信じることそのものが、死んだ時に虚妄なことであったという示唆であるかも知れないである。
 つまり我々は意識というものをそれが「在る」と錯覚している、あるいは脳によって錯覚させられているという 前野隆司の主張は、俄然説得力を持つ。前野がコリン・マッギンのことを知ってそう主張されているか私は知らないが、意識が錯覚であるかも知れないという主張は、一面では我々が死んでも魂というものは残るのではないかという期待を我々に持たせるものとは本質的に違うかも知れない。
 つまり空間にもし意識であると我々が思うものと等価であるようなものがあるとすれば、それは無であることが有であること(例えば我々が意識を実在していると感じること)とは本質的に違う様なタイプの、しかし今まで我々が考えてきたようなタイプの無ではないものを認めることになるが、有であると我々が考えている意識のあり方そのものを錯覚だと我々に考えさせる当のもの(私はそれを脳の仕業と取り敢えず考えたのだが)が身体を通して有であると我々に感じさせ考えさせるというそのことが、その空間の今までただの無であると考えていたようなものではない無のあり方、つまり空間にあるかも知れない本来は意識と等価なものに眼を向け我々はそこにただ身体を与えられたという事実をまず直視せよ、と私に語っているように思われる。
 身体の実在そのものが、ただ単なる身体という実在であると我々が考えれば耐えられないからこそ、そこに何か価値があるようなものであると感じさせる脳の仕業が意識を特化したものとして捉えさせるだけのことである。これは一面では身体存在を通した一種の唯物論である。しかし従来の唯物論と異なるのは、ここでは空間の無がいささか有であると我々が自分たちの意識を特化しているようなものではないけれども、決して空無なだけではない何か我々がそれを意識と感じ、考えるものの根幹をなすようなものであるという無の背景があるということである。
 ではそもそも何故意識というものが一元的に語られるのかということについて考えてみよう。
 我々は睡眠時には確かにある種の無意識状態にある。しかしそれは完全な死の状態とも違う。脳は睡眠時にも働く。しかし睡眠があるから意識する覚醒時というものを我々は明確に知ることが出来るということもまた確かなのである。
 そして覚醒時において我々は、ある意味では多層的な心のあり方をする。例えば今このようにワードを打ち込んでいる私はさっきまでベッドで寝ていたことを想起しつつ、数日前に哲学塾の同僚たちとファミレスで飲んだ時の会話のことを想起し、その会話の前の塾での内容を想起している。そして明日どのような内容のことを入力し、どのような読書をしようかなどと考えている。そしてもう少ししたらトイレに行こうとも考えているし、喉が渇いたので、お茶を飲もうとも考えている。そういう心のあり方は一元的ではなく、寧ろ常に雑多な複数の思念に彩られていると言った方が正しい。
 しかし一方ある一つの思念を基軸に捉えれば、その意識に対して対自的に考えれば、意識はまるで一つのことででもあるかのような様相で我々の心に迫ってくる。
 つまり意識が統一されているかのように考えるということは、対自的な意識の「意識に対する心の持ち方」によってなのであり、寧ろ意図的な「構え」によってであることが了解される。しかしでは何故雑多な心のあり方をその様に一つの纏まったものとして我々は意図的に了解したいのだろうか?それは我々が我々自身の存在を「一個の存在者」であると同一性として了解したいからである。これはある意味ではそういう風に心の「あり方」として意味内容的に記述するということでもある。
 つまり「心のあり方」という記述そのものが、あたかも意識の方向性を一方向へと向けられたものとして我々を錯覚させるが、その記述とは、実は我々自身の同一性に対する要請からなされたものなのである。
 ペトワックへと戻ろう。中島義道は、このペトワックと関連のあることとして次のように述べている。(「生きいくい···私は哲学病」72ページより)  
 予言者は未来を見透かす者ではない。なぜなら、何もないものを見透かすことはできないのだから。そうではなく、予言者は未来に科学的予測による幻想的意味とは別の幻想的意味を与えるものなのだ。われわれは、その威力にしばし抵抗できなくなる。科学的予測の威力が限定されていることを知っているからである。しかも「私の死」という私の最大関心事において、いかなる威力もないことを知っているからである。
 予言者たちが一定の関心を我々の社会で払われるかとは、中島の指摘のように、科学というものの予測の限界を、不測の事態の勃発ということに対する経験則から我々が知っているからなのだが、その不測の事態の勃発可能性そのものが、通常あるだろうと予測されるものとは違った形での「未来のあり方」を示す行為に我々が関心を払うということにおいて予言者の発言が成立しているということである。
 そしてそのように我々が関心ある「未来のあり方」そのものが、記述可能対象として我々に現前している以上、我々は記述というものを実在しているものだけではなく、未だ実在していな将来とか、過去において「こうであったかも知れない別の可能性」という形で対象化し得るということは、実在しているものと、実在するかも知れない可能性のあるものとを等価にするということ、即ち実在と想像を、あるいは現実と虚構を同一地平に設置するということを心的に常に行っているということをも意味する。
 またそのような実在と、その実在を基にした表象としての虚構、あるいは想像的な像を同時に心に留め置くことが出来るということが、実在するものの一般的な性格とか、そのものの間の相関性とか要するに法則的真理を発見する能力へと繋がり、その真理発見という一つの理解、それは必ずしもその実在や実在物同士に対する理解の全てではないのだし、そのことを我々は重々承知なのだが、その理解を記録したい、その理解し得たという事実を留めて置きたいという願望が記述を可能にする。その記述の行為がより拡張し、予測ということも出てくるわけである。すると科学は記述し得る範囲の広範さを知り、その記述能力そのものを確認するという欲求充足であると言える。そして哲学はその科学の欲求充足性そのものに対して一定の評価を与えながらも、そこに安住することに対しては痛烈なる批判をつけ加えるということなのである。
 しかし問題はまだある。それは過去の記憶のことである。例えば私は今現在四十八歳と半年生きたわけであるが<注、本論文は四年半前のものである。前章では現在時点へ直したが、本記事はそのままとした。>、幼少の頃のことを、数日前のことと等価には感じられない。つまり古い記憶とはそれがどんなに掛け替えのないものであると知っていても、実は数日前の自分の行動とか、周囲の人たちとの会話等の記憶とは異なったものであることを知ってもいる。
 つまり私は私が幼少の頃のこととを今現在の私と同一の人格として私は了解しているのだが、今の私の気持ちと、幼少の頃の気持ちとでは同じところも在るだろうが、全く異なっているところもあるのである。その時果たして同一性という認識を持ったとしても、今現在の私と幼少の頃の私とでは人格的には全く同一ではないと言っても過言ではない。つまり私はそれでもその幼児や少年、あるいは青年の頃の私というものを今現在の私と同一の人格として認識するのは、一面では私がその時何をしていたかということの記憶を、あの9.11の時、ジョン・レノンが殺された時、東京オリンピックの時というように私は時代順に羅列することは出来るが、私が生まれる前の出来事であった終戦の日の東京の様子などは、完全に私が私にとっての過去として述べられることの延長として、私が生まれる前のことを周囲の人々の証言や記録によって類推して日本の出来事、世界の出来事として語らざるを得ず、そのようなものに近いものとして私は私が幼少の頃の記憶を辿るという一面はあり、それはこれから益々もっと私が年老いていくに従ってそうなってゆくことだろう。
 つまりあまりにも鮮烈で忘れられないことというのはあるかも知れないが、所々思い出すのに苦労するようなことというのは私が私の過去としては語られない終戦の日の東京の様子と同様、どこかで類推しながら語ることとなるだろう。
 そして問題となるのは、どのくらいの期間が経つことによってそのような類推というものが必要となっていくのか、それは時間的な長さによるものなのか、それとも出来事の内容によるものなのか、勿論その両方がかかわるだろうが、記憶する時に何を自分がしているかということとも関係があるだろうということも言える気がするが、記憶する時点の自分の精神のあり方と、記憶する時の自分の立場、普段していた行為、今普段している行為、かつてと今の生活状況と、記憶するのが過去のどんなことについてなのか、その記憶内容の選択の問題である。
 と言うのも記憶という作用は、能動的に思い出そうとすること(そういう場合は覚えておきたかったのに、忘れてしまっていることが多いが)と、忘れたいのに忘れられないこと(そういう場合は後悔とか、屈辱的なこととして忘れたいのに忘れられないということが多い)などが常に共存しているということがあるからである。記憶の内容というものは、楽しいことで記憶していることを能動的に思い出したりすること以外にも実に多くの思い出し方というのがある。常に思い出せることもあれば、ふと思い出すこともあり、その思い出し方というもののあり方そのものもいずれ考えてゆかねばならないだろう。  それは恐らく哲学的問いであるが、科学の力も多分に借りることが必要かも知れない。

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