Wednesday, April 10, 2013

時間・空間・偶然・必然_意識という名のミーム<科学で切る哲学、哲学で切る科学> 17、「彼(女)は変わった」とは言うのに、何故「私は変わった」とは言わないのか?

 さて10、私は今を食い尽くす において私は若干この本節のタイトルにある事の根拠を述べた。しかし実はこの問題は極めて大きな意味があり、そう簡単に解明したと思って貰っても困るものなのだ。しかもこれは時間論にさえ関係している。そもそも私という意識という捉え方それ自体が哲学ミーム的幻想であっても、確固とした存在論的実在的意識であったとしても、その私という意識それ自体が今を食い尽くすのであって、その逆ではない。とすると私という意識のないところでは結局のところ一切の今という意識はないかも知れない、ということになる。差し当ってそのことは一先ず置き、それよりも先に本節のタイトルのことについて詳細に触れておかなくてはならない。
 私たちは第三者に対してその評定を下す時、明らかにその外観、全体的印象、行動(或いはそれによって公的に示される思想)そして身体特徴とか、要するに誰の眼から見ても一致した形容を採用する。それはそういう風に客観的な他者像というものをその者を話題にする者同士の間では少なくとも同意事項とするような事としてである。
 私の知人は最近亡くなった事は既に述べたが、その知人を共通して知る私と私の友人とで会話した彼の話題に於いては、私とその友人との間で共通了解し得ることを基軸に彼の生前の全体的印象からその故人に対する評定となって語られた。
 さて他者に対してそのように述語を与えるというのは、ある意味では、その他者の心自体は読み取る事が出来ないという哲学的問題に起因する。だからこそ逆に私たちは知人と第三者としての彼(女)について語る時、「彼(女)は変わった。」と直接的に語る事が許される。と言うことは実際彼の心の内においては何ら変化などしていず、それ迄何らかの偽装的態度を採り続けてきていて、逆に最近やっと真意を表出したとか、猫を被ることをやめたからこそ我々が彼(女)に対して抱いてきた印象それ自体を変更せざるを得なくなった為にその様に言う事が出来るとも可能性としてはあり得るし、実際そうではく本当に彼(女)は変わってしまったのかも知れない。しかしいずれかは永遠に定かにならないという事を私も知人も知っている。
 つまり第三者に対してならどんな事を言ってもそれは所詮その者に対する印象なのだから、当然その印象それ自体はその第三者に対して向けた視線の下に語る者が抱いた感想なのだから、それ自体はいかように表現しても間違いという事はないのである。
 しかしそれに対して私が私自身の外部からの印象を勝手に決定するような言辞であるところの「私は変わった」とは言えないという事は至極当然のことである。つまりある話者が私自身の内面の事とか、外部に示される行動に就いて評定を下した後で、私がその者の評定そのものを肯定したり、否定したりする時にこそ、私は会話の文脈上、端折り、「私は変わったよ。」(あるいは「私は変わっていないよ。」)などと言う事以外自ら進んで「私は変わった。」などと言うことは素っ頓狂なことだし、対他的な対話上の配慮において適切ではない。それは10でも若干述べたのだが、明らかに我々が意思疎通上、一人称的言辞において、第三者的な言辞を使用する事が可笑しいという私的言語性に対する躊躇があるからである(いきなり何の前触れもなく自分の事をあたかも他人のように語る事は可笑しいと感じる。それは私的言語があるかどうかはともかく私的な侭に相手に自らの対自を語る事になるからである。それは何か説明する際に私的な事を相手にも理解させようとして話す時の私滅却性とは本質的に異なる)。端的にそのような表明とは私的過ぎる(つまり誰かから最近の自分の心情を聞かせてくれと要請されない限り)という無意識の忌避的心理が働くからこそ、我々はそういった「私は変わった」という言辞を慎むのである。それは羞恥感情に根差すものである。この羞恥感情という奴こそ哲学的には曲者なのである。
 つまりこうである。私たちが今という意識に目覚めるのは、確かに私が何かをしている、例えば今私はこの文章を書きとめるためにワードにパソコンの画面を見ながら取り組んでいるのであるが、要するにその行為それ自体に対して客観的に認識し得る対自というものがあるからこそ、私は今をも意識し得るのである。
 話者同士にとっての他者である第三者というものは完全にその心を読むことが出来ない事から、我々はその者の印象を如何様にも自由に評定し得る事が話者同士の規約上での暗黙の前提となっているのに対し、私自身に就いては私ともう一人の話者(対話相手)との間で、距離的な意味でなく心の内側の問題として私なら知る事が出来るが相手はそうではないという意味で全く別質のものである。つまり私にとって私の最近の心持とか気持ちといったものは完全に自明であるのに対し、私と対話する者にとっては(たとえ自分自身のクローンでも)そうではない。このことを永井均は私と他者との非対称性と呼んでいる。しかし第三者の事となれば話は別である。私と私と対話する話者にとってその第三者は共通してその心の内を知ることが出来ないという意味で等距離であり(少なくとも私と私の対話する相手だけが共にいて、しかも第三者はそこには不在であるのなら)第三者に対する話題とは私と私の対話相手にとって運命共同体(場)である。私だけが私自身の最近における心の軌跡それ自体を容易に思い出す事が可能であるからこそ、それをもう一人の話者に唐突に「私は変わった」と述べることは出来ないのである。そしてその事実と私が今というものを意識し得るということはどこかで繋がっている。
 私たちにとって、端的に第三者に対する関心そのものに私の対話する相手と私が共に相対して眼差している時第三者自身は不在であり、彼について二人で話題としている時の共通体験としての確認(「今彼のことを話題にしたけれど、ところで~」と言うような場合)をする時、或いはそこに別の誰かが加わった時、あるいは私が傍にいるもう一人に向かって「今これを渡しておくよ。」と言葉を投げかけるような意思表示的な合図をする時、私が私一人で行っている例えば今ワードに文章を打ち込んでいるという行為事実に対して対自的に確認する時という様々なケース毎に微妙に異なる私を巡る状況とは存在し得る。
 勿論その個々のものは状況的な性質も様相も全く異なる。それらは少なくとも考えの上ではいずれのケースでも共通して今ということを意識し得る。しかしそれらは今意識という事だけに焦点化させると微妙に強弱があるのではないだろうか?  例えば誰かと一緒に映画館で映画を観る時と自分一人で映画を観る時の事を考えてみよう。勿論一人で映画館に行った時でも、その映画を観ている他の観客という存在を意識すれば、又別である。しかし少なくとも私は私にとって親しい友人と二人で映画を観に行った時と、そうではなく一人で観に行った時とでは微妙に今ということに対する意識に関しては違いが生じるように私は思う。
 要するに一人でパソコンの画面に向かってGYAOの映像を見ている場合などは今という意識は希薄な筈である。それは一人で映画を観に行った時と同じである。私は自分の考えを文章に纏める為に能動的にワードの画面を見つめている時とGYAOの映像を見入っている時とでは明らかに違う。後者の方は受動的であるからだ。GYAOの映像を見たり、映画を一人で観に行ったりした時は明らかに私という意識が奥へ引っ込み、当然今という意識も希薄となっている(もしそんな時に今映画を見ている私という意識をしたのなら、映画の内容とか、特に外国映画を字幕を読みながら観ている場合などは映画の台詞とかを見落としたり、重要なストーリーを掴み損なったりするものである)。 私、つまり今という意識は第三者について語る時においても希薄である。今意識とは、今私が貴方にこれを渡しておくという事とも、一緒に窓の外を歩く二人に共通の知人のことを指差して「ほらあそこに今~さんが歩いてこちらの方に向かってきているよ。」という事とも異なりはしないか?
 だからこそ逆に「彼(女)は変わった」と言う事は時間を超越した言辞として、最近発見した真理を表明する事を通して、それは今現在時点で彼がどうであるか自体より過去の彼(女)を想起し彼(女)を語る事で対話する相手にも同様に彼を想起させつつ、二人が共通して知る過去の彼(女)一般と、それと対比的な最近(比較的最近の過去)の彼とで評定しているわけだ。すると必然的にその変化自体に対する着目に主眼が置かれているので、評定的言辞そのものに今意識とは希薄である。  
 しかしその彼が今まさに窓の外を歩いていると確認し得る(まず一人だけその事に気づき、「ほらあそこに~がいる。」と言って、その後例えば私がその窓際に行って私にそのことを告げた話者の言う事の真偽を確かめる時でもいい。)時、突如無時間化された「彼の最近の様子、行動」は今例の彼(女)に対する指示となり、今意識が発動される。今という意識はある意味では指示と深く関係している。つまり話題において、何かを指示してそこに話者同士が意識を集中させる(共同注意)事が出来、それを主体にする場合、我々は今という意識を共有していると言える。今がまさに話題上でもクローズアップさせられるのだ。
 一人でパソコンの画面で動画を観ている時には、限りなく今意識は希薄である。私はあくまで動画の動きと画面が切り換わる変化それ自体に意識を集中している。しかしその様に私が書斎でパソコンの画面に見入っている時に妻が私にコーヒーを持ってきてくれて、私の書斎の扉をノックする時、明らかに私は今意識に突如変換する。  
 要するに「彼は変わった」の中には変わった事があるにも関わらず同一性としては不変であるというニュアンスがあるのだ。そこでは今意識は希薄である。しかしその彼が今外を歩いているとなると、そこに今意識が突如導入され、話題の方向性も変わって行き得るし、意識は今の彼、彼を認める今という風に突如変換される。
 つまり「変わった」とは、話者同士が共通して彼が第三者であるので、変わったに関わらず人格的な同一性としては不変である事を今意識としてではなく、唯真理として述べる性格があると言えそうだ。それはその場に彼は不在であるから、必然的に彼に対する言及とは過去での私と私の対話する相手が共通して知る彼(過去の彼)に対する表象を喚起するものなのだ。
 私は今ワードに向かっているが、その都度今を意識する事なら出来るが、今を食い尽くす事そのものは恐らく受動的な行為(映画を一人で観るとかの)であるよりは、事後的に「今を食い尽くしていた」と実感し得るというのが実相ではないだろうか? つまり映画を観終わってから初めてそう感じるのである。或いは必死にパソコンのワードに入力し終わって然る後そう感じるのである。何かに没頭している時とはどこか私は消え失せ受動的になっている。しかしそれが終われば途端にそれまでの自分が「今を食い尽くしていた」と思えるというわけだ。
 必死でワードに向かって私が文字入力している時、私は今に食い尽くされていると言うより、寧ろ今を求めている。だから醒めた目で「今パソコンのワードに入力している」という感じではない。それは能動的な行為だからこそ没頭すれば受動的になれるのであり、その時私は誰かにせっつかれて嫌々しているからではない事も関係している。嫌々そうしているのなら、寧ろ常に今が擡げてくるだろう。
 何かを積極的に、主体的に執り行っている際に私は今を求めている。しかしその求めていたさっきという事へと意識が向かえば、私は途端に「今を食い尽くしていた」と言いたくなる。
 私が何故映画を一人で観ている時にはあまり今を感じないかというと、それは端的に自己責任を担っていない事に帰着する。確かに映画の内容としてさっき観ていた画面の時制と、今現在観ている画面の時制は移り変わった。するとその時「映画の中の今」を我々は生きる。しかしそこには「私」は関わっていない(からこそ映画の内容へと没入し得る)。つまり私の関心は映画の中の登場人物に対する意識に取って代わられ、私そのものは私の至極心の奥に仕舞い込まれている。だから映画を観ている最中に私が隣に座っている人が突如、トイレに行く為に立ち上がり、私の目前を通過しようとすると、私はその時今という意識に投げ込まれる。
 私は他者と会話する時、その他者の顔を見ながら常に今を感じ取っている。しかし一人で何か考え事をしている時、私は明確に今という意識にあるわけではない。尤も今とは何かとか私とは何かに就いて思い巡らせているような場合にはそれでも多少今という意識はあるにはある。しかしそれは少なくとも考える内容以上に主役であるというわけではない。考えている内容そのものが最も大きな関心事であるなら、寧ろ今という意識はそれほど大きくない。従って考えている時は今という意識は後退しているし、今という意識に釘付けになる事は時間自体が経過し時刻が移り行くという事実へ着目するとか、要するに時間認識自体を意識した時である。尤もそれは何時でもそう切り替える事は可能である。
 中島義道の主張する様に確かに我々は今という意識を「過去ではない」という形で取り入れる。例えばさっきまで私は朝食を取っていた。そして今パソコンの画面にいつもの朝の様に向かっている。その時私は過去(昨夜の事や、それ以前の事一般)に対する薄ぼんやりとした想起と共に今という意識に一瞬投げ込まれる。しかしその意識はいつ迄も持続するわけではないし、だからと言って滅多に登場する事はないということもない。断続的にそういう意識は浮上したり、沈み込んだりするというだけである。  
 再び「私は変わった」とは言わないということの本質に立ち戻ろう。
 私が私にとって他者である誰かと語り合う時、私は明らかに私という人格と彼(女)という人格を突き合わせて共有空間を築き上げているが、その際私はその相手に対し過去の私と今の私が同一である事を前提に話している。少なくとも私の知人との会話に於いてはそうだ。しかし恐らく唯道を歩道で誰かに尋ねる時にも、私はその見知らぬ通りすがりの人に対し昨日も、一昨日も、一年前も、十年前もこの同じ私という人格であり、多少目皺は増えたとしても基本的には同じ顔をした生活者である事を前提にしてその他者に、その他者もその様な私と同様だという前提と共に話しかけるだろう。つまり私は私という偽装をして相手と話しているという意識を相手に生じさせる事を(通常)望みはしない。それは基本的に相互に他者間で人格を認め合う事、即ち礼儀である。ある者にとっての「他者との関係」とは他人に対してある者が礼儀を通した相互の人格の承認である。
 だからこそ突如私は「私は変わった」とは決して言わないのだ。そして誰か固有の共通の知人に就いて話題にする時のみ、我々は「彼(女)は変わった」と言う事を自然なものとする。それは日常会話であれ、何かに就いての意識的な対話であれ、そういった自己‐他者との意思疎通に於いて、我々は相手に対して理解しやすい形で説明し、その説明がなされている限り、極力省略すべき部分は省略する必要性と、効率を配慮して語るからだ。 
 つまり「彼は考え方が変わった」とか「彼は性格が変わった」(尤もこの二つはあくまでかなり親しい間柄の場合にはまず報告し得る事だが、一定以上親しいという事はない普通の他者に対し即座にそういう報告をする事はないが)と言う以上に、まず「彼は表情が変わった」とか「彼は容姿(服装とか出で立ち)が変わった」とか「彼の行動とか、我々に対する対応そのものが変わった」の様に印象報告をする方が先の場合が多いのが通常だが、それよりも先にその様に詳細に話し出すよりもまず「彼(女)は変わった」という言辞はなされるのが通常である。何故そうなるかと言えば、彼(女)から見た他者にとって彼(女)に就いて明確に知り得る事が彼(女)が彼(女)から見た他者に対する応対という、形式的ではないにしても尚外部的に示される表出的な事だけだからだ。だから余程その者の個人的生活について熟知しているような他人ででもない限り、通常そういう公的場でのその者の変化事実をまず報告し合い、然る後我々は初めてその者の内面に対する推測を語り合うものだ。そして何故そうなったかという推測的な会話で初めて「性格が少し変わったみたいだ」とか「習慣が変わったんだよ、きっと」と推測的会話内容となる。
 しかし通常私は、私の知人としか自分自身の変化に就いてまず語り合うという事はない。それはある程度以上に親しい間柄の場合にのみ成り立つ話の内容だ。だからこそ自分の事に就いて私が知人と語り合う時、「私は変わった」とまず省略して語り出すことはない。そういう語り出しはまず私とその知人とで共通する知人に就いてのみ省略する事が自然であり許される。つまり私自身にとっての私と、今私と相対する他者にとっての私とは絶対的に異質の事なのである。
 だから私が対話する相手と人間の考え方の変化に就いて語っていたり、「どう最近昔と今とでの考え方の変化というものを感じることがあるかい?」と質問されたりした時にのみ私は省略して「私は変わった」と言う事が許され、それ以外で、突如そのように切り出すということは突拍子もないという印象を対話する相手の知人に与えるのが落ちなのだ。
 さて次は私と私が対話する相手とが私の事に就いて語り合ったり、そこに別にもう一人居て私と私が対話する相手二人に就いて語り合う、或いは二人に共通する知人(勿論私と私の知人以外のその者が私と初対面であってもよい)も傍らに居て、その者に就いて語り合う時(つまりそこに居合わせる者に纏わる内容の話をする時)と、そうではなく二人で今は不在である共通する知人である第三者について語り合う時とでは何かそのような言辞に纏わる相違というものがあり得るのだろうか?
 あるだろう。
 それは私が会話する相手とその場で私の事と、その相手の事を語る場合、あくまで現在の自分と相手を基軸に、二人の過去(二人の間で知る共通の過去、つまり私という物語を対他的に示すような「私」<このことは結論で詳しく述べる>と相手が私に示す彼自身の物語的「私」とが運命共同体的に接触する共有の過去)との対比で語る。しかし相手にとって私の行動は未知であるし、その逆も真である。従って私が私の事を話し相手であるその者に告げる場合、私はあたかも私の事をその者と等距離で知る事が出来る様に(そう話具合を設定して)語る。勿論二人とも相手と自分が自分にとって等距離ではない事を知っている。だからこそ逆にそうである風を装う(様にに語る)のである。それが話者相互の信頼なのだ(それをサルトル的に自己欺瞞と呼ぶ事も可能だが、それは否定的ニュアンスとしてではない。ハイデッガーの配慮とか配視と捉える事も可能である)。
 しかし少なくともその場に居合わせない第三者に就いてを三人称で「彼(女)は変わった」とどちらかが切り出す場合、彼(女)に対する話題ではまず前提となるのが完全に二人に共通した彼(女)に就いての過去の行状だけになり、逆に「変わった」と述べた者の側にとっては、変わったと思われる彼(女)の行状はそれよりは最近の過去になる。その際勿論相手もまたその第三者と最近会ったかも知れないのだが、取り敢えずそのことを不問に付して「彼は変わった」と切り出すのである(そうでなければ何時迄経っても話題には入れない。だから相手もまた最近彼と会ったのなら話がしやすいというものだ)。だからその話をしながらその第三者の顔とか表情とか容姿とかを想起しつつ語る時、あくまでそれは二人にとって共通の過去の彼(女)の姿であり、今現在彼(女)がどうしているという様な疑問との対比はそれとは全く別内容の話である。
 サルトル的に言えば、過去とは即自であるから、不在の第三者について二人で語る時、その者に対する評定性そのものが既に相互に了解した事実にまず依拠しており、仮に陰口であったとしても尚、彼が不在なので、その者に対する評定性そのものが、少なくともその意見に関する限り対立している二人同士の対話ではない限り、その話題の主である彼(女)の事を二人で話題にした事(例えば陰口を叩いた事)自体が知られる事はない以上、それは相互に閉じた世界(即自)に対し相対している客観的視点を獲得しているという事だ。だからこそ二人にとってその場に不在の第三者は等距離の運命共同体=場なのだ。
 それに対し会話する二人が二人による最近の行動等の過去に就いて話題にする時、その記憶想起によって語る報告(オースティン流を適用すれば私的なコンステイティヴ)とは、端的にそれを語る者の現にある発話者の視点(トークン)を共有するかの様に振舞って今相対する他者に晒している。
 と言うことは、それは純粋客観的視点ではない、半客観的、半主観的(つまりそれを語る当事者の表情を晒すという意味で話者の運命に巻き込む形であるから)となる。そこには二人で相互に告白し合うある第三者を共通に面識がある当事者同士がある場で立ち会うという事と、その第三者の話題に纏わる純粋過去性との間の性質的な大きな違いが横たわっているのである(それは実際的な空間と形而上的話題の焦点となる空間の同居とも言えよう)。
 最後に私的な事柄を率先して語る事に纏わる羞恥感情というものについて考えてみよう。
 今までに考察したことを纏めると、まず私が相手に対し私的な事を述べる時こそ、まさに永井均の命題である私秘的事項の私的言語性を、公的な客観性へと転化させて、私固有の感情を私と相手の話者とに共通の理解可能な感情(があるものとして)へ転換する必要があるわけだが、逆に私が相手と会話する際に、その者にとって私以上に重要であり親しい他者に就いてではない限り、私と相手にとって同じくらいの親疎の間柄である第三者への言及は却って私が私の私秘的事項を報告するより、より真意を伝える事が可能である。それは私秘的報告と違って経験主体による私的で単独な私の経験でなく、その第三者と私にとっての経験であり、勿論それだって語る主体たる私の私秘的経験の報告であるには違いないが、この場合彼(女)という第三者の人格自体は社会的に公認されたアイデンティティーだから、必然的にその報告は私が私しか知らない人に就いてとか私しか知らない出来事を語る場合より、少なくとも私と私が会話する相手とが共通して知る者との経験はその共有部分として話題浮上させるに容易いとは言えるので、真意が屈折する事なく伝達出来る。
 しかし私が知り、私と話す相手が知らない他者に就いてとなるとがらりと話を伝達する事の意味は変わる。そういう私秘的事項を話せるのは親しい間柄でだけである。しかしそれでも私秘的事項の報告には、それを聞かされる二人称である相手の立場を忖度してより理解しやすい説明経路を辿る事だろう。
 さて羞恥とはこの理解しやすい説明経路を選択する事の内にある。つまりこの説明行為に内在する相手にとっての理解しやすさは、私の私秘的事項を知らないという意味では私の話し相手も、それ以外の全ての他者も同じだ。 今仮にここで述べている事を私の話し相手を、妻であれ、息子であれ、娘であれ、親友であれ、同僚であれ、要するに親しい間柄であるとしよう。しかしそれでも尚私は見知らぬ人にも理解出来る仕方で、そういった私にとって親しい間柄の人に語ろうとするだろう。如何に彼等が私と親しくても私と私以外の他者全員との間の絶対的距離以上に、私と親しい間柄の人達と私にとっての赤の他人との間の距離が開いているという事等あり得ないのである。
 勿論ある程度の私秘的事柄を私にとって親しい人は知っているから、省略が適度になされて然るべきであろう。しかし自分の感情をそのまま直接伝達することは事実上不可能である。例えば私の嫌悪する人に対する感情であるならある程度オブラートに包んで揶揄的に示すだろう。「ふざけた野郎め!」と叫ぶことまではしないだろう。そこはやんわり示すに限る。つまり相手に私の感情を共感させようと欲するという一事が全ての報告をもしこれが仮に赤の他人だったらどのように説明すべきであるかという思念に於いて報告を成立させ様とするわけだから、私は私にとってどんなに親しい相手に対しても公共的な理解可能な説明を選択する。この時私は私秘的事項に纏わる私の私的感情を、客体化して語るし、その様な客観的視点を獲得している。これは私と話し相手との共通する知人に関する第三者の噂話とも異なる経路である。その二つを比較して次の図式で示そう。
A.私と話し相手とに共通の知人に関する話題→既に客体化された話題対象であるから、その場を借りて真意を表出する
B.私の私秘的な事に関する報告的話題→私秘的事項であるが故に真意をそのまま表出する事を憚りより客体化した説明によって真意を仄めかす
 この二つの話題は全く逆の経路である。つまり前者は公的→私的という経路を、後者は私的→公的という経路を辿るのだから。
 つまりここに私的感情の表出を巡る私的→私的であるということを回避する無意識の選択がある。それは公的→公的である事の堅さそのものの回避と表裏一体であると言ってもよい。このような中和作用を採用した初めて我々は説得力というものをいくら親しい間柄でも保つことが可能となる。そして羞恥とは私的過ぎる事の話者相互の回避戦略である、とここで了解されたのではないだろうか?

No comments:

Post a Comment