Saturday, June 9, 2012

時間・空間・偶然・必然_意識という名のミーム<科学で切る哲学、哲学で切る科学> 11、男と女の対話術

 男と女とはその持っている人生観やら、生活観、或いは価値観にやはり大きな違いというものがある。それは男女同権となり、男女雇用機会均等法といったものが成立して、大分たつ今日においても変わりない。それは生命が誕生してから三十億年の間に有性生殖というものが成立する過程、あるいは雄と雌という区別がついてからの全ての道のりの歴史を示しているようで興味が尽きない。
 まず男と女とでは時間の使い方(引いては時間感覚全般、そして人生全体)に関する価値観に大幅な違いというものがある。女性は男性よりは確実に何かのためになす時間という観念が強い。例えば休日に夫が上司とゴルフに出掛けるとしたら、それは夫が出世するための方便であると考えるだろうし、息子が受験勉強をしているのは、将来いい会社やいい政府機関とか大学で働くことが出来るようになるためという題目をそこに見出している。そしてその癖学生時代の友達と一緒にコンサートや美術展に出掛ける時には、そういう題目などそっちのけである。
 かなり若い頃からそういう男に対しては要するに自分にいい子孫を授けてくれるための存在、そして夫となる男性とはそのためにいい稼ぎと、いい生活を保証してくれるということが第一条件であるということは、一部の例外的に生活力のある女性を除き、大半の実像である。つまり女性という存在はその一部の例外であっても、その大半の女性の気持ちを理解出来る、そういう存在なのである。
 ところで日本語というものは多くの学者たち、作家たちが言っているように、本音を包み隠すそういう言語である。例えば卑近な例として勃起という語彙を広辞苑で調べてみよう。「にわかにむくむくとおこりたつこと。ふるいおこること」とあるが、通常我々は政変とか暴動が起きた時、勃発となら言うが、勃起とは絶対に言わない。私がもしこのような辞書の編集委員であるなら、次のように勃起を定義するだろう。
 「男女が性行為に臨む時に、性的興奮に伴い生殖器が直立し、硬くなること。並びにそのような性的ニュアンスのあることを想像した時に男女の生殖器に起こる同様の現象。」
 これなら理解出来よう。しかしこの「にわかにむくむくとおこりたつこと。ふるいおこること」という説明では、実際のところまだ勃起という意味を知らない少年少女がこの記述を見たら、きっと性的なこと以外のことでも使用するに違いない(例えば夜中に悪夢からふと眼が覚めて突如起き上がる時、我々が勃起するなどと言わないだろう。しかし広辞苑のこの説明ではそう使用する少年がいたとしても仕方ないと言えはしないか?)。このようなオブラートに包んだ表現を採用しているということは、あまりにも下品な連想をこの語彙を調べる者に喚起しないための作為なのだろうが、要するに「知っていることなのだから、暗に示すことでそちらが勝手に理解せよ」という意図によってこのような曖昧な規定を設けているのである。しかしこれは純真で無垢な、しかも日本語を正確に理解したいという幼少の少年少女たちに対しては失礼千万なことである。私はこの記述を直ちに改訂すべきであると主張したい。このような記述は真剣に真実を知りたいと願う若年の子どもたちに対する愚弄であると同時に、大人が読んでも快い説明ではない。そもそも性行為をこのような形で隠蔽することそのものが猥雑である。しかも無思想、無哲学的に猥雑なのだ。どうせやるなら、もっと本格的に猥雑にやれと言いたい(中島義道氏に私も似てきた)。
 要するに建前をしっかりと掴み、その建前に沿ってそつなくこなすということが社会では求められており、それに対応しなくてはならないという観念が定着しているからこそ、本音を言うことを慎むことが社会に蔓延し、その社会通念につき従うことを率先して男たちに訓育することが女性の嗜みであると躾けられているということを誇りとすることが日本では極めて常套的な女性のあり方であり、そのあり方に賛同する男性も決めて多い。しかしそれは一定の男性の社会的地位が保証されての話であり、そういう男性を配偶者としてキャッチすることがまず至上命題であるところの女性の倫理的な価値規範とは、性とは要するに子孫繁栄のためのものであり、パートナーである男性の行動においてたとえ愛人を作ったとしても、本音では自分さえ真剣に愛してくれれば、それでいいという観念にも近く、男性よりも女性に強いということは社会生物学者が証明していると言う。
 ジョン・オルコックという昆虫を中心に研究する動物行動生物学者でハーバード大学教授である彼の論文を長谷川真理子氏が翻訳している次の箇所は極めて興味深いものがあるので、少々長いが、そのまま掲載しよう。(「社会生物学の勝利」新曜社刊、114~119ページより)
 適応論的仮説の、もっとも挑戦的な比較法による検証こそが、社会生物学者が通常使っている方法である。それは、まったく近縁関係にない種どうしが、繁殖成功にたちはだかる似たような環境的障害に立ち向かったとき、機能的に同じような解決策を進化させるだろうという予測である。たとえば、社会生物学者の中には、現代の人間において、結婚外の性的関係を持つ男性が存在するのは、過去の進化的歴史において、そのような性質が有利であったからだと論じている学者がいる。この究極的仮説は、ヒトという種は、男性が自分の子どもと思われる子どもに、いろいろな資源を与えたり保護したりするという、哺乳類としてはきわめて稀な性質を備えているという認識のうえに立つものだ。いったんこのような形質が進化すると、他の男性の妻を妊娠させ、その女性の夫が与える父親としての世話を搾取することのできた男性は、ある特定の条件下で、ペア形成している女性と婚外交渉する動機づけを持たない男性よりも、繁殖成功度が高かったにちがいないと考えられる。他の男性の妻によって子を得た男性は、だまされている夫に子どもの世話をさせることにより、自分自身が父親としての投資をまったくすることなく子どもを生産できるのである。
 男性は、受精する女性の数を増やすことにより、自分の遺伝子を持つ子どもの数を増やすことができるのだが、夫または社会的なパートナー以外の男性と性交渉を持つ女性は、相手の男性と同じような適応度上の利益を得ることはできない。男性とは対照的に、女性が不倫をしても、自分の持つ子どもの数は上昇しない。そこで、不倫をする女性が遺伝的利益を得るとすれば、それは、配偶相手の数ではなくて、質の向上を通してであろう。それゆえ、つがい外交尾の進化的分析によれば、男性と女性の行動の究極的意味合いは非常に異なるはずである。男性にとっては、それは、他の男性の父親としての世話を搾取することなのであるが、女性にとっては、それは男性のパートナーを、よりよい資源を持った相手と取り替えるチャンスを得ることなのである。
 ヒトにおける婚外性交渉に関する社会生物学の仮説を検証する方法はいくつもある。たとえば、今ここに示した仮説からは、結婚している女性が産んだ子どもの何割かは、夫以外の男性の子どもであるだろうという予測が立てられるが、それは真実だからである。その数字は、調査された社会によって、1パーセントから25パーセント以上までまたがっている。たとえば、トリニダッドのある村で10年間に生まれた子どものうちの16.4パーセントは、母親の夫または社会的なパートナーの男性の子どもではなかったのである。
 婚外性交渉の結果できた子どもが、父親以外の男性によって知らず知らずのうちに世話されるのならば、社会生物学的な視点によれば、結婚している男性は世界中どこでも、だまされる危険に対して非常に敏感であると考えられる。現代のような親子鑑定技術ができる前には、女性が産んだ子どもは確実に自分の子どもであるのに対して、男性が、自分の妻が産んだ子どもが100パーセント自分の子どもであるという確信を持つ方法はなかった。両性間にこのような生物学的差異があることから、マーティン・デイリーと彼の協同研究者たちは、性的嫉妬の性質について、次のような検証可能な予測を立てたのである。すなわち、「女性は、自分の相手が注意と資源をどのように配分するかに対して嫉妬するが、男性と同じようには、相手の性的誠実さに対してとくにこだわらないものと考えられる」。デイリーとその仲間たちは、この予測を支持する広範囲の通文化的データを集めたが、その中には、男性が配偶者を殺すときには、妻の不実(または、男性の想像上での不実)が原因であることが多いという情報も含まれている。
 デイリーのチームが性的嫉妬について分析したのに続いて、社会心理学者たちが、自分のパートナーの想像上の不貞に対する男性と女性の感情的反応がどんなものであるかという報告に基づいて、このような進化的仮説の検証を行った。少なくとも三つの異なる文化において、予測どおり、男性の、自分のパートナーが他の女性と性交渉を持っているという考えに対するそれよりも、強いことが示された。たとえば、最近行った同様の研究では、スウェーデンの学生に対して二つの異なるシナリオを提示し、一方は、自分のパートナーが他人とセックスしているところを想像するというもので、もう一方は、自分のパートナーが、他人と熱烈な恋に落ちるところを想像するというものである。男子学生のおよそ60パーセントが、セックスのシナリオのほうに強く怒りを感じると答えたのに対し、女子学生のおよそ60パーセントが、感情的不貞の方に強く怒りを感じると答えたのであった。スウェーデンという国は、性的に平等な社会を持っており、婚外性交渉に対して比較的寛容な態度を持っているのにもかかわらず、このような性差が表れたのである。
 進化的な意味において、婚外性交渉が適応的であったか、または今でもそうであるかどうか、という疑問に立ち返り、これを女性の観点から検討してみよう。女性の不倫が過去の自然淘汰によって進化したのであれば、今日、ペアを形成している女性は、ペア外交尾の相手を選ぶにあたって非常に選択的であり、現在の夫または社会的パートナーよりも、財産や権力を多く持つ男性を選んでいるはずだと予測できるだろう。さまざまな文化において、女性が夫と離婚しようとする原因は、夫が、自分および子どもたちに十分な経済的支援を与えることができないときだという事実は、この予測を間接的に支持するものである。経済的理由で夫と離婚する女性は、自分の人生のくじを引きなおして向上させようとしているのであり、そのためには、伝統的な社会においては、以前の夫よりも多くの資源を持っていたり、もっと多くの資源をこちらに向けたりする気のある男性を、新しい夫として獲得する以外になかっただろう。次の夫がいないのに離婚しても、女性の遺伝的成功はほとんど向上しなかっただろう。
 この点、現在の私たちの社会で、「結婚している」女性が不倫をするときには、相手の男性は、身体的に対称性の高い男性であることが多いのである。男性のからだの対称性が遺伝するという証拠は存在する。さらに、男性のからだの対称性は、体重と社会的順位と相関しており、それらはまた、その男性がパートナーに与えることのできる資源や物理的保護とも相関しているに違いないが、嫉妬に取り付かれた男性が暴力を振るう傾向があることを考えれば、これは重要な要因である。言い換えれば、婚外性交渉の相手を探している女性は、よりよい資源が得られるような性的選択をする一方で、怒ったもとの配偶者による暴力から身を守ろうとしているようである。もしも、不倫関係を持っている女性が一般的に、現在の配偶者よりも多くの資源を持っていたり、社会的地位が高かったりする相手と関係を持っているのではないことが発見されれば、私たちは、この仮説を棄却してもよいだろう。ここでもまた、社会生物学の仮説は、原理的に反証可能であることがわかる。
 さらにまた、ヒトの婚外性交渉が適応的であるという仮説は、比較法を用いても検証することができる。ヒトにおいて婚外性交渉が起こさせるのと同様の淘汰圧が働いていれば、私たちとは近縁関係にない生物でも独立に婚外交渉を生じるはずだという論理である。たとえば、男性が婚外性交渉をする潜在的適応性は、他の男性による子の世話をどれほど搾取できるかにかかっているので、ヒトとは近縁関係になくても、雄が子の世話をする動物では、ライバル雄のつれあいと交尾しようとする雄がいるはずだと予測できる。すでに述べたように、多くの鳥類では、雄は、巣を作ったり、抱卵したり、ヒナに餌をやったり、ヒナが巣立ったあとも彼らを保護したりして、親としての投資をたくさん行う。ごく最近まで、このような配偶システムを持った鳥たちは厳格に一夫一婦だと思われていたが、実際には、婚外性交渉の頻度も高く、巣の中に父親の異なるヒナが混ざっている場合が非常に多いことがわかった。鳴禽類では、子どもたちの30パーセント、いや50パーセントもが、その雄の社会的つれあい以外の雄の子である場合が知られている。ヒトの男性と同じく、鳥の雄も他の雄とつがいになっている雌と交尾するということは、ヒトの男性に起こるこの行動は適応であるという説、つまり、他の雄による子の世話を搾取することができるという「適切な」社会環境が整ったときには、不倫に相当する行動が進化するという仮説を支持している。
 同様にして、婚外性交渉を持つ女性は、自分の遺伝子を持つ子どもの数を増やそうとしているのではなく、子どもが生存して高い繁殖成功度を持つ確率を上げようとしているのだという仮説も、比較法で確かめることができる。社会的なつれあい以外の雄と交尾する「一夫一婦」の鳴禽の雌は、彼女らが産む卵の数が増えることはないだろう。しかし、すでに述べたように、彼女らは、つがい外交尾相手の雄から、対捕食者防衛の援助を得たり、彼らのなわばりの中で餌をとってヒナに与えたりすることができる。さらに、つがい外交尾は、以前のつがい関係を解消し、新しい関係を築くための始まりであるかもしれない。フランスの二人の鳥類学者が、多くの種において、婚外性交渉の率とを比較したところ、そこには有意な正の相関が見られたのである。そして、鳥の雌がもとのつれあいを捨てて新しいパートナーと一緒になったときには、より社会的地位の高い雄とペアになったのだが、鳴禽類においても人類と同様、社会的地位が高い雄のほうがよりよい資源をもっているのである。
 つまり淘汰圧が同じであれば、非常に異なる生物間に行動の収斂が起こるので、比較法を上手に使えば、ある形質が特定の適応であるという仮説を検証することができる。さらに、社会生物学者は、自分たちの適応的仮説を検証するために、いくつもの強力な方法を手にしており、つねにそれらを駆使して、それらの検証を耐えない仮説は捨て、耐えうる仮説は保持しているのである。(引用終わり)
 要するに男は異性である女性が性的パートナーである場合、彼女の不貞とは精神的に愛し合うことよりも肉体関係を持つことの方に非を認め、例えば離婚のきっかけとなるが、そこまで行かないでいるのなら、もしこれから悔い改めるのならば、つまり相手のことを忘れることが可能であるのなら大目に見ようということであるのに対して、女性は逆に男性であるパートナーが一夜だけの不貞を働いたとしても、その相手と精神的に繋がっているのでなければ大目に見る。と言うことは、逆のケース、つまり男性が相手の女性が精神的に愛していなくても肉体関係を持ったことを離婚申し立ての第一の理由とし、女性は相手の男性が別の女性と心底愛し合っている間柄である場合そういう理由とすることが多いということをこの調査報告は物語っている。
 このことと関係があるのではないかということで中島義道氏が「生きにくい···私は哲学病」において、「なぜ女の哲学者はいないのか」において次のように述べている。これも長いが全文掲載しておこう。
 少年時代を振り返ってみると、野球をはじめありとあらゆるスポーツはできなかったし、喧嘩向きの体力は最低で、男の子らしさは無限に低かったようでもあるが、いやそうでもなかった、とこのごろ思い直している。私は『昆虫の図鑑』『天文の図鑑』『交通の図鑑』などが暗記するほど読み返していたし、顕微鏡を覗き込んだり、プラネタリウムが大好きだったり、網や捕虫箱やホルマリンや虫ピンなど昆虫採集の道具を揃えて蝶やトンボを捕るのも好きだった。大豆を二ヶ月にわたって克明に観察しそれを記録したり、長大な世界史年表を夜を徹して作り、何時間も世界地図を見て飽きることはなく、自分で色とりどりの仮想地図を描いたりしていた。東京タワーや大阪城の模型を作ったり、明日はボール紙で動くロボットを作ろうと考えて夜も眠れなかった。
 つまり、一見ヒヨワだった自分の少年時代が意外に輝いているのをなつかしく思い出し、こうした行動を重ねた自分はとても男らしかったと再確認するのである。というのも、昆虫採集にわれを忘れる女の子はあまりいないようだし、世界中の国の人口密度や特急列車の時速をすべて暗記してしまう女の子もいないようだ。私の周囲には頭脳明晰な女性たちがたくさんいるが、今なおそういう少女時代を過ごした女性にお目にかかったことがない。
 そしてそういう少年がそのまま哲学少年になった。今度は、世界が「ある」こと、時間が「ある」ことが、私が「ある」ことが不可解でたまらない。同時に、少年時代からもちこたえてきた死ぬことがあらためて大きな問題としてクローズアップされてくる。世界が明日崩れてしまうのではないかと思うほど不安である。こういう抽象的な不安感をもって乙女時代を過ごす女性たちもあまり見当たらない。革命に身を投じる女性たちはずいぶん見てきた。ばりばりの社会的行動派も少なくない。精神的不安を抱え悩みつつ生きている女性たちも多い。彼女たちは過食症や拒食症に陥り、あるいは自傷行為を繰り返す。だが、だからといって「独我論」や「超越論的観念論」(これはわからなくて結構です)にはまってしまう女性、つまり「哲学病」に罹ってしまう女性はいないのだ。
 これは私の経験に限らない。東西古今の哲学者を見渡すに、たしかにそこは純粋に男の世界である。ここは慎重に言わねばならないが、美学や心理学や歴史学や言語学に近い分野を含めて哲学と広くとれば、女性たちもちらほら見かける。私が言いたいのは、存在論や時間論や自我論や認識論など、哲学の核心部分となると女性は文字通り皆無だということである。
 どうも哲学というと高級だという観念をもつ人が多くていけない。だから、女性に哲学者がいないと言うと、本気で怒る(とくに知的な)女性が少なくない。だが、哲学は下品なものなのだ。ワイセツなものなのだ。それは、生物としての人間にとっては随分不自然な営みである。一つのわかりやすい説明を。電車の中で男の尻をさする女性は皆無ではないがきわめて少ない。男のパンツを盗む女性も少ない。男子用トイレにカメラを仕掛ける女性もあまりいない。男の前で突然性器を露出して快感を覚える女性もまずいない。(これはある場面ではかなりいると私は思う。管理人注加入)男以上に残忍な女性権力者が史上少なかったにもかかわらず、いまだ何百人の男たちを「蓄えておく」ハーレムを造営した女帝を知らない。(アマゾネスはどうだったのだろうか?管理人注加入)つまり、女性は現実的な性にしか興味がなく、総体としての「生身の」男にしか興味がなく、またそのつど一人の男にしか興味がないようなのだ。
 以上のことは重要なヒントを与えてくれる。哲学がワイセツに思われる(これは私の実感である)秘密もこの辺りにあるのかもしれない。生殖を伴う(そして、愛を伴う)性行為から離れれば離れるほどワイセツな感じがつきまとう。それは、無用という感じと至近距離にある(だから、人間以外のいかなる動物もワイセツではない)。男が排泄するシーンに興奮を覚える女性はほとんどいない(そういうポルノ動画はよく見かけるが、それすら男性の観賞用に敢えて演出しているのかも知れない。管理人注加入)ように、哲学する女性はほとんどいない、逆を言えば、女性たちはこういうワイセツ行為に欲求を覚えないように、哲学に欲求を覚えないのだ。
 21世紀、女性たちはさまざまな分野に進出するであろう。女性たちは、もともと体力はあるのだから、宇宙飛行士や極地探検家あるいはボクサーやレーサーなど肉体の冒険者が激増しても不思議はない。しかし哲学者という名の知的冒険者は増えないのではないか。どんなに女性の時代になっても、哲学だけは女性たちが近づきえない男の「聖域」としてブラックホールのように残るのではないか。そして、それでいいのである。女性の哲学者が輩出する時代、それは男たちが電車の中で頻繁に女性から痴漢される時代であり、男たちのパンツがたえず女性に盗まれる時代であり、男たちのズボンの中にいたるところで女性に盗撮される時代である。つまり、女たちがワイセツになる時代である。読者諸賢はそういう時代の到来を望みますか。(128~131ページ、角川文庫版より)  
 中島氏は自分で自分のことを「好き勝手なことを言う男」である自認し、「人生を<半分>降りる」で著者名の上に副名としてそう記述している。
 結局実際の歴史上女性の哲学者というのは数えるくらいしかいない。アンスコム、ハンナ・アーレント、シモーヌ・ド・ヴォーボワールそれ以外に純粋哲学であると言うよりは、社会性の強い言及者たちとして敢えて哲学的であるとしてジュリア・クリテヴァ、アンドレア・ドウォーキン、スーザン・ソンタグ、ジュディス・バトラー、サラ・サリーを加えられるといったところだろうか?
 これには理由があるのだろうと思う。
 つまり女性は優秀な子孫を自らの胎盤を使って、そして限られた卵子を使って残す必要があるので、必然的に子供っぽくて真面目な男性よりも、大人っぽくて不良っぽい男性により惹かれる。しかし一旦その男性を手中に収めれば、それ以外に浮気する必要がない。だから浮気に走る女性とは、端的に今現在夫である男性に対して物足りなさを本能的に感じ取っているということである。経済力、包容力、いざという時の頼りなさに対する直観。大人っぽい包容力があって、経済力があっても、勿論子供っぽさというものは魅力ある男性には必ずあるものだが、それはいざとなったら、自分を守ってくれるような大人っぽさの中になくてはならないのだ。これが最低限女性の側から男性に許容される子供っぽさなのである。そして自分を大事にするということは性的に愛するということと、性的に愛することを可能にする状況を構築出来る生活力と、経済力というものが兼ね備えられているということを意味するのだ。
 だからこそそのように「一人立ち出来ないでいることを受け容れている女性」は、男性が常にそのような女性からの要求に突きつけられているという状況を社会的には経験することが少ないので、必然的に一人で真剣に人生全体のことで悩むということは少なくなるのではないだろうか?
 例えば何か辛いことがあって、親友に相談する時、女性なら抱擁することがそれほどおかしいことではないが、男性の場合個人的な悩みを誰かの打ち明けたからと言って、その際に相手と抱擁し合ったり、そのようにして貰らったりということは稀だろうし、第一絵にならない。
 かつて元ビートルズのジョージ・ハリスンが死の床にあった時、かつての僚友であるポール・マッカートニーとリンゴ・スターが駆けつけてきた時、二人はジョージの手を握り締めたとその後ポールが告白していたが、このように男性が死の床にある親しい友人の手を握り締めるようなケース以外で、男性同士が肌を接するということは少ないだろうし、ポールは「お前のことが好きだ」などと親しい間柄でも日常ではなかなか言えないものだとインタビューでそう語っていた(ジョージの最後にはそのような会話をしたのだそうだ)。
 しかし女性なら恐らく男性よりはそういうことを言い合ったり、抱きしめ合ったりすることはそんなに稀ではないのだろうと私は思う(テレビドラマの見過ぎであると言われるかも知れないけれど)。それは異性にどのように見られているかということに関して、男性の方が情緒に流され難いと思われたい、いざという時に心強いと異性から思われたい、つまり抱擁を相手に求めるようには思われたくはないという無意識の選択と関係ありはしないだろうか?
 だから確かに中島氏の主張されるように、反体制運動というような弱者から権力者に対するプロテスト的意図による行動をする女性(自爆テロを実行する人たちも含めて)は後を立たないが、本来異性からの要求に従って行動規範を構成する(これは生物学的にも雄は雌から選択されるというケースがその逆よりも圧倒的に多いということとも関係あるだろう)というニュアンスの希薄な女性は哲学的思惟には向かないのかも知れない(すると時々男性の性的要求にオープンな女性がいるが、そういうタイプの人は哲学的思惟に向いているのかも知れない)。
 だから女性の中にも経済力があり、自分一人ででも生活してゆく力のある人は、経済力の面では多少男性を選ぶ規準からはずしてもよいと考えるかも知れないし、そういう場合は子供っぽさということも、許容される範囲が広がるが、いざとなったなら、やはり男性に守って貰いたいという欲求のない女性などこの世にはいないだろう。
 女性は真面目であることを男性に大して求める美徳とするのは、あくまで自分中心のことでである。つまり自分を守ってくれる限りにおいて真面目であるべきであり、世の中全体の中で真面目であるということは、最低限職を失わないくらいに真面目なのでよいのであって、決して律儀であるとか、堅物であるというようなタイプ、しかも自分に対して決然としていない男性に対しては業を煮やすということの方が多いだろう。
 だから大人っぽいという部分とは自分と子供の生活を守ってくれることにおいてであり、真面目であるということも家族を守るということにおいてであり、それ以外ではユーモアがあり、茶目っ気があるという意味では子供っぽいところがあってもよく、自分たちにとって必要な他人に対しては太っ腹であり、自分たちに被害を与えるような他者に対しては適度に不良っぽい必要があるのである。
 このように女性は男性と違って性行為の結果としての妊娠→出産というプロセスにおいて男性よりも甚大な労苦と、長い時間拘束されることから、男性が女性に求める条件とは大分違っていると言うことが出来るだろう。男性が女性に求める包容力とは違って、女性が男性に求める包容力とは、対外的には攻撃力となり得るようなタイプの包容力である必要があるのである。これは普段はずぼらであっても、いざとなったら絶対自分の味方になってくれる可能性を読み取る直観に委ねられた異性に対する選択である。
 だからいざという時には大人っぽい態度を採ってくれさえすれば、それ以外は子供っぽい方が楽しくていいということもあるだろう(女性は好きな男性のタイプに「話の面白い人」と言うことが多い)。しかしそれは第一次的欲望が充足している場合の必要条件であって、十分条件ではないだろう。つまり子どもっぽさとか話の面白さといったこととは欲望の第二次的なことであり、資本主義社会のマーケティング戦略としてはそちらにどの企業も重きを置いているだろうけれど、それ男性女性の商品選択の心裡行動としては成り立つが、潜在的に伴侶となり得る異性に求める要求ではないだろう。  
 ここまで読んでこられて読者の中には私が故意に社会生物学や、それに対する別の形での展開を目指す学問の話をしたりすることに対して痛烈な違和感を覚えられる方もおられることだろう。そういう方は純粋な哲学の指南書のようなものを本書に期待されたのではあるまいか?あるいは逆に科学的な実証性を求められてきた読者は哲学的な発言において、違和感を覚えられたかも知れないと私は思う。
 しかし実際ここで私は示したいことというのはそのどちらでもないものなのだ。
 哲学者である中島義道氏は学問、あるいは科学よりも哲学の方がしんどくて困難であると考えておられるが、そういう部分もあるが、そうでない部分もあるというのが私の意見である。例えば哲学は確かに科学には出来ない崇高な問いを限りなく問い詰めてゆくことが出来る。しかし哲学者もまた夜には電燈をつけ、読書するだろうし、欲しい本をインタネットで注文することがあるかも知れなし、大学で教える人は大学まで電車に乗って通っていることだろう。そして何より印刷技術があるからこそ哲学も宗教も世界的レヴェルで普及しているのである。つまり科学の恩恵を被っているのだ。もっと言えば科学を信頼しているのだ。あるいは哲学病患者というものは非哲学病患者によってその存在理由を与えられているのだし、カイン型人間というものはアベル型人間の存在によって自己の存在理由を与えられているのである。
 つまり哲学者がどんなに足掻いても、科学の利便性がなくなりはしないし、それを全ての人間は利用する。そして科学者もアベル型とカイン型の人間が考える人もまた、人生について真剣に考えるし、哲学的な部分というものはあるのである。
 私が社会生物学の考えを述べたりするのは、ある意味ではそれが社会的行動という観点から人間を考える際に役立つからである。そのように捉える仕方によって逆に社会行動というだけでは推し量れないようなレヴェルの人間の「心の問題」を掘り下げることが可能であるように私には思えるからなのである(社会生物学の限界についてはスーザン・ブッラクモアも書いているし、それをも考慮して再び後節においてそのことについては触れる)。
 例えば人間とは一組の夫婦も、友人同士も、純粋に社会的存在であるだけではないだろう。社会という概念はただ人間をある一定の行為の目的性において捉える方便でしかない。例えば結婚生活も、恋人とか愛人関係というものもまた、社会的な目的のために作るものではない。子供を儲けることもまた大きな目的であるが、人間にとって夫婦生活とか、夫婦関係とか、恋人、愛人関係というものにおいてそういう現実はやはり部分である。だから逆に親子同士でさえ人間同士であるということである。
 例えば一組の男女が真に理解し合えるということは、ある意味では男と女の性差を超えて人間同士として向き合う時である。確かに生物学的には男女の性差というものは歴然とある。しかし一組の男女がそういう性差を受け入れるのは個人の選択であると言うよりは、寧ろ社会通念とか、社会システムに順応しなくてはならないという生活上の利便性からであり、本音の部分では男も女のどちらかと言うと一個の独立した人間同士という側面の方がより大きいことだろう。だから大人っぽさとか子供っぽさとか、生真面目さとか不良っぽさとかいう価値基準など個人ごとに異なっているし、例えばいざという時に、のらりくらりしいているタイプの人間の方が難局を切り抜けることが出来るタイプかも知れないし、そういう時に深刻ぶるタイプよりも異性に求める理想としてはあり得ることかも知れない。それは逆に男が女に対して求める条件としてもあり得るかも知れない。
 つまり社会生物学が与える一個のデータの羅列が示すことは、ある角度から見ればそういう見方も成り立つという真実について示唆するだけである。それを言うのなら、恐らく哲学もまた、科学では推し量れない部分に光を当てているということなのだから、相御互いである。私の考えるところ、科学者もまた恐らく一番関心があるのは、人間ではないだろうか?寧ろそうであるが故に彼らは人間を時として動物や、植物、微生物たちと等価な存在に態と人間を貶め、データ中心に考えようとするのである。しかしそこで出されたデータは各自データの出し方や、証明の仕方に個人差があり、それが科学者のパーソナリティとなっており、またそのパーソナリティ同士の突き合わせそのものは、学界がいかに人間に興味ある人たちで占められているかということを示すものでもある。ここでも孤立者、あるいは人間嫌いであることから生物学者になったようなタイプの人でも、人間社会の中に決然と「人間嫌い」として位置づけられるということから、社交家と同じ対人関係の渦の中にあると考えてもよいだろう。
 だからこの節のタイトルである男女の対話術というものは実際にあるようでないものでもあるのだ。それは科学者たちが自分の論文の正当性を主張する時必ずしも決まった仕方というものがない以上、ただ「誰にでも理解出来ること」という幻想を信じているということ以外に何も信頼に足る共通のものなどないのだから、当然男と女もそこで交わされる会話とは、端的に相互に信頼し合える関係であるという幻想を排除したら身も蓋もなくなる。
 それは言語使用という現実にも適用される。
 世界には恐らく今現在存在するだけの数の言語としてのミームが存在する。そしてこれまでも多くの言語が消滅していっただろう。それは要するにその時にそれまで使っていた言語よりも利便性が多いと思われた言語に使い代えたということ以外のいかなる理由もなかったのだろう(まるで男と女がくっついたり、離れたりすることのようだ)。ミームという観点から言えば、使い代えられた言語の保有するミームの方が利便性という観点で勝利したということだけのことである。しかしそのことが直ちになり代わった方が優れているという評定を下すことは出来ない。
 それと同じように男女の関係も、親子の関係も一律にそのあり方が決まるようなものではない。その時々の相互の事情が偶発的に接触すること以外のものではあり得ない。例えば性的な接触が皆無になった夫婦が、常に性的刺激を求めている夫婦よりも劣るとは言い切れないし、逆にそういう夫婦の方がより精神的に愛し合っているし人間的に価値があるとも言い切れない。そういう場合もあるだろうし、そうではない場合もあるだろうとだけしか言えない。だから対話することがなくなったということが必ずしも憎しみ合っているということを即意味するわけでもない。寧ろそういう男女関係というもの、あるいは親子関係というもの(親子でも同性同士、異性同士という組み合わせがある)、或いは友人関係一般でもよいが、対話することが尽きたと思った瞬間から、本当は真実の対話が成立する可能性が新たに生まれたのかもしれないのだ。ここら辺では中島義道氏が対話をただ単なる会話と区別している部分の主張が生きてくるように思われる。氏は対話を宥和ではなく対立軸を鮮明化させるツールと捉えている(「対話のない社会」などのテクストを参照されたし)。
 これを書いている今日、実はNHKの教育テレビで、文化人類学の今日に関する特集があり、パソコンに向かいながら音だけで聞いたりした。そして番組の中で哲学者の鷲田清一氏が出演され、対談で文化の異なった世界の人々と理解し合うという時、その民族との共通性を知ることが真に理解し合うということではなく、「異」性というものを知ることこそ理解し合うということではないかと発言されていることに私は関心を持った。
 文化人類学者たちは総じて、文化相対説というものの出現以降、それを題目の一つとして仕事してきているらしい。そして究極的には多文化共生社会というものを実現するべく努力しているらしい。
 しかしこの考え方は経済グローバリズムと恐らく真っ向から対立するだろう。つまり欧米そして日本という経済先進国レヴェルでの発想を中心とした経済グローバリズムの波にどんなに抵抗を試みても、我々日本人は竹中平蔵氏の主張されるような意味で違った選択肢というものは幻想でしかないだろう。これはよきにつけ悪しきにつけ不可避的な運命であろう。
 文化相対説というものは例えば言語学の世界ではエドワード・サピア(彼は同時に文化人類学者でもあった)によって言語相対説という形で示されてもいる。
 この考え方を哲学的に考えてみると、恐らく全ての時間を空間系列化された、どの「今」も物理学的視点のように等価であり、特別の「今」などないという神のような視点に近いものがある。しかし私は日本人であるし、文化人類学者たちも主張していたが、我々にとって当たり前の食習慣でも、北欧の人々は眉を顰めることというのもあるだろうし、その逆ということもあるだろう。日本人にとっての捕鯨に関する良識とオーストラリア人のそれとではずれがあることも確かだろう。
 つまり我々はどんなに努力しても、神の如く全ての人類の文化が優劣などないという視点を個人においては獲得し得ないこともまた確かなのである。そういった現実を踏まえずに、ただ闇雲に理想的なことを言っていても、ある意味では痛烈なる自己欺瞞を潜ませることとなる。そのことは恐らく南米を旅したレヴィ・ストロースも痛いほど実感し得たのではないだろうか?例えば私の知人はかつてインドに仕事で旅をした時、食事の仕方とか、排泄の設備とかにおいて、今日におけるような意味では発展していない段階で訪れたこともあって、極めて耐えられない生活だったと告白していた。それはある意味では極めて正直な告白であったのだろう。この問題は結局人種差別意識の問題にまで発展し得るので、実は極めてシリアスな性質を持っている。
 生物学者の考える文化というものと、文化人類学者の考える文化というものは微妙にずれ込んでいるように思われる。文化的適応という言葉、あるいは民俗知(フォーク・ノレッジ)を文化人類学者たちは使うが、それらをも含めて生物学的に言えば環境世界に対する適応であると言えるだろう。あるいはスーザン・ブッラクモア的に言えば、ミームを我々が選択しているようでいて、ミームそれ自体の夢魔的な魅力に抗い難い不可避的接触という風にも捉えられるだろう(どの民族も普遍的に取り込み、取り込まれるミームもあれば、そうではなく民族毎に固有のミームというものもあるだろう)。しかし恐らく文化人類学者たちには固有の世界協同社会という発想があるように思えてならない。つまり彼らには政治的な意図があるように感じられてならないのである。それは私の実感から言わせて頂けば、ある意味では理想であるというよりも絵に描いた餅のように感じられるのだ。全ての文化が共存し得て、全ての文化が一切の競争(これは生半可な競争のことを言っているのではない。つまり食うか食われるかということである。)のない共存ということがあり得るだろうか?(斜に構えて捉えれば、日本の文化人類学者たちはマリノフスキー、フレイザー、ボアズといった西欧の学者たちの考えた路線を踏襲していて、自分たちより上位に彼らを置いているから、必然的にしかし彼ら自身は無意識の内に自分たちよりも下位に位置する「保護すべき文化」というものを探しているのだ、とも言えるように私には思われる)私は何も影響力の微弱な文化や言語は淘汰されればよいと言っているのではない。かつて廃れたものが復活するというようなことはそれはそれでよいと思うが、皆があまり眼を留めなくなった文化や言語を保存しようと他の皆が眼を留めているものと依怙地に等価なものであると主張して義務感と使命感に苛まれて躍起になることにどれほどの意味があるのだろうか、と思うだけのことである。ある程度民族全体の関心と伝統に対する志向性を現実として受け留めつつ見守る度量は必要ではないだろうか?
 ジャレド・ダイアモンド(進化生物学者、生物地理学者)は、名著「銃・病原菌・鉄」の中でユーラシア大陸における病原菌が南北アメリカ大陸の先住民の生命を奪った根幹であり、その数は南米大陸侵略者による銃による殺戮を遥かに凌いだと言っているが、同時に何故そのような不平等、つまり南北アメリカ大陸からユーラシア大陸からの侵略者に対して殆ど病原菌が蔓延しなかったか、その理由として、南北アメリカ大陸では遥か昔に多くの家畜化し得る野生動物が絶滅し家畜化し得る動物が少なくなり、従ってユーラシア大陸のように多くの家畜化し得る野生動物の宝庫ではなかったために、家畜と共存する文化とか、そのことによって家畜に寄生するウィルスに対する免疫がなかったために、侵略者たちの運んだ家畜経由での病原菌によってたちまちの内に死亡していったと述べている。
 このことはある意味では熾烈なウィルスの自然選択が家畜化しようと試みたユーラシア大陸の人類によってほどよく共存し得るようなタイプのものへと進化する余裕があったということを意味する。つまりウィルスの側からしてみれば、端的に集団農耕社会のような稠密な人口を誇る地域に寄生し、広がることが戦略上得策なのであるが、寄生した個人が死滅することを容易にするようでは、逆に自分たちの死滅にも繋がるから、当然それなりにウィルスに対する免疫を得ることを促す形でウィルスは自然選択上進化(勿論人間の免疫システムとの共進化である)してゆくこととなる。それは今日においても変わりない(尤もダイアモンドはマラリアなど風土病が多数発生するためにニューギニアとかインドネシア等の熱帯地域は、欧米による進出植民地化が四世紀以上も立ち遅れたとも述べている)。
 要するに競争(それは人間対野生動物、人間対家畜及び家畜に寄生するウィルス)という現実が文化というもののあり方を決定してゆくのであり、それは多文化共生社会という発想とはある意味では真っ向から対立するような熾烈な、相手に征服されるか、こちらが相手を征服するかという意味さえ含み持つ現実を招聘するようなものでもあるからである。
 ある意味では哲学は完全に欧米中心主義の学問であるし、文化人類学もまた、そういう意識の下で分化発展してきたものであるという意味では変わりないだろう。すると多文化共生社会という発想も、実は欧米を中心とした認識であり、少なくとも先住民族の側に立った発想ではないだろう。彼らがそれを望むかどうかはまた別であるし、かつて黒船が日本に来た時以上の民族間の分裂を経た後ようやく、片がつく、いやそういう猶予さえ経済グローバリズムは与えないであろうような熾烈な競争的現実の前で、同化を余儀なくされるような運命にある民族のこれまで持ってきた文化が果たして真に先進国の間で、マクロ的な意味で承認されたり、対等なものであると認識されたりするかどうかは疑問である。
 もし文化的に保護する価値があるかどうかということが先進国で議論されても、多くの言語が消滅していったような意味で全ての先住民の文化を保存することは、そもそもそういう風に先住民の全てが望んでいるのかどうかを考慮すると、かなり至難の業ではないだろうか?(私は微弱な民族の文化は滅べばよいと言っているのではない。)
 男女の文化的なものの見方ということも、民族毎に存在する社会のあり方によって強制されて植えつけられたものかも知れないという視点に立てば、生物学的な人間のあり方としての男女の性差と、その文化的な克服ということもどこか胡散臭いニュアンスを伴うとも言える気さえする。端的に男女の対話のおいて女が目的意図的時間の使い方を採用しているように感じられるということは、結婚とか、男女の役割に対する我々の先入観から社会規約的に適応する反射神経のようなものがそうさせているとも言い得るのである。しかしそれはある意味では異性に対する生物学的な戦略性の違いに起因するということも当然事実だろう。するとどこからどこまでを生物学的な戦略として認識し、どこからどこまでを文化的な規約とか社会通念、あるいは個人の良識とするかということとなると、実は極めて曖昧になるということも言えるのだ。つまりオリンピックにおいて応援するのは自国の選手であるが、自国の選手同士が決戦するとなると、個人的な嗜好によってどちらの選手を応援するかということが決定されるだろう。そういう意味では本能か理性かということさえ、ある意味では、ある時には本能的な選択を受け入れ、ある時は文化的な正当性というものを受け入れ、ある時には個人の嗜好を優先させるというように、その都度異なった判定基準を採用しながら、その都度意思決定の合理化をなしているのが人間であるとも言い得るのである。しかしそう言いながら、本能も理性も、我々はある判断に対して事後的に反省意識の上でそう考えているだけで、それらは結果的には全て我々の言語的思考、論理的思考の産物であるということにもなるのである。
 そういう視座に立てば、男女の対話術というものは、親子の対話術と対極の部分もあれば、ある時には同じような部分もあり(特に女性は男性に対して母親的な態度で接するところがある)、ある時には上司と部下の関係的になることもあれば(男は女性にそういう態度で臨むことが多いし、その逆のパターンも夫婦によってはあるだろう)、ある時には友人同士と同じようになることもあるという風にその都度の判断に委ねられていると考えた方が自然なことなのかも知れない。

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