Wednesday, September 23, 2009

決心の構造の多層性(ある選挙に立ち会って)

<選挙の行為性>
 

 一つの決心がなされる時、そこに至るプロセスはさまざまであり、まさに現状において定言的に心的に即決されて、仮にA、B、C、Dという選択肢の中からAを選択した場合と、それとは逆に即決が出来ずに躊躇と逡巡をさんざん持った挙句に選言的にAを選択する場合、後者においては仮にAが結論的に選択されることが自明性を有していながら、同時にBならBに(CでもDでもよい)もそういった自明性があるということを見出し得る場合、必然的に熟慮に熟慮を重ねて二者択一的に決定する場合などは本来前者と全く同一の選択をしたにもかかわらずそのモティヴェーションには随分と開きがある、と考えて順当である。しかもそればかりではなく、例えば最初は迷わずにAならAを定言的に選択し得ると、そう思ったのにもかかわらず、次第にBという選択肢も心的に必然的でもある、という判断が浮上してくることも多々日常的には起こり得る。そういったさまざまなパターンの心的な並存は一個人の中であっても、何ら不思議なことではない。しかも短期間に選択しなければならない状況においては無意識の内にある選択を即決し得るような個人においてさえ、ある一定の期間、時間的な推移を付与される場合には、その決定に至るプロセスは大きく初期段階とは変更され得る。そういう意味においては選択というものの本質とは仮言的である、とも言える。選言的に決定される場合とみにそうである。
 可能性にはカテゴリーはない。あくまでケース・バイ・ケースで恣意的な選言性しか事後的に確認し得ない。要するに仮言的であるのである。このように決心の種類、その選択肢の数、その個々の性質、その決心を強いる状況性によって決心はケース・バイ・ケースでその構造を独自の多層性を生じさせる。しかも常にその選択そのものの性格は決心全体が依拠する意味においても唯一的、個別的性格を持ち、決して一般論的に敷衍し得るほど単純ではない。唯一的性格であるが故に我々はそれをカテゴライズすることが出来ないということである。だが性格がカテゴライズ出来ないからと言って、性格分析の内包的な方法までもカテゴライズし得ないとも言い切れない。方法的には現実がカテゴライズ出来ない故にこそ尚更カテゴリー認識を活用することにはそれなりの意味がある。
 こういったことを考える上で恰好の社会的出来事とは選挙である。ある候補をどうしても一名だけ選ばなければならないような状況において、我々は棄権をも含めてどのような選択をするのであろうか?ある種迷うことなく一名をリスト・アップ出来る積極的な場合と致し方なくある一名をリスト・アップするような消極的な場合も含めれば、かなりの積極性と判断的な事情には多層性が存在し得るであろう。ア・プリオリに定言的に候補者の名前を言える場合と、そうでない場合とでは必然的に天と地ほどの開きがある、と言えよう。故にその両極の間に位置するとも考えられる中間的な様相の事情の多様性が、実はその選挙自体が内包する真理性に多大の影響を付与しよう。そしてその中間的な多様性は、中間領域の偏在性と唯一的な性格故に固有の選挙を巡る状況と唯一的な戦略とを候補者にも投票者にも付与するであろう。
 しかし最も重要なこととは、選挙の場合、まず選挙に行く以前に選挙が今度あるようだが、それがいつであり、行くか行かないかを考えるという内的な行為があるかないか、という次元での問題がア・プリオリに存在するのだ。そして選挙があるということを知りつつも、行かないというのならそれはノンポリ的な考え方であるが、全く選挙というものが今度あるということに関して聞いていても、右の耳から左の耳でと筒抜けになってしまうか、もしくは選挙なんて今度あるのか知らなかったというくらいの無関心、情報を自然に遮断された状態の人の関しては、本論においては除外されるということである。ノンポリ的な考え方は明らかに主体的である。しかしそもそもそういうものがあるということに気がつくさえしないということは主体的とは言えない。そこで本論ではノンポリ以上の存在を的に絞って考えてみよう。
 ノンポリであろうが、関心があろうが、今回の選挙自体に全く賛意がない場合、消極的な判断であるところの選択としては棄権というものがあり得るが、それはノンポリにはあり得ない判断である。なぜなら彼らは主体的、意思的に敢えて一切選挙に参加しないのであるから、消極的な賛意としての棄権とは異なる。それは今回だけは止めておこうということである。しかしここに仮に今一切の選挙には参加しないぞ、という意志を持つ人間がいるなら、そういった人間は選挙自体の有無については重々承知しているわけだから、積極的な非参加姿勢表明とも言い得る。所謂ノンポリにはその手のタイプが多く見られるのではないか?だが取り敢えず我々は参加した人々、あるいは棄権したが実際はそれほど非参加の意志が鮮明ではなく、本来なら参加したかったのだが、あるいは参加すべきであると思っていたが棄権した人々のみを含めてそれ以外の参加した人々の内的な意思の多層性について考えてみよう。
 しかし積極的、消極的という観点はその選挙の意義、内容、あるいは立候補者とかのメンバーとかの作り出す状況性とも大いに関係ある。例えば特に有力な立候補者の中の一方が必ず今回は勝利するであろうと思われる場合の投票意志は全くどちらかが勝利収めるかが皆目検討がつかない場合とは異なった投票意志を生じさせる。もし大勝利が決定的であると察せられる場合自己の一票がそれほどの大きな意義がないのではないか、と感じられる場合、他に色々の雑事のある場合今回は行かないようにしようとかの棄権意志が生じやすいであろう。それは参加を機軸にすれば、明らかに消極的な参加意志表明である。だがそれでも国民の、市民の義務履行意識がそれよりは少し高ければ、どちらの候補ともそれほど鮮明に賛意を表明出来はしないものの、どちらかというとこちらの候補の方がよりよい(つまり当選した暁にはよい政治的な結果を生じさせるのではないか、という臆測の下に)という判断によってどちらかの候補に取り敢えず一票を投じる、しかも本来は行かない場合も多いのだが、今回は参加することで何らかの意志表示をしよう、というのも日頃マスメディアが作り上げる世論という幻想に飽き飽きしているとかの場合、民意はそうではないぞ、国会の決議も必ずしも民意を反映してはいないぞ、という場合などは、仮に鮮明に支持すべき候補のいない場合でさえ、積極的に賛意を表明する意味で恣意的に誰かを選び投票する場合もある。得てしてそういう場合はある政策を巡って対立する考えが国会やマスメディアの話題において顕示されている場合が多いであろうから、そういう二者択一の選択の場合あくまで賛意という表明性においては積極的であるが、選択候補に関する支持性に関してはやや消極的である。なぜならマスメディアの作り出す民意の幻想や国会の決議自体への批判票であるから、一票を投じるという行為性により重きがかかり、その一票を入れる候補への支持がそれほど強くはない、ということも十分考えられるからである。だから二者択一的に選択される場合、誰か鮮明に支持すべき候補者がいる場合と比べると明らかに義務遂行的であることは間違いない。鮮明に支持すべき候補に一票を入れる場合は義務意識からではなく、もっと主体的な参加意志表明型であるからである。しかし二極分離的に主要候補者同士の一騎打ちである場合以外の、例えば数名の候補者が団栗の背比べである場合は、その数名の中からなら、この候補、あの候補が一番まともであると思われる場合、その候補を義務履行的に入れるということがあり得る。この選択は二極分離である場合同様支持性に関しては消極的であると言えよう。ここでちょっと纏めておこう。下図のようになろう。

1、政治参加意志の積極的表明型

①積極的支持候補者へ投票する
②積極的支持候補者不在であるにもかかわらず、誰かを熟慮の末に投票する

2、政治的参加意志はあるものの、今回は不参加を決め込む消極的表明型

①特定の候補がおらず今回は見送り棄権する
②選挙自体の意義に疑問を持ち今回は見送り棄権する
③どちらか一方の候補者が勝利することが鮮明に了解し得るので今回は敢えて投票するべくもないと思い棄権する


 ここで積極性というものについて考えると、まず選挙自体の意義の肯定という意味においては、1の①、②、2の①、②が同等のポテンシャルを持っていると考えられる。しかしやや2の①が積極性において劣るというくらいであろうか。それに対して2の③は明らかに消極的な自己有権に対する姿勢である。今度は選挙自体ではなく、候補者に対する当選して欲しいという観点から見た積極性(支持積極性)においては、1の①、2の①が積極的な支持、不支持の意志表明を持っているのに対して、それ以外は2の②が全く異なった観点であるためにプロテスト的な姿勢であることを除き更に、2の③が最も消極的な支持性の表明であることを除けば皆同等の消極性に裏打ちされている。ただ1の②は消極性の中ではやや積極性が強く、積極性の観点からは義務履行的側面が強く、積極的であるよりは致し方なく、止むを得ずという側面が強いものの、選挙参加姿勢に関しては一番強いという風にも考えられる。
 この中でも実は2の②は一番選挙の実施自体の意義について考慮を持っている。というのも選挙を意味あるものであるか、そうでないかという観点において言及した行動を採用しているのがこれだけだからである。その意味でこの選択は積極的な選挙実施に対する意思表示であるとも言えるのである。これはだから理性論的選択であり、そうではないこれ以外の選択は積極的に誰か特定の候補に投票する場合(その候補の政策面において共鳴を持ち選挙の実施自体にも共鳴しつつ)だけを除き、たとえ贔屓の候補に投票してさえその投票行動を支える心的な様相においてはただ選挙があるから自動的に投票所へと赴くという無意識に因果的な行動でしかないからである。そういう無意識の内の反射的行動における選択は理性論的な選択とは言えない。それらはあくまで常識追従型の選択であり、社会通念踏襲型の選択である。だからと言ってそれらをまるっきり条件反射的な行動だけである、とも言い切れない要素は残る。それが慣習的コードでもある義務遂行的行為である。義務は納税とか所謂法的な義務だけをここでは指すわけではない。あくまで社会通念的な意味での社会人行動の規範に則った行為を全て指すのである。こういった行為は慣習的な行為は皆規則遵守、慣習踏襲の逸脱行動忌避型行為選択とも言える。
 しかし一旦選挙が行われ、今度はその有権者の投票結果が判明するに至り、その結果が自己の入れた候補が当選しない場合はともかく、自己の入れた候補が当選する場合、その候補を迷わずに選択した贔屓筋ならいざ知らず、苦渋の決断や熟慮に熟慮を重ねて要れた場合(そういうケースではえてしてそれ以外の選択肢が見つからない場合や渋々要れるということが多いので)、贔屓筋以上にその後の政治的展開において期待以上の活躍を見込めない場合には失望感がより大きいと思われる。だから逆に入れた相手の属す党が予想に反して当選した場合(あまり当選するということを期待して入れない、つまり批評票的入れ方)最初からの贔屓筋よりも苦渋の決断や熟慮後の決断で入れた場合の方が後悔の念は少ないということはあり得る。何故ならただ単なる贔屓筋で入れる場合には明らかに「活躍して欲しい」という理性的判断であるよりは、レジャー的意識が強いし、また批評票的な場合それはあくまで勝つ側を想定してそうではない側に入れるわけだから、それが予想に反して当選してしまったということから逆に意表をつかれてしまうから、嬉しいとも後悔があるとも言えない感情に襲われるだろうし、逆に真摯に考え抜いてその入れた候補が当選した場合、熟慮して入れた甲斐があったと思うからだ。しかし迷わずに入れた場合自己の選択基準とは異なった受け取られ方において予想以上の議席を贔屓党自体が獲得すると、その勝利に対する奢りを戒める意味での反対票の少なさからある種の懸念を持つに至る場合もあろう。しかしこういった場合でもその後の活躍次第では苦渋の決断や熟慮後に投票した場合よりも明らかに失望感は少ないであろう。しかし熟慮して入れた場合(限りなく反対勢力に対しても同様の期待感を持っている場合)余程の活躍がないと失望感はより大きくなることもまた逆に自然である。あれだけ悩んで入れて損したと思うわけである。これは反動的な期待感に対する失望感と言えよう。そういう意味では迷いを吹っ切る場合に我々は迷いを消すに足る強い期待感と肯定意識を我々自身の内部に生むのである。 さてこのように考えてみると、躊躇いを持って投票した場合には明らかに期待感は倍増されるという現実もあり得る。またこうも言える。期待感はなくても贔屓である候補が自己によって投票された者だけである場合は、さほどの活躍が当選後に見られなくても、盲目的である要素も強い贔屓心から、批判精神は最初からないのだから、そういう場合は格別の失敗をしない限り贔屓心は変更されないものである。躊躇いなく入れる場合でも政策面での共鳴によって入れた場合は、人物評価とか好人物であるという判断から入れた場合よりもより政策実効性において期待にはずれると失望感は倍増される。それは好人物であるとか(メディアの与えるイメージの問題として)のような軽い気持ちとは訳が違うと言うことは言えるし、具体的に掲げる公約として政策面からの活躍に対する期待感があるのであるから当然である。だから人物評価とか好人物性によって選択した迷いなしの投票者よりも理性論的な政策面、公約規定論理性によって選択する迷いなしの投票者の方がより大きな失望感を期待が裏切られると味わうこととなる。支持する意識が萎えてくるのである。急速に萎むのである。

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