Tuesday, September 25, 2012

時間・空間・偶然・必然_意識という名のミーム<科学で切る哲学、哲学で切る科学>14 公的なことと私的なことと実存、神

 我々は日常的に他者というものの存在をどのように捉えているのだろうか?例えば私にとって両親もまた他者であるなら、兄弟もまた他者であるが、本質的にその捉え方はあくまで哲学的私というものを規準にした時のことである。しかし社会、そして仕事、あるいは公的な義務ということを考える時、他者とは要するに家族とか親族というものとは違った要するに他人のことを指すと考えてもよいだろう。
 物理的な時間というものの観念は、ある意味では全て自分とか家族とか親しい人の間で繰り広げられるものであるよりは、全く見ず知らずの人同士が接点を持つ社会というものを想定していると考えてもよいだろう。要するに私利とか、私欲を離れて、公的な規準として時間という観念が人類に育まれてきたということである。
 私は中島義道氏の私塾である「哲学塾カント」に参加していたこともあるので、必然的に哲学の恩師である氏の引用を多くしてきたが、本節でもまず氏の「働くことがイヤな人のための本」より仕事というものの定義に纏わる記述を掲載しよう。(138~141ページより)
<(前略)広い意味では、料理・選択・掃除といった家事も仕事なら、子育ても立派な仕事だ。こういう金にならない仕事を社会学者はシャドーワークと呼ぶ。家事にもし賃金を払うとすれば、月額数十万円になるはずであり、金を払わないゆえにこうした仕事を社会的に日陰の位置に置き、戦略的に女性の地位を低くしている、という議論があることは承知である。
 だが、ここでは私はやはりこうした仕事を除外することにする。家事が仕事として低級だからではない。これらの仕事は、夫・子供・親・兄弟姉妹等々、特定の他人のための仕事であり、そのかぎりでそこには仕事のもつ客観的評価の面が曖昧になるからである。家事に対してたいそう要求の多い夫もいることだろう。子供もそうかもしれない。しかし、そうであるとしても、それは労賃を得てなす仕事とは根本的に違う。 
 具体的に考えてみよう。いま私の妻子は外国にいるので、私は月に一度D清掃会社に頼んで水回りの掃除をしてもらっている。女性二人が二時間かけて掃除をする。これは仕事である。なぜなら、彼女たちに金を払っているかぎり、私は掃除の完璧さという結果だけを求め、それが達成されないとき容赦しないから。「出がけに頭が痛かったので」とか「病気で寝ている子供が心配で」とかの人間的な弁解を私はいっさい認めない。私は彼女たちの人間全体とではなくその労働力だけと契約したのであり、その結果を達成する労働力に対してのみ、金を払っているのだから。
 考えてみれば、人間としての情を抑えつけたこうした契約関係とはずいぶん不自然なものだ。母親としては、病気で寝ている子供を心配しついミスを重ねてしまう、というのが自然であろう。しかし、これが許されないのが仕事なのだ。程度はあるが、契約して金をもらうからには、その仕事が達成されないとき、いかなる弁解も許されない。それが仕事なのである。
 普通の家事ではそうではないであろう。普通、掃除より病気の子供の看病が優先するであろう。それが人間的重要さであろう。だから、逆に言えば、それは厳密には仕事ではないのだ。社会学の古典的用語を使えば、血縁が中心となった親密なゲマインシャフトと利益追求をおもな目的とするゲゼルシャフトの違いである。後者の冷酷な社会こそが仕事を成立させるのだよ。 (中略)
 言いかえれば、仕事における他者とのかかわりは。不特定の他者でなければならない。きみの労働力(作品)に対して、不特定の他者が代価を払うことを期待できるのでなければならない。ある人が夫と子供のためだけに家事をしているのなら、彼女は仕事をしているのではない。同じように、ある人が親戚と知人だけに絵を売っているのなら、その作品がいかに優れていようとも、彼(女)はプロの画家ではない。ある人が自分の小説を知人に無料で配っているだけなら、それはいかにおもしろくてとも、彼(女)はプロの作家ではない。
 その労働によって金を得ること、これは仕事と切っても切れない関係にあり、仕事の本質を形成する。なぜか?そのことによって、われわれは真っ向から社会とかかわるからである。甘えは通用しないからであり、苛烈な競争が生じ、自分の仕事に対して客観的評価が下されるからだ。「客観的」とは公正という意味ではなく、不特定多数の市場における容赦のない評価という意味だけれどね。ここにあらゆる理不尽が詰まっている。だからこそ、われわれが生きてゆくうえでたいそう重要な場なのだと言いたいんだ。>
 中島の主張には社会という場が自己と自己にとって馴染みのある家族や親族、あるいは友人といったものだけではなく、全く赤の他人同士という関係において成立することの現実的不可避事実と、それ故に生じる問題が、一面では苛烈であるが、他方それであるが故に責任遂行とか義務履行とか社会的責務一切を踏まえた上で獲得し得る個人の自由という観念と結びつく、言わば諸刃の剣であるようなものであるというものである。要するに自由とは先験的に与えられているものではなく、意志と努力によって勝ち取るという性質のものだという主張がある。人間が権利を主張し、自由を得るのは、それなりの代償が必要であるということは、社会の公正と公平の原理から言って当然のことである。もし社会的な意味である個人が存在理由を持っているとしたら、それは端的に責任を果たしているということの評定の上で、であろう。
 しかし同時に、元来仕事というものとは、人間が社会という場で、何らかの存在理由を見いだすということに帰着するわけだから、必然的にその仕事をするという行為は、生きて死ぬという運命を実存として引き受けることである。それは他者間相互に予め認可し合っているという暗黙の了解の下で成立した責任倫理なのである。例えばもし人間が死なないのであるなら、我々は仕事などしないだろう。
 要するに仕事とは、いつかは死ぬ人間たちによる生きる意味の発見への到達不能の旅の鳥羽口であり、死ぬ準備、つまり哲学することはその言葉による問いであるが、身体を通した問いこそが仕事である。そして仕事とは端的に仕事をしない時間の獲得された自由とか権利そのものの有意味性を自覚するためのものであり、そのためにハレとケがあるような時間の区切り、時間の切り替えというものが存在するのだ。だからこそ我々は祭りをし、オリンピックを楽しみにし、選手たちはその時に向けて体調を整えるのだ。
 人間は心の中に神を持った。それはフォイエルバッハが指摘したようにである。人間の心が生み出した虚構としての神が人間を創ったとしたら、人間は既にその時点で現実よりも虚構にこそ真実を見いだすことを価値として生きることを選択したこととなる。
 我々の脳は現実の事物、現象の全てを知覚し、その知覚によって想起したり、記憶したりする。不在をもって何かを表象することと、未来の姿を想像すること、あるいは実際に現場にいずして、その現場での出来事を想像することが出来るのは、現実界に対する知覚や感覚と、表象や想像による非実在に対する思念とが共存するということに他ならず、要するに現実に虚構を重ね合わせるということを常に脳内でしているということであり、何かを知覚したり、実際にものを見たりしている時でさえそうしているのである。(これは廣松渉の指摘していることである。12、文化とは何か 中 ページ参照)
 つまりその時点で我々は既に生きることとは、端的に現実に脳内での虚構を重ね合わせることであるということを知ることが出来る。
 例えば社会とは人間の虚構である。あるいは生活とは人間の虚構である。思考とは脳内の虚構である(しかしそれらは実在する現実としての虚構である)。自然全体が現実であるとしたら、人間はそういう虚構を自然に対して、自然に対する抵抗として捏造(敢えてそう言い切ってさえいい)せずには生きていられない。聖書は端的に自然に拮抗する人間の創意工夫としての虚構である。
 だから私的なことに対して公的であるということを選択することが既に一つの虚構的行為である。と言うのも、私的であるということは既にその時点で、公的であることのもう一つの選択肢として用意された権利であり、私的であるということが、例えば職場に対して家庭であることを更に一歩進めれば、家族という他者に対して私的であるとは、最早脳内での思念しか残されていない。すると私的であることとは、社会を一方で構成する人間が、構成員としての意識を生み出す場である。そして私的であることが、既に社会という公的な場を思念的必要性において生じさせることであると我々は捉えることが出来る。
 つまり仕事は、仕事外の価値を見いだすために設けられた人生という物語の節目を作るための基準である。仕事をし、休みを取ることの反復それ自体が、一つの「ただ生きる」時間を「人生」へと変える。つまり仕事と休みという反復それ自体が生を物語という位相へと転化させるのだ。我々は端的に物語を生きる。しかも自ら作った物語を。その物語とは実際のところ、「人生」に意味を見いだすためのものなのである。
 では何故意味を見いだす必要があるのだろうか?
 私はそれを我々が現実を現実として「読み取る」ことと、現実を現実として「読み取る」ことの非現実性というものとの乖離にその根拠があると考える。
 つまり端的に現実の行為の全てが一つの非現実的虚構であるということ、そして虚構それ自体が一つの大いなる現実であるという認識が私たちを日常とそれを支配する時間を認識させるのだ。時間は一面では極めて人間による認識虚構である。何故なら時間とは「ない」からに他ならない。あるのは変化と、過程と、今はないという不在とその認識(記憶に支えられた)と、幻想的な未来に対する思念だけである。未来がないという意味で中島の主張は正しい。
 私的であることが公的であることのもう一つの現実であると我々に認識されるのは、実は公的であるという虚構、つまり社会的規約という虚構が私的であることの内に、つまり「一人でいること」の内にあることの根拠とは、端的に一人でいることとは、「集団でいること」、「他者と共にいる」という現実によって与えられるということを知る時、一人でいることを他者、及び他者たちと共にいることを社会と呼ぶなら、まさに社会という虚構が、「一人でいる」ということを与えているのだから、当然一人でいて何かを考えるということが社会という虚構によって初めて存在理由を与えられているということだからである。つまり「一人でいる」現実そのものが社会という虚構によって生み出された現実であるとは、現実とは虚構によって生み出されたもう一つの虚構であるということに他ならないからである。よって次の図式が与えられる。
 現実<我々の存在>→虚構<社会>→現実<「一人でいること」>
 しかし我々が我々の存在を知るのは、我々の言葉によってである。するとこの図式に実際には次の前提が与えられる。
 虚構<我々の言語>→現実<我々の存在>→虚構<社会>→現実<「一人でいること」>
 そして「一人でいること」は必然的に脳内の思念によって満たされる。それは言語的思考を必ず伴う。そこで次の結果が与えられる。
 虚構<我々の言語>→現実<我々の存在>→虚構<社会>→現実<「一人でいること」>→虚構<我々の言語>
 ここで円は閉じる。
 ここで再び我々が現実を「読み取る」ことの内に存する虚構という現実に突き当たる。この図式で我々によって告げ知らされることとは、実は現実という認識それ自体が大いなる虚構であるということ、そして現実とは虚構のないところでは成立しないということなのである。
 我々が公的であることの内に責任を認識するのは、実は責任を感じるということが、私的なことの内にあり、その私的なことの内にあるという認識そのものが公的なことの内にあるからである。ここで次の図式が与えられる。
 現実<我々の存在>→虚構<我々の社会・我々の言語>→現実<私生活>→虚構<私生活上の公的なことに対する思念・想像>、即ち
 公的なものの内の私的→私的なものの内の公的→公的なものの内の私的→私的なものの内の公的
 我々の存在の内に私を認める私にとっての<我々の存在>とは、実は最後の虚構<私生活上の公的なことに対する思念・想像>という脳内の思念において生み出されるのだから、この図式はどこまでも円環するのだ。
 我々の存在を私が思念することの内に私は社会参加し、そこで言語を使用する。そして言語使用することによって私は現実の私生活を受け容れる。現実の私生活は社会とのかかわりでしか得られない。そしてその私生活上において我々は再び我々の存在ということを私の中に、私の存在を位置づけながら他者をその事実を確認するために求めるのである。何故他者を求めるかというと、それは私が生きている限り対自的存在であるからである。
 これは一面ではサルトル的な視点の獲得である。しかしそれだけではない。何故ならサルトルは役割を演じることは出来るが、自分自身は演じられないと考えている(「存在と無」)からだ。しかしそうだろうか?そもそも私たちは私たちの身体を演じることは出来ない。しかし身体に対する自分は演じられるのではないだろうか?
 例えば病気の時にも治癒された精神でいようと心掛けることなら出来る。それでも快復の見込みのない場合もあるだろうが、少なくともそのように自己欺瞞することなら出来る。しかしサルトルは一方で自己欺瞞を認めつつ、他方それを否定する。
 私たちは「人生」という虚構、つまり物語を通して現実を初めて知る。私たちは自分たちで自分たちの実在に色を添える虚構であるという物語を通してしか現実を知り得ない。と言うよりそもそも物語の認識のない現実というものなど存在しない。存在し得るものがあるとすれば、それは身体を身体たらしめるキネステーゼ的な有機物質の凝集体それだけである。しかしその凝集体そのものを我々は身体と定義し、そのように身体と定義する精神を我と名づける。この認識を得た時点で我々は「人生」を生きている。それはただ凝集体として物質存在であるだけではない。ただここで、言葉による思念を中心に考える立場と、言葉以前の身体キネステーゼ的凝集体を実在的に捉える立場とに哲学は別れるということである。これは次節以降最も重要な命題となっていくが、12、文化とは何か においても実は詳しく考えていた。図式内のこの部分を思い出して欲しい。
 現実<「一人でいること」>→虚構<我々の言語>、つまりこの「一人でいること」の選択は社会的行為として言語が介在しよう。しかし物理的に「一人でいること」は、身体キネステーゼ的実在の限定空間内での孤立を意味するから、それは必然的に非言語的状況であるとも言える。しかし我々はすぐさまその環自己身体状況そのものを脳内で言語化してしまう。この一瞬の空隙をどのよう考えればよいのだろうか?(それは我々の意識的生において睡眠や仮眠といった無意識の生活事実が存在することの意味とも関係がある。)例えば我々は疲労時には明らかに「一人でいること」ということの内にある他者とか、他者が集合した社会の実情へと一々思いを向けずにいることもある。しかしこれは周囲に人がいる時でも我々は日常経験していることである。他者の声が上の空である場合などもこれに当たる。
 「ただ生きる」という状態は端的に身体キネステーゼ的凝集体であるところの有機物質として存在することを意味するが、我々はそれを「人生」と認識する一瞬の空隙にはやはり「ただ生きる」こともまた引き受けている、あるいはそうならざるを得ないとも言えるのではないだろうか?それは日常的なこととしてである。
 これは中島のテクストでしばしば告白された自己青春において経験済みの引きこもり的生活も含まれるかも知れない。つまり何も考えずにどれだけ長いこと生活することが出来るか試してもよいとさえ氏はカイン型の人間に語りかける。その提言にはある意味では敢えて「ただ生きる」ことを引き受けることを通して日常的な瞬間に我々が経験するそういう状態を知ることの可能性を示唆しているとも言えるのである。
 公的なこととして位置づけられる仕事とは「ただ生きる」ことを言語が拒否するということに対する認可以外の何物でもない。それは人間的な実存を見据えるということでもある。「一人でいること」はそう意識された瞬間「ただ生きる」ことを言語が拒否するということである。それは空談を対話へと転換させようと試みる我々の日常の対他的な意志にも適用出来る。
 人間存在は全ての述語からはみ出るということをサルトルが「存在と無」で主張しているというのが中島によるサルトル解釈であり、それは全く正しいと思うが、それは一面では言語の無力を指示し、言語がいかに実存を裏切るかということをも指示す。それは人間存在を定義し、形容しようとしてその定義、形容の全体を統合しても、更に人間存在の全体へと決して至らないということであり、それは逆に身体キネステーゼそのものの有機的凝集体としてのあり方そのものの把握が不徹底であるということと、仮にそのような凝集体としてのメカニズムを完全に理解し得たとしても尚、脳内の現象、つまり脳が何を思惟し、何を思考し、どういう志向を持つかということが、私たち自身、つまり「ただ生きる」ことを拒否した我々の脳内の意志、つまりその都度言語に助けを借りる我々の意志そのものを外在主義的にメカニックに理解しただけでは完全ではないからだ。それはチャーマーズの主張する物理特性からはみ出る現象特性という神に与えられた最後の仕事となるが、永井均氏は<それは神にさえ出来ない>とする。(「私、今、そして神」)永井は更に<神は過去を捏造することも出来ない>としている。
 チャーマーズは神による最後の仕事を意識そのものの論理的非解明性、そして現象特性としての意識の非物理的側面として見ている。永井は明らかに神の我々に対する仕業を有機的メカニズムが用意されるまでに限定している。そのお膳立てが神によってなされた後、個々の存在者たちがどのような気持ちで「ただ生きる」ことを拒否するかは、端的に個々の責任であるという主張とそれを解する限り、永井は無神論者であるが、チャーマーズは違う。意識という特性、それをも神の最後の仕事と位置づける以上、有神論者である。
 しかもそれは意識を特化させるために設けた自己信条論理正当化の目的論的な有神論である(これは次節以降詳しく見ていくこととなる)。
 今仮に私が私のことをあらゆる述語を使って自己言及したとしよう。あるいは私が私と相対する他者のことをそのように言及したとしよう。しかしそうしながら、私は私のことを他者として見つめる他者の視線から捉えられた私を知ることは出来ない。勿論想像することなら出来る。しかしそれは私にとっての他者のあり方という形での言及以外のものにはなり得ない。従って私は私という存在のあらゆる属性、私の目前の他者(今度は逆に彼<女>の存在をその立場、視線から私は語ることが出来ない。)の属性を語り尽くしたと思えても、それはただ物理的時間を先後関係という秩序の中であらゆる出来事の事実確認をしているだけのことで、その事実確認をする固有の「今」ということをも含む実存的様相そのものを語り尽くすことが出来ないのと同じことである。私は「私が語る」ことそのものを語り尽くすことなど出来ないのである。何故なら私は「私が語る」と言った途端、その「私が語ると語った私」というものに絡め取られ、更に「私が語ると語ったと語った私」という無限後退へと陥るしか手がないからである。つまり私が出来ることとはせいぜい、客観的事実というものを認識しながら、その事実を報告することだけである。その報告する私自身を語ることは「出来そうに見えて決して出来ないこと」なのである。
 ここにはある種の「語る」ということに内在する現象論的な身体行為としてあり方を、「語られた意味内容」という位相でしか認識し得ないという言語行為それ自体の内包的言及可能性と共に、外延的言及不可能性がある。つまり「語ること」とは「語られる意味内容」という形でしか認識することは出来ず、もし仮にその「語ること」それ自体を把握しようとすれば、それは「<語る>身体的存在」となり、その<>は明らかに形式的な把握でしかない。しかしそうなった時、我々は「ただ生きる」即物的な存在だけの音声発声装置としてしか我々自身を把握することが出来なくなり、そのことは「語られる内容」を剥ぎ取られた行為でしかないということから、それは「語る」こととは語義矛盾となるからである。よって我々は生物学的な視点からも、物理学的視点からも我々が「語ること」を遂行する「語る存在者」という認識へは到達しないということを知ることとなるのだ。
 我々は「語ること」をその意味内容を剥ぎ取って認識することなど出来ない。そうできたとしてもそれは、「語ること」という語彙の音声でしかないだろう。しかし語彙の音声を物理的に客観的に認識することが出来るのは、既に我々がその語彙の音声で表現されるところの意味を知っているからである。我々の言語習得という前提的事実があるからである。  
するとそれは私的に対して常に最初から公的であるということが用意されているような意味で、我々は「ただ生きる」ことを拒否し、「人生」であろうとするような意味で、つまり「ただ音声を発する」という問い掛けそれ自体が既に「語ること」の意味内容把握という事実に依拠していることを知るからなのだ。
 我々はただ「私的な時間を過ごすこと」が出来ないのではない。あるいは「一人でいる」ことが出来ないのではない。あるいは我々は「ただ生きる」ことが出来ないのではない。あるいは我々は「ただ音声を発する」ことが出来ないのではない。我々はそれをすることは出来るが、それが出来るのは「公的なこととして仕事をする」ということや「他者と共にいる」や「集団に中にいる」ということや「人生を生きる」ことや「語ること」と「語ることそのものを語りたいけれど、出来そうに見えて決して出来ないことと知る」からこそそれが出来るのである。
 これが、私が「物語とは実際のところ、「人生」に意味を見いだすためのものなのである。では何故意味を見いだす必要があるのだろうか? 私はそれを我々が現実を現実として「読み取る」ことと、現実を現実として「読み取る」ことの非現実性というものとの乖離にその根拠があると考える。」と言ったことの根拠である。我々は「語ること」をし、同時にその「語る私」、「語ることをする私」を敢えて語ろうとするが、それはその試みそれ自体が遂行不可であり、不毛であることを知るために敢えて語り、問いへ挑むというもう一つの「我々の人生の物語」を物語っているからである。それを我々は哲学と呼ぶ。

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