Wednesday, September 26, 2012

時間・空間・偶然・必然_意識という名のミーム<科学で切る哲学、哲学で切る科学> 15哲学と科学

 科学では偶然を記述することは出来るが、偶然を解明することは出来ない。何故だろう?
 それは記述という行為が、偶然の必然化だからである。そして科学とは一般に偶然の必然化のことを言うからである。そして何か偶然的なことを記述した瞬間それが必然化されるということは、未来に対して過去と同一のことが起こるかも知れないという目測、あるいは安穏とした不安を打ち消すようなタイプの楽観的な思惟そのものが無効であり、私たちにとって記述される偶然という言葉そのものが語義矛盾であるからである。(その意味で永井均と中島義道は正しい。)
 何故なら偶然という言葉にはそもそも「そう滅多には怒らない」というニュアンスがあるからである。実はこれが曲者であり、たまたま起こったことというのは、それ自体で一つの特定の見方であり、つまり「たまたま起こったのだが、前もって決まっていたかのように感じられる」そういう固有の偶然というニュアンスがあるのである。
 そして科学とは本来奇蹟の排除であるから、偶然という思惟を嫌う。しかし偶然という思惟を嫌っても、自らそういう風にそれを必然化するという矛盾を避けるわけにはいかないので、科学には本来偶然という私たちの心が生み出したある事象に対する認識願望の絶対的定着という本能が潜んでいるということ示している。それは科学で言うところのペトワック(PETWACK、つまりPopulation of Events That Would Have Appeared Coincidental)、生物学者の福岡伸一は次のように翻訳している「本来偶然にすぎないのに、なにか関係があるように見える事象の集合」ということを科学が避けると標榜しながらも実は絡め取られているということである。  
 ちょっとそのことと離れて考えてみたいことがある。
 空間に意識があるということは、科学では非常識であるが、実は科学で意識が証明出来ない(デヴィッド・チャーマーズの言うことが正しければ)以上(あるいは科学で空間に意識などないとも証明されてはいない以上)、哲学的に空間に意識があるという可能性を否定することは出来ない。
 意識とはそれを一元的に捉えた時、神から与えられし、最後の仕事として神秘化し得るが、意識は多元的であると考えれば(チャーマーズ的にではなくデネット的に)、我々の意識も所詮空間の意識に我々が身体を実在的に、偶然同化させられる様に与えられた結果、意識を特別のものと感じざるを得ないことになっているという可能性を否定することは出来ない。
 つまり我々は身体を介して実在的存在であるからこそ、痛みとかクオリアとか色々なことを承知していると「考える」わけだが、実は身体という存在を離れて我々が何か特定のことを感じることというのを体験し得ない以上、かつてヒラリー・パットナムも示していたように事物にも人間が意識と考える特化されたものと等価なものがあるかも知れないという示唆から発展させて考えれば、意識と等価なものが空間にもあれば、我々はそのものの上に身体という実在を与えられ、そのために意識と言えるようにそれを感じるだけであり、従って私たちは死ねばその空間の意識と呼べるようなものの一部になり果てるだけで、その生きている限り体験することは出来ないその空間の意識の一部という感覚は恐らく我々が身体という実在を得ているがために経験することが出来ない、つまり意識という存在を信じることそのものが、死んだ時に虚妄なことであったという示唆であるかも知れないである。
 つまり我々は意識というものをそれが「在る」と錯覚している、あるいは脳によって錯覚させられているという 前野隆司の主張は、俄然説得力を持つ。前野がコリン・マッギンのことを知ってそう主張されているか私は知らないが、意識が錯覚であるかも知れないという主張は、一面では我々が死んでも魂というものは残るのではないかという期待を我々に持たせるものとは本質的に違うかも知れない。
 つまり空間にもし意識であると我々が思うものと等価であるようなものがあるとすれば、それは無であることが有であること(例えば我々が意識を実在していると感じること)とは本質的に違う様なタイプの、しかし今まで我々が考えてきたようなタイプの無ではないものを認めることになるが、有であると我々が考えている意識のあり方そのものを錯覚だと我々に考えさせる当のもの(私はそれを脳の仕業と取り敢えず考えたのだが)が身体を通して有であると我々に感じさせ考えさせるというそのことが、その空間の今までただの無であると考えていたようなものではない無のあり方、つまり空間にあるかも知れない本来は意識と等価なものに眼を向け我々はそこにただ身体を与えられたという事実をまず直視せよ、と私に語っているように思われる。
 身体の実在そのものが、ただ単なる身体という実在であると我々が考えれば耐えられないからこそ、そこに何か価値があるようなものであると感じさせる脳の仕業が意識を特化したものとして捉えさせるだけのことである。これは一面では身体存在を通した一種の唯物論である。しかし従来の唯物論と異なるのは、ここでは空間の無がいささか有であると我々が自分たちの意識を特化しているようなものではないけれども、決して空無なだけではない何か我々がそれを意識と感じ、考えるものの根幹をなすようなものであるという無の背景があるということである。
 ではそもそも何故意識というものが一元的に語られるのかということについて考えてみよう。
 我々は睡眠時には確かにある種の無意識状態にある。しかしそれは完全な死の状態とも違う。脳は睡眠時にも働く。しかし睡眠があるから意識する覚醒時というものを我々は明確に知ることが出来るということもまた確かなのである。
 そして覚醒時において我々は、ある意味では多層的な心のあり方をする。例えば今このようにワードを打ち込んでいる私はさっきまでベッドで寝ていたことを想起しつつ、数日前に哲学塾の同僚たちとファミレスで飲んだ時の会話のことを想起し、その会話の前の塾での内容を想起している。そして明日どのような内容のことを入力し、どのような読書をしようかなどと考えている。そしてもう少ししたらトイレに行こうとも考えているし、喉が渇いたので、お茶を飲もうとも考えている。そういう心のあり方は一元的ではなく、寧ろ常に雑多な複数の思念に彩られていると言った方が正しい。
 しかし一方ある一つの思念を基軸に捉えれば、その意識に対して対自的に考えれば、意識はまるで一つのことででもあるかのような様相で我々の心に迫ってくる。
 つまり意識が統一されているかのように考えるということは、対自的な意識の「意識に対する心の持ち方」によってなのであり、寧ろ意図的な「構え」によってであることが了解される。しかしでは何故雑多な心のあり方をその様に一つの纏まったものとして我々は意図的に了解したいのだろうか?それは我々が我々自身の存在を「一個の存在者」であると同一性として了解したいからである。これはある意味ではそういう風に心の「あり方」として意味内容的に記述するということでもある。
 つまり「心のあり方」という記述そのものが、あたかも意識の方向性を一方向へと向けられたものとして我々を錯覚させるが、その記述とは、実は我々自身の同一性に対する要請からなされたものなのである。
 ペトワックへと戻ろう。中島義道は、このペトワックと関連のあることとして次のように述べている。(「生きいくい···私は哲学病」72ページより)  
 予言者は未来を見透かす者ではない。なぜなら、何もないものを見透かすことはできないのだから。そうではなく、予言者は未来に科学的予測による幻想的意味とは別の幻想的意味を与えるものなのだ。われわれは、その威力にしばし抵抗できなくなる。科学的予測の威力が限定されていることを知っているからである。しかも「私の死」という私の最大関心事において、いかなる威力もないことを知っているからである。
 予言者たちが一定の関心を我々の社会で払われるかとは、中島の指摘のように、科学というものの予測の限界を、不測の事態の勃発ということに対する経験則から我々が知っているからなのだが、その不測の事態の勃発可能性そのものが、通常あるだろうと予測されるものとは違った形での「未来のあり方」を示す行為に我々が関心を払うということにおいて予言者の発言が成立しているということである。
 そしてそのように我々が関心ある「未来のあり方」そのものが、記述可能対象として我々に現前している以上、我々は記述というものを実在しているものだけではなく、未だ実在していな将来とか、過去において「こうであったかも知れない別の可能性」という形で対象化し得るということは、実在しているものと、実在するかも知れない可能性のあるものとを等価にするということ、即ち実在と想像を、あるいは現実と虚構を同一地平に設置するということを心的に常に行っているということをも意味する。
 またそのような実在と、その実在を基にした表象としての虚構、あるいは想像的な像を同時に心に留め置くことが出来るということが、実在するものの一般的な性格とか、そのものの間の相関性とか要するに法則的真理を発見する能力へと繋がり、その真理発見という一つの理解、それは必ずしもその実在や実在物同士に対する理解の全てではないのだし、そのことを我々は重々承知なのだが、その理解を記録したい、その理解し得たという事実を留めて置きたいという願望が記述を可能にする。その記述の行為がより拡張し、予測ということも出てくるわけである。すると科学は記述し得る範囲の広範さを知り、その記述能力そのものを確認するという欲求充足であると言える。そして哲学はその科学の欲求充足性そのものに対して一定の評価を与えながらも、そこに安住することに対しては痛烈なる批判をつけ加えるということなのである。
 しかし問題はまだある。それは過去の記憶のことである。例えば私は今現在四十八歳と半年生きたわけであるが<注、本論文は四年半前のものである。前章では現在時点へ直したが、本記事はそのままとした。>、幼少の頃のことを、数日前のことと等価には感じられない。つまり古い記憶とはそれがどんなに掛け替えのないものであると知っていても、実は数日前の自分の行動とか、周囲の人たちとの会話等の記憶とは異なったものであることを知ってもいる。
 つまり私は私が幼少の頃のこととを今現在の私と同一の人格として私は了解しているのだが、今の私の気持ちと、幼少の頃の気持ちとでは同じところも在るだろうが、全く異なっているところもあるのである。その時果たして同一性という認識を持ったとしても、今現在の私と幼少の頃の私とでは人格的には全く同一ではないと言っても過言ではない。つまり私はそれでもその幼児や少年、あるいは青年の頃の私というものを今現在の私と同一の人格として認識するのは、一面では私がその時何をしていたかということの記憶を、あの9.11の時、ジョン・レノンが殺された時、東京オリンピックの時というように私は時代順に羅列することは出来るが、私が生まれる前の出来事であった終戦の日の東京の様子などは、完全に私が私にとっての過去として述べられることの延長として、私が生まれる前のことを周囲の人々の証言や記録によって類推して日本の出来事、世界の出来事として語らざるを得ず、そのようなものに近いものとして私は私が幼少の頃の記憶を辿るという一面はあり、それはこれから益々もっと私が年老いていくに従ってそうなってゆくことだろう。
 つまりあまりにも鮮烈で忘れられないことというのはあるかも知れないが、所々思い出すのに苦労するようなことというのは私が私の過去としては語られない終戦の日の東京の様子と同様、どこかで類推しながら語ることとなるだろう。
 そして問題となるのは、どのくらいの期間が経つことによってそのような類推というものが必要となっていくのか、それは時間的な長さによるものなのか、それとも出来事の内容によるものなのか、勿論その両方がかかわるだろうが、記憶する時に何を自分がしているかということとも関係があるだろうということも言える気がするが、記憶する時点の自分の精神のあり方と、記憶する時の自分の立場、普段していた行為、今普段している行為、かつてと今の生活状況と、記憶するのが過去のどんなことについてなのか、その記憶内容の選択の問題である。
 と言うのも記憶という作用は、能動的に思い出そうとすること(そういう場合は覚えておきたかったのに、忘れてしまっていることが多いが)と、忘れたいのに忘れられないこと(そういう場合は後悔とか、屈辱的なこととして忘れたいのに忘れられないということが多い)などが常に共存しているということがあるからである。記憶の内容というものは、楽しいことで記憶していることを能動的に思い出したりすること以外にも実に多くの思い出し方というのがある。常に思い出せることもあれば、ふと思い出すこともあり、その思い出し方というもののあり方そのものもいずれ考えてゆかねばならないだろう。  それは恐らく哲学的問いであるが、科学の力も多分に借りることが必要かも知れない。

Tuesday, September 25, 2012

時間・空間・偶然・必然_意識という名のミーム<科学で切る哲学、哲学で切る科学>14 公的なことと私的なことと実存、神

 我々は日常的に他者というものの存在をどのように捉えているのだろうか?例えば私にとって両親もまた他者であるなら、兄弟もまた他者であるが、本質的にその捉え方はあくまで哲学的私というものを規準にした時のことである。しかし社会、そして仕事、あるいは公的な義務ということを考える時、他者とは要するに家族とか親族というものとは違った要するに他人のことを指すと考えてもよいだろう。
 物理的な時間というものの観念は、ある意味では全て自分とか家族とか親しい人の間で繰り広げられるものであるよりは、全く見ず知らずの人同士が接点を持つ社会というものを想定していると考えてもよいだろう。要するに私利とか、私欲を離れて、公的な規準として時間という観念が人類に育まれてきたということである。
 私は中島義道氏の私塾である「哲学塾カント」に参加していたこともあるので、必然的に哲学の恩師である氏の引用を多くしてきたが、本節でもまず氏の「働くことがイヤな人のための本」より仕事というものの定義に纏わる記述を掲載しよう。(138~141ページより)
<(前略)広い意味では、料理・選択・掃除といった家事も仕事なら、子育ても立派な仕事だ。こういう金にならない仕事を社会学者はシャドーワークと呼ぶ。家事にもし賃金を払うとすれば、月額数十万円になるはずであり、金を払わないゆえにこうした仕事を社会的に日陰の位置に置き、戦略的に女性の地位を低くしている、という議論があることは承知である。
 だが、ここでは私はやはりこうした仕事を除外することにする。家事が仕事として低級だからではない。これらの仕事は、夫・子供・親・兄弟姉妹等々、特定の他人のための仕事であり、そのかぎりでそこには仕事のもつ客観的評価の面が曖昧になるからである。家事に対してたいそう要求の多い夫もいることだろう。子供もそうかもしれない。しかし、そうであるとしても、それは労賃を得てなす仕事とは根本的に違う。 
 具体的に考えてみよう。いま私の妻子は外国にいるので、私は月に一度D清掃会社に頼んで水回りの掃除をしてもらっている。女性二人が二時間かけて掃除をする。これは仕事である。なぜなら、彼女たちに金を払っているかぎり、私は掃除の完璧さという結果だけを求め、それが達成されないとき容赦しないから。「出がけに頭が痛かったので」とか「病気で寝ている子供が心配で」とかの人間的な弁解を私はいっさい認めない。私は彼女たちの人間全体とではなくその労働力だけと契約したのであり、その結果を達成する労働力に対してのみ、金を払っているのだから。
 考えてみれば、人間としての情を抑えつけたこうした契約関係とはずいぶん不自然なものだ。母親としては、病気で寝ている子供を心配しついミスを重ねてしまう、というのが自然であろう。しかし、これが許されないのが仕事なのだ。程度はあるが、契約して金をもらうからには、その仕事が達成されないとき、いかなる弁解も許されない。それが仕事なのである。
 普通の家事ではそうではないであろう。普通、掃除より病気の子供の看病が優先するであろう。それが人間的重要さであろう。だから、逆に言えば、それは厳密には仕事ではないのだ。社会学の古典的用語を使えば、血縁が中心となった親密なゲマインシャフトと利益追求をおもな目的とするゲゼルシャフトの違いである。後者の冷酷な社会こそが仕事を成立させるのだよ。 (中略)
 言いかえれば、仕事における他者とのかかわりは。不特定の他者でなければならない。きみの労働力(作品)に対して、不特定の他者が代価を払うことを期待できるのでなければならない。ある人が夫と子供のためだけに家事をしているのなら、彼女は仕事をしているのではない。同じように、ある人が親戚と知人だけに絵を売っているのなら、その作品がいかに優れていようとも、彼(女)はプロの画家ではない。ある人が自分の小説を知人に無料で配っているだけなら、それはいかにおもしろくてとも、彼(女)はプロの作家ではない。
 その労働によって金を得ること、これは仕事と切っても切れない関係にあり、仕事の本質を形成する。なぜか?そのことによって、われわれは真っ向から社会とかかわるからである。甘えは通用しないからであり、苛烈な競争が生じ、自分の仕事に対して客観的評価が下されるからだ。「客観的」とは公正という意味ではなく、不特定多数の市場における容赦のない評価という意味だけれどね。ここにあらゆる理不尽が詰まっている。だからこそ、われわれが生きてゆくうえでたいそう重要な場なのだと言いたいんだ。>
 中島の主張には社会という場が自己と自己にとって馴染みのある家族や親族、あるいは友人といったものだけではなく、全く赤の他人同士という関係において成立することの現実的不可避事実と、それ故に生じる問題が、一面では苛烈であるが、他方それであるが故に責任遂行とか義務履行とか社会的責務一切を踏まえた上で獲得し得る個人の自由という観念と結びつく、言わば諸刃の剣であるようなものであるというものである。要するに自由とは先験的に与えられているものではなく、意志と努力によって勝ち取るという性質のものだという主張がある。人間が権利を主張し、自由を得るのは、それなりの代償が必要であるということは、社会の公正と公平の原理から言って当然のことである。もし社会的な意味である個人が存在理由を持っているとしたら、それは端的に責任を果たしているということの評定の上で、であろう。
 しかし同時に、元来仕事というものとは、人間が社会という場で、何らかの存在理由を見いだすということに帰着するわけだから、必然的にその仕事をするという行為は、生きて死ぬという運命を実存として引き受けることである。それは他者間相互に予め認可し合っているという暗黙の了解の下で成立した責任倫理なのである。例えばもし人間が死なないのであるなら、我々は仕事などしないだろう。
 要するに仕事とは、いつかは死ぬ人間たちによる生きる意味の発見への到達不能の旅の鳥羽口であり、死ぬ準備、つまり哲学することはその言葉による問いであるが、身体を通した問いこそが仕事である。そして仕事とは端的に仕事をしない時間の獲得された自由とか権利そのものの有意味性を自覚するためのものであり、そのためにハレとケがあるような時間の区切り、時間の切り替えというものが存在するのだ。だからこそ我々は祭りをし、オリンピックを楽しみにし、選手たちはその時に向けて体調を整えるのだ。
 人間は心の中に神を持った。それはフォイエルバッハが指摘したようにである。人間の心が生み出した虚構としての神が人間を創ったとしたら、人間は既にその時点で現実よりも虚構にこそ真実を見いだすことを価値として生きることを選択したこととなる。
 我々の脳は現実の事物、現象の全てを知覚し、その知覚によって想起したり、記憶したりする。不在をもって何かを表象することと、未来の姿を想像すること、あるいは実際に現場にいずして、その現場での出来事を想像することが出来るのは、現実界に対する知覚や感覚と、表象や想像による非実在に対する思念とが共存するということに他ならず、要するに現実に虚構を重ね合わせるということを常に脳内でしているということであり、何かを知覚したり、実際にものを見たりしている時でさえそうしているのである。(これは廣松渉の指摘していることである。12、文化とは何か 中 ページ参照)
 つまりその時点で我々は既に生きることとは、端的に現実に脳内での虚構を重ね合わせることであるということを知ることが出来る。
 例えば社会とは人間の虚構である。あるいは生活とは人間の虚構である。思考とは脳内の虚構である(しかしそれらは実在する現実としての虚構である)。自然全体が現実であるとしたら、人間はそういう虚構を自然に対して、自然に対する抵抗として捏造(敢えてそう言い切ってさえいい)せずには生きていられない。聖書は端的に自然に拮抗する人間の創意工夫としての虚構である。
 だから私的なことに対して公的であるということを選択することが既に一つの虚構的行為である。と言うのも、私的であるということは既にその時点で、公的であることのもう一つの選択肢として用意された権利であり、私的であるということが、例えば職場に対して家庭であることを更に一歩進めれば、家族という他者に対して私的であるとは、最早脳内での思念しか残されていない。すると私的であることとは、社会を一方で構成する人間が、構成員としての意識を生み出す場である。そして私的であることが、既に社会という公的な場を思念的必要性において生じさせることであると我々は捉えることが出来る。
 つまり仕事は、仕事外の価値を見いだすために設けられた人生という物語の節目を作るための基準である。仕事をし、休みを取ることの反復それ自体が、一つの「ただ生きる」時間を「人生」へと変える。つまり仕事と休みという反復それ自体が生を物語という位相へと転化させるのだ。我々は端的に物語を生きる。しかも自ら作った物語を。その物語とは実際のところ、「人生」に意味を見いだすためのものなのである。
 では何故意味を見いだす必要があるのだろうか?
 私はそれを我々が現実を現実として「読み取る」ことと、現実を現実として「読み取る」ことの非現実性というものとの乖離にその根拠があると考える。
 つまり端的に現実の行為の全てが一つの非現実的虚構であるということ、そして虚構それ自体が一つの大いなる現実であるという認識が私たちを日常とそれを支配する時間を認識させるのだ。時間は一面では極めて人間による認識虚構である。何故なら時間とは「ない」からに他ならない。あるのは変化と、過程と、今はないという不在とその認識(記憶に支えられた)と、幻想的な未来に対する思念だけである。未来がないという意味で中島の主張は正しい。
 私的であることが公的であることのもう一つの現実であると我々に認識されるのは、実は公的であるという虚構、つまり社会的規約という虚構が私的であることの内に、つまり「一人でいること」の内にあることの根拠とは、端的に一人でいることとは、「集団でいること」、「他者と共にいる」という現実によって与えられるということを知る時、一人でいることを他者、及び他者たちと共にいることを社会と呼ぶなら、まさに社会という虚構が、「一人でいる」ということを与えているのだから、当然一人でいて何かを考えるということが社会という虚構によって初めて存在理由を与えられているということだからである。つまり「一人でいる」現実そのものが社会という虚構によって生み出された現実であるとは、現実とは虚構によって生み出されたもう一つの虚構であるということに他ならないからである。よって次の図式が与えられる。
 現実<我々の存在>→虚構<社会>→現実<「一人でいること」>
 しかし我々が我々の存在を知るのは、我々の言葉によってである。するとこの図式に実際には次の前提が与えられる。
 虚構<我々の言語>→現実<我々の存在>→虚構<社会>→現実<「一人でいること」>
 そして「一人でいること」は必然的に脳内の思念によって満たされる。それは言語的思考を必ず伴う。そこで次の結果が与えられる。
 虚構<我々の言語>→現実<我々の存在>→虚構<社会>→現実<「一人でいること」>→虚構<我々の言語>
 ここで円は閉じる。
 ここで再び我々が現実を「読み取る」ことの内に存する虚構という現実に突き当たる。この図式で我々によって告げ知らされることとは、実は現実という認識それ自体が大いなる虚構であるということ、そして現実とは虚構のないところでは成立しないということなのである。
 我々が公的であることの内に責任を認識するのは、実は責任を感じるということが、私的なことの内にあり、その私的なことの内にあるという認識そのものが公的なことの内にあるからである。ここで次の図式が与えられる。
 現実<我々の存在>→虚構<我々の社会・我々の言語>→現実<私生活>→虚構<私生活上の公的なことに対する思念・想像>、即ち
 公的なものの内の私的→私的なものの内の公的→公的なものの内の私的→私的なものの内の公的
 我々の存在の内に私を認める私にとっての<我々の存在>とは、実は最後の虚構<私生活上の公的なことに対する思念・想像>という脳内の思念において生み出されるのだから、この図式はどこまでも円環するのだ。
 我々の存在を私が思念することの内に私は社会参加し、そこで言語を使用する。そして言語使用することによって私は現実の私生活を受け容れる。現実の私生活は社会とのかかわりでしか得られない。そしてその私生活上において我々は再び我々の存在ということを私の中に、私の存在を位置づけながら他者をその事実を確認するために求めるのである。何故他者を求めるかというと、それは私が生きている限り対自的存在であるからである。
 これは一面ではサルトル的な視点の獲得である。しかしそれだけではない。何故ならサルトルは役割を演じることは出来るが、自分自身は演じられないと考えている(「存在と無」)からだ。しかしそうだろうか?そもそも私たちは私たちの身体を演じることは出来ない。しかし身体に対する自分は演じられるのではないだろうか?
 例えば病気の時にも治癒された精神でいようと心掛けることなら出来る。それでも快復の見込みのない場合もあるだろうが、少なくともそのように自己欺瞞することなら出来る。しかしサルトルは一方で自己欺瞞を認めつつ、他方それを否定する。
 私たちは「人生」という虚構、つまり物語を通して現実を初めて知る。私たちは自分たちで自分たちの実在に色を添える虚構であるという物語を通してしか現実を知り得ない。と言うよりそもそも物語の認識のない現実というものなど存在しない。存在し得るものがあるとすれば、それは身体を身体たらしめるキネステーゼ的な有機物質の凝集体それだけである。しかしその凝集体そのものを我々は身体と定義し、そのように身体と定義する精神を我と名づける。この認識を得た時点で我々は「人生」を生きている。それはただ凝集体として物質存在であるだけではない。ただここで、言葉による思念を中心に考える立場と、言葉以前の身体キネステーゼ的凝集体を実在的に捉える立場とに哲学は別れるということである。これは次節以降最も重要な命題となっていくが、12、文化とは何か においても実は詳しく考えていた。図式内のこの部分を思い出して欲しい。
 現実<「一人でいること」>→虚構<我々の言語>、つまりこの「一人でいること」の選択は社会的行為として言語が介在しよう。しかし物理的に「一人でいること」は、身体キネステーゼ的実在の限定空間内での孤立を意味するから、それは必然的に非言語的状況であるとも言える。しかし我々はすぐさまその環自己身体状況そのものを脳内で言語化してしまう。この一瞬の空隙をどのよう考えればよいのだろうか?(それは我々の意識的生において睡眠や仮眠といった無意識の生活事実が存在することの意味とも関係がある。)例えば我々は疲労時には明らかに「一人でいること」ということの内にある他者とか、他者が集合した社会の実情へと一々思いを向けずにいることもある。しかしこれは周囲に人がいる時でも我々は日常経験していることである。他者の声が上の空である場合などもこれに当たる。
 「ただ生きる」という状態は端的に身体キネステーゼ的凝集体であるところの有機物質として存在することを意味するが、我々はそれを「人生」と認識する一瞬の空隙にはやはり「ただ生きる」こともまた引き受けている、あるいはそうならざるを得ないとも言えるのではないだろうか?それは日常的なこととしてである。
 これは中島のテクストでしばしば告白された自己青春において経験済みの引きこもり的生活も含まれるかも知れない。つまり何も考えずにどれだけ長いこと生活することが出来るか試してもよいとさえ氏はカイン型の人間に語りかける。その提言にはある意味では敢えて「ただ生きる」ことを引き受けることを通して日常的な瞬間に我々が経験するそういう状態を知ることの可能性を示唆しているとも言えるのである。
 公的なこととして位置づけられる仕事とは「ただ生きる」ことを言語が拒否するということに対する認可以外の何物でもない。それは人間的な実存を見据えるということでもある。「一人でいること」はそう意識された瞬間「ただ生きる」ことを言語が拒否するということである。それは空談を対話へと転換させようと試みる我々の日常の対他的な意志にも適用出来る。
 人間存在は全ての述語からはみ出るということをサルトルが「存在と無」で主張しているというのが中島によるサルトル解釈であり、それは全く正しいと思うが、それは一面では言語の無力を指示し、言語がいかに実存を裏切るかということをも指示す。それは人間存在を定義し、形容しようとしてその定義、形容の全体を統合しても、更に人間存在の全体へと決して至らないということであり、それは逆に身体キネステーゼそのものの有機的凝集体としてのあり方そのものの把握が不徹底であるということと、仮にそのような凝集体としてのメカニズムを完全に理解し得たとしても尚、脳内の現象、つまり脳が何を思惟し、何を思考し、どういう志向を持つかということが、私たち自身、つまり「ただ生きる」ことを拒否した我々の脳内の意志、つまりその都度言語に助けを借りる我々の意志そのものを外在主義的にメカニックに理解しただけでは完全ではないからだ。それはチャーマーズの主張する物理特性からはみ出る現象特性という神に与えられた最後の仕事となるが、永井均氏は<それは神にさえ出来ない>とする。(「私、今、そして神」)永井は更に<神は過去を捏造することも出来ない>としている。
 チャーマーズは神による最後の仕事を意識そのものの論理的非解明性、そして現象特性としての意識の非物理的側面として見ている。永井は明らかに神の我々に対する仕業を有機的メカニズムが用意されるまでに限定している。そのお膳立てが神によってなされた後、個々の存在者たちがどのような気持ちで「ただ生きる」ことを拒否するかは、端的に個々の責任であるという主張とそれを解する限り、永井は無神論者であるが、チャーマーズは違う。意識という特性、それをも神の最後の仕事と位置づける以上、有神論者である。
 しかもそれは意識を特化させるために設けた自己信条論理正当化の目的論的な有神論である(これは次節以降詳しく見ていくこととなる)。
 今仮に私が私のことをあらゆる述語を使って自己言及したとしよう。あるいは私が私と相対する他者のことをそのように言及したとしよう。しかしそうしながら、私は私のことを他者として見つめる他者の視線から捉えられた私を知ることは出来ない。勿論想像することなら出来る。しかしそれは私にとっての他者のあり方という形での言及以外のものにはなり得ない。従って私は私という存在のあらゆる属性、私の目前の他者(今度は逆に彼<女>の存在をその立場、視線から私は語ることが出来ない。)の属性を語り尽くしたと思えても、それはただ物理的時間を先後関係という秩序の中であらゆる出来事の事実確認をしているだけのことで、その事実確認をする固有の「今」ということをも含む実存的様相そのものを語り尽くすことが出来ないのと同じことである。私は「私が語る」ことそのものを語り尽くすことなど出来ないのである。何故なら私は「私が語る」と言った途端、その「私が語ると語った私」というものに絡め取られ、更に「私が語ると語ったと語った私」という無限後退へと陥るしか手がないからである。つまり私が出来ることとはせいぜい、客観的事実というものを認識しながら、その事実を報告することだけである。その報告する私自身を語ることは「出来そうに見えて決して出来ないこと」なのである。
 ここにはある種の「語る」ということに内在する現象論的な身体行為としてあり方を、「語られた意味内容」という位相でしか認識し得ないという言語行為それ自体の内包的言及可能性と共に、外延的言及不可能性がある。つまり「語ること」とは「語られる意味内容」という形でしか認識することは出来ず、もし仮にその「語ること」それ自体を把握しようとすれば、それは「<語る>身体的存在」となり、その<>は明らかに形式的な把握でしかない。しかしそうなった時、我々は「ただ生きる」即物的な存在だけの音声発声装置としてしか我々自身を把握することが出来なくなり、そのことは「語られる内容」を剥ぎ取られた行為でしかないということから、それは「語る」こととは語義矛盾となるからである。よって我々は生物学的な視点からも、物理学的視点からも我々が「語ること」を遂行する「語る存在者」という認識へは到達しないということを知ることとなるのだ。
 我々は「語ること」をその意味内容を剥ぎ取って認識することなど出来ない。そうできたとしてもそれは、「語ること」という語彙の音声でしかないだろう。しかし語彙の音声を物理的に客観的に認識することが出来るのは、既に我々がその語彙の音声で表現されるところの意味を知っているからである。我々の言語習得という前提的事実があるからである。  
するとそれは私的に対して常に最初から公的であるということが用意されているような意味で、我々は「ただ生きる」ことを拒否し、「人生」であろうとするような意味で、つまり「ただ音声を発する」という問い掛けそれ自体が既に「語ること」の意味内容把握という事実に依拠していることを知るからなのだ。
 我々はただ「私的な時間を過ごすこと」が出来ないのではない。あるいは「一人でいる」ことが出来ないのではない。あるいは我々は「ただ生きる」ことが出来ないのではない。あるいは我々は「ただ音声を発する」ことが出来ないのではない。我々はそれをすることは出来るが、それが出来るのは「公的なこととして仕事をする」ということや「他者と共にいる」や「集団に中にいる」ということや「人生を生きる」ことや「語ること」と「語ることそのものを語りたいけれど、出来そうに見えて決して出来ないことと知る」からこそそれが出来るのである。
 これが、私が「物語とは実際のところ、「人生」に意味を見いだすためのものなのである。では何故意味を見いだす必要があるのだろうか? 私はそれを我々が現実を現実として「読み取る」ことと、現実を現実として「読み取る」ことの非現実性というものとの乖離にその根拠があると考える。」と言ったことの根拠である。我々は「語ること」をし、同時にその「語る私」、「語ることをする私」を敢えて語ろうとするが、それはその試みそれ自体が遂行不可であり、不毛であることを知るために敢えて語り、問いへ挑むというもう一つの「我々の人生の物語」を物語っているからである。それを我々は哲学と呼ぶ。

Monday, September 24, 2012

時間・空間・偶然・必然_意識という名のミーム<科学で切る哲学、哲学で切る科学> 13、フォイエルバッハとアンリに見る宗教に対する構え方の違い

 悟性をもって_働く存在者だけが、直接に自己自身によって明晰で確実な存在者であり、自己自身によって基礎づけられた真実の存在者である。(「キリスト教の本質上」110ページより)
 この言説が意味するところは9において私が示した宗教に対する構え方の違いをアンリとの対比で考えたことから再び考え直してみる必要がありはしないだろうか?
 「人間は完全性への果てしない希求者であると同時に、それ故にこそ不完全性から出発することを余儀なくされ、即ち不完全者として行動することを運命づけられているのである。そしてそれを遂行することが出来るのは我々による我々内部に巣食う理性、つまり神の声なのである。」と私は言った。その時神の声というものそのものを、フォイエルバッハは人間そのものの能力と捉えたが、アンリは人間を超えたものへの尊崇と捉えるのではないかと私は考えたのだ。
 フォイエルバッハはだから働く人間と言った時、そこには否定的なニュアンスはない。寧ろ神という領域をさえ育む人間の内的に潜在する能力を信頼しているし、その能力を発掘し、進化させるための弛まぬ努力をこそ労働という観念に結びつけたのではないだろうか?その意味ではマルクスたちが影響を受けたことというのは彼のほんの一面だけではなかったろうか?勿論マルクスたちもまた労働を量化された、成果主義的翻弄として扱ったという意味ではフォイエルバッハの真意をそれなりに汲み取っていたとは言えるだろうが、マルクスやエンゲルスの持つ修辞的な戦略性とは一線を分かつものとして人間の行動をフォイエルバッハは捉えていた気が私に彼のテクストの記述的なクオリアから読み取るのである。
 率直に言ってアンリは生きた時代がフェエルバッハとは懸け離れている。そのような時代性を論じることを哲学者は嫌う傾向があるが、例えば「野蛮」の中でテレビと科学技術が現代社会に及ぼす野蛮について触れている箇所(<第六章、野蛮の諸実際>)を、時代固有の社会状況を無視して考えることは出来ない。そして現代社会における労働という観念を、よりその神聖なる動機(フォイエルバッハ的な)とか、マルクス主義的な量化システムと人間性の疎外という形で捉える図式からアンリは完全に脱却している。そこでは量化されたオートメーションシステムにおける成果主義的労働だけではなく、例えば頭脳労働とか、精神労働といったものさえも、つまりインテリやエリートたちの携わる労働さえも含有するマクロ的な労働の観念そのものが内実的な翻弄とか、内実的な無為なる反復でありながらもそのことを巧妙に隠蔽するシステムとしてまさに我々が称揚するような文化という身を纏って我々に制度的に無意識に従うように侵食するものとして捉えている。つまりそれらは一種の価値観という名のミーム、しかもネガティヴに我々の存在に対して立ちはだかるミームなのである。それは次の文面からも明らかである。(その意味では「野蛮」は最も社会告発的哲学テクストであると言えるだろう。)
 ところで、もう一度言っておくが、このエネルギーが用いられているのはたんに芸術作品だけではなく、文化の世界に属するあらゆる日常的なふるまいのうちに、このエネルギーの使用が認められるのであって、結局それらはこのエネルギーの使用によって動機づけられている。たとえば、労働は何千年もの間、マルクスの言っているように「労働の消費」としてその姿を呈してきたのであり、もっとも苛酷なものからもっとも安楽なものまでのさまざまな形態を通じて言えることは、つまるところ、そのうちでその堪え難さの厄払いをするようなものが密かに働いていたからこそ、労働は堪えられたのだ、ということである。(ここら辺はマックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義精神」に接近している。管理人注加入。)しかし、そのようなことが言えるのも、労働が生ける実践として、すなわち有機的主体性の諸能力の拡大として、その結果、主体性それ自身とそのエネルギーを最終的に実現するものとして、捉えられているかぎりのことである。 (188ページより、山形頼洋/望月太郎訳、法政大学出版局刊)
 つまりアンリは労働がそのような形で、つまり<主体性それ自身とそのエネルギーを最終的に実現するものとして>機能していはいないと言っているのだ。それは要するに社会という幻想、労働的価値という幻想、あるいは人類の未来という幻想の中に雲散霧消するような個人があたかも崇高な価値に勤しみ、公共的価値へと昇華されるという題目において我々に「生きてゆくことの意味」を得ているかの錯覚に陥らせる価値観という名のミームが知らず知らずに我々に与える行動原理の理性的価値規範であるに過ぎず、我々は「生きる」ことの実在的価値に真に目覚めてはいないということの主張である。そしてアンリは最晩年において「受肉」でキリスト教倫理を、自らの哲学的バックボーンの拠って立つギリシャ思想からの脱却において信仰心というものの持つ可能性に目覚めて回心しているのである。
 その回心の部分に対しては来場者諸氏も賛否両論あろうと私は思う。しかし実際この段になって以降の選択とはある意味では個人史、あるいは人生経験といったものが色濃く反映するものなので、一概にどのような選択を正しく、どのような選択を間違っていると断定することは最早出来ない。我々に出来るのは、ある選択をした個人の何らかの「魂の叫び」のようなテクストの息遣いを読み取ることだけである。
 中島義道もどこかで書いていたが、中島の考えている嫌いな人とか、アベル型の人間という存在は、カイン型を自認する人、あるいは好きな人と一緒に過ごしたいと願っている人にとって、ある意味では恩人である。中島の考えでは恐らくそれは「汝敵を愛せよ」という言説の持つ力をもその一部に持つようなもっと普遍的な考えであろう。
 つまりそういう意味ではフォイエルバッハの持っている無神論的な態度、つまり宗教は神というものに対する意識を人間が備えている以上、あるいは神の完璧に対して理想を抱くという一事をもってしても、神そのものが人間性の一部であり、神概念は人間が作ったものなのだから現世宗教的な教義を離れても、人間の心には本質的に拭い難く存在しているものであり、それは権威とか、正統性への主張という社会的行動へと収斂するものではない、だから自分は無神論であるからだろうが、それすらも宗教的思惟の一つであるという<考え=生き方>である。それに対してアンリはヨハネの言をはじめ、キリスト教教義の中の自分にとって切実な幾つかの部分は、それ自体で説得力のあるものなのだから、それを信仰の糧にしていこうという<考え=生き方>なのだ。そしてその二つの相反するようなスタンスは実は、相互に相互存在を薄々ながらも知りつつ、それを認め、そして自分は自分の道を行くという決意でもある。
 アンリはそもそも「受肉」(2000)に至る十三年前の1988年に「野蛮 科学主義の独裁と文化の危機」を発表している。このテクストは先にも多少触れたが、ガリレイ的地平における統計数値主義に代表される自然科学の猛威が未だ顕在している状況を、芸術の抵抗と、文化の科学的相対化、そしてテレビを通したマスメディアの人間に対する惰性化作用、そして大学の数値目標主義による荒廃的現実などを通して告発した社会的メッセージ色の強いものである。そしてこのテクストの終盤、結語である<アンダーグラウンド>において次のようにアンリは記述している。(同書254ページより)(太字散散選択)  
(前略)メディア的存在が生に提供するのは自己実現ではなくて、逃避である。怠惰がエネルギーを抑圧し、そのために自己自身にずっと不満を抱くようになっている人々に、その不満を忘れさせる機会である。各瞬間に、「力」と「欲望」の新たな高揚のたびごとに、やり直さなければならない忘却。週末の二十一時間をパリ郊外の児童たちは、彼らの教師たちと同様、テレビの前で過ごす。翌日の共通の話題にはこと欠かないというものだ。
 ここにはメディアが大衆各個人の持っている不満とか怒り、あるいは自我的な欲求の表出を巧みに、統制し、隠蔽し、まさに飲み込ませる装置としてメディア、とりわけテレビが作用している現代社会の姿を象徴している。その最たるものが、翌日の生徒同士の話題がテレビによって形作られるという現実である。
 エネルギーという表現が実に重要である。ここでは再び中島義道の一連のかつて引き篭もりをしていた自己自身に対する呼びかけという性質をも持っている、そういう若者や中年、壮年に向けて発せられた自己意識啓発的なテクスト、例えば「怒る技術」に顕著であり、それ以前にも「人生を<半分>降りる」、「「哲学実技」のすすめ_そして誰もいなくなった」、「働くことがイヤな人のための本仕事とは何だろうか」といった作品の中に納められている主張と奇妙にも符号するのである。
 つまり中島の主張とは、日常的な怒りとか不満それ自体は全て正しくも、正しくなくもないが、一番始末が悪いことには、社会は往々にして善良さを全ての市民に強制する。そして怒りを他者に向けないで欲求を抑圧することを社会がよしとして、善人、思い遣りある人という理想を押し付ける。我々の多くはそうして怠惰にも自らの中に巣食う悪を隠蔽しようとする。しかし一旦そのように自我的欲求を抑え込み、飲み込むことで、逆に他者の真実の怒りに対しても鈍感になり、果ては真摯に他者とコミュニケートすることを回避させ、相互の真意を直視することを隠蔽するような大多数の社会的規制に対して鋭く偽善的匂いが立ち込めたものとして告発する。そこにあるのは不健康な善良さという仮面を纏った偽善と、誤魔化しと、人生そのものの理不尽さを忘却させようとする<見えない悪辣な社会権力の策謀>である。しかし勿論中島は自らを反体制の旗手として意識することは終ぞない。それらの叫びは秘めやかに自分自身もまた悪の片棒を担ぐ小さな存在であることを自覚して、自己内の不幸を逆に恩寵として切実な財産であるとして育て、人生そのものの理不尽さを真摯に直視するという主張がある。そこに安易な社会思想家としてではなく、自我論、コミュニケーション論の探求者としての自己表明と、対他的な啓蒙意識が統合されたスタンスが仄見える。
 <見えない悪辣な社会権力の策謀>とはアンリに言わせれば、テレビを筆頭とするマスメディアの垂れ流し的な情報の無反省性である。それはまさに何かを記憶し、記録することを大衆に忘却させる無知化促進の装置である。その危惧に対する告発の果てになされる回心としてアンリはまさに世界最大のミームであるところの自己というものに対して、対話拒否をさせるメディアに唯一拮抗し得る存在として、自己内に巣食う信仰という意識へと読者に対して呼びかける。それは神を人性の顕著な一特質として定義したフォイエルバッハのスタンスを彼なりに一歩進めたものだったのだろう。
 ここで重要なこととは中島の主張にあるように、つまり自らの中に巣食う悪、狡さ、不幸さに眼を瞑らないで、直視し、他者に対して取り繕わないということ、往々にして我々は自らを幸福である振りをし、自らを善良そうに装い、狡いことを隠そうとするし、清らかな他者への思いだけを表明しようとする。しかし夫婦でも、親子でもいいことばかりを示しあうことでは何も先へは進まない。自分の中にある卑怯で、小心な部分を隠蔽し、他者に対する憤りを協調という名の美名でカモフラージュすることをあるいは、アンリは極度に回避したかったのかも知れない。それは論理的思考や思惟にまで適用出来る。例えば神は実在的にはいないかも知れない。しかし神に対しているかも知れないという思い自体はなかなか払拭出来ない。例えば永井均も主張している(「私、今そして神」)が、私たちは「あなたはもし生まれ変わったなら、今度は男性に生まれたいですか、それとも」と言うような問いに極自然に返答するのではないか。それはその返答を他者に与える時点で願望として、神が自分をもう一度別の生として生きる権利を与えてくれたらという思惟そのものを払拭し得ないということを表す。
 それをアンリは敢えて心的実在としての神はいてもよい、いやいなくてはおかしいと感じたのだろうと私は思う。事実フォイエルバッハは無神論をも宗教の一様相であると捉えたが、彼の中には時間すら終わりが来るかも知れないという思いもあったかも知れない。さすればアンリの中にあるある神への信仰心と敬虔に対する晩年の開き直りとは、フォイエルバッハが回答、つまり神の実在へと回答を与えることなく、神の、あるいは神の概念を疑わない人間による神の中にある人性というものに対して「人間がそのように自然あるいは宇宙を完全であると思うことの出来る能力」として認識する可能性に対する示唆を自ら実践する信仰心で返答しようとしたと考えてもあながち間違いではないだろう。だからそれは一哲学者同士の違いというよりは、アンリが先に生まれ、フォイエルバッハが後に生まれても同じような遣り取りがあったかも知れないと私に確信させるようなタイプの神と神の論理に対するけじめなのである。

Thursday, June 21, 2012

時間・空間・偶然・必然_意識という名のミーム<科学で切る哲学、哲学で切る科学> 12.文化とは何か?

 現象学では今日様々な概念がフッサールによって初めて考えられたものとしてクローズアップされている。その一つが衝動であり、あるいは気分であり、雰囲気である。 中島義道はサルトルを「存在と無」で終わっていると考えている(「観念的生活」より)。そう考えている人は少なくないし、事実政治的な行動の目立った後半の彼の歩みは、それはそれで価値のあることなのかも知れないが、一部の純粋哲学マニアには顰蹙を買うものであるのかも知れない。しかし純粋な哲学というものとは果たしてあり得るのか? 中島は「私の嫌いな10の言葉」において「私は人生に後悔などない。」というものを挙げているが、氏によると後悔のないという述懐には、自己欺瞞があると言う。 つまり悔いがあるということは逆に自我論的には「そうであってほしいこと」というのがある程度明確にあるということであり、「そうであってほしいこと」と「そうであること」の齟齬をもその分認知することが出来るということである。だから明確に意志的な願望やら夢があればあるほどその齟齬は大きいということになる。従ってそのために後悔というものは付き物であり、それがないということを表明するということは、大して明確な意志や夢がなかったということでもあるし、そうでなかったなら自己欺瞞があるということでもある(ところで自己欺瞞というのは「存在と無」の重要テーマの一つであった)。 シンガーソングライターの鬼束ちひろの代表作である「月光」は次のような歌詞である。
I am GOD’S CHILD
この腐敗した世界に堕とされたHow do I live on such a field
こんなもののために生まれたんじゃない
突風に埋もれる足取り倒れそうになるのを この鎖が許さない
心を開け渡したままで貴方の感覚だけが散らばって 私はまだ上手に 片付けられずに
I am GOD’S CHILD
この腐敗した世界に堕とされたこんなもののために生まれたんじゃない
「理由」をもっと喋り続けて私が眠れるまで
効かない薬ばかり転がってるけどここには声もないのに 一体何を信じれば?
I am GOD’S CHILD
この腐敗した世界に堕とされたHow I do I live on such a field?
こんなもののために生まれたんじゃない 「理由」をもっと喋り続けて私が眠れるまで
効かない薬ばかり転がっているけどここに声もないのに 一体何を信じれば
I am GOD’S CHILD
哀しい音は背中に爪跡を付けてI can’t hang out this world
こんな思いじゃ どこにも居場所なんて無い
不愉快に冷たい壁とか次はどれに弱さを許す?
最後になど手を伸ばさないで 貴方なら救い出して
ああ静寂から
時間は痛みを 加速させて行く
I am GOD’S CHILD
この腐敗した世界に堕とされたHow I do I live on such a field?
こんなもののために生まれたんじゃない
I am GOD’S CHILD
哀しい音は背中に爪跡を付けてI can’t hang out this world
こんな思いじゃ どこでも居場所なんて無い
How I do I live on such a field?
 こんな筈じゃなかったと言えるということは、「そうであること」と「そうであってほしいこと」とが乖離していることを知っている、つまり理想に現実を近づけることを願望として持っているということである。そして理想を現実に合わせることというのは断念である。例えば我々の言語活動がそうである。それは私的な観想そのものを公的な記号へと置換することによって成り立っている。居場所がないということは、自分にとってもっと相応しい場所を想定しているということである。それは社会から疎外された感じを持っているということであると同時に、実は他でもないこの自分がそういう風に社会から自分を疎外させているということでもある。つまり社会そのものを自分とは相容れないものとして認識しているからである。これは女性の歌詞なので、現代社会の犯罪の激化している現実の上で自分が子育てをこれからしていくことの不安もあるかも知れないが、願望というものが自分の意志と努力によって報われる面と、全くそうではない面というのがあるということから、現実を「そうであってほしいこと」というフィルターを通して見てしまうということが起きるのだ。しかし少なくとも「そうであること」を見据えることからしか全ては始められない。だから最後の方で「こんな思いじゃ どこでも居場所なんて無い」と結論するのである。こんなではない思いをし直して、出直すしかないのである。 だからこの歌は何かを思い切って始められないもどかしさを歌い、歌うことでそこから脱出する意図であるような歌である。それは純粋な幸福、自分の心の中でだけ描いてきた「そうであってほしいこと」の世界から脱出して、より「そうであること」を見つめること、不純な現実と、自らの不幸を直視することから始めることを意志する歌である。
 世の中には中島義道的に不幸な人しかいないのだと言えば、勝者というものもいないということになる。勝者と目されている人というのは何らかの形での敗者であるからこそ、ある分野において勝者であり得るのであり、完璧な勝者、つまり全てにおいて秀でている人というのは恐らく一人もいない。それは世界一の資産家においてもそうであろう。 例えば勝者とは逆に敗者中の典型ということで言えば、世の中には孤立している人というのも大勢いる。政治家の中にもいるだろうし、官僚の中にもいるだろうし、アーティスト、会社員、芸能人、スポーツ選手、学者の中にもいることだろう。
 しかし翻って考えてみると、意外とこの孤立者の心理というものは烏合の衆と共通しているようにも思われる。と言うのも何かに関して自分が孤立しているということを感じる時、明らかにその何かに関してもっと自分に共鳴して欲しいと願うことであるから、必然的に彼(女)にとって「そうであってほしいこと」ということは、大勢の自分に対する信奉者のいる状態であろう。すると必然的に孤立者とはもう一方の烏合の衆たち(尤もその中には寄らば大樹の陰的な意識でそうしている人もいるだろうけれど)同士の相互に一致した状態に対する希求という意味では、同一の集団内での評定という意識を共有していることになる。
 文化とはそのような競争という原理によって何かが文化として定着し、何かが消滅したり、忘れ去られたりする。このことは前節においても示した。それは文化人類学における多文化共生社会という題目に対する懐疑として私は提出した考えである。
 つまり一定の競争的現実、あるものは便利であるから使用するに耐えるが、あるものはよく考えるとあまりよいアイディアでも発明でもないし、使い勝手が悪いから廃るというような熾烈な競争があるからこそ、我々は何かを文化として保存し、重宝し、何かを要らないものとして遺棄してきたのである。それを生物学的に自然淘汰と呼ぶのに抵抗があるとすれば(その内的なメカニズムは相同であるが)文化淘汰と言ってもよい。 日本人は正確に言えば明治期以降只管、脱亜入欧という形で、例えば西欧式の軍隊を採り容れたりアメリカのデューイが考え出した633制とかを採り容れたり、男女同権を実施したり、要するに西欧社会に追いつけ追い越せのスローガンとしてやってきたのである。例えば日本人はアイヌ語とかそれ以外の多くの先住民言語を蔑ろにしてきたし、そのことは今でも変わりない。そういう言語の語彙を習得するくらいなら、英語の単語を一つでも多く学び、それがある程度出来たなら、次はドイツ語、フランス語、更にスペイン語、ロシア語という風に考えることが多いだろう。あるいはそれ以外なら中国語とかハングルとかが大勢を占めることだろう。
 しかしいきなり文化人類学者たちは多文化というものを提唱しようとする。しかしロシアに住むニブヒとかギリヤークといった人々はどれだけ現在使用しているロシア語以上に、自分たちのネイティヴ・ランゲージを使用したいと考えたり、あるいはそういう民族意識を何よりも優先したりしているのかという現実の事実こそが最もそういう運動を展開する上では重要であろう。 例えばアメリカ国内では多くの白人と目される人でも何パーセントかはネイティヴ・アメリカンの血筋も引いているとされる。勿論見た目はかなりネイティヴっぽい人もいるだろうが、純粋なネイティヴの血統というのは意外と少ないであろう。しかしそういう人たちの中でもレザヴェーションにおいて細々と民芸品を作ったり、売ったりして生計を立てている人もいれば、カジノで大成功をしている人もいるという。そして一番重要なこととはそういう先住民文化というものの保存をしようとする場合、そういう立場にいると自覚している人たちがどれだけそのことに意義を見出し、どれだけ情熱を持てるかということであろう。そういうものが希薄な場合、その立場にいない人たちがいくら熱心にそういう運動をしても、却ってその立場の人たちに対して迷惑な場合もあるだろう。
 「私たちのことならそっとしておいてほしい。」
 とか
 「自分たちのことだけを考えていてほしい。」
 という主張もなされるかも知れない。
 文化とは正の部分と負の部分というものはあるだろう。勿論その判定そのものが一定の自分本位の立場によって相対的であるとも言える。
 例えば昨今チベット暴動が世界に飛び火してきたが、この事実はインターネット社会そのものが世界の動向をある衝動へと突発的に突き動かすという側面も多分にある。世界中が一つの意識を共有出来るという幻想が、時々勃発するあのようなタイプの動乱を引き起こすのである。だから一定の文化水準と経済レヴェルのある国の有識者たちが挙って失われつつある特定の文化に対して保存を訴えようとする場合、その失われる当事者の立場を真剣に考える必要はある。そういう余裕のある上から同情するような視線こそが暴動とか自爆テロとかを生み出しているのだということを自覚すべきである。
  現象学において衝動とか気分とか雰囲気という概念がよりクローズアップされているということの現状は、ある意味では私たちが日常的になす意思決定の合理化ということが、従来型の哲学では認識的なカテゴリー、あるいは理性によって判断してきたと考えられてきたものが、その認識や理性を司るものこそ、実はもう一つの衝動であり、気分であり、雰囲気なのであるという考えがあるように思われる。つまりこういうことである。
 人間は人間のその時々の欲求を正当化するために、或いはもっと言えば端的に美化するために法的秩序とか、論理、認識的なカテゴリーを採用してきているのだ、という主張がそこには込められているのである。だからある不愉快な気分とか、ある気分が乗らないそういう気持ちを克服して任務を遂行したり、日常的な摩擦を避けようとしたりするような意思決定の合理化をなすものもまた、そういうもう一つの衝動や気分であり、そしてそのような雰囲気であるとも言える。
 当初現象学はそこまで意識して考えていたのではないかも知れない。しかし少なくとも現象学を継承してきた一連の人々がそのようなものとして捉え直す必要性を感じたということなのである。しかしこの場合現象学の草分けの人々は既にこの世にはいない。だから当該者ということで言えば、ネイティヴ・アメリカンとか少数民族というのとも違うだろう。また現象学者というものを一括りにするほど単純に捉えてもならないだろう。事実ブレンターノ、フッサール、シェーラー、ハイデッガー、サルトル、レヴィナス、メルロ・ポンティー、ミシェル・アンリといった代表的な人たちだけとっても、恐らく全てに共通するものということとなると、いささか漠然として感は否めないだろうから。もしそういう風に一括りにしようとすると現象学の周辺の哲学全部をそういう風に理解しようとすると、完全に実体からは遠く隔たってしまうだろう。
 端的に現象学的還元という作用は「意識のあり方」(このことは15、哲学と科学 において詳しく考える。)を究明するために意識を構成する様々な要素を排除してゆく過程以外の何物でもない。少なくとも「論理学研究」期においてフッサールは堀栄造の言葉を借りれば 
「ここで注目すべき事は、還元によって純粋知覚を形成するまでの過程が段階的に語られているということである。つまり、第一段階で記号的要素を排除し、第二段階で像的要素を排除するという還元の歩みが、語られているということである。したがって、現象学的イデア学の具体的遂行は、意識の上層、中層、下層に順次位置づけられる記号的表象、像を用いた表象、直観的表象という三種の表象の本質的成層構造に基づいて段階的になされるのである。」(「フッサールの脱現実化的現実化」84ページより)ということである。
 そしてそのように排除することによって得られるものを起源とし得るかということとなると、それは幻想である、そんなものは起源ではない、その起源は何故なら全体という認識を得ることの出来る我々の認識を支える言葉に起因しているからだ。つまりある全体を構成している要素という全体から逆算するような認識を認定した上でのその要素間の排除なのだから、当然全体を認識した上で、つまり構築された全体を前提とした恣意的な認識以外のもので、その排除という思考方法そのものがあり得ないと言えるからである。
 それはある程度中島義道の反現象学的立場の考え方でもある(このことは後章においても詳しく論じることとする)。その証拠に中島は「私の秘密 哲学的自我論への誘い」で次のように述べていることからも明白である。(10ページより)
 フッサールは「現象学的還元」について、言葉を屈して説明しています。しかし、「還元する主体が私であるとどうして言えるのか」という問いは封印されたまま、「還元(Reduktion)」は遂行され、現象学的地平が開かれる。つまり、現象学ははじめから「私とは何か」という問いを閉ざすかたちで、すべてが進行していく。現象学の営みそのもの(とくに「還元」)が、「開かれた問題」を閉じる一つの方法だと言えるでしょう。
 しかしここで問題となるのは、では「私とは何か」と問うということそれ自体がどれだけ哲学的に重大であるかということそのものに対する懐疑とか、その問い方そのものの正当性と、適切性自体への問いはまた別問題であるということである。
 例えば永井均は「意識はなぜ実在しないのか」においてデヴィッド・チャーマーズを批判する形で、チャーマーズは意識そのものを実体論的に考究しているが、その意識が私の意識であるということを問うていないと言っているが、では私というものを離れて、誰でも抱く私という観念とは何かと問うことでは恐らく永井の考える私は論じることが出来ない、いやそもそも永井の考えではこのように私ということを言葉にした途端、それは一般化されてしまうのだから、それではチャーマーズが意識一般という形で「意識する心」で述べている意識の物理的還元不能論はある意味でチャーマーズ流の仕方でしかなし得ないということが正当化されるのではないか?つまり中島が現象学の持つ「私とは何か」という問いの不在そのものもまた、現象学的還元においては、そのように問うことそのものをエポケーとしているわけだから、そのように現象学を糾弾することそのものがナンセンスであるということとなる。中島は結局永井の私に対する考究はデカルトを超えていないのではないかと「観念的生活」で述べているが、ではこの「私の秘密 哲学的自我論への誘い」ではまさにそのカルテジアンとしての言及を前提した言述となっている。そのことに中島はどう受け答えするのだろうか? しかしもし中島の主張するような意味で現象学が私をエポケーしているし、そうするしか哲学的解決はなし得ないのであるのなら、現象学は最早哲学という名を借りたそれまで科学が取りこぼしてきた内的意識の問題等を処理するもう一つの科学である、あるいは未来の科学であるべきであるという主張ともなり得るのではないかと言えるのだ。そうなると哲学は最早必要はないということになりはしないかだろうか?
 しかし重要なことは、現象学とはあくまで哲学的命題の果てに辿り着いた意識に対してエポケーを決め込む態度なのであって、科学の一分野として派生したのではない、ということである。しかし現象学が心の科学とでも言うべき様相を呈していることそれ自体はある程度疑い得ようもない。だからと言ってその起源を見れば類似した様相が別のものと似ていてもそれを混同してはいけないということを思い出すべきなのかも知れない。
 そこで類似してきたから最早その類似したもの同士を連結してもよいのではないか、という思念も沸くし、いやそうではない、起源というものと今ある状態との関係というのは大切だということも説得力がある。そこで哲学不要論は正当な問いと言えるのか、それとも科学が現象学に吸収され得るそういう可能性に賭けてみるべきなのだろうか? その問いは実は非常に難しい。と言うのも元来どこまでを科学と呼び、どこからを哲学と呼ぶのかという問いそれ自体が極めて定義づけに困難を極めるからである。つまりその問いを問い続けることそのものがある意味では哲学だからである。そして哲学は仮にどこまでも科学が哲学の領分を解決していったとしても、やはり「哲学は残るのだ」と主張することが出来るような意味で、その哲学的問いを産出することが出来るからである。意識論については後章において詳しく考えるが、我々は意識というものを固有のものとして捉えないことには、生きているということを空しいと感じるような意味で、哲学の存在理由そのものの画然とした存在感そのものを捨象することが出来ないと感じる存在者であるらしいのである。
 だから科学の存在理由に限りない可能性を感じる向きには哲学とは唯一科学に対する言葉の批判なのだから、科学の発展を刺激するものであると捉えても別に間違いではないだろう。そして科学の発展そのものを科学者は信じるだろうが、哲学者は科学の発展そのものを懐疑することも厭わないということだけは確かである。そしてそれは文化としてではなく、哲学的問いとしてのことなのだ。 すると文化とは何かという問いがここで生じることとなる。
 哲学者は、文化とは習慣であるとか、慣習であるとか、制度であるとか考えるかも知れないが、文化が哲学を産んだという側面もやはり否定しようもない。ギリシャ哲学は、ギリシャ文学や音楽、演劇、政治その他諸々の要素から派生した一つの考え方であるからである。すると自我が文化を産んだのか、つまり人間の個々の自我が共同体を産み、その共同体の進化過程において文化が生まれたのか、あるいは自我とはそもそも共同体という秩序が形成される過程で徐々に形成されていったのか、という問題をも派生させることとなるのだ。 この問題から現象学者たちと中島の対立点を浮き彫りにして自我、言語、文化の問題に入っていくこととしよう。 衝動という語彙はフォイエルバッハも使用している。
 「(前略)宗教の発展過程はさらに、人間はますます多くを拒否し、自分自身を承認することがますま多くなるということのなかに成立している。始めは人間は万物を区別することなしに自分の外におく。このことはことに啓示信仰のなかに現われている。後の時代または開けた民族に対しては自然または理性が手渡しするものを、前の時代またはまだ開けない民族に対して神が手渡しする。イスラエル人は、人間がもっているところのまだ非常に自然的な衝動をも_それどころではなくきれいずきの衝動さえ_積極的な神的命令と考えていた。この例からわれわれには同時に再び、人間が自己を拒否することが多ければ多いほど、神はまさにそれだけますます低級になり、且つそれだけますます普通の人間になるということがわかるのである。人間が、最も普通の儀礼が命じることさえ自分で・自分自身の刺激ではたす力と能力を失うときこそ、人間の謙虚さや自己否認が最も徹底するときではなかろうか。」
 衝動をも神の命令と考えていたというイスラエル人の神性への敬虔というものが、果たして現代の現象学が再考する価値のあるものとしてフッサールを衝動や気分といったものにおいて理解する必要性を見いだしていることとどういう関係があるのだろうか? 果たしてフッサールは現代的視座でただ自然科学的な認識を適用するためだけにそのような衝動、気分、雰囲気といった概念を導入したのだろうか? 一面では自然科学とりわけ生理学とかの進化という現実はあっただろうが、彼の心中ではやはりイデア論的な認識、引いては神性への止み難き尊崇というものがあったのではないだろうか?ここでもう一度現象学的還元ということの意味を捉えておこう。

Saturday, June 9, 2012

時間・空間・偶然・必然_意識という名のミーム<科学で切る哲学、哲学で切る科学> 11、男と女の対話術

 男と女とはその持っている人生観やら、生活観、或いは価値観にやはり大きな違いというものがある。それは男女同権となり、男女雇用機会均等法といったものが成立して、大分たつ今日においても変わりない。それは生命が誕生してから三十億年の間に有性生殖というものが成立する過程、あるいは雄と雌という区別がついてからの全ての道のりの歴史を示しているようで興味が尽きない。
 まず男と女とでは時間の使い方(引いては時間感覚全般、そして人生全体)に関する価値観に大幅な違いというものがある。女性は男性よりは確実に何かのためになす時間という観念が強い。例えば休日に夫が上司とゴルフに出掛けるとしたら、それは夫が出世するための方便であると考えるだろうし、息子が受験勉強をしているのは、将来いい会社やいい政府機関とか大学で働くことが出来るようになるためという題目をそこに見出している。そしてその癖学生時代の友達と一緒にコンサートや美術展に出掛ける時には、そういう題目などそっちのけである。
 かなり若い頃からそういう男に対しては要するに自分にいい子孫を授けてくれるための存在、そして夫となる男性とはそのためにいい稼ぎと、いい生活を保証してくれるということが第一条件であるということは、一部の例外的に生活力のある女性を除き、大半の実像である。つまり女性という存在はその一部の例外であっても、その大半の女性の気持ちを理解出来る、そういう存在なのである。
 ところで日本語というものは多くの学者たち、作家たちが言っているように、本音を包み隠すそういう言語である。例えば卑近な例として勃起という語彙を広辞苑で調べてみよう。「にわかにむくむくとおこりたつこと。ふるいおこること」とあるが、通常我々は政変とか暴動が起きた時、勃発となら言うが、勃起とは絶対に言わない。私がもしこのような辞書の編集委員であるなら、次のように勃起を定義するだろう。
 「男女が性行為に臨む時に、性的興奮に伴い生殖器が直立し、硬くなること。並びにそのような性的ニュアンスのあることを想像した時に男女の生殖器に起こる同様の現象。」
 これなら理解出来よう。しかしこの「にわかにむくむくとおこりたつこと。ふるいおこること」という説明では、実際のところまだ勃起という意味を知らない少年少女がこの記述を見たら、きっと性的なこと以外のことでも使用するに違いない(例えば夜中に悪夢からふと眼が覚めて突如起き上がる時、我々が勃起するなどと言わないだろう。しかし広辞苑のこの説明ではそう使用する少年がいたとしても仕方ないと言えはしないか?)。このようなオブラートに包んだ表現を採用しているということは、あまりにも下品な連想をこの語彙を調べる者に喚起しないための作為なのだろうが、要するに「知っていることなのだから、暗に示すことでそちらが勝手に理解せよ」という意図によってこのような曖昧な規定を設けているのである。しかしこれは純真で無垢な、しかも日本語を正確に理解したいという幼少の少年少女たちに対しては失礼千万なことである。私はこの記述を直ちに改訂すべきであると主張したい。このような記述は真剣に真実を知りたいと願う若年の子どもたちに対する愚弄であると同時に、大人が読んでも快い説明ではない。そもそも性行為をこのような形で隠蔽することそのものが猥雑である。しかも無思想、無哲学的に猥雑なのだ。どうせやるなら、もっと本格的に猥雑にやれと言いたい(中島義道氏に私も似てきた)。
 要するに建前をしっかりと掴み、その建前に沿ってそつなくこなすということが社会では求められており、それに対応しなくてはならないという観念が定着しているからこそ、本音を言うことを慎むことが社会に蔓延し、その社会通念につき従うことを率先して男たちに訓育することが女性の嗜みであると躾けられているということを誇りとすることが日本では極めて常套的な女性のあり方であり、そのあり方に賛同する男性も決めて多い。しかしそれは一定の男性の社会的地位が保証されての話であり、そういう男性を配偶者としてキャッチすることがまず至上命題であるところの女性の倫理的な価値規範とは、性とは要するに子孫繁栄のためのものであり、パートナーである男性の行動においてたとえ愛人を作ったとしても、本音では自分さえ真剣に愛してくれれば、それでいいという観念にも近く、男性よりも女性に強いということは社会生物学者が証明していると言う。
 ジョン・オルコックという昆虫を中心に研究する動物行動生物学者でハーバード大学教授である彼の論文を長谷川真理子氏が翻訳している次の箇所は極めて興味深いものがあるので、少々長いが、そのまま掲載しよう。(「社会生物学の勝利」新曜社刊、114~119ページより)
 適応論的仮説の、もっとも挑戦的な比較法による検証こそが、社会生物学者が通常使っている方法である。それは、まったく近縁関係にない種どうしが、繁殖成功にたちはだかる似たような環境的障害に立ち向かったとき、機能的に同じような解決策を進化させるだろうという予測である。たとえば、社会生物学者の中には、現代の人間において、結婚外の性的関係を持つ男性が存在するのは、過去の進化的歴史において、そのような性質が有利であったからだと論じている学者がいる。この究極的仮説は、ヒトという種は、男性が自分の子どもと思われる子どもに、いろいろな資源を与えたり保護したりするという、哺乳類としてはきわめて稀な性質を備えているという認識のうえに立つものだ。いったんこのような形質が進化すると、他の男性の妻を妊娠させ、その女性の夫が与える父親としての世話を搾取することのできた男性は、ある特定の条件下で、ペア形成している女性と婚外交渉する動機づけを持たない男性よりも、繁殖成功度が高かったにちがいないと考えられる。他の男性の妻によって子を得た男性は、だまされている夫に子どもの世話をさせることにより、自分自身が父親としての投資をまったくすることなく子どもを生産できるのである。
 男性は、受精する女性の数を増やすことにより、自分の遺伝子を持つ子どもの数を増やすことができるのだが、夫または社会的なパートナー以外の男性と性交渉を持つ女性は、相手の男性と同じような適応度上の利益を得ることはできない。男性とは対照的に、女性が不倫をしても、自分の持つ子どもの数は上昇しない。そこで、不倫をする女性が遺伝的利益を得るとすれば、それは、配偶相手の数ではなくて、質の向上を通してであろう。それゆえ、つがい外交尾の進化的分析によれば、男性と女性の行動の究極的意味合いは非常に異なるはずである。男性にとっては、それは、他の男性の父親としての世話を搾取することなのであるが、女性にとっては、それは男性のパートナーを、よりよい資源を持った相手と取り替えるチャンスを得ることなのである。
 ヒトにおける婚外性交渉に関する社会生物学の仮説を検証する方法はいくつもある。たとえば、今ここに示した仮説からは、結婚している女性が産んだ子どもの何割かは、夫以外の男性の子どもであるだろうという予測が立てられるが、それは真実だからである。その数字は、調査された社会によって、1パーセントから25パーセント以上までまたがっている。たとえば、トリニダッドのある村で10年間に生まれた子どものうちの16.4パーセントは、母親の夫または社会的なパートナーの男性の子どもではなかったのである。
 婚外性交渉の結果できた子どもが、父親以外の男性によって知らず知らずのうちに世話されるのならば、社会生物学的な視点によれば、結婚している男性は世界中どこでも、だまされる危険に対して非常に敏感であると考えられる。現代のような親子鑑定技術ができる前には、女性が産んだ子どもは確実に自分の子どもであるのに対して、男性が、自分の妻が産んだ子どもが100パーセント自分の子どもであるという確信を持つ方法はなかった。両性間にこのような生物学的差異があることから、マーティン・デイリーと彼の協同研究者たちは、性的嫉妬の性質について、次のような検証可能な予測を立てたのである。すなわち、「女性は、自分の相手が注意と資源をどのように配分するかに対して嫉妬するが、男性と同じようには、相手の性的誠実さに対してとくにこだわらないものと考えられる」。デイリーとその仲間たちは、この予測を支持する広範囲の通文化的データを集めたが、その中には、男性が配偶者を殺すときには、妻の不実(または、男性の想像上での不実)が原因であることが多いという情報も含まれている。
 デイリーのチームが性的嫉妬について分析したのに続いて、社会心理学者たちが、自分のパートナーの想像上の不貞に対する男性と女性の感情的反応がどんなものであるかという報告に基づいて、このような進化的仮説の検証を行った。少なくとも三つの異なる文化において、予測どおり、男性の、自分のパートナーが他の女性と性交渉を持っているという考えに対するそれよりも、強いことが示された。たとえば、最近行った同様の研究では、スウェーデンの学生に対して二つの異なるシナリオを提示し、一方は、自分のパートナーが他人とセックスしているところを想像するというもので、もう一方は、自分のパートナーが、他人と熱烈な恋に落ちるところを想像するというものである。男子学生のおよそ60パーセントが、セックスのシナリオのほうに強く怒りを感じると答えたのに対し、女子学生のおよそ60パーセントが、感情的不貞の方に強く怒りを感じると答えたのであった。スウェーデンという国は、性的に平等な社会を持っており、婚外性交渉に対して比較的寛容な態度を持っているのにもかかわらず、このような性差が表れたのである。
 進化的な意味において、婚外性交渉が適応的であったか、または今でもそうであるかどうか、という疑問に立ち返り、これを女性の観点から検討してみよう。女性の不倫が過去の自然淘汰によって進化したのであれば、今日、ペアを形成している女性は、ペア外交尾の相手を選ぶにあたって非常に選択的であり、現在の夫または社会的パートナーよりも、財産や権力を多く持つ男性を選んでいるはずだと予測できるだろう。さまざまな文化において、女性が夫と離婚しようとする原因は、夫が、自分および子どもたちに十分な経済的支援を与えることができないときだという事実は、この予測を間接的に支持するものである。経済的理由で夫と離婚する女性は、自分の人生のくじを引きなおして向上させようとしているのであり、そのためには、伝統的な社会においては、以前の夫よりも多くの資源を持っていたり、もっと多くの資源をこちらに向けたりする気のある男性を、新しい夫として獲得する以外になかっただろう。次の夫がいないのに離婚しても、女性の遺伝的成功はほとんど向上しなかっただろう。
 この点、現在の私たちの社会で、「結婚している」女性が不倫をするときには、相手の男性は、身体的に対称性の高い男性であることが多いのである。男性のからだの対称性が遺伝するという証拠は存在する。さらに、男性のからだの対称性は、体重と社会的順位と相関しており、それらはまた、その男性がパートナーに与えることのできる資源や物理的保護とも相関しているに違いないが、嫉妬に取り付かれた男性が暴力を振るう傾向があることを考えれば、これは重要な要因である。言い換えれば、婚外性交渉の相手を探している女性は、よりよい資源が得られるような性的選択をする一方で、怒ったもとの配偶者による暴力から身を守ろうとしているようである。もしも、不倫関係を持っている女性が一般的に、現在の配偶者よりも多くの資源を持っていたり、社会的地位が高かったりする相手と関係を持っているのではないことが発見されれば、私たちは、この仮説を棄却してもよいだろう。ここでもまた、社会生物学の仮説は、原理的に反証可能であることがわかる。
 さらにまた、ヒトの婚外性交渉が適応的であるという仮説は、比較法を用いても検証することができる。ヒトにおいて婚外性交渉が起こさせるのと同様の淘汰圧が働いていれば、私たちとは近縁関係にない生物でも独立に婚外交渉を生じるはずだという論理である。たとえば、男性が婚外性交渉をする潜在的適応性は、他の男性による子の世話をどれほど搾取できるかにかかっているので、ヒトとは近縁関係になくても、雄が子の世話をする動物では、ライバル雄のつれあいと交尾しようとする雄がいるはずだと予測できる。すでに述べたように、多くの鳥類では、雄は、巣を作ったり、抱卵したり、ヒナに餌をやったり、ヒナが巣立ったあとも彼らを保護したりして、親としての投資をたくさん行う。ごく最近まで、このような配偶システムを持った鳥たちは厳格に一夫一婦だと思われていたが、実際には、婚外性交渉の頻度も高く、巣の中に父親の異なるヒナが混ざっている場合が非常に多いことがわかった。鳴禽類では、子どもたちの30パーセント、いや50パーセントもが、その雄の社会的つれあい以外の雄の子である場合が知られている。ヒトの男性と同じく、鳥の雄も他の雄とつがいになっている雌と交尾するということは、ヒトの男性に起こるこの行動は適応であるという説、つまり、他の雄による子の世話を搾取することができるという「適切な」社会環境が整ったときには、不倫に相当する行動が進化するという仮説を支持している。
 同様にして、婚外性交渉を持つ女性は、自分の遺伝子を持つ子どもの数を増やそうとしているのではなく、子どもが生存して高い繁殖成功度を持つ確率を上げようとしているのだという仮説も、比較法で確かめることができる。社会的なつれあい以外の雄と交尾する「一夫一婦」の鳴禽の雌は、彼女らが産む卵の数が増えることはないだろう。しかし、すでに述べたように、彼女らは、つがい外交尾相手の雄から、対捕食者防衛の援助を得たり、彼らのなわばりの中で餌をとってヒナに与えたりすることができる。さらに、つがい外交尾は、以前のつがい関係を解消し、新しい関係を築くための始まりであるかもしれない。フランスの二人の鳥類学者が、多くの種において、婚外性交渉の率とを比較したところ、そこには有意な正の相関が見られたのである。そして、鳥の雌がもとのつれあいを捨てて新しいパートナーと一緒になったときには、より社会的地位の高い雄とペアになったのだが、鳴禽類においても人類と同様、社会的地位が高い雄のほうがよりよい資源をもっているのである。
 つまり淘汰圧が同じであれば、非常に異なる生物間に行動の収斂が起こるので、比較法を上手に使えば、ある形質が特定の適応であるという仮説を検証することができる。さらに、社会生物学者は、自分たちの適応的仮説を検証するために、いくつもの強力な方法を手にしており、つねにそれらを駆使して、それらの検証を耐えない仮説は捨て、耐えうる仮説は保持しているのである。(引用終わり)
 要するに男は異性である女性が性的パートナーである場合、彼女の不貞とは精神的に愛し合うことよりも肉体関係を持つことの方に非を認め、例えば離婚のきっかけとなるが、そこまで行かないでいるのなら、もしこれから悔い改めるのならば、つまり相手のことを忘れることが可能であるのなら大目に見ようということであるのに対して、女性は逆に男性であるパートナーが一夜だけの不貞を働いたとしても、その相手と精神的に繋がっているのでなければ大目に見る。と言うことは、逆のケース、つまり男性が相手の女性が精神的に愛していなくても肉体関係を持ったことを離婚申し立ての第一の理由とし、女性は相手の男性が別の女性と心底愛し合っている間柄である場合そういう理由とすることが多いということをこの調査報告は物語っている。
 このことと関係があるのではないかということで中島義道氏が「生きにくい···私は哲学病」において、「なぜ女の哲学者はいないのか」において次のように述べている。これも長いが全文掲載しておこう。
 少年時代を振り返ってみると、野球をはじめありとあらゆるスポーツはできなかったし、喧嘩向きの体力は最低で、男の子らしさは無限に低かったようでもあるが、いやそうでもなかった、とこのごろ思い直している。私は『昆虫の図鑑』『天文の図鑑』『交通の図鑑』などが暗記するほど読み返していたし、顕微鏡を覗き込んだり、プラネタリウムが大好きだったり、網や捕虫箱やホルマリンや虫ピンなど昆虫採集の道具を揃えて蝶やトンボを捕るのも好きだった。大豆を二ヶ月にわたって克明に観察しそれを記録したり、長大な世界史年表を夜を徹して作り、何時間も世界地図を見て飽きることはなく、自分で色とりどりの仮想地図を描いたりしていた。東京タワーや大阪城の模型を作ったり、明日はボール紙で動くロボットを作ろうと考えて夜も眠れなかった。
 つまり、一見ヒヨワだった自分の少年時代が意外に輝いているのをなつかしく思い出し、こうした行動を重ねた自分はとても男らしかったと再確認するのである。というのも、昆虫採集にわれを忘れる女の子はあまりいないようだし、世界中の国の人口密度や特急列車の時速をすべて暗記してしまう女の子もいないようだ。私の周囲には頭脳明晰な女性たちがたくさんいるが、今なおそういう少女時代を過ごした女性にお目にかかったことがない。
 そしてそういう少年がそのまま哲学少年になった。今度は、世界が「ある」こと、時間が「ある」ことが、私が「ある」ことが不可解でたまらない。同時に、少年時代からもちこたえてきた死ぬことがあらためて大きな問題としてクローズアップされてくる。世界が明日崩れてしまうのではないかと思うほど不安である。こういう抽象的な不安感をもって乙女時代を過ごす女性たちもあまり見当たらない。革命に身を投じる女性たちはずいぶん見てきた。ばりばりの社会的行動派も少なくない。精神的不安を抱え悩みつつ生きている女性たちも多い。彼女たちは過食症や拒食症に陥り、あるいは自傷行為を繰り返す。だが、だからといって「独我論」や「超越論的観念論」(これはわからなくて結構です)にはまってしまう女性、つまり「哲学病」に罹ってしまう女性はいないのだ。
 これは私の経験に限らない。東西古今の哲学者を見渡すに、たしかにそこは純粋に男の世界である。ここは慎重に言わねばならないが、美学や心理学や歴史学や言語学に近い分野を含めて哲学と広くとれば、女性たちもちらほら見かける。私が言いたいのは、存在論や時間論や自我論や認識論など、哲学の核心部分となると女性は文字通り皆無だということである。
 どうも哲学というと高級だという観念をもつ人が多くていけない。だから、女性に哲学者がいないと言うと、本気で怒る(とくに知的な)女性が少なくない。だが、哲学は下品なものなのだ。ワイセツなものなのだ。それは、生物としての人間にとっては随分不自然な営みである。一つのわかりやすい説明を。電車の中で男の尻をさする女性は皆無ではないがきわめて少ない。男のパンツを盗む女性も少ない。男子用トイレにカメラを仕掛ける女性もあまりいない。男の前で突然性器を露出して快感を覚える女性もまずいない。(これはある場面ではかなりいると私は思う。管理人注加入)男以上に残忍な女性権力者が史上少なかったにもかかわらず、いまだ何百人の男たちを「蓄えておく」ハーレムを造営した女帝を知らない。(アマゾネスはどうだったのだろうか?管理人注加入)つまり、女性は現実的な性にしか興味がなく、総体としての「生身の」男にしか興味がなく、またそのつど一人の男にしか興味がないようなのだ。
 以上のことは重要なヒントを与えてくれる。哲学がワイセツに思われる(これは私の実感である)秘密もこの辺りにあるのかもしれない。生殖を伴う(そして、愛を伴う)性行為から離れれば離れるほどワイセツな感じがつきまとう。それは、無用という感じと至近距離にある(だから、人間以外のいかなる動物もワイセツではない)。男が排泄するシーンに興奮を覚える女性はほとんどいない(そういうポルノ動画はよく見かけるが、それすら男性の観賞用に敢えて演出しているのかも知れない。管理人注加入)ように、哲学する女性はほとんどいない、逆を言えば、女性たちはこういうワイセツ行為に欲求を覚えないように、哲学に欲求を覚えないのだ。
 21世紀、女性たちはさまざまな分野に進出するであろう。女性たちは、もともと体力はあるのだから、宇宙飛行士や極地探検家あるいはボクサーやレーサーなど肉体の冒険者が激増しても不思議はない。しかし哲学者という名の知的冒険者は増えないのではないか。どんなに女性の時代になっても、哲学だけは女性たちが近づきえない男の「聖域」としてブラックホールのように残るのではないか。そして、それでいいのである。女性の哲学者が輩出する時代、それは男たちが電車の中で頻繁に女性から痴漢される時代であり、男たちのパンツがたえず女性に盗まれる時代であり、男たちのズボンの中にいたるところで女性に盗撮される時代である。つまり、女たちがワイセツになる時代である。読者諸賢はそういう時代の到来を望みますか。(128~131ページ、角川文庫版より)  
 中島氏は自分で自分のことを「好き勝手なことを言う男」である自認し、「人生を<半分>降りる」で著者名の上に副名としてそう記述している。
 結局実際の歴史上女性の哲学者というのは数えるくらいしかいない。アンスコム、ハンナ・アーレント、シモーヌ・ド・ヴォーボワールそれ以外に純粋哲学であると言うよりは、社会性の強い言及者たちとして敢えて哲学的であるとしてジュリア・クリテヴァ、アンドレア・ドウォーキン、スーザン・ソンタグ、ジュディス・バトラー、サラ・サリーを加えられるといったところだろうか?
 これには理由があるのだろうと思う。
 つまり女性は優秀な子孫を自らの胎盤を使って、そして限られた卵子を使って残す必要があるので、必然的に子供っぽくて真面目な男性よりも、大人っぽくて不良っぽい男性により惹かれる。しかし一旦その男性を手中に収めれば、それ以外に浮気する必要がない。だから浮気に走る女性とは、端的に今現在夫である男性に対して物足りなさを本能的に感じ取っているということである。経済力、包容力、いざという時の頼りなさに対する直観。大人っぽい包容力があって、経済力があっても、勿論子供っぽさというものは魅力ある男性には必ずあるものだが、それはいざとなったら、自分を守ってくれるような大人っぽさの中になくてはならないのだ。これが最低限女性の側から男性に許容される子供っぽさなのである。そして自分を大事にするということは性的に愛するということと、性的に愛することを可能にする状況を構築出来る生活力と、経済力というものが兼ね備えられているということを意味するのだ。
 だからこそそのように「一人立ち出来ないでいることを受け容れている女性」は、男性が常にそのような女性からの要求に突きつけられているという状況を社会的には経験することが少ないので、必然的に一人で真剣に人生全体のことで悩むということは少なくなるのではないだろうか?
 例えば何か辛いことがあって、親友に相談する時、女性なら抱擁することがそれほどおかしいことではないが、男性の場合個人的な悩みを誰かの打ち明けたからと言って、その際に相手と抱擁し合ったり、そのようにして貰らったりということは稀だろうし、第一絵にならない。
 かつて元ビートルズのジョージ・ハリスンが死の床にあった時、かつての僚友であるポール・マッカートニーとリンゴ・スターが駆けつけてきた時、二人はジョージの手を握り締めたとその後ポールが告白していたが、このように男性が死の床にある親しい友人の手を握り締めるようなケース以外で、男性同士が肌を接するということは少ないだろうし、ポールは「お前のことが好きだ」などと親しい間柄でも日常ではなかなか言えないものだとインタビューでそう語っていた(ジョージの最後にはそのような会話をしたのだそうだ)。
 しかし女性なら恐らく男性よりはそういうことを言い合ったり、抱きしめ合ったりすることはそんなに稀ではないのだろうと私は思う(テレビドラマの見過ぎであると言われるかも知れないけれど)。それは異性にどのように見られているかということに関して、男性の方が情緒に流され難いと思われたい、いざという時に心強いと異性から思われたい、つまり抱擁を相手に求めるようには思われたくはないという無意識の選択と関係ありはしないだろうか?
 だから確かに中島氏の主張されるように、反体制運動というような弱者から権力者に対するプロテスト的意図による行動をする女性(自爆テロを実行する人たちも含めて)は後を立たないが、本来異性からの要求に従って行動規範を構成する(これは生物学的にも雄は雌から選択されるというケースがその逆よりも圧倒的に多いということとも関係あるだろう)というニュアンスの希薄な女性は哲学的思惟には向かないのかも知れない(すると時々男性の性的要求にオープンな女性がいるが、そういうタイプの人は哲学的思惟に向いているのかも知れない)。
 だから女性の中にも経済力があり、自分一人ででも生活してゆく力のある人は、経済力の面では多少男性を選ぶ規準からはずしてもよいと考えるかも知れないし、そういう場合は子供っぽさということも、許容される範囲が広がるが、いざとなったなら、やはり男性に守って貰いたいという欲求のない女性などこの世にはいないだろう。
 女性は真面目であることを男性に大して求める美徳とするのは、あくまで自分中心のことでである。つまり自分を守ってくれる限りにおいて真面目であるべきであり、世の中全体の中で真面目であるということは、最低限職を失わないくらいに真面目なのでよいのであって、決して律儀であるとか、堅物であるというようなタイプ、しかも自分に対して決然としていない男性に対しては業を煮やすということの方が多いだろう。
 だから大人っぽいという部分とは自分と子供の生活を守ってくれることにおいてであり、真面目であるということも家族を守るということにおいてであり、それ以外ではユーモアがあり、茶目っ気があるという意味では子供っぽいところがあってもよく、自分たちにとって必要な他人に対しては太っ腹であり、自分たちに被害を与えるような他者に対しては適度に不良っぽい必要があるのである。
 このように女性は男性と違って性行為の結果としての妊娠→出産というプロセスにおいて男性よりも甚大な労苦と、長い時間拘束されることから、男性が女性に求める条件とは大分違っていると言うことが出来るだろう。男性が女性に求める包容力とは違って、女性が男性に求める包容力とは、対外的には攻撃力となり得るようなタイプの包容力である必要があるのである。これは普段はずぼらであっても、いざとなったら絶対自分の味方になってくれる可能性を読み取る直観に委ねられた異性に対する選択である。
 だからいざという時には大人っぽい態度を採ってくれさえすれば、それ以外は子供っぽい方が楽しくていいということもあるだろう(女性は好きな男性のタイプに「話の面白い人」と言うことが多い)。しかしそれは第一次的欲望が充足している場合の必要条件であって、十分条件ではないだろう。つまり子どもっぽさとか話の面白さといったこととは欲望の第二次的なことであり、資本主義社会のマーケティング戦略としてはそちらにどの企業も重きを置いているだろうけれど、それ男性女性の商品選択の心裡行動としては成り立つが、潜在的に伴侶となり得る異性に求める要求ではないだろう。  
 ここまで読んでこられて読者の中には私が故意に社会生物学や、それに対する別の形での展開を目指す学問の話をしたりすることに対して痛烈な違和感を覚えられる方もおられることだろう。そういう方は純粋な哲学の指南書のようなものを本書に期待されたのではあるまいか?あるいは逆に科学的な実証性を求められてきた読者は哲学的な発言において、違和感を覚えられたかも知れないと私は思う。
 しかし実際ここで私は示したいことというのはそのどちらでもないものなのだ。
 哲学者である中島義道氏は学問、あるいは科学よりも哲学の方がしんどくて困難であると考えておられるが、そういう部分もあるが、そうでない部分もあるというのが私の意見である。例えば哲学は確かに科学には出来ない崇高な問いを限りなく問い詰めてゆくことが出来る。しかし哲学者もまた夜には電燈をつけ、読書するだろうし、欲しい本をインタネットで注文することがあるかも知れなし、大学で教える人は大学まで電車に乗って通っていることだろう。そして何より印刷技術があるからこそ哲学も宗教も世界的レヴェルで普及しているのである。つまり科学の恩恵を被っているのだ。もっと言えば科学を信頼しているのだ。あるいは哲学病患者というものは非哲学病患者によってその存在理由を与えられているのだし、カイン型人間というものはアベル型人間の存在によって自己の存在理由を与えられているのである。
 つまり哲学者がどんなに足掻いても、科学の利便性がなくなりはしないし、それを全ての人間は利用する。そして科学者もアベル型とカイン型の人間が考える人もまた、人生について真剣に考えるし、哲学的な部分というものはあるのである。
 私が社会生物学の考えを述べたりするのは、ある意味ではそれが社会的行動という観点から人間を考える際に役立つからである。そのように捉える仕方によって逆に社会行動というだけでは推し量れないようなレヴェルの人間の「心の問題」を掘り下げることが可能であるように私には思えるからなのである(社会生物学の限界についてはスーザン・ブッラクモアも書いているし、それをも考慮して再び後節においてそのことについては触れる)。
 例えば人間とは一組の夫婦も、友人同士も、純粋に社会的存在であるだけではないだろう。社会という概念はただ人間をある一定の行為の目的性において捉える方便でしかない。例えば結婚生活も、恋人とか愛人関係というものもまた、社会的な目的のために作るものではない。子供を儲けることもまた大きな目的であるが、人間にとって夫婦生活とか、夫婦関係とか、恋人、愛人関係というものにおいてそういう現実はやはり部分である。だから逆に親子同士でさえ人間同士であるということである。
 例えば一組の男女が真に理解し合えるということは、ある意味では男と女の性差を超えて人間同士として向き合う時である。確かに生物学的には男女の性差というものは歴然とある。しかし一組の男女がそういう性差を受け入れるのは個人の選択であると言うよりは、寧ろ社会通念とか、社会システムに順応しなくてはならないという生活上の利便性からであり、本音の部分では男も女のどちらかと言うと一個の独立した人間同士という側面の方がより大きいことだろう。だから大人っぽさとか子供っぽさとか、生真面目さとか不良っぽさとかいう価値基準など個人ごとに異なっているし、例えばいざという時に、のらりくらりしいているタイプの人間の方が難局を切り抜けることが出来るタイプかも知れないし、そういう時に深刻ぶるタイプよりも異性に求める理想としてはあり得ることかも知れない。それは逆に男が女に対して求める条件としてもあり得るかも知れない。
 つまり社会生物学が与える一個のデータの羅列が示すことは、ある角度から見ればそういう見方も成り立つという真実について示唆するだけである。それを言うのなら、恐らく哲学もまた、科学では推し量れない部分に光を当てているということなのだから、相御互いである。私の考えるところ、科学者もまた恐らく一番関心があるのは、人間ではないだろうか?寧ろそうであるが故に彼らは人間を時として動物や、植物、微生物たちと等価な存在に態と人間を貶め、データ中心に考えようとするのである。しかしそこで出されたデータは各自データの出し方や、証明の仕方に個人差があり、それが科学者のパーソナリティとなっており、またそのパーソナリティ同士の突き合わせそのものは、学界がいかに人間に興味ある人たちで占められているかということを示すものでもある。ここでも孤立者、あるいは人間嫌いであることから生物学者になったようなタイプの人でも、人間社会の中に決然と「人間嫌い」として位置づけられるということから、社交家と同じ対人関係の渦の中にあると考えてもよいだろう。
 だからこの節のタイトルである男女の対話術というものは実際にあるようでないものでもあるのだ。それは科学者たちが自分の論文の正当性を主張する時必ずしも決まった仕方というものがない以上、ただ「誰にでも理解出来ること」という幻想を信じているということ以外に何も信頼に足る共通のものなどないのだから、当然男と女もそこで交わされる会話とは、端的に相互に信頼し合える関係であるという幻想を排除したら身も蓋もなくなる。
 それは言語使用という現実にも適用される。
 世界には恐らく今現在存在するだけの数の言語としてのミームが存在する。そしてこれまでも多くの言語が消滅していっただろう。それは要するにその時にそれまで使っていた言語よりも利便性が多いと思われた言語に使い代えたということ以外のいかなる理由もなかったのだろう(まるで男と女がくっついたり、離れたりすることのようだ)。ミームという観点から言えば、使い代えられた言語の保有するミームの方が利便性という観点で勝利したということだけのことである。しかしそのことが直ちになり代わった方が優れているという評定を下すことは出来ない。
 それと同じように男女の関係も、親子の関係も一律にそのあり方が決まるようなものではない。その時々の相互の事情が偶発的に接触すること以外のものではあり得ない。例えば性的な接触が皆無になった夫婦が、常に性的刺激を求めている夫婦よりも劣るとは言い切れないし、逆にそういう夫婦の方がより精神的に愛し合っているし人間的に価値があるとも言い切れない。そういう場合もあるだろうし、そうではない場合もあるだろうとだけしか言えない。だから対話することがなくなったということが必ずしも憎しみ合っているということを即意味するわけでもない。寧ろそういう男女関係というもの、あるいは親子関係というもの(親子でも同性同士、異性同士という組み合わせがある)、或いは友人関係一般でもよいが、対話することが尽きたと思った瞬間から、本当は真実の対話が成立する可能性が新たに生まれたのかもしれないのだ。ここら辺では中島義道氏が対話をただ単なる会話と区別している部分の主張が生きてくるように思われる。氏は対話を宥和ではなく対立軸を鮮明化させるツールと捉えている(「対話のない社会」などのテクストを参照されたし)。
 これを書いている今日、実はNHKの教育テレビで、文化人類学の今日に関する特集があり、パソコンに向かいながら音だけで聞いたりした。そして番組の中で哲学者の鷲田清一氏が出演され、対談で文化の異なった世界の人々と理解し合うという時、その民族との共通性を知ることが真に理解し合うということではなく、「異」性というものを知ることこそ理解し合うということではないかと発言されていることに私は関心を持った。
 文化人類学者たちは総じて、文化相対説というものの出現以降、それを題目の一つとして仕事してきているらしい。そして究極的には多文化共生社会というものを実現するべく努力しているらしい。
 しかしこの考え方は経済グローバリズムと恐らく真っ向から対立するだろう。つまり欧米そして日本という経済先進国レヴェルでの発想を中心とした経済グローバリズムの波にどんなに抵抗を試みても、我々日本人は竹中平蔵氏の主張されるような意味で違った選択肢というものは幻想でしかないだろう。これはよきにつけ悪しきにつけ不可避的な運命であろう。
 文化相対説というものは例えば言語学の世界ではエドワード・サピア(彼は同時に文化人類学者でもあった)によって言語相対説という形で示されてもいる。
 この考え方を哲学的に考えてみると、恐らく全ての時間を空間系列化された、どの「今」も物理学的視点のように等価であり、特別の「今」などないという神のような視点に近いものがある。しかし私は日本人であるし、文化人類学者たちも主張していたが、我々にとって当たり前の食習慣でも、北欧の人々は眉を顰めることというのもあるだろうし、その逆ということもあるだろう。日本人にとっての捕鯨に関する良識とオーストラリア人のそれとではずれがあることも確かだろう。
 つまり我々はどんなに努力しても、神の如く全ての人類の文化が優劣などないという視点を個人においては獲得し得ないこともまた確かなのである。そういった現実を踏まえずに、ただ闇雲に理想的なことを言っていても、ある意味では痛烈なる自己欺瞞を潜ませることとなる。そのことは恐らく南米を旅したレヴィ・ストロースも痛いほど実感し得たのではないだろうか?例えば私の知人はかつてインドに仕事で旅をした時、食事の仕方とか、排泄の設備とかにおいて、今日におけるような意味では発展していない段階で訪れたこともあって、極めて耐えられない生活だったと告白していた。それはある意味では極めて正直な告白であったのだろう。この問題は結局人種差別意識の問題にまで発展し得るので、実は極めてシリアスな性質を持っている。
 生物学者の考える文化というものと、文化人類学者の考える文化というものは微妙にずれ込んでいるように思われる。文化的適応という言葉、あるいは民俗知(フォーク・ノレッジ)を文化人類学者たちは使うが、それらをも含めて生物学的に言えば環境世界に対する適応であると言えるだろう。あるいはスーザン・ブッラクモア的に言えば、ミームを我々が選択しているようでいて、ミームそれ自体の夢魔的な魅力に抗い難い不可避的接触という風にも捉えられるだろう(どの民族も普遍的に取り込み、取り込まれるミームもあれば、そうではなく民族毎に固有のミームというものもあるだろう)。しかし恐らく文化人類学者たちには固有の世界協同社会という発想があるように思えてならない。つまり彼らには政治的な意図があるように感じられてならないのである。それは私の実感から言わせて頂けば、ある意味では理想であるというよりも絵に描いた餅のように感じられるのだ。全ての文化が共存し得て、全ての文化が一切の競争(これは生半可な競争のことを言っているのではない。つまり食うか食われるかということである。)のない共存ということがあり得るだろうか?(斜に構えて捉えれば、日本の文化人類学者たちはマリノフスキー、フレイザー、ボアズといった西欧の学者たちの考えた路線を踏襲していて、自分たちより上位に彼らを置いているから、必然的にしかし彼ら自身は無意識の内に自分たちよりも下位に位置する「保護すべき文化」というものを探しているのだ、とも言えるように私には思われる)私は何も影響力の微弱な文化や言語は淘汰されればよいと言っているのではない。かつて廃れたものが復活するというようなことはそれはそれでよいと思うが、皆があまり眼を留めなくなった文化や言語を保存しようと他の皆が眼を留めているものと依怙地に等価なものであると主張して義務感と使命感に苛まれて躍起になることにどれほどの意味があるのだろうか、と思うだけのことである。ある程度民族全体の関心と伝統に対する志向性を現実として受け留めつつ見守る度量は必要ではないだろうか?
 ジャレド・ダイアモンド(進化生物学者、生物地理学者)は、名著「銃・病原菌・鉄」の中でユーラシア大陸における病原菌が南北アメリカ大陸の先住民の生命を奪った根幹であり、その数は南米大陸侵略者による銃による殺戮を遥かに凌いだと言っているが、同時に何故そのような不平等、つまり南北アメリカ大陸からユーラシア大陸からの侵略者に対して殆ど病原菌が蔓延しなかったか、その理由として、南北アメリカ大陸では遥か昔に多くの家畜化し得る野生動物が絶滅し家畜化し得る動物が少なくなり、従ってユーラシア大陸のように多くの家畜化し得る野生動物の宝庫ではなかったために、家畜と共存する文化とか、そのことによって家畜に寄生するウィルスに対する免疫がなかったために、侵略者たちの運んだ家畜経由での病原菌によってたちまちの内に死亡していったと述べている。
 このことはある意味では熾烈なウィルスの自然選択が家畜化しようと試みたユーラシア大陸の人類によってほどよく共存し得るようなタイプのものへと進化する余裕があったということを意味する。つまりウィルスの側からしてみれば、端的に集団農耕社会のような稠密な人口を誇る地域に寄生し、広がることが戦略上得策なのであるが、寄生した個人が死滅することを容易にするようでは、逆に自分たちの死滅にも繋がるから、当然それなりにウィルスに対する免疫を得ることを促す形でウィルスは自然選択上進化(勿論人間の免疫システムとの共進化である)してゆくこととなる。それは今日においても変わりない(尤もダイアモンドはマラリアなど風土病が多数発生するためにニューギニアとかインドネシア等の熱帯地域は、欧米による進出植民地化が四世紀以上も立ち遅れたとも述べている)。
 要するに競争(それは人間対野生動物、人間対家畜及び家畜に寄生するウィルス)という現実が文化というもののあり方を決定してゆくのであり、それは多文化共生社会という発想とはある意味では真っ向から対立するような熾烈な、相手に征服されるか、こちらが相手を征服するかという意味さえ含み持つ現実を招聘するようなものでもあるからである。
 ある意味では哲学は完全に欧米中心主義の学問であるし、文化人類学もまた、そういう意識の下で分化発展してきたものであるという意味では変わりないだろう。すると多文化共生社会という発想も、実は欧米を中心とした認識であり、少なくとも先住民族の側に立った発想ではないだろう。彼らがそれを望むかどうかはまた別であるし、かつて黒船が日本に来た時以上の民族間の分裂を経た後ようやく、片がつく、いやそういう猶予さえ経済グローバリズムは与えないであろうような熾烈な競争的現実の前で、同化を余儀なくされるような運命にある民族のこれまで持ってきた文化が果たして真に先進国の間で、マクロ的な意味で承認されたり、対等なものであると認識されたりするかどうかは疑問である。
 もし文化的に保護する価値があるかどうかということが先進国で議論されても、多くの言語が消滅していったような意味で全ての先住民の文化を保存することは、そもそもそういう風に先住民の全てが望んでいるのかどうかを考慮すると、かなり至難の業ではないだろうか?(私は微弱な民族の文化は滅べばよいと言っているのではない。)
 男女の文化的なものの見方ということも、民族毎に存在する社会のあり方によって強制されて植えつけられたものかも知れないという視点に立てば、生物学的な人間のあり方としての男女の性差と、その文化的な克服ということもどこか胡散臭いニュアンスを伴うとも言える気さえする。端的に男女の対話のおいて女が目的意図的時間の使い方を採用しているように感じられるということは、結婚とか、男女の役割に対する我々の先入観から社会規約的に適応する反射神経のようなものがそうさせているとも言い得るのである。しかしそれはある意味では異性に対する生物学的な戦略性の違いに起因するということも当然事実だろう。するとどこからどこまでを生物学的な戦略として認識し、どこからどこまでを文化的な規約とか社会通念、あるいは個人の良識とするかということとなると、実は極めて曖昧になるということも言えるのだ。つまりオリンピックにおいて応援するのは自国の選手であるが、自国の選手同士が決戦するとなると、個人的な嗜好によってどちらの選手を応援するかということが決定されるだろう。そういう意味では本能か理性かということさえ、ある意味では、ある時には本能的な選択を受け入れ、ある時は文化的な正当性というものを受け入れ、ある時には個人の嗜好を優先させるというように、その都度異なった判定基準を採用しながら、その都度意思決定の合理化をなしているのが人間であるとも言い得るのである。しかしそう言いながら、本能も理性も、我々はある判断に対して事後的に反省意識の上でそう考えているだけで、それらは結果的には全て我々の言語的思考、論理的思考の産物であるということにもなるのである。
 そういう視座に立てば、男女の対話術というものは、親子の対話術と対極の部分もあれば、ある時には同じような部分もあり(特に女性は男性に対して母親的な態度で接するところがある)、ある時には上司と部下の関係的になることもあれば(男は女性にそういう態度で臨むことが多いし、その逆のパターンも夫婦によってはあるだろう)、ある時には友人同士と同じようになることもあるという風にその都度の判断に委ねられていると考えた方が自然なことなのかも知れない。

Sunday, June 3, 2012

時間・空間・偶然・必然_意識という名のミーム<科学で切る哲学、哲学で切る科学> 10、私は今を食い尽くす

 結論的に言えば、私は時間というものを、自己意識による消費と考えている。私は常に現在を食い尽くしているというわけである。尤もこの考え方に睡眠時というものは含まれないことは言うまでもないが(睡眠については別の箇所で考えることとする)。
 例えば今私は食事をし終えて今この文章をパソコンの画面を見ながらワードで打ち込んでいる。だからさっきまで食事していた時間は既に過去のものである。しかし食べている時私は明らかにその食べる行為を今の行為として意識していた。つまり何か継続的な行為をしている時には、その行為を始めた瞬間からずっと継続した今であるということは然程問題のある認識ではないだろう。従って過去というのはある意味では一つの行為が途切れて、別の行為に赴く時に、今している行為に対してさっきまでしていた行為を振り返るという形で到来するのではないだろうか?
 端的に私にとって私に対する自己意識においては常に今である。だから過去はただ単に私にとっての今を今ではない時に対する意識として浮上させているだけである。ここら辺は中島義道の第二次想起、つまりリテンツイオン(retention)優位の考え方と同じである。過去とは端的に今していること(行為)ではない自らが「した」と信じている(想起しつつ)行為へと向けられていると考えてもよいのではないだろうか?では未来とは?
 そのことに関しても中島義道が「生きにくい•••私は哲学病」等でより適切な主張をしていると思う。
 中島の主張するように未来は確かに実在しない。それは過去が実在しないという形とはまた違った様にである。と言うのも過去とは想起においてのみ実在することが可能だからだ。従って私にとって私の過去(に対する私の記憶<内容>)こそが「世界」の過去を知るための唯一の里程標であり、「世界」の過去における私がこの世に誕生する以前の過去は、私にとっては実在的な感触はゼロである。それらは端的に「世界」から私の世界に与えられた「外部からの知識として植えつけられた記憶」でしかない。
 しかし中島が時間というものを流れとして位置づけることとは要するに時間の空間化であるという主張をそのまま受け入れれば、進化論とは生物学、考古学、博物学一般において受け入れられている定説としてのダーウィンの進化論を含めて、それらは哲学ではないから、当然今という意識は欠如している。そもそも化石によって発見されるもの同士を例えば炭素含有量などを糧にデータ産出して示した一つの過去の別の過去に対する前後関係であるから、それは例えば現在の我々ホモサピエンスを規準にした過去の遺物に対する認識を構成する一種の時間の空間化の際たるものである。
 しかし私が考えるところスーザン・ブッラクモアは心理学者なので、決して哲学者ではないから、哲学者が考えるような意味で今とか私ということを意識した認識でははいものの、少なくとも認識論的には時間の空間化という従来型の進化論(社会生物学を含める)に対して、空間の時間化という新たなフェイズを導入しているように思われる。
 要するに時間側から空間側へと、そしてその逆に空間側から時間側への接近を統合しようとしている様に思われるのだ。
 何故なら後者に関して、私は彼女の主張には、遺伝子作用に対してミーム作用というものの存在を主張することによって、二つの相反する作用が相補的に絡まり合って、二つの関係はフォイエルバッハが主張するような意味での延長と思惟(思惟もまた存在する意識の内的行為事実として実在認識可能である。「キリスト教の本質・上」の88ページより)というジョン・ロックの考えを発展させたものと考えられる思惟の側からの延長(対象に対する認識)に対する認識作用という認識を発展させたものであるとも思われるからである。
 つまり遺伝子とミーム両者のいずれの側からも成立する主体と客体の距離そのものは空間的であるが、その二つの相補的なアプローチという事態そのものは時間的な尺度でも考えられ得るから、当然この二つの相補作用においては、二つの主体は異なった進化の時間が与えられるので、従来型の社会生物学にはなかった空間関係における時間的推移という観念が付与されていると思われるからである。また従来型の進化論では遺伝子だけが主体であったが、それは遺伝子がミームに対して受動的に翻弄されている様をも描出しているからである。  ここで時間論を巡る我が国の哲学界の論争について考えてみたい。
 1で述べた時間論において私は意図的に時間というものを哲学的な「私にとって」という視点を排除してみた。それは私自身がプロの哲学者ではないということから哲学テクストとしての体裁を敢えて避けたかったからである。つまり哲学的思惟を既にあるものとして示すことは本ブログの目的には沿わないと思ったからなのだ。
 しかし変化というものを保障する場こそ時間であるという考えは、ある意味では空間と協同して体裁を形作っているという印象を与えたかも知れないが、空間と時間とは我々がそのように区分けして認識しているだけで、そもそもあるものではない。
 例えば空間はただニ物の関係を同一の場に保証するという事態を我々がそこに「空間があるからだ」と認識するから派生するものに過ぎず、時間はそのニ物間の関係自体の変化の成り行きを全体として保証する猶予であるとしても、時間そのものはある意味ではそういう風に事後的に反省意識の下で想起したり、過去事実化したりしているからこそ認められるだけで、そこにそういう一連の「流れ」があったということはただ単に幻想であるかも知れない。時間が流れではないという考えは大森荘蔵や中島義道が主張してきていることだから、ここでは繰り返さない。
 私が敢えて哲学的な「私にとって」を排除したもう一つの理由は外在主義的に捉えたかったらである。では内在主義的にはどのように捉えられるのだろうか?
 私は私という意識を常に今である行為の最中であり、思惟の最中である私によって保持されつつ認めている。そして常に今でありながら、刻々とその今が過去に後退しているように感じられるのは、さっきまで食事していた自分の姿が想起においてしか認められないという事実をもって、ほんの少し前での過去の私は食事していたが、今はワードで文字を入力し、保存しようとしているということを私が知るからであり、そこに一つの断絶を読み取っているからである。今ではないあの時の私、過去ではない今の私という比較を生じさせる事態全体を通して、その全体を経験している同一の人格として私は「変化しない」・「私の世界」として認めている。つまり私の中の変化とは「変化しない」・「私の世界」を前提している。
 私にとって他者であるのは、ある意味では人格を持った存在者だけではなく、過去における「私」も含めた今ではない「私の世界」の中の「私の世界であった」ことにおける全てである。過去の事実とは記憶しているのだから、「私の世界」において経験したことである筈だ。そして記憶しているからこそ想起し得るのだ。私が想起において確認し得る全ても私にとって他者であるが、現在知覚において確認出来るものもまた私にとって他者である。そして今知覚し得るものとして不在であるものもまた不在という形で想起、表象し得る他者である。そしてこれら他者は全て変化し得るのだという私の目測がある。
 しかし私にとって親しい友人といった他者たち、つまり頻繁に会うことの出来る人たちや、私にとって身近な事物などはその変化というものを容易に察知することが出来ない。しかしある時ふとそれらの過去における姿を想起すると、以前とは変わってしまったと認められることがあるとしたら、そういう想起とは、例えば久し振りに会う知人が以前と随分変わったという印象を持った時に、我々はいつも接している他者や事物のことを思い返す、するとそこに歴然として変化を認めざるを得ないこととなるというわけである。
 そしてそういう風に私の周囲の身近な他者や事物の変化を認めざるを得なくなると、今度は必然的にそういう「私の世界」の登場人物や大道具、小道具であるものなどが、「「私の世界」の中の私が変わってしまった」(「私の世界」であったものの中の「私」が変わってしまった)という事実へと私を突きつける。つまり私の周囲の他者や事物が、見慣れたものであるために気づくことがなかったが、ある時ふとその変化に眼を転じると、途端にその変化を認めた「私」もまた「変わってしまった」と気づくというわけである。
 しかし不思議なことに「あいつは変わった」とか「彼女変わったよね」と言うことはあっても、「俺は変わった」と言うことは決意表明、つまりパフォマティヴな言辞以外では殆どないと言ってよい。これは何故なのだろうか?  もし誰かにそう言うとしても、それは前後の文脈で、ある考え方について会話しているという状況全体の中から「<それについての考え方において>俺は変わった」とか言い得るのであって、あくまで自分自身の全体の変化、例えば年老いて皺が顔に多くなったとか、白髪が増えたとか背が縮んだというような場合以外で「俺は変わった」とか「私は変わった」と他者に告げることはない様に思われる。それは何故だろうか?
 それは自分というものに関する説話という秩序において、我々は自分を客観的に認識することなど出来ないという不文律が一人称的言辞において、少なくとも具体的な指示、例えば背丈とか、考え方とかが与えられていない時に、そのように他者に自分の変化を告げることが、ある種の羞恥を催すような私的言語禁止的規約が暗黙の内に張り巡らされているということは言えるかも知れない。このことについては後章において詳しく考察してみようと思う。

Thursday, May 31, 2012

時間・空間・偶然・必然_意識という名のミーム<科学で切る哲学、哲学で切る科学> 9、完全性という理想と不完全性からの出発

 空間というものは、私たちにとってある意味では完全に何か物体がそこにあり、その物体と私たちとの関係において世界を認識する端緒とするような場でなくてはならないということは粗方理解出来た。しかし空間そのものに内在する何らかの不可知の質とか、空間そのものの限界というものを我々が知らない以上、我々はこう考えることが出来たのだ。空間であれ、時間であれその本質を見極めることの出来る完全者というものが存在してもよい筈だ、と。しかしそのような存在は思念上では設定可能だが、立証不可能である。しかしだからこそそれは実在的な垢に塗れていないある種の崇高さと輝きを精神的に失ってはいないものとして我々は心の奥底に感じることが出来る。それは芸術の内的なモティーフであり続け、精神の拠り所であり続けてきたものである。それを神という名で代表させてきたとしたら、神という概念への認識は理解可能なものとなるだろう。
 その点で最も人間と神の関わり方を積極的に追求した哲学者としてフォイエルバッハを考えることが出来る。ルドウィッヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ(1804~1872)、刑法学者のアンゼルムの息子(四男)である。
 まずこの哲学者の考えを見据えながら、人間にとっての神という永遠性、絶対的理想とは一体何なのかということを掘り下げ、7で扱ったアンリ哲学との接点も見出し、考えていってみよう。
 「キリスト教の本質・上」(船山信一訳、岩波文庫)からまず幾つか抜粋してみよう。最初に示したいのは、第一部<宗教の真実な本質_すなわち宗教の人間学的本質>中第三章の<悟性の本質としての神>の初頭、彼はこう始めている。(103ページより)  
 宗教は人間が自己自身と分裂するということである。すなわち人間は〔宗教においては〕、自己(人間)に対立した存在者としての神を自己に対置させる。神の本性は人間の本性ではなく、人間の本性は神の本性ではない。神は無限な存在者であり、人間は有限な存在者である。神は完全であり、人間は不完全である。神は永遠であり、人間は一時的である。神は全能であり、人間は非力である。神は神聖であり、人間は罪深い。神と人間は両極である。神は端的に肯定的なものでありあらゆる実在性の総体であり、人間は端的に否定的なものでありあらゆる虚無性の総体である。
 しかし<人間は宗教のなかで自分自身のかくれた本質を対象化する。したがって、宗教は神と人間の対立葛藤から始まるのであるが、その対立葛藤は人間と人間自身との葛藤である、ということが明示されなければならない>。(<>管理人選択=重要箇所)
 この箇所から重要であると思われるのは圧倒的に最後の三行である。ある意味ではここにフォイエルバッハの本テクストの全てが集約されていると言ってもよい。
 つまり冒頭の文章の全ては最後の三行のために書かれている。
 そしてフォイエルバッハは決してニヒリストではないし、また原罪告発論者でもない。それは例えばこの文章に至るまでの緒論における次の箇所における記述からも明らかである。(98ページより)
 <人間は自分の本質を対象化し、そして次に再び自己を、このように対象化され主体や人格へ転化された存在者(本質)の対象にする。これが宗教の秘密である。人間は自己を思惟し自己にとって対象である>。しかし人間が自己にとって対象であるのは対象の対象_他の存在者の対象_としてである。今の場合も事情は同じことである。すなわちここでは人間は神の対象である。人間が善であるか、それとも悪であるか_それは神にとってどうでもよいことではない。いや、神は人間が善であることに対して生き生きとした真摯な関心をもっているのである。神は人間が善であり且つ浄福であることを欲する。なぜかといえば慈愛(善)がなければまた浄福もないからである。したがって信心深い人間は、人間の活動の虚無性を再び次のことによって取り消す。すなわち、人間が自分の心術と行為とを神の対象とし、人間を神の目的_なぜかといえば精神において対象であるものは行動においては目的であるからである_として、神の活動を人間の救いの手段にすることによってである。神が活動するのは人間が善になり且つ浄福になるためである。こうして、人間は外見上は最も神のなかで且つ神を通してもっぱら自分自身を目的としている。たしかに人間は神を目的にしている。しかし神は人間の永遠な道徳的救い以外の何物も目的としていないのである。したがって人間はもっぱら自分自身を目的としているのである。神の活動は人間の活動から区別されない。(<>管理人選択=重要箇所)
 フォイエルバッハのテクストは全体を通読しなければその哲学的本質の全てが直ちには了解出来ないようなタイプのものではなく、寧ろ最初から結論を積極的に示しつつ、逆に章を追うに従って微細に分析してゆくようなタイプのものである。従って彼が無神論者であるということも緒論の最後に既に示されている。(この部分は未だテクスト全体の五分の一くらいの箇所である。)
 要するに彼は神の本質とは人間の本質に他ならないという哲学認識を絶えず反復しているのである。そのような部分での主張が例えばマルクスやエンゲルスに啓示を与えたり、恐らくそれ以後もキルケゴール、ニーチェ、ハイデッガー、サルトル等にも影響を与えたりしたのではないかと察せられる。例えば記述順は前後するが、彼が労働の概念と時間の概念に触れた部分は、第一部<宗教の真実な本質_すなわち宗教の人間学的本質>中第三章の<悟性の本質としての神>の中盤に登場する。(110~111ページより)
 形而上学的存在者としての神は自己自身のなかで満足している知性である。またはむしろ逆に、自己自身のなかで満足している知性・自己を絶対的存在者として思惟する知性が形而上学的存在者としての神である。それ故に、神のすべての形而上学的な規定であるのは、ただそれらが思惟規定として認識され、知性や悟性やの規定として認識されるときだけである。
 悟性は「原本的原初的な」存在者である。悟性は万物の第一原因としての神から引き出す。悟性は悟性的な原因がなければ世界は意味も目的ももたない偶然にゆだねられているのを見いだすのである。また悟性はただ自己_自分の本質_のなかにだけ世界の根底と目的とを見いだすのである。また悟性は、ただ世界の現存在をすべての明晰で判明な概念の源泉から_すなわち悟性自身から_説明するときだけ、世界の現存在が明晰で判明なことを見いだすのである。悟性にとっては、ただ意図をもって且つ目的にしたがって_すなわち<悟性をもって_働く存在者だけが、直接に自己自身によって明晰で確実な存在者であり、自己自身によって基礎づけられた真実の存在者である。>それ故に、それ自身はなんらの意図ももたない存在者は、自分の現存在の根底を他の_そしてもとより悟性的な_存在者のなかにもたなければならない。そして、こうしてつまり悟性は自分の本質の根源的な事象としての存在者・第一の存在者・世界に先行している存在者として措定する。すなわち<悟性は、順位からいっては自然の第一の本質ではあるが、しかし時間からいっては自然の最後の本質である自己(悟性)を、時間からいってもまた最初の本質(存在者)にするのである。>(<>管理人選択=重要箇所)  
 ここでも最後の三行が最も重要である。ここにフォイエルバッハの時間論の本質も浮かび上がる。そしてこの考えは次の一節を考慮して再び考え直すと更によく理解することが出来る。(108ページ)
 神とは自己を最高の本質(存在者)としていいあらわす理性であり、自己を最高の本質(存在者)として肯定する理性である。<想像にとっては理性は神の啓示そのものもまたは神の一つの啓示である。しかし理性にとっては神が理性の啓示(顕示)である。>なぜかといえば、理性が何であり理性に何ができるかは、神のなかで始めて対象となるからである。
 つまり神が我々によって要請されるのは、神が理性を司ると我々が考えるからなのだ。そしてそれは先の引用のおける浄福が慈愛の所持によって可能となるような人間の人間による能力に対する信頼によってなされている信念であるということである。そして空想や想像を下位に置くフォイエルバッハによれば、想像するという現実に対する認知こそが、我々を想像に耽ることを戒める理性の存在を想起させ、一旦取り戻した理性において、我々はそこに神を見いだすという仕組みである。そしてその仕組みを見いだすことが行動となり、行動規範としての倫理となり、それが働く存在者であり、その働く存在者の生の現実こそが実存であるという認識へと至るのだ。ここにマルクス以降の経済学、社会学、哲学に対して啓示を与えた彼の本質が浮かび上がる。
 しかし恐らく彼の哲学はそういった後代への啓示性そのものにあるのではなく、やはり彼独自の論理的メカニズムにあると私は思う。
 例えば現代人というのは彼が悟性の本質であるとする法則、必然性、規則、尺度といったもの(107ページより)を自然全体の、あるいは世界的現実全体のほんの一部である、という直観をどこかで拭い去ることが不可能なのではないだろうか?それら悟性とは要するに我々に「そうであってほしいこと」のシンボルである。しかしそういったシンボルとは我々にとって実現可能な極めて限定された範囲の日常的現実でしかないことを知っている。
 例えば彼が最初に私が示した引用において言っているように人間は有限である。即ち人生はいつか終わる。そして我々は私たち一個の人生が終われば、全てが、つまり私にとっての世界が終わることを知りつつ、「世界」そのものは私の死をもってもびくともしないことをどこかで薄々知ってもいる。
 だからこそ不死とは最大の願望であり、神は不死であるという一事をもって最大のシンボルである。しかしそこで7で私が示したアンリの苦悩の問題へと関連づけられる。
 つまりアンリが人性と神性が分離することの苦悩をフォイエルバッハも既に注目していた。アンリの苦悩、つまり神性と人性の一致に対する願望と、その論理的矛盾に関してフォイエルバッハは次のように示している。(106ページより)
 哲学・数学・天文学・物理学_かんたんにいえば<学問一般_は、真実に無限で神的な活動であるから、この活動を事実によって証明しているものである。それ故に宗教的な神人同形説もまた悟性に矛盾する。悟性は神に関して神人同形説を認めず、それを否認する。しかしこのように神人同形説から解放されたところの容赦しない無感動な神は、まさに悟性自身の対象的な本質以外の何物でもない。>(<>管理人選択=重要箇所)
 つまり彼は神人同形説をまず悟性の側から否定する。しかし同時に悟性によるそういう判断に対する無頓着な信頼をも続けて否定するのだ。ここに彼の言いたいことの本質が 横たわっている。
 そしてこれはある意味ではアンリの苦悩の出発ではあるものの、結論ではない。つまりアンリの苦悩の根拠をフォイエルバッハは示しているが、彼はアンリと反対に無神論を貫くのである。だからこそ彼はまず神は人間と同形ではないという人間の論理を悟性の側から人間の願望よりも優先し(その仕方はカントが道徳的法則に基づいた理性的判断を個人の格律よりも上位に置くその仕方を彷彿させる)、その宗教的願望の虚妄を告発するのだ。しかしその告発はいささか人間学的にはゾンビと現代哲学者たちが表現するものに近づくというアポリアを示し、論理的悟性と、人間学的認識を区別する必要性を主張する。ここに哲学的苦渋の決断を読み取ることが出来る。
 つまり人間はアンリが「顕現の本質」(和訳では「現出の本質」として法政大学出版局において刊行されている)で主観以前に客観的認識が先行するという他性認識的存在者であるところの人間とは、<完全という人間にとっての他者>を願望的理想としつつ、その理想に程遠い存在として自己を認識し、行動する際に悟性を利用するというわけである。つまり人間は完全性への果てしない希求者であると同時に、それ故にこそ不完全性から出発することを余儀なくされ、即ち不完全者として行動することを運命づけられているのである。そしてそれを遂行することが出来るのは我々による我々内部に巣食う理性、つまり神の声なのである。ここにフォイエルバッハの主張のカント、ヘーゲルからの継承を読み解くことも出来る。
 しかしこのことは一面では哲学において他の動物をはじめとする生物全般を人間と人間以外の全てというカルテジアン認識を持つ哲学者全般に対して、一つの訓示を与える。それは「人間は自分で思うほど高尚ではなく罪深い」が、同時にフォイエルバッハはその事実を真摯に受け留め、決してニヒリズムには陥らせないのである。罪深いが、同時に人間には神になる瞬間があるということをフォイエルバッハは信じてもいる。つまり常に神ではいられないものの、人間が人間に対する興味において神を炙りだしたように人間は幾分確かに彼の言うように罪深いが、同時にキリスト教の原罪という観念に埋没することを批判しつつ、人間学的な人間の向上可能性に期待しているのである。そこに現世宗教的教義に対する批判と同時に神へと志向する思念上での人間の運命を本質宗教(そうであるべき宗教)というイデアに対する肯定を読み取ることが可能である。
 本節以降もたびたびフォイエルバッハとアンリ、そして更にポール・リクールのテクストを参考にしながら、論を進めていきたい。そして再び次節では時間論に踏み込むことになる。