Saturday, June 9, 2012
時間・空間・偶然・必然_意識という名のミーム<科学で切る哲学、哲学で切る科学> 11、男と女の対話術
男と女とはその持っている人生観やら、生活観、或いは価値観にやはり大きな違いというものがある。それは男女同権となり、男女雇用機会均等法といったものが成立して、大分たつ今日においても変わりない。それは生命が誕生してから三十億年の間に有性生殖というものが成立する過程、あるいは雄と雌という区別がついてからの全ての道のりの歴史を示しているようで興味が尽きない。
まず男と女とでは時間の使い方(引いては時間感覚全般、そして人生全体)に関する価値観に大幅な違いというものがある。女性は男性よりは確実に何かのためになす時間という観念が強い。例えば休日に夫が上司とゴルフに出掛けるとしたら、それは夫が出世するための方便であると考えるだろうし、息子が受験勉強をしているのは、将来いい会社やいい政府機関とか大学で働くことが出来るようになるためという題目をそこに見出している。そしてその癖学生時代の友達と一緒にコンサートや美術展に出掛ける時には、そういう題目などそっちのけである。
かなり若い頃からそういう男に対しては要するに自分にいい子孫を授けてくれるための存在、そして夫となる男性とはそのためにいい稼ぎと、いい生活を保証してくれるということが第一条件であるということは、一部の例外的に生活力のある女性を除き、大半の実像である。つまり女性という存在はその一部の例外であっても、その大半の女性の気持ちを理解出来る、そういう存在なのである。
ところで日本語というものは多くの学者たち、作家たちが言っているように、本音を包み隠すそういう言語である。例えば卑近な例として勃起という語彙を広辞苑で調べてみよう。「にわかにむくむくとおこりたつこと。ふるいおこること」とあるが、通常我々は政変とか暴動が起きた時、勃発となら言うが、勃起とは絶対に言わない。私がもしこのような辞書の編集委員であるなら、次のように勃起を定義するだろう。
「男女が性行為に臨む時に、性的興奮に伴い生殖器が直立し、硬くなること。並びにそのような性的ニュアンスのあることを想像した時に男女の生殖器に起こる同様の現象。」
これなら理解出来よう。しかしこの「にわかにむくむくとおこりたつこと。ふるいおこること」という説明では、実際のところまだ勃起という意味を知らない少年少女がこの記述を見たら、きっと性的なこと以外のことでも使用するに違いない(例えば夜中に悪夢からふと眼が覚めて突如起き上がる時、我々が勃起するなどと言わないだろう。しかし広辞苑のこの説明ではそう使用する少年がいたとしても仕方ないと言えはしないか?)。このようなオブラートに包んだ表現を採用しているということは、あまりにも下品な連想をこの語彙を調べる者に喚起しないための作為なのだろうが、要するに「知っていることなのだから、暗に示すことでそちらが勝手に理解せよ」という意図によってこのような曖昧な規定を設けているのである。しかしこれは純真で無垢な、しかも日本語を正確に理解したいという幼少の少年少女たちに対しては失礼千万なことである。私はこの記述を直ちに改訂すべきであると主張したい。このような記述は真剣に真実を知りたいと願う若年の子どもたちに対する愚弄であると同時に、大人が読んでも快い説明ではない。そもそも性行為をこのような形で隠蔽することそのものが猥雑である。しかも無思想、無哲学的に猥雑なのだ。どうせやるなら、もっと本格的に猥雑にやれと言いたい(中島義道氏に私も似てきた)。
要するに建前をしっかりと掴み、その建前に沿ってそつなくこなすということが社会では求められており、それに対応しなくてはならないという観念が定着しているからこそ、本音を言うことを慎むことが社会に蔓延し、その社会通念につき従うことを率先して男たちに訓育することが女性の嗜みであると躾けられているということを誇りとすることが日本では極めて常套的な女性のあり方であり、そのあり方に賛同する男性も決めて多い。しかしそれは一定の男性の社会的地位が保証されての話であり、そういう男性を配偶者としてキャッチすることがまず至上命題であるところの女性の倫理的な価値規範とは、性とは要するに子孫繁栄のためのものであり、パートナーである男性の行動においてたとえ愛人を作ったとしても、本音では自分さえ真剣に愛してくれれば、それでいいという観念にも近く、男性よりも女性に強いということは社会生物学者が証明していると言う。
ジョン・オルコックという昆虫を中心に研究する動物行動生物学者でハーバード大学教授である彼の論文を長谷川真理子氏が翻訳している次の箇所は極めて興味深いものがあるので、少々長いが、そのまま掲載しよう。(「社会生物学の勝利」新曜社刊、114~119ページより)
適応論的仮説の、もっとも挑戦的な比較法による検証こそが、社会生物学者が通常使っている方法である。それは、まったく近縁関係にない種どうしが、繁殖成功にたちはだかる似たような環境的障害に立ち向かったとき、機能的に同じような解決策を進化させるだろうという予測である。たとえば、社会生物学者の中には、現代の人間において、結婚外の性的関係を持つ男性が存在するのは、過去の進化的歴史において、そのような性質が有利であったからだと論じている学者がいる。この究極的仮説は、ヒトという種は、男性が自分の子どもと思われる子どもに、いろいろな資源を与えたり保護したりするという、哺乳類としてはきわめて稀な性質を備えているという認識のうえに立つものだ。いったんこのような形質が進化すると、他の男性の妻を妊娠させ、その女性の夫が与える父親としての世話を搾取することのできた男性は、ある特定の条件下で、ペア形成している女性と婚外交渉する動機づけを持たない男性よりも、繁殖成功度が高かったにちがいないと考えられる。他の男性の妻によって子を得た男性は、だまされている夫に子どもの世話をさせることにより、自分自身が父親としての投資をまったくすることなく子どもを生産できるのである。
男性は、受精する女性の数を増やすことにより、自分の遺伝子を持つ子どもの数を増やすことができるのだが、夫または社会的なパートナー以外の男性と性交渉を持つ女性は、相手の男性と同じような適応度上の利益を得ることはできない。男性とは対照的に、女性が不倫をしても、自分の持つ子どもの数は上昇しない。そこで、不倫をする女性が遺伝的利益を得るとすれば、それは、配偶相手の数ではなくて、質の向上を通してであろう。それゆえ、つがい外交尾の進化的分析によれば、男性と女性の行動の究極的意味合いは非常に異なるはずである。男性にとっては、それは、他の男性の父親としての世話を搾取することなのであるが、女性にとっては、それは男性のパートナーを、よりよい資源を持った相手と取り替えるチャンスを得ることなのである。
ヒトにおける婚外性交渉に関する社会生物学の仮説を検証する方法はいくつもある。たとえば、今ここに示した仮説からは、結婚している女性が産んだ子どもの何割かは、夫以外の男性の子どもであるだろうという予測が立てられるが、それは真実だからである。その数字は、調査された社会によって、1パーセントから25パーセント以上までまたがっている。たとえば、トリニダッドのある村で10年間に生まれた子どものうちの16.4パーセントは、母親の夫または社会的なパートナーの男性の子どもではなかったのである。
婚外性交渉の結果できた子どもが、父親以外の男性によって知らず知らずのうちに世話されるのならば、社会生物学的な視点によれば、結婚している男性は世界中どこでも、だまされる危険に対して非常に敏感であると考えられる。現代のような親子鑑定技術ができる前には、女性が産んだ子どもは確実に自分の子どもであるのに対して、男性が、自分の妻が産んだ子どもが100パーセント自分の子どもであるという確信を持つ方法はなかった。両性間にこのような生物学的差異があることから、マーティン・デイリーと彼の協同研究者たちは、性的嫉妬の性質について、次のような検証可能な予測を立てたのである。すなわち、「女性は、自分の相手が注意と資源をどのように配分するかに対して嫉妬するが、男性と同じようには、相手の性的誠実さに対してとくにこだわらないものと考えられる」。デイリーとその仲間たちは、この予測を支持する広範囲の通文化的データを集めたが、その中には、男性が配偶者を殺すときには、妻の不実(または、男性の想像上での不実)が原因であることが多いという情報も含まれている。
デイリーのチームが性的嫉妬について分析したのに続いて、社会心理学者たちが、自分のパートナーの想像上の不貞に対する男性と女性の感情的反応がどんなものであるかという報告に基づいて、このような進化的仮説の検証を行った。少なくとも三つの異なる文化において、予測どおり、男性の、自分のパートナーが他の女性と性交渉を持っているという考えに対するそれよりも、強いことが示された。たとえば、最近行った同様の研究では、スウェーデンの学生に対して二つの異なるシナリオを提示し、一方は、自分のパートナーが他人とセックスしているところを想像するというもので、もう一方は、自分のパートナーが、他人と熱烈な恋に落ちるところを想像するというものである。男子学生のおよそ60パーセントが、セックスのシナリオのほうに強く怒りを感じると答えたのに対し、女子学生のおよそ60パーセントが、感情的不貞の方に強く怒りを感じると答えたのであった。スウェーデンという国は、性的に平等な社会を持っており、婚外性交渉に対して比較的寛容な態度を持っているのにもかかわらず、このような性差が表れたのである。
進化的な意味において、婚外性交渉が適応的であったか、または今でもそうであるかどうか、という疑問に立ち返り、これを女性の観点から検討してみよう。女性の不倫が過去の自然淘汰によって進化したのであれば、今日、ペアを形成している女性は、ペア外交尾の相手を選ぶにあたって非常に選択的であり、現在の夫または社会的パートナーよりも、財産や権力を多く持つ男性を選んでいるはずだと予測できるだろう。さまざまな文化において、女性が夫と離婚しようとする原因は、夫が、自分および子どもたちに十分な経済的支援を与えることができないときだという事実は、この予測を間接的に支持するものである。経済的理由で夫と離婚する女性は、自分の人生のくじを引きなおして向上させようとしているのであり、そのためには、伝統的な社会においては、以前の夫よりも多くの資源を持っていたり、もっと多くの資源をこちらに向けたりする気のある男性を、新しい夫として獲得する以外になかっただろう。次の夫がいないのに離婚しても、女性の遺伝的成功はほとんど向上しなかっただろう。
この点、現在の私たちの社会で、「結婚している」女性が不倫をするときには、相手の男性は、身体的に対称性の高い男性であることが多いのである。男性のからだの対称性が遺伝するという証拠は存在する。さらに、男性のからだの対称性は、体重と社会的順位と相関しており、それらはまた、その男性がパートナーに与えることのできる資源や物理的保護とも相関しているに違いないが、嫉妬に取り付かれた男性が暴力を振るう傾向があることを考えれば、これは重要な要因である。言い換えれば、婚外性交渉の相手を探している女性は、よりよい資源が得られるような性的選択をする一方で、怒ったもとの配偶者による暴力から身を守ろうとしているようである。もしも、不倫関係を持っている女性が一般的に、現在の配偶者よりも多くの資源を持っていたり、社会的地位が高かったりする相手と関係を持っているのではないことが発見されれば、私たちは、この仮説を棄却してもよいだろう。ここでもまた、社会生物学の仮説は、原理的に反証可能であることがわかる。
さらにまた、ヒトの婚外性交渉が適応的であるという仮説は、比較法を用いても検証することができる。ヒトにおいて婚外性交渉が起こさせるのと同様の淘汰圧が働いていれば、私たちとは近縁関係にない生物でも独立に婚外交渉を生じるはずだという論理である。たとえば、男性が婚外性交渉をする潜在的適応性は、他の男性による子の世話をどれほど搾取できるかにかかっているので、ヒトとは近縁関係になくても、雄が子の世話をする動物では、ライバル雄のつれあいと交尾しようとする雄がいるはずだと予測できる。すでに述べたように、多くの鳥類では、雄は、巣を作ったり、抱卵したり、ヒナに餌をやったり、ヒナが巣立ったあとも彼らを保護したりして、親としての投資をたくさん行う。ごく最近まで、このような配偶システムを持った鳥たちは厳格に一夫一婦だと思われていたが、実際には、婚外性交渉の頻度も高く、巣の中に父親の異なるヒナが混ざっている場合が非常に多いことがわかった。鳴禽類では、子どもたちの30パーセント、いや50パーセントもが、その雄の社会的つれあい以外の雄の子である場合が知られている。ヒトの男性と同じく、鳥の雄も他の雄とつがいになっている雌と交尾するということは、ヒトの男性に起こるこの行動は適応であるという説、つまり、他の雄による子の世話を搾取することができるという「適切な」社会環境が整ったときには、不倫に相当する行動が進化するという仮説を支持している。
同様にして、婚外性交渉を持つ女性は、自分の遺伝子を持つ子どもの数を増やそうとしているのではなく、子どもが生存して高い繁殖成功度を持つ確率を上げようとしているのだという仮説も、比較法で確かめることができる。社会的なつれあい以外の雄と交尾する「一夫一婦」の鳴禽の雌は、彼女らが産む卵の数が増えることはないだろう。しかし、すでに述べたように、彼女らは、つがい外交尾相手の雄から、対捕食者防衛の援助を得たり、彼らのなわばりの中で餌をとってヒナに与えたりすることができる。さらに、つがい外交尾は、以前のつがい関係を解消し、新しい関係を築くための始まりであるかもしれない。フランスの二人の鳥類学者が、多くの種において、婚外性交渉の率とを比較したところ、そこには有意な正の相関が見られたのである。そして、鳥の雌がもとのつれあいを捨てて新しいパートナーと一緒になったときには、より社会的地位の高い雄とペアになったのだが、鳴禽類においても人類と同様、社会的地位が高い雄のほうがよりよい資源をもっているのである。
つまり淘汰圧が同じであれば、非常に異なる生物間に行動の収斂が起こるので、比較法を上手に使えば、ある形質が特定の適応であるという仮説を検証することができる。さらに、社会生物学者は、自分たちの適応的仮説を検証するために、いくつもの強力な方法を手にしており、つねにそれらを駆使して、それらの検証を耐えない仮説は捨て、耐えうる仮説は保持しているのである。(引用終わり)
要するに男は異性である女性が性的パートナーである場合、彼女の不貞とは精神的に愛し合うことよりも肉体関係を持つことの方に非を認め、例えば離婚のきっかけとなるが、そこまで行かないでいるのなら、もしこれから悔い改めるのならば、つまり相手のことを忘れることが可能であるのなら大目に見ようということであるのに対して、女性は逆に男性であるパートナーが一夜だけの不貞を働いたとしても、その相手と精神的に繋がっているのでなければ大目に見る。と言うことは、逆のケース、つまり男性が相手の女性が精神的に愛していなくても肉体関係を持ったことを離婚申し立ての第一の理由とし、女性は相手の男性が別の女性と心底愛し合っている間柄である場合そういう理由とすることが多いということをこの調査報告は物語っている。
このことと関係があるのではないかということで中島義道氏が「生きにくい···私は哲学病」において、「なぜ女の哲学者はいないのか」において次のように述べている。これも長いが全文掲載しておこう。
少年時代を振り返ってみると、野球をはじめありとあらゆるスポーツはできなかったし、喧嘩向きの体力は最低で、男の子らしさは無限に低かったようでもあるが、いやそうでもなかった、とこのごろ思い直している。私は『昆虫の図鑑』『天文の図鑑』『交通の図鑑』などが暗記するほど読み返していたし、顕微鏡を覗き込んだり、プラネタリウムが大好きだったり、網や捕虫箱やホルマリンや虫ピンなど昆虫採集の道具を揃えて蝶やトンボを捕るのも好きだった。大豆を二ヶ月にわたって克明に観察しそれを記録したり、長大な世界史年表を夜を徹して作り、何時間も世界地図を見て飽きることはなく、自分で色とりどりの仮想地図を描いたりしていた。東京タワーや大阪城の模型を作ったり、明日はボール紙で動くロボットを作ろうと考えて夜も眠れなかった。
つまり、一見ヒヨワだった自分の少年時代が意外に輝いているのをなつかしく思い出し、こうした行動を重ねた自分はとても男らしかったと再確認するのである。というのも、昆虫採集にわれを忘れる女の子はあまりいないようだし、世界中の国の人口密度や特急列車の時速をすべて暗記してしまう女の子もいないようだ。私の周囲には頭脳明晰な女性たちがたくさんいるが、今なおそういう少女時代を過ごした女性にお目にかかったことがない。
そしてそういう少年がそのまま哲学少年になった。今度は、世界が「ある」こと、時間が「ある」ことが、私が「ある」ことが不可解でたまらない。同時に、少年時代からもちこたえてきた死ぬことがあらためて大きな問題としてクローズアップされてくる。世界が明日崩れてしまうのではないかと思うほど不安である。こういう抽象的な不安感をもって乙女時代を過ごす女性たちもあまり見当たらない。革命に身を投じる女性たちはずいぶん見てきた。ばりばりの社会的行動派も少なくない。精神的不安を抱え悩みつつ生きている女性たちも多い。彼女たちは過食症や拒食症に陥り、あるいは自傷行為を繰り返す。だが、だからといって「独我論」や「超越論的観念論」(これはわからなくて結構です)にはまってしまう女性、つまり「哲学病」に罹ってしまう女性はいないのだ。
これは私の経験に限らない。東西古今の哲学者を見渡すに、たしかにそこは純粋に男の世界である。ここは慎重に言わねばならないが、美学や心理学や歴史学や言語学に近い分野を含めて哲学と広くとれば、女性たちもちらほら見かける。私が言いたいのは、存在論や時間論や自我論や認識論など、哲学の核心部分となると女性は文字通り皆無だということである。
どうも哲学というと高級だという観念をもつ人が多くていけない。だから、女性に哲学者がいないと言うと、本気で怒る(とくに知的な)女性が少なくない。だが、哲学は下品なものなのだ。ワイセツなものなのだ。それは、生物としての人間にとっては随分不自然な営みである。一つのわかりやすい説明を。電車の中で男の尻をさする女性は皆無ではないがきわめて少ない。男のパンツを盗む女性も少ない。男子用トイレにカメラを仕掛ける女性もあまりいない。男の前で突然性器を露出して快感を覚える女性もまずいない。(これはある場面ではかなりいると私は思う。管理人注加入)男以上に残忍な女性権力者が史上少なかったにもかかわらず、いまだ何百人の男たちを「蓄えておく」ハーレムを造営した女帝を知らない。(アマゾネスはどうだったのだろうか?管理人注加入)つまり、女性は現実的な性にしか興味がなく、総体としての「生身の」男にしか興味がなく、またそのつど一人の男にしか興味がないようなのだ。
以上のことは重要なヒントを与えてくれる。哲学がワイセツに思われる(これは私の実感である)秘密もこの辺りにあるのかもしれない。生殖を伴う(そして、愛を伴う)性行為から離れれば離れるほどワイセツな感じがつきまとう。それは、無用という感じと至近距離にある(だから、人間以外のいかなる動物もワイセツではない)。男が排泄するシーンに興奮を覚える女性はほとんどいない(そういうポルノ動画はよく見かけるが、それすら男性の観賞用に敢えて演出しているのかも知れない。管理人注加入)ように、哲学する女性はほとんどいない、逆を言えば、女性たちはこういうワイセツ行為に欲求を覚えないように、哲学に欲求を覚えないのだ。
21世紀、女性たちはさまざまな分野に進出するであろう。女性たちは、もともと体力はあるのだから、宇宙飛行士や極地探検家あるいはボクサーやレーサーなど肉体の冒険者が激増しても不思議はない。しかし哲学者という名の知的冒険者は増えないのではないか。どんなに女性の時代になっても、哲学だけは女性たちが近づきえない男の「聖域」としてブラックホールのように残るのではないか。そして、それでいいのである。女性の哲学者が輩出する時代、それは男たちが電車の中で頻繁に女性から痴漢される時代であり、男たちのパンツがたえず女性に盗まれる時代であり、男たちのズボンの中にいたるところで女性に盗撮される時代である。つまり、女たちがワイセツになる時代である。読者諸賢はそういう時代の到来を望みますか。(128~131ページ、角川文庫版より)
中島氏は自分で自分のことを「好き勝手なことを言う男」である自認し、「人生を<半分>降りる」で著者名の上に副名としてそう記述している。
結局実際の歴史上女性の哲学者というのは数えるくらいしかいない。アンスコム、ハンナ・アーレント、シモーヌ・ド・ヴォーボワールそれ以外に純粋哲学であると言うよりは、社会性の強い言及者たちとして敢えて哲学的であるとしてジュリア・クリテヴァ、アンドレア・ドウォーキン、スーザン・ソンタグ、ジュディス・バトラー、サラ・サリーを加えられるといったところだろうか?
これには理由があるのだろうと思う。
つまり女性は優秀な子孫を自らの胎盤を使って、そして限られた卵子を使って残す必要があるので、必然的に子供っぽくて真面目な男性よりも、大人っぽくて不良っぽい男性により惹かれる。しかし一旦その男性を手中に収めれば、それ以外に浮気する必要がない。だから浮気に走る女性とは、端的に今現在夫である男性に対して物足りなさを本能的に感じ取っているということである。経済力、包容力、いざという時の頼りなさに対する直観。大人っぽい包容力があって、経済力があっても、勿論子供っぽさというものは魅力ある男性には必ずあるものだが、それはいざとなったら、自分を守ってくれるような大人っぽさの中になくてはならないのだ。これが最低限女性の側から男性に許容される子供っぽさなのである。そして自分を大事にするということは性的に愛するということと、性的に愛することを可能にする状況を構築出来る生活力と、経済力というものが兼ね備えられているということを意味するのだ。
だからこそそのように「一人立ち出来ないでいることを受け容れている女性」は、男性が常にそのような女性からの要求に突きつけられているという状況を社会的には経験することが少ないので、必然的に一人で真剣に人生全体のことで悩むということは少なくなるのではないだろうか?
例えば何か辛いことがあって、親友に相談する時、女性なら抱擁することがそれほどおかしいことではないが、男性の場合個人的な悩みを誰かの打ち明けたからと言って、その際に相手と抱擁し合ったり、そのようにして貰らったりということは稀だろうし、第一絵にならない。
かつて元ビートルズのジョージ・ハリスンが死の床にあった時、かつての僚友であるポール・マッカートニーとリンゴ・スターが駆けつけてきた時、二人はジョージの手を握り締めたとその後ポールが告白していたが、このように男性が死の床にある親しい友人の手を握り締めるようなケース以外で、男性同士が肌を接するということは少ないだろうし、ポールは「お前のことが好きだ」などと親しい間柄でも日常ではなかなか言えないものだとインタビューでそう語っていた(ジョージの最後にはそのような会話をしたのだそうだ)。
しかし女性なら恐らく男性よりはそういうことを言い合ったり、抱きしめ合ったりすることはそんなに稀ではないのだろうと私は思う(テレビドラマの見過ぎであると言われるかも知れないけれど)。それは異性にどのように見られているかということに関して、男性の方が情緒に流され難いと思われたい、いざという時に心強いと異性から思われたい、つまり抱擁を相手に求めるようには思われたくはないという無意識の選択と関係ありはしないだろうか?
だから確かに中島氏の主張されるように、反体制運動というような弱者から権力者に対するプロテスト的意図による行動をする女性(自爆テロを実行する人たちも含めて)は後を立たないが、本来異性からの要求に従って行動規範を構成する(これは生物学的にも雄は雌から選択されるというケースがその逆よりも圧倒的に多いということとも関係あるだろう)というニュアンスの希薄な女性は哲学的思惟には向かないのかも知れない(すると時々男性の性的要求にオープンな女性がいるが、そういうタイプの人は哲学的思惟に向いているのかも知れない)。
だから女性の中にも経済力があり、自分一人ででも生活してゆく力のある人は、経済力の面では多少男性を選ぶ規準からはずしてもよいと考えるかも知れないし、そういう場合は子供っぽさということも、許容される範囲が広がるが、いざとなったなら、やはり男性に守って貰いたいという欲求のない女性などこの世にはいないだろう。
女性は真面目であることを男性に大して求める美徳とするのは、あくまで自分中心のことでである。つまり自分を守ってくれる限りにおいて真面目であるべきであり、世の中全体の中で真面目であるということは、最低限職を失わないくらいに真面目なのでよいのであって、決して律儀であるとか、堅物であるというようなタイプ、しかも自分に対して決然としていない男性に対しては業を煮やすということの方が多いだろう。
だから大人っぽいという部分とは自分と子供の生活を守ってくれることにおいてであり、真面目であるということも家族を守るということにおいてであり、それ以外ではユーモアがあり、茶目っ気があるという意味では子供っぽいところがあってもよく、自分たちにとって必要な他人に対しては太っ腹であり、自分たちに被害を与えるような他者に対しては適度に不良っぽい必要があるのである。
このように女性は男性と違って性行為の結果としての妊娠→出産というプロセスにおいて男性よりも甚大な労苦と、長い時間拘束されることから、男性が女性に求める条件とは大分違っていると言うことが出来るだろう。男性が女性に求める包容力とは違って、女性が男性に求める包容力とは、対外的には攻撃力となり得るようなタイプの包容力である必要があるのである。これは普段はずぼらであっても、いざとなったら絶対自分の味方になってくれる可能性を読み取る直観に委ねられた異性に対する選択である。
だからいざという時には大人っぽい態度を採ってくれさえすれば、それ以外は子供っぽい方が楽しくていいということもあるだろう(女性は好きな男性のタイプに「話の面白い人」と言うことが多い)。しかしそれは第一次的欲望が充足している場合の必要条件であって、十分条件ではないだろう。つまり子どもっぽさとか話の面白さといったこととは欲望の第二次的なことであり、資本主義社会のマーケティング戦略としてはそちらにどの企業も重きを置いているだろうけれど、それ男性女性の商品選択の心裡行動としては成り立つが、潜在的に伴侶となり得る異性に求める要求ではないだろう。
ここまで読んでこられて読者の中には私が故意に社会生物学や、それに対する別の形での展開を目指す学問の話をしたりすることに対して痛烈な違和感を覚えられる方もおられることだろう。そういう方は純粋な哲学の指南書のようなものを本書に期待されたのではあるまいか?あるいは逆に科学的な実証性を求められてきた読者は哲学的な発言において、違和感を覚えられたかも知れないと私は思う。
しかし実際ここで私は示したいことというのはそのどちらでもないものなのだ。
哲学者である中島義道氏は学問、あるいは科学よりも哲学の方がしんどくて困難であると考えておられるが、そういう部分もあるが、そうでない部分もあるというのが私の意見である。例えば哲学は確かに科学には出来ない崇高な問いを限りなく問い詰めてゆくことが出来る。しかし哲学者もまた夜には電燈をつけ、読書するだろうし、欲しい本をインタネットで注文することがあるかも知れなし、大学で教える人は大学まで電車に乗って通っていることだろう。そして何より印刷技術があるからこそ哲学も宗教も世界的レヴェルで普及しているのである。つまり科学の恩恵を被っているのだ。もっと言えば科学を信頼しているのだ。あるいは哲学病患者というものは非哲学病患者によってその存在理由を与えられているのだし、カイン型人間というものはアベル型人間の存在によって自己の存在理由を与えられているのである。
つまり哲学者がどんなに足掻いても、科学の利便性がなくなりはしないし、それを全ての人間は利用する。そして科学者もアベル型とカイン型の人間が考える人もまた、人生について真剣に考えるし、哲学的な部分というものはあるのである。
私が社会生物学の考えを述べたりするのは、ある意味ではそれが社会的行動という観点から人間を考える際に役立つからである。そのように捉える仕方によって逆に社会行動というだけでは推し量れないようなレヴェルの人間の「心の問題」を掘り下げることが可能であるように私には思えるからなのである(社会生物学の限界についてはスーザン・ブッラクモアも書いているし、それをも考慮して再び後節においてそのことについては触れる)。
例えば人間とは一組の夫婦も、友人同士も、純粋に社会的存在であるだけではないだろう。社会という概念はただ人間をある一定の行為の目的性において捉える方便でしかない。例えば結婚生活も、恋人とか愛人関係というものもまた、社会的な目的のために作るものではない。子供を儲けることもまた大きな目的であるが、人間にとって夫婦生活とか、夫婦関係とか、恋人、愛人関係というものにおいてそういう現実はやはり部分である。だから逆に親子同士でさえ人間同士であるということである。
例えば一組の男女が真に理解し合えるということは、ある意味では男と女の性差を超えて人間同士として向き合う時である。確かに生物学的には男女の性差というものは歴然とある。しかし一組の男女がそういう性差を受け入れるのは個人の選択であると言うよりは、寧ろ社会通念とか、社会システムに順応しなくてはならないという生活上の利便性からであり、本音の部分では男も女のどちらかと言うと一個の独立した人間同士という側面の方がより大きいことだろう。だから大人っぽさとか子供っぽさとか、生真面目さとか不良っぽさとかいう価値基準など個人ごとに異なっているし、例えばいざという時に、のらりくらりしいているタイプの人間の方が難局を切り抜けることが出来るタイプかも知れないし、そういう時に深刻ぶるタイプよりも異性に求める理想としてはあり得ることかも知れない。それは逆に男が女に対して求める条件としてもあり得るかも知れない。
つまり社会生物学が与える一個のデータの羅列が示すことは、ある角度から見ればそういう見方も成り立つという真実について示唆するだけである。それを言うのなら、恐らく哲学もまた、科学では推し量れない部分に光を当てているということなのだから、相御互いである。私の考えるところ、科学者もまた恐らく一番関心があるのは、人間ではないだろうか?寧ろそうであるが故に彼らは人間を時として動物や、植物、微生物たちと等価な存在に態と人間を貶め、データ中心に考えようとするのである。しかしそこで出されたデータは各自データの出し方や、証明の仕方に個人差があり、それが科学者のパーソナリティとなっており、またそのパーソナリティ同士の突き合わせそのものは、学界がいかに人間に興味ある人たちで占められているかということを示すものでもある。ここでも孤立者、あるいは人間嫌いであることから生物学者になったようなタイプの人でも、人間社会の中に決然と「人間嫌い」として位置づけられるということから、社交家と同じ対人関係の渦の中にあると考えてもよいだろう。
だからこの節のタイトルである男女の対話術というものは実際にあるようでないものでもあるのだ。それは科学者たちが自分の論文の正当性を主張する時必ずしも決まった仕方というものがない以上、ただ「誰にでも理解出来ること」という幻想を信じているということ以外に何も信頼に足る共通のものなどないのだから、当然男と女もそこで交わされる会話とは、端的に相互に信頼し合える関係であるという幻想を排除したら身も蓋もなくなる。
それは言語使用という現実にも適用される。
世界には恐らく今現在存在するだけの数の言語としてのミームが存在する。そしてこれまでも多くの言語が消滅していっただろう。それは要するにその時にそれまで使っていた言語よりも利便性が多いと思われた言語に使い代えたということ以外のいかなる理由もなかったのだろう(まるで男と女がくっついたり、離れたりすることのようだ)。ミームという観点から言えば、使い代えられた言語の保有するミームの方が利便性という観点で勝利したということだけのことである。しかしそのことが直ちになり代わった方が優れているという評定を下すことは出来ない。
それと同じように男女の関係も、親子の関係も一律にそのあり方が決まるようなものではない。その時々の相互の事情が偶発的に接触すること以外のものではあり得ない。例えば性的な接触が皆無になった夫婦が、常に性的刺激を求めている夫婦よりも劣るとは言い切れないし、逆にそういう夫婦の方がより精神的に愛し合っているし人間的に価値があるとも言い切れない。そういう場合もあるだろうし、そうではない場合もあるだろうとだけしか言えない。だから対話することがなくなったということが必ずしも憎しみ合っているということを即意味するわけでもない。寧ろそういう男女関係というもの、あるいは親子関係というもの(親子でも同性同士、異性同士という組み合わせがある)、或いは友人関係一般でもよいが、対話することが尽きたと思った瞬間から、本当は真実の対話が成立する可能性が新たに生まれたのかもしれないのだ。ここら辺では中島義道氏が対話をただ単なる会話と区別している部分の主張が生きてくるように思われる。氏は対話を宥和ではなく対立軸を鮮明化させるツールと捉えている(「対話のない社会」などのテクストを参照されたし)。
これを書いている今日、実はNHKの教育テレビで、文化人類学の今日に関する特集があり、パソコンに向かいながら音だけで聞いたりした。そして番組の中で哲学者の鷲田清一氏が出演され、対談で文化の異なった世界の人々と理解し合うという時、その民族との共通性を知ることが真に理解し合うということではなく、「異」性というものを知ることこそ理解し合うということではないかと発言されていることに私は関心を持った。
文化人類学者たちは総じて、文化相対説というものの出現以降、それを題目の一つとして仕事してきているらしい。そして究極的には多文化共生社会というものを実現するべく努力しているらしい。
しかしこの考え方は経済グローバリズムと恐らく真っ向から対立するだろう。つまり欧米そして日本という経済先進国レヴェルでの発想を中心とした経済グローバリズムの波にどんなに抵抗を試みても、我々日本人は竹中平蔵氏の主張されるような意味で違った選択肢というものは幻想でしかないだろう。これはよきにつけ悪しきにつけ不可避的な運命であろう。
文化相対説というものは例えば言語学の世界ではエドワード・サピア(彼は同時に文化人類学者でもあった)によって言語相対説という形で示されてもいる。
この考え方を哲学的に考えてみると、恐らく全ての時間を空間系列化された、どの「今」も物理学的視点のように等価であり、特別の「今」などないという神のような視点に近いものがある。しかし私は日本人であるし、文化人類学者たちも主張していたが、我々にとって当たり前の食習慣でも、北欧の人々は眉を顰めることというのもあるだろうし、その逆ということもあるだろう。日本人にとっての捕鯨に関する良識とオーストラリア人のそれとではずれがあることも確かだろう。
つまり我々はどんなに努力しても、神の如く全ての人類の文化が優劣などないという視点を個人においては獲得し得ないこともまた確かなのである。そういった現実を踏まえずに、ただ闇雲に理想的なことを言っていても、ある意味では痛烈なる自己欺瞞を潜ませることとなる。そのことは恐らく南米を旅したレヴィ・ストロースも痛いほど実感し得たのではないだろうか?例えば私の知人はかつてインドに仕事で旅をした時、食事の仕方とか、排泄の設備とかにおいて、今日におけるような意味では発展していない段階で訪れたこともあって、極めて耐えられない生活だったと告白していた。それはある意味では極めて正直な告白であったのだろう。この問題は結局人種差別意識の問題にまで発展し得るので、実は極めてシリアスな性質を持っている。
生物学者の考える文化というものと、文化人類学者の考える文化というものは微妙にずれ込んでいるように思われる。文化的適応という言葉、あるいは民俗知(フォーク・ノレッジ)を文化人類学者たちは使うが、それらをも含めて生物学的に言えば環境世界に対する適応であると言えるだろう。あるいはスーザン・ブッラクモア的に言えば、ミームを我々が選択しているようでいて、ミームそれ自体の夢魔的な魅力に抗い難い不可避的接触という風にも捉えられるだろう(どの民族も普遍的に取り込み、取り込まれるミームもあれば、そうではなく民族毎に固有のミームというものもあるだろう)。しかし恐らく文化人類学者たちには固有の世界協同社会という発想があるように思えてならない。つまり彼らには政治的な意図があるように感じられてならないのである。それは私の実感から言わせて頂けば、ある意味では理想であるというよりも絵に描いた餅のように感じられるのだ。全ての文化が共存し得て、全ての文化が一切の競争(これは生半可な競争のことを言っているのではない。つまり食うか食われるかということである。)のない共存ということがあり得るだろうか?(斜に構えて捉えれば、日本の文化人類学者たちはマリノフスキー、フレイザー、ボアズといった西欧の学者たちの考えた路線を踏襲していて、自分たちより上位に彼らを置いているから、必然的にしかし彼ら自身は無意識の内に自分たちよりも下位に位置する「保護すべき文化」というものを探しているのだ、とも言えるように私には思われる)私は何も影響力の微弱な文化や言語は淘汰されればよいと言っているのではない。かつて廃れたものが復活するというようなことはそれはそれでよいと思うが、皆があまり眼を留めなくなった文化や言語を保存しようと他の皆が眼を留めているものと依怙地に等価なものであると主張して義務感と使命感に苛まれて躍起になることにどれほどの意味があるのだろうか、と思うだけのことである。ある程度民族全体の関心と伝統に対する志向性を現実として受け留めつつ見守る度量は必要ではないだろうか?
ジャレド・ダイアモンド(進化生物学者、生物地理学者)は、名著「銃・病原菌・鉄」の中でユーラシア大陸における病原菌が南北アメリカ大陸の先住民の生命を奪った根幹であり、その数は南米大陸侵略者による銃による殺戮を遥かに凌いだと言っているが、同時に何故そのような不平等、つまり南北アメリカ大陸からユーラシア大陸からの侵略者に対して殆ど病原菌が蔓延しなかったか、その理由として、南北アメリカ大陸では遥か昔に多くの家畜化し得る野生動物が絶滅し家畜化し得る動物が少なくなり、従ってユーラシア大陸のように多くの家畜化し得る野生動物の宝庫ではなかったために、家畜と共存する文化とか、そのことによって家畜に寄生するウィルスに対する免疫がなかったために、侵略者たちの運んだ家畜経由での病原菌によってたちまちの内に死亡していったと述べている。
このことはある意味では熾烈なウィルスの自然選択が家畜化しようと試みたユーラシア大陸の人類によってほどよく共存し得るようなタイプのものへと進化する余裕があったということを意味する。つまりウィルスの側からしてみれば、端的に集団農耕社会のような稠密な人口を誇る地域に寄生し、広がることが戦略上得策なのであるが、寄生した個人が死滅することを容易にするようでは、逆に自分たちの死滅にも繋がるから、当然それなりにウィルスに対する免疫を得ることを促す形でウィルスは自然選択上進化(勿論人間の免疫システムとの共進化である)してゆくこととなる。それは今日においても変わりない(尤もダイアモンドはマラリアなど風土病が多数発生するためにニューギニアとかインドネシア等の熱帯地域は、欧米による進出植民地化が四世紀以上も立ち遅れたとも述べている)。
要するに競争(それは人間対野生動物、人間対家畜及び家畜に寄生するウィルス)という現実が文化というもののあり方を決定してゆくのであり、それは多文化共生社会という発想とはある意味では真っ向から対立するような熾烈な、相手に征服されるか、こちらが相手を征服するかという意味さえ含み持つ現実を招聘するようなものでもあるからである。
ある意味では哲学は完全に欧米中心主義の学問であるし、文化人類学もまた、そういう意識の下で分化発展してきたものであるという意味では変わりないだろう。すると多文化共生社会という発想も、実は欧米を中心とした認識であり、少なくとも先住民族の側に立った発想ではないだろう。彼らがそれを望むかどうかはまた別であるし、かつて黒船が日本に来た時以上の民族間の分裂を経た後ようやく、片がつく、いやそういう猶予さえ経済グローバリズムは与えないであろうような熾烈な競争的現実の前で、同化を余儀なくされるような運命にある民族のこれまで持ってきた文化が果たして真に先進国の間で、マクロ的な意味で承認されたり、対等なものであると認識されたりするかどうかは疑問である。
もし文化的に保護する価値があるかどうかということが先進国で議論されても、多くの言語が消滅していったような意味で全ての先住民の文化を保存することは、そもそもそういう風に先住民の全てが望んでいるのかどうかを考慮すると、かなり至難の業ではないだろうか?(私は微弱な民族の文化は滅べばよいと言っているのではない。)
男女の文化的なものの見方ということも、民族毎に存在する社会のあり方によって強制されて植えつけられたものかも知れないという視点に立てば、生物学的な人間のあり方としての男女の性差と、その文化的な克服ということもどこか胡散臭いニュアンスを伴うとも言える気さえする。端的に男女の対話のおいて女が目的意図的時間の使い方を採用しているように感じられるということは、結婚とか、男女の役割に対する我々の先入観から社会規約的に適応する反射神経のようなものがそうさせているとも言い得るのである。しかしそれはある意味では異性に対する生物学的な戦略性の違いに起因するということも当然事実だろう。するとどこからどこまでを生物学的な戦略として認識し、どこからどこまでを文化的な規約とか社会通念、あるいは個人の良識とするかということとなると、実は極めて曖昧になるということも言えるのだ。つまりオリンピックにおいて応援するのは自国の選手であるが、自国の選手同士が決戦するとなると、個人的な嗜好によってどちらの選手を応援するかということが決定されるだろう。そういう意味では本能か理性かということさえ、ある意味では、ある時には本能的な選択を受け入れ、ある時は文化的な正当性というものを受け入れ、ある時には個人の嗜好を優先させるというように、その都度異なった判定基準を採用しながら、その都度意思決定の合理化をなしているのが人間であるとも言い得るのである。しかしそう言いながら、本能も理性も、我々はある判断に対して事後的に反省意識の上でそう考えているだけで、それらは結果的には全て我々の言語的思考、論理的思考の産物であるということにもなるのである。
そういう視座に立てば、男女の対話術というものは、親子の対話術と対極の部分もあれば、ある時には同じような部分もあり(特に女性は男性に対して母親的な態度で接するところがある)、ある時には上司と部下の関係的になることもあれば(男は女性にそういう態度で臨むことが多いし、その逆のパターンも夫婦によってはあるだろう)、ある時には友人同士と同じようになることもあるという風にその都度の判断に委ねられていると考えた方が自然なことなのかも知れない。
Sunday, June 3, 2012
時間・空間・偶然・必然_意識という名のミーム<科学で切る哲学、哲学で切る科学> 10、私は今を食い尽くす
結論的に言えば、私は時間というものを、自己意識による消費と考えている。私は常に現在を食い尽くしているというわけである。尤もこの考え方に睡眠時というものは含まれないことは言うまでもないが(睡眠については別の箇所で考えることとする)。
例えば今私は食事をし終えて今この文章をパソコンの画面を見ながらワードで打ち込んでいる。だからさっきまで食事していた時間は既に過去のものである。しかし食べている時私は明らかにその食べる行為を今の行為として意識していた。つまり何か継続的な行為をしている時には、その行為を始めた瞬間からずっと継続した今であるということは然程問題のある認識ではないだろう。従って過去というのはある意味では一つの行為が途切れて、別の行為に赴く時に、今している行為に対してさっきまでしていた行為を振り返るという形で到来するのではないだろうか?
端的に私にとって私に対する自己意識においては常に今である。だから過去はただ単に私にとっての今を今ではない時に対する意識として浮上させているだけである。ここら辺は中島義道の第二次想起、つまりリテンツイオン(retention)優位の考え方と同じである。過去とは端的に今していること(行為)ではない自らが「した」と信じている(想起しつつ)行為へと向けられていると考えてもよいのではないだろうか?では未来とは?
そのことに関しても中島義道が「生きにくい•••私は哲学病」等でより適切な主張をしていると思う。
中島の主張するように未来は確かに実在しない。それは過去が実在しないという形とはまた違った様にである。と言うのも過去とは想起においてのみ実在することが可能だからだ。従って私にとって私の過去(に対する私の記憶<内容>)こそが「世界」の過去を知るための唯一の里程標であり、「世界」の過去における私がこの世に誕生する以前の過去は、私にとっては実在的な感触はゼロである。それらは端的に「世界」から私の世界に与えられた「外部からの知識として植えつけられた記憶」でしかない。
しかし中島が時間というものを流れとして位置づけることとは要するに時間の空間化であるという主張をそのまま受け入れれば、進化論とは生物学、考古学、博物学一般において受け入れられている定説としてのダーウィンの進化論を含めて、それらは哲学ではないから、当然今という意識は欠如している。そもそも化石によって発見されるもの同士を例えば炭素含有量などを糧にデータ産出して示した一つの過去の別の過去に対する前後関係であるから、それは例えば現在の我々ホモサピエンスを規準にした過去の遺物に対する認識を構成する一種の時間の空間化の際たるものである。
しかし私が考えるところスーザン・ブッラクモアは心理学者なので、決して哲学者ではないから、哲学者が考えるような意味で今とか私ということを意識した認識でははいものの、少なくとも認識論的には時間の空間化という従来型の進化論(社会生物学を含める)に対して、空間の時間化という新たなフェイズを導入しているように思われる。
要するに時間側から空間側へと、そしてその逆に空間側から時間側への接近を統合しようとしている様に思われるのだ。
何故なら後者に関して、私は彼女の主張には、遺伝子作用に対してミーム作用というものの存在を主張することによって、二つの相反する作用が相補的に絡まり合って、二つの関係はフォイエルバッハが主張するような意味での延長と思惟(思惟もまた存在する意識の内的行為事実として実在認識可能である。「キリスト教の本質・上」の88ページより)というジョン・ロックの考えを発展させたものと考えられる思惟の側からの延長(対象に対する認識)に対する認識作用という認識を発展させたものであるとも思われるからである。
つまり遺伝子とミーム両者のいずれの側からも成立する主体と客体の距離そのものは空間的であるが、その二つの相補的なアプローチという事態そのものは時間的な尺度でも考えられ得るから、当然この二つの相補作用においては、二つの主体は異なった進化の時間が与えられるので、従来型の社会生物学にはなかった空間関係における時間的推移という観念が付与されていると思われるからである。また従来型の進化論では遺伝子だけが主体であったが、それは遺伝子がミームに対して受動的に翻弄されている様をも描出しているからである。
ここで時間論を巡る我が国の哲学界の論争について考えてみたい。
1で述べた時間論において私は意図的に時間というものを哲学的な「私にとって」という視点を排除してみた。それは私自身がプロの哲学者ではないということから哲学テクストとしての体裁を敢えて避けたかったからである。つまり哲学的思惟を既にあるものとして示すことは本ブログの目的には沿わないと思ったからなのだ。
しかし変化というものを保障する場こそ時間であるという考えは、ある意味では空間と協同して体裁を形作っているという印象を与えたかも知れないが、空間と時間とは我々がそのように区分けして認識しているだけで、そもそもあるものではない。
例えば空間はただニ物の関係を同一の場に保証するという事態を我々がそこに「空間があるからだ」と認識するから派生するものに過ぎず、時間はそのニ物間の関係自体の変化の成り行きを全体として保証する猶予であるとしても、時間そのものはある意味ではそういう風に事後的に反省意識の下で想起したり、過去事実化したりしているからこそ認められるだけで、そこにそういう一連の「流れ」があったということはただ単に幻想であるかも知れない。時間が流れではないという考えは大森荘蔵や中島義道が主張してきていることだから、ここでは繰り返さない。
私が敢えて哲学的な「私にとって」を排除したもう一つの理由は外在主義的に捉えたかったらである。では内在主義的にはどのように捉えられるのだろうか?
私は私という意識を常に今である行為の最中であり、思惟の最中である私によって保持されつつ認めている。そして常に今でありながら、刻々とその今が過去に後退しているように感じられるのは、さっきまで食事していた自分の姿が想起においてしか認められないという事実をもって、ほんの少し前での過去の私は食事していたが、今はワードで文字を入力し、保存しようとしているということを私が知るからであり、そこに一つの断絶を読み取っているからである。今ではないあの時の私、過去ではない今の私という比較を生じさせる事態全体を通して、その全体を経験している同一の人格として私は「変化しない」・「私の世界」として認めている。つまり私の中の変化とは「変化しない」・「私の世界」を前提している。
私にとって他者であるのは、ある意味では人格を持った存在者だけではなく、過去における「私」も含めた今ではない「私の世界」の中の「私の世界であった」ことにおける全てである。過去の事実とは記憶しているのだから、「私の世界」において経験したことである筈だ。そして記憶しているからこそ想起し得るのだ。私が想起において確認し得る全ても私にとって他者であるが、現在知覚において確認出来るものもまた私にとって他者である。そして今知覚し得るものとして不在であるものもまた不在という形で想起、表象し得る他者である。そしてこれら他者は全て変化し得るのだという私の目測がある。
しかし私にとって親しい友人といった他者たち、つまり頻繁に会うことの出来る人たちや、私にとって身近な事物などはその変化というものを容易に察知することが出来ない。しかしある時ふとそれらの過去における姿を想起すると、以前とは変わってしまったと認められることがあるとしたら、そういう想起とは、例えば久し振りに会う知人が以前と随分変わったという印象を持った時に、我々はいつも接している他者や事物のことを思い返す、するとそこに歴然として変化を認めざるを得ないこととなるというわけである。
そしてそういう風に私の周囲の身近な他者や事物の変化を認めざるを得なくなると、今度は必然的にそういう「私の世界」の登場人物や大道具、小道具であるものなどが、「「私の世界」の中の私が変わってしまった」(「私の世界」であったものの中の「私」が変わってしまった)という事実へと私を突きつける。つまり私の周囲の他者や事物が、見慣れたものであるために気づくことがなかったが、ある時ふとその変化に眼を転じると、途端にその変化を認めた「私」もまた「変わってしまった」と気づくというわけである。
しかし不思議なことに「あいつは変わった」とか「彼女変わったよね」と言うことはあっても、「俺は変わった」と言うことは決意表明、つまりパフォマティヴな言辞以外では殆どないと言ってよい。これは何故なのだろうか?
もし誰かにそう言うとしても、それは前後の文脈で、ある考え方について会話しているという状況全体の中から「<それについての考え方において>俺は変わった」とか言い得るのであって、あくまで自分自身の全体の変化、例えば年老いて皺が顔に多くなったとか、白髪が増えたとか背が縮んだというような場合以外で「俺は変わった」とか「私は変わった」と他者に告げることはない様に思われる。それは何故だろうか?
それは自分というものに関する説話という秩序において、我々は自分を客観的に認識することなど出来ないという不文律が一人称的言辞において、少なくとも具体的な指示、例えば背丈とか、考え方とかが与えられていない時に、そのように他者に自分の変化を告げることが、ある種の羞恥を催すような私的言語禁止的規約が暗黙の内に張り巡らされているということは言えるかも知れない。このことについては後章において詳しく考察してみようと思う。
Thursday, May 31, 2012
時間・空間・偶然・必然_意識という名のミーム<科学で切る哲学、哲学で切る科学> 9、完全性という理想と不完全性からの出発
空間というものは、私たちにとってある意味では完全に何か物体がそこにあり、その物体と私たちとの関係において世界を認識する端緒とするような場でなくてはならないということは粗方理解出来た。しかし空間そのものに内在する何らかの不可知の質とか、空間そのものの限界というものを我々が知らない以上、我々はこう考えることが出来たのだ。空間であれ、時間であれその本質を見極めることの出来る完全者というものが存在してもよい筈だ、と。しかしそのような存在は思念上では設定可能だが、立証不可能である。しかしだからこそそれは実在的な垢に塗れていないある種の崇高さと輝きを精神的に失ってはいないものとして我々は心の奥底に感じることが出来る。それは芸術の内的なモティーフであり続け、精神の拠り所であり続けてきたものである。それを神という名で代表させてきたとしたら、神という概念への認識は理解可能なものとなるだろう。
その点で最も人間と神の関わり方を積極的に追求した哲学者としてフォイエルバッハを考えることが出来る。ルドウィッヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ(1804~1872)、刑法学者のアンゼルムの息子(四男)である。
まずこの哲学者の考えを見据えながら、人間にとっての神という永遠性、絶対的理想とは一体何なのかということを掘り下げ、7で扱ったアンリ哲学との接点も見出し、考えていってみよう。
「キリスト教の本質・上」(船山信一訳、岩波文庫)からまず幾つか抜粋してみよう。最初に示したいのは、第一部<宗教の真実な本質_すなわち宗教の人間学的本質>中第三章の<悟性の本質としての神>の初頭、彼はこう始めている。(103ページより)
宗教は人間が自己自身と分裂するということである。すなわち人間は〔宗教においては〕、自己(人間)に対立した存在者としての神を自己に対置させる。神の本性は人間の本性ではなく、人間の本性は神の本性ではない。神は無限な存在者であり、人間は有限な存在者である。神は完全であり、人間は不完全である。神は永遠であり、人間は一時的である。神は全能であり、人間は非力である。神は神聖であり、人間は罪深い。神と人間は両極である。神は端的に肯定的なものでありあらゆる実在性の総体であり、人間は端的に否定的なものでありあらゆる虚無性の総体である。
しかし<人間は宗教のなかで自分自身のかくれた本質を対象化する。したがって、宗教は神と人間の対立葛藤から始まるのであるが、その対立葛藤は人間と人間自身との葛藤である、ということが明示されなければならない>。(<>管理人選択=重要箇所)
この箇所から重要であると思われるのは圧倒的に最後の三行である。ある意味ではここにフォイエルバッハの本テクストの全てが集約されていると言ってもよい。
つまり冒頭の文章の全ては最後の三行のために書かれている。
そしてフォイエルバッハは決してニヒリストではないし、また原罪告発論者でもない。それは例えばこの文章に至るまでの緒論における次の箇所における記述からも明らかである。(98ページより)
<人間は自分の本質を対象化し、そして次に再び自己を、このように対象化され主体や人格へ転化された存在者(本質)の対象にする。これが宗教の秘密である。人間は自己を思惟し自己にとって対象である>。しかし人間が自己にとって対象であるのは対象の対象_他の存在者の対象_としてである。今の場合も事情は同じことである。すなわちここでは人間は神の対象である。人間が善であるか、それとも悪であるか_それは神にとってどうでもよいことではない。いや、神は人間が善であることに対して生き生きとした真摯な関心をもっているのである。神は人間が善であり且つ浄福であることを欲する。なぜかといえば慈愛(善)がなければまた浄福もないからである。したがって信心深い人間は、人間の活動の虚無性を再び次のことによって取り消す。すなわち、人間が自分の心術と行為とを神の対象とし、人間を神の目的_なぜかといえば精神において対象であるものは行動においては目的であるからである_として、神の活動を人間の救いの手段にすることによってである。神が活動するのは人間が善になり且つ浄福になるためである。こうして、人間は外見上は最も神のなかで且つ神を通してもっぱら自分自身を目的としている。たしかに人間は神を目的にしている。しかし神は人間の永遠な道徳的救い以外の何物も目的としていないのである。したがって人間はもっぱら自分自身を目的としているのである。神の活動は人間の活動から区別されない。(<>管理人選択=重要箇所)
フォイエルバッハのテクストは全体を通読しなければその哲学的本質の全てが直ちには了解出来ないようなタイプのものではなく、寧ろ最初から結論を積極的に示しつつ、逆に章を追うに従って微細に分析してゆくようなタイプのものである。従って彼が無神論者であるということも緒論の最後に既に示されている。(この部分は未だテクスト全体の五分の一くらいの箇所である。)
要するに彼は神の本質とは人間の本質に他ならないという哲学認識を絶えず反復しているのである。そのような部分での主張が例えばマルクスやエンゲルスに啓示を与えたり、恐らくそれ以後もキルケゴール、ニーチェ、ハイデッガー、サルトル等にも影響を与えたりしたのではないかと察せられる。例えば記述順は前後するが、彼が労働の概念と時間の概念に触れた部分は、第一部<宗教の真実な本質_すなわち宗教の人間学的本質>中第三章の<悟性の本質としての神>の中盤に登場する。(110~111ページより)
形而上学的存在者としての神は自己自身のなかで満足している知性である。またはむしろ逆に、自己自身のなかで満足している知性・自己を絶対的存在者として思惟する知性が形而上学的存在者としての神である。それ故に、神のすべての形而上学的な規定であるのは、ただそれらが思惟規定として認識され、知性や悟性やの規定として認識されるときだけである。
悟性は「原本的原初的な」存在者である。悟性は万物の第一原因としての神から引き出す。悟性は悟性的な原因がなければ世界は意味も目的ももたない偶然にゆだねられているのを見いだすのである。また悟性はただ自己_自分の本質_のなかにだけ世界の根底と目的とを見いだすのである。また悟性は、ただ世界の現存在をすべての明晰で判明な概念の源泉から_すなわち悟性自身から_説明するときだけ、世界の現存在が明晰で判明なことを見いだすのである。悟性にとっては、ただ意図をもって且つ目的にしたがって_すなわち<悟性をもって_働く存在者だけが、直接に自己自身によって明晰で確実な存在者であり、自己自身によって基礎づけられた真実の存在者である。>それ故に、それ自身はなんらの意図ももたない存在者は、自分の現存在の根底を他の_そしてもとより悟性的な_存在者のなかにもたなければならない。そして、こうしてつまり悟性は自分の本質の根源的な事象としての存在者・第一の存在者・世界に先行している存在者として措定する。すなわち<悟性は、順位からいっては自然の第一の本質ではあるが、しかし時間からいっては自然の最後の本質である自己(悟性)を、時間からいってもまた最初の本質(存在者)にするのである。>(<>管理人選択=重要箇所)
ここでも最後の三行が最も重要である。ここにフォイエルバッハの時間論の本質も浮かび上がる。そしてこの考えは次の一節を考慮して再び考え直すと更によく理解することが出来る。(108ページ)
神とは自己を最高の本質(存在者)としていいあらわす理性であり、自己を最高の本質(存在者)として肯定する理性である。<想像にとっては理性は神の啓示そのものもまたは神の一つの啓示である。しかし理性にとっては神が理性の啓示(顕示)である。>なぜかといえば、理性が何であり理性に何ができるかは、神のなかで始めて対象となるからである。
つまり神が我々によって要請されるのは、神が理性を司ると我々が考えるからなのだ。そしてそれは先の引用のおける浄福が慈愛の所持によって可能となるような人間の人間による能力に対する信頼によってなされている信念であるということである。そして空想や想像を下位に置くフォイエルバッハによれば、想像するという現実に対する認知こそが、我々を想像に耽ることを戒める理性の存在を想起させ、一旦取り戻した理性において、我々はそこに神を見いだすという仕組みである。そしてその仕組みを見いだすことが行動となり、行動規範としての倫理となり、それが働く存在者であり、その働く存在者の生の現実こそが実存であるという認識へと至るのだ。ここにマルクス以降の経済学、社会学、哲学に対して啓示を与えた彼の本質が浮かび上がる。
しかし恐らく彼の哲学はそういった後代への啓示性そのものにあるのではなく、やはり彼独自の論理的メカニズムにあると私は思う。
例えば現代人というのは彼が悟性の本質であるとする法則、必然性、規則、尺度といったもの(107ページより)を自然全体の、あるいは世界的現実全体のほんの一部である、という直観をどこかで拭い去ることが不可能なのではないだろうか?それら悟性とは要するに我々に「そうであってほしいこと」のシンボルである。しかしそういったシンボルとは我々にとって実現可能な極めて限定された範囲の日常的現実でしかないことを知っている。
例えば彼が最初に私が示した引用において言っているように人間は有限である。即ち人生はいつか終わる。そして我々は私たち一個の人生が終われば、全てが、つまり私にとっての世界が終わることを知りつつ、「世界」そのものは私の死をもってもびくともしないことをどこかで薄々知ってもいる。
だからこそ不死とは最大の願望であり、神は不死であるという一事をもって最大のシンボルである。しかしそこで7で私が示したアンリの苦悩の問題へと関連づけられる。
つまりアンリが人性と神性が分離することの苦悩をフォイエルバッハも既に注目していた。アンリの苦悩、つまり神性と人性の一致に対する願望と、その論理的矛盾に関してフォイエルバッハは次のように示している。(106ページより)
哲学・数学・天文学・物理学_かんたんにいえば<学問一般_は、真実に無限で神的な活動であるから、この活動を事実によって証明しているものである。それ故に宗教的な神人同形説もまた悟性に矛盾する。悟性は神に関して神人同形説を認めず、それを否認する。しかしこのように神人同形説から解放されたところの容赦しない無感動な神は、まさに悟性自身の対象的な本質以外の何物でもない。>(<>管理人選択=重要箇所)
つまり彼は神人同形説をまず悟性の側から否定する。しかし同時に悟性によるそういう判断に対する無頓着な信頼をも続けて否定するのだ。ここに彼の言いたいことの本質が
横たわっている。
そしてこれはある意味ではアンリの苦悩の出発ではあるものの、結論ではない。つまりアンリの苦悩の根拠をフォイエルバッハは示しているが、彼はアンリと反対に無神論を貫くのである。だからこそ彼はまず神は人間と同形ではないという人間の論理を悟性の側から人間の願望よりも優先し(その仕方はカントが道徳的法則に基づいた理性的判断を個人の格律よりも上位に置くその仕方を彷彿させる)、その宗教的願望の虚妄を告発するのだ。しかしその告発はいささか人間学的にはゾンビと現代哲学者たちが表現するものに近づくというアポリアを示し、論理的悟性と、人間学的認識を区別する必要性を主張する。ここに哲学的苦渋の決断を読み取ることが出来る。
つまり人間はアンリが「顕現の本質」(和訳では「現出の本質」として法政大学出版局において刊行されている)で主観以前に客観的認識が先行するという他性認識的存在者であるところの人間とは、<完全という人間にとっての他者>を願望的理想としつつ、その理想に程遠い存在として自己を認識し、行動する際に悟性を利用するというわけである。つまり人間は完全性への果てしない希求者であると同時に、それ故にこそ不完全性から出発することを余儀なくされ、即ち不完全者として行動することを運命づけられているのである。そしてそれを遂行することが出来るのは我々による我々内部に巣食う理性、つまり神の声なのである。ここにフォイエルバッハの主張のカント、ヘーゲルからの継承を読み解くことも出来る。
しかしこのことは一面では哲学において他の動物をはじめとする生物全般を人間と人間以外の全てというカルテジアン認識を持つ哲学者全般に対して、一つの訓示を与える。それは「人間は自分で思うほど高尚ではなく罪深い」が、同時にフォイエルバッハはその事実を真摯に受け留め、決してニヒリズムには陥らせないのである。罪深いが、同時に人間には神になる瞬間があるということをフォイエルバッハは信じてもいる。つまり常に神ではいられないものの、人間が人間に対する興味において神を炙りだしたように人間は幾分確かに彼の言うように罪深いが、同時にキリスト教の原罪という観念に埋没することを批判しつつ、人間学的な人間の向上可能性に期待しているのである。そこに現世宗教的教義に対する批判と同時に神へと志向する思念上での人間の運命を本質宗教(そうであるべき宗教)というイデアに対する肯定を読み取ることが可能である。
本節以降もたびたびフォイエルバッハとアンリ、そして更にポール・リクールのテクストを参考にしながら、論を進めていきたい。そして再び次節では時間論に踏み込むことになる。
Saturday, May 26, 2012
時間・空間・偶然・必然_意識という名のミーム<科学で切る哲学、哲学で切る科学> 8、空間の記憶
私は常々思ってきたことがある。私たち自身が自分自身の人生上でのあらゆる記憶というものを持っているように、空間自体もそのような記憶を持っているとは考えられないであろうか、と。空間は人間にとっては人間の身体的なサイズとか観測的データから換算される感覚的世界でしなかいし、そういう「人間の空間」でしか人間は生活出来ないし、進化してくることも出来なかったであろう(そのことは数学者イアン・スチュアートが論じている)。私はマンション建築物の四階に住んでいるのだが、私が住む以前には別の所帯が私の自室に住んでいた。若い夫婦である。しかしそれ以前はこのマンションは建造されていなかったのだから、私の住んだ十五年余の歴史は、私が住むこのマンションの自室の空間に刻み込まれている。しかし同時にそれ以前の若夫婦の住んでいた時期の歴史も、それ以前に未だこの建物が建造されていなかった時期の恐らく鳥が行き交っていたであろう歴史もまた刻み込んでいるに相違ないのである。つまり空間の記憶である。
だから厳密に言えば昨日の私の自室自体が有する記憶内容と、今日の記憶内容は、私の昨日から今日に至るまでの行動によって異なったものになっている筈である。そしてそういったその時々の空間による記憶内容の差がそこに住む私の行為や心理や決断に影響を与えているのではないだろうか?ということである。つまり私の内的な性質は、私の住む空間の性質にもどこかでは依存していると考えることが自然である以上、私は私が住み行動する空間(厳密に言えば、私が行動する全空間のであるが)の記憶内容と共に変化して、相互に影響し合っているということである。
だから私の行為は私によって空間を誘い込みもするが、同時に空間自体の勧誘によってもその都度誘い込まれ、その相互の勧誘の応対というシステムこそが環境ということなのではないか、ということである。
昨日の私のいかなる行為であれ、空間の側からすれば、私の行動の残像として事実上過去事実に対する空間の記憶に格納され、静止していて、それ自体は死んだ、かつて無数の滑空する鳥たちによる過去における行為の残滓と等格である。残滓とは行為がなされているということにおいて死んでいるということなのである。
だからたとえ私が自分のした行為の中で自分では忘れ去った事柄があったとしても尚、空間自体はまるで神のように私の行為の逐一を眺めてきているし、そういった私の行為を死んだ残滓としていつまでも記憶しているかも知れないのである。
私たちの生における瞬間の全ては、実はこの空間の過去の死んだ行為の残滓、その中には人間の行為もあっただろうし、動物たちの行動もあったであろうし、植物とか空気とかあらゆる自然現象の変転と流転が刻み込まれているのであろうが、要するにそれらすべての残滓が記憶されている空間に包み込まれている。刻み込まれている。そして私たちが、あるいは他の一切の動植物、自然現象それ自体がそれを忘れて今の行為と今の現象に感けていたとしても尚、空間自体はそのことを決して忘れ去ってはいないのではないか、と私は常々考えてきたのである。つまり空間はあくまで空間の側の事情によって独自に記憶のシステムも持ち、あるいは想起もするのではないか、と私は考えてきたのだ。それと似たことはコリン・マッギンも語っていた。しかし彼は意識というものがあるのではないかと考えていた(「意識の<神秘>は解明できるか」より)が、私は記憶というもの、つまり過去の全残滓をそこに読み取ることさえ可能ではないだろうか、と考えているのである。
それはある意味では非科学的な空想かも知れない。しかし哲学が全て自然科学において認可された事態の追認であるのなら、いっそ哲学などない方がずっとましである。哲学は自然科学が思いつきもしないことを率先して考えだすことにこそ意味がある。
つまり私たちのある種の「魂の彷徨」のような心的な様相が存在するのなら、それらはどこかで空間全体が私たちに無意識の内に教え語ってくれる、失われた空間内での過去の行為、現象の数々が確かに一度は存在したのだ、ということを。現在はどこかできっと過去の残滓全てによって支えられている。生者とはある意味では死者たちと自分たちの中でも死んだ数々の行為の残滓によって現在を生きることを支えられているのである。過去の死んだ行為の残滓とは、それに一度は確かに立ち会った空間の側の忍耐強い洞察によって必ず空間によって記憶として留められているのではないか、という私の確信は、私自身体調が優れなかったり、思わぬエネルギーを得たりするという日々の微妙な変化によって益々強くなってきているのである。空間は記憶しもするし、想起もするのではないか、と一旦全てをそういう風に開放して考えれば、自然科学の今後も大きく開かれてくるのではないだろうか?
ところで私は空間というものは時間と共に宇宙に出現したと考えるとより全てがクリアになると考えてもいるのだ。
つまりこういうことである。空間というものは何らかの存在物をもって初めてその存在を主張出来る。宇宙というものそのものが存在しないような空間というものが考えられるであろうか?我々は二個の物体を空間の中に認め、そのニ物の関係において初めて空間を意識することが可能である。しかしもしそういったニ物以上の関係の一切ない空間というものがあるとすれば、そこでは距離というものも持たないだろうし、空間というものは現出しないのではないだろうか?つまり存在物のない空間というのは語義矛盾でもあるし、またあり得ないだろう。
例えば宇宙の出現をもって初めて空間が誕生したとしたなら、それ以前には空間すらなかったと考えることも出来る。つまり空間というものはそこで物体間の関係を生じるような状態が皆無の状態では存在し得ないし、それは無でもない。
因みに不在とは「ない」という形であることであるから、当然空間的認識の、あるいは状況認識において有の特殊な形態である。しかしもしそういう何物かが不在であるとか、物体間の関係を保障する場として機能しない文字通り何もない空間というものがあるなら、それは本質的に無ではなく非在である(ある、と言うことが語義矛盾である様な状態である)。宇宙外を想定しても、それは存在することがあり得ないものとして言いようがない。
真空状態というものは全く非在とは異なる。それは我々にとって熟睡している状態での意識のあり方に対して、我々が無意識であったと言うのに近い。しかしそのような真空状態というものは我々の手によって恣意的に作られた無であり、言わば存在状態の中での特殊存在=有である。そもそもそれは容積を持つからである。それに対して物質を不在にすることすら出来ない非在であるのなら、それは有の領域外のものであり、カテゴライズすることが不可能な事態であり、それは語る対象にもならない。従って空間と言う時我々はあくまで無であるにせよ、有という事態の中の特殊様相であると言い得るのである。それは物体というもの、物質的存在によって初めてその命脈を得ることが出来るのである。
よって我々は空間それ自体に記憶というものがないとは言い切れはしないし、事実証明することも出来ないのではないかという確信があるのである。つまり空間のそういう無意識的な意図のようなものがあるとすれば、それと私たちの存在が呼応することによっての日その時の気分とか精神状態とか、健康状態とか、私たちが生活する場の雰囲気とか空気(物理学的な意味だけではないものとしての)を構成し、その構成された場状況そのものが私たちの行動と意志を支えているかも知れないという思いを私は日々強くしているのである。
Thursday, May 24, 2012
時間・空間・偶然・必然_意識という名のミーム<科学で切る哲学、哲学で切る科学> 7、信じることの矛盾、神=完璧、理想というものの矛盾
自然科学に対して我々が常套的な見解であると信じるのも、次の図式において説明することが出来る。
①初期設定的信念→決定→持続
②状況判断的信念→意識的、対自的常時保持
③被獲得信念→①の前提の上に②の経験と記憶によって統合されたもの
つまり私たちは一つの信じるに足るバロメータを自分で設定して、その設定規準は幼少期においては両親の言うことであるとか、要するに自分にとって最も身近であり信頼するに足る人の言うことであるが、徐々にその信じるに足る人物の領域は拡大されてゆき、思春期に至っては、両親に対して一定の信頼を抱いていても尚、他の大勢の他者と彼らが同等であるという身近なものが客観的な対象ともなり得る様な認識拡張を持ち、親しみのある全てをも認識対象と化してゆく。従って信頼するに足る情報というような要するに「信じる」対象の意味内容というものは総じて①に対して③の信念を複合させたものが大半を占めるようになるだろう。
尤もこれらはこう言うことが出来る。「信じる」こととは記憶能力をそもそも前提している、と。
つまり初期に設定された生活上での認識習慣的な記憶と、その後に環境的要因によって、あるいは自らの経験(記憶)を総合化したものを内的に複合化して一つの情報に対して信じるに足るということを自ら信念として保持するようになる。自分にとって信頼の足る存在者だって誤りも思い違いもする、ということにも目覚める。
しかし私たちはある意味では脳科学者の池谷裕二の指摘している(「海馬 脳は疲れない」糸井重里氏との対談 朝日出版社刊)ように、暗記メモリー(私が指摘した①に近い)と経験メモリー(私が指摘した③に近い)をある時には区別し、しかしある時には複合化して何らかの信念をその都度抱く。当然知覚レヴェルでの現在時における認識という観点から①に対して②が、③に対して②が複合化されることもしばしばであることは言うまでもないであろう。
しかし認識思考傾向として我々が抱く論理的無矛盾性というものは、それら三つとはまた別個に脳内で思念されていると言っても過言ではない。つまりこの三つに対して常に我々は認識思考傾向として思念上では完全なるものと不完全なるものという区分けをしているとも言えるのだ。勿論感覚的な思念においてそのニ値という状態にはない思念も多く確認され得ようが、それらを全て仮に不完全な思念と呼ぶとすれば、ある意味ではこのニ値的な認識は有効性を持つと言えるだろう。
そして完全な論理ということそれ自体が仮に「そういうものは実際には幻想だ」と頭で理解していても尚、完全な論理をその都度要請するような我々の認識傾向それ自体はいささかも揺ぎ無いと言えるだろう。
それは一面では社会的責任に於いて世界への理解と解釈を他者へ説明責任があるということと関係があろう。
しかしそれは瞬時における単純な物事の進行とか予兆的な思念において示される場合には適合しても、その論理的無矛盾性そのものをいざ真摯に見つめ出すと、つまり一つ一つ丹念に解きほぐしてゆくと、無矛盾であるという状態そのものにある種の矛盾を発見せずにはおられない。その点でミシェル・アンリの最晩年のテクストである「受肉」の第二十四節である<身体についてのギリシャ的な考えから、肉の現象学へ。エイレナイオスとテルトゥリアヌスの基礎的諸問題構制>は示唆的な内容のものであると私には思われる。よって本節ではこの節の記述の意味するところを粒さに検証しつつ、信じるという心的状態そのものの持つ矛盾と、背理性、自己欺瞞性、幻想性について考えてみたい。まずアンリの記述を掲載しよう。
「肉なくしては誕生なく、誕生なくしては肉はない」と、テルトゥリアヌスは述べている。哲学的な観点からするなら、肉とは何であるかも誕生とは何であるかも知らされないかぎりは、断定的な仕方で『キリストの肉体について』の分析の原理に置かれている相関関係は、全面的に未規定のままにとどまるのだということを、認めなければならない。せいぜいのところひとは、一方の本性が他方の本性に依存すると思惟しうるだけである。あるいはいっそうラディカルには、両者が同じひとつの理解地平のうえに浮かび上がり、両者には同じひとつの根拠が割り当てられるというかぎりで、両者は結びついていると思惟しうるだけである。テルトゥリアヌスはそのことを、きわめてはっきりと知っている。まさに彼が異端に対して、この場合ウアレンティノス派の人たちとの論議はほうっておいて、われわれはこう問う。つまり、どのような現象学的な、したがってまた存在論的な前提事項から出発して、テルトゥニアヌスは誕生を、肉を、両者の必然的相関関係を、理解しているのだろうか。教父たちの問題構制が展開されている歴史的地平においては、肉/誕生の相関関係は、様々な諸主題を喚起し、それらの諸主題は、異論の余地なきひとつの哲学的意義と、異論の余地なきひとつの哲学的妥当性を有しており、この観点からわれわれは、それらを吟味することにしよう。すべての諸主題はまた、肉についての中心的な問いに関係づけられてもいる。
最初の主題は、誕生と死との連帯性を申し立てる。つまり誕生には、死が必然的に結びついているのである。「誕生は、死に対して負債がある」。もしキリストが誕生したのであれば、それは彼の使命が、世界[世=世の人々]の救済のために死ぬことだったからである。それゆえキリストが自らの誕生のときにまとった肉は、一箇の死すべき肉であらねばならなかった。まさしくこの点においてこそ、彼の肉は、われわれの肉に似た一箇の肉であり、「死へと定めされている一箇の肉」なのである。どのような肉が、死へと定められているのだろう。どのような誕生が、この死すべき肉のうちにわれわれを置くのだろう。それは地のちりから、世界の物質から成る一箇の肉であり、一箇の「地上の肉」である。そして誕生することは、もし問題にされているのが死のために誕生することであるなら、次のことをしか意味しえない。つまり、一箇の地上の肉のうちに到来すること、この場合、ひとりの女の腹のうちに到来することである。ひとりの女の腹のうちで誕生して、キリストが自らの肉を、地上的で人間的な一箇の肉を、彼女から得ているのだからこそ、彼は、人類の仕方で生きてきたのであり、栄養を摂取し、疲れを感じ、眠らなければならず、手短にいうなら、人間たちの運命を共有しなければならなかったのである_自らの運命を、完遂しうるために。自らの運命とは、十字架に架けられ、死に、埋葬され、そしてその場合に_その場合にのみ_復活することなのであった。
それゆえ、肉の起源を指し示すことによって、肉とその誕生とのあいだの相関関係は、曖昧さなくこの肉の真の本性を顕示する。この肉は、あらゆる肉がそこから生じたところの、初次的にはあらゆる肉がその一部であるところの、女としての肉としての一箇の地上的な肉なのである。そこから、教父たちの関心を惹く二つの性格が生じてくる。すなわち、この肉の死すべき性格_キリストが死ななければならないかぎりで_と、この肉の人間的な性格_この肉をまとうことによってこそ、キリストが人間という条件を取るかぎりで_と、この肉の人間的な性格_この肉をまとうことによってこそ、キリストが人間という条件を取るかぎりで_とである。かくしてキリストの誕生に、或る女の腹とは別の或る場所意を、「天上的」、「天体的」、「霊的」、あるいは他の起源をもつ一箇の肉を_またこのような仕方で、その神的な条件にいっそうふさわしくなくてはならない或る条件を_割り当てようと主張する異端が、斥けされているのである。
しかしながら、われわれの注意を引きとめなければならないのは、異端排除の真の動機である。テルトゥニアヌスや教父たちの眼に問われているのは、キリストの肉の起源ならびに本性が、われわれの肉の起源ならびに本性と同一でないなら、その場合キリストは、受肉することによって、本当に〔reellement〕実在的に]われわれの肉のような有限な、したがってその諸欲求、その渇き、その飢え、そのもろさをともない、その誕生いらい自らのうちに記入されたその死をともなった一箇の肉、そのような肉の重さをこうむったのではないことになってしまう。彼は本当に死んだのではなく、復活したのではないことになってしまう。手短にいうなら、一連の現れへと還元され、同時に一種の神秘化へと還元されているのは、神への人間の実在的な同一化の条件としての、人間への<言>の実在的な同一化という、キリスト教的な過程全体なのである。
この神秘化は、そのうえ、キリスト自身の事実であり、また彼の教え全体の事実であろう_われわれの身体の負債をも含め、われわれになされる不正や過ちを受け入れるようにわれわれを誘い、この世でもっとも幼くもっとも単純な者たちが耐え忍ぶようにして、忍耐と謙虚さのなかで、一種の素朴さをともなって不正や過ちを耐え忍ぶようわれわれを誘う、そのキリストの。キリスト自身が、砂漠の断食のなか、その苦難のただなかで、その受難のあいだ、狼藉者たちが彼を打ち、彼を鞭打ち、あざだらけの彼の顔に茨の冠を押しつけ、彼の肉を釘と槍で貫いていたあいだ、不正や過ちを耐え忍んだように。しかし、こうしたことすべてを耐え忍ぶためには、まさしく一箇の肉が必要であり、その地上的実存のあいだ、飢え、渇き、疲れを耐え忍んだあと、打たれ、鞭打たれ、貫かれ、嘲弄されうるような一箇の実在的な肉が必要なのである。そしてこの肉が実在的でないなら、こうしたことのどれひとつとして、やはり実在的ではないことになる。それは飢えの見せかけ、飢えていない飢え、渇いていない渇き、まったくやけどさせないやけど、炸裂も肉もない炸裂なのである。謙虚さと優しさの<師>、自分の敵たちにけっして口答えせず、すべて無言で耐え、「自らの受難を受苦した」者が、もし肉体の見せかけしか有していなかったとするなら、何ひとつ受苦せず、何ひとつ耐えなかったことになる。<師>は、ひとりの詐欺師なのである。彼は彼の同時代人たちをはなはだしく欺いたのだが、次のようなすべての人たちをも、つまり、次のようなすべての人たちをも、つまり諸世紀を通じて彼の存在を信じ、キリストノマネビ(imitatio Christi)を実践し、禁欲主義に没頭し、快楽を拒み、エゴイズムを超克し、キリストゆえに、またキリストの名において不正や中傷を迎え入れ、今度は自らが受難のうちに、かくも世界[世間]が振りまく多様な諸形式の受難のひとつのうちに入り、最後に犠牲と殉教とを受け入れることになるはずだったすべての人たちを、はなはだしく欺いたのである。エイレナイオスの恐るべき言葉が、われわれのところにまで鳴り響いてくる。「彼がじっさいそうではなかったものであるかのように見せかけることによって、当時の人々を欺いたように、彼は、彼自身が耐えなかったものを耐えるようわれわれを説き勧めることによって、われわれをも欺いているのである。このいわゆる<師>が受苦しも耐えもしなかったものを、われわれが受苦し耐えるであろうときには、われわれは<師>を凌駕さえしていよう」。
彼はアンリとアンリを通した西欧人、つまり一々その存在理由を説明することなく哲学を語れる人々に対してこう言いたいのだ。キリストという神性とは即ち、神ならぬ我々卑俗な人性を必要とし、それによって逆に証明されるということだ。しかしそのことによって同時に神性であることが、我々の苦痛や全ての悲しみを代理するような存在である神であるなら、我々同様苦痛を感知する人性を備えていなくてはならないことになるだろう。つまり俗生の経験し得るのと同様の体験を我々は彼に与える必要がある。しかしそのように神が人のような労苦を背負うということは一面では神性に対する冒瀆である。しかしもし神がどのような人間に対しても労苦であるようなことを背負わされても何も感じはしないような存在であるのなら、それはただのゾンビであろう。つまり耐えることは出来るが、それをものともしないように鈍感であっては困るという我々による神の存在の人間学的な気高さに対する願望は、我々が神を論理的な存在として位置付ける際に極めて大きな矛盾を招聘することとなるのである。要するに人間であっても困るし、人間離れし過ぎていても親しみが持てないというジレンマがここに生じる。そこで我々は勝手に次のように神を位置付ける。神とは我々にとって縋るに足る神なのだ、と。
ここにおいて完璧という概念など実は成立し得ないのだ、という事実が我々に突きつけられる。即ち完璧という概念は神に代行されてはいるものの、それは我々の我々自身の勝手な理想であると同時にその理想に縋ることそのものを安楽に保障するようなタイプの願望的な理想に過ぎないのである。何故なら人間として受苦を我々に成り代わって背負ったという神の事実は、その分人間の願望に加担しているが、それは論理的には完全なる存在、つまり人間を超越していることにはならないからである。つまりここでは論理的整合性と人間の人間のための願望は著しく離反する。つまり人間は思惟においてと、信じたいと願うことにおいて異なった完璧という概念を求めるのである。
自らキリスト教徒でもあり、かつ哲学者でもあったアンリはここで惑う。その時テルトゥリアヌスとエイレナイオスの言葉が彼に囁きかけるのだ。そのことをアンリは承知しつつ、それでも尚神性に対する尊崇をキリスト教教義に則って遂行しようと決意するのである。それは何故か?
恐らく私の考えるところ、論理や科学といった思惟において無矛盾性を追い求めても、我々は必ず科学論理的に証明され得る自然の原理や機能に対して自然に理解することを阻む様相を発見する(ゲーデルの不完全性定理によってもアインシュタインの相対性理論によっても理解し得るだろうが)。そしてその理解し難さという観点において我々は自らの存在の微弱さに思い至る。しかしそのあらゆる哲学的ドクサとか誤謬を引き受け、その思い違いを抱えつつ生きていかねばならないのなら、信じられる「あり方」そのものに対する開き直り、つまり「そうであること」と「そうであって欲しいこと」の乖離を承知しているのなら、いっそ「そうであって欲しいこと」を真理としようという決意が、自然に対する「そうであること」に対する承知外にあってもよい、という「生き方」の問題が浮上するのだし、そのような「生き方」を人生の最終地点で選択して死を迎えようという心理にアンリ自身があったのだ、と想像することが出来る。
要するに「信じる」という心的様相には必ずと言ってよいほど自己欺瞞があるのである。つまり「信じる」という心的志向性には「信じられないことを排除したい」という心理が大きく介在しているのである。つまり「そうであること」が「信じられない」からこそ、「そうであって欲しいこと」を真理とするような心的態度、命題的態度が要請されるのだ。つまり「そうであること」があまりにも「信じられない」場合、我々は「そうであって欲しいこと」を「信じられる」こととして納得し、「そうであること」を理不尽なことであると決め付けることをするのだ。我々はその時本当は「信じる」ということの矛盾を知ることとなる。またその「そうであること」に対する理不尽さに対して何とかして欲しいという心理が却って再び神=完璧という観念を心的に生じさせることとなるのである。
そもそも生命現象というものをもし客観的に捉えるなら、それは一言で言えば、代謝活動をするということになるが、その代謝活動を支えるものとは、欠乏に対する認識である。食料であるとか養分であるとかを求めるということは、動物に関しても、植物に関しても当て嵌まる。それは欠乏を欠乏として認識するということ、それが人間のように意識的に理解することが出来るか、無意識的に悟る(?)ことであるかという違いがある(この区分けがそもそも問題である。そのことは述べる。)にしても、全ての生命は欠乏に対して「このままでは危ない」と認識することをもって、生の意志があるということになる。要するに「生きている」ということは常に何らかの形で完璧ではないということを意味する。だから科学的に全てを理解しようとしても尚、矛盾を感じたりする人間はそういう観点から言えば、「そうであること」に対して「そうあって欲しいこと」をこの生命の基本、つまり意志に順じて理解するからこそ、認識論的なパラダイムをその都度変更してきたのだ。つまり「そうであること」の確からしさを常に「そうであって欲しいこと」の究極の理想としてきたということである。それは自然科学のオプシミズムを見れば一目瞭然であろう。その変更に対する意志と希求に哲学や文化、芸術の全ても含有される。
スーザン・ブラックモアがドーキンスの理論を発展させたミーム学とは、やはり一言で言えば、模倣能力を促進させる第二の自己複製子であるところのミームが、遺伝子と共進化するようなタイプの「自然選択の可能性の追求」である、と言える。
つまりミームそのものに対して常に相補的な遺伝子とその発現作用の全てがミームと遺伝子(ミームは遺伝子、つまり生命現象を必要とする。)による表現型であると捉えるところに社会生物学的視点から一歩進めたユニークさがブラックモア理論にはあった。元来表現型とは遺伝子の発現作用による必然的、偶然的である全ての結果だけのことを言った。しかしブラックモアによってここにミーム、つまり遺伝子保持存在者による模倣せずにはおれないクオリアを有するシステム(それは最初極めて偶発的要素が濃厚なセレンディピティーがあったのだろうが)、記憶促進対象によって生命は外在的な存在物によって内在的な生の意志を確認出来るようなフィードバックシステムを獲得したのだ。要するに遺伝子が遺伝子外に自然選択対象を発見し、それと共進化する道を選んだのだ。
しかしもしコリン・マッギンのコグニティヴ・クロージャー説を有意味なものとして受け取るなら、我々は実は生命と非生命との境界も、あるいは生物と無生物の境界も、あるいは有機物と無機物の境界もよく理解していないことにもなるし、そもそも人工的な機械や、コンピューター、ロボット、あるいは無機物においてそれらのものに心などないと決め付けてきたことに対する代償として、意識と等価のものを非生命に認める可能性を捨て去るわけにはいかないことを認めなくてはならない。何故なら生命そのものだけでは完璧ではないからこそ我々人間を含め生命現象はミームを必要としてきたのではないかという説が成り立つからである。
では完璧であるとはどういうことか、と言うとそれは生命とミームの共進化であるということになれば、自然界で有機物と無機物とが相補的な存在であるような意味で、この地球上での全存在こそが完璧であるといういささかスピノザ的な認識に照明が当てられることとなろう。そして自然を含む存在そのものが神であるという論理が成り立つ。つまり矛盾とか矛盾を矛盾と捉える存在者一切を含有する、自然界の秩序も、偶然も全て含有する存在こそが神であり、完璧なものなのである、という論理が。この論理で行けば、要するに我々が我々にとって都合のいい形で完璧をその都度希求しているに過ぎないということである。つまり自然科学は偶然を記述することは可能だが、偶然の根拠を解明することは出来ない。と言うのも自然科学はそもそも奇蹟ということを排除することを前提しているからである。だから却ってそのことが自分たちにとって都合のよい理想をでっち上げ、その都度完璧であるように錯覚する論理を組み立ててきただけのことであるというわけである。つまり科学もまた一つの我々による幻想以外のものではないということになる。
そう考えれば尚更意識を持つのは人間だけであり、それは解明不可の命題であるというディヴィッド・チャーマーズの論理は脆くも崩れ去る。非生命に生命の一種である我々によって覚知される意識と等価のものがないと証明出来ない以上我々は意識を人間としての存在者に固有の現象であると断じることは出来ない。(我々は人間以外のものになりその立場では感じることは出来ないからである。)このことはこれを書いてから後で知ったことだが、コリン・マッギンとはまた違った形で、つまり空間ということではなく、物体そのものに認めているという意味では、ヒラリー・パットナムが「理性・真理・歴史」(法政大学出版局刊の150ページより)で示していることである。
従ってチャーマーズがしきりに論じている生命的に機能はしていても尚意識に該当するもののないゾンビという概念そのものが、意識という存在を特化させるために拵えあげられた概念にしか過ぎないということになる。そもそも我々は意識と意識のないゾンビというものの違いを明確には証明することなど出来はしないのだから(ここから先は永井均氏の独在論の活躍する場である)。
そうするとある意味では「そうであること」と「そうであって欲しいこと」の齟齬においてのみ何らかの真実を視るというスタンスはあながち間違ってはいないことになる。と言うのも「そうであって欲しいこと」がかくも真実味があるのに、「そうであること」があまりにも矛盾に感じられるのなら、ひょっとしたら「そうであること」の確定そのものに誤りがあるかも知れないからである。しかし同時に「そうであって欲しいこと」があまりにも出来過ぎていても、我々はそこに懐疑の目を向けよう。従ってこの二つのどこかに真実があると視る見方は間違ってはいないだろう。
脳科学者の池谷裕二は、海馬を除去された人でも、扁桃体さえあれば、感情的なことだけなら記憶していると言う。例えば私に海馬がなかったなら、私は親しい友人の顔を見ても、忘れており、彼とかつて行った旅行のことも記憶にないだろう。しかしそれは意味記憶、エピソード記憶としてはそうであるが、氏の紹介する科学的データによると、私はその時親しい友の顔を見て感情的には嬉しい気持ちにだけはなれる、と言う。逆に海馬はあっても扁桃体のない人は、親しい友と行った旅行の事実も、行き先とかそこであったことの全てを記憶してはいるが、全くその記憶内容によってその旅が楽しいものであったか否かという判断は持てない、と言う。
池谷は「海馬が、扁桃体の感情を参照しながら取捨選択していく」という仮説を唱えている。そして現代哲学の中でも現象学はより扁桃体的判断の追求を主軸に展開し、分析哲学とか言語哲学の系譜のものは逆に海馬中心のものを主軸に展開している、と言うことも出来るかも知れない。
もう一度整理しておこう。完璧であること、つまり無矛盾であるということは、より個人的なことを除外した普遍というものに対する信仰によって構築されてきた。だからそれは必然的に科学至上主義となる。しかし宗教では心の拠り所として「そうであって欲しいこと」が完璧なことであるとしてきた。しかしその二つの人間の心における共存はアンリの指摘の示すところのように矛盾を来たしているし、それを現代人は知っている。
しかしそのことと矛盾に真理を求めるか否かはまた別のことである。何故ならそれは「生き方」の問題へと移行しているからである。リチャード・ドーキンスは神の不在と宗教(彼によると心のウィルスであるらしい。)の不必要性を訴えるが、アンリのようなタイプの哲学者は神への信仰を最後の縁にすることを選択した。しかしそのように「生き方」の問題を持ち出さなくてはならないということは、寧ろ矛盾をどう心の中で解決するべきかという倫理の問題へと移行する。そしてその倫理的選択としてドーキンス型のものとアンリ型のものを両極端として認識することが出来るだろう。そしてそれはどちらのタイプの選択が人生をよりよく生きるための認識とすると思えるかという個人的選択に依存する。そしてそれは個人的な価値規範としての理想というもの、それはかつて宗教や科学が普遍的価値として認めたがった理想ではない、もっと(佐藤徹郎の主張するように)ウィトゲンシュタインが自らの哲学テクストを万人に認められるものとしては決して求めなかったようなタイプの個人的価値規範のクオリアに依存するようなタイプの理想なのであって、その理想そのものを持つことと、その理想が矛盾しているかどうかということは然程この際問題ではないような性質のものであると言ってもよいだろう。
私は哲学も科学も、宗教も芸術も文化も、全てこのようなタイプの理想としてだけ有用であるような認識がより現実的であると今日においては感じられるのである。
Thursday, May 17, 2012
時間・空間・偶然・必然_意識という名のミーム<科学で切る哲学、哲学で切る科学>6、専門的特殊技術と一般的知識
一般的に言ってやはり私は科学向けの頭脳と哲学向けの頭脳というものはあるような気がするのである。勿論多くの哲学者が同時に天文学者であり、物理学者であったし、そういう意味ではデカルト、ライプニッツ、マッハ、ラッセル、ホワイトヘッドのように多彩な人というのはいたし、今でもいる。しかしそれでも彼らでさえどちらかと言うと科学者であるようなタイプと哲学者であるようなタイプというのは分かれるような気がするのである。だから当然職業としては哲学者であるのに、科学者的な人、あるいは職業としては科学者なのに哲学者的な人というのは資質論的にはあり得るだろう。
まず科学は中島義道氏の主張するように人類の幸福のために学ぶという前提はあるように思える。しかし哲学では人生とか価値とかそういう大きな命題の前でも人生は無価値であるとか、価値といったことは幻想であると言うような捉え方をも辞さないというところがある、という意味では生に纏わる大きな命題を外延的に認識する学問であるのに対して、例えば数学では数学的真理という前提があり、大命題に対して内包的に学ぶという性質があり、そこからして既に真理究明という目的性が前提されている気がする。しかし哲学はここでも真理というものそのものをも疑うことを辞さないというところがある。
例えばそれを文理系の国語ということに置き換えて哲学的な態度とそうではない態度というものを考えてみよう。
次のような言葉を私が二十年間一度も会わなかった昔の友人と久し振りに再会して聞いたとしよう。
「二十年間どういう風にして過ごしてきたって?そんなこと聞かれたって、あまりにも色々なことがあり過ぎて一々全部思い出せないし、そう簡単に伝えられないよ。」
この言葉を聞いて中学校や高校の国語の教師であるなら、次のように解説することだろう。
「あまりにも長い年月のことを聞かれたのに全てを咄嗟には思い出せないので具体的には答えられないでいることを私に伝えた。」
と言うように。しかし哲学者なら恐らくこの返答に対して
「確かに二十年という歳月は長いので、どう過ごしてきたかということを咄嗟に聞かれて返答に窮してそのことを説明することが億劫で仕方なくそう答えたのだろうが、実際思い出そうと思えば全て思い出せるのだが、真意のレヴェルでは敢えて昔友人であったというだけで長い間会っていなかった私にそんなことまで伝える必要性を感じないでいるからそのことを暗に示そうと思ってお茶を濁したのか、久し振りに会った私に今も尚親しみを感じているのなら、あまり思い出したくはないことが多かったという意味だ。」
とそう言うだろうと思う。(前半の同じ部分よりも実際思い出そうと思えば以降の部分が最重要なのである。)しかしそこまで今の中学や高校の教育方針においては、教師は生徒にそうは言わないだろう、という確信が私にはある。
つまりモラリスティックに認識する前提において何かを解釈するという図式が既に定着している感のある教育システムにおいては、今のような例でも理解出来るように、一定の解釈の図式を逸脱する解釈を仮に生徒がしたのなら、教育者という人々は猛烈に否定しようとするのではないだろうか?その意味では自然科学や数学の分野において何らかの逸脱をきたしたのなら、それは寧ろ哲学に近づいていると言ってもいいのかも知れない。
例えば私は若い人には将来に向けて無限の可能性があるとよく年配者は言う。しかしそれはある意味では正しい部分もあるが、実際には偽善的であるし、間違ってもいる。
と言うのも仮に私よりも若い人が必ず私よりも長く、つまり私が死ぬ時よりも後に死ぬとは限らないし、またその若い人がこれから生きていく上で選択する行為の数は私が既に五十過ぎまで生きてきたということからすれば、明らかに未知の選択可能性に満ちてはいるが、それを言うのならどのような人生も生まれた時にその人間に能力的に付与された可能性というものは大体既に限定されているのである。遺伝的な要因としてもそうだし、環境的な要因としてもそうなのだ。それは人類学者や生物学者であるなら同意する(こういう時には数学者とか物理学者の言うことは当てにならない。)ことだろうが、実は全ての人間はその限定された能力という可能性の範囲内でどちらを(或いは何を)選択するかということに悩んでいるに過ぎないのである。恐らく私は幼少の頃からどんなに努力したとしてもプロのスポーツ選手にはなれなかっただろうし、もう一度二十代に自分が戻ったとしても私は恐らく二十代の頃から今まで私がしてきたようなことを同じように繰り返すだろう、ということが私には想像されるからである。
ところで私は最近幾つかのギャラリーに訪問し、時に職業的プロフェッショナルではない独学のアーティストたちとお会いする機会を得た。その際に感じたことというのは、最初からプロレヴェルの仕事をしているようなタイプのアーティストにはない自由さがあるということだった。そして私はこのプロならざる人々の感性というものをどこかで尊重しているところがある。
例えば私は職業哲学者ではないから、恐らくプロの哲学者の哲学テクストに対する読み方とは若干異なった深読みとか、浅読みという事態も避けられないことであろう。しかし私がかつてカントもヘーゲルも読んでいない内に読んだメルロ・ポンティーに対する理解は勘違い的部分もあったであろうが、その際に読み取ったことの全てが誤りであったとは言えないだろう。つまり文学者がサルトルの名著を哲学的でではなしに、文学的に読んだとして、そこに文学的価値を見出すことというのは決して間違いではない、それは哲学的認識の正当性から言えば我流であると言うに過ぎず、決して間違いではない。と言うのもサルトルのテクストは職業哲学者たちのためだけに存在するのではないからだ。それはピカソのゲルニカがプロのアーティストが理解するためだけのものではないのと同じである。いや寧ろプロの哲学者の考えている方向で思いも拠らない本質をアマチュアの読者の方が見出しさえいるかも知れない。
そういうことというのが恐らくアートの世界でも成り立ち、それどころか全ての分野にも当て嵌まるのではないだろうか?
だからこそ逆にプロレヴェルの人たちは、そうではない人たちに対して啓蒙の意図と目的を持って接し、プロ固有の物の見方を普及することに努めるということには意味がある。そこで見出された齟齬と共通性から我々は新たなフェイズへと哲学を持ってゆくことが出来るからである。
脳科学者の茂木健一郎氏は「「脳」整理法」において、科学者にはディタッチメントが要求されていると言っている。つまりそれはある科学的考えを発見した人が、その人固有の理解の仕方とか、発見者固有のパーソナリティーに順じて理解しなくてならないものではなしに、その発見者の人格とか功績とは無縁のいかなる日常的場面でも応用可能でなくてはならないという普遍性のことをそう呼ぶのだそうである。
しかし佐藤徹郎氏の指摘によると、寧ろ哲学とはある哲学的考えを持つその哲学者固有の感じ方とか固有の信条と合致した感じ方のクオリアを有している者にのみ有効であるようなタイプの学であるというウィトゲンシュタイン的考えを採用している。このことを茂木氏はJ・L・オースティンの概念であるパフォマティヴとして、ディタッチメントと対極のスタンスであるとしている。(氏はそれを批判しているわけではない。)
ところで最後に再び世代の問題を述べるが、私は小説も書いているのだが、なかなか二十代の青年を主人公にした小説を書くことが困難なのである。勿論老人を主人公にした小説も、死や過去の人生全体に対する追憶というレヴェルでの切実さが実感出来ない以上それもまた難しいものとは言えるが、未だ二十代の青年を主人公にした小説を書くトライアルに比べれば楽な気さえするのである。それは何故か?
まず私は五十二歳で、今年五十三歳になるのであるが、二十代という世代を私が過ごした期間は五十二分の十である。これを三十二歳の青年と比較してみるとたやすく理解できる。彼にとって三十二分の十というのは、十六分の五であり、私の二十六分の五よりも大きい。だからこれを八十二歳の老人と比較してみるともっとはっきりする。八十二歳の老人にとっての二十代というのは四十一分の五なのだから、彼にとっての二十代というものの長さというものは三十代前半の青年にとっての「二十代の頃の記憶」の切実さに比べれば、極めて僅かなものとなるのである。しかも人間は比較的最近の過去の方を切実に感じ取るという性質もある。すると私はこれから益々二十代であった十年というものの人生全体からの比重という観点ではそれを減少させてゆくのであるから、当然どこかこれから迎える老いの状態の自分を想像することの方が、徐々に遠ざかって行く二十代の十年間よりも切実であるという意味では、私が何故二十代の青年が主人公の小説を書くことに苦労するかということの根拠が極めて理路整然と説明出来る気がするのである。
しかしこの小説の持つ虚構的世界の構築という性質は、実は哲学者たちがテクストを構築する時に、その時に内的に去来する哲学的思惟に忠実に書こうとするスタンスと著しく対立しはしないだろうか?
実はこのことを考え始めたのはつい最近のことなので、今後の私の課題としたいと思っているのである。そしてその課題では先に述べた門外漢であるからこそ新鮮な着眼が出来るということの真実とどこかで重なりはしないかということも考えているのである。
Monday, January 25, 2010
時間・空間・偶然・必然_意識という名のミーム<科学で切る哲学、哲学で切る科学>5、盲目の信頼と全能感
人間は幾つになっても、自分だけは特別だ、という観念から抜けきることなど出来はしない。そして体はもう十に老いてきているのに、若い頃の気持ちだけは変わらず、無理をして体を痛めたりするし、要するに「自分だけは大丈夫だ。」というごまかしの気持ちに支配されている。つまり死ぬということがその直前にならなければ、決して意識において主要な部分を占めないそういう生き物なのである。またそれだからこそのほほんと生きていけるのであるが。つまり私たちの脳はいつからかは知らないが、何らかの切迫感を感じずに済むような形で「自分だけは大丈夫だ。」という気持ちを持ちながら、最終的な死というものを意識しないで済むように脳が命令しているようである。
生物学者ならこのような全能感を進化による獲得能力であると捉えるかも知れないが、この全能感というものは大人になればなるほど付帯してくるものでもあるようだ。幼児的全能感とも呼ばれるこの気持ちとは、例えばあらゆる専門職に就く人々の気持ちを支配している。
例えば営業畑の人間は商品開発部とか総務部といった会社の部署のどの人間よりも自分たちが一番社を動かしていると考えているようだし、政治家は官僚だけが社会を動かしているという気持ちを抱き、事実そういう面もあるが、彼らだってある意味では政治が一番経済社会のリーダーシップを取るべきであると感じ取っている。あるいは医師には色々な専門があるが、どの専門分野の人間でも自分たちがいなかったなら、世の中は混乱すると信じて疑わない。科学者の世界では細分化が進んでいるけれども、どの専門分野の人々も自分たちのする専門が一番正しく、どうして国はもっと自分たちにお金を出してくれないのかといつも不満たらたら洩らすことを厭わない。
哲学者は哲学者で一番自分たちが公平な目で社会を観察していると本気で思い込んでいるし、文学者や芸術家たちは自分たちがいなかったなら、社会や世界は間違った方向へと突き進んでいくに違いないと真剣に考えている。しかしそんなことは恐らくない。今生きている哲学者たちが全くいなくなっても、それ以外の職業の中からそれに類する思考の人々は必ず出現するし、今いる芸術家が全員いなくなっても同じことだし、全ての政治家がいなくなっても、彼らの代わりは幾らでもいるし、医師も官僚の同じことである。要するにそういう風に「もし自分たちがいなかったなら世の中は困る」とそう勝手に思い込みそれを気休めにあらゆる困難なそして不可避な命題、例えば死、例えば人類の絶滅ということを回避して誤魔化して生きているという風にも言えるのだ。まあそう言うことそのものが哲学者的、中島義道氏的であるという指摘もあるかと思うが、そんな深刻にならなくても、恐らく全ての職業、立場の人間は自分を中心にしてしか全てを把握、認識することが出来ないのだから、そういう楽観的な把握、認識の仕方が実は一番落とし穴であるという意識だけは捨てずに生きていくということが極めて重要ではないのだろうか?
そしてそのように「自分だけは大丈夫である」という変に吹っ切った考えに支配されていること、そういう状態を維持することが一番生きていく上で障害がないという感覚こそ最も我々人類が誰からともなく獲得したものではないだろうか?
このように誰からともなく伝えられるような感覚、思いの状態を、心理学者のスーザン・ブラックモアはその言葉の創作者であるリチャード・ドーキンスから拝借して創作者の満足を得る形で体系化した。その言葉こそミームである。ミームはまるでウィルスのようの増殖して人間から人間へ、人間が書く本からそれを読む人間、それに基づいて新たに本を書く人によって更に教え伝えられてゆくものである。本以外にも看板、コンピューター、あらゆるメディアによって伝えられていく。あるいは服装のモードや建築の様式、芸術の形式、法体系といった全てがこのミームに該当する このことは3節で私が述べたように、もし嫌な奴は集団内にしてそいつを殺したとしても、集団が多ければ多いほどまたその生き残った奴の中に気に入らない奴はいて、そういう風に繰り返してゆくと、次第に残された成員は三人になり、そしてその中で他者である二人の中でひとりが気に入らないから殺すとすると、最後には自分ともう一人だけになる。しかしそいつが嫌で殺したら、集団内には自分一人だけになる。そういう風に考えれば逆に政治家という職業が嫌いだからと言って政治家全員を殺したとしても尚、生き残った他の職業に就く人々の中から政治向きの人間が現われ、また政治家という職業が復活するという意味で、仮に「俺たちのような職業だけが生き残れば社会は大丈夫だ。」と高を括るような楽観的な全能感を持つ(こういう職業的プライドはインテリ、エリートにより顕著であるが)としても、恐らく自分たちだけが社会を支えているという幻想そのものは潰え易い。もし銀行の頭取が突然死したとしても、その銀行に対する信頼が世間から厚ければ厚いほど恐らくその銀行の経営そのものはその頭取の死をものともせずに以前のまま何らかの形で存続してゆくことだろう。勿論人事面では多少の突発的は変更をきたすことがあっても尚、社会全体に与える影響というものは然程大きなものではないであろう。そういう意味ではブラックモアの主張するミームの波及力というものは、ある意味では一人の人間の存在というレヴェルから言えば空しいくらいに無時間化された自然の意図であるとさえ言えよう。
例えば今言った銀行の頭取の例で言えば、会社や組織に長年尽くしてきた人物がリタイヤすることとなり、それまでの人生の生き甲斐を急激に喪失して、老後の人生の過ごし方そのものがどうあるべきか思い至らなくなり、次第に社会での疎外感を感じつつ寂しい老後を送ることになるような意味で、人間の生き甲斐とか人生の幸福感情といったものも、一旦それまで中心だった仕事中心の生活が一挙に失われると途端に路頭に迷うというようなことが十分人間人生において考えられるところのことである。
しかしミームというものをそのような人生のあるべき本来の姿と言うような哲学的命題にまで遡及するようなタイプの考えをも含有させ、全能感というオプシミスティックな処世訓として得るものは全く逆のものとして考え合わせると、ミームというもののあり方は多様を極めるとも言い得る。
生物学者の長谷川真理子氏は「科学の目 科学のこころ」(岩波新書)で次のように述べている。少し長いが重要だ思われるので節全部を掲載しておこう。
ハンディキャップの原理
交差点の赤信号で車が止まるのはなぜかと聞いたら、それは規則だからという答えが返ってくるだろう。確かにその通り、そういう取り決めになっているのだ。
しかし、「そういう取り決めになっている」ということと、「実際にその取り決めが守られている」ということは別だ。「赤信号は止まる」という取り決めが守られているのは、そうしなければ、本当に危険なことが多いからである。その証拠には、車がこないことが明白である場合、歩行者は信号を無視することがよくある。
クジャクの雄の華麗な羽は、雌に対する求愛の信号である。雌は、雄の羽をみて相手を選んでいるらしいが、そこにはどんな情報が含まれているのだろうか?また、多くの動物は、直接的な闘争を避けるために、さまざまな儀式的な信号を発達させている。威嚇の信号をみた相手は、それだけで、実際の闘争には至らずに逃げてしまうことがある。では、なぜ威嚇の信号は信用されるのだろうか?
毒があって味がまずい種類の動物は、そのことを強調して示すために、警告色と呼ばれる派手な色をしていることが多い。また、毒がなくても無害な種が、実際に毒があってまずい種に似せる、ベイ型擬態というものがある。これらはなぜ信用されるのだろうか?
コミュニケーションの進化、信号の進化は、行動生態学の非常におもしろい一分野である。なかでも「ハンディキャップの原理」と呼ばれているものは興味深い。それは、イスラエルのアモツ・ザハヴィが考え出したもので、信号が信用されるためには、発信者にとってコストのかかるものでなければならない、という説である。
威嚇のシグナルを考えてみよう。そのシグナルは、「自分は本当に闘ったときには非常に強いのだぞ」という情報を発している。もしも、本当は強くないのにそのような信号を発する個体がたくさんいるのならば、やがて、そんな信号は誰も信用しなくなるだろう。そこで、その信号が信用されるためには、それは本当に正直に内容を示すものでなければならないはずである。
そのためには、本当に強いものだけしか出せないような、つまり、強くない個体にはまねができないような、コストのかかるものでなければならない、という説である。ハンディーを背負えるものだけがそれを発することができるという意味で、ハンディキャップの原理と呼ばれている。
クジャクの雄の羽がどんな信用のできる情報を伝えているのかは、まだはっきりとはわかっていない。しかし、雌は確かにそこから情報を読み取っているようだし、あの華麗な羽を生やすのには本当にコストがかかっている。あんな大きなものを生やすための余分な栄養も必要だし、目立つので捕食者にもねらわれやすい。風の強い日など、それに逆らってあの羽を広げてみせるには、相当のエネルギーが必要である。
毒があってまずいことを知らせる警告色は、赤、黄色、黒といった縞や斑点であることが多い。これらの色素を作りだすにもコストがかかる。こういった化学物質の多くはカロチノイド系であるが、これらを合成するのは、それほど簡単なことではない。ベイツ型擬態で、毒のあるものに擬態している種類も、実際に毒はないものの、色を出す化学物質gは自ら作っているのであり、ただ楽々とまねているわけではないのだ。
ベイツ型擬態の場合など、本当には毒ではないのだから、敵は、それを見分けることができた方がよいだろう。しかし非常によく似たものを見分けるには、また、見分ける側にコストがかかる。そして、中途半端に見分けて失敗したときのコストは、さらに大きくなるだろう。そこで、「一応、どれも信用する」という無難な手をとっているのかもしれない。
細胞の表面には、さまざまな種類の糖鎖がくっついている。これらは、複雑な構造をしており、いろいろな細胞の種類を見分けたり、特定のタンパク質をみつけたりするための信号として使われている。
最近これもハンディキャップの原理でできているのではないか、という説が出された。たとえば、酵母が細胞の表面にもっている複雑な糖鎖分子は、細胞どうしが接合するときに相手を選ぶために使われている、コストのかかる分子信号ではないかというわけである。クジャクの羽と同様の分子の飾りだ。
この考えが正しいかどうかは別として、アイデアが、狭い専門分野を超えて広がっていくのをみるのは楽しい。異なる分野の研究者との雑談を通して、はっとひらめきが走る瞬間は、ちょっとした感動のときである。
さて、ネオンサイン、コマーシャル、人々の服装や外見、言葉など、人間が発しているさまざまな信号はどうだろうか?これらでは、ハンディキャップの原理は成り立っているのだろうか?
信号の信頼性やベイツ型擬態について考えるとき、私が思い浮かべずにいられないのは、日本全国の道路のあちこちにあった、おまわりさんの人形である。あれは、日本の警察が発明したベイツ型擬態であろう。果たして効果はあったのだろうか?最近見かけなくなったようだが、もう絶滅したのだろうか?
この論文には幾つかの問題となる点が記述されている。例えば最後のおまわりさんを擬態する例の人形の絶滅という事態は、恐らく容易にそれがニセモノであるということを大勢の日本人ドライヴァーが見抜いたからである。そしてそれと同様のことというのは、ある意味では絶滅の危機に瀕した動物種にも見られるかも知れない。例えば最初は絶滅の危機というリスクを回避するというコストを払って獲得したベイツ型擬態の幼虫がいたとしよう。しかしその種の幼虫は長くそのベイツ型擬態の恩恵を被って既に絶滅種には属してはいない。その時捕食活動全般に渡って深刻な危機に見舞われた動物種がその擬態を見抜くということの可能性とは恐らくその種に許容された脳の進化の度合いによるか、さもなくば突然変異個体による偶然的な発見である。
例えば本来ならば毒々しい色彩のその幼虫は害毒種であるという危険性を察知する視覚能力センサーの付与された種のあるセンサーが機能しない突然変異個体を持ったとしよう。そしてその個体は他個体と異なって臆することなくその幼虫を食べたのだ。するとそれがおいしいということが分かったし、それを食べても死ななかった。するとそれまでは回避してきた他の個体も挙ってこのベイツ型擬態の幼虫を食べ始めるだろう。これは動物に備わったミーム的現象である。恐らく生物学者たちは自然選択というものをそういうレヴェルで考えているのかも知れない。つまり安定化したベイツ擬態がほんの偶然によって見破られることによって、今度はベイツ型擬態のあり方、あるいは擬態そのもののあり方そのものに変更が加えられていくということは考えられるところのことである。
スーザン・ブラックモアはミームということを人間による一つの驚くべき現象であるということをもってドーキンスが指摘したことを発展させて、一つの学問の域にまで拡張したが、そのミームの実質の一番特徴的な事態とは、端的にある行為を最初に始めた個体のするように模倣するということである。しかし恐らくブラックモアの主張するように、せいぜいのところ動物のなし得る模倣という行為は極めて限定されていよう。その点人間だけが殆ど彼女が指摘しているように笑う時にまで周囲が全員笑っていれば、連鎖反応で笑うようになる。つまり人間の大きな特徴とは極めて模倣能力に長けているということなのである。だからこそ滅多にないことであるが、ある専門分野のノウハウとか原理とかが別の専門分野のそれに影響を与えるというそのノウハウや原理の持つミーム性というものは、長谷川氏のような専門分野に携わる方にとって驚異の偶然であるということなのだ。つまり人間の能力としての模倣という事実に対して、いかに学問の世界の閉鎖性が、その本来の応用可能性を閉ざしているかということは、逆に言えば、人間は一旦獲得した能力とか知識を専門家のようなギルドによって独占され、またその事実に対して大した大きな疑問を抱かずに過ごすことが出来るとい安穏とした全能感と、最前線の専門分野の人々が往々にして抱く盲目の信頼という奴が人間を日常生活において支配している、ということなのである。(このことは本論全般に渡る一つの大きなテーマである。)
このことこそ私が前節で示した「問題なのは、我々は①の不動事実であると思っているものの大半が実際に③のものであるということになかなか気がつかないということなのである。」という部分の主張に繋がるのである。
細分化された自然科学分野の最前線というものはある意味ではその分野の携わっている人間にしかあらゆる知識やノウハウ、テクノロジーや思想が波及しないというの現代の常識なのである。このことを問題として提出された論文が佐藤徹郎氏の「科学から哲学へ」である。
付記 論文未完成部分作成のために数週間お休み致します。(河口ミカル)
生物学者ならこのような全能感を進化による獲得能力であると捉えるかも知れないが、この全能感というものは大人になればなるほど付帯してくるものでもあるようだ。幼児的全能感とも呼ばれるこの気持ちとは、例えばあらゆる専門職に就く人々の気持ちを支配している。
例えば営業畑の人間は商品開発部とか総務部といった会社の部署のどの人間よりも自分たちが一番社を動かしていると考えているようだし、政治家は官僚だけが社会を動かしているという気持ちを抱き、事実そういう面もあるが、彼らだってある意味では政治が一番経済社会のリーダーシップを取るべきであると感じ取っている。あるいは医師には色々な専門があるが、どの専門分野の人間でも自分たちがいなかったなら、世の中は混乱すると信じて疑わない。科学者の世界では細分化が進んでいるけれども、どの専門分野の人々も自分たちのする専門が一番正しく、どうして国はもっと自分たちにお金を出してくれないのかといつも不満たらたら洩らすことを厭わない。
哲学者は哲学者で一番自分たちが公平な目で社会を観察していると本気で思い込んでいるし、文学者や芸術家たちは自分たちがいなかったなら、社会や世界は間違った方向へと突き進んでいくに違いないと真剣に考えている。しかしそんなことは恐らくない。今生きている哲学者たちが全くいなくなっても、それ以外の職業の中からそれに類する思考の人々は必ず出現するし、今いる芸術家が全員いなくなっても同じことだし、全ての政治家がいなくなっても、彼らの代わりは幾らでもいるし、医師も官僚の同じことである。要するにそういう風に「もし自分たちがいなかったなら世の中は困る」とそう勝手に思い込みそれを気休めにあらゆる困難なそして不可避な命題、例えば死、例えば人類の絶滅ということを回避して誤魔化して生きているという風にも言えるのだ。まあそう言うことそのものが哲学者的、中島義道氏的であるという指摘もあるかと思うが、そんな深刻にならなくても、恐らく全ての職業、立場の人間は自分を中心にしてしか全てを把握、認識することが出来ないのだから、そういう楽観的な把握、認識の仕方が実は一番落とし穴であるという意識だけは捨てずに生きていくということが極めて重要ではないのだろうか?
そしてそのように「自分だけは大丈夫である」という変に吹っ切った考えに支配されていること、そういう状態を維持することが一番生きていく上で障害がないという感覚こそ最も我々人類が誰からともなく獲得したものではないだろうか?
このように誰からともなく伝えられるような感覚、思いの状態を、心理学者のスーザン・ブラックモアはその言葉の創作者であるリチャード・ドーキンスから拝借して創作者の満足を得る形で体系化した。その言葉こそミームである。ミームはまるでウィルスのようの増殖して人間から人間へ、人間が書く本からそれを読む人間、それに基づいて新たに本を書く人によって更に教え伝えられてゆくものである。本以外にも看板、コンピューター、あらゆるメディアによって伝えられていく。あるいは服装のモードや建築の様式、芸術の形式、法体系といった全てがこのミームに該当する このことは3節で私が述べたように、もし嫌な奴は集団内にしてそいつを殺したとしても、集団が多ければ多いほどまたその生き残った奴の中に気に入らない奴はいて、そういう風に繰り返してゆくと、次第に残された成員は三人になり、そしてその中で他者である二人の中でひとりが気に入らないから殺すとすると、最後には自分ともう一人だけになる。しかしそいつが嫌で殺したら、集団内には自分一人だけになる。そういう風に考えれば逆に政治家という職業が嫌いだからと言って政治家全員を殺したとしても尚、生き残った他の職業に就く人々の中から政治向きの人間が現われ、また政治家という職業が復活するという意味で、仮に「俺たちのような職業だけが生き残れば社会は大丈夫だ。」と高を括るような楽観的な全能感を持つ(こういう職業的プライドはインテリ、エリートにより顕著であるが)としても、恐らく自分たちだけが社会を支えているという幻想そのものは潰え易い。もし銀行の頭取が突然死したとしても、その銀行に対する信頼が世間から厚ければ厚いほど恐らくその銀行の経営そのものはその頭取の死をものともせずに以前のまま何らかの形で存続してゆくことだろう。勿論人事面では多少の突発的は変更をきたすことがあっても尚、社会全体に与える影響というものは然程大きなものではないであろう。そういう意味ではブラックモアの主張するミームの波及力というものは、ある意味では一人の人間の存在というレヴェルから言えば空しいくらいに無時間化された自然の意図であるとさえ言えよう。
例えば今言った銀行の頭取の例で言えば、会社や組織に長年尽くしてきた人物がリタイヤすることとなり、それまでの人生の生き甲斐を急激に喪失して、老後の人生の過ごし方そのものがどうあるべきか思い至らなくなり、次第に社会での疎外感を感じつつ寂しい老後を送ることになるような意味で、人間の生き甲斐とか人生の幸福感情といったものも、一旦それまで中心だった仕事中心の生活が一挙に失われると途端に路頭に迷うというようなことが十分人間人生において考えられるところのことである。
しかしミームというものをそのような人生のあるべき本来の姿と言うような哲学的命題にまで遡及するようなタイプの考えをも含有させ、全能感というオプシミスティックな処世訓として得るものは全く逆のものとして考え合わせると、ミームというもののあり方は多様を極めるとも言い得る。
生物学者の長谷川真理子氏は「科学の目 科学のこころ」(岩波新書)で次のように述べている。少し長いが重要だ思われるので節全部を掲載しておこう。
ハンディキャップの原理
交差点の赤信号で車が止まるのはなぜかと聞いたら、それは規則だからという答えが返ってくるだろう。確かにその通り、そういう取り決めになっているのだ。
しかし、「そういう取り決めになっている」ということと、「実際にその取り決めが守られている」ということは別だ。「赤信号は止まる」という取り決めが守られているのは、そうしなければ、本当に危険なことが多いからである。その証拠には、車がこないことが明白である場合、歩行者は信号を無視することがよくある。
クジャクの雄の華麗な羽は、雌に対する求愛の信号である。雌は、雄の羽をみて相手を選んでいるらしいが、そこにはどんな情報が含まれているのだろうか?また、多くの動物は、直接的な闘争を避けるために、さまざまな儀式的な信号を発達させている。威嚇の信号をみた相手は、それだけで、実際の闘争には至らずに逃げてしまうことがある。では、なぜ威嚇の信号は信用されるのだろうか?
毒があって味がまずい種類の動物は、そのことを強調して示すために、警告色と呼ばれる派手な色をしていることが多い。また、毒がなくても無害な種が、実際に毒があってまずい種に似せる、ベイ型擬態というものがある。これらはなぜ信用されるのだろうか?
コミュニケーションの進化、信号の進化は、行動生態学の非常におもしろい一分野である。なかでも「ハンディキャップの原理」と呼ばれているものは興味深い。それは、イスラエルのアモツ・ザハヴィが考え出したもので、信号が信用されるためには、発信者にとってコストのかかるものでなければならない、という説である。
威嚇のシグナルを考えてみよう。そのシグナルは、「自分は本当に闘ったときには非常に強いのだぞ」という情報を発している。もしも、本当は強くないのにそのような信号を発する個体がたくさんいるのならば、やがて、そんな信号は誰も信用しなくなるだろう。そこで、その信号が信用されるためには、それは本当に正直に内容を示すものでなければならないはずである。
そのためには、本当に強いものだけしか出せないような、つまり、強くない個体にはまねができないような、コストのかかるものでなければならない、という説である。ハンディーを背負えるものだけがそれを発することができるという意味で、ハンディキャップの原理と呼ばれている。
クジャクの雄の羽がどんな信用のできる情報を伝えているのかは、まだはっきりとはわかっていない。しかし、雌は確かにそこから情報を読み取っているようだし、あの華麗な羽を生やすのには本当にコストがかかっている。あんな大きなものを生やすための余分な栄養も必要だし、目立つので捕食者にもねらわれやすい。風の強い日など、それに逆らってあの羽を広げてみせるには、相当のエネルギーが必要である。
毒があってまずいことを知らせる警告色は、赤、黄色、黒といった縞や斑点であることが多い。これらの色素を作りだすにもコストがかかる。こういった化学物質の多くはカロチノイド系であるが、これらを合成するのは、それほど簡単なことではない。ベイツ型擬態で、毒のあるものに擬態している種類も、実際に毒はないものの、色を出す化学物質gは自ら作っているのであり、ただ楽々とまねているわけではないのだ。
ベイツ型擬態の場合など、本当には毒ではないのだから、敵は、それを見分けることができた方がよいだろう。しかし非常によく似たものを見分けるには、また、見分ける側にコストがかかる。そして、中途半端に見分けて失敗したときのコストは、さらに大きくなるだろう。そこで、「一応、どれも信用する」という無難な手をとっているのかもしれない。
細胞の表面には、さまざまな種類の糖鎖がくっついている。これらは、複雑な構造をしており、いろいろな細胞の種類を見分けたり、特定のタンパク質をみつけたりするための信号として使われている。
最近これもハンディキャップの原理でできているのではないか、という説が出された。たとえば、酵母が細胞の表面にもっている複雑な糖鎖分子は、細胞どうしが接合するときに相手を選ぶために使われている、コストのかかる分子信号ではないかというわけである。クジャクの羽と同様の分子の飾りだ。
この考えが正しいかどうかは別として、アイデアが、狭い専門分野を超えて広がっていくのをみるのは楽しい。異なる分野の研究者との雑談を通して、はっとひらめきが走る瞬間は、ちょっとした感動のときである。
さて、ネオンサイン、コマーシャル、人々の服装や外見、言葉など、人間が発しているさまざまな信号はどうだろうか?これらでは、ハンディキャップの原理は成り立っているのだろうか?
信号の信頼性やベイツ型擬態について考えるとき、私が思い浮かべずにいられないのは、日本全国の道路のあちこちにあった、おまわりさんの人形である。あれは、日本の警察が発明したベイツ型擬態であろう。果たして効果はあったのだろうか?最近見かけなくなったようだが、もう絶滅したのだろうか?
この論文には幾つかの問題となる点が記述されている。例えば最後のおまわりさんを擬態する例の人形の絶滅という事態は、恐らく容易にそれがニセモノであるということを大勢の日本人ドライヴァーが見抜いたからである。そしてそれと同様のことというのは、ある意味では絶滅の危機に瀕した動物種にも見られるかも知れない。例えば最初は絶滅の危機というリスクを回避するというコストを払って獲得したベイツ型擬態の幼虫がいたとしよう。しかしその種の幼虫は長くそのベイツ型擬態の恩恵を被って既に絶滅種には属してはいない。その時捕食活動全般に渡って深刻な危機に見舞われた動物種がその擬態を見抜くということの可能性とは恐らくその種に許容された脳の進化の度合いによるか、さもなくば突然変異個体による偶然的な発見である。
例えば本来ならば毒々しい色彩のその幼虫は害毒種であるという危険性を察知する視覚能力センサーの付与された種のあるセンサーが機能しない突然変異個体を持ったとしよう。そしてその個体は他個体と異なって臆することなくその幼虫を食べたのだ。するとそれがおいしいということが分かったし、それを食べても死ななかった。するとそれまでは回避してきた他の個体も挙ってこのベイツ型擬態の幼虫を食べ始めるだろう。これは動物に備わったミーム的現象である。恐らく生物学者たちは自然選択というものをそういうレヴェルで考えているのかも知れない。つまり安定化したベイツ擬態がほんの偶然によって見破られることによって、今度はベイツ型擬態のあり方、あるいは擬態そのもののあり方そのものに変更が加えられていくということは考えられるところのことである。
スーザン・ブラックモアはミームということを人間による一つの驚くべき現象であるということをもってドーキンスが指摘したことを発展させて、一つの学問の域にまで拡張したが、そのミームの実質の一番特徴的な事態とは、端的にある行為を最初に始めた個体のするように模倣するということである。しかし恐らくブラックモアの主張するように、せいぜいのところ動物のなし得る模倣という行為は極めて限定されていよう。その点人間だけが殆ど彼女が指摘しているように笑う時にまで周囲が全員笑っていれば、連鎖反応で笑うようになる。つまり人間の大きな特徴とは極めて模倣能力に長けているということなのである。だからこそ滅多にないことであるが、ある専門分野のノウハウとか原理とかが別の専門分野のそれに影響を与えるというそのノウハウや原理の持つミーム性というものは、長谷川氏のような専門分野に携わる方にとって驚異の偶然であるということなのだ。つまり人間の能力としての模倣という事実に対して、いかに学問の世界の閉鎖性が、その本来の応用可能性を閉ざしているかということは、逆に言えば、人間は一旦獲得した能力とか知識を専門家のようなギルドによって独占され、またその事実に対して大した大きな疑問を抱かずに過ごすことが出来るとい安穏とした全能感と、最前線の専門分野の人々が往々にして抱く盲目の信頼という奴が人間を日常生活において支配している、ということなのである。(このことは本論全般に渡る一つの大きなテーマである。)
このことこそ私が前節で示した「問題なのは、我々は①の不動事実であると思っているものの大半が実際に③のものであるということになかなか気がつかないということなのである。」という部分の主張に繋がるのである。
細分化された自然科学分野の最前線というものはある意味ではその分野の携わっている人間にしかあらゆる知識やノウハウ、テクノロジーや思想が波及しないというの現代の常識なのである。このことを問題として提出された論文が佐藤徹郎氏の「科学から哲学へ」である。
付記 論文未完成部分作成のために数週間お休み致します。(河口ミカル)
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