Sunday, September 27, 2009

決心の構造の多層性(ある選挙に立ち会って)<選択の行為性>②

 だから次のように考えられる。オースティンは判定宣告型、権限行使型、行為拘束型、態度表明型、言明解説型という風に分類して行為遂行発言を分析した。そして彼にとって投票するという行為は権限行使型ということとなっているが、実際私の考えでは、権限行使型は先の例ではあくまで選挙意義に懐疑的であり棄権するか、さもなくば選挙の意義とその選挙で立候補する贔屓の候補者が絶対的に支持したいという考えを表明する場合のみであり、ただ単に贔屓心からある候補に迷いなしの投票する場合でさえ、そういう場合えてしてイメージの方が大切であり、個々の具体的な政策ではないから、つまりどのような政策であれ、この候補者に任せておけば間違いないであろうという盲目的な信頼によるものであれば、それは躊躇した末にある候補者に要れる場合と同様、それは態度表明型であると言えよう。つまり投票は私の考えではかなりそれ自体に対して肯定的であるか否定的であるかの二極以外では慣行儀礼追従型である、つまり慣習踏襲型であるから(つまり深く意義論的に判断しているのではなく、選挙があるから投票しようという自動的な行為選択判断であるから)あくまで態度表明型であると言えよう。つまりそれは主体的であるよりは追従型であるから態度表明型というオースティン流のカテゴリーに位置付けられるのである。
 しかも現代はテレビを中心とする映像メディアの時代である。その候補者の日頃の立ち居振る舞いとか表情とか全ての身体全体から発するオーラが一瞬にして伝達される時代である。メディアの露出の多い政治家はあくまでパフォーマンスが優れた政治家であり、タレント性も要求される。そこで一瞬にしてその政治家の身体的なオーラの感じられる政治家が必然的にマスメディアの登場回数も多くなり、そういう魅力ある候補の政策のみがより強調されてゆき、大衆的な認知度が倍増し、そういう候補者に対して、ほぼ自動的に投票するように本質的には政治的無関心であるのに、祭り感覚で今回は投票行動の加担しようという意識が生じ、そういう候補がえてして大勝を納めることとなる。
 哲学者の信原幸弘は自著「心の現代哲学」において「意識的に考えて行動することは、意識的な言語操作にもとづいて行動することである。それを、意識的な言語操作の背後に無意識的な命題的態度の活用を想定し、そのような命題的態度のゆえに行動がなされると考えることは、あまり適切ではないのである。」と述べている。彼の言う通り命題的態度と行動との連関において命題的態度は確かに明白な意識的な産物と考えて初めて行動を誘引すると考えることは出来る。しかしその意識的な命題的態度を構成する意識自体は極めて多くの構成要因を持っていると考えられる。その中には勿論理性論的な思惟やその産物、あるいは欲求の形を取る意志とか色々のものが考えられるが、その中には無意識の内に欲求が充足されない形で沈殿したものも多数含まれるであろうと思われる。その意味で信原は決して無意識の作用自体を否定したわけではない、ただ無意識が直に行動を誘引するという事態を否定しただけである。その意味では選挙において専門家でない(政治的にも経済社会の現実、経済政治戦略的な意味で)一般民間人が投票する際の候補者選びのバロメーターはメディア的な意味での露出度というものが大きな比重を占め、そのメディア的な知識とマスメディア受けする好感度が投票行動に遠因として無意識の内に醸成されたその候補者に対する知識を高め、他の候補者との距離を作り、それを投票すべき候補選びの条件として意識的に自覚させるのだとすれば、投票行動を誘引する直接的な候補者に対する認知度自体が、その候補者を他の候補者に対してより多い回数でメディアに登場させるメディア露出に対する認知自体によって無意識の内に知識や好感度を増さしめる事実と連関していることは大いに考えられるところである。実際知識とか決心の際の意識的な判断においては蓄積された潜在的な記憶に、記憶事項を整理する個人毎の経験と相まって理性論的な判断においてさえ大きくマスメディアから影響を受けるという現実がマスメディアの浸透力の大きい現代社会では拭い難く顕在化しているのである。
 しかし時としてそういう候補のイメージ戦略に理性論的に批判を加え敢えてそういう候補は避けるという行動を採る者もいる。つまり全体的なバランスを取り、どうせ放っておいたら、ある候補が絶対的に勝利を収めるであろうという推測の下で敢えてそれ以外批判的勢力の方に加担して投票しようという選択を取る場合である。これは独裁的、多数派主導型政治への批判と懸念から生じた選択であり、かなり主体的な選択でもある。この決断は選挙以外でも多くの日常的な場面で見受けられる。クイズの回答、他者の態度の裏にある真意といったものが通り一遍の常識的判断を敢えて回避させるやり方である。しかしこれも懐疑主義的傾向の強いタイプと、そうではないタイプとでは圧倒的にスケプティカルなタイプに多く見られる判断であるように思われる。
 故に選挙意義を一応認め更に棄権しない者の中でとりわけある候補や候補党が圧倒的な人気であることが了解されている場合、それでもその人気党、人気候補者以外のいかなる反対勢力にも投票出来ないと明確に言い切れる場合にその人気ある候補、党に入れる場合と、そういう現実をある程度推測出来、敢えて絶対多数を回避させるために人気候補、党以外である程度容認出来る候補、党に入れるというような場合のみが理性論的判断による投票行動であると言えよう。勿論ここには棄権者は除外することを前提した判断である。それ以外の多くは付和雷同的な意識、他の多くがそうするから、自分もそうするという行為選択基準によって投票する場合であろう。しかしこの主体的であるか付和雷同であるかの峻別基準というものは甚だ難しいと言わねばならない。するとここでまた問題となるのは今回の選挙が実際理性論的にその実施意義自体を問うことが必須であるかどうかという判断によってその選挙に対する姿勢も変わってくるということである。そして付和雷同してただ潜在的なマスメディアイメージの主張する候補者像を信頼し、何の疑いもなくその候補に投票することが支障なしと判断するか、そうではなくあくまでマスメディアが必要以上にイメージ主張先行型なメッセージにより我々を誘導するような脅威を敢えて自覚的に認識し、それに付き従わないように心掛けるような理性論を先行させるかという二者択一を選挙の都度我々は迫られているという風にも解釈出来るのである。 前者の判断はマスメディアの表出するイメージ像や露出頻度に対してマスメディアの視聴率、購買促進術としての営利追求型な姿勢自体を批判してそれに抗うこと自体の意義を必要以上に感じない、つまりそれを批判するよりも受け入れることの方がより自然に感じられる、つまりそれくらい今の政治的な体勢と大勢を肯定的に捉えていて構わないと判断する、あるいは何よりそういった現代社会の有り様自体を肯定するマスメディアに対して一定の信頼があることであり、後者は、そのマスメディアを利用し、マスメディアが彼らに利用されることを承知で、その人気政治家たちを利用することを厭わない姿勢を批判主義的に今まさに問題意識として浮上させるべきであり、マスメディアの作り上げる実像に対するただマスメディアの側からの事情による一面的な報道姿勢にしか過ぎないのだ、と判断し、そういう候補に対しては敢えて投票しないという抵抗姿勢を全うするかという二者択一である。そういった二者択一以外にもその中間や最初は前者であったが、後で後者に移行したり、逆に最初は後者であったが、やはり前者の人気性へと加担してもよいという判断があったり、実はこの二者択一性は個人の決心の構造においては甚だ錯綜していることの方が多いということが極自然であろう。

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