私たちは知性によって全ての行動を決めているように一見そう思う。しかし現代脳科学や現象学ではそう考えてはいない。現象学以外の哲学では知性とか理性ということよりも、もっと微細な分析によって逆に大枠での哲学的命題の中の諸々のものの証明をしようとしているように見受けられる。分析哲学とか言語哲学がそれである。
私は前著「他者と衝動」において、欲望、欲求レヴェルでの衝動を大きな行動誘引の根拠として捉えたが、必ずしも知性や理性を否定したわけではない。それらもまた一つの衝動であると捉えたに過ぎない。要するに衝動は知の限界を哲学の側から見いだされたことに端を発している。それはウィトゲンシュタインの「言語の限界は世界の限界である」という有名な言説によって既に示されていた。つまりこういうことである。ウィトゲンシュタインは「論考」においてそう語ることで寧ろ世界という認識そのもの枠組みの、と言うより「世界」を成立させる根拠へと視点をずらすことを試みたのだ、と言うことが出来る。「世界」とは既にそう語り、そのように述べた瞬間に既にある狭い枠組みで全てを捉えようとする欲望を感じさせる。するとそもそも「世界」を成立させる場としての思考とか認識とかの根拠として知の限界をウィトゲンシュタインたちをも連想させた当のものとは、ある意味では論理とか真理とかを生み出す知の限界領域外とは何かを考えることを自然な成り行きとする。それはしかし絶対根拠ではない。寧ろ「世界」(と言う認識)を産出する内的で無意識の欲求に近いものと捉えることが出来る。それを私は前著から衝動と捉えたのだ。この衝動は稲垣諭氏の名著「衝動の現象学」に触発された面が極めて大きかった。しかしこれからも衝動と長く付き合っていこうと決意した手前敢えて氏の著作については全く触れなかったが、近作においてはそれを解禁しようと思う。
脳科学者の茂木健一郎氏は何かに熱中すること、そしてその熱中することを強制されるのではなく自発的にすることが最も効果的な記憶と学習への近道であると「脳を活かす勉強法 奇跡の強化学習」で述べておられる。つまりそれは記憶しなければいけないという気持ちでは決して脳は効果的に学習されないということだ。そして一定の限定された短時間内に作業そのものを終わらせる、例えば読む本をいついつまでに読むということが学習と記憶に効果があることを氏は示しているが、要するにそれは強制であっても、自己強制であるべきであるということを意味すると同時に、その自己強制とは自分にとって興味や関心を惹かれるものに対する熱中ということを主眼とすることによって達成されると氏は考えておられる。つまりそれは何かを覚える覚え方にしても、他人のしているやり方でではなく、自分流のやり方でいいのだ、いや他人との比較が最も非効果的なことであるとまで氏は主張される。
その考え方の線で考えると、記憶とは決して脳の強制ではない。記憶されるものは自然と脳がそのように働く。どんなに記憶しようと心掛けても、記憶され難いものはなかなか記憶されない。ならば自己強制的に、あるいは義務的に自分で記憶したいと思っている時には、自分流の最も楽しい記憶努力をするべきであるということになる。
結論は人間は意図的に記憶しているのではなく、脳そのものが記憶したいように記憶しているのだ、ということになる。そしてそのことは知の限界とは意志的に覚醒し得る、つまり認識論上でその意味合いを判断し得るものではなく、あくまでその理由とは何か分からないが、まさに茂木氏が著作「すべては音楽から生まれる」において感動出来る(感動という言葉も茂木氏によってそれを使用するタブーがぶち破られた。)音楽とは論理とか理屈で説明が尽くものではないという考えと全く一致するのだが、何故惹かれるのかという理由を説明することは出来ないのだが、惹かれる仕方で何かに没頭するととてもよく捗るということからその外部には知そのものを支える根幹の人間的存在として何かやはり衝動という言葉でしか表現しようもないものがあると考えるのはそう間違ってはいないだろう。それはハイデッガーが世界の存在そのものが私であると捉えたような意味でそうである。
しかし人間は秩序を好み、理性的判断をあくまで志向する生き物である。そこで形式とか法といったものが必要となってくる。そしてそういうものを述べる時、何故それらが必要であるかと問われると「何故かそれに惹かれるから」と答えてはいけないと私たちは考える。これはシステム志向的考えであり誰でもする思考である。そしてこれもまた間違いではない。何故ならこれもまた衝動の一つの変形であるからだ。しかしこれが認識至上主義に陥ることを批判したのがフランス啓蒙主義哲学者であるコンディヤックであったと私は前作において示した。
心理学者であるサイモン・バロン・コーエンは「共感する男脳、システム化する女脳」という著作で、男性は「世界」に対して能動的にアプローチするシステム化能力に秀でているが、女性は逆に「世界」の内部でそのシステムに同化すること、つまり共感に優れていると指摘しているし、茂木氏もそのことは常々主張されていることである。このことに関しては中島義道氏も興味深い指摘をされているのでそのまま引用してみよう。(「狂人三歩手前」中 夏には哲学がよく似合う より)
メルロ・ポンティーは次のようにも言う。「哲学者とは、目覚めそして話す人間のことである」(『眼と精神』)「目覚めている」とは絶えず周囲世界を見ているということである。そして「話す」とは、それを絶えず言語化しているということである。この条件さえ満たせば誰でも哲学者になれる。というより、すでに哲学者である。
いや、もう一つの条件を加えておこう。どんな場合でも、周囲世界に埋没していないこと。われを忘れていないこと。いかなる事件が起ころうが、適度な距離をもって冷静に世界を眺めていること。つまり「冷たい」厭な人間であること。プラトンは哲学の開始を「驚き」と言ったが、ひとの驚くことに驚かず、ひとが驚かないことに驚くと言い換えてもいい。テロが起ころうが、いかな残虐な事件が起ころうが、驚かないが(私は地下鉄サリン事件にもアメリカの同時多発テロにも全然驚かなかった。)、「見えること」の不思議さに驚き、いつも「いま」であることの不思議さに驚く。
思うに女性に哲学者が皆無なのは、こうした「驚きのズレ」がないためかもしれない。少なくとも、私は五十数年にわたる人生において、こういう病的なメカニズムを有した女性にお目にかかったことがない。もちろん、不安定なあるいは病的な精神をもった女性はいくらでもいる。しかし、一通り社会生活をこなしていて、しかも「いまとは何か」という問が絶えず脳髄の中で唸り声をあげている、という女性に遭ったことはないのである。夏の浜辺で、ある女性が太陽に身を焼きながら「いまとは何か?」と考えていることを想像するのは難しい。
それはいかなる文化にも共通の根源的な両性の差異であるように思われる。女性たちは「世界の不安定」に対する懐疑を抱かない。ふっと抱くかもしれない。しかし、それを執念深く追究しようとしないのだ。次の瞬間世界がガラガラ崩れるかもしれない、という不安感がない。彼女たちの悩みは「世界の中」での悩みであり、「世界の枠」そのものに関わる悩みではない。それは彼女たちが生物体として劣っているからではなく、優れているからである。
男性の不安定性と哲学は直結している。犯罪者も、自殺者も、精神病者も、性的倒錯者も、ひきこもりも、圧倒的に女性より男性の方が多い。哲学者も、疑いなくこうした反社会グループの一員なのである。
そう述べる中島氏はどこか哲学自体に対しても覚めていて(氏は観念的哲学者、形而上学的哲学者である。)、より男性社会人として哲学者全般に対する社会の見る眼に対して返答している意識のようだ。しかし最後の言述に対してコメントを加えるとすると、犯罪者が男性の方が圧倒的に多いのは、社会的地位ということの精神的プレッシャーが男性の方に意識レヴェルで高いことに起因し、自殺者の数もそれを反映しているということ、そして精神病患者が男性の方が多いのもこのピア・プレッシャーが影響を与えているだろう。そして性的倒錯者に男性が多いのは、そもそも体内に生命を宿す女性は生理的宿命を帯びているので、性的に倒錯する理由がないということに起因する。ひきこもりもまた社会的責務とかピア・プレッシャーに左右されるところが大きい。
端的に多少シンボリックでステレオタイプ的認識を採用するとすれば、男性は未来に対する展望を観念論的に設定することが得意であり、命令系統に対する同化と決定の明瞭さを好む。(だからこそ勝者と敗者が明瞭に区別されることから来る精神的プレッシャーも大きいのだ。)これを仮に観念的時間論者と呼ぼう。それに対して女性は忍従的な同化と共感的受容に長けている。それは未来に対する絵図よりも現在を大切にするという心的傾向のものであり(だからこそ逆に今とは何かと問う必要がない。)、これは命令系統とか決定に対する躊躇とか敬遠という心理に近い。これを実在的時間論者と呼ぼう。
すると現代脳科学において茂木氏をはじめ多く研究者や論客が喧々諤々の論争をしているクオリアとは、端的に認識至上主義的な男性脳的傾向に対して、実践的現実受容的女性脳的傾向の感受という図式を取り入れていることになる。
私たちの行動というものを今考えてみることにしよう。それはパソコンでネットサーフィンをすることでもワードに論文を入力することでも、原稿用紙に執筆することでも、テニスや卓球やゴルフをすることでもいいし、ミシンを踏んで洋裁をすることでもいいのだが、そのことに熱中しているといつの間にか我というものに対する明確な意識を失い没我状態となり、忘我状態になることがあるが、しかしこういった忘我とか没我というものも実は最初は意志的、意図的な考えとか意識があって、始めていることなのである。
では考えることとか瞑想することとはどういうことなのだろうか?この場合私たちは思考錯誤を脳内だけでして、記述することも、行動することもなくただ思いあぐねているとすると、それは脳内の思惟であり、反省的意識に直結することとなる。そして想起とか想像という心的作用が登場し、ある時には堂々巡りになる場合もあるが、あまり意識的ではなく漠然と、あるいは漫然と何かを知覚したりしていている時に、ふと何かそれまでには思いもよらなかったような考えが閃くことがある。このことを哲学者のミシェル・アンリは「現出の本質」で光と呼んだものではないだろうか?つまりこの種の閃きのことをインスピレーションと呼んだり、脳科学ではセレンディピティーと呼んだりするのだろう。
一般的傾向としての男性脳的傾向とは、端的に観念的時間論意識であり、物事を主催し、支配する意識であり、結論とか区切りを重んじるとすると、女性脳的傾向として私たちは、実在的時間意識として雰囲気の享受、感受、感得といったことを持ち出してもよいだろう。それは前者を「世界」の構築、美の構築、知の限界に対する認識とすれば、後者を「世界」の受容、美の感受、知の有用性に対して素直に利用することとならないだろうか?それは要するに生成の原理からすれば、前者を場の構築、後者を場へと吸収同化することと捉えてもよいのではないか?私たちの日常での自治会とかの会合から、会社の会議でも議会にしても、この二つの態度が男性女性にかかわりなく共存しているとは言えないだろうか?要するに理念的であり理屈っぽい男性脳と、現実的であり協調的である女性脳とが交差しているのだ。(政治の世界の根回しなどは女性脳的である。)
これをシステム化場構築性(前者)と、共感性場吸収同化性(後者)と呼ぶことにしよう。そして芸術とか文学のような行為はその両方の融合であると考えてよいだろう。何故なら私たちはシステム化する知性によってそういう創造の世界を構築する(決意する、意志する)のだし、同時にそれは「世界」に対して対峙するだけではなく、「世界」に存在することそのもの、つまりハイデッガー的に言えば世界内存在的事実(そのことをハイデッガーは事実性と呼んだ。)として受け容れる(吸収される、同化する)ことが必要だからである。前者の認識は場と場以外の関係、場の内包と場の外延との相関性で見るメタ認知と言ってよいだろう。そして後者は認識と言うより自然的な選択であると言えるし、要するに内在的である。
しかし私はそのような意志的な創造外的な局面において、例えば知人とか友人との会話において、よりシステム化するでもなし、かと言って素直に真意を告げるでもなく、どこか虚勢を張ったり、はったりをかましたり、要するに素直になれないような依怙地な気持ち、あるいは強情な気持ちになることもかなりある。
私はそれを虚栄心をも産出するものとして羞恥というものを考えている。前作でもこの羞恥ということは大きく取り上げ、それを論の基軸にもしてきた積りだが、近作ではそれをより素直になれない気持ちということで代表させて追求してみたい。
私は人間とは他者に対して抱く羞恥がないのなら、まず意思疎通するという気持ちにもならないし、なれないと考えている。そしてある特定の他者に対する羞恥の払拭が真意を告げることを誘引すると前作は考えた。そして今作でもその基本的考えに違いはないが、羞恥が行動の起爆剤であるという前作における考えをより徹底させ、時にそれを衝動を後押しするものとして、あるいは他者存在を意識することによって生じると私が考える意志とか欲求を整えるものとして、あるいはより行動をスムーズに遂行させる起爆剤として考えることにしようと思う。
第一章では行動をする際の心的プロセスからその羞恥を考え、素直になれないということを構成する羞恥の正体を考え、そして素直になることをより主体的な行動であると考え、その内的連関と、相関性について掘り下げてみたい。
そして第二章では私たちが自然とか空間的に雄大な場面に遭遇した時、一人でそれらと相対する時と、他者と共にそれらに相対する時との心理的違いにおいて、前者をより対峙的遭遇と呼び、後者を共有的遭遇と呼び、その内的連関と相関性について掘り下げてみたい。
Saturday, November 14, 2009
Friday, November 6, 2009
〔他者と衝動〕結論 自己と他者③
しかし自己‐他者関係における大前提である言語空間とはどのような形で顕現し、現出しているのだろうか?それを今度は痛みの問題、そしてそれを関連し得る問題として嘘と誠実性の問題から考えてみることにしよう。
先に私が述べた正義をその都度見測る基準だけは常に持っているということは、その規準を通して常に正義を設定するという私たちの在り方を示したのだ。そして正義と理念というのは極めて似ている。まさにヴェーバーもフィンクもそう感じていただろう。そして正義ということが最も有効に作用する場とはとりも直さず他者存在であり、他者存在を相互に共有し合う言語空間である。私たちは立食パーティーに参加しても少しばかりのワインに頭がくらくらするというご夫人を介抱したり、足の不自由な老人が横断歩道を一人とぼとぼ歩く姿を見て手を差し伸べたりすることもあるかも知れない。そしてそうするのは、端的にその他者が無数の潜在的意志伝達同意者として自分と同じような感覚を保持し、苦悩する存在であるという承認をしているからなのだ。しかし他者の痛みは自分の痛みとは別種のものとして我々にとって立ち現われる。つまり自分の痛みであるなら我々は誰しもそれが直接であるから身体のどの部位であるかを一々目で見て確認しなくても即座に知ることが出来る。尤もその痛い場所をよく見ると皮膚が浮腫んでいたり、出血していたりすることを発見するということはあり得るだろうが。
しかし他者の痛みは激痛をする表情だけからは即座には理解出来ないことも多い。勿論腹を抱え込めばそれが腹痛であると思うし、頭を抱え込めば頭痛であると理解することくらいなら出来よう。しかし私たちは自分で腹が痛いと知ることが出来ても、それが即座に胃であるか肝臓であるか知ることの出来ない場合も多い。医師に診て貰わなければ正確な病状を知ることの出来ないケースも多々ある。しかしまさにそう考える時我々は他者の痛みを自分の痛みに置き換える、少なくとも思考の上ではそうの筈である。
私は<正義とはその都度求められる設定規準である>と言った。それはつまりその都度正しいこととは何かと人間は問い続ける運命にあるということを物語っている。例えばある者が処刑された歴史というものを今になって振り返る時、私たちは現在社会ならこれくらいのことで処刑されることなどないのにと思う。しかしそう思えるということはその時処刑されたという歴史的事実があったからかも知れないのだ。例えばその時から現代まで寛容な判定がそのような者たちに対して一般的に下されてきていて、その種の犯罪者たちがいよいよ調子に乗り数段上の犯罪へと高じて来たような状況があった場合、例えば現今のように凶悪犯罪者に対する死刑がより速やかに施行されることをも含めて少年犯罪であっても寛大な判決を下すべきではないという社会通念と風潮のようにその時処刑された犯罪者と同様の犯罪を現代において犯した者に対して加えられるかも知れない。つまり今述べたことは最初に述べた「これくらいのことで処刑されたのか」という私たち現代人の疑問と逆のケースであるが、このことから理解出来ることとは、要するに過去における判例とか刑罰史における反省と再評価ということにおいて、相対的に現代の正義とは常に決定されてきているのであり、現代において下される正義とされる決定事項とは現代に生き、現代(これを書いている時点とは2008年6月18日であるが)の社会状況を知る者のみが理解出来ることなのだ、とだけは言える。このことをA・J・エアはその時に下された判断はその時なりに正しいということを「言語・真理・論理」において述べている。
そうなると不運な犯罪者と幸運な犯罪者というものが出現してくることにはなる。つまり有体に言えば、刑罰の対象となるようなタイプの成員を基軸に物事を考えてはいけないという倫理が厳然とあるということである。私は率直に言えば決して犯罪者の味方ではない。しかし犯罪は恐らく未来永劫なくならないだろう。そしてその都度人間はその時代に固有の正義を見いだそうとしていくだろう。
他者の痛みの問題を考える時、実はこの点が最も重要である。ある人が訴える痛みに対して周囲の人も、医師も全て「それくらいの痛みなら通常は耐えるものですよ。」と痛みを訴える者に告げるかも知れない。事実そういうことというのは多く今までも見受けられた。その中の幾つかは今まで発症例の極めて少ない奇病であったりする。そして健康であると宣言された多くの患者たちが突然死をしてきた。要するにどのような成員を平均的であると見做すかが医学における正義の設定規準であるとするなら、私たちは極めて曖昧な設定規準で例えば犯罪に対する処罰をその都度決定してきたということとなり、それは痛みの問題でも全く相同であるということである。どういう痛みが耐えられないものであり、どういう痛みなら通常耐えられるものであるかということは、実は厳密に言えば、一人一人人間の身体の細かい性質が違う以上極めてその時代毎の医学的な正義という曖昧な状況論によって決定されていることになるのである。
それは生理学的な判定基準以外にも心理学的判定基準とか、社会学的判定基準とか、哲学的判定基準というものもあり得るかも知れないということから、結局他者の痛みはその他者になってみなければ理解出来ないということと、それが物理的にも精神的にも不可能であるのなら、私の痛みに対する他者の側からの判定とか判断とは恣意的なものでしかあり得ないということが結論として導かれる。だからそのことから逆に考えれば理念とか正義とかはその都度設定され直されるにもかかわらず、相も変わらず我々はそこにしがみつきたくなる幻想かも知れないということである。これはパットナムの批判する相対論批判(彼は相対論が唯一絶対正しいとして相対的判定を常に下すこととなると相対論それ自体も相対的であることになり矛盾することを挙げながら論証している。)とも共存可能な論理である。
要するに正義という規準を設けようとする私たちの欲求とは一体何かについて問わなくてはならない。それは各学者たちが唱える理念ということにも当然該当する問いである。そこで私に思い浮かぶこととは、人間は常に嘘をつく動物であるということである。嘘と誠実性ということについて考察しないで、この正義とか理念ということを考えることは出来ない。そして恐らく痛みの問題というものの判定基準を私たちが設けてしまうということに対する何故にも答えられない。
しかし意外とこの規準を設けなくてはならないことの理由は単純なところにある気も私にはする。と言うのも、まず痛みというものがその痛みを感じる時の人間の心理状態に左右されるからではないかと私は考えているのだ。つまり気分に痛みが左右されるからこそ、一般的に耐えられ得る痛みという基準を医師たちは設ける必要があると考えているのではないかということである。
例えば音楽が聴きたい時の心理状況とは、意外と音楽を聴くことによって気分的にも感情的にもインスパイアされたいという欲求があることが了解される。例えば何かに熱中していてその作業とか思考に没頭したい時には通常我々は音楽を聴きたくないことの方が多い。しかしいざ何かに取り掛かってみて、意外と気分が乗らなかったり、あるいは難題のぶち当たり一旦休憩を取り、困難に打ちのめされた心を鎮めたいと思ったりした時とか、何かをし終えた達成感に浸っている時などに音楽を聴きたいと願うことからも、音楽とはその時々の感情を調整する役割があることが分かる。勿論それは基本的には予め持っているCDを聴く時には、どういうタイプの音楽を聴くか自ら主体的に選択する場合に限られるとそう思われるかも知れない。しかしテレビのスイッチを捻って音楽ヴァラエティー番組をやっているのを了解してそれを見ようと思う時だって我々はその音楽が聴きたくないのならチャンネルを変えればいいことなのである。
それに私たちの感情は喜怒哀楽と語彙で示すような四種類だけに拠っているのではない。嬉しいという感情の質も性格も内容も、その感情の発端となった出来事次第でもだが多様であり、無限にあると言ってよい。もっと明確に言えば人間の感情というものは、生涯一瞬たりとも同一の状態にはないと言ってよい。昨日あった嬉しさと今日感じている嬉しさは似たようなものに思えてもやはり違う。従って同じような痛さを感じたとしても、その時にあったこと、その痛みを感じた時の脳裏に去来する想起過去の内容も性質も全く違う以上、あるいはつい寸前にあった出来事とか心理状態もその時々の想起内容や同じ記憶内容に対する存在感の比重なども違う以上全く異なって感じられる筈だ。例えば一つの痛みとは他の部分はいたって健康な状態の時と、何か他の箇所も病んでいる時とではまるっきり異なって感じるものである。だからこそ医師たちは身体ホメオスタシス的な観点から耐えられ得る痛みとかそうではないだろうということをある程度規準を設けているのだろう。
それは精神的なことが私たちの場合痛みを倍増させてはいるが、逆に本当は激痛であっても、痛みを恒常化させている病人や、死期の近いことを悟った終末期患者たちは、それでも尚精神的認知を人間的に持っていることに感謝の念を抱き、耐えることを可能にしている(ナースや医師に必要以上の苦情を最早告げることを断念しながら)という現実もあることを物語っている。つまり人間は身体生理学的なことと、自らの認識によって死に対する恐怖とか諦めとか生そのものへの感謝といったことを区別することが出来るのだ。だから面白いことに大便をしたいのに、どこのトイレも入っていて、洩れそうになる時どんなに辛くてもそのことを苦に自殺したいという気になる者はまずいない。
だから身体的生理と精神的価値との区別を理解することが出来るために、却って身体的な痛みの忍耐度というものに関して健康で将来ある者ほど大袈裟に覚知する(堪え情がない)傾向があるのだろう。きっとまたそうでなければホメオスタシス上でも、生命維持の観点からも困るのだろう。それは生物学者たちが返答すべき命題である。だからこそその大袈裟な訴えに対して「大したことはないですよ、これくらいなら。」と医師は正直に患者に告げるのである。あるいは終末期の患者に対しても医師は未だ快復可能であるようなニュアンスを仄めかすのだろう。しかし本当は本人が一番よく知っている場合の方が多いだろう。
それもこれも私たちが精神というものの要である意志とか意識というものを携えているという認識があることに由来する。意志をどう捉えるかとか、意識をどう捉えるかということはそれだけで一冊の本を必要とするくらいの命題なのだが、脳が全てを決定すると言っても、その決定に呪縛されていると人間がどうやら思いたくはないらしい。だからこそ意志、自由意志という言葉、あるいは無意識をも含めた意識(私たちは通常ノンレム睡眠時には意識はないとし、それ以外の夢を見ている時は半意識<私などは寝ても気になるような問題を抱えている時には見ている夢を、これは夢であると半分認識している時すらある>、そして覚醒時を意識があるとしている。)を、死した状態、あるいは生命ではない状態である非意識と峻別しているのだ。しかし死んだ後の意識の在り方を知る者がいない以上私たちはこれを生者の論理であるとしか判断しようがない。
人間は自由や自由意志や自由意志論の奴隷であると私は言った。そのことに関しては脳科学での人間の脳は強制されるとやる気を失うようになっているという様々な研究結果からも理解出来るかも知れない。茂木健一郎氏もそのことを積極的に啓蒙している。自ら主体的に関心のあることに邁進している時人間の脳にはドーパミンが放出しているらしい。しかも達成感とは他者から自己に対して差し向けられる報酬であれば一番だろうが、自分で自分の目標を立てて、それが達成した時には、自分で自分に褒美を与えるということが一番であると氏は仕事や勉強の能率を上げるために推奨している。
だからそれは恐らくネガティヴなことに関しても当て嵌まるのだろうと私は思う。悩みとは悲観的になればなるほど深まるのだし、また逆に悩むことそのものを楽しむということも可能であるし、そもそも哲学者たちとはそういうことの得意な人びとである。そして感情が嬉しさ一つとっても、未来に光が差し込んできた気分の嬉しさと、想起される過去における達成感による嬉しさとでは質が違うだろう。従って楽しい気分の時憂鬱なブルースとか悲しいメロディーの曲が聴きたいと感じる時もあれば、益々陽気な音楽を聴きたいと願う時もあるし、それは憂鬱であったり、塞ぎこんだりしている時でも同様である。要するにこれこれこういう感情の時にはこれこれこういう音楽を聴きたいものだという法則的な真実などない。ただあるのはその時々の最近の傾向というのだけである。それは人生が刻々と身体状態も、心理状態の傾向を変化させつつあるのだから当然であろう。また音楽などの場合好きな音楽の傾向も年齢と共に勿論それはその人間の性格的な傾向と相俟ってのことなのだが、刻々と変化しつつある。勿論昔好きだった傾向に先祖還りすることもあるし、二度と昔の傾向には戻らない場合もあるだろう。
痛みとは他人のものになると想像するしか手がないし、今現在何らかの痛みを感じていない者は、何故かかつて同じ痛みを感じたことがある場合でも、観念的な痛みというものしか脳裏には浮かばないらしいということは中島義道氏の「「私」の秘密」で詳述されている。しかしある意味で感情的な気分は何故か痛みの感覚よりも、より切実に他者の告白に対して観念的である以上の共感を私たちは示すことが出来るのではないだろうか?「ああ、そういう気持って理解出来る。」と。つまり健康な者が病んでいる者に示す同情よりはずっと自分も似たような感情を持ったということに対する理解は強いと私は思う。それは幸福な者が不幸な者を敬遠する気持とも関係があるだろう。尤も恐らく今現在辛い気持でいる者に対して今現在幸福な気持でいる者が敬遠したいということはあるだろう。だから私が言う同一感情に対する共感とは、過去を想起して「あの時ああいう気持だったよ。」と告白する時の他者に対する共感のことである。だからそれは恐らく痛みに関しても今通風で痛むのではなく、かつてそうであったと回想する者に同じように痛みを克服した者同士が告白し合うことでも言えるだろう。しかし恐らくそういう病的身体的苦痛以上に感情の方がより他者に気持を理解しやすいということは言えるのではないか?
その最も分かりやすい例とは感動したドラマとか映画とか、小説とか、要するにフィクションに対する鑑賞後の対話での相互の共感である。話者両方が感動した場合のことである。
例えば「ロミオとジュリエット」という戯曲ではロミオとジュリエットが対立する一族同士の恋愛なので、二人を結びつけようと協力する神父の計らいでジュリエットは睡眠薬(偽の毒薬)を飲んで死んだ振りをしていたが、それを見たロミオは本当に彼女は死んだものと思い彼女の亡骸であると彼が思い込んだ隣で自害する。そして目覚めたジュリエットは自分の傍らにある彼の亡骸を見て後追い自殺をするという悲劇である。
しかし本当に愛し合っている夫婦とか恋人というものもあるだろうが、現実として、若い女性がこれと同じ状況になっても、彼の死に悲しむことは当然だろうが、それだからと言って後追い自殺までするケースの方が圧倒的に少ないだろう。その時には悲しみつつも、次第に平凡な日常生活に没入してゆき、再婚したり、新たな恋人を見つけたりするのである。つまり私たちがドラマやドラマで描かれているストーリーの展開や、現実離れした人間の思い切った行動や突飛な言動、あるいは悲壮な決意に感動するのは、私たちの人生が一重にそれほどまでには劇的ではない、率直に言えばもっとずっと平凡で面白みの欠ける出来事の連続であるからなのだ。つまり私たちは異常な状況に対して興奮し感動する性質があるのである。それをカタルシスと呼ぶこともあるが、それは私たちの持っている想像力という能力に起因するのだ。
だから逆に真に偉大な仕事とか事業とか発明とか発見を成し遂げた人というのは、意外と大きな博打に勝ったようなところもあるわけだから、逆にネガティヴな側の人びと、つまり凶悪な殺人犯のような人びとが人を殺したことによって得た達成感に近いものすらあるのかも知れない。特に偉大な思想家とか政治家が齎した社会的影響力を考えるとこの考えもまんざら的外れではないという気が私にはするのである。何故なら彼らはいいことと同じくらい悪いことをも社会に齎してきているのだから。
だから「ロミオとジュリエット」を読んだり、劇や映画を見たりして感動して涙に咽ぶのは、ある意味ではそういう悲壮な決心というものに対して憧れがあり、しかし現実的にはそう簡単にそういう行動へと踏み込めない日頃のディレンマを解消してくれる代理感情によるものだとするなら、それは犯罪者になりきれないという勇気のなさ(通常犯罪をしないでいるということは法を犯し刑罰を受けたくはないという願望からである。)を払拭した犯罪者に密かにエールを送るような心理状態の時すら我々にはあるという意味では、それと近い心理なのではないだろうか?
凶悪な犯罪者には思い切った政策を実行して革命的偉業を成し遂げた政治家に共通するような敵対する者たち(犯罪者の場合には被害者家族とか警察とか法律関係者)を退けてでも遂行した時のスリルと達成感、開放感、エクスタシーといった心理を味わい、達成した後にはそういうことをした者にしか理解出来ない爽快感があるのかも知れない。(だから凶悪な殺人犯ほど改悛の情さえ示さないで潔く処刑されることを望む。)そしてそういう異様な経験を一切することのない通常の市民である私たちは密かに思い切った行動や挙に出た者にエールを送る。勿論犯罪者に対しての共感など絶対公言はしないだろうが。それは裏を返せば私たちの中に一定の異常な行動とか、他人の迷惑を顧みないようなことを仕出かすことを憧れ、それを達成した者にある種の羨ましさを感じ、共感するところさえあるということである。
平凡な結婚生活をしている者などは却って略奪婚をした同性の女性を応援したりするし、男性もまた長年連れ添った女房と離婚してまで人妻と駆け落ちした同性を羨むようなところがある。いや世間そのものでも不倫関係にある人間同士の方を正式な配偶者以上に応援するようなところさえある。それは不倫関係にある者同士があまりにもお似合いのカップルであったなら、正式な相互の配偶者(本来ならそちらの方により同情すべきであるのに、そんなことはスター同士の不倫に比べれば大衆にとってはどうでもよいのだ。)よりも贔屓にする危険な美意識があるのである。(人気スター同士の不倫などに対しては特にそうである。)これなどは完全にモラルよりも見てくれから贔屓にする美意識である。そもそもスターに憧れるというのは、そのスターの持っている生活者としての誠実さとか真面目さに対してではない。仮にあるスターが誠実な性格であっても、それは偶然そうであるだけでそのスターを大衆が好むファクターというのはあくまでそのスターの持つ魅力からなのであり、その魅力とは概してアンチ・モラルな部分があり、要するに適度の不良っぽさとか危険なところさえあるのだ。
これら一切の美意識はアンチ・ヒーロー意識と言ってもいいし、アンチ・モラル意識と言ってもよい。
私たちの社会は全ての成員が心底ではアンチ・ヒーロー志向の憧れを密かに持っているのに、さも取り澄まして皆「いい子」を演じる。それは日本でもアメリカでも韓国でも中国でも、それ以外のどこの国でも同じである。国や共同体によって「いい子」の判定基準が違うだけのことである。
「いい子」の振りをすることそのものを黙認し合う、と言うことは真意を告げずに取り澄ますということへの同意(形式的であり真意からではなく)している。しかしその同意に対する懐疑の感情を示すことこそが羞恥の払拭を意味し、そのことによって親しさが増してくることもあれば、逆に更に敬遠されることもある。後者のようなことはより規制が強かったり独裁であったりする国家とかコミュニティーに見られる現象かも知れない。
アンチ・ヒーロー意識とか志向はある意味ではそれを容易に他者に告白し得ない密かな愉悦であり、スターに対する憧れだけではなく、例えば殆ど一流とは言えないもっと日常的で庶民的なタイプのグラビア・アイドルやモデルとかお笑いタレントに対する贔屓感情において現われる。ちょっと皆の前でそのタレントは好きであるということを公言することが憚られるような対象に対する時により情熱を持って支持する。だから恐る恐る隣に座る他者に自分が贔屓のタレントの名を告げると「実は私も大好きなんです。」と告白されるとよりその者との親密さは深まる。そのタレントがマイナーな存在であればあるほどその結束は固くなる。誰でも知っているということは結束を緩めるのである。
では何故本当はそのように親しくなると告白したくなったり、親しくなりたいから敢えて羞恥を払拭してまで自ら率先して告白しようとする気持にさせたりするような真意を隠蔽する空気が共同体にあるのだろうか?本当は結構悪い子なのに率先して「いい子」でいることを他者に印象づけることを強いる空気があるのだろうか?
それは恐らく本当に大切なことを大っぴらに公言するということにおいて失われていく神秘性を相互にプライヴァシーとして守ってあげようという配慮かも知れない。この社会ゲームに固有の私秘性確保という相互の策定はどこの国にもあるだろう。それはそもそも第一印象とか外見と、その人の性格とかいざとなったらどのような行動を採るのかというような実像というものがかけ離れているということも多いということを皆が暗黙の内に認め合っているということも原因であろう。
つまり他者の心は確かに読めるものではない。薄々そうではないかと感じていても、そういう直観というものは必ず当たるというものではない。まさにその通りのこともあれば、思い過ごしのことも多いものである。もし第一印象とか外見的に感じられる雰囲気だけで全てを判断したとしたら、社会は極めて秩序を失っていくだろう。何故なら全ての成員はそれぞれ固有の他者に対する第一印象の持ち方があるからである。これは極めて社会学的な判断である。だから例えば悪辣な老人が気分の悪い振りをすることだってあり得るが、社会は一応気分が悪そうな老人が込み合った地下鉄の中で立っていたら、席を譲るということをするべきだというモラルはある。しかもいかにも仮病であるということをある者が気分が悪くて早退したいという申し出をして「お前仮病なんだろう?」と信じないでいて、その者が普段は嘘をついたり、冗談ばかり言っていったりして堅実であるというイメージと程遠いものだからその申し出を却下したとして、その者が倒れて死んだとしたら社会問題となるということもあるので、私たちの社会では一応その者の申し出を信じようとするだろう。あるいは本当は悪辣なさぼりを目的として気分が悪いので早退したいと申し出てすんなりと信じて貰える場合でも、その者が日常的に堅実な出勤態度と仕事内容であるのなら、その者の悪辣さとは本当はより罪深いということになる。事実そういうな社員による横領のような犯罪事実も多く存在してきた。
つまりそのように日常的な振る舞いによるデータ集積的な判断で差別するということに起因する過ちとは、堅実な申し出を却下してしまうということと、悪辣な申し出を信頼してしまうということに尽きる。このことはやはり他者哲学というものを、特に信頼するとは何かとか、親しくなるとは何かというレヴェルから考察する必要性を我々に問いかけている。
他者の痛み、他者の気分、他者の行動に纏わる衝動といった全てはその哲学の骨組み的な位置を獲得するのに十分である。それらは他者の成長過程とか、環境とか、遺伝的傾向とかが全て組み合わさったその者の感性の違いとして顕在している。それは室内の空調や温度に対する感性から、休日の過ごし方の常識から、他者に対する接し方そのものに対する認識に至るまで全く異なったものとして顕在している。恐らく今まで述べてきたヒーロー志向に関しても、アンチ・ヒーロー志向に関しても全く個別の基準によって全ての他者に対する印象から行動まで決しているということを意味する。ある者はある成員に対して堅実であるということを感じる箇所に対して尊敬するかと思えば別の成員は軽蔑するし、またその堅実であると認識するその者の示す態度や、行動に対する着眼まで著しく異なっている場合すらある。それは哲学者が百人いたら、ある一人の哲学史に燦然と残る哲学者に対する見識から、解釈の仕方から、歴史的位置付けに至るまで全く異なるという意味でも、そのことは明瞭であろう。
だから共感し得る悪党とか、犯罪者に対する判定基準が各自異なるということがまず社会の暗黙の了解としていきなり贔屓の政治家の名前を公言し合うことを避けるとか、要するにそういう社会ルールを遵守する「いい子」振ることを私たちに暗黙に強制する第一の要因である。
要するにそのことを告白し合わなければそれまで通りすんなり意気投合し得たのに、そのことについて相互に触れたばっかりにその者と以後ずっと気まずい雰囲気に包まれるということはよくあることである。それはある意味では夫婦とか親友同士であればあるほど出てくる「質問し合わないに限ること」である。また不思議と我々はそういう触れずに済ませる領域を他者毎に勝手に設定して、相互に配慮して避けあっている。しかしふとした時あることを恐る恐る告白したら、向こうも自分と同じように相手を慮って質問せずにきたということを了解し合うと、益々その者と親しくなれるということはある。しかしそれが予想外に全く相互に受け容れられないことであるなら決裂することも大いにあり得る。通常そのことを恐れて、一定以上追求しないでおくという選択肢が最も好まれるし、だからこそ皆「いい子」振るのである。
私たちは自分の痛みしか本質的には知ることが出来ないし、そのようなものとして自分の生きる時代しか理解出来はしないのだ。しかも他者(私より年配者も、若い人もいる。)に対しても、自分の立場からしか理解することしか出来ない。
だからあるマイナーな事柄に対してマイナーなタレントに対する贔屓のように、同じ癖があることを知ったりすると、途端に親しみが湧くのだ。それはあまり高級なものでなければないほど理解の度が増す。それは要するに結束意識であり、同一弱点に対する認識の共有である。共犯意識にすら近いその種の共通性は、嫌いな人間の傾向すら一致しているとより結束感が深まる。
私たちの社会は、仕事の能力とか信頼とかから果ては休日の過ごし方まで、あるいは家庭の在り方まで職業倫理的に評定基準とされる。隠せるものなどこれっぽっちもないのだ。その査定的な暗黙の集団内の約定とか強制(雰囲気的な意味での)が耐えられなくて全く勝手の違った世界に鞍替えしたとしよう。しかしそこで待ち構えているのは恐らく前の世界と似たような取り決めであり、その世界固有の良識という名の臭みである。干渉し合うということを避けて干渉し合わないということをルールとして世界に入って行ったとしよう。しかしそこでも恐らく干渉し合わないという雰囲気が成員全員を干渉し、半ば強制するのである。
その干渉ということの本質とは一体何なのだろうか?それは恐らく個というものの在り方を巡る不文律である。個とは私を自己化することと、他者を私化することによって他者間に横たわる「いい子」の壁を緩衝地帯として認識し、その行き来を自由にすることへの向けられた自己‐他者の協同作業に位置づけられている、運命づけられていると言ってもよい。それはそもそも私たちが感情を行動の指針としてきたからである。言語空間を形成することは、相互の感情に対する配慮以外の何物でもない。
感情とは身体的情動に対する意味づけ作用のことであり、自己にその感情の内容を位置づけること、つまり決定である。決定されたものは他の一切の判断を受けつけない。
私たちが肉親の死を知らされて、その肉親の死を悲しむのは、その肉親ともう二度と会えないということを瞬時に悟るからであり、ある意味ではこれからその肉親の不在を私が生きることを覚悟し、その際に恐らく私に齎されるであろう寂しさに今から耐えられるようにするために未然に泣いたりすることによって一旦肉親を失ったことで得た痛手を紛らわすためなのである。全くそれがない形で永遠のその肉親の不在の日々を生活することは、その肉親が健在だった頃の状況との落差の大きさから耐えられなくなるのだ。不在の肉親に対してなされる表象は常に過去事実に対する想起でしかない。だから実在的なレヴェルではいかに親しい肉親であっても尚生きている者と接するようなリアルさは徐々に失せていく。つまり過去想起というものの在り方における現在を中心とならざるを得ないリアルさの消滅ということ=その肉親の死という事実に慣れていくことそのものに対する予感が私たちがその肉親の死を知らされた時に(臨終の席に立ち会っていて、かかりつけの医師から臨終を言い渡されても同様である。)その肉親に対する憐憫によって我々は悲しいという気分になるのだ。
私たちがこのように死に関してまで干渉し得るのは肉親だけであるということが、逆に他者に対して他者にもそのような肉親があるからこそ、これ以上我々が彼らに干渉するのは止そうという約定を自然なものにするのである。先述したように、社会とはこれっぽっちも隠せるものなどない。税金、遺産、保険料全ては隠せないものである。だから逆に個人的感情にまで立ち入ることを控えようという約定が「いい子」でいさせてあげようというルールと化すのだ。肉親の死が私たちに齎すのは、死んだ肉親が他者に対して示していた自己の消滅という厳然たる事実がやがてこの私にも到来するであろうという予感を生じさせることと、肉親が再び私にとって無数の潜在的意志伝達同意者としての他者一般という形で墓地に葬られることの不可避的他者の死一般への吸収である。肉親もまたどの他者とも同じように死んだに過ぎないということを思い知らされるのである。
感情レヴェルのマイナーさに対する共感ということはある意味では唯一隠すことなど何もないという社会の非礼に対して抵抗出来る私秘的な行動である。それはある部分では社会的責務からのシェルターを意味する。しかしこのことは羞恥の超越という意味を持つが、それを考える前に未だ捉えておかなくてはならないことがある。嘘に関して我々は「いい子」振ることにおいてある程度その実像が見えてきた。しかし誠実ということについては未だ触れていない。
私たちはレヴィナス的な意味でも他者の死を生きる。またサルトル的な意味での他者の不在を生きる。そして他者の死は他者が別の世界へ行くことであるから、死者を語ることとは、端的に生きた他者を語ることと同じような衝動では決してあり得ない。私は亡き父の墓前に花を彼岸、盆、晦日から正月、命日に供える。その時すれ違う他者たちは、当然彼らに固有の亡き親族たちの霊を慰めるために来ている。私とその時にすれ違う他者とは私自身が他者一般、つまり無数の意志伝達同意者としての他者一般に吸収されることであり、同時に例えば私にとっての亡き父の存在もまた、無数の霊というもっと抽象的な郡へと吸収されていることをその時気づく。しかしそのようにすれ違う他者も気づく筈だ、と少なくとも私は思う。サルトル的対自を失った即自としての無数の霊とは一体何か?
それは私たち生者たちの対自に寄り添う固有の想起誘引者である。私たちは親しい他者の永遠の不在としての持続をも生き、そのような運命を携えた無数の他者と生きる。
信頼する他者は羞恥を超越している。その羞恥の超越を可能にするものが誠実ということかも知れない。疑うことを他者に適用することはある意味ではその他者に対する私への信頼の拒否である。この信頼の拒否とはある意味では別の他者に対する信頼の宣言をその他者にしていることでもある。それは生者に対するある意味では無数の霊化である。他者の無視は他者の眼差しに対する羞恥の無視である。他者存在がかように無視すべき対象となるということは、羞恥を超越することに意味がないことになる。
不誠実はホッブスでは不正義であり、忘恩として法的秩序の無視として語られているが、その不誠実としての他者への対応こそこのある他者への羞恥の無視である。ある他者に羞恥の眼差しを向けることとはその他者に対する礼儀であり礼節なのである。だからこそ無数の霊とは生者に対して生者の行状を見守るという意識を我々に生じさせ、我々に生者としての機会を与えてくれると考えることを促すから、生者に対して無視を決め込むこととは態度的にも心理的にもその生者が生きていていても死んでいても同じことを意味する。しかし絶好した者同士はある部分では会うことがなくても相互の存在を尊重している。羞恥の尊重の最たるものである。しかし他者への無視は共有する言語空間において相手の存在が死者一般と同様にいてもいなくてもいいのだから、ある意味では霊化と私が言ったような意味で痛烈である。しかしそれは恐らくそう他者への無視を決め込む者においてより、つまり相手から無視されることを決め込まれた者以上に他者存在は別の意味では大きく立ちはだかっているということだ。
ある他者が私を無視するとする。私はその他者が私に対する無視を解除することに対して抵抗はないし、そういう心積もりでずっと彼の傍らにいてもよい。しかし彼は寧ろ私にそう決め込むことで、私の存在をより重大なものとして、つまり拒否すべき、無視すべき存在として巣食わせることとなるのである。その事実に対する覚醒を私は彼に示したい。しかし彼は聞く耳を持たないだろう。つまりそのことに関して誠実であることそのものを彼は最も拒否しているのだから。ある生者が自分の身近にいて、その者に対して私がずっと無視し、霊化することに吝かでなかったなら、その者が本当に死者となり、無数の霊の一部になった時私は恐らくその者に対して生前霊化してきたことに対する後悔が生涯付き纏うだろう。生者に対する霊化は自らの誠実性に対する霊化に他ならないのだ。
するとマイナーなことに対する共感の共有という事実による親交とは、ある部分で羞恥の晒し合いなので、必然的にこの生者に対する無視を決め込む霊化=自己に対する霊化の払拭でもある。絶好して接近することのない他者に対する礼節な無視ではない。それは羞恥の尊重であるが、無数の死者の如く身近にいる他者を取り扱うということには、自らをも無数の死者の一部にしてしまうことなのだ。
ここに一つの図式が再び成立したことを認めよう。
① 羞恥の超越→マイナーなことに対する共感の共有を通した親交、
→死者の霊に対する尊重
② 羞恥の尊重→かつては親交を持ったが今は距離を置いて相互にその存在を認める
→死者の霊に対する尊重への配慮
③ 羞恥の無視→身近にいるのに無視を決め込みその者を<無数の死者と同列に扱い>霊化する→自己に対する霊化ともなり、死者に対する尊重に対する怠惰となる(黙殺)
通常我々は死者に対して生者と同等の扱いをしない。だから無視を決め込む相手に対しそのように扱うということは、ある部分では死者に対する冒涜でもある。その観点からそれをなすべきではないということと、もう一つは死者が生者を見守っているということを我々が忘れるということに対する冒涜となる。だから逆に身近にいる者に対する無視を決してしないということは、たとえ死者に対しては特定の時期にのみ鎮魂の儀礼をするにしても、生者を生きて殺さずにいるわけだから、必然的に死者の加護に対しては報いていることとなるわけである。
ここで私が言う感謝とは原始神道的な自然への感謝ともどこかで通底しているかも知れないが、それを民族文化的なコードとして理解しているわけではない。もっと集団依拠的な原音楽的に言っているのではなく、原羞恥的に、と言うことは別に私が日本人としてではなく無国籍的に、と言うより非文化的にそう感じるということである。そういった感じ取る衝動の上に私は更に原音楽的に私の属する文化を選び取る。文化を選び取るのもまたその原羞恥なのである。
我々は生まれた時、家族、知人を中心として親しい、近しい人びとに取り囲まれて他者を意識せずにはいられない環境に置かれた時既に羞恥を払拭したり尊重したりすることを運命づけられ、その選択の衝動に突き動かされる。そして文化とは主体的に例えば私は日本人であるという民族運命的環境に同化しようと主体的に選択することを強いられる。
例えば人間はサルトル的に言えば自殺することも選択肢としてある。それは自由である。それはカミュも言っている。しかしそれでも、つまり自殺して自らの生を終わりにすることも出来るのに、敢えてそれをせずに生きることを選択するという未来に対する決意の前で私たちは初めて意志(哲学的意志)ということを自覚する。すると死者はそう決意する私たちを見守ってくれているのではないかという想念が浮上してくるのだ。それは死者に魂があってもなくても、生きている私が死んだ無数の霊によって息吹きそのものが成立させられているという感慨を私は抱かずには生きていけないからである。それは私もまたいつか生を終えて無数の霊とか魂の一部になるかも知れないという憶測をもっと無効化するものでもある。それは生きている内は私には関係ないことなのだ。
死者の霊に対する尊重とは、死者に同化したいという欲求を死者に示すことではない。寧ろ生者として他者との共存を感謝することを自然の一部としてでも自然と切り離されてでも責務的な感情で認識することでしかない。死者への感謝の念とはあなた方が他者ではなくなってくれたお陰で私はこうして他者存在を衝動として受け容れることが出来るのです、と死者に宣言することなのである。それは表面的には死者存在というものに対する無視であると同時に時として鎮魂をする意志に対する同意なのである。
マスコミは悲惨なニュースをその都度、犯罪であれ、自然災害であれ報道する。しかしマスコミとは新聞であれテレビであれそれを報じつつ、それを読む読者やそれを視る視聴者たちに対して、常に「自分が犠牲者ではなくてよかった。」という感情を持って貰うためにのみ報道するのである。マスコミ自体だけが視聴者たちが全員紙面や画面のこちら側にいることを熟知している。マスコミとは出来事であれ、事件であれ、自然災害であれ、常にそれによって崩壊した現実、死んでいく者たちを生きている者たちの間に媒介させることが使命なのである。だからよいニュースであっても、それは悪い知らせに取り囲まれているからこそ意味を持つのであり、マスコミとは常に犠牲者を探しているのである。そしてそれを報じられる大衆全員が「犠牲者が自分でなくてよかった。」と感じて貰うことが彼らの職務の前提であり、且つ要求でもあるのである。その要求を拒否することは本来我々の自由である筈である。だがいつの間にかそれが自由ではないと感じさせられているのである。要するに知りたいという衝動を煽り立てられているのである。その煽られることに関する快感のスイッチを捻っているのも実は私たちなのだ。マスコミの煽動に右往左往することはある意味ではアンチ・ヒーロー意識も誘発するのである。何故ならマスコミとは端的に報道される事態の全てがそのニュースソースとして切り取られる段階で既に正義を偽装しているからである。それはヒーロー意識によって成立している。しかし先にも述べたが、ヒーロー意識とは悪辣な魅力に満たされていて、それでいて「いい子」振るという自己欺瞞以外の何物でもないのだ。潜在的に悪を志向することを誘引されながら、正義の名の下で溜飲を下げる野次馬活性剤こそがマスコミである。このことは「幾何学の起源」で既にフッサールが予感していたことでもある。
サルトルが自己欺瞞を考えたのは、ある意味ではカントに対するモラル論的な返答だったのかも知れない。つまりカントは善とか善意志という形で意志によって善をなすことを道徳法則として捉えたので、その意志を意志しつつ意志から常に乖離していく状況を見据える必要を彼は感じ取ったのかも知れない。対自とは達成されないということとサルトルにとっては同義だからである。カントも実は達成せざる現実ということはきちんと踏まえていた筈である。しかしカント固有のシニシズムにおいて私たちの多くは形式という語に代表されるようなカントのモラルに対してある種の恐れをなしたのだ。しかしその恐れがいつの間にか固有の信仰になっていったということにフッサールを初め、ハイデッガーたちは彼らなりに敏感に感じ取っていたのだろう。しかし彼らの時代から既に一世紀近く経ってしまった。
私たちはデカルトからフッサールへと至るまでに取りこぼされた形での何らかの共進化関係について真剣に考え始めている。例えば誠実はサルトルによっても再び取り上げられたし、嘘ということもまたサルトルの自己欺瞞に始まって、オースティンも捉えることに成功した。例えば次の記述を見てみよう。
(「他人の心」152~153ページより)
「私は知っている」という記述的な言い回しであると想定することは、哲学の世界においてきわめて一般的になっている記述主義の誤謬(the descriptive fallacy)の一例にすぎません。たとえ仮に今日において純粋に記述的な言語が存在するとしても、言語というのは元来においてはそうではなかったのですし、多くはなおそうでないのです。明白な儀式的な言い回しを適切な状況において発話するとき、われわれは自分の行なっている行為を記述しているのではなく、その行為をしているのです(「そういたします(I do)」)また別の場合にはそれは、口調や表情や、あるいはまた句読法や叙法と同様にして、われわれが言語をある特殊な仕方で使っていることを示す働きをします(「警告する(I warn)」、「お尋ねします(I ask)」、「私は定義する(I define)」)。このような言い回しは、厳密には嘘になることができません。ただし「私は約束する」が、私が完全に意図を固めているということ(これは真ではないことがありえます)を含意するように、嘘を「合意する」ことはありえます。
繰り返すことになるが、私たちは皆自分のことしか理解出来ないし、私たちの時代しか理解出来ない。すると恐らく有効な嘘、見破られない嘘という方便も、時代毎に変わり、絶対に遅刻が許されないような状況で遅刻してしまった時に報告する有効な言い訳とは、ある意味では今という時代に固有の仕方である筈だし、また有効な嘘の見抜き方もまた今という時代に固有の仕方においてするべきである。そして許され得る範囲の嘘と、許し難い嘘というものの境界も今という時代に固有の規範として存在し、それは刻々変化し続けているのだ。
つまりオースティンの主張する嘘を合意することとは、ホッブス的な信約ということにおける信頼する者と信頼される者の関係構築のためにあるのであり、端的に信頼に応じるということはその内容如何ではそう容易いことではないので褒賞とか称賛に値することなのだし、だからこそ困難な信約をそう簡単になすべきではないという倫理も生まれるのだ。だからと言って実現可能な範囲内でのみ信約をなすことは発展には繋がらないという意識もホッブスは持っていた。だからオースティンの言う嘘を合意することがあり得るとは自らの能力の可能性を信じてはったりめいた言辞をすることのある人間の許され得る範囲内での嘘ということも含意しているものと思われる。
嘘の見抜き方の中でも仮病に関する見抜き方というのはまた格別難しい。本当に病弱な人の使う仮病も真実味があるし、どんなに頑丈な人でも病気になることはあるからである。そこで再び痛みということに対する報告における大袈裟と忍耐ということの規準とは何かという問題にぶつかる。言語行為とは純粋に記述行為ではないということがこの問題を通して最も如実に示され得る。つまり言語行為とは嘘を発生させる場であるということからも感情の遣り取りであり、理想形としては信頼し合うためのものであるということが導き出される。
衝動とは一つの決意なのである。嘘をつくことも衝動である。それは欲望という語彙に置き換えてもよい。そして決意とは偶然でも必然でもない。ある部分では偶然的であり、ある部分では性格的な必然でもある。つまりどちらでもありどちらでもないのだ。
それは能動的でも受動的でもない代わりにどちらでもあり得るということだ。嘘は理性がつかせるということも言えるが、理性そのものが一つの衝動であり、特殊な衝動の変形なのである。衝動を悪と捉えてもよい。勿論ここで言う悪とは恒常的身体生命活動維持のための存在事実であるということである。
すると良心とは端的に悪の海のほんの些細な灯火の孤島ということになる。いや漂う流氷と言った方がよいかも知れない。(勿論それは極めて貴重であるからこそ我々は重宝してきたのだが)良心は悪の一個の変形(ヴァリエーション)なのである。理性とはそうであるのに何らかの行動の一評定として位置づけられるものでもある。つまり経済学という学問そのものが欲望学でもあるような意味で、理性を欲望の変形として見れば良心が悪=欲望の変形として考えることは極自然なことである。それはアダムの原罪意識としてだけではない。そもそもアダムと聖書の成り立ちそのものが人間の欲望に起因するのだし、当然そういう理性的言説という名の衝動なのである。このことは既にミシェル・アンリは克明にそのことを述べていた。(「受肉」)
日本人は嘘も方便であると捉えがちであるが、西欧社会では嘘は告解の内容の主役となるようなものである。日本文化がある部分では欲望と衝動そのものに対する直視に対するタブーによって明治期以降の全ての言説を唱えてきたきらいがある。例えばそれに比べれば日本はキリスト教社会ではないので、完全に進化論に対する受容は功を奏した。つまり端的に宗教的な謀反であるという意識を日本人は欧米人のような形でダーウィンの進化論に対して抱かずに済んだというわけだ。だから理性論が欧米型の倫理に対する憧憬ということで成立していたのだ。しかしここに来て私たちは再び明治期以降の日本人のアイデンティティーに対する再考というものをする必要に迫られている。そのためにも私たちは進化論を受容したような意味でより衝動と欲望のシステムを見据える必要がありはしないだろうか?
その一つは嘘を理性論の範疇でではなく、欲望論、衝動論の範疇で語るのである。羞恥を介在するものとしてもし捉えるのなら、理性が一個の衝動の変形であると我々は知るだろう。嘘は自己欺瞞と形式的自己保身によるものであると知るなら、寧ろ嘘つきのパラドックスとか嘘つきの心理を潜在的な欲求レヴェルから、つまり衝動論として、しかも他者衝動、他者欲望論として捉える道が開けてくるだろう。
最近大きな猟奇的な通り魔殺人事件があった。その後マスコミは犯人が犯行に至る前に店でナイフを買ったところを何度も放映した。しかしその時彼は未だ犯人ではなかった。要するに犯行を実行するために購入したナイフだったかも知れないが、その時点では踏み止まることも出来た筈だ。しかし彼は実行した。そうなるとあたかも彼がナイフを買っていたことを原因のように報道してしまう。しかしそれは決して原因ではない。ただの思いつきであり、その後彼は突如発作的にそれを実行に移してしまっただけだ。そして犯行後歩行者天国を封鎖した。しかしそのようなことをしても、またメールの過激な文章を取り締まっても、恐らくメールもしない奴が今度はもっと酷い犯行に至るかも知れないし、歩行者天国がない状態でも幾らでも犯行することは可能だ。
他者とは哲学的にはただの他人とは違う。例えば私は本論で他者を私そのものの衝動として取り扱った。そしてそれは正しいと思っている。そして自己を他者との関係において私を公的に認識することとして捉えた。
私が電車に乗ると大勢の他人に取り囲まれている。そして彼らは一般的に他人である。しかしその中の誰でもいいが、特定の他人に視線を注ぎ、その存在を意識した時共有空間内でその者は私にとって他者となり、その者が私の視線に気づき、私の存在を意識しだすと、途端に私はその者に対して自己となり、私と彼の間で他者間の関係が生じる。私は無数の意志伝達同意者とそういう言語空間共有可能者のことを呼んだ。私にとって掛け替えのない家族、友人も他者であれば、たとえ通り縋りでも一言でも言葉を交せばその者もまた他者となり、彼(女)にとって私は他者となり、その者に対して私は自己意識を持つ。
三年に一回くらい街角で会う昔の知り合いに対して私はよく会うなと感じてそう言ったことがある。しかし彼は「よくなんて会わねえよ。」と返した。しかし三年に一回くらい偶然会う人間に対してよく会うと感じることもあれば、毎日会う顔でもよく会うとは思わない場合もある。
嘘は他者を必要とする。例えばオースティンは説話上での他者に対する宣言という形で嘘の可能性を示したが、サルトルが「存在と無」の自己欺瞞で示した対自的な「反射」、「反射するもの」の関係とか、そういう内的関係における運動は明らかに嘘というよりは、切実に真実を求める人間の実存においては誠実であり、努力であり、苦悩であるので、それは突発的な嘘ではない。しかし嘘そのものもまた他者に対する羞恥が突発的に生じさせたものと捉えることも出来る。私が三年に一回くらい会う昔の知り合いによく会うと感じたことは事実関係としては矛盾するかも知れないが、私の内面において嘘では決してないだろう。だが本当は若い人間と一緒に飲みに行って四千円をその店で使った後でその時のことを若い者と回想する時「まあ、四千円くらいなら高くないよね。」と言うとしたら、それは咄嗟に出た嘘であるが、それとて羞恥が催しているわけだから強ち非難されるべきものでもない。
タブーを設けることでとりわけ欲望レヴェルの考察に蓋をするのは、日本人の得意とするところである。日本人が嘘も方便と捉えることもまた咄嗟の衝動であると言える。しかしそのように蓋をする心理は実は羞恥であるとすると、今度は羞恥自体に対して考察することを憚り蓋をしてしまう。これが理性論的因果論の範疇に留まってしまうことの理由である。因果考察は犯行前のヴィデオ映像を何度も放映したり、歩行者天国を封鎖したりする意識に繋がる。しかしそれは事後的な付け焼刃的な方策でしかないだろう。
嘘を他人につくこと、他者に嘘をつくこともそうだし、痛みを必要以上に他者に告げて、少しでも楽な状態に自分を持ってゆくことが誰でもあるように(全ての権利主張にはそういうところがある。)、例えば国民が政府や各省庁の措置に怒り心頭に発することも含めて、ある程度国民の側も忍耐が必要であるのに、政府や与党政治家たちのセンスのなさが全てを悪い方向へ持っていっているという認識を抱くこともまた痛みを必要以上に叫ぶことを選ばせることに近いだろう。ホッブス流に言えばそれらの措置も個人の側に全てに対して寛容にはなりきれない意志があるのだから、当然甘えに近いと思われる行為もよく見られるが、その時でも羞恥という心的作用を粒さに見れば、何故あのように声高に叫ばねばならないかとか何故正直に本当のことを言えないのかということもそれなりに理解出来るのではないだろうか?つまりそのように私たちを持っていくこととは、羞恥を大きく介在させた常に我々の中にある衝動なのである。そしてそのような衝動を持たざるを得ないのも、私たちにとって自分を私として意識させ他者と接する時それを自己に転化するものこそ他者の存在であり、その他者存在こそが全ての衝動の起源であるということを知れば、然程何故なのかと思い悩むこともないだろう。
他者、それは全ての衝動の起源である。(了)
稲垣諭「衝動の現象学」(知泉書房刊)
ミシェル・アンリ「受肉<肉>の哲学」中敬夫訳(法政大学出版局刊)
リチャード・ドーキンス「利己的遺伝子」日高敏隆/岸由二/羽田節子/垂水雄二訳(紀伊国屋書店刊)
ウィリヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル「法の哲学Ⅰ」藤野渉/赤沢正敏訳(中公クラシックス)
マルチン・ハイデッガー「存在と時間」原祐/渡邊二郎訳(中公クラシックス)
永井均「<私>のメタフィジックス」(勁草書房刊)
エトムント・フッサール「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」細谷恒夫/木田元訳(中央公論新社刊)
トマス・ホッブス「リヴァイアサン」水田洋訳(岩波文庫)
ジョン・ラングショー・オースティン「オースティン哲学論文集」(J・О・アームソン編)坂本百大訳(勁草書房刊)、「言語と行為」坂本百大訳(大修館書店刊)
オイゲン・フィンク「存在と人間」座小田豊/信太光郎/池田準訳(法政大学出版局刊)
コンディヤック「人間認識起源論・下」古茂田宏訳(岩波文庫)
土居健夫「「甘え」の構造」(弘文堂刊)
マイケル・ポランニー「暗黙知の次元」高橋勇夫訳(ちくま学芸文庫)
J・Z・ヤング「脳と哲学」河内十郎/東條正城訳(紀伊国屋書店刊)
マックス・ヴェーバー「社会科学と社会政策にかかわる認識の客観性」富永祐治/立野保男訳、折原浩補訳(岩波文庫)
A・J・エア「真理・言語・論理」吉田夏彦訳(岩波書店刊)
ヒラリー・パットナム「理性・真理・歴史内在的実在論の展開」野本和幸/中川大/三上勝生/金子洋之訳(法政大学出版局刊)
中島義道「観念的生活」(文藝春秋社刊)、「「私」の秘密」(岩波書店刊)、「偏食的生き方のすすめ」(新潮文庫)その他の著作
ジャン・ポール・サルトル「存在と無」松浪信三郎訳(人文書院刊)
アルベール・カミュ「シジフォスの神話」
エマニュエル・レヴィナス「存在の彼方へ」合田正人訳(講談社学術文庫)
インマニュエル・カント「実践理性批判」篠田英雄(岩波文庫)
付記 「他者と衝動」はこれで終わりですが、この後本ブログでは「羞恥論 依怙地と素直<衝動論第二幕>」を掲載更新致します。数日休暇を頂きます。(河口ミカル)
先に私が述べた正義をその都度見測る基準だけは常に持っているということは、その規準を通して常に正義を設定するという私たちの在り方を示したのだ。そして正義と理念というのは極めて似ている。まさにヴェーバーもフィンクもそう感じていただろう。そして正義ということが最も有効に作用する場とはとりも直さず他者存在であり、他者存在を相互に共有し合う言語空間である。私たちは立食パーティーに参加しても少しばかりのワインに頭がくらくらするというご夫人を介抱したり、足の不自由な老人が横断歩道を一人とぼとぼ歩く姿を見て手を差し伸べたりすることもあるかも知れない。そしてそうするのは、端的にその他者が無数の潜在的意志伝達同意者として自分と同じような感覚を保持し、苦悩する存在であるという承認をしているからなのだ。しかし他者の痛みは自分の痛みとは別種のものとして我々にとって立ち現われる。つまり自分の痛みであるなら我々は誰しもそれが直接であるから身体のどの部位であるかを一々目で見て確認しなくても即座に知ることが出来る。尤もその痛い場所をよく見ると皮膚が浮腫んでいたり、出血していたりすることを発見するということはあり得るだろうが。
しかし他者の痛みは激痛をする表情だけからは即座には理解出来ないことも多い。勿論腹を抱え込めばそれが腹痛であると思うし、頭を抱え込めば頭痛であると理解することくらいなら出来よう。しかし私たちは自分で腹が痛いと知ることが出来ても、それが即座に胃であるか肝臓であるか知ることの出来ない場合も多い。医師に診て貰わなければ正確な病状を知ることの出来ないケースも多々ある。しかしまさにそう考える時我々は他者の痛みを自分の痛みに置き換える、少なくとも思考の上ではそうの筈である。
私は<正義とはその都度求められる設定規準である>と言った。それはつまりその都度正しいこととは何かと人間は問い続ける運命にあるということを物語っている。例えばある者が処刑された歴史というものを今になって振り返る時、私たちは現在社会ならこれくらいのことで処刑されることなどないのにと思う。しかしそう思えるということはその時処刑されたという歴史的事実があったからかも知れないのだ。例えばその時から現代まで寛容な判定がそのような者たちに対して一般的に下されてきていて、その種の犯罪者たちがいよいよ調子に乗り数段上の犯罪へと高じて来たような状況があった場合、例えば現今のように凶悪犯罪者に対する死刑がより速やかに施行されることをも含めて少年犯罪であっても寛大な判決を下すべきではないという社会通念と風潮のようにその時処刑された犯罪者と同様の犯罪を現代において犯した者に対して加えられるかも知れない。つまり今述べたことは最初に述べた「これくらいのことで処刑されたのか」という私たち現代人の疑問と逆のケースであるが、このことから理解出来ることとは、要するに過去における判例とか刑罰史における反省と再評価ということにおいて、相対的に現代の正義とは常に決定されてきているのであり、現代において下される正義とされる決定事項とは現代に生き、現代(これを書いている時点とは2008年6月18日であるが)の社会状況を知る者のみが理解出来ることなのだ、とだけは言える。このことをA・J・エアはその時に下された判断はその時なりに正しいということを「言語・真理・論理」において述べている。
そうなると不運な犯罪者と幸運な犯罪者というものが出現してくることにはなる。つまり有体に言えば、刑罰の対象となるようなタイプの成員を基軸に物事を考えてはいけないという倫理が厳然とあるということである。私は率直に言えば決して犯罪者の味方ではない。しかし犯罪は恐らく未来永劫なくならないだろう。そしてその都度人間はその時代に固有の正義を見いだそうとしていくだろう。
他者の痛みの問題を考える時、実はこの点が最も重要である。ある人が訴える痛みに対して周囲の人も、医師も全て「それくらいの痛みなら通常は耐えるものですよ。」と痛みを訴える者に告げるかも知れない。事実そういうことというのは多く今までも見受けられた。その中の幾つかは今まで発症例の極めて少ない奇病であったりする。そして健康であると宣言された多くの患者たちが突然死をしてきた。要するにどのような成員を平均的であると見做すかが医学における正義の設定規準であるとするなら、私たちは極めて曖昧な設定規準で例えば犯罪に対する処罰をその都度決定してきたということとなり、それは痛みの問題でも全く相同であるということである。どういう痛みが耐えられないものであり、どういう痛みなら通常耐えられるものであるかということは、実は厳密に言えば、一人一人人間の身体の細かい性質が違う以上極めてその時代毎の医学的な正義という曖昧な状況論によって決定されていることになるのである。
それは生理学的な判定基準以外にも心理学的判定基準とか、社会学的判定基準とか、哲学的判定基準というものもあり得るかも知れないということから、結局他者の痛みはその他者になってみなければ理解出来ないということと、それが物理的にも精神的にも不可能であるのなら、私の痛みに対する他者の側からの判定とか判断とは恣意的なものでしかあり得ないということが結論として導かれる。だからそのことから逆に考えれば理念とか正義とかはその都度設定され直されるにもかかわらず、相も変わらず我々はそこにしがみつきたくなる幻想かも知れないということである。これはパットナムの批判する相対論批判(彼は相対論が唯一絶対正しいとして相対的判定を常に下すこととなると相対論それ自体も相対的であることになり矛盾することを挙げながら論証している。)とも共存可能な論理である。
要するに正義という規準を設けようとする私たちの欲求とは一体何かについて問わなくてはならない。それは各学者たちが唱える理念ということにも当然該当する問いである。そこで私に思い浮かぶこととは、人間は常に嘘をつく動物であるということである。嘘と誠実性ということについて考察しないで、この正義とか理念ということを考えることは出来ない。そして恐らく痛みの問題というものの判定基準を私たちが設けてしまうということに対する何故にも答えられない。
しかし意外とこの規準を設けなくてはならないことの理由は単純なところにある気も私にはする。と言うのも、まず痛みというものがその痛みを感じる時の人間の心理状態に左右されるからではないかと私は考えているのだ。つまり気分に痛みが左右されるからこそ、一般的に耐えられ得る痛みという基準を医師たちは設ける必要があると考えているのではないかということである。
例えば音楽が聴きたい時の心理状況とは、意外と音楽を聴くことによって気分的にも感情的にもインスパイアされたいという欲求があることが了解される。例えば何かに熱中していてその作業とか思考に没頭したい時には通常我々は音楽を聴きたくないことの方が多い。しかしいざ何かに取り掛かってみて、意外と気分が乗らなかったり、あるいは難題のぶち当たり一旦休憩を取り、困難に打ちのめされた心を鎮めたいと思ったりした時とか、何かをし終えた達成感に浸っている時などに音楽を聴きたいと願うことからも、音楽とはその時々の感情を調整する役割があることが分かる。勿論それは基本的には予め持っているCDを聴く時には、どういうタイプの音楽を聴くか自ら主体的に選択する場合に限られるとそう思われるかも知れない。しかしテレビのスイッチを捻って音楽ヴァラエティー番組をやっているのを了解してそれを見ようと思う時だって我々はその音楽が聴きたくないのならチャンネルを変えればいいことなのである。
それに私たちの感情は喜怒哀楽と語彙で示すような四種類だけに拠っているのではない。嬉しいという感情の質も性格も内容も、その感情の発端となった出来事次第でもだが多様であり、無限にあると言ってよい。もっと明確に言えば人間の感情というものは、生涯一瞬たりとも同一の状態にはないと言ってよい。昨日あった嬉しさと今日感じている嬉しさは似たようなものに思えてもやはり違う。従って同じような痛さを感じたとしても、その時にあったこと、その痛みを感じた時の脳裏に去来する想起過去の内容も性質も全く違う以上、あるいはつい寸前にあった出来事とか心理状態もその時々の想起内容や同じ記憶内容に対する存在感の比重なども違う以上全く異なって感じられる筈だ。例えば一つの痛みとは他の部分はいたって健康な状態の時と、何か他の箇所も病んでいる時とではまるっきり異なって感じるものである。だからこそ医師たちは身体ホメオスタシス的な観点から耐えられ得る痛みとかそうではないだろうということをある程度規準を設けているのだろう。
それは精神的なことが私たちの場合痛みを倍増させてはいるが、逆に本当は激痛であっても、痛みを恒常化させている病人や、死期の近いことを悟った終末期患者たちは、それでも尚精神的認知を人間的に持っていることに感謝の念を抱き、耐えることを可能にしている(ナースや医師に必要以上の苦情を最早告げることを断念しながら)という現実もあることを物語っている。つまり人間は身体生理学的なことと、自らの認識によって死に対する恐怖とか諦めとか生そのものへの感謝といったことを区別することが出来るのだ。だから面白いことに大便をしたいのに、どこのトイレも入っていて、洩れそうになる時どんなに辛くてもそのことを苦に自殺したいという気になる者はまずいない。
だから身体的生理と精神的価値との区別を理解することが出来るために、却って身体的な痛みの忍耐度というものに関して健康で将来ある者ほど大袈裟に覚知する(堪え情がない)傾向があるのだろう。きっとまたそうでなければホメオスタシス上でも、生命維持の観点からも困るのだろう。それは生物学者たちが返答すべき命題である。だからこそその大袈裟な訴えに対して「大したことはないですよ、これくらいなら。」と医師は正直に患者に告げるのである。あるいは終末期の患者に対しても医師は未だ快復可能であるようなニュアンスを仄めかすのだろう。しかし本当は本人が一番よく知っている場合の方が多いだろう。
それもこれも私たちが精神というものの要である意志とか意識というものを携えているという認識があることに由来する。意志をどう捉えるかとか、意識をどう捉えるかということはそれだけで一冊の本を必要とするくらいの命題なのだが、脳が全てを決定すると言っても、その決定に呪縛されていると人間がどうやら思いたくはないらしい。だからこそ意志、自由意志という言葉、あるいは無意識をも含めた意識(私たちは通常ノンレム睡眠時には意識はないとし、それ以外の夢を見ている時は半意識<私などは寝ても気になるような問題を抱えている時には見ている夢を、これは夢であると半分認識している時すらある>、そして覚醒時を意識があるとしている。)を、死した状態、あるいは生命ではない状態である非意識と峻別しているのだ。しかし死んだ後の意識の在り方を知る者がいない以上私たちはこれを生者の論理であるとしか判断しようがない。
人間は自由や自由意志や自由意志論の奴隷であると私は言った。そのことに関しては脳科学での人間の脳は強制されるとやる気を失うようになっているという様々な研究結果からも理解出来るかも知れない。茂木健一郎氏もそのことを積極的に啓蒙している。自ら主体的に関心のあることに邁進している時人間の脳にはドーパミンが放出しているらしい。しかも達成感とは他者から自己に対して差し向けられる報酬であれば一番だろうが、自分で自分の目標を立てて、それが達成した時には、自分で自分に褒美を与えるということが一番であると氏は仕事や勉強の能率を上げるために推奨している。
だからそれは恐らくネガティヴなことに関しても当て嵌まるのだろうと私は思う。悩みとは悲観的になればなるほど深まるのだし、また逆に悩むことそのものを楽しむということも可能であるし、そもそも哲学者たちとはそういうことの得意な人びとである。そして感情が嬉しさ一つとっても、未来に光が差し込んできた気分の嬉しさと、想起される過去における達成感による嬉しさとでは質が違うだろう。従って楽しい気分の時憂鬱なブルースとか悲しいメロディーの曲が聴きたいと感じる時もあれば、益々陽気な音楽を聴きたいと願う時もあるし、それは憂鬱であったり、塞ぎこんだりしている時でも同様である。要するにこれこれこういう感情の時にはこれこれこういう音楽を聴きたいものだという法則的な真実などない。ただあるのはその時々の最近の傾向というのだけである。それは人生が刻々と身体状態も、心理状態の傾向を変化させつつあるのだから当然であろう。また音楽などの場合好きな音楽の傾向も年齢と共に勿論それはその人間の性格的な傾向と相俟ってのことなのだが、刻々と変化しつつある。勿論昔好きだった傾向に先祖還りすることもあるし、二度と昔の傾向には戻らない場合もあるだろう。
痛みとは他人のものになると想像するしか手がないし、今現在何らかの痛みを感じていない者は、何故かかつて同じ痛みを感じたことがある場合でも、観念的な痛みというものしか脳裏には浮かばないらしいということは中島義道氏の「「私」の秘密」で詳述されている。しかしある意味で感情的な気分は何故か痛みの感覚よりも、より切実に他者の告白に対して観念的である以上の共感を私たちは示すことが出来るのではないだろうか?「ああ、そういう気持って理解出来る。」と。つまり健康な者が病んでいる者に示す同情よりはずっと自分も似たような感情を持ったということに対する理解は強いと私は思う。それは幸福な者が不幸な者を敬遠する気持とも関係があるだろう。尤も恐らく今現在辛い気持でいる者に対して今現在幸福な気持でいる者が敬遠したいということはあるだろう。だから私が言う同一感情に対する共感とは、過去を想起して「あの時ああいう気持だったよ。」と告白する時の他者に対する共感のことである。だからそれは恐らく痛みに関しても今通風で痛むのではなく、かつてそうであったと回想する者に同じように痛みを克服した者同士が告白し合うことでも言えるだろう。しかし恐らくそういう病的身体的苦痛以上に感情の方がより他者に気持を理解しやすいということは言えるのではないか?
その最も分かりやすい例とは感動したドラマとか映画とか、小説とか、要するにフィクションに対する鑑賞後の対話での相互の共感である。話者両方が感動した場合のことである。
例えば「ロミオとジュリエット」という戯曲ではロミオとジュリエットが対立する一族同士の恋愛なので、二人を結びつけようと協力する神父の計らいでジュリエットは睡眠薬(偽の毒薬)を飲んで死んだ振りをしていたが、それを見たロミオは本当に彼女は死んだものと思い彼女の亡骸であると彼が思い込んだ隣で自害する。そして目覚めたジュリエットは自分の傍らにある彼の亡骸を見て後追い自殺をするという悲劇である。
しかし本当に愛し合っている夫婦とか恋人というものもあるだろうが、現実として、若い女性がこれと同じ状況になっても、彼の死に悲しむことは当然だろうが、それだからと言って後追い自殺までするケースの方が圧倒的に少ないだろう。その時には悲しみつつも、次第に平凡な日常生活に没入してゆき、再婚したり、新たな恋人を見つけたりするのである。つまり私たちがドラマやドラマで描かれているストーリーの展開や、現実離れした人間の思い切った行動や突飛な言動、あるいは悲壮な決意に感動するのは、私たちの人生が一重にそれほどまでには劇的ではない、率直に言えばもっとずっと平凡で面白みの欠ける出来事の連続であるからなのだ。つまり私たちは異常な状況に対して興奮し感動する性質があるのである。それをカタルシスと呼ぶこともあるが、それは私たちの持っている想像力という能力に起因するのだ。
だから逆に真に偉大な仕事とか事業とか発明とか発見を成し遂げた人というのは、意外と大きな博打に勝ったようなところもあるわけだから、逆にネガティヴな側の人びと、つまり凶悪な殺人犯のような人びとが人を殺したことによって得た達成感に近いものすらあるのかも知れない。特に偉大な思想家とか政治家が齎した社会的影響力を考えるとこの考えもまんざら的外れではないという気が私にはするのである。何故なら彼らはいいことと同じくらい悪いことをも社会に齎してきているのだから。
だから「ロミオとジュリエット」を読んだり、劇や映画を見たりして感動して涙に咽ぶのは、ある意味ではそういう悲壮な決心というものに対して憧れがあり、しかし現実的にはそう簡単にそういう行動へと踏み込めない日頃のディレンマを解消してくれる代理感情によるものだとするなら、それは犯罪者になりきれないという勇気のなさ(通常犯罪をしないでいるということは法を犯し刑罰を受けたくはないという願望からである。)を払拭した犯罪者に密かにエールを送るような心理状態の時すら我々にはあるという意味では、それと近い心理なのではないだろうか?
凶悪な犯罪者には思い切った政策を実行して革命的偉業を成し遂げた政治家に共通するような敵対する者たち(犯罪者の場合には被害者家族とか警察とか法律関係者)を退けてでも遂行した時のスリルと達成感、開放感、エクスタシーといった心理を味わい、達成した後にはそういうことをした者にしか理解出来ない爽快感があるのかも知れない。(だから凶悪な殺人犯ほど改悛の情さえ示さないで潔く処刑されることを望む。)そしてそういう異様な経験を一切することのない通常の市民である私たちは密かに思い切った行動や挙に出た者にエールを送る。勿論犯罪者に対しての共感など絶対公言はしないだろうが。それは裏を返せば私たちの中に一定の異常な行動とか、他人の迷惑を顧みないようなことを仕出かすことを憧れ、それを達成した者にある種の羨ましさを感じ、共感するところさえあるということである。
平凡な結婚生活をしている者などは却って略奪婚をした同性の女性を応援したりするし、男性もまた長年連れ添った女房と離婚してまで人妻と駆け落ちした同性を羨むようなところがある。いや世間そのものでも不倫関係にある人間同士の方を正式な配偶者以上に応援するようなところさえある。それは不倫関係にある者同士があまりにもお似合いのカップルであったなら、正式な相互の配偶者(本来ならそちらの方により同情すべきであるのに、そんなことはスター同士の不倫に比べれば大衆にとってはどうでもよいのだ。)よりも贔屓にする危険な美意識があるのである。(人気スター同士の不倫などに対しては特にそうである。)これなどは完全にモラルよりも見てくれから贔屓にする美意識である。そもそもスターに憧れるというのは、そのスターの持っている生活者としての誠実さとか真面目さに対してではない。仮にあるスターが誠実な性格であっても、それは偶然そうであるだけでそのスターを大衆が好むファクターというのはあくまでそのスターの持つ魅力からなのであり、その魅力とは概してアンチ・モラルな部分があり、要するに適度の不良っぽさとか危険なところさえあるのだ。
これら一切の美意識はアンチ・ヒーロー意識と言ってもいいし、アンチ・モラル意識と言ってもよい。
私たちの社会は全ての成員が心底ではアンチ・ヒーロー志向の憧れを密かに持っているのに、さも取り澄まして皆「いい子」を演じる。それは日本でもアメリカでも韓国でも中国でも、それ以外のどこの国でも同じである。国や共同体によって「いい子」の判定基準が違うだけのことである。
「いい子」の振りをすることそのものを黙認し合う、と言うことは真意を告げずに取り澄ますということへの同意(形式的であり真意からではなく)している。しかしその同意に対する懐疑の感情を示すことこそが羞恥の払拭を意味し、そのことによって親しさが増してくることもあれば、逆に更に敬遠されることもある。後者のようなことはより規制が強かったり独裁であったりする国家とかコミュニティーに見られる現象かも知れない。
アンチ・ヒーロー意識とか志向はある意味ではそれを容易に他者に告白し得ない密かな愉悦であり、スターに対する憧れだけではなく、例えば殆ど一流とは言えないもっと日常的で庶民的なタイプのグラビア・アイドルやモデルとかお笑いタレントに対する贔屓感情において現われる。ちょっと皆の前でそのタレントは好きであるということを公言することが憚られるような対象に対する時により情熱を持って支持する。だから恐る恐る隣に座る他者に自分が贔屓のタレントの名を告げると「実は私も大好きなんです。」と告白されるとよりその者との親密さは深まる。そのタレントがマイナーな存在であればあるほどその結束は固くなる。誰でも知っているということは結束を緩めるのである。
では何故本当はそのように親しくなると告白したくなったり、親しくなりたいから敢えて羞恥を払拭してまで自ら率先して告白しようとする気持にさせたりするような真意を隠蔽する空気が共同体にあるのだろうか?本当は結構悪い子なのに率先して「いい子」でいることを他者に印象づけることを強いる空気があるのだろうか?
それは恐らく本当に大切なことを大っぴらに公言するということにおいて失われていく神秘性を相互にプライヴァシーとして守ってあげようという配慮かも知れない。この社会ゲームに固有の私秘性確保という相互の策定はどこの国にもあるだろう。それはそもそも第一印象とか外見と、その人の性格とかいざとなったらどのような行動を採るのかというような実像というものがかけ離れているということも多いということを皆が暗黙の内に認め合っているということも原因であろう。
つまり他者の心は確かに読めるものではない。薄々そうではないかと感じていても、そういう直観というものは必ず当たるというものではない。まさにその通りのこともあれば、思い過ごしのことも多いものである。もし第一印象とか外見的に感じられる雰囲気だけで全てを判断したとしたら、社会は極めて秩序を失っていくだろう。何故なら全ての成員はそれぞれ固有の他者に対する第一印象の持ち方があるからである。これは極めて社会学的な判断である。だから例えば悪辣な老人が気分の悪い振りをすることだってあり得るが、社会は一応気分が悪そうな老人が込み合った地下鉄の中で立っていたら、席を譲るということをするべきだというモラルはある。しかもいかにも仮病であるということをある者が気分が悪くて早退したいという申し出をして「お前仮病なんだろう?」と信じないでいて、その者が普段は嘘をついたり、冗談ばかり言っていったりして堅実であるというイメージと程遠いものだからその申し出を却下したとして、その者が倒れて死んだとしたら社会問題となるということもあるので、私たちの社会では一応その者の申し出を信じようとするだろう。あるいは本当は悪辣なさぼりを目的として気分が悪いので早退したいと申し出てすんなりと信じて貰える場合でも、その者が日常的に堅実な出勤態度と仕事内容であるのなら、その者の悪辣さとは本当はより罪深いということになる。事実そういうな社員による横領のような犯罪事実も多く存在してきた。
つまりそのように日常的な振る舞いによるデータ集積的な判断で差別するということに起因する過ちとは、堅実な申し出を却下してしまうということと、悪辣な申し出を信頼してしまうということに尽きる。このことはやはり他者哲学というものを、特に信頼するとは何かとか、親しくなるとは何かというレヴェルから考察する必要性を我々に問いかけている。
他者の痛み、他者の気分、他者の行動に纏わる衝動といった全てはその哲学の骨組み的な位置を獲得するのに十分である。それらは他者の成長過程とか、環境とか、遺伝的傾向とかが全て組み合わさったその者の感性の違いとして顕在している。それは室内の空調や温度に対する感性から、休日の過ごし方の常識から、他者に対する接し方そのものに対する認識に至るまで全く異なったものとして顕在している。恐らく今まで述べてきたヒーロー志向に関しても、アンチ・ヒーロー志向に関しても全く個別の基準によって全ての他者に対する印象から行動まで決しているということを意味する。ある者はある成員に対して堅実であるということを感じる箇所に対して尊敬するかと思えば別の成員は軽蔑するし、またその堅実であると認識するその者の示す態度や、行動に対する着眼まで著しく異なっている場合すらある。それは哲学者が百人いたら、ある一人の哲学史に燦然と残る哲学者に対する見識から、解釈の仕方から、歴史的位置付けに至るまで全く異なるという意味でも、そのことは明瞭であろう。
だから共感し得る悪党とか、犯罪者に対する判定基準が各自異なるということがまず社会の暗黙の了解としていきなり贔屓の政治家の名前を公言し合うことを避けるとか、要するにそういう社会ルールを遵守する「いい子」振ることを私たちに暗黙に強制する第一の要因である。
要するにそのことを告白し合わなければそれまで通りすんなり意気投合し得たのに、そのことについて相互に触れたばっかりにその者と以後ずっと気まずい雰囲気に包まれるということはよくあることである。それはある意味では夫婦とか親友同士であればあるほど出てくる「質問し合わないに限ること」である。また不思議と我々はそういう触れずに済ませる領域を他者毎に勝手に設定して、相互に配慮して避けあっている。しかしふとした時あることを恐る恐る告白したら、向こうも自分と同じように相手を慮って質問せずにきたということを了解し合うと、益々その者と親しくなれるということはある。しかしそれが予想外に全く相互に受け容れられないことであるなら決裂することも大いにあり得る。通常そのことを恐れて、一定以上追求しないでおくという選択肢が最も好まれるし、だからこそ皆「いい子」振るのである。
私たちは自分の痛みしか本質的には知ることが出来ないし、そのようなものとして自分の生きる時代しか理解出来はしないのだ。しかも他者(私より年配者も、若い人もいる。)に対しても、自分の立場からしか理解することしか出来ない。
だからあるマイナーな事柄に対してマイナーなタレントに対する贔屓のように、同じ癖があることを知ったりすると、途端に親しみが湧くのだ。それはあまり高級なものでなければないほど理解の度が増す。それは要するに結束意識であり、同一弱点に対する認識の共有である。共犯意識にすら近いその種の共通性は、嫌いな人間の傾向すら一致しているとより結束感が深まる。
私たちの社会は、仕事の能力とか信頼とかから果ては休日の過ごし方まで、あるいは家庭の在り方まで職業倫理的に評定基準とされる。隠せるものなどこれっぽっちもないのだ。その査定的な暗黙の集団内の約定とか強制(雰囲気的な意味での)が耐えられなくて全く勝手の違った世界に鞍替えしたとしよう。しかしそこで待ち構えているのは恐らく前の世界と似たような取り決めであり、その世界固有の良識という名の臭みである。干渉し合うということを避けて干渉し合わないということをルールとして世界に入って行ったとしよう。しかしそこでも恐らく干渉し合わないという雰囲気が成員全員を干渉し、半ば強制するのである。
その干渉ということの本質とは一体何なのだろうか?それは恐らく個というものの在り方を巡る不文律である。個とは私を自己化することと、他者を私化することによって他者間に横たわる「いい子」の壁を緩衝地帯として認識し、その行き来を自由にすることへの向けられた自己‐他者の協同作業に位置づけられている、運命づけられていると言ってもよい。それはそもそも私たちが感情を行動の指針としてきたからである。言語空間を形成することは、相互の感情に対する配慮以外の何物でもない。
感情とは身体的情動に対する意味づけ作用のことであり、自己にその感情の内容を位置づけること、つまり決定である。決定されたものは他の一切の判断を受けつけない。
私たちが肉親の死を知らされて、その肉親の死を悲しむのは、その肉親ともう二度と会えないということを瞬時に悟るからであり、ある意味ではこれからその肉親の不在を私が生きることを覚悟し、その際に恐らく私に齎されるであろう寂しさに今から耐えられるようにするために未然に泣いたりすることによって一旦肉親を失ったことで得た痛手を紛らわすためなのである。全くそれがない形で永遠のその肉親の不在の日々を生活することは、その肉親が健在だった頃の状況との落差の大きさから耐えられなくなるのだ。不在の肉親に対してなされる表象は常に過去事実に対する想起でしかない。だから実在的なレヴェルではいかに親しい肉親であっても尚生きている者と接するようなリアルさは徐々に失せていく。つまり過去想起というものの在り方における現在を中心とならざるを得ないリアルさの消滅ということ=その肉親の死という事実に慣れていくことそのものに対する予感が私たちがその肉親の死を知らされた時に(臨終の席に立ち会っていて、かかりつけの医師から臨終を言い渡されても同様である。)その肉親に対する憐憫によって我々は悲しいという気分になるのだ。
私たちがこのように死に関してまで干渉し得るのは肉親だけであるということが、逆に他者に対して他者にもそのような肉親があるからこそ、これ以上我々が彼らに干渉するのは止そうという約定を自然なものにするのである。先述したように、社会とはこれっぽっちも隠せるものなどない。税金、遺産、保険料全ては隠せないものである。だから逆に個人的感情にまで立ち入ることを控えようという約定が「いい子」でいさせてあげようというルールと化すのだ。肉親の死が私たちに齎すのは、死んだ肉親が他者に対して示していた自己の消滅という厳然たる事実がやがてこの私にも到来するであろうという予感を生じさせることと、肉親が再び私にとって無数の潜在的意志伝達同意者としての他者一般という形で墓地に葬られることの不可避的他者の死一般への吸収である。肉親もまたどの他者とも同じように死んだに過ぎないということを思い知らされるのである。
感情レヴェルのマイナーさに対する共感ということはある意味では唯一隠すことなど何もないという社会の非礼に対して抵抗出来る私秘的な行動である。それはある部分では社会的責務からのシェルターを意味する。しかしこのことは羞恥の超越という意味を持つが、それを考える前に未だ捉えておかなくてはならないことがある。嘘に関して我々は「いい子」振ることにおいてある程度その実像が見えてきた。しかし誠実ということについては未だ触れていない。
私たちはレヴィナス的な意味でも他者の死を生きる。またサルトル的な意味での他者の不在を生きる。そして他者の死は他者が別の世界へ行くことであるから、死者を語ることとは、端的に生きた他者を語ることと同じような衝動では決してあり得ない。私は亡き父の墓前に花を彼岸、盆、晦日から正月、命日に供える。その時すれ違う他者たちは、当然彼らに固有の亡き親族たちの霊を慰めるために来ている。私とその時にすれ違う他者とは私自身が他者一般、つまり無数の意志伝達同意者としての他者一般に吸収されることであり、同時に例えば私にとっての亡き父の存在もまた、無数の霊というもっと抽象的な郡へと吸収されていることをその時気づく。しかしそのようにすれ違う他者も気づく筈だ、と少なくとも私は思う。サルトル的対自を失った即自としての無数の霊とは一体何か?
それは私たち生者たちの対自に寄り添う固有の想起誘引者である。私たちは親しい他者の永遠の不在としての持続をも生き、そのような運命を携えた無数の他者と生きる。
信頼する他者は羞恥を超越している。その羞恥の超越を可能にするものが誠実ということかも知れない。疑うことを他者に適用することはある意味ではその他者に対する私への信頼の拒否である。この信頼の拒否とはある意味では別の他者に対する信頼の宣言をその他者にしていることでもある。それは生者に対するある意味では無数の霊化である。他者の無視は他者の眼差しに対する羞恥の無視である。他者存在がかように無視すべき対象となるということは、羞恥を超越することに意味がないことになる。
不誠実はホッブスでは不正義であり、忘恩として法的秩序の無視として語られているが、その不誠実としての他者への対応こそこのある他者への羞恥の無視である。ある他者に羞恥の眼差しを向けることとはその他者に対する礼儀であり礼節なのである。だからこそ無数の霊とは生者に対して生者の行状を見守るという意識を我々に生じさせ、我々に生者としての機会を与えてくれると考えることを促すから、生者に対して無視を決め込むこととは態度的にも心理的にもその生者が生きていていても死んでいても同じことを意味する。しかし絶好した者同士はある部分では会うことがなくても相互の存在を尊重している。羞恥の尊重の最たるものである。しかし他者への無視は共有する言語空間において相手の存在が死者一般と同様にいてもいなくてもいいのだから、ある意味では霊化と私が言ったような意味で痛烈である。しかしそれは恐らくそう他者への無視を決め込む者においてより、つまり相手から無視されることを決め込まれた者以上に他者存在は別の意味では大きく立ちはだかっているということだ。
ある他者が私を無視するとする。私はその他者が私に対する無視を解除することに対して抵抗はないし、そういう心積もりでずっと彼の傍らにいてもよい。しかし彼は寧ろ私にそう決め込むことで、私の存在をより重大なものとして、つまり拒否すべき、無視すべき存在として巣食わせることとなるのである。その事実に対する覚醒を私は彼に示したい。しかし彼は聞く耳を持たないだろう。つまりそのことに関して誠実であることそのものを彼は最も拒否しているのだから。ある生者が自分の身近にいて、その者に対して私がずっと無視し、霊化することに吝かでなかったなら、その者が本当に死者となり、無数の霊の一部になった時私は恐らくその者に対して生前霊化してきたことに対する後悔が生涯付き纏うだろう。生者に対する霊化は自らの誠実性に対する霊化に他ならないのだ。
するとマイナーなことに対する共感の共有という事実による親交とは、ある部分で羞恥の晒し合いなので、必然的にこの生者に対する無視を決め込む霊化=自己に対する霊化の払拭でもある。絶好して接近することのない他者に対する礼節な無視ではない。それは羞恥の尊重であるが、無数の死者の如く身近にいる他者を取り扱うということには、自らをも無数の死者の一部にしてしまうことなのだ。
ここに一つの図式が再び成立したことを認めよう。
① 羞恥の超越→マイナーなことに対する共感の共有を通した親交、
→死者の霊に対する尊重
② 羞恥の尊重→かつては親交を持ったが今は距離を置いて相互にその存在を認める
→死者の霊に対する尊重への配慮
③ 羞恥の無視→身近にいるのに無視を決め込みその者を<無数の死者と同列に扱い>霊化する→自己に対する霊化ともなり、死者に対する尊重に対する怠惰となる(黙殺)
通常我々は死者に対して生者と同等の扱いをしない。だから無視を決め込む相手に対しそのように扱うということは、ある部分では死者に対する冒涜でもある。その観点からそれをなすべきではないということと、もう一つは死者が生者を見守っているということを我々が忘れるということに対する冒涜となる。だから逆に身近にいる者に対する無視を決してしないということは、たとえ死者に対しては特定の時期にのみ鎮魂の儀礼をするにしても、生者を生きて殺さずにいるわけだから、必然的に死者の加護に対しては報いていることとなるわけである。
ここで私が言う感謝とは原始神道的な自然への感謝ともどこかで通底しているかも知れないが、それを民族文化的なコードとして理解しているわけではない。もっと集団依拠的な原音楽的に言っているのではなく、原羞恥的に、と言うことは別に私が日本人としてではなく無国籍的に、と言うより非文化的にそう感じるということである。そういった感じ取る衝動の上に私は更に原音楽的に私の属する文化を選び取る。文化を選び取るのもまたその原羞恥なのである。
我々は生まれた時、家族、知人を中心として親しい、近しい人びとに取り囲まれて他者を意識せずにはいられない環境に置かれた時既に羞恥を払拭したり尊重したりすることを運命づけられ、その選択の衝動に突き動かされる。そして文化とは主体的に例えば私は日本人であるという民族運命的環境に同化しようと主体的に選択することを強いられる。
例えば人間はサルトル的に言えば自殺することも選択肢としてある。それは自由である。それはカミュも言っている。しかしそれでも、つまり自殺して自らの生を終わりにすることも出来るのに、敢えてそれをせずに生きることを選択するという未来に対する決意の前で私たちは初めて意志(哲学的意志)ということを自覚する。すると死者はそう決意する私たちを見守ってくれているのではないかという想念が浮上してくるのだ。それは死者に魂があってもなくても、生きている私が死んだ無数の霊によって息吹きそのものが成立させられているという感慨を私は抱かずには生きていけないからである。それは私もまたいつか生を終えて無数の霊とか魂の一部になるかも知れないという憶測をもっと無効化するものでもある。それは生きている内は私には関係ないことなのだ。
死者の霊に対する尊重とは、死者に同化したいという欲求を死者に示すことではない。寧ろ生者として他者との共存を感謝することを自然の一部としてでも自然と切り離されてでも責務的な感情で認識することでしかない。死者への感謝の念とはあなた方が他者ではなくなってくれたお陰で私はこうして他者存在を衝動として受け容れることが出来るのです、と死者に宣言することなのである。それは表面的には死者存在というものに対する無視であると同時に時として鎮魂をする意志に対する同意なのである。
マスコミは悲惨なニュースをその都度、犯罪であれ、自然災害であれ報道する。しかしマスコミとは新聞であれテレビであれそれを報じつつ、それを読む読者やそれを視る視聴者たちに対して、常に「自分が犠牲者ではなくてよかった。」という感情を持って貰うためにのみ報道するのである。マスコミ自体だけが視聴者たちが全員紙面や画面のこちら側にいることを熟知している。マスコミとは出来事であれ、事件であれ、自然災害であれ、常にそれによって崩壊した現実、死んでいく者たちを生きている者たちの間に媒介させることが使命なのである。だからよいニュースであっても、それは悪い知らせに取り囲まれているからこそ意味を持つのであり、マスコミとは常に犠牲者を探しているのである。そしてそれを報じられる大衆全員が「犠牲者が自分でなくてよかった。」と感じて貰うことが彼らの職務の前提であり、且つ要求でもあるのである。その要求を拒否することは本来我々の自由である筈である。だがいつの間にかそれが自由ではないと感じさせられているのである。要するに知りたいという衝動を煽り立てられているのである。その煽られることに関する快感のスイッチを捻っているのも実は私たちなのだ。マスコミの煽動に右往左往することはある意味ではアンチ・ヒーロー意識も誘発するのである。何故ならマスコミとは端的に報道される事態の全てがそのニュースソースとして切り取られる段階で既に正義を偽装しているからである。それはヒーロー意識によって成立している。しかし先にも述べたが、ヒーロー意識とは悪辣な魅力に満たされていて、それでいて「いい子」振るという自己欺瞞以外の何物でもないのだ。潜在的に悪を志向することを誘引されながら、正義の名の下で溜飲を下げる野次馬活性剤こそがマスコミである。このことは「幾何学の起源」で既にフッサールが予感していたことでもある。
サルトルが自己欺瞞を考えたのは、ある意味ではカントに対するモラル論的な返答だったのかも知れない。つまりカントは善とか善意志という形で意志によって善をなすことを道徳法則として捉えたので、その意志を意志しつつ意志から常に乖離していく状況を見据える必要を彼は感じ取ったのかも知れない。対自とは達成されないということとサルトルにとっては同義だからである。カントも実は達成せざる現実ということはきちんと踏まえていた筈である。しかしカント固有のシニシズムにおいて私たちの多くは形式という語に代表されるようなカントのモラルに対してある種の恐れをなしたのだ。しかしその恐れがいつの間にか固有の信仰になっていったということにフッサールを初め、ハイデッガーたちは彼らなりに敏感に感じ取っていたのだろう。しかし彼らの時代から既に一世紀近く経ってしまった。
私たちはデカルトからフッサールへと至るまでに取りこぼされた形での何らかの共進化関係について真剣に考え始めている。例えば誠実はサルトルによっても再び取り上げられたし、嘘ということもまたサルトルの自己欺瞞に始まって、オースティンも捉えることに成功した。例えば次の記述を見てみよう。
(「他人の心」152~153ページより)
「私は知っている」という記述的な言い回しであると想定することは、哲学の世界においてきわめて一般的になっている記述主義の誤謬(the descriptive fallacy)の一例にすぎません。たとえ仮に今日において純粋に記述的な言語が存在するとしても、言語というのは元来においてはそうではなかったのですし、多くはなおそうでないのです。明白な儀式的な言い回しを適切な状況において発話するとき、われわれは自分の行なっている行為を記述しているのではなく、その行為をしているのです(「そういたします(I do)」)また別の場合にはそれは、口調や表情や、あるいはまた句読法や叙法と同様にして、われわれが言語をある特殊な仕方で使っていることを示す働きをします(「警告する(I warn)」、「お尋ねします(I ask)」、「私は定義する(I define)」)。このような言い回しは、厳密には嘘になることができません。ただし「私は約束する」が、私が完全に意図を固めているということ(これは真ではないことがありえます)を含意するように、嘘を「合意する」ことはありえます。
繰り返すことになるが、私たちは皆自分のことしか理解出来ないし、私たちの時代しか理解出来ない。すると恐らく有効な嘘、見破られない嘘という方便も、時代毎に変わり、絶対に遅刻が許されないような状況で遅刻してしまった時に報告する有効な言い訳とは、ある意味では今という時代に固有の仕方である筈だし、また有効な嘘の見抜き方もまた今という時代に固有の仕方においてするべきである。そして許され得る範囲の嘘と、許し難い嘘というものの境界も今という時代に固有の規範として存在し、それは刻々変化し続けているのだ。
つまりオースティンの主張する嘘を合意することとは、ホッブス的な信約ということにおける信頼する者と信頼される者の関係構築のためにあるのであり、端的に信頼に応じるということはその内容如何ではそう容易いことではないので褒賞とか称賛に値することなのだし、だからこそ困難な信約をそう簡単になすべきではないという倫理も生まれるのだ。だからと言って実現可能な範囲内でのみ信約をなすことは発展には繋がらないという意識もホッブスは持っていた。だからオースティンの言う嘘を合意することがあり得るとは自らの能力の可能性を信じてはったりめいた言辞をすることのある人間の許され得る範囲内での嘘ということも含意しているものと思われる。
嘘の見抜き方の中でも仮病に関する見抜き方というのはまた格別難しい。本当に病弱な人の使う仮病も真実味があるし、どんなに頑丈な人でも病気になることはあるからである。そこで再び痛みということに対する報告における大袈裟と忍耐ということの規準とは何かという問題にぶつかる。言語行為とは純粋に記述行為ではないということがこの問題を通して最も如実に示され得る。つまり言語行為とは嘘を発生させる場であるということからも感情の遣り取りであり、理想形としては信頼し合うためのものであるということが導き出される。
衝動とは一つの決意なのである。嘘をつくことも衝動である。それは欲望という語彙に置き換えてもよい。そして決意とは偶然でも必然でもない。ある部分では偶然的であり、ある部分では性格的な必然でもある。つまりどちらでもありどちらでもないのだ。
それは能動的でも受動的でもない代わりにどちらでもあり得るということだ。嘘は理性がつかせるということも言えるが、理性そのものが一つの衝動であり、特殊な衝動の変形なのである。衝動を悪と捉えてもよい。勿論ここで言う悪とは恒常的身体生命活動維持のための存在事実であるということである。
すると良心とは端的に悪の海のほんの些細な灯火の孤島ということになる。いや漂う流氷と言った方がよいかも知れない。(勿論それは極めて貴重であるからこそ我々は重宝してきたのだが)良心は悪の一個の変形(ヴァリエーション)なのである。理性とはそうであるのに何らかの行動の一評定として位置づけられるものでもある。つまり経済学という学問そのものが欲望学でもあるような意味で、理性を欲望の変形として見れば良心が悪=欲望の変形として考えることは極自然なことである。それはアダムの原罪意識としてだけではない。そもそもアダムと聖書の成り立ちそのものが人間の欲望に起因するのだし、当然そういう理性的言説という名の衝動なのである。このことは既にミシェル・アンリは克明にそのことを述べていた。(「受肉」)
日本人は嘘も方便であると捉えがちであるが、西欧社会では嘘は告解の内容の主役となるようなものである。日本文化がある部分では欲望と衝動そのものに対する直視に対するタブーによって明治期以降の全ての言説を唱えてきたきらいがある。例えばそれに比べれば日本はキリスト教社会ではないので、完全に進化論に対する受容は功を奏した。つまり端的に宗教的な謀反であるという意識を日本人は欧米人のような形でダーウィンの進化論に対して抱かずに済んだというわけだ。だから理性論が欧米型の倫理に対する憧憬ということで成立していたのだ。しかしここに来て私たちは再び明治期以降の日本人のアイデンティティーに対する再考というものをする必要に迫られている。そのためにも私たちは進化論を受容したような意味でより衝動と欲望のシステムを見据える必要がありはしないだろうか?
その一つは嘘を理性論の範疇でではなく、欲望論、衝動論の範疇で語るのである。羞恥を介在するものとしてもし捉えるのなら、理性が一個の衝動の変形であると我々は知るだろう。嘘は自己欺瞞と形式的自己保身によるものであると知るなら、寧ろ嘘つきのパラドックスとか嘘つきの心理を潜在的な欲求レヴェルから、つまり衝動論として、しかも他者衝動、他者欲望論として捉える道が開けてくるだろう。
最近大きな猟奇的な通り魔殺人事件があった。その後マスコミは犯人が犯行に至る前に店でナイフを買ったところを何度も放映した。しかしその時彼は未だ犯人ではなかった。要するに犯行を実行するために購入したナイフだったかも知れないが、その時点では踏み止まることも出来た筈だ。しかし彼は実行した。そうなるとあたかも彼がナイフを買っていたことを原因のように報道してしまう。しかしそれは決して原因ではない。ただの思いつきであり、その後彼は突如発作的にそれを実行に移してしまっただけだ。そして犯行後歩行者天国を封鎖した。しかしそのようなことをしても、またメールの過激な文章を取り締まっても、恐らくメールもしない奴が今度はもっと酷い犯行に至るかも知れないし、歩行者天国がない状態でも幾らでも犯行することは可能だ。
他者とは哲学的にはただの他人とは違う。例えば私は本論で他者を私そのものの衝動として取り扱った。そしてそれは正しいと思っている。そして自己を他者との関係において私を公的に認識することとして捉えた。
私が電車に乗ると大勢の他人に取り囲まれている。そして彼らは一般的に他人である。しかしその中の誰でもいいが、特定の他人に視線を注ぎ、その存在を意識した時共有空間内でその者は私にとって他者となり、その者が私の視線に気づき、私の存在を意識しだすと、途端に私はその者に対して自己となり、私と彼の間で他者間の関係が生じる。私は無数の意志伝達同意者とそういう言語空間共有可能者のことを呼んだ。私にとって掛け替えのない家族、友人も他者であれば、たとえ通り縋りでも一言でも言葉を交せばその者もまた他者となり、彼(女)にとって私は他者となり、その者に対して私は自己意識を持つ。
三年に一回くらい街角で会う昔の知り合いに対して私はよく会うなと感じてそう言ったことがある。しかし彼は「よくなんて会わねえよ。」と返した。しかし三年に一回くらい偶然会う人間に対してよく会うと感じることもあれば、毎日会う顔でもよく会うとは思わない場合もある。
嘘は他者を必要とする。例えばオースティンは説話上での他者に対する宣言という形で嘘の可能性を示したが、サルトルが「存在と無」の自己欺瞞で示した対自的な「反射」、「反射するもの」の関係とか、そういう内的関係における運動は明らかに嘘というよりは、切実に真実を求める人間の実存においては誠実であり、努力であり、苦悩であるので、それは突発的な嘘ではない。しかし嘘そのものもまた他者に対する羞恥が突発的に生じさせたものと捉えることも出来る。私が三年に一回くらい会う昔の知り合いによく会うと感じたことは事実関係としては矛盾するかも知れないが、私の内面において嘘では決してないだろう。だが本当は若い人間と一緒に飲みに行って四千円をその店で使った後でその時のことを若い者と回想する時「まあ、四千円くらいなら高くないよね。」と言うとしたら、それは咄嗟に出た嘘であるが、それとて羞恥が催しているわけだから強ち非難されるべきものでもない。
タブーを設けることでとりわけ欲望レヴェルの考察に蓋をするのは、日本人の得意とするところである。日本人が嘘も方便と捉えることもまた咄嗟の衝動であると言える。しかしそのように蓋をする心理は実は羞恥であるとすると、今度は羞恥自体に対して考察することを憚り蓋をしてしまう。これが理性論的因果論の範疇に留まってしまうことの理由である。因果考察は犯行前のヴィデオ映像を何度も放映したり、歩行者天国を封鎖したりする意識に繋がる。しかしそれは事後的な付け焼刃的な方策でしかないだろう。
嘘を他人につくこと、他者に嘘をつくこともそうだし、痛みを必要以上に他者に告げて、少しでも楽な状態に自分を持ってゆくことが誰でもあるように(全ての権利主張にはそういうところがある。)、例えば国民が政府や各省庁の措置に怒り心頭に発することも含めて、ある程度国民の側も忍耐が必要であるのに、政府や与党政治家たちのセンスのなさが全てを悪い方向へ持っていっているという認識を抱くこともまた痛みを必要以上に叫ぶことを選ばせることに近いだろう。ホッブス流に言えばそれらの措置も個人の側に全てに対して寛容にはなりきれない意志があるのだから、当然甘えに近いと思われる行為もよく見られるが、その時でも羞恥という心的作用を粒さに見れば、何故あのように声高に叫ばねばならないかとか何故正直に本当のことを言えないのかということもそれなりに理解出来るのではないだろうか?つまりそのように私たちを持っていくこととは、羞恥を大きく介在させた常に我々の中にある衝動なのである。そしてそのような衝動を持たざるを得ないのも、私たちにとって自分を私として意識させ他者と接する時それを自己に転化するものこそ他者の存在であり、その他者存在こそが全ての衝動の起源であるということを知れば、然程何故なのかと思い悩むこともないだろう。
他者、それは全ての衝動の起源である。(了)
稲垣諭「衝動の現象学」(知泉書房刊)
ミシェル・アンリ「受肉<肉>の哲学」中敬夫訳(法政大学出版局刊)
リチャード・ドーキンス「利己的遺伝子」日高敏隆/岸由二/羽田節子/垂水雄二訳(紀伊国屋書店刊)
ウィリヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル「法の哲学Ⅰ」藤野渉/赤沢正敏訳(中公クラシックス)
マルチン・ハイデッガー「存在と時間」原祐/渡邊二郎訳(中公クラシックス)
永井均「<私>のメタフィジックス」(勁草書房刊)
エトムント・フッサール「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」細谷恒夫/木田元訳(中央公論新社刊)
トマス・ホッブス「リヴァイアサン」水田洋訳(岩波文庫)
ジョン・ラングショー・オースティン「オースティン哲学論文集」(J・О・アームソン編)坂本百大訳(勁草書房刊)、「言語と行為」坂本百大訳(大修館書店刊)
オイゲン・フィンク「存在と人間」座小田豊/信太光郎/池田準訳(法政大学出版局刊)
コンディヤック「人間認識起源論・下」古茂田宏訳(岩波文庫)
土居健夫「「甘え」の構造」(弘文堂刊)
マイケル・ポランニー「暗黙知の次元」高橋勇夫訳(ちくま学芸文庫)
J・Z・ヤング「脳と哲学」河内十郎/東條正城訳(紀伊国屋書店刊)
マックス・ヴェーバー「社会科学と社会政策にかかわる認識の客観性」富永祐治/立野保男訳、折原浩補訳(岩波文庫)
A・J・エア「真理・言語・論理」吉田夏彦訳(岩波書店刊)
ヒラリー・パットナム「理性・真理・歴史内在的実在論の展開」野本和幸/中川大/三上勝生/金子洋之訳(法政大学出版局刊)
中島義道「観念的生活」(文藝春秋社刊)、「「私」の秘密」(岩波書店刊)、「偏食的生き方のすすめ」(新潮文庫)その他の著作
ジャン・ポール・サルトル「存在と無」松浪信三郎訳(人文書院刊)
アルベール・カミュ「シジフォスの神話」
エマニュエル・レヴィナス「存在の彼方へ」合田正人訳(講談社学術文庫)
インマニュエル・カント「実践理性批判」篠田英雄(岩波文庫)
付記 「他者と衝動」はこれで終わりですが、この後本ブログでは「羞恥論 依怙地と素直<衝動論第二幕>」を掲載更新致します。数日休暇を頂きます。(河口ミカル)
Thursday, October 29, 2009
〔他者と衝動〕結論 自己と他者②
少し話しの方向を転換してみたい。
そもそも人間は感覚的授受において非言語的なものに対する認知(クオリア)を言語化したい誘惑がある。例えば画家は四角い画布に、紙に通常絵を構成しようとするが、それさえもが実は一個の言語化であると言える。オースティンが微細な語彙選択に関して哲学的に分析する時(「言語と行為」、「他人の心」他)彼の脳裏にはこのクオリアに対する視点と、そのクオリアを何とか哲学的に解明したいと考えていた節が伺える。そのことを顕著に示す記述として次の記述を掲載しておきたい。
(前略)あるいは、味や音色についてはどうでしょうか。われわれは視覚以外の感覚に関して、視覚の場合ほど断固としてはいません。そこでまさにそれだけにこれらの例は、良い例になってくれます。味や音色や匂い(や色)を記述することや感情や感じを記述することは、どの場合でも、われわれが以前に経験したことのある何かにそのものが似ていると言うことを含んでいます(いやまさしくそう言うことにほかならないのです)。記述的な語はどれもみな分類語であります。それは再認という契機を含んでおり、またその意味では記憶をも含みます。そして、この種の語(あるいは、結局帰するところは同じですが、名ないし記述)を使用する場合にのみ、われわれは何かを知っていたり、信じていたりするのです。ところが記憶と再認とは、しばしば不確実であてにならないものであります。(「他人の心」132ページより、坂本百大監訳、勁草書房刊)
中島義道氏は「観念的生活」(7章 二重の「いま」109ページ)において
クオリアの問いとは、現在性の問いであり、「いま」の問いである。「いま」の神秘は現実性の神秘に通じている。すべての生理学・心理学の知識をもってしても、なぜ私に眼前の赤が現に見えているのか説明はつかない。このことはいかなる時間秩序をもってしても、「いま」の登場は説明できないことに通じる。言い換えれば、「いま」現にあるということは、いかなる<法則を含めた>概念によっても導くことができないということである。それはまさに「いま」現にあることそのことから導くことができることなのである。
と述べているが後半の記述は全て正しいと思うが、最初の文だけが不完全である。これは先述しておいたオースティンの言説と合わせて考えるとより完全になる。つまり私なら
クオリアの問いとは、現在性という形で現象するが、実際は現在性というものが潜在的な記憶とそれに対する再認という形で無意識になされていることから誘引される問いである。しかもそれはふと立ち現われる具体的な想起とも少々違っている。
と修正するところだ。
クオリアは当然のことながら知覚とも深く関わっている。知覚という作用のないところではクオリアは成立し得ない。タコとイカの神経系の研究で著名な生理学者であるJ・Z・ヤングは
(前略)知覚は、ほとんど常に期待に基礎をおいており、その期待は外発的に引き起こされるか、あるいは内発的に動機づけられることによって生じている。(中略)同様に、知覚から得られる情報や知識は、本質的には、事象間の関係か、過去、現在、あるいは未来に関する期待の体系なのである。さらに、知覚は、通常何らかの活動を引き起こすか、あるいはさらに先の期待を生み出す。たとえその活動がその方向を見ることをやめることにすぎない場合であっても、そうなのである。
と述べているが、この考えは中島氏の時間論の考えに非常に近い。中島氏は人間の自我=私意識を、「いま」ではない過去と「いま」ということの類比の中で、連続してはいるが、想起において断絶してもいる過去と現在を一貫して同一の経験主体である私がいると他者に説明し得ること、その間に刻々と変化してきてはいるが、それでも同一の主体であると認知し得ることとしている。ヤングの指摘にはこれと全く相同のメカニズムが垣間見られる。中島氏は未来に対する不確実性と、不安の前で我々が未来の過去化(未来に想定された事実=結果が実現するためにはどのような行為が求められるかと考えること)によって未来へ向けた目的とか展望を抱くことによって行動へと差し向けられていると考えている。
哲学者ジョン・ホーゲランドは知覚を倫理的な所作であると考えている。
あるいは現象学者であるオイゲン・フィンクは
(前略)人間の思考にとっての存在問題とは、存在がそれ自身にとって問題であることの一形態でしかない。存在は概念を欠いた把握不可能性から概念の明るみへと突き進んでいく。存在は自らをよりいっそう「明け開く」という仕方で「存在している」。存在はその「全面的な明け開け」において自らを理念として把握するのであるが、この理念においては、自身に備わるあらゆる外面性が剥ぎ落とされ、あらゆる異質性の見かけが自身から取り除かれ、あらゆる自己疎外が打ち砕かれてしまっている。そのとき自然は理念の外面性が自己定立したものとして把握される。この定立された外面性から理念は自身へと返っていく。(「存在と人間」208ページより、座小田豊/信太光郎/池田準訳、法政大学出版局刊)
と述べているが、この記述はかなり難解であるが、最初の二文は理解しやすい。つまり人間にとって存在問題が、存在それ自身が抱えることの一部であるという認識はサルトル的ではないし、デカルト的でもないし、勿論ヒューム的でもあり得ない。恐らくヘーゲル的なのだろう。しかし次に述べられている存在それ自身の把握不可能性と彼が呼ぶ超越性はそれでも人間によって理解されるということにおいてまさにクオリア(本来言語化不能である筈のものである)をも言語化しようとするような意味で私たちの前に立ちはだかりそれを待っているというニュアンスである。しかし次の一文での存在とは存在する事物全てのことだろうが、次の一文での存在は明らかに私たち、現存在のことである。そして次の一文では現存在が存在一般に同化することが述べられている。その時初めて自然は我々にとって理解可能な理念化された存在となるという主張がここにはある。つまり自然=存在に対して我々はその一部にしか過ぎないという観念を介在した時初めて自然は語りかけてくるという主張としてこの言説を読み解くことが可能である。これは幾分ハイデッガー的言説である。そして最後の一文においてフィンクは理念によって理解された自然がその脅威を我々によって親しむべきものへと変貌した後では再び理念という一物は不要となるという気分が表示されているのだ。
クオリアを考える時我々はこの自然に対する語りかけという特有の対話の中から炙り出される非言語的存在=自然と言語化という試みとの共存という現実、つまり我々の営みである言語自体もまた一つの存在であり自然であるという認識が哲学的な気分として意外とキー認識となっていくのではないかと私は考えたのだ。この考えを 言語=存在 説 と名づけよう。
私たちの生活上で考えられる限り思い出してみよう。その時意外と重要なものとは気分であり、雰囲気ではなかろうか?
例えば仕事というのはどのような職種でも一定の責務と、ルティンによって彩られている。しかしその仕事を出来る限り能率よくしたりするには、オフの時間の過ごし方一つで、日常生活の潤いがあるかないかによって決定される。そして夜寝床で読書する時どういう本を読むかとか、ソファに寝そべり聴く音楽はどういう種類のものかということは殆ど哲学では顧みられなかったが、意外と重要である。
その日職場であったこと、営業先であったことなどを想起しつつ、今日の気分に最も合致した曲とは何か、どの歌手や演奏家のものがいいかということまでその時の感情的具合とか雰囲気によって決定される。ある音楽やある本はこれこれこういう気分の時に聴き、読むととても心地良いとか別のある本はそれとはまた全然異なった気分の時に読むのがいいし、また別の音楽はそういう時に聴くのにぴったりだという暗黙の了解が各個人毎にそれなりに決定されていはしまいか?要するに音楽のメロディーが志向する感情的傾向、あるいは本の文体などが鑑賞する者の心理に影響を与えるのである。
例えば職場でのボードミーティング、プレゼン、会議といった場での進行を考えてみよう。勿論それらは仕事であり遊びではないから一定のルティンというものがその都度求められよう。しかし円滑にしかも充実した内容でそれらが運ばれるのは、堅い理性論からではないだろう。理性というものは寧ろ反省時に過去の出来事を評定したり、それこそ日常的語義として反省したりする時にのみ冷静な判断をするために必要とされるものであり、議事進行そのものを滞りなくさせるものはその場の参加者間での気分の盛り上がりとか一致とか、いい意味での共鳴である。それは暗黙の策定である。我々の社会とは一定のルールは常に必要であるが、絶対と言っていいほど予定通りにはいかないものである。と言うより常にその場その時の状況判断において(それこそがその都度の成員全員の気分と衝動が重要なファクターとなり得るのだが)機転の利いた変更とか脱線によって初めて成員全員の意気が合ってくるというものである。それらのことは言語行為というものがどんなに堅い内容の対話であってさえ、いやそれが堅いものであればあるほど逆にユーモアがアドリブでどれくらい出されるかとか、心地良い脱線がどれくらいいい意味で進行の具合を調整し、話題をより深化させるかということがキーとなってくる。
それはオフの時間の過ごし方が下手な者が社会でいいビジネスが出来ないということと同じくらい集団とかペアとか複数の人間関係、会合にも言えることなのである。だからこそ意思疎通の手段として言語を採用してきた歴史の種である我々人間にとって 言語=存在 説 がより説得力を持つ考え方となり得るのである。言語は今まで多く認識論的な範疇で語られてきた。しかし言語行為を主体とする我々の実像を知る上でそこには自ずと限界がある。言語行為の流れとか方向性というものはそれ自体一つの生き物である。それは世論とか社会の風潮というものが一つの時代に固有の気分と衝動であるのと同じである。そのような現実に即した形で哲学する時我々にとって言語行為そのものが場と雰囲気の存在論的な見方から考えないと行き詰ってくるのだ。
私たちは既にマイケル・ポランニーの主張していたような意味で暗黙知というものが認識一辺倒であるように思えた言語行為にも脈々と息衝いていることをどこかで薄々勘付いている。言語はある部分では思考の産物でもあるが、同時に感情の産物でもあるし、気分の象徴でもあるし、比喩とか暗喩とか揶揄とか直接、間接を通して気分と衝動に訴え、その都度の衝動同士の相関的な様相を決定するものでもある。言語そのものが気分や衝動を作っているという部分と、予め決定されたその都度の気分と衝動が言語を構成しているという部分が常に複雑に交差しているというのが現実ではないだろうか?そしてその都度の感情のクオリアとか、場の雰囲気のクオリアをも含めて要点を突いて、的確に表現した語彙や口調や話の意味内容といったものが我々の実際の知覚的なクオリアをより活性化するかと思えば意気消沈させるようなこともある、要するに成員=各私の自己化+他者の私化(私意識を集団内で自己意識に昇華させ、他者を固有の私保有者として私化することによって集団内の相互理解度を増さしめること)こそ、その限定された時間内において有効かつ充実した空間を構成するキーなのである。
ここで明記しておきたいが、他者は他者としてのみ存在するのではなく私を含み込み、そして私とは端的に他者を含み込んでいる。私を自己化するということは端的に私の他者化なのだ。だから他者を信頼するということも他者の私化と言ってもよい。そして私たちは他者を羞恥という心的作用によって尊重もするし、その間の壁を取り払うために羞恥を払拭しようと試みる。つまり羞恥の扱い方そのものが即私の自己化と他者の私化という相互作用を円滑にするのである。
私の考えでは正義とは社会が含有するその都度の時代によって構成される恣意的なものであると思う。つまり社会とか支配‐被支配という関係の構図において時として前時代なら英雄であった筈のある個性的成員を犯罪者に仕立てたり、逆に別の時代だったら当然罰せられていたであろうようなタイプの成員をヒーローに祭り上げたりするのである。正義の形態とはその時代毎に書き換えられ、常に価値規範を修正、転換してきている。つまりそのような変換のリズムそのものが私たちの衝動の集合によって構成されているのだし、また私たちのその都度の気分を決定づけてもいる。つまり相互侵食作用として個と集団が存在するのだ。昨今のKYという語彙、空気が読めないということに象徴される気分重視の社会の方向性は何も現代に固有の現象なのではない。私たちの暗黙の知性に対する要求が、そういった生理的レヴェルの判断にまでやっと辿り着いたということを意味するに過ぎない。恐らくいつの時代にもそういう空気に対する読みと他者一般の空気を読むこと、読まれることにおける競争とか葛藤があったのだと私は思う。(それを言うのなら、偉大な思想や哲学、文学や芸術を生み出すものとは、その何千倍もの愚かな人間の思想や行動であるとさえ言える。ヒトラーは自ら絶対に正しいと信じて行動した。そうでなければあれほどの行為を遂行することなど出来なかっただろう。正しいということは何か否定すべきものが自らの信念においてあるから可能となる信念なのである。そのことについてはヘーゲルとサルトルの功績を認めなくてはならない。)
だから人間関係における信頼の構図というものは、ある意味では一つの緊張の解除でもあるし、一つの緊張の死とさえ言える。ある人間関係が不動点を迎えるということは新たな秩序が形成されることでもあるが、その秩序の崩壊の予告でもある。恋人が夫婦になることによって失われるものがあるような意味で私たちはその都度の時代の気分を反映させながらある集団においてその集団の性格を決定づけながら参加してその集団の気分と衝動を吸収してもいる。何かを得ることが何かを失うものであるような意味である一つの気分と衝動を得ることは別の気分と衝動の消滅を意味する。その気分と衝動を調整するものとして私は羞恥という心的作用を考えたのだ。
そこで今度は言語行為においてどのようなニュアンスを話題転換とか決意表明性として示されているのかということを中心に考えてみよう。
私たちの生において他者は私の恩人であると私は捉えたが、それは他者を想念するということは他者との出会いによってであるが、その時点で私を我々は巣食わせていることになり、要するに両者は相補的・共進化関係にある。そういう意味では他者‐私、私‐自己、他者‐衝動、衝動‐羞恥、羞恥‐経験、経験‐記憶、記憶‐想起、想起‐想像力あるいは連想、自己‐他者あるいは衝動、私‐羞恥、自己‐羞恥、経験‐羞恥、羞恥‐良心、良心‐記憶あるいは経験、想像力あるいは連想‐他者、私、自己、記憶、経験、想起といったものたちは皆相補・共進化関係にあると言ってよい。
クオリアは記憶、経験、知覚とそのような関係にあるが、言語がなければ我々にとってクオリアはこれほど鮮やかなものではないだろう。つまりクオリアの持つ非言語的要素という認識や、感受そのものの性質とは最も私たちの言語化能力、言語習慣、言語行為、つまり言語に拠っているのである。言語‐クオリアの相補・共進化関係が成立する。そのことをオーティンとコンディヤック二人の哲学者の言説から見ていくことにしよう。
オースティンは俗にパフォマティヴ<行為遂行的発言>という概念をより強調して示したと言われるが、それはクオリアとも大いに関係してくる。
(前略)知っている(つまり、判別することができる)と言う際にわれわれが主張しているのは再認ということです。ところが、再認とは、少なくともこの種の事例においては、われわれの経てきた経験のなかでは以前の何らかの機会において注目した(また、たいていは名指しした)ことのある何物かに類似していると確信をもって言えるような、一つないしそれ以上の特徴を目で見たり、他の何らかの仕方において感覚したりするということからなっています。しかしこのわれわれが見たり、他の何らかの仕方において感覚したりする当のものは、必ずしも「言葉で記述できる」とは限りませんし、ましてそれを詳細に中立的な言葉によって記述することは、誰にでもできることではまったくありません。いまにも怒り出しそうな顔つきやタールの匂いを再認することは、ほとんど誰でもできますが、それらを中立的に、つまり、「いまにも怒り出しそうな」や「タールの」といった言葉を使わずに記述できる人は殆ど皆無でしょう。(「他人の心」119ページ、この論文は「オースティン哲学論文集」(J.O.アーム
ソン、G.J.ウォーノック編)に収められている。)
これは先に挙げたクオリアと記憶の問題と深く関わり、先の掲載文より先に登場するが、より明確に非言語的感受の自然さと言語化不可能であることを逆に言語の存在によって知ること、そして何より非言語的感受さえ言語化しようとする我々の一つの生における重要な性格について物語っている。
コンディヤックは啓蒙哲学者であり、ルソーやヴォルテールと並び称される存在であるが、より記憶と想起と連想、想像力に重きを置いている。例えば次のような記述がそうである。
§三九 記憶という働きは、すでに我々が見たように、観念の記号、ないしはその観念に関わる状況を呼び起こす能力の中にしか存在しない。そしてこの能力は、我々が予め選んでおいた記号の類推と、諸観念の間に我々が設定しておいた序列をとおして、思い出そうとする対象が我々のそのときの欲求の一つと繋がっている限りにおいて、はじめて発動するのである。要するに、我々がある事物を呼び起こすことができるのは、その事物がどこかで、我々の状態に関わる何らかの事物と結合している場合に限られるのである。ところで、偶然的な記号や自然的な記号しか持たない人間は、自分の意のままになる記号を全く持たない。それゆえ彼の欲求が引き起こすことが出来るのは、想像力の発動だけなのである。ここでは、記憶という働きは存在しないはずである。(「人間認識起源論(上)」81~82ページより)
ここでコンディヤックは記憶が経験を体系化して行為を意味づけることにおいて重要な役割を認めつつも、同時にもし記憶がなかったとしても発動され得る想像力で何とか最低限の行為を人間に可能にすることを主張しているとも言える。
コンディヤックはロックから概念として延長以外にも観念とか想起とか記憶とか多大なエキスを注入しているが、最終的にはロックが観念のみで全てが理解出来るという考えに対して批判を加えている。彼は記号というものの存在、そしてその体系化ということをより重視したのだ。そして書くことで記憶へと植えつけることを主張してもいる。そういう意味では言語学とか記号学、あるいは現代脳科学の基礎的なアプローチをコンディヤックがしたと考えても強ち間違いではないだろう。しかし彼に最も欠けているのは記号というものの使用とか概念というものの把握にとって必要なのは他者であるという認識である。他者がいなければ我々は概念を必要とするだろうか?例えば何かを書くということは、それを読むのが自分一人であっても、それは自分を一人の他者として認識することではないだろうか?
しかしそれでも尚私はコンディヤックの功績を高く評価したいのだ。それはこういうことである。コンディヤックは「人間認識起源論」の第五章 抽象について において抽象観念を実在を構成する(彼の主張によると矛盾を含まない可能性を通して)当のものであるという人間の誤謬を指摘して、要するに観念論より実在論を優先し、認識論をも含めた認識の起源に存在を認めたのだ。それを彼の記号に対する人間の態度を考慮に入れて整理すると、人間とは記号を頼りに認識し、それを先験的なものとして実在をもその支配下に収めようとする(抑え込もうとする)がそういった把握の仕方そのものが既に一つの衝動なのだ、ということを直観的に捉えたのである。衝動というと多くの人びとは認識外的なこととしてネガティヴに捉えるが、認識そのものも認識衝動であるという考えは、寧ろ衝動が認識も、認識外的な心的作用も両方司っているという新しい形での存在論を我々に見いださせる。だから人間が何かを書きとめようと思って記号を使用し、紙に鉛筆とかパソコンでワードを使って文字を入力するということもまた、一つの「書く」という衝動以外の何物でもないのである。
ところで書くことは自分にとっての記憶に役立つ。脳科学者の茂木健一郎氏は文章を書き写す時、その文章を見ながら書き写すよりも、見て一旦記憶して元の文章を見ることを中断して思い出しながら書き写すとより記憶に定着することを主張している。(「脳を活かす勉強法 奇跡の「強化学習」」PHP刊)これは記憶と衝動の関係から「書く」ということを考える契機となる指摘ではないだろうか?つまり私たちは記憶したいという衝動によって書いたり、文字を見ないで、文字を覚えて書いたりしようと提唱しているのではないかということなのである。言語に纏わる記述も、発話も全て一つの衝動なのである。言語によって衝動を制御しているのでははない。私たちは言語や論理によって野生を制御しようとするという解釈を生むものこそ認識という一つの衝動なのである。
そのことを証明する端的に事実として、私たちの言語行為は意味内容だけで構成されているわけではない。寧ろ意味内容の伝達を滞りなくさせるものとは場の雰囲気である。ある会合において円滑に議題とそれについての討議がなされていたとしよう。しかしある者が暴言に近い形での突拍子もない発言をしたとしよう。それはまさに言葉による猟奇的無差別通り魔殺人に近い。その場は一気に白けてしまい、最早先ほどまでの円滑に進行していた場の雰囲気を取り戻すことが全ての参加者にとって不可能となろう。最早修復不可能な場の雰囲気においてはいかに充実した意味内容の発言がなされたとしても全く効力を失ってしまう。そもそもそういう有益な発言が機能するためには場そのものがそれを吸収しようという雰囲気に包まれているということが大前提だからである(勿論そのネガティヴな空気が新たな意味を持つことも可能性としてはあり得るが)。そういう意味では先述のホッブスの信約という概念がまさに責任ということと、どのような成員も須らく権利を保持しているということと、その権利の享受という欲求、そして外圧を加えられたら抵抗する意志と能力を持っているということを意味しているように、私たちは自己の発言を私性に彩られたままにしておくわけにはいかない。場の雰囲気を構成する者としての責任がある。
それはまさに他者とか自己だけを論じることは光を論じて闇を論じないでいること、闇だけに注目して光を無視するような暴挙であるのと同じで、意味内容を特権化し意味作用を無視することに等しいのである。オイゲン・フィンクは次のように述べている。(「存在と人間」第十三章中、227~228ページより)
(前略)伝統的な形而上学は、たとえそれが見かけ上はまったく別種の問題を扱う場合でも、たとえば無限なもの、神、自由、世界などを扱う場合でも、やはり事物存在論なのである。無‐限なものDas Un‐Endiche は有限なものからの離脱という形で考えるように試みられ、それによってついには「《無限な存在者ens infinitum》」として、また「絶対的実体」として評定される。有限なものを嵩上げするという方法も、有限なものに対して否定的に境界線を引くという方法も、どちらも事物的存在論的な可能性の空間内にとどまっている。事物存在論的な概念性の領野は、事物をそれとして扱うただの範疇論的構造分析よりもはるかに大きい。この事物的存在論的な概念性は見かけ上それが事物の事物存在を超えて問うているところでも、つまり事物へと向かう視線を捨てて、たとえばあらゆる事物の全体という方向へ踏み越えているところでも、なお力を発揮しており、またその支配をつなぎとめている。このことはたとえばカントが世界、自由、神といった問題に着手する際のやり方に即せばまったく明瞭になる。要するにカントはそれらの問題を純粋理性の理念的な表象の問題とみなすのである。理念のうちにアプリオリに表象されたものはいかなる「客観的妥当性」を持ってはいない。なるほど世界全体を現象の系列の全体性として思考することは必然的なことである。しかしそのように思考された全体は、純粋理性がつねにすでにあるあらかじめ開いてある地平ではあるが、しかし現に存立している全体ではない。世界を統制的理念へと格下げすることによって、つまり経験の使用にとっての規則として機能するような、必然的に思考される主観的な全体表象へと格下げすることによって、あらゆる現象は全体的統一性に帰属するものと考えられることになる。しかしまたそうであるかぎりで、こうした世界の存在の格下げは、その際の「存在」の規準を「事物」から、カント的にいえば、客観的妥当性をもった範疇から見て取っている。なぜならこの客観的妥当性を持った範疇において考えられたものが経験の対象としての事物だからである。このようにしてカントは大いに力点を置いて、事物を主題とした存在論を世界の自由や神などを主題とした存在論から切り離そうとするわけだが、それにもかかわらずそのように隔絶された非事物的なものが、やはり事物存在論的な根本表象に呪縛されて論じられているのである。私たちはいま「事物存在論」という表現をある根本的な意味で使用しているのだが、それは有限な事物に即するにせよあるいはそこから離脱するにせよ、いずれにせよ有限な事物へ向けられた視線のなかで思考しつつ存在を規定しようとする存在の問題構制の形態を意味している。ところで事物的存在論とは、人間が選び取ったり逸らしたりすることができるような理論的な可能性ではない。それは伝統的な形而上学における思考の軌道であり、私たちのあらゆる存在概念的思考がそこに由来するところの歴史である。かくして私たちはすでにその事物的存在論のうちにいるわけであるが、それにもかかわらずそれはそれ自体問うに値する何ものかとしては、決して私たちの目にとまることがない。存在がまさにそれであるところのものが新たなより根源的な次元において立ち現われてくるとき、事物存在論ははじめて私たちにとって疑わしいものとなりうる。
またマックス・ヴェーバーは「社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」」中で次のように述べている。
(49)理念型は、その機能という点では、歴史的個体あるいはその個々の構成部分を、発生的な概念において把握しようとする試みである。たとえば「教会」および「教派」の概念をとってみよう。両者は、純然たる分類としては、いくつかの標識〔メルクマール〕の複合に分解されるであろう。ただしそのさい、両者間の境界のみでなく、概念内容もまた、つねに流動的なままであるにちがいない。ところで、わたしがいま、特定の重要な文化意義に関連させて把握しようとすれば、両者の標識のうち、特定のものだけが、本質的となろう。というのも、ほかならぬその標識が、そうした〔近代文化におよぼした〕作用にたいして適合的な因果関係にあるからである。ところが、それと同時に、当の概念は、理念型となる。というのは概念は、概念上十全に純粋な姿では〔教派ないしは教派精神を、全体として〕代表するものではないし、ただ個別的にしか代表していないからである。ここでもまた、純然たる分類概念以外の概念は、まさしくいずれも、実在から遠ざかる。けだし、われわれの認識の比量的な性質、すなわち、われわれが実在を把握するのは、一連の表象の変移をとおしてのみである、という事情が、こうした機会の速記術を要請するのである。われわれの想像力は、研究の手段としては、しばしば確かに、実在の明晰な概念的定式化なしにすますことができる、しかし、叙述のためには、それが一義的であろうとするかぎり、明晰な概念の使用は、文化分析の地盤の上では、多くのばあい、まったく不可避である。これを原則的に斥ける者は、文化現象の形式的な、たとえば法史的な側面に自己限定しなければならない。法規範の宇宙は、当然のことながら、概念的に明確に規定できると同時に、〔もとより法的な意味で!〕歴史的実在にたいしても妥当する。ところが、われわれの意味における社会科学的研究が取り組まねばならないのは、法規範の実践的意義である。ところで、この意義は、経験的に与えられたものを、理想的な極限事例と関係づけることによって初めて、一義的に意識されることがきわめて多い。もし(最広義における)歴史家が、こうした理念型を定式化しようとする試みを、「理論的構築」として、つまり、かれの具体的な認識目的には役に立たないもの、あるいは無くても済ませられるものとして、拒否するとすれば、その結果は、通例、かれが、意識してしか無意識にか、他の同じような虚構を、ただ言語による定式化と論理的な加工を怠ったまま使用しているか、あるいは、かれが、漠然と「感得される」だけで〔明晰に〕限定されないものの域にとどまっているか、どちらかである。(120から122ページより、富永祐治・立野保男訳、折原浩補訳、岩波文庫)
私たちは自由や自由意志、あるいは自由意志論の奴隷であると言える。だからこそ逆に私たちはそういう認識論‐観念論の呪縛から、あるいはフィンクやマックス・ヴェーバーの指摘する理念及び理念型からの脱却を図らねばならない。つまり存在論‐実在論として言語行為を語らねばならないのだ。
そのためには私たちには言語空間という捉え方が必要とされている。私は正義とは時代によって構成される恣意的なものであると言った。そのことは正義そのものが常に不在であることを意味するのではなく、常に正義はあるが、それは常に別様であり、変化し続けているのであり、重要なこととして我々は正義をその都度見測る規準だけは常に持っている。しかし正義の在り方は常に前時代、そして現在ということの相対的な在り方でしか顕現していない。拠って我々はその都度正義の在り方を組み替え直さなくてはならないのだ。つまり同じ決断が仮になされたとしても、前回のものが正義と呼ばれ得るとしても、今回においてはそうではないという判断は、その時代状況や状況性に対する我々の読みや正義を殊更必要としているのかというその都度の我々の精神状態に依存している。だからと言って全てが相対主義によって説明が尽くかと言えばそうではないだろう。そのことはヒラリー・パットナムがより適切な形で「理性・真理・論理内在的実在論の展開」(野本和幸/中川大/三上勝生/金子洋之訳、法政大学出版局刊)に詳述されている。(第五章 二つの合理的理性概念 なぜ相対主義は整合的でないか)しかしそのことは先に述べた「我々は正義をその都度見測る規準だけは常に持っている」という記述で事足りるだろう。
要するに私たちに残されている命題は、衝動と羞恥を連動させつつ、意志をそこにあたかも実体論的に現出させる当のものとは他者存在であるには違いないが、その他者存在と自己‐私を常に意識させるものとしての意思疎通とか意思疎通希求を招聘する場である言語空間であると言える。それこそが他者存在を哲学的他者として我々をして語りしめるものなのである。
そもそも人間は感覚的授受において非言語的なものに対する認知(クオリア)を言語化したい誘惑がある。例えば画家は四角い画布に、紙に通常絵を構成しようとするが、それさえもが実は一個の言語化であると言える。オースティンが微細な語彙選択に関して哲学的に分析する時(「言語と行為」、「他人の心」他)彼の脳裏にはこのクオリアに対する視点と、そのクオリアを何とか哲学的に解明したいと考えていた節が伺える。そのことを顕著に示す記述として次の記述を掲載しておきたい。
(前略)あるいは、味や音色についてはどうでしょうか。われわれは視覚以外の感覚に関して、視覚の場合ほど断固としてはいません。そこでまさにそれだけにこれらの例は、良い例になってくれます。味や音色や匂い(や色)を記述することや感情や感じを記述することは、どの場合でも、われわれが以前に経験したことのある何かにそのものが似ていると言うことを含んでいます(いやまさしくそう言うことにほかならないのです)。記述的な語はどれもみな分類語であります。それは再認という契機を含んでおり、またその意味では記憶をも含みます。そして、この種の語(あるいは、結局帰するところは同じですが、名ないし記述)を使用する場合にのみ、われわれは何かを知っていたり、信じていたりするのです。ところが記憶と再認とは、しばしば不確実であてにならないものであります。(「他人の心」132ページより、坂本百大監訳、勁草書房刊)
中島義道氏は「観念的生活」(7章 二重の「いま」109ページ)において
クオリアの問いとは、現在性の問いであり、「いま」の問いである。「いま」の神秘は現実性の神秘に通じている。すべての生理学・心理学の知識をもってしても、なぜ私に眼前の赤が現に見えているのか説明はつかない。このことはいかなる時間秩序をもってしても、「いま」の登場は説明できないことに通じる。言い換えれば、「いま」現にあるということは、いかなる<法則を含めた>概念によっても導くことができないということである。それはまさに「いま」現にあることそのことから導くことができることなのである。
と述べているが後半の記述は全て正しいと思うが、最初の文だけが不完全である。これは先述しておいたオースティンの言説と合わせて考えるとより完全になる。つまり私なら
クオリアの問いとは、現在性という形で現象するが、実際は現在性というものが潜在的な記憶とそれに対する再認という形で無意識になされていることから誘引される問いである。しかもそれはふと立ち現われる具体的な想起とも少々違っている。
と修正するところだ。
クオリアは当然のことながら知覚とも深く関わっている。知覚という作用のないところではクオリアは成立し得ない。タコとイカの神経系の研究で著名な生理学者であるJ・Z・ヤングは
(前略)知覚は、ほとんど常に期待に基礎をおいており、その期待は外発的に引き起こされるか、あるいは内発的に動機づけられることによって生じている。(中略)同様に、知覚から得られる情報や知識は、本質的には、事象間の関係か、過去、現在、あるいは未来に関する期待の体系なのである。さらに、知覚は、通常何らかの活動を引き起こすか、あるいはさらに先の期待を生み出す。たとえその活動がその方向を見ることをやめることにすぎない場合であっても、そうなのである。
と述べているが、この考えは中島氏の時間論の考えに非常に近い。中島氏は人間の自我=私意識を、「いま」ではない過去と「いま」ということの類比の中で、連続してはいるが、想起において断絶してもいる過去と現在を一貫して同一の経験主体である私がいると他者に説明し得ること、その間に刻々と変化してきてはいるが、それでも同一の主体であると認知し得ることとしている。ヤングの指摘にはこれと全く相同のメカニズムが垣間見られる。中島氏は未来に対する不確実性と、不安の前で我々が未来の過去化(未来に想定された事実=結果が実現するためにはどのような行為が求められるかと考えること)によって未来へ向けた目的とか展望を抱くことによって行動へと差し向けられていると考えている。
哲学者ジョン・ホーゲランドは知覚を倫理的な所作であると考えている。
あるいは現象学者であるオイゲン・フィンクは
(前略)人間の思考にとっての存在問題とは、存在がそれ自身にとって問題であることの一形態でしかない。存在は概念を欠いた把握不可能性から概念の明るみへと突き進んでいく。存在は自らをよりいっそう「明け開く」という仕方で「存在している」。存在はその「全面的な明け開け」において自らを理念として把握するのであるが、この理念においては、自身に備わるあらゆる外面性が剥ぎ落とされ、あらゆる異質性の見かけが自身から取り除かれ、あらゆる自己疎外が打ち砕かれてしまっている。そのとき自然は理念の外面性が自己定立したものとして把握される。この定立された外面性から理念は自身へと返っていく。(「存在と人間」208ページより、座小田豊/信太光郎/池田準訳、法政大学出版局刊)
と述べているが、この記述はかなり難解であるが、最初の二文は理解しやすい。つまり人間にとって存在問題が、存在それ自身が抱えることの一部であるという認識はサルトル的ではないし、デカルト的でもないし、勿論ヒューム的でもあり得ない。恐らくヘーゲル的なのだろう。しかし次に述べられている存在それ自身の把握不可能性と彼が呼ぶ超越性はそれでも人間によって理解されるということにおいてまさにクオリア(本来言語化不能である筈のものである)をも言語化しようとするような意味で私たちの前に立ちはだかりそれを待っているというニュアンスである。しかし次の一文での存在とは存在する事物全てのことだろうが、次の一文での存在は明らかに私たち、現存在のことである。そして次の一文では現存在が存在一般に同化することが述べられている。その時初めて自然は我々にとって理解可能な理念化された存在となるという主張がここにはある。つまり自然=存在に対して我々はその一部にしか過ぎないという観念を介在した時初めて自然は語りかけてくるという主張としてこの言説を読み解くことが可能である。これは幾分ハイデッガー的言説である。そして最後の一文においてフィンクは理念によって理解された自然がその脅威を我々によって親しむべきものへと変貌した後では再び理念という一物は不要となるという気分が表示されているのだ。
クオリアを考える時我々はこの自然に対する語りかけという特有の対話の中から炙り出される非言語的存在=自然と言語化という試みとの共存という現実、つまり我々の営みである言語自体もまた一つの存在であり自然であるという認識が哲学的な気分として意外とキー認識となっていくのではないかと私は考えたのだ。この考えを 言語=存在 説 と名づけよう。
私たちの生活上で考えられる限り思い出してみよう。その時意外と重要なものとは気分であり、雰囲気ではなかろうか?
例えば仕事というのはどのような職種でも一定の責務と、ルティンによって彩られている。しかしその仕事を出来る限り能率よくしたりするには、オフの時間の過ごし方一つで、日常生活の潤いがあるかないかによって決定される。そして夜寝床で読書する時どういう本を読むかとか、ソファに寝そべり聴く音楽はどういう種類のものかということは殆ど哲学では顧みられなかったが、意外と重要である。
その日職場であったこと、営業先であったことなどを想起しつつ、今日の気分に最も合致した曲とは何か、どの歌手や演奏家のものがいいかということまでその時の感情的具合とか雰囲気によって決定される。ある音楽やある本はこれこれこういう気分の時に聴き、読むととても心地良いとか別のある本はそれとはまた全然異なった気分の時に読むのがいいし、また別の音楽はそういう時に聴くのにぴったりだという暗黙の了解が各個人毎にそれなりに決定されていはしまいか?要するに音楽のメロディーが志向する感情的傾向、あるいは本の文体などが鑑賞する者の心理に影響を与えるのである。
例えば職場でのボードミーティング、プレゼン、会議といった場での進行を考えてみよう。勿論それらは仕事であり遊びではないから一定のルティンというものがその都度求められよう。しかし円滑にしかも充実した内容でそれらが運ばれるのは、堅い理性論からではないだろう。理性というものは寧ろ反省時に過去の出来事を評定したり、それこそ日常的語義として反省したりする時にのみ冷静な判断をするために必要とされるものであり、議事進行そのものを滞りなくさせるものはその場の参加者間での気分の盛り上がりとか一致とか、いい意味での共鳴である。それは暗黙の策定である。我々の社会とは一定のルールは常に必要であるが、絶対と言っていいほど予定通りにはいかないものである。と言うより常にその場その時の状況判断において(それこそがその都度の成員全員の気分と衝動が重要なファクターとなり得るのだが)機転の利いた変更とか脱線によって初めて成員全員の意気が合ってくるというものである。それらのことは言語行為というものがどんなに堅い内容の対話であってさえ、いやそれが堅いものであればあるほど逆にユーモアがアドリブでどれくらい出されるかとか、心地良い脱線がどれくらいいい意味で進行の具合を調整し、話題をより深化させるかということがキーとなってくる。
それはオフの時間の過ごし方が下手な者が社会でいいビジネスが出来ないということと同じくらい集団とかペアとか複数の人間関係、会合にも言えることなのである。だからこそ意思疎通の手段として言語を採用してきた歴史の種である我々人間にとって 言語=存在 説 がより説得力を持つ考え方となり得るのである。言語は今まで多く認識論的な範疇で語られてきた。しかし言語行為を主体とする我々の実像を知る上でそこには自ずと限界がある。言語行為の流れとか方向性というものはそれ自体一つの生き物である。それは世論とか社会の風潮というものが一つの時代に固有の気分と衝動であるのと同じである。そのような現実に即した形で哲学する時我々にとって言語行為そのものが場と雰囲気の存在論的な見方から考えないと行き詰ってくるのだ。
私たちは既にマイケル・ポランニーの主張していたような意味で暗黙知というものが認識一辺倒であるように思えた言語行為にも脈々と息衝いていることをどこかで薄々勘付いている。言語はある部分では思考の産物でもあるが、同時に感情の産物でもあるし、気分の象徴でもあるし、比喩とか暗喩とか揶揄とか直接、間接を通して気分と衝動に訴え、その都度の衝動同士の相関的な様相を決定するものでもある。言語そのものが気分や衝動を作っているという部分と、予め決定されたその都度の気分と衝動が言語を構成しているという部分が常に複雑に交差しているというのが現実ではないだろうか?そしてその都度の感情のクオリアとか、場の雰囲気のクオリアをも含めて要点を突いて、的確に表現した語彙や口調や話の意味内容といったものが我々の実際の知覚的なクオリアをより活性化するかと思えば意気消沈させるようなこともある、要するに成員=各私の自己化+他者の私化(私意識を集団内で自己意識に昇華させ、他者を固有の私保有者として私化することによって集団内の相互理解度を増さしめること)こそ、その限定された時間内において有効かつ充実した空間を構成するキーなのである。
ここで明記しておきたいが、他者は他者としてのみ存在するのではなく私を含み込み、そして私とは端的に他者を含み込んでいる。私を自己化するということは端的に私の他者化なのだ。だから他者を信頼するということも他者の私化と言ってもよい。そして私たちは他者を羞恥という心的作用によって尊重もするし、その間の壁を取り払うために羞恥を払拭しようと試みる。つまり羞恥の扱い方そのものが即私の自己化と他者の私化という相互作用を円滑にするのである。
私の考えでは正義とは社会が含有するその都度の時代によって構成される恣意的なものであると思う。つまり社会とか支配‐被支配という関係の構図において時として前時代なら英雄であった筈のある個性的成員を犯罪者に仕立てたり、逆に別の時代だったら当然罰せられていたであろうようなタイプの成員をヒーローに祭り上げたりするのである。正義の形態とはその時代毎に書き換えられ、常に価値規範を修正、転換してきている。つまりそのような変換のリズムそのものが私たちの衝動の集合によって構成されているのだし、また私たちのその都度の気分を決定づけてもいる。つまり相互侵食作用として個と集団が存在するのだ。昨今のKYという語彙、空気が読めないということに象徴される気分重視の社会の方向性は何も現代に固有の現象なのではない。私たちの暗黙の知性に対する要求が、そういった生理的レヴェルの判断にまでやっと辿り着いたということを意味するに過ぎない。恐らくいつの時代にもそういう空気に対する読みと他者一般の空気を読むこと、読まれることにおける競争とか葛藤があったのだと私は思う。(それを言うのなら、偉大な思想や哲学、文学や芸術を生み出すものとは、その何千倍もの愚かな人間の思想や行動であるとさえ言える。ヒトラーは自ら絶対に正しいと信じて行動した。そうでなければあれほどの行為を遂行することなど出来なかっただろう。正しいということは何か否定すべきものが自らの信念においてあるから可能となる信念なのである。そのことについてはヘーゲルとサルトルの功績を認めなくてはならない。)
だから人間関係における信頼の構図というものは、ある意味では一つの緊張の解除でもあるし、一つの緊張の死とさえ言える。ある人間関係が不動点を迎えるということは新たな秩序が形成されることでもあるが、その秩序の崩壊の予告でもある。恋人が夫婦になることによって失われるものがあるような意味で私たちはその都度の時代の気分を反映させながらある集団においてその集団の性格を決定づけながら参加してその集団の気分と衝動を吸収してもいる。何かを得ることが何かを失うものであるような意味である一つの気分と衝動を得ることは別の気分と衝動の消滅を意味する。その気分と衝動を調整するものとして私は羞恥という心的作用を考えたのだ。
そこで今度は言語行為においてどのようなニュアンスを話題転換とか決意表明性として示されているのかということを中心に考えてみよう。
私たちの生において他者は私の恩人であると私は捉えたが、それは他者を想念するということは他者との出会いによってであるが、その時点で私を我々は巣食わせていることになり、要するに両者は相補的・共進化関係にある。そういう意味では他者‐私、私‐自己、他者‐衝動、衝動‐羞恥、羞恥‐経験、経験‐記憶、記憶‐想起、想起‐想像力あるいは連想、自己‐他者あるいは衝動、私‐羞恥、自己‐羞恥、経験‐羞恥、羞恥‐良心、良心‐記憶あるいは経験、想像力あるいは連想‐他者、私、自己、記憶、経験、想起といったものたちは皆相補・共進化関係にあると言ってよい。
クオリアは記憶、経験、知覚とそのような関係にあるが、言語がなければ我々にとってクオリアはこれほど鮮やかなものではないだろう。つまりクオリアの持つ非言語的要素という認識や、感受そのものの性質とは最も私たちの言語化能力、言語習慣、言語行為、つまり言語に拠っているのである。言語‐クオリアの相補・共進化関係が成立する。そのことをオーティンとコンディヤック二人の哲学者の言説から見ていくことにしよう。
オースティンは俗にパフォマティヴ<行為遂行的発言>という概念をより強調して示したと言われるが、それはクオリアとも大いに関係してくる。
(前略)知っている(つまり、判別することができる)と言う際にわれわれが主張しているのは再認ということです。ところが、再認とは、少なくともこの種の事例においては、われわれの経てきた経験のなかでは以前の何らかの機会において注目した(また、たいていは名指しした)ことのある何物かに類似していると確信をもって言えるような、一つないしそれ以上の特徴を目で見たり、他の何らかの仕方において感覚したりするということからなっています。しかしこのわれわれが見たり、他の何らかの仕方において感覚したりする当のものは、必ずしも「言葉で記述できる」とは限りませんし、ましてそれを詳細に中立的な言葉によって記述することは、誰にでもできることではまったくありません。いまにも怒り出しそうな顔つきやタールの匂いを再認することは、ほとんど誰でもできますが、それらを中立的に、つまり、「いまにも怒り出しそうな」や「タールの」といった言葉を使わずに記述できる人は殆ど皆無でしょう。(「他人の心」119ページ、この論文は「オースティン哲学論文集」(J.O.アーム
ソン、G.J.ウォーノック編)に収められている。)
これは先に挙げたクオリアと記憶の問題と深く関わり、先の掲載文より先に登場するが、より明確に非言語的感受の自然さと言語化不可能であることを逆に言語の存在によって知ること、そして何より非言語的感受さえ言語化しようとする我々の一つの生における重要な性格について物語っている。
コンディヤックは啓蒙哲学者であり、ルソーやヴォルテールと並び称される存在であるが、より記憶と想起と連想、想像力に重きを置いている。例えば次のような記述がそうである。
§三九 記憶という働きは、すでに我々が見たように、観念の記号、ないしはその観念に関わる状況を呼び起こす能力の中にしか存在しない。そしてこの能力は、我々が予め選んでおいた記号の類推と、諸観念の間に我々が設定しておいた序列をとおして、思い出そうとする対象が我々のそのときの欲求の一つと繋がっている限りにおいて、はじめて発動するのである。要するに、我々がある事物を呼び起こすことができるのは、その事物がどこかで、我々の状態に関わる何らかの事物と結合している場合に限られるのである。ところで、偶然的な記号や自然的な記号しか持たない人間は、自分の意のままになる記号を全く持たない。それゆえ彼の欲求が引き起こすことが出来るのは、想像力の発動だけなのである。ここでは、記憶という働きは存在しないはずである。(「人間認識起源論(上)」81~82ページより)
ここでコンディヤックは記憶が経験を体系化して行為を意味づけることにおいて重要な役割を認めつつも、同時にもし記憶がなかったとしても発動され得る想像力で何とか最低限の行為を人間に可能にすることを主張しているとも言える。
コンディヤックはロックから概念として延長以外にも観念とか想起とか記憶とか多大なエキスを注入しているが、最終的にはロックが観念のみで全てが理解出来るという考えに対して批判を加えている。彼は記号というものの存在、そしてその体系化ということをより重視したのだ。そして書くことで記憶へと植えつけることを主張してもいる。そういう意味では言語学とか記号学、あるいは現代脳科学の基礎的なアプローチをコンディヤックがしたと考えても強ち間違いではないだろう。しかし彼に最も欠けているのは記号というものの使用とか概念というものの把握にとって必要なのは他者であるという認識である。他者がいなければ我々は概念を必要とするだろうか?例えば何かを書くということは、それを読むのが自分一人であっても、それは自分を一人の他者として認識することではないだろうか?
しかしそれでも尚私はコンディヤックの功績を高く評価したいのだ。それはこういうことである。コンディヤックは「人間認識起源論」の第五章 抽象について において抽象観念を実在を構成する(彼の主張によると矛盾を含まない可能性を通して)当のものであるという人間の誤謬を指摘して、要するに観念論より実在論を優先し、認識論をも含めた認識の起源に存在を認めたのだ。それを彼の記号に対する人間の態度を考慮に入れて整理すると、人間とは記号を頼りに認識し、それを先験的なものとして実在をもその支配下に収めようとする(抑え込もうとする)がそういった把握の仕方そのものが既に一つの衝動なのだ、ということを直観的に捉えたのである。衝動というと多くの人びとは認識外的なこととしてネガティヴに捉えるが、認識そのものも認識衝動であるという考えは、寧ろ衝動が認識も、認識外的な心的作用も両方司っているという新しい形での存在論を我々に見いださせる。だから人間が何かを書きとめようと思って記号を使用し、紙に鉛筆とかパソコンでワードを使って文字を入力するということもまた、一つの「書く」という衝動以外の何物でもないのである。
ところで書くことは自分にとっての記憶に役立つ。脳科学者の茂木健一郎氏は文章を書き写す時、その文章を見ながら書き写すよりも、見て一旦記憶して元の文章を見ることを中断して思い出しながら書き写すとより記憶に定着することを主張している。(「脳を活かす勉強法 奇跡の「強化学習」」PHP刊)これは記憶と衝動の関係から「書く」ということを考える契機となる指摘ではないだろうか?つまり私たちは記憶したいという衝動によって書いたり、文字を見ないで、文字を覚えて書いたりしようと提唱しているのではないかということなのである。言語に纏わる記述も、発話も全て一つの衝動なのである。言語によって衝動を制御しているのでははない。私たちは言語や論理によって野生を制御しようとするという解釈を生むものこそ認識という一つの衝動なのである。
そのことを証明する端的に事実として、私たちの言語行為は意味内容だけで構成されているわけではない。寧ろ意味内容の伝達を滞りなくさせるものとは場の雰囲気である。ある会合において円滑に議題とそれについての討議がなされていたとしよう。しかしある者が暴言に近い形での突拍子もない発言をしたとしよう。それはまさに言葉による猟奇的無差別通り魔殺人に近い。その場は一気に白けてしまい、最早先ほどまでの円滑に進行していた場の雰囲気を取り戻すことが全ての参加者にとって不可能となろう。最早修復不可能な場の雰囲気においてはいかに充実した意味内容の発言がなされたとしても全く効力を失ってしまう。そもそもそういう有益な発言が機能するためには場そのものがそれを吸収しようという雰囲気に包まれているということが大前提だからである(勿論そのネガティヴな空気が新たな意味を持つことも可能性としてはあり得るが)。そういう意味では先述のホッブスの信約という概念がまさに責任ということと、どのような成員も須らく権利を保持しているということと、その権利の享受という欲求、そして外圧を加えられたら抵抗する意志と能力を持っているということを意味しているように、私たちは自己の発言を私性に彩られたままにしておくわけにはいかない。場の雰囲気を構成する者としての責任がある。
それはまさに他者とか自己だけを論じることは光を論じて闇を論じないでいること、闇だけに注目して光を無視するような暴挙であるのと同じで、意味内容を特権化し意味作用を無視することに等しいのである。オイゲン・フィンクは次のように述べている。(「存在と人間」第十三章中、227~228ページより)
(前略)伝統的な形而上学は、たとえそれが見かけ上はまったく別種の問題を扱う場合でも、たとえば無限なもの、神、自由、世界などを扱う場合でも、やはり事物存在論なのである。無‐限なものDas Un‐Endiche は有限なものからの離脱という形で考えるように試みられ、それによってついには「《無限な存在者ens infinitum》」として、また「絶対的実体」として評定される。有限なものを嵩上げするという方法も、有限なものに対して否定的に境界線を引くという方法も、どちらも事物的存在論的な可能性の空間内にとどまっている。事物存在論的な概念性の領野は、事物をそれとして扱うただの範疇論的構造分析よりもはるかに大きい。この事物的存在論的な概念性は見かけ上それが事物の事物存在を超えて問うているところでも、つまり事物へと向かう視線を捨てて、たとえばあらゆる事物の全体という方向へ踏み越えているところでも、なお力を発揮しており、またその支配をつなぎとめている。このことはたとえばカントが世界、自由、神といった問題に着手する際のやり方に即せばまったく明瞭になる。要するにカントはそれらの問題を純粋理性の理念的な表象の問題とみなすのである。理念のうちにアプリオリに表象されたものはいかなる「客観的妥当性」を持ってはいない。なるほど世界全体を現象の系列の全体性として思考することは必然的なことである。しかしそのように思考された全体は、純粋理性がつねにすでにあるあらかじめ開いてある地平ではあるが、しかし現に存立している全体ではない。世界を統制的理念へと格下げすることによって、つまり経験の使用にとっての規則として機能するような、必然的に思考される主観的な全体表象へと格下げすることによって、あらゆる現象は全体的統一性に帰属するものと考えられることになる。しかしまたそうであるかぎりで、こうした世界の存在の格下げは、その際の「存在」の規準を「事物」から、カント的にいえば、客観的妥当性をもった範疇から見て取っている。なぜならこの客観的妥当性を持った範疇において考えられたものが経験の対象としての事物だからである。このようにしてカントは大いに力点を置いて、事物を主題とした存在論を世界の自由や神などを主題とした存在論から切り離そうとするわけだが、それにもかかわらずそのように隔絶された非事物的なものが、やはり事物存在論的な根本表象に呪縛されて論じられているのである。私たちはいま「事物存在論」という表現をある根本的な意味で使用しているのだが、それは有限な事物に即するにせよあるいはそこから離脱するにせよ、いずれにせよ有限な事物へ向けられた視線のなかで思考しつつ存在を規定しようとする存在の問題構制の形態を意味している。ところで事物的存在論とは、人間が選び取ったり逸らしたりすることができるような理論的な可能性ではない。それは伝統的な形而上学における思考の軌道であり、私たちのあらゆる存在概念的思考がそこに由来するところの歴史である。かくして私たちはすでにその事物的存在論のうちにいるわけであるが、それにもかかわらずそれはそれ自体問うに値する何ものかとしては、決して私たちの目にとまることがない。存在がまさにそれであるところのものが新たなより根源的な次元において立ち現われてくるとき、事物存在論ははじめて私たちにとって疑わしいものとなりうる。
またマックス・ヴェーバーは「社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」」中で次のように述べている。
(49)理念型は、その機能という点では、歴史的個体あるいはその個々の構成部分を、発生的な概念において把握しようとする試みである。たとえば「教会」および「教派」の概念をとってみよう。両者は、純然たる分類としては、いくつかの標識〔メルクマール〕の複合に分解されるであろう。ただしそのさい、両者間の境界のみでなく、概念内容もまた、つねに流動的なままであるにちがいない。ところで、わたしがいま、特定の重要な文化意義に関連させて把握しようとすれば、両者の標識のうち、特定のものだけが、本質的となろう。というのも、ほかならぬその標識が、そうした〔近代文化におよぼした〕作用にたいして適合的な因果関係にあるからである。ところが、それと同時に、当の概念は、理念型となる。というのは概念は、概念上十全に純粋な姿では〔教派ないしは教派精神を、全体として〕代表するものではないし、ただ個別的にしか代表していないからである。ここでもまた、純然たる分類概念以外の概念は、まさしくいずれも、実在から遠ざかる。けだし、われわれの認識の比量的な性質、すなわち、われわれが実在を把握するのは、一連の表象の変移をとおしてのみである、という事情が、こうした機会の速記術を要請するのである。われわれの想像力は、研究の手段としては、しばしば確かに、実在の明晰な概念的定式化なしにすますことができる、しかし、叙述のためには、それが一義的であろうとするかぎり、明晰な概念の使用は、文化分析の地盤の上では、多くのばあい、まったく不可避である。これを原則的に斥ける者は、文化現象の形式的な、たとえば法史的な側面に自己限定しなければならない。法規範の宇宙は、当然のことながら、概念的に明確に規定できると同時に、〔もとより法的な意味で!〕歴史的実在にたいしても妥当する。ところが、われわれの意味における社会科学的研究が取り組まねばならないのは、法規範の実践的意義である。ところで、この意義は、経験的に与えられたものを、理想的な極限事例と関係づけることによって初めて、一義的に意識されることがきわめて多い。もし(最広義における)歴史家が、こうした理念型を定式化しようとする試みを、「理論的構築」として、つまり、かれの具体的な認識目的には役に立たないもの、あるいは無くても済ませられるものとして、拒否するとすれば、その結果は、通例、かれが、意識してしか無意識にか、他の同じような虚構を、ただ言語による定式化と論理的な加工を怠ったまま使用しているか、あるいは、かれが、漠然と「感得される」だけで〔明晰に〕限定されないものの域にとどまっているか、どちらかである。(120から122ページより、富永祐治・立野保男訳、折原浩補訳、岩波文庫)
私たちは自由や自由意志、あるいは自由意志論の奴隷であると言える。だからこそ逆に私たちはそういう認識論‐観念論の呪縛から、あるいはフィンクやマックス・ヴェーバーの指摘する理念及び理念型からの脱却を図らねばならない。つまり存在論‐実在論として言語行為を語らねばならないのだ。
そのためには私たちには言語空間という捉え方が必要とされている。私は正義とは時代によって構成される恣意的なものであると言った。そのことは正義そのものが常に不在であることを意味するのではなく、常に正義はあるが、それは常に別様であり、変化し続けているのであり、重要なこととして我々は正義をその都度見測る規準だけは常に持っている。しかし正義の在り方は常に前時代、そして現在ということの相対的な在り方でしか顕現していない。拠って我々はその都度正義の在り方を組み替え直さなくてはならないのだ。つまり同じ決断が仮になされたとしても、前回のものが正義と呼ばれ得るとしても、今回においてはそうではないという判断は、その時代状況や状況性に対する我々の読みや正義を殊更必要としているのかというその都度の我々の精神状態に依存している。だからと言って全てが相対主義によって説明が尽くかと言えばそうではないだろう。そのことはヒラリー・パットナムがより適切な形で「理性・真理・論理内在的実在論の展開」(野本和幸/中川大/三上勝生/金子洋之訳、法政大学出版局刊)に詳述されている。(第五章 二つの合理的理性概念 なぜ相対主義は整合的でないか)しかしそのことは先に述べた「我々は正義をその都度見測る規準だけは常に持っている」という記述で事足りるだろう。
要するに私たちに残されている命題は、衝動と羞恥を連動させつつ、意志をそこにあたかも実体論的に現出させる当のものとは他者存在であるには違いないが、その他者存在と自己‐私を常に意識させるものとしての意思疎通とか意思疎通希求を招聘する場である言語空間であると言える。それこそが他者存在を哲学的他者として我々をして語りしめるものなのである。
Tuesday, October 27, 2009
〔他者と衝動〕結論 自己と他者①
私たちが知る他者の像とは極めて限定的である。それは自分のことを考えてみればよく理解出来るだろう。私たちはあくまで自分のことを他人に告げる時、全てを一々誰彼の差別なく告白しているわけではない。羨ましいと誰からも思われている者が多大な借金を背負っていたり、崇高なことばかり考えているのだろうと敬意を集めている者がとんでもなく俗っぽいことを考えていたりするというのが人間の真の姿である。
衝動と言えばよからぬ突発的で取り返しのつかない行動へと誘引するもののみを今までは扱ってきた。しかし他者性という認識と、そのことによる自己、私という像の創出それ自体が既に衝動であると捉えれば、我々は自己と他者との関係を、一つの衝動的な接触と捉えることも出来る。
親密さというのは、ある意味では一定の距離を相互に取り合うことで保たれる。同時に不信の念というものは、それを打ち破ろうとする意志を読み取ることに起因する。しかし言語行為を持つことで一定の理解を得ることが人間関係であるとするなら、親密さはある部分では真意を表明する決意でもあるし、それは形を変えたプライヴァシーの吐露でもある。例えば職業的な秘密とか極意、あるいは何らかの専門的であるがために一々説明することを省略するようなことというのは、総じて他者に告げるべきものでもないし、告げる必要もないものだが、そういう秘密を保持して社会人として生活する実感そのものは、職業的な関わりのない自然人的な交際において告白しやすいということは言える。つまり社会的な利害関係のないところで成り立つ友情というのは概してそういうものである。つまり人間には夫婦にしか理解出来ないこととか、夫婦間でしか話せないこともあるが、同時に夫婦の間柄だから決して言えないこととか、聞けないことというのも多く持っているのだ。それは他全ての関係に当て嵌まる。親子、兄弟姉妹、近隣住民、同僚、上司‐部下、同業者、趣味のサークルといった人間関係において、自らの立場と近いからこそ告白し得ることと、逆に告白出来ないことというのがあるというわけである。例えばある老人が自分の抱く本当の意味での人生の悩みを孫にだけなら告白し得るということもあるかも知れない。却って実の息子や娘、あるいは同年輩の友人には決して言えないことを、孫の相手をしている時なら気軽に告白出来るということがあり得るかも知れない。つまり他者とは告白し得る内容の差をそれぞれが持っている存在であるとも言えるのだ。つまりこういうことはこいつには言えるが、あいつには言えないのだが、ああいうことはあいつになら言えるが、こいつには言えないのだ、ということ、つまり告白内容そのものの性質的差異において各他者というものの存在理由が位置づけられるというわけである。
人間という生き物は、家族であるとか肉親であるから理解出来るということはあるが、同時にたとえ親子でも兄弟でも理解出来ないこと、あるいは何を考えているか見当もつかないことというのが必ずあるし、そうでなければ親子関係も兄弟関係の成立し得ないという部分さえある。
あるいは既に述べたことでもあるが、本質的な意味では我々は自分というものの真意を掴むことだけに一生を費やすということさえ言えるのである。それこそそうなのである。例えば私は私の後姿がどのようなものであるか映像で確かめる以外に知る方法はないし、何より私自身が他者に対してどのように接しているか、例えば私の物腰はある特定の他者に対して温和な態度で接しているのか、表情が柔和であるのかとか、慎ましやかであるかとか、別の他者に対して威圧感を与えていはしないかとか、そういうことを直接知ることが出来ない。だからそういうことというのは敢えて誰か特定の他者から聞き出すしかない。つまり私は私自身を他者として扱う視線を有する他者には終ぞなり得ないのである。だからこそ逆に私による他者に向けられた物腰、態度、表情、仕種といった逐一が私以上に重要である存在者はこの世界には一人もいはしない。私は私に向けられた好意と、好感とによってのみ、私が私以外の他者に対してどのように接しているかということを知ることが出来る。勿論私に対する反感によってもある程度なら知ることが出来る。しかしそういう場合私はあくまでその者にそれ以上発展的な私の態度とか表情を作ることが許されているとは言えない。
ある者が別のある者の彼に対する態度や物腰や表情の在り方を報告し、忠告し得るのは、その者が別のある者に対して信頼を寄せている時だけである。こいつにならこいつ自身がどういう風であるかを報告することが出来るということが思わせられるということが、その私をこいつと呼ぶ者に対して私が勝ち得る信頼である。信頼とはそもそも私が誰かに無償で何かをしてあげようという気持ちになることなのだ。その者に対して私は少なくとも信頼を寄せている。しかしその者も私と同じであるかどうかは分からない。勿論ある程度私がその者に寄せる信頼と、その者が私に寄せる信頼の程度と質が一致しているということこそが友情の萌芽であると言える。だから真に信頼し合えるということは、一致しているとは必ずしも限らないものの、少なくとも一致していることを常に願い、そのことに関してだけは信じて疑わないということが第一条件なのである。このことはしかし同性同士の友情と、異性間の愛情とでは勿論多少異なっているだろう。しかし信頼ということの内にはそのような性差とか立場の違いを超えて、信じ合えるのだという確信のようなものが必要とされる。つまりそれは一致とか完全性ということにおいてはやはり一つの幻想であることを全ての成員は了解している。しかしその幻想を共有し合えるということが重要であるという認識では全ての成員は一致している。だからもし相互に信頼し合えるという幻想さえ疑わしいものであるのなら、その者は恐らく他者に対してそれを他者であるとさえ認識し得ないということを意味しよう。それはデカルトのコギトとも関係してくる。もし疑わしいと実在そのものを疑っても、そう疑うことそれ自体だけは疑い得ようもないということなのだから。
だから信頼関係というものは相互の幻想性と、幻想を抱くという心的な希求性を容認し合うということに他ならない。それはある意味では他者の衝動を直観的に自分の衝動と一致し得る可能性に賭けるということでもある。勿論他者の衝動が理解出来ない時もある。そういう時私は考える。私もまた他者に対して「あいつの衝動が理解出来ない」と思わせる時があるだろう、と。それは教訓としてそうしているわけではない。本能的にそうしているとも言えるし、そうとしか思えないということでもある。
私は必ずしも常に私が信頼を寄せている他者に私の真意が常に百パーセント理解されているだろうとも思わない。ある部分では私の好意が私の本意から著しくずれて理解されてしまうこともあるだろう。しかしそれは向こうも同じであると私は時々考える。勿論それが常にではないからこそ、私はその者を理解し、信頼していると言えるのだ。しかしそういう固有の他者でさえある時、ある瞬間には確かに未知の他者となり得る。またそのことに対する了解こそが私にとって他者とはどうあるべきかという問題を私なりに理解しておく必要があるのと、そのようなものとして私が理解し、信頼し得る他者もまた考えるだろうという目算を、私と彼(女)との間の信頼性という形での幻想を保持していくための指針としているというのもまた一つの直観的な衝動であり、本能的であると同時に、認識努力的な意味でもそうである。
意思疎通ということにおいてはしばしば消極的に何かを伝えるということが予想外に強烈に何かを伝達してしまったり(伝える積りのなかったことまで)、その逆でかなり積極的に伝えた積りが、全く意に反して滞りなく伝わるということがなし得なかったりということもある。しかし信頼合える相手というものは、少なくともそのことの頻度が比較的小さいということだけは言える。そういうことの頻度が大きいということはとりも直さず理解し合えていないということである。
しかし重要なこととは、意志を伝達するということは言葉そのものの力によって必ず変形されるということである。だから意に反して強烈に伝達されることや、意に反してあまり適切に伝わらないということは、私自身の語彙の選択とか、語調の選び方とか伝える順序の適切性とかそういうことにもかなりな比重で関わっている。そしていい意味で、つまり伝えたいことが最小限度の努力で有効に伝わり、その事実に対して相互に満足し得ているということがある意味では一番信頼関係の基本として横たわる事実だろう。もし本意が伝わることそれ自体に躊躇を持つのなら、その意味とは本意を伝えなくてはならないのに伝えることを憚るという遠慮的な関係にその者に対して私があるということを意味しよう。
遠慮とか尻込みということは、それ以上相互の信頼し合いたくはないということを意味する。勿論そういう関係の方が人間社会では多い。またその事実を確認し合えるということもまた、ある程度距離が縮まっている必要があるということと、一定の他者に対する配慮と、全ての成員に対して等価に信頼と愛情を注ぐことなど無理であるという諦念を会得している必要はあるだろう。
そうなのだ。私たちは只の一人として、全ての成員に対して責任を持ち、信頼し、愛情を注ぐことなど出来はしないのである。だからこそ他者という問題、自己にとっての他者という問題が常に哲学的命題たり得るのである。ある特定の他者を信頼するということは、別の特定の他者に対しては一定の敬遠関係と、疎遠な態度を採ることを自然なものにするのである。つまりある特定の他者への信頼の獲得と保持、維持とは、とりもなおさず他の大勢の他者に対しての不干渉を決め込むことを意味するのである。
またそうでなければその者に対して採る態度の多くの部分が欺瞞ということとなるのである。
ある者(他者)に対する信頼とその者から信頼される関係の獲得とは、その者以外の大勢の者(他者一般)に対して適度の距離を発展的ではない形のままうっちゃっておくことを意味するのだ。理解し合えるということには質的にも量的にも私たちの能力としては限界がある。従って私たちは全ての他者を等価に、あるいは等量に理解し合うことなど不可能なのである。理解し合えないということの相互の了解に対する相互の自覚こそが私たちに相互の争いごとを避けさせる唯一の方策なのである。これはある意味では成員の数が増えれば親族間でも、親子間でも、兄弟姉妹間でも同じことが言える。
信頼する者の数とは自然と少なくなるということもあり得るが、やはりどこかで私たちは意図的にそうしているのである。無意識の内にそれを願いそうしているのである。無意識の意図というものが恐らくあり得るのだと私は思う。これは天才的な音楽家たちが幼少の頃から楽理的知識のない内に内的な音楽的意志によって自然と作曲してしまうことと同じではないだろうか?
哲学では通例他者と言うと、基本としては知人であり、明確に知人ではなくても意思疎通するために話すことが出来る、つまり理解し合える、意志伝達可能であると捉えるが、私はこの捉え方は曖昧であると考える。何故ならただ話せるというのであれば、外国人とも英語を通じて話せるし、あるいはロボットとも可能であるが、通例哲学者は、感情があり、機械のような与えられた指令によってではなく自らの意志で話し、自己同一性を保持していると考えているようだが、私は他人、つまり生涯一度も知り合うことなく無数に存在するということを我々が知る地球人という意味での存在者、つまり私が一度も会うことなく終わる者をも含めていっそ哲学的他者と呼ぶのなら、私にとって重要なのは、寧ろ一度も知り合うことなく終わり、しかもその者が存在することを知る漠然とした存在者一般かも知れない。しかし同時に、それは私がよく知る親しい他者によってそれ以外という形で構成されている以上、その不特定多数の無数の存在者たちは、私の知人としての、家族とか友人としての他者によって構成されていると言ってよい。つまり私にとっての他者一般は私のよく知る他者によって成立しているのである。
哲学者の中島義道は、私というものが先験的に存在するから他者があると考えている(「私の秘密 哲学的自我論への誘い」157ページ他)ようだが、これは大人になって初めて意志が持てるという常識においては正しいと思われるが、そもそも常識も言語習得も、全て他者の存在にとってであるという意味では概念理解レヴェルでの認識に留まっている。
例えばもし仮に生後直後、人間社会と隔絶した環境で育った人間がいたとしたら、彼にとって他者は狼かも知れないが、この場合哲学では他者と呼ばない。しかしではもし私たち一般を規準にした考えの下で(つまり狼を他者と呼ばないとするのなら)他者が存在するというのなら、寧ろ他者以前に私があるという考え方はおかしい。他者認識する私という先験性とは端的に、他者存在への覚知という事態を通過した段階において形成される自我ということであって、そもそも他者一般も他者も存在しないような環境においては、狼少年を私たちと同じ存在者と呼ばない以上、私という意識も、自己という意識も少なくとも私たちと同じようには生じようもない。だからいかなる状況下でも他者認識を生じさせる常識的私が誕生するとは限らないという意味では、他者存在の方を私よりも先験的であるとしなければ論理矛盾を来たす。つまり他者一般も他者も全く存在しない環境で生物学的人間は我々と同じようには私という意識も自己という意識も生じさせることなど出来ないという意味で、狼少年を我々は現存在的存在者とは呼ばないことからも、他者が私に先験するのである。
私は無意識の意志もまた一つの意志であると考えるのだ。それは音楽的意志という形で少年モーツアルトが持っていた天才性をも意志と考えるからである。それは意志ではないと捉えると人間の能力のほんの一部しか知性としても、創造としても認められなくなるからである。例えば文字を理解しない存在者がいたとしても彼らの全てが自己同一的な意味で私を理解しない者であるとは言い切れない。そういう観点に立てば、中島氏の主張される私というものは極めて限定的なものである。氏の主張によると文字を持たない文明のクルド人たちは私がないということになりかねない。そこまで氏も主張されないであろう。
つまり私は、他者とは私に先験し、先験するものとして存在するも、一旦確立された私の下では、それを通して(のみ)理解されるものと考えている。しかしやはりそれは私の恩人なのである。それは私という認識を形成せしめたものとして恩人なのである。中島氏は一方で大人としての自覚を持つ者のみを私を持つことの基本としていながら、同時にあたかももし育ててくれる両親並びにそれに該当する他者がいなくても立派に私という意識が生じ得るかの如く論説しておられるが、それこそが現実離れしていると言えるのではないか。つまり人間はあくまで能力として他者を理解するということは、備わった力と同時に人工的意図的環境によってもなのである。そうでなければ言語行為そのものを理解し得ない狼少年をも我々と同等の私を持つ存在者として認識しなければおかしくなる。そもそも全く他者の不在な環境で私意識、自己同一性の意識の確固とした存在者が構成され得るかということは実験出来ない以上意味のある問いではないとも言える。恐らく我々に近い意識を半分は持てるかも知れないとしか言いようがないだろう。つまり現実問題として私たちは一定の備わった能力と人間社会という人間自身による意図的な環境の双方を経験し、初めて人間として、つまり私という意識や自己意識を持つ存在者として振舞えるようになるのである。
中島氏はデカルト主義的な前提の下で、狭い範囲のみを私とか意志ということに関して考察対象とされていると思われるが、哲学が問うべき領域とは我々にとって知られざる無意識的意志や、意味づけ不能な衝動や、非言語的で言語化不能な領域にまで拡張すべきなのである。そうでなければ無意識であっても欲求レヴェルでは渇望しているような衝動を、それを他者の前では否定してみせるからそれは意志でないとするなら、我々は説明レヴェルのことだけを意志と呼ばなくてはならないこととなるのではないだろうか?私の考えでは私たちが意識的に認識していると思っているものは、無意識に認識しているものをも含めたほんの一部であるのだ。
それは他者一般ということにも該当する。例えば他者とは私が私の記憶と生活上での認識として知人とか面識があると考えている人よりは外延は広いと思う。例えば顔だけ覚えていてよく視線さえ合う人でも、名前も職業も知らない近隣住民か自分がよく居合わせる地域で働く人であるなら、その人と顔が合った時だけ思い出す存在者であるが、普段意識的には思い出さないこの種の他者一般をも私たちはやはり記憶していると呼べると思うからである。それは説明不能な記憶と、親近的な認知なのである。(そういう他者一般は、熟知する他者より一層多い。)
話を戻して、他者一般を一度も会うことなく終わる無数の他者であるとするなら、私たちは寧ろ私という意識を教えてくれたのが最初は両親に象徴される他者であったが、一定の年齢以上となった時、寧ろ近しい人びと以外にも多数存在に対する呼び方である「人びと」という認知によってであることが了解される。例えば電車に乗って高校へ通った学生時代に、電車に乗っていた大勢の見知らぬ人々、地震や火災によって生命を失ったということだけを知っている無数の見知らぬ人びとの存在こそが、私が親しい者を大切にしなくてはならないが、同時に親しい人びと以外にも大勢の見知らぬ人びとが私たち同様幸福を求めて生活しているという意識こそが私という意識を植え付けてくれた気がするからである。つまり私という意識はその基盤は私たちの両親をはじめ、大勢の知人、あるいは同級生によって醸成されていったのだが、寧ろその私という意識を一層徹底させてくれたのは、私が知らない大勢の私と同様生活を営む存在者一般に対する私の意識なのである。だからこそ私は他者を私のよく知る他者だけではなく、会えば意思疎通可能な存在者一般として、社会認識と、責任と、良心を知人関係にある人びとたちの間だけのエゴとしてではなく理解することが出来たのである。地球の裏側にも私たち同様の悲喜こもごもの生活者たちが無数に暮らしているという実感こそが、人類の歴史において徐々にその地域的広大さを拡張しながら、我々が獲得してきた公的な意味での私という意識である。そして言語とはまさにそのような全ての意思疎通可能な潜在的意志伝達同意者に向けた意識として習得されてきたのである。勿論その発端となったものとは私にとっての両親とかいつも身近に生活してきていた人びと、つまり近しい他者たちである。しかし私はそういった人びとの存在を中心にして生活していた時にも、明らかにそれ以外の大勢の私や私の知人たちの知らない生活者としての存在者がいることを知っていた。寧ろそういった潜在的意志伝達同意者たちに対する無意識の伝達への欲求と衝動こそが、私をして言語を習得せしめるモティヴェーションたり得たのではないだろうか?勿論現実的には私は両親の発話行為から言語を習得したのにもかかわらず、どこかでは彼らがいなくなっても他の人びとを両親の代わりとして意志伝達する可能性をも無意識の内に考慮に入れて言語行為を人並みに習得してきたのではなかったか?
つまり言語を通した意志伝達という行為には、明らかに自分にとっての固有の親しい人びとそのものが、実は大勢の潜在的意志伝達同意者の中のほんの一部であるという認知と無意識の自覚がその習得を円滑にし、有効にしていく基盤として存在しているように私には思えるのである。しかし勿論そうい潜在的な無数の存在は、何度も言うようだが、私を取り巻く人びとによって知った存在事実である。
だから他者が私に先験するということは、ある意味では私が私としての意識を生じさせた後にしか理解出来ない事実であるという意味では中島氏の主張は全く正しい。しかし私は意志というものの在り方をより広範に捉えきらない限り、説明レヴェルでの意識のみを欲求と捉えることに終始し、しかも衝動によって言語行為をすら我々は滞りないものとして遂行していることの実像を捉えきれないと考えるのである。そしてまさに私は私にとっての家族や知人以外の近しくない大勢の人々、まさに無数と言ってよい潜在的意志伝達同意者の存在への認識こそが、そう言われれば誰しも気づくものの、そう言われなければ一生気づくことのないレヴェルの私たちの言語行為を主軸とする意志伝達、意思疎通誘発者であると考えるのである。だからこの潜在的意志伝達同意者という認識は、社会意識に照応させて私を捉えない限り出てこない概念である。従って私自身の生活感情にとっては然程重要なことではない。事実私はニュースで見て知る悲惨な死に方をされた大勢の人びとの存在に対して一々悲しまない。しかしそういう事実があることを理性レヴェルでは憂えることが可能である。つまり感情レヴェルでは常に私というものは私の周囲にいる知人とか家族を中心として得られる損得に彩られている。しかしその個人的な市民感情を構成するものとしては明らかに無意識の内に認めるストレンジャー、つまり親しくはないが、私たち同様の人生と生活を全うしているだろう存在者というものがあるのである。これをも他者と呼ぶ時、それはある意味では哲学をより社会学と相同のレヴェルで考察することをも強いるのであるが、私たちは無数の潜在的意志伝達同意者を中心とした他者一般‐家族、知人を中心として親しい、近しい人びとという新たな本能的、直観的レヴェルで習得され得るカテゴリーを見いだすことが可能となるのである。
意志的に親しい間柄の人間と絶縁することというには、例えば離婚もそうだし、絶好もそうであるが、私たちはこの意志的行動、意図的行為をある意味ではこのカテゴリーにおいて理解するなら、家族、知人を中心として親しい、近しい人びとを無数の潜在的意志伝達同意者を中心とした他者一般‐無数の潜在的意志伝達同意者を中心とした他者一般へと沈み込ませる意志と考えることが出来る。
つまり私という意識を敢えて根源的な他者理解とするなら、自己意識とはこのカテゴリーに対する明確な衝動、行動をする際に欲求されていることと考えれば語義定義的には正しいかも知れない。つまり私意識は明らかにによって確固としたものになるが、自己意識というものはそれとは少し性格が異なっていて、無数の潜在的意志伝達同意者を中心とした他者一般へ向けて私意識を発動させる際の衝動によって利用されると考えたらよいのかも知れない。
例えば私は最近大勢の新しい親しい知人を得た。それは私が関わった幾つかの集団の存在によってである。しかし今現在のように親しくなる前に私と彼らの間には初めて会った無数の潜在的意志伝達同意者を中心とした他者一般同士という関係であった。第一印象を抱くということそのものがそれを表している。しかし長く一緒に学ぶ内に彼らは全員それ以前から親しかった人びと、つまり家族、知人を中心として親しい、近しい人びととなっていった。恐らくその過程において、私にとっての彼ら一人一人の像というものは変質してきただろうように、彼らから見た私の像も最初は私が彼らに対して抱いた第一印象が徐々に剥ぎ取られていったように、現在ではかなり変質していったであろうことを想像することは難くない。
つまり私が見ていた最初の彼らに対する後姿とか固有の像の見方は、徐々に彼らの存在が私の日常に入り込むことによって変質していった。そして私にとって身近であったが、彼らと知遇を得ることと引き換えに疎遠になっていった一群の人びともいるのだが、彼らの像は徐々に私にとって彼らと出会った時の第一印象へと再び収斂していくこととなり、それまで一番親しかった時期に抱いていた親しい知人としての印象は薄れていった。つまりある一群の人びとと交際を密に親しくなるということはとりも直さず初めて会った無数の潜在的意志伝達同意者を中心とした他者一般同士が徐々に家族、知人を中心として親しい、近しい人びとの一部と化していくことであり、逆にそのことによって疎遠となっていった人びとの存在はそれとは逆のベクトルを得ることであるということだ。そして私は私に対する他者から持たれる像というものを家族、知人を中心として親しい、近しい人びとだけが知り得る姿と、無数の潜在的意志伝達同意者を中心とした他者一般なら必ず抱くよう姿という両義性を保有していると言える。そして親しい間柄であればあるほど「あなたは他者一般からはこう見られている」と言って貰えることが出来る。それをずばりと直言するということはある意味ではかなり親しくならない限り不可能なのである。それこそが私が結論の比較的最初の方で述べた信頼ということなのだ。つまり信頼し合っている間柄での人間関係において私や他者に対して注がれる視線や眼差し、あるいは私や他者に対する像とはそうではない人びと、つまり無数の潜在的意志伝達同意者を中心とした他者一般が保有する私や他者に注がれるそれとは本質的に異なっている。それこそ前者の関係を私意識の像、そして後者の関係を自己意識の像と呼んでよいかも知れない。勿論ここで言う像とは一般的な他者から私に注がれる印象と言い換えてもよいかも知れない。
私が前節において示した然程の他意はないのだから気にしないに限り意地悪というのは概して友人関係にまでは至らない知人同士でよく見られる意志的行為である。無意識的に示される小さな悪意も含む。しかし難しいのは友人と呼び合えるほどの信頼関係ではないからこそ示すことの可能な小さな悪意も存在すると同時に、そうではない関係であるからこそ示すことの可能な小さな悪意もあり、つまり親しいから言えること、親しいから言い難いこと、あるいは親しくはないからこそ言えること、親しくはないからこそ言い難いことというのがそれぞれあり、それらは恐らく前のパラグラフで書いた私意識の像やら自己意識の像とも大いに関係があるだろう。そのことについて少し詳しく考えてみよう。
一つ重要なこととは、私が考える他者と自己の関係とは親しいということ、そして信頼し合っているということ、そうではないこととは一体どういうことか、ということと、それらが一体羞恥と衝動とどう関わっているかということである。
私は先ほど「私にとって身近であったが、彼らと知遇を得ることと引き換えに疎遠になっていった一群の人びともいるのだが、彼らの像は徐々に私にとって彼らと出会った時の第一印象へと再び収斂していくこととなり、それまで一番親しかった時期に抱いていた親しい知人としての印象は薄れていった」と述べたことなのだが、そこで言っておきたいこととは、一度親しくなっていったが、その後何らかの感情の行き違いとか相互の誤解とか、親交そのものに対する何らかの理由による疲労により意図的に絶好する場合、あるいは男女間のことで言えばそれ以上に複雑な要因による離婚ということを考えた場合、我々は一回親しくなった者同士が絶縁した場合、一度も親しくならずに終わる関係とは全く異なっているということである。
事実然程親しくならずに終わった、例えばそもそも交流そのものを仮に相手から求められても拒絶したようなケースよりも、私にとって一度は親しくなれた間柄の場合の方が圧倒的にある種の懐かしさを抱くことは多いということである。そうすると、一体親しくなり相手を信頼するとは哲学的にはどういうことなのかということをまず見極めねばならないだろう。そしてこのことが意外と哲学では瑣末な命題以前的なこととして考えられて来たことではなかったろうか?
そのことを考え上で信じるということの現象的な作用についてもう一度確固として考えを抱いておく必要がある。
しかし信じることの心的性格をこと細かく分析するとそれだけで一つのテクストが出来上がるくらいの手間がかかるので、ここでは宗教的な信仰心ということに限定して考えてみたい。
宗教的信仰心というものは、その考えや思いを表明するということと、本当に言明の通りにその者が信仰しているかということは全く別個であると言わねばなるまい。例えば本当にある宗教的言説を信じている場合、それは自分自身の原体験と、宗教テクストの言説が一致している箇所を発見したという事実が大きく関わっていることが多いだろう。しかしそのような一致点を終ぞ発見し得ない者は、本当は信仰心を持っていないのに、社会モラル的(つまり社会強制的)にある特定の宗教信仰心を持つことが積極的に求められている社会や共同体では信仰している表明だけはなされるかも知れない。そして真実の信仰の場合我々はそれを原羞恥レヴェルで信じるということがなされているので真意であると受けとめられるが、ただ表明においての「合わせる」ことをしている場合、つまり真実の信仰心であると偽装している場合我々はそれを原音楽レヴェルで言明しているのだと言うことが出来る。
一般的に日本人は恥の文化の国民だと言われる。では欧米人には羞恥という意識がないのだろうか?
そんなことはないだろう。アメリカ人にはアメリカ人に固有の羞恥心、あるいはもっと適切に言えば、我々日本人と同じ性質ではあるが、異なったその羞恥を表現する仕方があるに違いない。では日本人には欠如していると思われる「救われる意識」、あるいは「救われたい意識」が、直ちに日本人が信じることをしないで他者に「合わせる」ことだけをしていると言えるかと言えばそれも違うだろう。
恐らく日本人はより信じやすいということは言えるかも知れない。恐らく日本人は「合わせる」ことを皆がしているものこそ信じるべきだという通念があるのかも知れないからである。それは何を信じるべきかということの民族的な資質として傾向の違いが横たわっているかも知れない。しかもある部分では確かに日本人の方が他者に「合わせる」ことが正しいと信じているかも知れないが、別の部分ではアメリカ人よりも自らの判断を正しいと信じることがあるかも知れない。例えば神はいないということにおいてである。だからこそ日本人には「救われる意識」は欠如しているのかも知れない。何故なら「救われる意識」とは一度は信じて疑わなかったものを懐疑の対象としてしまったことに対する罪滅ぼしの感情から誘引されるものだからである。従って最初から疑いの目を持っている場合「救われる意識」など生じようもないということが言えるからである。尤も自己意識というものにおいて日本人は他者の羞恥を尊重し、自己の羞恥を他者から斟酌して貰いたいと願うが、一方極めて積極的に他者にプライヴァシーに介入することもある人びとも多い。他方アメリカ人には自己意識において羞恥を払拭することが常に求められ、他者にもそれを求める。しかし双方とも何らかの形で羞恥自体と向き合っているという意味では同じである。
話しを戻すと、要するに「信じる」ということの本質はそれが実際上正しいのだという見解に対する不動点に対する希求なのであって、正しいか誤っているか判然としないものに対して我々は少なくとも「信じ込もうとする」ことはあっても、真実に信じているとは言い切れない。それはただの自己欺瞞である可能性の方が高い。だから自然と信じられるということは、それが正しいという以外により適切な判断が成立し得ないということに対する確信に他ならない。
しかしある他者と言語行為をするということの内には少なくとも、その者が哲学的他者として自分の発話内容を斟酌してそれに対して誠意を持って返答するだろうという目算において行為するという自覚がある筈である。このことは「他人の心」(坂本百大監訳、勁草書房刊)においてジョン・ラングショー・オースティンは次のように述べている。
(前略)語り合うという活動においては(他の事柄においてと同様に)、相手に疑いの目を向けるべき何らの具体的理由がないかぎり、相手を信頼してかまわないということが基礎をなしています。人を信じること、つまり、その証言を受け入れるということこそは、語り合うという活動の眼目(ないし主な眼目の一つ)なのです。われわれが(勝ち負けのある)試合をしていることになるのは、相手側が勝利をおさめるべく努力していることへの信頼のもとにおいてのみです。さもなければ、それは試合ではなく、何か別のものです。同様にわれわれは、人が情報を伝えようとしているということへの信頼のもとにおいてしか、(記述的に言って)人と語りあっているとことにはならないのです。(115~116ページより)
これはある意味では当然過ぎる真理であるが、ここで示されている何か別のことこそ、偽装であり演技であり、詐欺であると言える。親しくなるということはだから偽装すること、演技すること、詐欺的に自らの感情を偽ることを持続することに対する放棄であると言える。少なくとも初めて会った他者に対して我々はそれをしているからである。それは私を守る最低限の防御であり、私が自己意識以前的に露出していることそれ自体に対する無防備を悟られることに対して「気のいい奴だ」と相手に思われ、「いっちょう利用してやろうか」という悪意を生じさせないようにする警戒心からである。(どんな善人でも人間には相手の弱みに付け込む悪意を生じさせる能力がある。)公的な自己意識をまず提示して見せることで、我々は私的感情だけで動くということから生じる社会的倫理の欠如を否定して見せているわけである。だから親しくなるということはその最低限のルールを遵守していることを相互に了解し合うことで、無数の潜在的意志伝達同意者を中心とした他者一般同士に固有のある「構え」を解除していくプロセスなのである。しかしそのプロセスはあくまで社会倫理の欠如の否定という暗黙のルールに則った上でのことである。しかしオースティンは恐らく極度の懐疑主義に対するアンチ・テーゼとして先述の論理を持ち出してきている。従って当の懐疑主義とは一体何なのかを見てみなくてはならない。
それは恐らくこういうことである。
親しくなってゆくに従って芽生える羞恥というものについて考えてみよう。
親しくなるということは他者に対する固有の「構え」(それは後で述べる。)を解除していくことであるから、原音楽的に「合わせる」ことを回避して真理究明して原羞恥そのものを見つめることを回避するようになる。(だからこそ私が私意識を中心に生に他者に接することを自己意識の重要さにおいて批判する親しい者と何らかの感情的行き違いから絶好した場合、その他者が意外と後から考えると批判主義者であったことを了解し懐かしくなることもあるのだ。)つまりそんなことをしなくても気心が知れているということにより、要するに懐疑的であることに対して羞恥を覚えるようになる。つまり親しくなるということは懐疑的であることを「水臭い」と感じることであるから懐疑に対する羞恥の芽生えであると定義してもよい。
つまりこの人間は自分に好意を抱いているから自分に害悪を齎すことなどないであろう、従って間違ったことをこの者が仮に私に述べたとしてもそれはあくまで誤りであって悪意からではないのだから、適当にその発言に合わせておけば自分も損をすることはあるまいし、態々そういった調和を掻き乱してまで波風を立てつつ抵抗することは無意味である故、そういった抵抗をすることを止そうという一時的な波風を立てることをせずに済ますという短絡的判断が、その親しい者の発言内容に対して公平で客観的な判断をすることを妨げるのだ。実は世の中の全ての権威に対する恐縮とはこういう形を採るものなのだ。
それに対して無数の潜在的意志伝達同意者としての他者一般に対して抱く羞恥は性質を異にしている。
それは多分に自己真意を直に告げる自己防衛のなさを隠したいとする、つまりお人好しであることを悟られることで、相手の狡さとか悪意を引き出すことを未然に防止している知恵であり、それは私意識の隠蔽であると同時に自己意識の表示、つまり公的な意味で責任遂行者である旨の表明であるから、その表明に対する他者の理解とは端的に「この人にも私同様の私があるに違いない」という理性論的な判断である。そしてその判断には他者一般(親しい間柄ではない人びと)に対する配慮があるが、それが無数の潜在的意志伝達同意者としての他者一般に対して抱く羞恥と言える。
つまりオースティンはこの後者の羞恥を言語行為の基本として考えているのだ。これはホッブスの考える相互の信頼、信約にまで遡ると思われる。
ホッブスの「リヴァイアサン」における大いなる骨子の一つは責任問題である。そしてその責任が一方で権利と対になっていると同時に、他方それは責任転嫁へと対になっている。権利と対になっている段ではそれは義務という形で考えられるが、責任転嫁と対になっている段ではそれは人間の傾向性と言う形で考えられる。例えば次の一節はそのことを端的に示している。
「ローマ人は、おおくの属州の主権を有したが、しかしそれらを、ローマ市や隣接諸領土を統治したように合議体によってではなく、つねに総督および長官によって統治した。イングランドから、ヴァージニアやサマー諸島に殖民するために移民団がおくられたときも、同様であって、そこにいる人びとの統治はロンドンにある合議体に委任されたが、これらの合議体は、かれらのもとにある統治を、そこにあるいかなる合議体にもけっして委任しないで、各植民地にひとりの知事をおくった。そのわけは、各人は、かれが出席しうるところでは、統治に参与したいといううまれつきの意欲をもっているが、しかし、かれが出席しないところでは、かれらの共通利益の統治を、民衆的形態よりむしろ君主政治的形態の統治に委任するという、やはりうまれつきの傾向があるからである。」(「リヴァイアサン2」水田洋訳、第二十二章 政治的および私的な、臣民の諸組織について 中113~114ページより、岩波文庫)
また次のようにもホッブスは言う。
「(前略)一般に、すべての政治体において、だれか個々の成員が、自分が団体自身によって侵害されたと、おもうならば、かれの訴訟事件の審理は、主権者と、こういう訴訟事件の裁判官として主権者がさだめておいた人びとに属し、その団体自身には属しない。このばあいには、団体全体がかれの同胞臣民なのだからであって、主権合議体のばあいにはちがう。それは主権者自身の訴訟事件ではあるが、そこでは、かれが裁判官でないとすれば、裁判官がまったくありえないからである。(同書同一章中115ページより)
要するに個人は共同体に対して委任という形で個人の能力を遥かに超え得ることを責任転嫁し得るも、同時に個人に帰するべき責任に関して今度は共同体の方が責任転嫁し得るということを同時に満たすことによって共同体全体があらゆる個に対して等距離で接するという秩序と、永続的な安泰を維持しているのである。(このことはある意味では団体とか共同体自体が極めてその存在理由が脆弱であり、実体が見え難いという面も作っているのだが、そのことはまた改めて論じる機会を持ちたいと思う。)そして後者の引用文では共同体と共同体内の個的集団(民間団体)とを明確に峻別している。民間団体とは自由意志による責任遂行が求められており、それは個人としての成員と等価だからである。
そのことを重々知っていたからこそオースティンは行為遂行的発言という形で他者一般を前にしてある宣言をすることで、その宣言をしたことの遂行以外の一切の責任を免除して貰えるという権利をも確保しているということを暗黙の内に示していたのだ。つまり親愛の情によって次第に過大な期待と、他者からの責任転嫁を背負わされること自体への未然の防止意図という要するに性悪的人間の傾向性に対する未然の発動阻止的知恵としてホッブスからオースティンへと至る英国流俗流プラグマティズム精神が発揮されていると見てよいと私は思う。
要するに私たちは私意識で親しい他者と接する時も、実はその親しい他者と私との関係を、それほど親しくはない、つまり無数の潜在的意志伝達同意者としての他者一般に適用し得る方法で理解しているのである。(このことを最も大きく体験論的に主張している哲学者は家族に対してさえエゴイズムを貫くスタンスを明示している中島義道氏である。氏は家族にまで精神的自由獲得におけるゲゼルシャフト的な意義を適用している。)つまり家族、知人を中心として親しい、近しい人びととは端的に無数の潜在的意志伝達同意者としての他者一般の極めて特殊な例外であると考えているのだ。これは無意識においては完全にそうである。ただ意識レヴェルでは私たちはそう考えない。家族、知人を中心として親しい、近しい人びとがいるから逆に無数の潜在的意志伝達同意者としての他者一般が成立すると考える。しかし恐らく私たちは言語習得する際に例えば両親が発話する様子を、親しい者としてではなく、寧ろ他者一般として客観的に観察していた筈なのだ。そうでなければ親しい者との間では別に言葉を使用しなくても一緒に暮らすことが出来るのだから、言語はいつまで経っても習得され得なかったであろう。私たちが言語習得する際に、明らかに外国人が日本にやって来て日本語を話す日本人のことを羨ましく思い、何とか必死に日本語の挨拶や語彙を覚えるように両親その他の家族や自分も住む近隣住民の話す言葉を聴いて模倣して習得するのだ。それは歌舞伎一座に生まれた幼児が、初舞台を踏む時に、親から指導を受ける際に決して自らの子どもだからと言って容赦しないで指導することと、それに対して幼児が親を甘える対象としてではなく一個の他者として認識して必死に舞台での所作を習得することからもよく理解出来よう。
あるいはそのような努力は、大人になってからも継続する。例えば親しき仲にも礼儀ありという格言に見られる配慮とは言ってみれば、親しい者を疎遠な他人、つまり無数の潜在的意志伝達同意者の中の一人と見做すことによって、例えばどんなに親しい間柄である親子でも世話になった時には礼を言い、逆に仮に自分の息子が悪いことしたのなら、潔くその息子の非を主張して息子が迷惑をかけた他所の少年の前で「彼に謝りなさい。」と叱る親のような判断をも生むのである。つまり親しい間柄を尊重する時にもそれを他者一般のように見做すが、同時に非難する時もそれを他者一般のように見做すということである。つまりそれこそが責任倫理の発生の根幹をなす認識である。
だから私が言いたいこととは、無数の潜在的意志伝達同意者としての他者一般に対して我々が持つ心理の根幹をなすものとして羞恥という独特の「構え」とは端的に他者一般に対する配慮、敬遠しつつ信用を全くしないのではない中間地帯での判断である。だから親しくなっていく過程とはその羞恥が異様な形で膨張し続けることを自然化するような他者一般に対する態度(私は例えば人ごみの中を徘徊するのが最近嫌いになった。)に適用されている羞恥的「構え」の払拭を意味し、親しくなっても礼儀を失わないということこそ羞恥の尊重であるということになる。
衝動と言えばよからぬ突発的で取り返しのつかない行動へと誘引するもののみを今までは扱ってきた。しかし他者性という認識と、そのことによる自己、私という像の創出それ自体が既に衝動であると捉えれば、我々は自己と他者との関係を、一つの衝動的な接触と捉えることも出来る。
親密さというのは、ある意味では一定の距離を相互に取り合うことで保たれる。同時に不信の念というものは、それを打ち破ろうとする意志を読み取ることに起因する。しかし言語行為を持つことで一定の理解を得ることが人間関係であるとするなら、親密さはある部分では真意を表明する決意でもあるし、それは形を変えたプライヴァシーの吐露でもある。例えば職業的な秘密とか極意、あるいは何らかの専門的であるがために一々説明することを省略するようなことというのは、総じて他者に告げるべきものでもないし、告げる必要もないものだが、そういう秘密を保持して社会人として生活する実感そのものは、職業的な関わりのない自然人的な交際において告白しやすいということは言える。つまり社会的な利害関係のないところで成り立つ友情というのは概してそういうものである。つまり人間には夫婦にしか理解出来ないこととか、夫婦間でしか話せないこともあるが、同時に夫婦の間柄だから決して言えないこととか、聞けないことというのも多く持っているのだ。それは他全ての関係に当て嵌まる。親子、兄弟姉妹、近隣住民、同僚、上司‐部下、同業者、趣味のサークルといった人間関係において、自らの立場と近いからこそ告白し得ることと、逆に告白出来ないことというのがあるというわけである。例えばある老人が自分の抱く本当の意味での人生の悩みを孫にだけなら告白し得るということもあるかも知れない。却って実の息子や娘、あるいは同年輩の友人には決して言えないことを、孫の相手をしている時なら気軽に告白出来るということがあり得るかも知れない。つまり他者とは告白し得る内容の差をそれぞれが持っている存在であるとも言えるのだ。つまりこういうことはこいつには言えるが、あいつには言えないのだが、ああいうことはあいつになら言えるが、こいつには言えないのだ、ということ、つまり告白内容そのものの性質的差異において各他者というものの存在理由が位置づけられるというわけである。
人間という生き物は、家族であるとか肉親であるから理解出来るということはあるが、同時にたとえ親子でも兄弟でも理解出来ないこと、あるいは何を考えているか見当もつかないことというのが必ずあるし、そうでなければ親子関係も兄弟関係の成立し得ないという部分さえある。
あるいは既に述べたことでもあるが、本質的な意味では我々は自分というものの真意を掴むことだけに一生を費やすということさえ言えるのである。それこそそうなのである。例えば私は私の後姿がどのようなものであるか映像で確かめる以外に知る方法はないし、何より私自身が他者に対してどのように接しているか、例えば私の物腰はある特定の他者に対して温和な態度で接しているのか、表情が柔和であるのかとか、慎ましやかであるかとか、別の他者に対して威圧感を与えていはしないかとか、そういうことを直接知ることが出来ない。だからそういうことというのは敢えて誰か特定の他者から聞き出すしかない。つまり私は私自身を他者として扱う視線を有する他者には終ぞなり得ないのである。だからこそ逆に私による他者に向けられた物腰、態度、表情、仕種といった逐一が私以上に重要である存在者はこの世界には一人もいはしない。私は私に向けられた好意と、好感とによってのみ、私が私以外の他者に対してどのように接しているかということを知ることが出来る。勿論私に対する反感によってもある程度なら知ることが出来る。しかしそういう場合私はあくまでその者にそれ以上発展的な私の態度とか表情を作ることが許されているとは言えない。
ある者が別のある者の彼に対する態度や物腰や表情の在り方を報告し、忠告し得るのは、その者が別のある者に対して信頼を寄せている時だけである。こいつにならこいつ自身がどういう風であるかを報告することが出来るということが思わせられるということが、その私をこいつと呼ぶ者に対して私が勝ち得る信頼である。信頼とはそもそも私が誰かに無償で何かをしてあげようという気持ちになることなのだ。その者に対して私は少なくとも信頼を寄せている。しかしその者も私と同じであるかどうかは分からない。勿論ある程度私がその者に寄せる信頼と、その者が私に寄せる信頼の程度と質が一致しているということこそが友情の萌芽であると言える。だから真に信頼し合えるということは、一致しているとは必ずしも限らないものの、少なくとも一致していることを常に願い、そのことに関してだけは信じて疑わないということが第一条件なのである。このことはしかし同性同士の友情と、異性間の愛情とでは勿論多少異なっているだろう。しかし信頼ということの内にはそのような性差とか立場の違いを超えて、信じ合えるのだという確信のようなものが必要とされる。つまりそれは一致とか完全性ということにおいてはやはり一つの幻想であることを全ての成員は了解している。しかしその幻想を共有し合えるということが重要であるという認識では全ての成員は一致している。だからもし相互に信頼し合えるという幻想さえ疑わしいものであるのなら、その者は恐らく他者に対してそれを他者であるとさえ認識し得ないということを意味しよう。それはデカルトのコギトとも関係してくる。もし疑わしいと実在そのものを疑っても、そう疑うことそれ自体だけは疑い得ようもないということなのだから。
だから信頼関係というものは相互の幻想性と、幻想を抱くという心的な希求性を容認し合うということに他ならない。それはある意味では他者の衝動を直観的に自分の衝動と一致し得る可能性に賭けるということでもある。勿論他者の衝動が理解出来ない時もある。そういう時私は考える。私もまた他者に対して「あいつの衝動が理解出来ない」と思わせる時があるだろう、と。それは教訓としてそうしているわけではない。本能的にそうしているとも言えるし、そうとしか思えないということでもある。
私は必ずしも常に私が信頼を寄せている他者に私の真意が常に百パーセント理解されているだろうとも思わない。ある部分では私の好意が私の本意から著しくずれて理解されてしまうこともあるだろう。しかしそれは向こうも同じであると私は時々考える。勿論それが常にではないからこそ、私はその者を理解し、信頼していると言えるのだ。しかしそういう固有の他者でさえある時、ある瞬間には確かに未知の他者となり得る。またそのことに対する了解こそが私にとって他者とはどうあるべきかという問題を私なりに理解しておく必要があるのと、そのようなものとして私が理解し、信頼し得る他者もまた考えるだろうという目算を、私と彼(女)との間の信頼性という形での幻想を保持していくための指針としているというのもまた一つの直観的な衝動であり、本能的であると同時に、認識努力的な意味でもそうである。
意思疎通ということにおいてはしばしば消極的に何かを伝えるということが予想外に強烈に何かを伝達してしまったり(伝える積りのなかったことまで)、その逆でかなり積極的に伝えた積りが、全く意に反して滞りなく伝わるということがなし得なかったりということもある。しかし信頼合える相手というものは、少なくともそのことの頻度が比較的小さいということだけは言える。そういうことの頻度が大きいということはとりも直さず理解し合えていないということである。
しかし重要なこととは、意志を伝達するということは言葉そのものの力によって必ず変形されるということである。だから意に反して強烈に伝達されることや、意に反してあまり適切に伝わらないということは、私自身の語彙の選択とか、語調の選び方とか伝える順序の適切性とかそういうことにもかなりな比重で関わっている。そしていい意味で、つまり伝えたいことが最小限度の努力で有効に伝わり、その事実に対して相互に満足し得ているということがある意味では一番信頼関係の基本として横たわる事実だろう。もし本意が伝わることそれ自体に躊躇を持つのなら、その意味とは本意を伝えなくてはならないのに伝えることを憚るという遠慮的な関係にその者に対して私があるということを意味しよう。
遠慮とか尻込みということは、それ以上相互の信頼し合いたくはないということを意味する。勿論そういう関係の方が人間社会では多い。またその事実を確認し合えるということもまた、ある程度距離が縮まっている必要があるということと、一定の他者に対する配慮と、全ての成員に対して等価に信頼と愛情を注ぐことなど無理であるという諦念を会得している必要はあるだろう。
そうなのだ。私たちは只の一人として、全ての成員に対して責任を持ち、信頼し、愛情を注ぐことなど出来はしないのである。だからこそ他者という問題、自己にとっての他者という問題が常に哲学的命題たり得るのである。ある特定の他者を信頼するということは、別の特定の他者に対しては一定の敬遠関係と、疎遠な態度を採ることを自然なものにするのである。つまりある特定の他者への信頼の獲得と保持、維持とは、とりもなおさず他の大勢の他者に対しての不干渉を決め込むことを意味するのである。
またそうでなければその者に対して採る態度の多くの部分が欺瞞ということとなるのである。
ある者(他者)に対する信頼とその者から信頼される関係の獲得とは、その者以外の大勢の者(他者一般)に対して適度の距離を発展的ではない形のままうっちゃっておくことを意味するのだ。理解し合えるということには質的にも量的にも私たちの能力としては限界がある。従って私たちは全ての他者を等価に、あるいは等量に理解し合うことなど不可能なのである。理解し合えないということの相互の了解に対する相互の自覚こそが私たちに相互の争いごとを避けさせる唯一の方策なのである。これはある意味では成員の数が増えれば親族間でも、親子間でも、兄弟姉妹間でも同じことが言える。
信頼する者の数とは自然と少なくなるということもあり得るが、やはりどこかで私たちは意図的にそうしているのである。無意識の内にそれを願いそうしているのである。無意識の意図というものが恐らくあり得るのだと私は思う。これは天才的な音楽家たちが幼少の頃から楽理的知識のない内に内的な音楽的意志によって自然と作曲してしまうことと同じではないだろうか?
哲学では通例他者と言うと、基本としては知人であり、明確に知人ではなくても意思疎通するために話すことが出来る、つまり理解し合える、意志伝達可能であると捉えるが、私はこの捉え方は曖昧であると考える。何故ならただ話せるというのであれば、外国人とも英語を通じて話せるし、あるいはロボットとも可能であるが、通例哲学者は、感情があり、機械のような与えられた指令によってではなく自らの意志で話し、自己同一性を保持していると考えているようだが、私は他人、つまり生涯一度も知り合うことなく無数に存在するということを我々が知る地球人という意味での存在者、つまり私が一度も会うことなく終わる者をも含めていっそ哲学的他者と呼ぶのなら、私にとって重要なのは、寧ろ一度も知り合うことなく終わり、しかもその者が存在することを知る漠然とした存在者一般かも知れない。しかし同時に、それは私がよく知る親しい他者によってそれ以外という形で構成されている以上、その不特定多数の無数の存在者たちは、私の知人としての、家族とか友人としての他者によって構成されていると言ってよい。つまり私にとっての他者一般は私のよく知る他者によって成立しているのである。
哲学者の中島義道は、私というものが先験的に存在するから他者があると考えている(「私の秘密 哲学的自我論への誘い」157ページ他)ようだが、これは大人になって初めて意志が持てるという常識においては正しいと思われるが、そもそも常識も言語習得も、全て他者の存在にとってであるという意味では概念理解レヴェルでの認識に留まっている。
例えばもし仮に生後直後、人間社会と隔絶した環境で育った人間がいたとしたら、彼にとって他者は狼かも知れないが、この場合哲学では他者と呼ばない。しかしではもし私たち一般を規準にした考えの下で(つまり狼を他者と呼ばないとするのなら)他者が存在するというのなら、寧ろ他者以前に私があるという考え方はおかしい。他者認識する私という先験性とは端的に、他者存在への覚知という事態を通過した段階において形成される自我ということであって、そもそも他者一般も他者も存在しないような環境においては、狼少年を私たちと同じ存在者と呼ばない以上、私という意識も、自己という意識も少なくとも私たちと同じようには生じようもない。だからいかなる状況下でも他者認識を生じさせる常識的私が誕生するとは限らないという意味では、他者存在の方を私よりも先験的であるとしなければ論理矛盾を来たす。つまり他者一般も他者も全く存在しない環境で生物学的人間は我々と同じようには私という意識も自己という意識も生じさせることなど出来ないという意味で、狼少年を我々は現存在的存在者とは呼ばないことからも、他者が私に先験するのである。
私は無意識の意志もまた一つの意志であると考えるのだ。それは音楽的意志という形で少年モーツアルトが持っていた天才性をも意志と考えるからである。それは意志ではないと捉えると人間の能力のほんの一部しか知性としても、創造としても認められなくなるからである。例えば文字を理解しない存在者がいたとしても彼らの全てが自己同一的な意味で私を理解しない者であるとは言い切れない。そういう観点に立てば、中島氏の主張される私というものは極めて限定的なものである。氏の主張によると文字を持たない文明のクルド人たちは私がないということになりかねない。そこまで氏も主張されないであろう。
つまり私は、他者とは私に先験し、先験するものとして存在するも、一旦確立された私の下では、それを通して(のみ)理解されるものと考えている。しかしやはりそれは私の恩人なのである。それは私という認識を形成せしめたものとして恩人なのである。中島氏は一方で大人としての自覚を持つ者のみを私を持つことの基本としていながら、同時にあたかももし育ててくれる両親並びにそれに該当する他者がいなくても立派に私という意識が生じ得るかの如く論説しておられるが、それこそが現実離れしていると言えるのではないか。つまり人間はあくまで能力として他者を理解するということは、備わった力と同時に人工的意図的環境によってもなのである。そうでなければ言語行為そのものを理解し得ない狼少年をも我々と同等の私を持つ存在者として認識しなければおかしくなる。そもそも全く他者の不在な環境で私意識、自己同一性の意識の確固とした存在者が構成され得るかということは実験出来ない以上意味のある問いではないとも言える。恐らく我々に近い意識を半分は持てるかも知れないとしか言いようがないだろう。つまり現実問題として私たちは一定の備わった能力と人間社会という人間自身による意図的な環境の双方を経験し、初めて人間として、つまり私という意識や自己意識を持つ存在者として振舞えるようになるのである。
中島氏はデカルト主義的な前提の下で、狭い範囲のみを私とか意志ということに関して考察対象とされていると思われるが、哲学が問うべき領域とは我々にとって知られざる無意識的意志や、意味づけ不能な衝動や、非言語的で言語化不能な領域にまで拡張すべきなのである。そうでなければ無意識であっても欲求レヴェルでは渇望しているような衝動を、それを他者の前では否定してみせるからそれは意志でないとするなら、我々は説明レヴェルのことだけを意志と呼ばなくてはならないこととなるのではないだろうか?私の考えでは私たちが意識的に認識していると思っているものは、無意識に認識しているものをも含めたほんの一部であるのだ。
それは他者一般ということにも該当する。例えば他者とは私が私の記憶と生活上での認識として知人とか面識があると考えている人よりは外延は広いと思う。例えば顔だけ覚えていてよく視線さえ合う人でも、名前も職業も知らない近隣住民か自分がよく居合わせる地域で働く人であるなら、その人と顔が合った時だけ思い出す存在者であるが、普段意識的には思い出さないこの種の他者一般をも私たちはやはり記憶していると呼べると思うからである。それは説明不能な記憶と、親近的な認知なのである。(そういう他者一般は、熟知する他者より一層多い。)
話を戻して、他者一般を一度も会うことなく終わる無数の他者であるとするなら、私たちは寧ろ私という意識を教えてくれたのが最初は両親に象徴される他者であったが、一定の年齢以上となった時、寧ろ近しい人びと以外にも多数存在に対する呼び方である「人びと」という認知によってであることが了解される。例えば電車に乗って高校へ通った学生時代に、電車に乗っていた大勢の見知らぬ人々、地震や火災によって生命を失ったということだけを知っている無数の見知らぬ人びとの存在こそが、私が親しい者を大切にしなくてはならないが、同時に親しい人びと以外にも大勢の見知らぬ人びとが私たち同様幸福を求めて生活しているという意識こそが私という意識を植え付けてくれた気がするからである。つまり私という意識はその基盤は私たちの両親をはじめ、大勢の知人、あるいは同級生によって醸成されていったのだが、寧ろその私という意識を一層徹底させてくれたのは、私が知らない大勢の私と同様生活を営む存在者一般に対する私の意識なのである。だからこそ私は他者を私のよく知る他者だけではなく、会えば意思疎通可能な存在者一般として、社会認識と、責任と、良心を知人関係にある人びとたちの間だけのエゴとしてではなく理解することが出来たのである。地球の裏側にも私たち同様の悲喜こもごもの生活者たちが無数に暮らしているという実感こそが、人類の歴史において徐々にその地域的広大さを拡張しながら、我々が獲得してきた公的な意味での私という意識である。そして言語とはまさにそのような全ての意思疎通可能な潜在的意志伝達同意者に向けた意識として習得されてきたのである。勿論その発端となったものとは私にとっての両親とかいつも身近に生活してきていた人びと、つまり近しい他者たちである。しかし私はそういった人びとの存在を中心にして生活していた時にも、明らかにそれ以外の大勢の私や私の知人たちの知らない生活者としての存在者がいることを知っていた。寧ろそういった潜在的意志伝達同意者たちに対する無意識の伝達への欲求と衝動こそが、私をして言語を習得せしめるモティヴェーションたり得たのではないだろうか?勿論現実的には私は両親の発話行為から言語を習得したのにもかかわらず、どこかでは彼らがいなくなっても他の人びとを両親の代わりとして意志伝達する可能性をも無意識の内に考慮に入れて言語行為を人並みに習得してきたのではなかったか?
つまり言語を通した意志伝達という行為には、明らかに自分にとっての固有の親しい人びとそのものが、実は大勢の潜在的意志伝達同意者の中のほんの一部であるという認知と無意識の自覚がその習得を円滑にし、有効にしていく基盤として存在しているように私には思えるのである。しかし勿論そうい潜在的な無数の存在は、何度も言うようだが、私を取り巻く人びとによって知った存在事実である。
だから他者が私に先験するということは、ある意味では私が私としての意識を生じさせた後にしか理解出来ない事実であるという意味では中島氏の主張は全く正しい。しかし私は意志というものの在り方をより広範に捉えきらない限り、説明レヴェルでの意識のみを欲求と捉えることに終始し、しかも衝動によって言語行為をすら我々は滞りないものとして遂行していることの実像を捉えきれないと考えるのである。そしてまさに私は私にとっての家族や知人以外の近しくない大勢の人々、まさに無数と言ってよい潜在的意志伝達同意者の存在への認識こそが、そう言われれば誰しも気づくものの、そう言われなければ一生気づくことのないレヴェルの私たちの言語行為を主軸とする意志伝達、意思疎通誘発者であると考えるのである。だからこの潜在的意志伝達同意者という認識は、社会意識に照応させて私を捉えない限り出てこない概念である。従って私自身の生活感情にとっては然程重要なことではない。事実私はニュースで見て知る悲惨な死に方をされた大勢の人びとの存在に対して一々悲しまない。しかしそういう事実があることを理性レヴェルでは憂えることが可能である。つまり感情レヴェルでは常に私というものは私の周囲にいる知人とか家族を中心として得られる損得に彩られている。しかしその個人的な市民感情を構成するものとしては明らかに無意識の内に認めるストレンジャー、つまり親しくはないが、私たち同様の人生と生活を全うしているだろう存在者というものがあるのである。これをも他者と呼ぶ時、それはある意味では哲学をより社会学と相同のレヴェルで考察することをも強いるのであるが、私たちは無数の潜在的意志伝達同意者を中心とした他者一般‐家族、知人を中心として親しい、近しい人びとという新たな本能的、直観的レヴェルで習得され得るカテゴリーを見いだすことが可能となるのである。
意志的に親しい間柄の人間と絶縁することというには、例えば離婚もそうだし、絶好もそうであるが、私たちはこの意志的行動、意図的行為をある意味ではこのカテゴリーにおいて理解するなら、家族、知人を中心として親しい、近しい人びとを無数の潜在的意志伝達同意者を中心とした他者一般‐無数の潜在的意志伝達同意者を中心とした他者一般へと沈み込ませる意志と考えることが出来る。
つまり私という意識を敢えて根源的な他者理解とするなら、自己意識とはこのカテゴリーに対する明確な衝動、行動をする際に欲求されていることと考えれば語義定義的には正しいかも知れない。つまり私意識は明らかにによって確固としたものになるが、自己意識というものはそれとは少し性格が異なっていて、無数の潜在的意志伝達同意者を中心とした他者一般へ向けて私意識を発動させる際の衝動によって利用されると考えたらよいのかも知れない。
例えば私は最近大勢の新しい親しい知人を得た。それは私が関わった幾つかの集団の存在によってである。しかし今現在のように親しくなる前に私と彼らの間には初めて会った無数の潜在的意志伝達同意者を中心とした他者一般同士という関係であった。第一印象を抱くということそのものがそれを表している。しかし長く一緒に学ぶ内に彼らは全員それ以前から親しかった人びと、つまり家族、知人を中心として親しい、近しい人びととなっていった。恐らくその過程において、私にとっての彼ら一人一人の像というものは変質してきただろうように、彼らから見た私の像も最初は私が彼らに対して抱いた第一印象が徐々に剥ぎ取られていったように、現在ではかなり変質していったであろうことを想像することは難くない。
つまり私が見ていた最初の彼らに対する後姿とか固有の像の見方は、徐々に彼らの存在が私の日常に入り込むことによって変質していった。そして私にとって身近であったが、彼らと知遇を得ることと引き換えに疎遠になっていった一群の人びともいるのだが、彼らの像は徐々に私にとって彼らと出会った時の第一印象へと再び収斂していくこととなり、それまで一番親しかった時期に抱いていた親しい知人としての印象は薄れていった。つまりある一群の人びとと交際を密に親しくなるということはとりも直さず初めて会った無数の潜在的意志伝達同意者を中心とした他者一般同士が徐々に家族、知人を中心として親しい、近しい人びとの一部と化していくことであり、逆にそのことによって疎遠となっていった人びとの存在はそれとは逆のベクトルを得ることであるということだ。そして私は私に対する他者から持たれる像というものを家族、知人を中心として親しい、近しい人びとだけが知り得る姿と、無数の潜在的意志伝達同意者を中心とした他者一般なら必ず抱くよう姿という両義性を保有していると言える。そして親しい間柄であればあるほど「あなたは他者一般からはこう見られている」と言って貰えることが出来る。それをずばりと直言するということはある意味ではかなり親しくならない限り不可能なのである。それこそが私が結論の比較的最初の方で述べた信頼ということなのだ。つまり信頼し合っている間柄での人間関係において私や他者に対して注がれる視線や眼差し、あるいは私や他者に対する像とはそうではない人びと、つまり無数の潜在的意志伝達同意者を中心とした他者一般が保有する私や他者に注がれるそれとは本質的に異なっている。それこそ前者の関係を私意識の像、そして後者の関係を自己意識の像と呼んでよいかも知れない。勿論ここで言う像とは一般的な他者から私に注がれる印象と言い換えてもよいかも知れない。
私が前節において示した然程の他意はないのだから気にしないに限り意地悪というのは概して友人関係にまでは至らない知人同士でよく見られる意志的行為である。無意識的に示される小さな悪意も含む。しかし難しいのは友人と呼び合えるほどの信頼関係ではないからこそ示すことの可能な小さな悪意も存在すると同時に、そうではない関係であるからこそ示すことの可能な小さな悪意もあり、つまり親しいから言えること、親しいから言い難いこと、あるいは親しくはないからこそ言えること、親しくはないからこそ言い難いことというのがそれぞれあり、それらは恐らく前のパラグラフで書いた私意識の像やら自己意識の像とも大いに関係があるだろう。そのことについて少し詳しく考えてみよう。
一つ重要なこととは、私が考える他者と自己の関係とは親しいということ、そして信頼し合っているということ、そうではないこととは一体どういうことか、ということと、それらが一体羞恥と衝動とどう関わっているかということである。
私は先ほど「私にとって身近であったが、彼らと知遇を得ることと引き換えに疎遠になっていった一群の人びともいるのだが、彼らの像は徐々に私にとって彼らと出会った時の第一印象へと再び収斂していくこととなり、それまで一番親しかった時期に抱いていた親しい知人としての印象は薄れていった」と述べたことなのだが、そこで言っておきたいこととは、一度親しくなっていったが、その後何らかの感情の行き違いとか相互の誤解とか、親交そのものに対する何らかの理由による疲労により意図的に絶好する場合、あるいは男女間のことで言えばそれ以上に複雑な要因による離婚ということを考えた場合、我々は一回親しくなった者同士が絶縁した場合、一度も親しくならずに終わる関係とは全く異なっているということである。
事実然程親しくならずに終わった、例えばそもそも交流そのものを仮に相手から求められても拒絶したようなケースよりも、私にとって一度は親しくなれた間柄の場合の方が圧倒的にある種の懐かしさを抱くことは多いということである。そうすると、一体親しくなり相手を信頼するとは哲学的にはどういうことなのかということをまず見極めねばならないだろう。そしてこのことが意外と哲学では瑣末な命題以前的なこととして考えられて来たことではなかったろうか?
そのことを考え上で信じるということの現象的な作用についてもう一度確固として考えを抱いておく必要がある。
しかし信じることの心的性格をこと細かく分析するとそれだけで一つのテクストが出来上がるくらいの手間がかかるので、ここでは宗教的な信仰心ということに限定して考えてみたい。
宗教的信仰心というものは、その考えや思いを表明するということと、本当に言明の通りにその者が信仰しているかということは全く別個であると言わねばなるまい。例えば本当にある宗教的言説を信じている場合、それは自分自身の原体験と、宗教テクストの言説が一致している箇所を発見したという事実が大きく関わっていることが多いだろう。しかしそのような一致点を終ぞ発見し得ない者は、本当は信仰心を持っていないのに、社会モラル的(つまり社会強制的)にある特定の宗教信仰心を持つことが積極的に求められている社会や共同体では信仰している表明だけはなされるかも知れない。そして真実の信仰の場合我々はそれを原羞恥レヴェルで信じるということがなされているので真意であると受けとめられるが、ただ表明においての「合わせる」ことをしている場合、つまり真実の信仰心であると偽装している場合我々はそれを原音楽レヴェルで言明しているのだと言うことが出来る。
一般的に日本人は恥の文化の国民だと言われる。では欧米人には羞恥という意識がないのだろうか?
そんなことはないだろう。アメリカ人にはアメリカ人に固有の羞恥心、あるいはもっと適切に言えば、我々日本人と同じ性質ではあるが、異なったその羞恥を表現する仕方があるに違いない。では日本人には欠如していると思われる「救われる意識」、あるいは「救われたい意識」が、直ちに日本人が信じることをしないで他者に「合わせる」ことだけをしていると言えるかと言えばそれも違うだろう。
恐らく日本人はより信じやすいということは言えるかも知れない。恐らく日本人は「合わせる」ことを皆がしているものこそ信じるべきだという通念があるのかも知れないからである。それは何を信じるべきかということの民族的な資質として傾向の違いが横たわっているかも知れない。しかもある部分では確かに日本人の方が他者に「合わせる」ことが正しいと信じているかも知れないが、別の部分ではアメリカ人よりも自らの判断を正しいと信じることがあるかも知れない。例えば神はいないということにおいてである。だからこそ日本人には「救われる意識」は欠如しているのかも知れない。何故なら「救われる意識」とは一度は信じて疑わなかったものを懐疑の対象としてしまったことに対する罪滅ぼしの感情から誘引されるものだからである。従って最初から疑いの目を持っている場合「救われる意識」など生じようもないということが言えるからである。尤も自己意識というものにおいて日本人は他者の羞恥を尊重し、自己の羞恥を他者から斟酌して貰いたいと願うが、一方極めて積極的に他者にプライヴァシーに介入することもある人びとも多い。他方アメリカ人には自己意識において羞恥を払拭することが常に求められ、他者にもそれを求める。しかし双方とも何らかの形で羞恥自体と向き合っているという意味では同じである。
話しを戻すと、要するに「信じる」ということの本質はそれが実際上正しいのだという見解に対する不動点に対する希求なのであって、正しいか誤っているか判然としないものに対して我々は少なくとも「信じ込もうとする」ことはあっても、真実に信じているとは言い切れない。それはただの自己欺瞞である可能性の方が高い。だから自然と信じられるということは、それが正しいという以外により適切な判断が成立し得ないということに対する確信に他ならない。
しかしある他者と言語行為をするということの内には少なくとも、その者が哲学的他者として自分の発話内容を斟酌してそれに対して誠意を持って返答するだろうという目算において行為するという自覚がある筈である。このことは「他人の心」(坂本百大監訳、勁草書房刊)においてジョン・ラングショー・オースティンは次のように述べている。
(前略)語り合うという活動においては(他の事柄においてと同様に)、相手に疑いの目を向けるべき何らの具体的理由がないかぎり、相手を信頼してかまわないということが基礎をなしています。人を信じること、つまり、その証言を受け入れるということこそは、語り合うという活動の眼目(ないし主な眼目の一つ)なのです。われわれが(勝ち負けのある)試合をしていることになるのは、相手側が勝利をおさめるべく努力していることへの信頼のもとにおいてのみです。さもなければ、それは試合ではなく、何か別のものです。同様にわれわれは、人が情報を伝えようとしているということへの信頼のもとにおいてしか、(記述的に言って)人と語りあっているとことにはならないのです。(115~116ページより)
これはある意味では当然過ぎる真理であるが、ここで示されている何か別のことこそ、偽装であり演技であり、詐欺であると言える。親しくなるということはだから偽装すること、演技すること、詐欺的に自らの感情を偽ることを持続することに対する放棄であると言える。少なくとも初めて会った他者に対して我々はそれをしているからである。それは私を守る最低限の防御であり、私が自己意識以前的に露出していることそれ自体に対する無防備を悟られることに対して「気のいい奴だ」と相手に思われ、「いっちょう利用してやろうか」という悪意を生じさせないようにする警戒心からである。(どんな善人でも人間には相手の弱みに付け込む悪意を生じさせる能力がある。)公的な自己意識をまず提示して見せることで、我々は私的感情だけで動くということから生じる社会的倫理の欠如を否定して見せているわけである。だから親しくなるということはその最低限のルールを遵守していることを相互に了解し合うことで、無数の潜在的意志伝達同意者を中心とした他者一般同士に固有のある「構え」を解除していくプロセスなのである。しかしそのプロセスはあくまで社会倫理の欠如の否定という暗黙のルールに則った上でのことである。しかしオースティンは恐らく極度の懐疑主義に対するアンチ・テーゼとして先述の論理を持ち出してきている。従って当の懐疑主義とは一体何なのかを見てみなくてはならない。
それは恐らくこういうことである。
親しくなってゆくに従って芽生える羞恥というものについて考えてみよう。
親しくなるということは他者に対する固有の「構え」(それは後で述べる。)を解除していくことであるから、原音楽的に「合わせる」ことを回避して真理究明して原羞恥そのものを見つめることを回避するようになる。(だからこそ私が私意識を中心に生に他者に接することを自己意識の重要さにおいて批判する親しい者と何らかの感情的行き違いから絶好した場合、その他者が意外と後から考えると批判主義者であったことを了解し懐かしくなることもあるのだ。)つまりそんなことをしなくても気心が知れているということにより、要するに懐疑的であることに対して羞恥を覚えるようになる。つまり親しくなるということは懐疑的であることを「水臭い」と感じることであるから懐疑に対する羞恥の芽生えであると定義してもよい。
つまりこの人間は自分に好意を抱いているから自分に害悪を齎すことなどないであろう、従って間違ったことをこの者が仮に私に述べたとしてもそれはあくまで誤りであって悪意からではないのだから、適当にその発言に合わせておけば自分も損をすることはあるまいし、態々そういった調和を掻き乱してまで波風を立てつつ抵抗することは無意味である故、そういった抵抗をすることを止そうという一時的な波風を立てることをせずに済ますという短絡的判断が、その親しい者の発言内容に対して公平で客観的な判断をすることを妨げるのだ。実は世の中の全ての権威に対する恐縮とはこういう形を採るものなのだ。
それに対して無数の潜在的意志伝達同意者としての他者一般に対して抱く羞恥は性質を異にしている。
それは多分に自己真意を直に告げる自己防衛のなさを隠したいとする、つまりお人好しであることを悟られることで、相手の狡さとか悪意を引き出すことを未然に防止している知恵であり、それは私意識の隠蔽であると同時に自己意識の表示、つまり公的な意味で責任遂行者である旨の表明であるから、その表明に対する他者の理解とは端的に「この人にも私同様の私があるに違いない」という理性論的な判断である。そしてその判断には他者一般(親しい間柄ではない人びと)に対する配慮があるが、それが無数の潜在的意志伝達同意者としての他者一般に対して抱く羞恥と言える。
つまりオースティンはこの後者の羞恥を言語行為の基本として考えているのだ。これはホッブスの考える相互の信頼、信約にまで遡ると思われる。
ホッブスの「リヴァイアサン」における大いなる骨子の一つは責任問題である。そしてその責任が一方で権利と対になっていると同時に、他方それは責任転嫁へと対になっている。権利と対になっている段ではそれは義務という形で考えられるが、責任転嫁と対になっている段ではそれは人間の傾向性と言う形で考えられる。例えば次の一節はそのことを端的に示している。
「ローマ人は、おおくの属州の主権を有したが、しかしそれらを、ローマ市や隣接諸領土を統治したように合議体によってではなく、つねに総督および長官によって統治した。イングランドから、ヴァージニアやサマー諸島に殖民するために移民団がおくられたときも、同様であって、そこにいる人びとの統治はロンドンにある合議体に委任されたが、これらの合議体は、かれらのもとにある統治を、そこにあるいかなる合議体にもけっして委任しないで、各植民地にひとりの知事をおくった。そのわけは、各人は、かれが出席しうるところでは、統治に参与したいといううまれつきの意欲をもっているが、しかし、かれが出席しないところでは、かれらの共通利益の統治を、民衆的形態よりむしろ君主政治的形態の統治に委任するという、やはりうまれつきの傾向があるからである。」(「リヴァイアサン2」水田洋訳、第二十二章 政治的および私的な、臣民の諸組織について 中113~114ページより、岩波文庫)
また次のようにもホッブスは言う。
「(前略)一般に、すべての政治体において、だれか個々の成員が、自分が団体自身によって侵害されたと、おもうならば、かれの訴訟事件の審理は、主権者と、こういう訴訟事件の裁判官として主権者がさだめておいた人びとに属し、その団体自身には属しない。このばあいには、団体全体がかれの同胞臣民なのだからであって、主権合議体のばあいにはちがう。それは主権者自身の訴訟事件ではあるが、そこでは、かれが裁判官でないとすれば、裁判官がまったくありえないからである。(同書同一章中115ページより)
要するに個人は共同体に対して委任という形で個人の能力を遥かに超え得ることを責任転嫁し得るも、同時に個人に帰するべき責任に関して今度は共同体の方が責任転嫁し得るということを同時に満たすことによって共同体全体があらゆる個に対して等距離で接するという秩序と、永続的な安泰を維持しているのである。(このことはある意味では団体とか共同体自体が極めてその存在理由が脆弱であり、実体が見え難いという面も作っているのだが、そのことはまた改めて論じる機会を持ちたいと思う。)そして後者の引用文では共同体と共同体内の個的集団(民間団体)とを明確に峻別している。民間団体とは自由意志による責任遂行が求められており、それは個人としての成員と等価だからである。
そのことを重々知っていたからこそオースティンは行為遂行的発言という形で他者一般を前にしてある宣言をすることで、その宣言をしたことの遂行以外の一切の責任を免除して貰えるという権利をも確保しているということを暗黙の内に示していたのだ。つまり親愛の情によって次第に過大な期待と、他者からの責任転嫁を背負わされること自体への未然の防止意図という要するに性悪的人間の傾向性に対する未然の発動阻止的知恵としてホッブスからオースティンへと至る英国流俗流プラグマティズム精神が発揮されていると見てよいと私は思う。
要するに私たちは私意識で親しい他者と接する時も、実はその親しい他者と私との関係を、それほど親しくはない、つまり無数の潜在的意志伝達同意者としての他者一般に適用し得る方法で理解しているのである。(このことを最も大きく体験論的に主張している哲学者は家族に対してさえエゴイズムを貫くスタンスを明示している中島義道氏である。氏は家族にまで精神的自由獲得におけるゲゼルシャフト的な意義を適用している。)つまり家族、知人を中心として親しい、近しい人びととは端的に無数の潜在的意志伝達同意者としての他者一般の極めて特殊な例外であると考えているのだ。これは無意識においては完全にそうである。ただ意識レヴェルでは私たちはそう考えない。家族、知人を中心として親しい、近しい人びとがいるから逆に無数の潜在的意志伝達同意者としての他者一般が成立すると考える。しかし恐らく私たちは言語習得する際に例えば両親が発話する様子を、親しい者としてではなく、寧ろ他者一般として客観的に観察していた筈なのだ。そうでなければ親しい者との間では別に言葉を使用しなくても一緒に暮らすことが出来るのだから、言語はいつまで経っても習得され得なかったであろう。私たちが言語習得する際に、明らかに外国人が日本にやって来て日本語を話す日本人のことを羨ましく思い、何とか必死に日本語の挨拶や語彙を覚えるように両親その他の家族や自分も住む近隣住民の話す言葉を聴いて模倣して習得するのだ。それは歌舞伎一座に生まれた幼児が、初舞台を踏む時に、親から指導を受ける際に決して自らの子どもだからと言って容赦しないで指導することと、それに対して幼児が親を甘える対象としてではなく一個の他者として認識して必死に舞台での所作を習得することからもよく理解出来よう。
あるいはそのような努力は、大人になってからも継続する。例えば親しき仲にも礼儀ありという格言に見られる配慮とは言ってみれば、親しい者を疎遠な他人、つまり無数の潜在的意志伝達同意者の中の一人と見做すことによって、例えばどんなに親しい間柄である親子でも世話になった時には礼を言い、逆に仮に自分の息子が悪いことしたのなら、潔くその息子の非を主張して息子が迷惑をかけた他所の少年の前で「彼に謝りなさい。」と叱る親のような判断をも生むのである。つまり親しい間柄を尊重する時にもそれを他者一般のように見做すが、同時に非難する時もそれを他者一般のように見做すということである。つまりそれこそが責任倫理の発生の根幹をなす認識である。
だから私が言いたいこととは、無数の潜在的意志伝達同意者としての他者一般に対して我々が持つ心理の根幹をなすものとして羞恥という独特の「構え」とは端的に他者一般に対する配慮、敬遠しつつ信用を全くしないのではない中間地帯での判断である。だから親しくなっていく過程とはその羞恥が異様な形で膨張し続けることを自然化するような他者一般に対する態度(私は例えば人ごみの中を徘徊するのが最近嫌いになった。)に適用されている羞恥的「構え」の払拭を意味し、親しくなっても礼儀を失わないということこそ羞恥の尊重であるということになる。
Sunday, October 25, 2009
〔他者と衝動〕10、経験と衝動
通常些細な意地悪は、それが法的に逸脱していたり、悪質で精神的な打撃にならったりしない限りで容認されていると言ってよい。それは勿論程度の問題でもあり、主観的な問題でもあるが、少しくらいの皮肉を言われて酷く傷つくとしたら、寧ろ傷ついた方が神経症的に病理的体質の人間であるという判定が下される。と言うことはある意味では適度の意地悪を容認するという社会的策定とは、個人に内在する些細な悪意に対する免疫的能力そのものへの社会通念的な信頼があるということを意味しよう。
それらは端的に人間的生活上での経験が、それくらいのことを気にしていては、生きていけないぞという暗黙の些細なことを気にしないように怒りを抑制する衝動、つまり大きなことと小さなことを区別する社会通念的認識力を構成する能力、つまり経験と衝動が結託した知恵というものを我々がある程度病理的ではない通常の個人に認めているということを意味する。そしてそのくらいのことを気にせずに生きていくということの規準は多少その人間の育ちの部分における社会環境、教育環境に左右されるだろう。しかし恐らく神経症になる寸前のところで大体の差異は解消されるものである。
それは端的にどの程度の意地悪なら、もしそのことで酷く相手が傷ついて自殺でもしたとしても、意地悪をした者が非難されることを回避するかという通念を我々が形成することと関係があるだろう。もしそれくらいのことを言ったくらいで相手が自殺をしたのなら、寧ろそれを深刻に受け取って自殺した者の方により病理的欠陥があったのだと判定することを自然にするある程度の意地悪の許容量というものがあるのだろうと私は思う。もしそうでなければ我々は多少気まずい雰囲気において他者に対して神経を遣い過ぎるあまり息が詰まってしまうだろうし、また日頃全ての嫌な相手の態度に対して飲み込み我慢することで多大なストレスを感じ、果ては精神的にまいってしまうからである。だから逆に精神病理的体質の人間というのはこの社会的策定の前では生きていき難いということもあるかも知れない。しかし社会はその意地悪があまりに悪質でない限り、ある程度の不快な態度を他者から採られることに対して抵抗力と免疫を得ることを個人の能力として求めるものなのだ。そしてその能力に対する判定とは自己抑制力と、経験的に小さな悪意を受け流す知恵を身につけているか、つまり他者の悪意を増幅させないで適当に他者からの攻撃をかわしたり、他者に対してその者が持つ悪意を善意に変えさせたりするような機転があるかということであり、そのためにも小さな意地悪はそういう能力を醸成する上であった方がよいと通常多くの人々が感じる類のものである。つまり期待されるべきその能力とはそれが著しく欠けているのなら、寧ろ人格的にも問題がある、寛大さの欠片もない、悠然としたところの欠片もない、余裕の一滴もないと判定されるような性質の寧ろ人間的にも能力査定的にも敬遠の対象と化してしまうようなものであると言ってよい。だからこれはある程度そういうことで悩みのある人間にとっては克服しておいた方がよいものであろう。
ただ難しいのは、こういう意地悪とはそれをする者にとって親しい者からは許されることでも、逆にそれをされる者にとって親しい者からは決して許されないという親密さから生じるエゴイズムと密接に絡んでくる、つまり感情論へと発展するという難点を孕んでいる。だからある意味ではどんなに些細な意地悪でも即座にいじめとか悪戯に転化する危険性を孕んでもいるとは言えるだろう。しかもその意地悪もあまり数度度重なると非難の対象と化すということもある。だから些細な意地悪は悪戯に転化しない内に寸止めしておく必要性が常に求められているのである。それは皮肉的で些細な言辞でも度重なると悪意に受け取られかねないのと同じである。そのような微妙な判定を成立させるものこそ経験と衝動が結託した心的作用であると言えるだろう。往々にして若者の一部には異様に相手からの揶揄的言辞に敏感な者が見受けられるが、そうかと言ってそういうタイプの人間に極度に非があるわけではないし、そういう敏感なところを強みとして活かして成功を収めているタイプの人も大勢いる。要するにそういう些細な他者からの悪意を深刻に受けとめないでいるということの収斂が人間にはある程度要求されているのだ、と考えればよいだろう。要するに経験による認知が衝動的な情動の焦燥感を紛らわすことが出来るということを本節で私が主張したいことなのだ。
こういうことを考えてみよう。ある友人が些細な約束を守らないからと言って、その友人を必要以上に攻め立てることが大人気ないということは、その友人が普段からどのような約束も全て反故にするようなタイプの人間であるか否かということが重要な規準となるということは即座に了解されることではないだろうか?つまり大抵のことであるなら約束を守る相手に対して、こちらからもう一度頼めば済むことを態々別の他者にその者が約束を守らないでいることを執拗に告げ口するとしたら、そうする側の方の度量が小さいという判定を受けることになること必定である。要するに些細な他者の失点に対してある程度寛容になることがある意味では最も賢明な他者対人関係の基本であるかも知れない。
私の見るところ多くの猟奇的な衝動無差別殺人事件の犯人の多くが被害者意識だけが異様に増幅されているということが常に気になってきた。彼らは総じて通常だったなら、大して気にも留めないことを異様に増幅して過大なこととして受け取る被害妄想者なのである。そしてそのような被害妄想へと自らを駆り立てるものとは、端的にストレス解消法の知らなさである。そして他者からの揶揄に対しての免疫力のなさである。だからこそ私は他者からの小さな悪意にある程度慣れろと全ての人に言いたいのである。勿論他者への悪意、例えば意地悪が執拗を極めるのなら、それを実行する者に非が十分にある場合もあるだろうが、些細な悪口くらいで一々深刻に受けとめていたのなら、逆にその者には何も言えないという雰囲気になってしまうと言いたいのだ。だから小さな悪意を感じ取ったなら、適度に応酬するくらいの抵抗力を見につける術も必要かも知れない。逆にそれに慣れれば、他者からの小さな悪意がユーモアとして受け取る心の余裕も身に付くかも知れないではないか。
社会とはそもそも真に誠実な人間を歓迎するような場所ではない。例えば資本主義社会である以上、我々は生き馬の眼を抜くような過当競争に常に晒されており、そういう日常においてはよりシビアに現実を見つめ、時として他者を出し抜き、外部に対して不良であることを実践し、内部においては同僚や部下に対して叱咤激励するようなタイプの成員が待ち望まれることさえある。故に適度にシニカルで、他者の安っぽい善意とか責任を伴わない生半可な思い遣りなどない方がましであるとさえ思わせるような徹底した現実主義者の方がより尊敬を集めるケースが多い。すると簡単な揶揄に一々傷つくような柔な神経の持ち主は軽蔑こそされても、決して同情されることなどないと考えた方がよい。だからあるシニカルで意地悪な一言が仮に同僚とか上司からかけられたとしても、そう言われることに対して気の毒にと思われるよりは、そう言われても仕方ないなと思われる場合も多い。つまり社会とはそれだけの厳しい現実において展開しているわけだから、許される意地悪が飛び交うことの方が寧ろより効率とか潤滑油的な意味で自然であるという場所なのである。シニカルな言辞と、皮肉と、揶揄が正当とされる同意は、その都度のその言葉を吐く人間に対する実力的な評定が大きく左右する。敵対する者同士は寧ろ表面だけの褒め言葉によって埋め尽くされている。だから逆に真に味方である者同士ではささやかな揶揄、意地悪い一言は寧ろ対外的な戦略の前では、例えば言葉巧みに騙してくる本当の悪党に対してそれを見抜く眼を養成するためにも寧ろ有効であるとさえ言える。私たちは寧ろ許される限り皮肉と、罵倒を有効に活用すべきであるとさえ言える。つまり真意をそのような表だけを取り繕うことではなしに多少の荒っぽさを味方同士で示すということは、対外的な悪魔の囁きに対してそれがいかに真に思い遣りの欠如した言辞であるかをとくと知るために寧ろ必要でさえあるのだ。
しかしそういったことを真に理解出来るということは、ある意味では経験的なことである。失敗と挫折を通過しない者には理解が難しいかも知れない。そして意地悪を適度に実践することで、逆に真に悪辣な底意地の悪い行動を慎むという意味でも適度の他者に対する侮蔑的表情、表現とは予防装置として、取り返しの尽かない失敗とか他者攻撃を緩衝し、抑制する一つの知恵ある衝動であると言える。
それらは端的に人間的生活上での経験が、それくらいのことを気にしていては、生きていけないぞという暗黙の些細なことを気にしないように怒りを抑制する衝動、つまり大きなことと小さなことを区別する社会通念的認識力を構成する能力、つまり経験と衝動が結託した知恵というものを我々がある程度病理的ではない通常の個人に認めているということを意味する。そしてそのくらいのことを気にせずに生きていくということの規準は多少その人間の育ちの部分における社会環境、教育環境に左右されるだろう。しかし恐らく神経症になる寸前のところで大体の差異は解消されるものである。
それは端的にどの程度の意地悪なら、もしそのことで酷く相手が傷ついて自殺でもしたとしても、意地悪をした者が非難されることを回避するかという通念を我々が形成することと関係があるだろう。もしそれくらいのことを言ったくらいで相手が自殺をしたのなら、寧ろそれを深刻に受け取って自殺した者の方により病理的欠陥があったのだと判定することを自然にするある程度の意地悪の許容量というものがあるのだろうと私は思う。もしそうでなければ我々は多少気まずい雰囲気において他者に対して神経を遣い過ぎるあまり息が詰まってしまうだろうし、また日頃全ての嫌な相手の態度に対して飲み込み我慢することで多大なストレスを感じ、果ては精神的にまいってしまうからである。だから逆に精神病理的体質の人間というのはこの社会的策定の前では生きていき難いということもあるかも知れない。しかし社会はその意地悪があまりに悪質でない限り、ある程度の不快な態度を他者から採られることに対して抵抗力と免疫を得ることを個人の能力として求めるものなのだ。そしてその能力に対する判定とは自己抑制力と、経験的に小さな悪意を受け流す知恵を身につけているか、つまり他者の悪意を増幅させないで適当に他者からの攻撃をかわしたり、他者に対してその者が持つ悪意を善意に変えさせたりするような機転があるかということであり、そのためにも小さな意地悪はそういう能力を醸成する上であった方がよいと通常多くの人々が感じる類のものである。つまり期待されるべきその能力とはそれが著しく欠けているのなら、寧ろ人格的にも問題がある、寛大さの欠片もない、悠然としたところの欠片もない、余裕の一滴もないと判定されるような性質の寧ろ人間的にも能力査定的にも敬遠の対象と化してしまうようなものであると言ってよい。だからこれはある程度そういうことで悩みのある人間にとっては克服しておいた方がよいものであろう。
ただ難しいのは、こういう意地悪とはそれをする者にとって親しい者からは許されることでも、逆にそれをされる者にとって親しい者からは決して許されないという親密さから生じるエゴイズムと密接に絡んでくる、つまり感情論へと発展するという難点を孕んでいる。だからある意味ではどんなに些細な意地悪でも即座にいじめとか悪戯に転化する危険性を孕んでもいるとは言えるだろう。しかもその意地悪もあまり数度度重なると非難の対象と化すということもある。だから些細な意地悪は悪戯に転化しない内に寸止めしておく必要性が常に求められているのである。それは皮肉的で些細な言辞でも度重なると悪意に受け取られかねないのと同じである。そのような微妙な判定を成立させるものこそ経験と衝動が結託した心的作用であると言えるだろう。往々にして若者の一部には異様に相手からの揶揄的言辞に敏感な者が見受けられるが、そうかと言ってそういうタイプの人間に極度に非があるわけではないし、そういう敏感なところを強みとして活かして成功を収めているタイプの人も大勢いる。要するにそういう些細な他者からの悪意を深刻に受けとめないでいるということの収斂が人間にはある程度要求されているのだ、と考えればよいだろう。要するに経験による認知が衝動的な情動の焦燥感を紛らわすことが出来るということを本節で私が主張したいことなのだ。
こういうことを考えてみよう。ある友人が些細な約束を守らないからと言って、その友人を必要以上に攻め立てることが大人気ないということは、その友人が普段からどのような約束も全て反故にするようなタイプの人間であるか否かということが重要な規準となるということは即座に了解されることではないだろうか?つまり大抵のことであるなら約束を守る相手に対して、こちらからもう一度頼めば済むことを態々別の他者にその者が約束を守らないでいることを執拗に告げ口するとしたら、そうする側の方の度量が小さいという判定を受けることになること必定である。要するに些細な他者の失点に対してある程度寛容になることがある意味では最も賢明な他者対人関係の基本であるかも知れない。
私の見るところ多くの猟奇的な衝動無差別殺人事件の犯人の多くが被害者意識だけが異様に増幅されているということが常に気になってきた。彼らは総じて通常だったなら、大して気にも留めないことを異様に増幅して過大なこととして受け取る被害妄想者なのである。そしてそのような被害妄想へと自らを駆り立てるものとは、端的にストレス解消法の知らなさである。そして他者からの揶揄に対しての免疫力のなさである。だからこそ私は他者からの小さな悪意にある程度慣れろと全ての人に言いたいのである。勿論他者への悪意、例えば意地悪が執拗を極めるのなら、それを実行する者に非が十分にある場合もあるだろうが、些細な悪口くらいで一々深刻に受けとめていたのなら、逆にその者には何も言えないという雰囲気になってしまうと言いたいのだ。だから小さな悪意を感じ取ったなら、適度に応酬するくらいの抵抗力を見につける術も必要かも知れない。逆にそれに慣れれば、他者からの小さな悪意がユーモアとして受け取る心の余裕も身に付くかも知れないではないか。
社会とはそもそも真に誠実な人間を歓迎するような場所ではない。例えば資本主義社会である以上、我々は生き馬の眼を抜くような過当競争に常に晒されており、そういう日常においてはよりシビアに現実を見つめ、時として他者を出し抜き、外部に対して不良であることを実践し、内部においては同僚や部下に対して叱咤激励するようなタイプの成員が待ち望まれることさえある。故に適度にシニカルで、他者の安っぽい善意とか責任を伴わない生半可な思い遣りなどない方がましであるとさえ思わせるような徹底した現実主義者の方がより尊敬を集めるケースが多い。すると簡単な揶揄に一々傷つくような柔な神経の持ち主は軽蔑こそされても、決して同情されることなどないと考えた方がよい。だからあるシニカルで意地悪な一言が仮に同僚とか上司からかけられたとしても、そう言われることに対して気の毒にと思われるよりは、そう言われても仕方ないなと思われる場合も多い。つまり社会とはそれだけの厳しい現実において展開しているわけだから、許される意地悪が飛び交うことの方が寧ろより効率とか潤滑油的な意味で自然であるという場所なのである。シニカルな言辞と、皮肉と、揶揄が正当とされる同意は、その都度のその言葉を吐く人間に対する実力的な評定が大きく左右する。敵対する者同士は寧ろ表面だけの褒め言葉によって埋め尽くされている。だから逆に真に味方である者同士ではささやかな揶揄、意地悪い一言は寧ろ対外的な戦略の前では、例えば言葉巧みに騙してくる本当の悪党に対してそれを見抜く眼を養成するためにも寧ろ有効であるとさえ言える。私たちは寧ろ許される限り皮肉と、罵倒を有効に活用すべきであるとさえ言える。つまり真意をそのような表だけを取り繕うことではなしに多少の荒っぽさを味方同士で示すということは、対外的な悪魔の囁きに対してそれがいかに真に思い遣りの欠如した言辞であるかをとくと知るために寧ろ必要でさえあるのだ。
しかしそういったことを真に理解出来るということは、ある意味では経験的なことである。失敗と挫折を通過しない者には理解が難しいかも知れない。そして意地悪を適度に実践することで、逆に真に悪辣な底意地の悪い行動を慎むという意味でも適度の他者に対する侮蔑的表情、表現とは予防装置として、取り返しの尽かない失敗とか他者攻撃を緩衝し、抑制する一つの知恵ある衝動であると言える。
Friday, October 23, 2009
〔他者と衝動〕9、他者と良心
他者と良心を語る時、それを語る者が他者に対して一定の配慮を示すことにおいて自らの幸福を考えるという基本がある。しかし例えばマゾヒズム的な快楽主義者の場合自虐的な快楽に幸福を求める、そういう極度に満たされない状態こそが幸福であるとする逆説的言説によって意志や感情を考える傾向があるから、当然例えば尿意や便意を満たすことではなくそういった生理的に自然な欲求そのものを限りなく我慢すること自体に愉悦を覚えたり、死刑が施行されるまでの一日一日を過ごす恐怖の日々そのものを求めんがために数人以上の人間を殺害したりするようなタイプの意志と行動を自らの欲求充足感と幸福追求において正当とすることすら可能なのだから、当然人間の幸福が自らの幸福と似たものを他者も求めるだろうという目算において成立する他者に対する配慮も、そのような異常な幸福追求と快楽の規準ではないものとして考えることは至極当然であると言えるだろう。(特異な犯罪者にとって他者に対する配慮はそういう異常性を持ち合わせている者にのみ共感するところからスタートする筈である。)だから他者と良心について考えるということは、社会的要請の全てを善であると認めないまでも、一定の範囲内の行動遂行に対する要請を正当のものとして認める特殊意志減圧の意志として自らに言い聞かせる部分があることをまず容認することが基本としてある。だから一定の原音楽的な任務遂行性が行動基準としてあるという行動意志と他者に対する配慮は密接なる相関がある。
その前にではそのように良心を他者に対して採る態度として容認することを自然なものにすることを積極的に選択することであるなら、自らの幸福の規準を一般的基準からある程度確定的なものとしておかなくてはならないだろう。
例えば人を差別することを常としている者こそ最も他者からの差別を恐れるという神経症的傾向を示すことがある程度真実を突いたものであるなら、自らの幸福の規準が極度に他者一般のそれと乖離しているのでない限り、その者が他者に対して示す配慮も強ち的外れではないということが言えるだろう。
ではそもそも自らの幸福の規準を他者一般の幸福の基準との照応操作をすることが求められるということは、幸福一般の基準があることを意味するが、それすら恣意的な捉え方に依存すると言える。
例えばこう考えてみよう。それを得ない不幸は、それを得てそれを失う不幸よりはましである、としよう。すると例えば結婚して子どもを儲けることが幸福であると取り敢えず認めて、それがなし得ない夫婦が不幸であると一概に決め付けられないのは、当然子どもを儲けた夫婦が理不尽な形で災害とか殺傷事件等によって愛する息子や娘を失う場合を考えればよく理解出来るだろう。要するに得たものを失うことによって得る不幸の基準は、何を得るかに拠る。例えば記憶喪失者はある意味では幸福であるともし言ったとしても、それは最低限の人格的な相同性、アイデンティティーの上で成り立つ全ての幸福を得られないのだから、記憶がある人が記憶と想起の能力を滞りなく可能とする事実が附与されていることの幸不幸の規準とはまるで異なっており、そもそも比較の対象にもならないだろう。まず幸福とはそのような最低限の能力が備わっていることからしか論じられないのだ。だから「あの人は記憶を失っているから、何でも自分にとって不都合なことをも覚えていなくてはならない我々よりもそういう部分では幸福だ。」と言ってみたところで、それはただ単にその記憶喪失者に対する憐憫が、その者の特権を敢えて見いだすという作為に基づいてなされているに過ぎず、それは価値判断としての幸不幸の判定では決してない以上、それを他者に対する配慮と見做すわけにも当然いかない。だから他者に対して良心を発揮するということはニーチェ的な意味での憐憫を払拭して自己が得ている幸不幸の規準の最低ラインをその他者も満たしているかということの是非をまず前提として必要とする。それが非であるのなら、そもそもその者を自らの幸不幸の規準で語る資格はないと言ってよい。だから他者に対する良心とは自己の立たされている状況とほぼ社会的要請に対して受け答えるレヴェルでは相同であると認識し得るような規準に立ってなされ得なくてはならないと肝に銘じるべきである。そうでないのならそれは同情であるに過ぎない。だからこそ他者に対する良心は、自らに対する良心の問題でもあるのである。
だから他者に何か宣言する時それを言葉の力として効力を発揮するということは、その言葉を宣言することの意味と、意義がその他者に理解し得るということを前提としているだけでなく、その効力そのものに対する同意が最低限なされているということも前提している必要があるのである。
かかる規準に対して合格ラインにあるということが、例えばジョン・ラングショー・オースティンの言説として有名なパフォマティヴという概念の有用性に対する認識を可能にするのである。しかしこのパフォマティヴが提出された背景には更に哲史的にも伝統的な一つの認識があったことを考慮しなくてはならない。例えばトマス・ホッブスの「リヴァイアサン」を紐解いてみよう。
《無償贈与は、現在または過去のことばによって転移する》ことばだけであれば、もしそれらが、来るべき時にかんするものであり、たんなる約束を内容とするものであるならば、無償贈与の不完全なしるしであり、したがって私の権利がまだ譲渡されないで、私がなにか他の行為によってそれを譲渡するまで、残存するということのしるしである。しかし、もしことばが、「私は与えてしまったとか、私は明日ひきわたされるように、いま与える」というように、現在または過去の時についてのものであれば、そのばあいには、私は明日の権利が今日手ばなされ、それは、他の時についてのものであれば、そのことばの効力によってそうなのである。そして、velohoc turm esse cras とCras daboすなわち「私はこれが明日はあなたのものになることを欲する」と「私はそれを明日あなたに与えることを欲する」とのあいだには、おおきな意味のちがいがある。すなわち、まえのいいかたにおける「私は欲するI will」ということばは、現在の意志の行為をあらわすが、あとのいいかたにおいては、それはきたるべき意志の行為についての、約束をあらわすのであって、したがってまえのことばは、現在のものであるから、未来の権利を譲渡し、未来についてのものである後者は、なにも譲渡しないのである。しかし、もしそこに、ことばのほかに、権利譲渡の意志のしるしがあれば、そのばあいには、贈与は無償であっても、その権利は未来のことばによって転移するものと理解されうる。ある人が競争の決勝点に最初にくる人に賞を与えようと提案するように、贈与は無償であり、そしてことばをそのように理解されたいとおもわないならば、かれはかれらをはしらせなかっただろうからである。((一)水田洋訳、岩波文庫、223~224ページより)
ここでホッブスは明らかに他者存在一般に対するある特定の個人に対して抱かれる贔屓感情を度外視した私的な動機による良心を公的に表明するということに内在する約束とか約定ということが、社会的なその発言者に対する人物評定ということに直結するようなタイプの認識を生じさせることについての真理を言っている。それは私的な満足(良心の発動による)が、公的に私的欲求が認められることを社会そのものが容易に容認することを個人が期待する権利として享受することにあるとする一般的な価値基準に基づいている。それはそう率先して行為する贈与者の公的な良心の発動によって具現化される幸福感を個人が享受する権利が、公的な贈与として社会的に有益に機能する限りで大いに認められるという社会判断に依存する限り制限されるべきではないという公的良心の定義として位置づけられている。重要なこととは、幸福ということの規準が、ここでは公的な了解とか総意とか、社会一般の良識とか通念ということで考えられているということである。
しかし幸福ということの規準とは実は、それが他者に対して迷惑とか社会的な害悪に該当しない限りで、極めて個人毎にその判定がまちまちで、個人の主観に依存しているというもう一つの決定的な真理を無視する限りで有効であるに過ぎない。
勿論他者に対して幸不幸の規準を同一のものとして推し量ることを一般に公的に容認された社会制度でもある結婚の例に喩えると、当然既婚者同士、独身者同士という共通項によって比較することしかなし得ないだろうが、ここで仮に既婚者の幸福の内容が、人によって子どもを育てることにあるとしても、あるいは夫の収入の源である職場での出世とそれに伴う社会的地位に安住した生活にあるとしても、子どもも仕事も眼中になくまして良妻としてよい食事を作ることでも作って貰うことでもなく相互に性愛の秘儀に熱中することであるとしても(カントが他律と言ったことの内には性欲ということもあるが、この場合それより高次の性的パートナーに対する性愛的な奥義という意味でである。)相互に異なった価値基準である以上恐らく同じ既婚者同士でも同一の幸不幸の判定をすることは不可能である。どのタイプであっても、子どもがいない夫婦に対して子どもを育てることだけが幸福の評定規準の夫婦は不幸であると断じるだろうし、安定した高水準の社会的地位に伴う社交の満たされない夫婦は、仮に子どもを持つことによって得られる幸福が満たされている夫婦を見ても羨ましいとは終ぞ思わないだろうし、性愛の秘儀を追求する夫婦にとって、他のいかなる家庭的幸福を得ている夫婦があったとしても、自分たちの方を常に上位に感じる以外にはないだろう。だから同一の価値基準を持つ者同士が他者に対してする宣言でない限り、その宣言の有用性はとんと理解され得ないということがまずオースティンのパフォマティヴには顕著に示されている。
しかし問題なのは、そもそも私という意識も自己意識も、自己身体意識も、他者存在に対する覚知と、その存在に対する羞恥による衝動から喚起されるモラル意識、アンチ・モラル意識だとするなら、一つの夫婦関係というものの在り方に対する価値基準は、全てそれを成立させる衝動によるものでもあるということだ。他律的生き方も、自律的生き方も同じ範疇のモラルを通して見る生き方から喚起される衝動の様態の一種でしかない。宣言というものは確かに規制緩和が正しいとする政治家と、規制を設ける必要性を主張する政治家とでは、そのスローガンやマニフェストを叫ぶ対象となる大衆とか民衆とか国民とかの性格は自ずと異なってくるだろう。そのような意味で夫婦の在り方とか、結婚生活の在り方だけでなく、友情の在り方、仕事関係の同僚とか関係者同士の人間関係的考え方まで全てそういう規範を設ける存在者たちによるその都度判断をし、自分の判断を正しいと思わせる衝動である。つまりそれら全ての連動を指して我々はたまたまそれを自由意志という名で語ってきたというわけである。
だから良心という衝動も、羞恥の尊重においては情動的良心の発動を潔くし、羞恥の払拭においては自由論的、理性論的良心の発動を潔くするかも知れない。前者はより友愛協調的な感情に彩られ、後者はより公正的態度と個人的感情抑制的もう一つの感情に彩られていると言えるだろう。つまり良心の在り方を巡る衝動そのものもまた、他者に対する私の側からの認識、他者性格判断、他者一般の中でその態度を差し向けるべき他者像の在り方を巡る判断が大いに関わっている。つまり衝動というのは、羞恥同様、情動的なものでさえ判断レヴェルの認識に深く関わっており、逆に認識主体的で、理性論的判断においてさえ抑制的情動と感情的な傾向性にも深く関わっていると言うことが出来る。と言うのも他者存在の在り方そのものが接する他者毎にも、同一の他者においてもその都度の気分や判断や認識の仕方の衝動によっても異なるからである。つまり特異な判断というものが正当な判断、常套的な判断と抱き合わせとなっているという意味で、常識的判断というものも特別扱い的判断と抱き合わせであるし、そうであるからには、情動と知覚、感情の経路のように、認識と判断、あるいは論理思考と非論理的感受の相反するようなもの同士は常に抱き合わせであると言えるからである。
すると言語化し得る意志というものは、言語化し得ない意志という広大な領域の中のほんの一部であるという見方も成り立つ。言語化し得る意志というものもまた一種の衝動ということになる。言語化とは理念化でもあり、論理化と言ってもよい。例えば全ての実在とは逸脱体である。その逸脱体の中でも一際その時々の支配的な気分の傾向によって魅力的に映るものだけが時として名誉的称号=正当として位置付けられるだけのことである。実際は非言語的意志(例えばモーツアルトが楽理習得以前の幼少期に既に音楽的な非認識的意志<表現欲求>を携えていたことに象徴されるようなものとしての)の中の特定の一部だけが言語化され得、それが論理的正当となり、理念化するのだ。だから前言語状態としての非説明的な意志伝達欲求こそが意志の根源でもあると言える。だからその中でも特に顕著にその時々の気分を代表しているもののみを抽出してそれを理想と化しつつ、正当とすることそれ自体もまた、一種の言語化したい反省的意識の下で認識したい一つの固有の衝動でしかないのである。良心とはその中でも一般化し得るものとは一体何なのかということに対するその都度の返答なのであり、それは私という意識、あるいは自己身体とか自己領域といったものをその都度の他者との関わりの中から形成するプロセスでそういう恣意的な意志を産出する他者存在を、その都度の固有に接する他者から像として顕在化させてゆくことの中にある固有の羞恥と密接な衝動、つまり具体→一般という経路を辿るその都度の判断なのである。しかしそのように経路を辿るということの内には言語化する欲求と衝動、あるいは理念化する価値規範産出的な欲求と衝動、論理的枠組の形成という欲求と衝動が控えている。つまり良心とは存在者としての我々が羞恥そのものを保持しているが故にその事実を容認することを他者にも強いる要請であると同時に、羞恥を隠蔽することも同時にするような他者に対してなされるポーズへの同意(あなたも私と同じようにそう望むのならいっそ協調しましょうという)の要請なのである。だからこそ良心には理念として固定化させ続けることをこちらもあちらも望むような性格があり、実はその理想の雛形とはその都度少しずつ書き換えられ続けていることを直接明示するのではなくそれとなく暗黙に了解し合うという意識を他者と共有し合うことでもあるのである。
なぜそのようにそのように相互に暗黙にその固定化を望むのかと言うと、それは端的に他者というものの存在が常に私にとっても向こうにとっても、即自的なものではないということに尽きる。つまり私たちはゾンビという観念を発生させたことの根拠に、それが即自的なものでは決してあり得ないという直観が横たわっているのだ。恐らく良心とはそのような直観によって支えられた、即自ならぬ存在者に対する条件反射的な反応なのかも知れない。それは「そうしないとまずいかも知れない」という他者存在という気配そのものに対する無意識の返答なのである。何故なら他者にも強要し得るような性質のものは、向こうもまた恐らく私に対して同様の請求をなすであろうという目算を私が即座に成立させるようなもの以外ではないからなのだ。強要し得ることとは必ず向こうも同意するものでなければならないが、そのなければならないという考えは、直観的な判断によるものであり、思慮を必要とするようなものではない。哲学でそのこと自体を思慮するということが逆に、それを日常において実践するということの内に何らの思慮も必要ない、いやそれがあったのなら寧ろ実践に支障をきたすものであるという性質があるのである。だがこの直観こそが、先述のホッブスのような贈与に纏わる社会的私的幸福の享受が公的な良心に基づいてなら容認されるという世間一般の良識を生む土壌でもあると言えるのである。
実際には社会には公言すれば非難されるのに、それをしさえしなければ容認されるような態度とか心持というのは多く存在する。その一つが悪戯に至らない、しかもいじめともつかない意地悪である。
これは端的に良心の発動を持続することで我々が得るストレス解消のために社会成員の多くが一般的に悪質過ぎない限り暗黙に容認し、それをすることを直ちに悪と決め付けないことに対して同意している策定である。このことについて次節で詳述しようと思う。
その前にではそのように良心を他者に対して採る態度として容認することを自然なものにすることを積極的に選択することであるなら、自らの幸福の規準を一般的基準からある程度確定的なものとしておかなくてはならないだろう。
例えば人を差別することを常としている者こそ最も他者からの差別を恐れるという神経症的傾向を示すことがある程度真実を突いたものであるなら、自らの幸福の規準が極度に他者一般のそれと乖離しているのでない限り、その者が他者に対して示す配慮も強ち的外れではないということが言えるだろう。
ではそもそも自らの幸福の規準を他者一般の幸福の基準との照応操作をすることが求められるということは、幸福一般の基準があることを意味するが、それすら恣意的な捉え方に依存すると言える。
例えばこう考えてみよう。それを得ない不幸は、それを得てそれを失う不幸よりはましである、としよう。すると例えば結婚して子どもを儲けることが幸福であると取り敢えず認めて、それがなし得ない夫婦が不幸であると一概に決め付けられないのは、当然子どもを儲けた夫婦が理不尽な形で災害とか殺傷事件等によって愛する息子や娘を失う場合を考えればよく理解出来るだろう。要するに得たものを失うことによって得る不幸の基準は、何を得るかに拠る。例えば記憶喪失者はある意味では幸福であるともし言ったとしても、それは最低限の人格的な相同性、アイデンティティーの上で成り立つ全ての幸福を得られないのだから、記憶がある人が記憶と想起の能力を滞りなく可能とする事実が附与されていることの幸不幸の規準とはまるで異なっており、そもそも比較の対象にもならないだろう。まず幸福とはそのような最低限の能力が備わっていることからしか論じられないのだ。だから「あの人は記憶を失っているから、何でも自分にとって不都合なことをも覚えていなくてはならない我々よりもそういう部分では幸福だ。」と言ってみたところで、それはただ単にその記憶喪失者に対する憐憫が、その者の特権を敢えて見いだすという作為に基づいてなされているに過ぎず、それは価値判断としての幸不幸の判定では決してない以上、それを他者に対する配慮と見做すわけにも当然いかない。だから他者に対して良心を発揮するということはニーチェ的な意味での憐憫を払拭して自己が得ている幸不幸の規準の最低ラインをその他者も満たしているかということの是非をまず前提として必要とする。それが非であるのなら、そもそもその者を自らの幸不幸の規準で語る資格はないと言ってよい。だから他者に対する良心とは自己の立たされている状況とほぼ社会的要請に対して受け答えるレヴェルでは相同であると認識し得るような規準に立ってなされ得なくてはならないと肝に銘じるべきである。そうでないのならそれは同情であるに過ぎない。だからこそ他者に対する良心は、自らに対する良心の問題でもあるのである。
だから他者に何か宣言する時それを言葉の力として効力を発揮するということは、その言葉を宣言することの意味と、意義がその他者に理解し得るということを前提としているだけでなく、その効力そのものに対する同意が最低限なされているということも前提している必要があるのである。
かかる規準に対して合格ラインにあるということが、例えばジョン・ラングショー・オースティンの言説として有名なパフォマティヴという概念の有用性に対する認識を可能にするのである。しかしこのパフォマティヴが提出された背景には更に哲史的にも伝統的な一つの認識があったことを考慮しなくてはならない。例えばトマス・ホッブスの「リヴァイアサン」を紐解いてみよう。
《無償贈与は、現在または過去のことばによって転移する》ことばだけであれば、もしそれらが、来るべき時にかんするものであり、たんなる約束を内容とするものであるならば、無償贈与の不完全なしるしであり、したがって私の権利がまだ譲渡されないで、私がなにか他の行為によってそれを譲渡するまで、残存するということのしるしである。しかし、もしことばが、「私は与えてしまったとか、私は明日ひきわたされるように、いま与える」というように、現在または過去の時についてのものであれば、そのばあいには、私は明日の権利が今日手ばなされ、それは、他の時についてのものであれば、そのことばの効力によってそうなのである。そして、velohoc turm esse cras とCras daboすなわち「私はこれが明日はあなたのものになることを欲する」と「私はそれを明日あなたに与えることを欲する」とのあいだには、おおきな意味のちがいがある。すなわち、まえのいいかたにおける「私は欲するI will」ということばは、現在の意志の行為をあらわすが、あとのいいかたにおいては、それはきたるべき意志の行為についての、約束をあらわすのであって、したがってまえのことばは、現在のものであるから、未来の権利を譲渡し、未来についてのものである後者は、なにも譲渡しないのである。しかし、もしそこに、ことばのほかに、権利譲渡の意志のしるしがあれば、そのばあいには、贈与は無償であっても、その権利は未来のことばによって転移するものと理解されうる。ある人が競争の決勝点に最初にくる人に賞を与えようと提案するように、贈与は無償であり、そしてことばをそのように理解されたいとおもわないならば、かれはかれらをはしらせなかっただろうからである。((一)水田洋訳、岩波文庫、223~224ページより)
ここでホッブスは明らかに他者存在一般に対するある特定の個人に対して抱かれる贔屓感情を度外視した私的な動機による良心を公的に表明するということに内在する約束とか約定ということが、社会的なその発言者に対する人物評定ということに直結するようなタイプの認識を生じさせることについての真理を言っている。それは私的な満足(良心の発動による)が、公的に私的欲求が認められることを社会そのものが容易に容認することを個人が期待する権利として享受することにあるとする一般的な価値基準に基づいている。それはそう率先して行為する贈与者の公的な良心の発動によって具現化される幸福感を個人が享受する権利が、公的な贈与として社会的に有益に機能する限りで大いに認められるという社会判断に依存する限り制限されるべきではないという公的良心の定義として位置づけられている。重要なこととは、幸福ということの規準が、ここでは公的な了解とか総意とか、社会一般の良識とか通念ということで考えられているということである。
しかし幸福ということの規準とは実は、それが他者に対して迷惑とか社会的な害悪に該当しない限りで、極めて個人毎にその判定がまちまちで、個人の主観に依存しているというもう一つの決定的な真理を無視する限りで有効であるに過ぎない。
勿論他者に対して幸不幸の規準を同一のものとして推し量ることを一般に公的に容認された社会制度でもある結婚の例に喩えると、当然既婚者同士、独身者同士という共通項によって比較することしかなし得ないだろうが、ここで仮に既婚者の幸福の内容が、人によって子どもを育てることにあるとしても、あるいは夫の収入の源である職場での出世とそれに伴う社会的地位に安住した生活にあるとしても、子どもも仕事も眼中になくまして良妻としてよい食事を作ることでも作って貰うことでもなく相互に性愛の秘儀に熱中することであるとしても(カントが他律と言ったことの内には性欲ということもあるが、この場合それより高次の性的パートナーに対する性愛的な奥義という意味でである。)相互に異なった価値基準である以上恐らく同じ既婚者同士でも同一の幸不幸の判定をすることは不可能である。どのタイプであっても、子どもがいない夫婦に対して子どもを育てることだけが幸福の評定規準の夫婦は不幸であると断じるだろうし、安定した高水準の社会的地位に伴う社交の満たされない夫婦は、仮に子どもを持つことによって得られる幸福が満たされている夫婦を見ても羨ましいとは終ぞ思わないだろうし、性愛の秘儀を追求する夫婦にとって、他のいかなる家庭的幸福を得ている夫婦があったとしても、自分たちの方を常に上位に感じる以外にはないだろう。だから同一の価値基準を持つ者同士が他者に対してする宣言でない限り、その宣言の有用性はとんと理解され得ないということがまずオースティンのパフォマティヴには顕著に示されている。
しかし問題なのは、そもそも私という意識も自己意識も、自己身体意識も、他者存在に対する覚知と、その存在に対する羞恥による衝動から喚起されるモラル意識、アンチ・モラル意識だとするなら、一つの夫婦関係というものの在り方に対する価値基準は、全てそれを成立させる衝動によるものでもあるということだ。他律的生き方も、自律的生き方も同じ範疇のモラルを通して見る生き方から喚起される衝動の様態の一種でしかない。宣言というものは確かに規制緩和が正しいとする政治家と、規制を設ける必要性を主張する政治家とでは、そのスローガンやマニフェストを叫ぶ対象となる大衆とか民衆とか国民とかの性格は自ずと異なってくるだろう。そのような意味で夫婦の在り方とか、結婚生活の在り方だけでなく、友情の在り方、仕事関係の同僚とか関係者同士の人間関係的考え方まで全てそういう規範を設ける存在者たちによるその都度判断をし、自分の判断を正しいと思わせる衝動である。つまりそれら全ての連動を指して我々はたまたまそれを自由意志という名で語ってきたというわけである。
だから良心という衝動も、羞恥の尊重においては情動的良心の発動を潔くし、羞恥の払拭においては自由論的、理性論的良心の発動を潔くするかも知れない。前者はより友愛協調的な感情に彩られ、後者はより公正的態度と個人的感情抑制的もう一つの感情に彩られていると言えるだろう。つまり良心の在り方を巡る衝動そのものもまた、他者に対する私の側からの認識、他者性格判断、他者一般の中でその態度を差し向けるべき他者像の在り方を巡る判断が大いに関わっている。つまり衝動というのは、羞恥同様、情動的なものでさえ判断レヴェルの認識に深く関わっており、逆に認識主体的で、理性論的判断においてさえ抑制的情動と感情的な傾向性にも深く関わっていると言うことが出来る。と言うのも他者存在の在り方そのものが接する他者毎にも、同一の他者においてもその都度の気分や判断や認識の仕方の衝動によっても異なるからである。つまり特異な判断というものが正当な判断、常套的な判断と抱き合わせとなっているという意味で、常識的判断というものも特別扱い的判断と抱き合わせであるし、そうであるからには、情動と知覚、感情の経路のように、認識と判断、あるいは論理思考と非論理的感受の相反するようなもの同士は常に抱き合わせであると言えるからである。
すると言語化し得る意志というものは、言語化し得ない意志という広大な領域の中のほんの一部であるという見方も成り立つ。言語化し得る意志というものもまた一種の衝動ということになる。言語化とは理念化でもあり、論理化と言ってもよい。例えば全ての実在とは逸脱体である。その逸脱体の中でも一際その時々の支配的な気分の傾向によって魅力的に映るものだけが時として名誉的称号=正当として位置付けられるだけのことである。実際は非言語的意志(例えばモーツアルトが楽理習得以前の幼少期に既に音楽的な非認識的意志<表現欲求>を携えていたことに象徴されるようなものとしての)の中の特定の一部だけが言語化され得、それが論理的正当となり、理念化するのだ。だから前言語状態としての非説明的な意志伝達欲求こそが意志の根源でもあると言える。だからその中でも特に顕著にその時々の気分を代表しているもののみを抽出してそれを理想と化しつつ、正当とすることそれ自体もまた、一種の言語化したい反省的意識の下で認識したい一つの固有の衝動でしかないのである。良心とはその中でも一般化し得るものとは一体何なのかということに対するその都度の返答なのであり、それは私という意識、あるいは自己身体とか自己領域といったものをその都度の他者との関わりの中から形成するプロセスでそういう恣意的な意志を産出する他者存在を、その都度の固有に接する他者から像として顕在化させてゆくことの中にある固有の羞恥と密接な衝動、つまり具体→一般という経路を辿るその都度の判断なのである。しかしそのように経路を辿るということの内には言語化する欲求と衝動、あるいは理念化する価値規範産出的な欲求と衝動、論理的枠組の形成という欲求と衝動が控えている。つまり良心とは存在者としての我々が羞恥そのものを保持しているが故にその事実を容認することを他者にも強いる要請であると同時に、羞恥を隠蔽することも同時にするような他者に対してなされるポーズへの同意(あなたも私と同じようにそう望むのならいっそ協調しましょうという)の要請なのである。だからこそ良心には理念として固定化させ続けることをこちらもあちらも望むような性格があり、実はその理想の雛形とはその都度少しずつ書き換えられ続けていることを直接明示するのではなくそれとなく暗黙に了解し合うという意識を他者と共有し合うことでもあるのである。
なぜそのようにそのように相互に暗黙にその固定化を望むのかと言うと、それは端的に他者というものの存在が常に私にとっても向こうにとっても、即自的なものではないということに尽きる。つまり私たちはゾンビという観念を発生させたことの根拠に、それが即自的なものでは決してあり得ないという直観が横たわっているのだ。恐らく良心とはそのような直観によって支えられた、即自ならぬ存在者に対する条件反射的な反応なのかも知れない。それは「そうしないとまずいかも知れない」という他者存在という気配そのものに対する無意識の返答なのである。何故なら他者にも強要し得るような性質のものは、向こうもまた恐らく私に対して同様の請求をなすであろうという目算を私が即座に成立させるようなもの以外ではないからなのだ。強要し得ることとは必ず向こうも同意するものでなければならないが、そのなければならないという考えは、直観的な判断によるものであり、思慮を必要とするようなものではない。哲学でそのこと自体を思慮するということが逆に、それを日常において実践するということの内に何らの思慮も必要ない、いやそれがあったのなら寧ろ実践に支障をきたすものであるという性質があるのである。だがこの直観こそが、先述のホッブスのような贈与に纏わる社会的私的幸福の享受が公的な良心に基づいてなら容認されるという世間一般の良識を生む土壌でもあると言えるのである。
実際には社会には公言すれば非難されるのに、それをしさえしなければ容認されるような態度とか心持というのは多く存在する。その一つが悪戯に至らない、しかもいじめともつかない意地悪である。
これは端的に良心の発動を持続することで我々が得るストレス解消のために社会成員の多くが一般的に悪質過ぎない限り暗黙に容認し、それをすることを直ちに悪と決め付けないことに対して同意している策定である。このことについて次節で詳述しようと思う。
Wednesday, October 21, 2009
〔他者と衝動〕8、記憶と経験
羞恥は他者存在に対する意識によって顕在化することは分かったが、ここで他者存在と羞恥を結びつけるものとして記憶を考えることは重要であろう。そして記憶とは外在的事物や現象に対する認識を生じさせながら、固有の出来事に付帯する像の集積によって形成されている一般的傾向に対する理解と抱き合わせであると言える。それは自ら主体的に外部の存在に働きかけることを通して得た体験的事実に対する記憶によっても促進される。つまり経験と記憶とは相互に依存しているのだし、フィードバックの関係にあると言ってよい。また記憶は絶えず言語化され続けてきており、経験もまたその経験によって得た教訓という形で常に言語化され続けてきている。経験とは端的に固有の出来事に対処したことの記憶である。だから経験を伴わない記憶というと、ただぼんやり眺めていたということになるだろうが、眺めるということも一種の消極的な主体的行為であり、経験である。知らされるということもそうである。要するに記憶することを促進するものとして経験としてある行動を、ある行為を認識する能力が我々にあると言ってもよいし、経験とは記憶された行為の一連の総合化によって得られる認識でもあるし、実際的な行為事実が身体的にその際の細々として感性的な記憶を我々に得させているのだから、経験は行為事実と行為する際の感受的な記憶によってより明確な実存的認識を得ると言ってよいだろう。
羞恥の在り方は記憶に内在する成功体験とか失敗体験に依存していることが多いと言えるかも知れない。同じ他者に対してより多く羞恥を抱き、その羞恥を払拭し得ないとしたなら、我々はその他者に対する意識が強いと言ってよいだろう。それは我々がその他者との遣り取りからより強烈な意思疎通上での齟齬を感じ取ったが故に生じさせる「構え」を顕在化しているということである。その際に体験的記憶が即座に想起されるような条件反射的な意味づけがその他者に対して知覚レヴェルでもなされているわけであり、それはその他者を巡る経験則となっているということの現われである。
しかし積極的行動であれ、消極的行動であれ、それが意識的であるか否か、つまり意図的であるか否かはまた別の規準になる。そこで記憶が意図的ではないということは、例えば一度見た顔というのは覚えている筈だし、それを咄嗟に思い出すことはあっても、その顔が自分の自宅近辺の近隣住民であるのか、勤めている会社の近くで見た人なのかということを思い出せないということからも明白であるし、経験というものもまた、自転車の乗り方を知っているということは足をペダルに乗せ、扱ぐことが言葉によって説明し得るということとは違う。例えばパソコンを考えてみよう。我々はパソコンの前に座り、キーボードを叩きワードを打ち込む段になって初めて各文字のキーを手によって思い出し、一々意識してそれを叩くことなどない、だから逆に一々ある文字(例えばG)単語のキーがどこで、どのキーの隣であるかなどと口で説明しろと言われると窮することとなる。つまりそれらは一体身体的な記憶として言いようがないのである。そういう行為にも積極的と消極的という差はある。
そこで反射的に他者の意見に追随する時我々が採用する行為選択的な基準をまるで音楽に合わせて身体を動かすようなので、原音楽と呼ぼう。逆に反射的に他者に対して畏怖の感情を巣食わせる時、それはよく知る他者の意外な面を知る時、あるいは一度も会ったことのない他者が突如自宅を訪れる時、映像越しにその者を自宅内で確認する時に咄嗟に抱く警戒心のようなものを原羞恥と呼ぼう。この二つは連動しているし、ある時には協同するし、ある時には離反し合う。気心の知れた友人との対話には原音楽的行為選択が援用されることが多いだろうし、よく知らない部分の多い他者に対しては我々はより原羞恥を採用する。しかもそれらは常に無意識的になのである。勿論意図して原羞恥を採用することもあるだろうし、理解出来た他者に対して意図的に原音楽を採用することもあるだろう。しかし意図的にそうであるということは原音楽においても原羞恥においても、より羞恥レヴェルが強いということを意味する。真に信頼しきっている相手に対して我々は常に原音楽的であることが極めて自然である。それは勿論よく酒を一緒に飲む相手と酒を飲む時にであり、その者と議論するとなると話は別であるし、逆に議論することに慣れている相手に対して議論する時には原音楽的に振舞う(それは対立した意見を言うことすら信頼して相手を論駁するという意味である。)し、逆にそういう相手と初めて酒を飲む時には原羞恥が突如呼び起こされるだろう。議論も出来て、しかも酒も共に飲める相手というのはごく限られている。それら一切は全て記憶としてインプットされた他者像をその都度引き出しているのだし、そういった各個人毎のデータファイルとその内容はその他者に纏わる出来事と、その他者との一件(会話や対話その他共同作業等)における独自の、つまり他の他者との間にはなかった共感や反感といった感情レヴェルから、仕事とか作業の進行具合といった経験的事実(勿論そのことに対する記憶)に拠っている。
「意図的にそうであるということは原音楽においても原羞恥においても、より羞恥レヴェルが強いということを意味する。」と私が言ったことは極めて重要である。つまり私たちは羞恥を払拭するということの内に勇気を持つべきなのだとしたら、そういう他者と努めて親しげに接するということの内にl強烈な羞恥があると言ってよいだろう。従って本当に心が打ち溶け合っている相手とか仲間に対して我々は原羞恥を抱くことなどないと言ってよい。勿論最低限のそれは保持されていよう。しかしそれは極めて稀少なものでしかないだろう。そういう相手とはツーと言えばカーとくるわけだから、必然的に原音楽が自然な形で形成される。しかしそうでない相手とは羞恥を払拭して原音楽を構成しようと欲するのだから、必然的に原羞恥の範疇で擬似的に形成される原音楽と呼べる代物にその度毎に縋りつくという状況が生まれる。このことは接する相手に対する羞恥レヴェル、警戒レヴェルによって大いに異なってくるわけだから最重要であるし、それもまたその他者像というものが基軸となるし、その他者像とはその他者を巡るエピソード記憶に拠るところのものである。そしてその対他者記憶とは、端的にその他者を巡る像を形成する根幹となる私にとっての身体情動的な経験であり、経験記憶である。記憶には経験が必要であり、それなしには記憶という脳内の作用はあり得ないし、経験には必ず記憶が伴われるものなのである。
ここで自由意志論と本論との関係について考えてみたい。脳科学や心理学では既に準備電位というものの存在が明らかにされ、要するに我々が何かを意志する前に脳では前段階としてその意志を発生すべく準備しているということなのであるが、では我々には自由意志の一欠けらもないのかというと、それも違うと言えると思うのである。要するにこういうことである。私がこの論文をパソコンで打って入力する時、私の指は一々私の意志によって動かされているというよりは、身体的な記憶と結びついているだろう。しかしその身体的記憶を引き出しているのは、さっきまでベッドで寝ていて、目覚めその時考えていたことを早速パソコンに入力しようと私が思い立った意志である。つまり脳内の準備電位を有効なものとして活用しているのは、私の日常的な意図、つまり生活において私がなすべきことと心得ていること、つまり自由意志である。だから身体記憶を慣用することを通して何らかの目的を遂行する限りにおいて自由意志論と脳内での準備電位を両立し得る。しかも自由意志とは、端的にその時々の私の生理的状態とか健康状態、及びそれと不可分の、あるいはそれらをも構成するその時々の衝動に左右されているし、あるいはこう言った方がよいと思われるが、他者に対する羞恥の在り方、その羞恥を呼び起こしているその時々の私の衝動の在り方そのものが私の意志なのである、と。だからモラル論的な自由意志と本論での衝動と羞恥の他者存在による私の存在という覚知とその維持と、意識そのものが行動を言語行為を誘発するような意味での私たちの在り方とは両立する、と言うより寧ろ一つのことを別の角度から見て判断したものであると言ってよいだろう。そしてその両立を成立させるものとして私の日常的意志そのものの記憶と、その意志を顕現させるものとしての私の経験とその記憶が私を自由な存在として位置づけると同時に、私をその都度の衝動によって、意志を顕現する在り方を変えもすると言えるのである。何故なら今現在このパソコンを入力している私は、さっきまでベッドで睡眠を取っていたが、そうではなくずっと起きて本を読んでいたなら、今私はこのようにパソコンに文字入力しているというわけにはいかなかったかも知れないからである。だから経験とその記憶という考え方からも、あるいは記憶によって構成されている私の経験という考え方からも、その時々の私の細々した意志と、もっと大局的な目的的意志とが交差したところの私において、その時々の細々した意志を発動させる衝動は、私の記憶と経験による生全体の大局的意図とか意志をより有効なものとし得るように準備されるのだが、その準備を滞りなくするものもこの全体的なシステムである羞恥と衝動とによる意志活性的な円環構造であると同時に、私の生全体の自由意志であるとも言えるのである。
羞恥の在り方は記憶に内在する成功体験とか失敗体験に依存していることが多いと言えるかも知れない。同じ他者に対してより多く羞恥を抱き、その羞恥を払拭し得ないとしたなら、我々はその他者に対する意識が強いと言ってよいだろう。それは我々がその他者との遣り取りからより強烈な意思疎通上での齟齬を感じ取ったが故に生じさせる「構え」を顕在化しているということである。その際に体験的記憶が即座に想起されるような条件反射的な意味づけがその他者に対して知覚レヴェルでもなされているわけであり、それはその他者を巡る経験則となっているということの現われである。
しかし積極的行動であれ、消極的行動であれ、それが意識的であるか否か、つまり意図的であるか否かはまた別の規準になる。そこで記憶が意図的ではないということは、例えば一度見た顔というのは覚えている筈だし、それを咄嗟に思い出すことはあっても、その顔が自分の自宅近辺の近隣住民であるのか、勤めている会社の近くで見た人なのかということを思い出せないということからも明白であるし、経験というものもまた、自転車の乗り方を知っているということは足をペダルに乗せ、扱ぐことが言葉によって説明し得るということとは違う。例えばパソコンを考えてみよう。我々はパソコンの前に座り、キーボードを叩きワードを打ち込む段になって初めて各文字のキーを手によって思い出し、一々意識してそれを叩くことなどない、だから逆に一々ある文字(例えばG)単語のキーがどこで、どのキーの隣であるかなどと口で説明しろと言われると窮することとなる。つまりそれらは一体身体的な記憶として言いようがないのである。そういう行為にも積極的と消極的という差はある。
そこで反射的に他者の意見に追随する時我々が採用する行為選択的な基準をまるで音楽に合わせて身体を動かすようなので、原音楽と呼ぼう。逆に反射的に他者に対して畏怖の感情を巣食わせる時、それはよく知る他者の意外な面を知る時、あるいは一度も会ったことのない他者が突如自宅を訪れる時、映像越しにその者を自宅内で確認する時に咄嗟に抱く警戒心のようなものを原羞恥と呼ぼう。この二つは連動しているし、ある時には協同するし、ある時には離反し合う。気心の知れた友人との対話には原音楽的行為選択が援用されることが多いだろうし、よく知らない部分の多い他者に対しては我々はより原羞恥を採用する。しかもそれらは常に無意識的になのである。勿論意図して原羞恥を採用することもあるだろうし、理解出来た他者に対して意図的に原音楽を採用することもあるだろう。しかし意図的にそうであるということは原音楽においても原羞恥においても、より羞恥レヴェルが強いということを意味する。真に信頼しきっている相手に対して我々は常に原音楽的であることが極めて自然である。それは勿論よく酒を一緒に飲む相手と酒を飲む時にであり、その者と議論するとなると話は別であるし、逆に議論することに慣れている相手に対して議論する時には原音楽的に振舞う(それは対立した意見を言うことすら信頼して相手を論駁するという意味である。)し、逆にそういう相手と初めて酒を飲む時には原羞恥が突如呼び起こされるだろう。議論も出来て、しかも酒も共に飲める相手というのはごく限られている。それら一切は全て記憶としてインプットされた他者像をその都度引き出しているのだし、そういった各個人毎のデータファイルとその内容はその他者に纏わる出来事と、その他者との一件(会話や対話その他共同作業等)における独自の、つまり他の他者との間にはなかった共感や反感といった感情レヴェルから、仕事とか作業の進行具合といった経験的事実(勿論そのことに対する記憶)に拠っている。
「意図的にそうであるということは原音楽においても原羞恥においても、より羞恥レヴェルが強いということを意味する。」と私が言ったことは極めて重要である。つまり私たちは羞恥を払拭するということの内に勇気を持つべきなのだとしたら、そういう他者と努めて親しげに接するということの内にl強烈な羞恥があると言ってよいだろう。従って本当に心が打ち溶け合っている相手とか仲間に対して我々は原羞恥を抱くことなどないと言ってよい。勿論最低限のそれは保持されていよう。しかしそれは極めて稀少なものでしかないだろう。そういう相手とはツーと言えばカーとくるわけだから、必然的に原音楽が自然な形で形成される。しかしそうでない相手とは羞恥を払拭して原音楽を構成しようと欲するのだから、必然的に原羞恥の範疇で擬似的に形成される原音楽と呼べる代物にその度毎に縋りつくという状況が生まれる。このことは接する相手に対する羞恥レヴェル、警戒レヴェルによって大いに異なってくるわけだから最重要であるし、それもまたその他者像というものが基軸となるし、その他者像とはその他者を巡るエピソード記憶に拠るところのものである。そしてその対他者記憶とは、端的にその他者を巡る像を形成する根幹となる私にとっての身体情動的な経験であり、経験記憶である。記憶には経験が必要であり、それなしには記憶という脳内の作用はあり得ないし、経験には必ず記憶が伴われるものなのである。
ここで自由意志論と本論との関係について考えてみたい。脳科学や心理学では既に準備電位というものの存在が明らかにされ、要するに我々が何かを意志する前に脳では前段階としてその意志を発生すべく準備しているということなのであるが、では我々には自由意志の一欠けらもないのかというと、それも違うと言えると思うのである。要するにこういうことである。私がこの論文をパソコンで打って入力する時、私の指は一々私の意志によって動かされているというよりは、身体的な記憶と結びついているだろう。しかしその身体的記憶を引き出しているのは、さっきまでベッドで寝ていて、目覚めその時考えていたことを早速パソコンに入力しようと私が思い立った意志である。つまり脳内の準備電位を有効なものとして活用しているのは、私の日常的な意図、つまり生活において私がなすべきことと心得ていること、つまり自由意志である。だから身体記憶を慣用することを通して何らかの目的を遂行する限りにおいて自由意志論と脳内での準備電位を両立し得る。しかも自由意志とは、端的にその時々の私の生理的状態とか健康状態、及びそれと不可分の、あるいはそれらをも構成するその時々の衝動に左右されているし、あるいはこう言った方がよいと思われるが、他者に対する羞恥の在り方、その羞恥を呼び起こしているその時々の私の衝動の在り方そのものが私の意志なのである、と。だからモラル論的な自由意志と本論での衝動と羞恥の他者存在による私の存在という覚知とその維持と、意識そのものが行動を言語行為を誘発するような意味での私たちの在り方とは両立する、と言うより寧ろ一つのことを別の角度から見て判断したものであると言ってよいだろう。そしてその両立を成立させるものとして私の日常的意志そのものの記憶と、その意志を顕現させるものとしての私の経験とその記憶が私を自由な存在として位置づけると同時に、私をその都度の衝動によって、意志を顕現する在り方を変えもすると言えるのである。何故なら今現在このパソコンを入力している私は、さっきまでベッドで睡眠を取っていたが、そうではなくずっと起きて本を読んでいたなら、今私はこのようにパソコンに文字入力しているというわけにはいかなかったかも知れないからである。だから経験とその記憶という考え方からも、あるいは記憶によって構成されている私の経験という考え方からも、その時々の私の細々した意志と、もっと大局的な目的的意志とが交差したところの私において、その時々の細々した意志を発動させる衝動は、私の記憶と経験による生全体の大局的意図とか意志をより有効なものとし得るように準備されるのだが、その準備を滞りなくするものもこの全体的なシステムである羞恥と衝動とによる意志活性的な円環構造であると同時に、私の生全体の自由意志であるとも言えるのである。
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